さっそく「Google Map」を起動。
この駅周辺は、松戸市の『八柱駅』のように道路が錯綜していません。
駅前でナビを見たら、そのまま行けそうでしたが……。
いちおう、確認のためにナビを見ながら歩き出します。
↑「み」
売物件を発見。
わざわざ写真を撮ったのは、敷地の狭さに驚いたからだと思います。
うちの玄関前くらいしかありません。
更地にすると、思いのほか敷地が小さかったんだと感じるものですけど。
この家を売りに出した人も……。
こんな狭いところに住んでたのかと、驚いたんじゃないでしょうか。
しかし、こんな敷地に一軒家を建てるメリットって、あるんですかね?
マンションの方が、よほどいいと思いますが。
↑「み」
道路を横断したようです。
歩道に咲いてる黄色い花は、キンシバイの園芸品種『ヒペリカムヒデコート』だと思います。
樹名板がなく、確認できませんでしたが。
咲き始めたばかりの花が、雨に濡れて綺麗でした。
↑「み」
↑「み」。サツキツツジの花が散りかけてます。東京は早いですね。
この画像の撮影時刻は、11:48分。
電車が『お花茶屋駅』に着いたのが、11:37分でした。
迷うことなく、無事到着しました。
予定表では、11:50分に着くことになってました。
わずか2分ですが、再び貯金が出来ました。
『葛飾区郷土と天文の博物館』は、葛飾区立の博物館です。
入館料は何と、高校生以上が100円。
小中学生は、50円です。
『天文』とあるように、プラネタリウムもあります。
ただし、観覧は別料金になります。
高校生以上、350円。
小中学生、100円です。
わたしは、プラネタリウムを見ると必ず寝てしまうので、今回は観覧しません。
↑「み」。童顔なんだから、ヒゲはやめてほしい。
ロビーを入ったところ。
泉麻人の講演ポスターでした。
この人のエッセイは、よく読みました。
中でも、↓『大東京バス案内(講談社文庫)』は、何度か読み返しました。
↑残念ながら、新刊では買えないようです。
東京でバス散歩するときの参考にさせていただいてます。
泉さんは、東京生まれの東京育ち。
子供のころの話を読むと、わたしとの環境の違いをつくずくと感じます。
わたしも東京に生まれ育ってたら、どんな人生だったんだろうと思います。
これから住む気にはなれませんが、子供のころなら住みたかったです。
講演を聴きたかったのですが、7月1日じゃどうしようもありません。
↑「み」
常設展示の『郷土展示室』。
↓葛飾区は、水に囲まれた土地です。
しかし、今気づいたのですが……。
川を帆船で航行したのでしょうか。
横から風が吹いたら……。
落語の『船徳』みたいに、岸にぶつかってしまうのでは?
良い風のときだけ帆をあげて、普段は櫓で漕いだんですかね?
↓それにしても、『船徳』と云えば、古今亭志ん朝。
上手かったですよね。
享年63(肝臓癌)。
生きてれば、今年79歳。
ものすごい芸が見れてたかも知れません。
たぶん、父親の「志ん生」を継いでたでしょうね。
↑「み」
農具です。
昔の葛飾で使われてた道具でしょう。
例によって、説明書きを読んでないので、推測でしか書けませんが。
「葛飾」の入る印象的な句があります。
●葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり【水原秋桜子】
句集『葛飾』に収められた代表的な句です。
句集『葛飾』の発刊は、1930(昭和5)年。
このころの葛飾には、まだ水郷の景色が広がってたのでしょうか。
↑常磐線『金町駅』の北側には、広大な『都立水元公園』が広がります。水郷の名残りを感じられると思います。
なお、秋桜子は、一高から東大医学部を出た俊才です。
今はどうか知りませんが、昔は、俳句をたしなむお医者さんが多かったようです。
新潟大学医学部も、中田瑞穂が赴任して以来、さかんになったようです。
現在でも、医学部俳句部というのがあるみたいです。
ほかの学部と医学部は別の場所にあるので、医学部だけの部なんでしょうね。
↑「み」
足踏みの水車です。
田んぼに水を入れるのに使われたんだと思います。
ということは、用水路より、田んぼが高いからですかね?
