
み「『相伴席』。
『客が大勢の場合に使われる』か。
お茶会みたいなときかな」
ハ「せやろな」
み「しかし……。
殺風景な部屋じゃ」
ハ「それが、侘び寂びやろ」

み「『躙(にじ)り口』。
『客の出入口』。
入り口が低いのは……。
どんなに偉い人でも、頭を下げないと入れないからなんでしょ?」
ハ「小さい室内を大きくみせるためという説もあるようやで」
み「それはないでしょ。
茶室を作るような人なら、懐には余裕があるはず。
大きい部屋を作ればいいだけじゃん。
しかし、ここを通れない人はどうするんだろ?
相撲取りとか」
ハ「入らんかったらええだけやろ」
み「嵌った人って、いないのかな?
枠ごと外れて、腰に嵌ったままだったり」
ハ「コントやがな」

み「屋根に木が生えてる。
放っておくと……。
こういうのがびっしりになっちゃうんだろうね。
管理が大変だわ。
こんな斜面、簡単に上がれないでしょ。
あ、いいこと思いついた」
ハ「いいことやない気がする」
み「なんでじゃ!
ヤギを屋根に上げとけばいいじゃん。
屋根に生える雑草、食べてくれるよ」
ハ「転げ落ちるやろ!」
み「ヤギって、崖が得意なんじゃないの」
ハ「それは、岩場やからや。
こんなとこ、絶対に滑るわ」
み「安全帯が要るな」
ハ「それ以前の問題や」

み「『只今休場中』か。
野点の会場なんだろね」
ハ「違ごとると思うで」
み「なんでじゃ!」
ハ「向こうに見えてるのは、矢場の的やろ」
み「じゃ、こっから弓を射るってこと?
近すぎじゃない」
ハ「せやから、弓を体験する施設やがな」
み「ふーん。
やってみたかったな」
ハ「弓、射ったことあるんか?」
み「あるわけないでしょ。
でも、ひょっとしたら……。
弓の天才だったかも知れないじゃん」
ハ「100%あり得んわ」
み「断言すな!」

み「ここ、写真撮っていいのかな?」
何の施設か忘れました。
この写真1枚しかないので……。
たぶん、撮影禁止だったんだと思います。

み「お、誰の像だ?」
ハ「鑑真やて」

み「今度は鑑真か。
何やかやと、いろんな人と関係のある土地だね。
しかし、日中の国民には……。
命がけで両国の架け橋になろうとした、この人を……。
もう一度思い出してもらいたいもんだね」
ハ「たまにはええこと言うやないか」
み「いつも言ってるわい!」

み「『手づくり体験館』か」
ハ「体験したらどないや」
み「こういうのは、上手く出来る気がしない」
ハ「そんなら、弓はもっとやろ」
み「やかまし!」

み「木漏れ日の道だ。
いいねぇ」
ハ「今の季節が最高やな」
み「あ。
冬のこの道を想像したら……。
思いっきり気が滅入った」
ハ「いいときを楽しめばええやないか。
ネガティブなやっちゃで」

み「『天ぷらまんじゅう』だって」
ハ「どうせ、昼飯、食わんのやろ。
食うてみたらどうや」
み「思いっきり胃もたれしそうだわ。
しかし、何でまんじゅうを天ぷらにしようと思いついたのかね」
ハ「兵糧やないんか。
1個食うたら、そうとうに腹が保つやろ」
み「なるほど。
それはあるかも」
ハ「食うてみい」
み「遠慮する。
兵隊じゃないんで」

み「この建物は移築なんだから……。
あの石垣は、当時のものじゃないよね。
まさか、石垣ごと移築したわけじゃないでしょ」
ハ「そりゃそやな」
み「しかし、スゴい笹だね。
クマザサか。
笹をうっかり庭に植えると、大変なことになる。
地下茎で伸びてくから」
ハ「この笹、熊が食うんか?」
み「食うかい!
パンダじゃあるまいし。
クマは、動物の熊じゃなくて……。
隈取りのクマ。
ほら、白い隈取りのある葉があるでしょ」

ハ「無い方が多いで。
何でや?」
み「知らん。
調べて」
ハ「やっぱ、こっちに来るんやな。
Wikiさまに聞いたるか(出典。
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葉に白い隈取りがあることが名前の由来で、漢字で「隈笹」と書かれる。
標準和名をクマザサとよぶ植物は、高さが1~2メートルになる大型のササで、葉は長さが20cmを越え、幅は4~5cm。
特徴になっている葉の白い隈取りは若葉にはなく、葉が越冬するときに縁が枯れて隈取りになる。
+++
やて」
み「うーむ。
勉強になるなぁ、『Mikiko's Room』」
ハ「誰のおかげや」

み「ここにも石垣がある」
ハ「よう崩れんかったもんやな」
み「これ、そんなに昔のじゃないよ。
練積みでしょ」
ハ「何やそれ?」
み「わからないことがあったら……。
即、森田検索!」
ハ「わかっとんなら、教えたれや。
ほんまにもう。
↓すっかり、Wiki様とお友達やわ(出典)。
+++
戦国時代以降の石垣は、主に「空積み(からづみ)」という技法が用いられる。
対して、粘土やモルタルなどを練りこんで石同士を接着する積み方を「練積み(ねりづみ)」という。
練積みはコンクリートやモルタルを接着材として石垣施工に用いられている近代工法での例が多い。
城郭で用いられた例は少なく、鎌刃城(滋賀県)などに見られる。
また加藤清正が手がけた慶長15年(1610年)の名古屋城天守石垣は裏込めに三和土を用いた一種の練積みである。
+++
やて」
み「これ、絶対モルタルが入ってるよね。
そうじゃなきゃ、こんな丸っこい石……。
空積みで積めるわけないじゃん。
それに、下の土台みたいなのって……。
基礎コンでしょ」
ハ「何やそれ?」
み「基礎コンクリートのこと。
基礎コン打たないと……。
石垣が、沈んだり歪んだりするわけよ」
ハ「エラい詳しいやないか?」
み「叔父が造園会社に勤めてたからね。
酔っ払うと、語る語る」
ハ「なんや、耳学問かいな」

ハ「これは読めるやろ。
長いから読まんか?」
み「すでに読んだわい。
しかし、千利休の子が会津に来てるのか。
会津って、スゴいね。
近藤勇も来てたし」
ハ「近藤勇が来たんは、遺髪だけやろ」
み「あ、来たのは土方歳三だったな。
蒲生氏郷って、いつごろの領主?」
ハ「例によって、Wiki様や(出典)。
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蒲生氏郷(がもううじさと/1556~1595)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。
初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。
キリシタン大名であり、洗礼名はレオン。
子に蒲生秀行。
織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。
信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。
最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。
また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。
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や」
み「どひゃー。
会津藩って、92万石もあったの!」
ハ「大藩やな。
ここに千利休の子が来てたのも……。
氏郷が、千利休の弟子やったからやな」
み「しかも、キリシタン大名だって。
なんかスゴいね」
ハ「しかし、40年生きられなかったんやな」
み「戦死?」
ハ「いや。
病死や。
死因は、直腸癌か肝臓癌やったて。
キリストの像を見つめながら死んだそうや」
み「天国に行けると信じてたのかね?」
ハ「宗教ちゅうのは、そういうもんやろ」