↓それらしい絵が見つかりました。
現在、わたしが住む地域で、このような水車は使われてません。
ま、全国的に無いでしょうね。
田んぼに水を入れるには……。
用水路と田んぼの間にある堰を外すだけだと思います。
つまり、用水路の水面の方が高いわけです。
田んぼの方が高いということは……。
低湿地帯だからでしょうか。
田んぼが低いと稲が水浸しになるので……。
田面は土を盛って高くしてある。
なので、用水路より高い田んぼに水を揚げるためには、水車が必要。
ということですかね?
↑「み」
でたー!
わたしの大好物、肥たごです(食べるわけではありませんが)。
おととし行った『江戸東京博物館』では、その重さを体感してきました。
↑担げます(女性は、わたしではありません)。
上の肥たご群を見て不思議だったのは、奥の大きな樽です。
これが一杯になったら、牛馬でさえ運べないでしょう。
これは何に使われたかと云うと……。
船です。
下肥の運搬船があったわけです。
↑これは、昭和20年代(葛飾区を流れる綾瀬川)。樽ではなく、船体自体に積みこんだのでしょう。
で、都市部の各地に寄港しては、肥たごで運ばれてきた下肥を、この大樽に移した。
都市部で下肥を満載した船は、農村の水路に入って、農民に売って歩いたのでしょう。
農民も、多少のお金を払ってでも、下肥を在所で手に入れられれば……。
自ら都市部を回って収集する手間が省けます。
つまり、下肥運搬業は、立派な産業として成り立ってたわけです。
↑「み」
『母屋と水塚』のジオラマです。
この模型、妙なところにお気づきでしょう。
藁葺き屋根が、農家の『母屋』だと思います。
なんだか、縄文時代の竪穴式住居みたいですよね。
↑滋賀県蒲生郡竜王町(復元です)。
つまり、屋根の下の部分が低い。
ていうか、ほとんどないです。
↓ある部分をアップにすると、その理由がわかります。
↑「み」
人が舟に乗ってます。
つまり、一面の茶色は、土の庭ではなく……。
泥水なんです。
早い話、洪水のときの風景。
舟は、右の『母屋』から、奥の建物に向かってます。
奥の建物が、『水塚』です。
ここには、人が2人立ってます。
つまり、水面より高い位置にいるわけです。
土盛りして建物を建ててあるんですね。
倉庫兼、洪水時の避難所だったわけです。
各家の敷地内に、洪水の避難所があったと云うことです。
今の住宅事情では、とうてい考えられないことですが……。
昔は治水が進んでないので、たびたび洪水に襲われたのでしょう。
公共的な避難所は無かったでしょうし。
しかし……。
ここで、ギモンがひとつ。
母屋自体を、土盛りした上に建てられなかったのでしょうか?
低地では、土の入手が大変なのでしょうか。
ここでまた、ちょっと脱線。
東京湾は、埋め立てで土地がどんどん広がっています。
↑クリックすると大きくなります。
最近では、大田区と江東区が、土地の帰属を巡って対立し……。
とうとう、大田区が都の調停を拒否。
江東区を訴えたそうです。
↑しかし、これって「調停」と云えるんですかね? 大田区が怒るのも無理ない気が……。
で、この海の埋め立てですが……。
日本人は、不思議にも感じません。
山から土を持ってきて、海に投入し……。
あたらしい土地を作るわけです。
↑沖縄県名護市の大浦湾。
でもこれは、土が取れる山がある国だから出来ることなんです。
たとえば、オランダ。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と云われる土地。
つまり、海の干拓により作られた国なのです。
しかし!
オランダには山がありません。
海を一面埋める土は、手に入らないのです。
そしたら、どうするか?
まず、貴重な土を使い、海を細い堤防で囲みます。
そして、内側の海水を抜くのです。
つまり、海底だったところが新しい土地となります。
もちろん、高さは海面下になりますから……。
排水設備が最も重要。
オランダと云えば風車ですよね。
実はあれ、排水機なのです。
あと、これを象徴する有名な小説があります。
メアリー・メイプス・ドッジの『ハンス・ブリンカーの物語』。
堤防に空いた穴を発見した少年が……。
堤防の決壊を防ぐため、穴に腕を突っこみ、そのまま凍死するというお話。
↑少年の銅像が立ってます。口に手を当ててるのは、大人を呼んでるんです。でも、その声が届くことはありませんでした。
オランダの干拓地の構造を考えれば、堤防の決壊がどれほど恐ろしいことかわかります。
堤防が決壊すれば、そこは再び海の底になってしまうのです。
脱線を終わります。
↑「み」
さて、これから先が、この『葛飾区郷土と天文の博物館』に来た目的になります。
常設展示『郷土展示室』の中の「蘇る昭和30年代の葛飾」という展示です。
もう1度、今年の単独旅行のコンセプトを確認しましょう。
『路線バスと昭和を巡る旅』でしたね。
この展示は、戦後の葛飾の花形産業であったボルト・ナット製造工場と、昭和30年代の住居が再現してあるコーナーです。
再現と云っても、ジオラマではありませんよ。
ここもまた、実物大です。
と、ここで気づいたことがひとつあります。
“実物大”ということについてです。
↓『松戸市立博物館』の『常盤平団地』もそうでした。
↑「み」
わたしは単純に、実物大で再現するなんてスゴいなぁと感心してました。
でも、よく考えたら、実物大と云うことは……。
昔使われてた家具や調度を集めてくれば、そのまんま再現パーツとして使えるわけです。
これがジオラマだったら、ぜんぶ手作りしなければなりません。
↑戸塚恵子さん作。
こっちの方が、よほど大変です。
さて、続けましょう。
上の写真は、左手が住居、右手が工場になります。
別棟になってたんですね。
おそらく、工場からかなりの騒音が出たでしょうからね。
この家の家族構成は……。
工場を経営する両親、2人兄妹の子供、祖父の計5人家族です。
テレビを買ったばかりのころという設定です。
それでは、見ていきましょう。
↑「み」
工場の中です。
労災の臭いがプンプンしますね。
毎日、1本ずつくらい、指が飛んでたんじゃないでしょうか。
↑適切に冷却すれば、8時間まで再接着可能だそうです。
↑「み」
これは、住居棟の玄関です。
机がありますが、子供の学習用ではなく……。
ここで、工場の事務を執ってたんだと思います。
机左の黒電話も、工場と住居の兼用でしょう。
↑「み」
前の写真の机の前のアップです。
ボルトやナットのサイズ表のようです。
注文を受けるときの確認用でしょうか。
これだけボロボロだと云うことは……。
実際に使われてたものかも知れません。
↑「み」
玄関から、茶の間を見たところ。
職人さんも、ここで昼食を摂ったのかも知れませんね。
右下、ガラス戸に立てかけられた札には、「ご自由にお入り下さい」と書いてあります。
てなわけで、上がらせてもらいました。
↑「み」
茶の間から、台所を覗いたところです。
↑「み」
茶の間のテレビです。
室内アンテナのようですね。
こんなので映ったんでしょうか。
↑「み」
台所の奥から、勝手口を見たところ。
↑「み」
台所の流しです。
「人研ぎ(じんとぎ・人造石研ぎ出し)」のようです。
こういうのを見ると……。
↓同時代の『常盤平団地』が、いかに最先端の設備だったかよくわかります。
↑「み」
↑「み」
でたー。
和式トイレです。
しかし、男性用小便器がないということは……。
男性は、立ってやってたわけです。
まさか、しゃがんではしないでしょう。
飛び散りがスゴかったでしょうね。
↑埼玉県越生町にある小便小僧(噴き出してるのは川の水だそうです)。
↓トイレの場所は、冷蔵庫の真ん前。
↑「み」
トイレはもちろん、汲み取りです。
トイレの真ん前に冷蔵庫はどうかと思いますが……。
ほかに置き場所も無いのでしょう。
↑「み」
2畳の部屋です。
こんな家に、女中部屋があるわけありません。
お爺ちゃんが寝たんでしょうか?
狭くて落ち着きそうです。
よく眠れたでしょう。
こういう部屋を書斎にしたいものです。
手前の畳に、座卓と座布団。
奥の畳に、万年床。
良さげじゃ~。
↑「み」
布団は重そうですね。
でも、わたしは、重たい布団が嫌いではありません。
落ち着きますよ。
今は、羽毛布団で寝てますが。
ちょっと蹴っただけで飛んでしまうのが難点です。
↑「み」
冬用の半天でしょうか?
それにしては、ペラペラですね。
綿が入ってないようです。
下にあるテーブルのようなのは、ミシンだと思います。
本体は、上蓋の中に収納できる仕組みなのでしょう。
ミシンを使わないときは、子供が勉強机にしてるのかも?
↓ミシンの上の紙は教材かと思って、拡大してみたら違いました。
↑「み」
やっぱり、ミシンでしたね。
かかってる衣服は着れるようです。
気づきませんでした。
ハンガーがいやに新しいと思ったら、試着用の衣服だったんですね。
↑「み」
おー、すげー。
ピアノ(オルガン?)がありました。
おとっつあん、儲けてますね。
右手が玄関です。
しかし、工場にピアノ。
素晴らしい騒音環境ですね。
↑「み」
茶の間から玄関を見下ろしたところ。
お母さんは、この机で事務を執ってたのでしょう。
右からは、工場の騒音。
左からは、子供のピアノ。
さぞ、イライラしたでしょうね。
電話が架かってきても、子供がピアノを止めなかったりしたら……。
送話口を押さえて怒鳴ったんじゃないですか。
わたしには、こうした下町暮らしは、ぜったいに無理だと思います。
↑「み」
これは、外ですね。
縁側があります。
夏は、ここに座ってお酒を飲みたいところですが……。
たぶん、蚊がひどかったと思います。
↑こんなに可愛くはありません。
右手の地面に並ぶ板は、どぶ板だと思います。
ボーフラのアジトだったでしょう。
鉢物は、朝顔のようです。
入谷の朝顔市で買ったんでしょうか?
「恐れ入谷の鬼子母神」でお馴染みの真源寺で、七夕ころに開かれる市です。
↑1鉢、2,000円のようです。ま、比較的良心的なお値段じゃないですか。気分が良ければ、わたしも買うかもしれません。
↑「み」
路地のどぶ板です。
候補者が、こういうところまで入りこんで支持を訴える選挙手法を……。
「どぶ板選挙」と呼ぶわけです。
↑田中角栄先生です。曰く「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない」。選挙の神様でした。
↑「み」
トイレの窓です。
下の細長い窓は、掃除用の掃き出し窓。
出歯亀が、ここから覗くわけです。
↑元祖『出歯亀(出っ歯の亀太郎)』。風呂専門だったんですかね? 出所後、すぐ覗いて逮捕の記事。
この窓の下にある、四角い板は、汲み取り口ですね。
↑「み」
バキュームカーではなく、柄杓で汲んでた時代のようです。
↑買われて帰った家で、汲み取りに使われると知った柄杓の気持ちは、いかばかりでしょうか。
わたしは、こういうタイプの汲み取り口は、実際に見たことはありません。
↓わが家も昔は汲み取りでしたが、汲み取り口は地面の上にあったと思います。
↑掃き出し窓との位置関係も、こんな感じでした。
そう云えば最近、バキュームカーを見ませんね。
最後に見たのがいつか、思い出せないほどです。
わたしが小学校のころは、まだ、帰り道でときおり出会いました。
見ると、親指を握ったんじゃなかったでしょうか。
霊柩車でしたかね?
↑アラブの富豪が日本でこれを見て、「ジャパニーズ・デラックス・カー」と叫び、購入を熱望したとか(聞いた話や)。
汲んでるときは、ホースが生き物のようにのたうってたのを覚えてます。
↑まさに、蛇踊りのごとしでした。
先日、メル友と汲み取り時代の話をしたことがあります。
その人は、大阪府堺市の方。
で、汲み取りは、呼ばなくても定期的に来たんだそうです。
これには驚きました。
うちは、一杯になると、電話で呼んだんです。
堺方式では、1回いくらと決まってたようです。
定期的に来れば、汲む量もほぼ同じでしょうからね。
うちの場合は、汲んだ量に応じて、料金を払ってたと思います。
汲み取り屋(業者を、こう呼んでました)が、量を書いた伝票を置いていきましたから。
タンクに、目盛りが付いてたんでしょうかね?
汲む前にメモして、汲んだ後の量から引いて算出したんでしょうか?
↑画像発見!(松江市のホームページ)。超絶アバウトそうな目盛りですが。
でも、汲む前にメモし忘れることだってあったはず。
そういうときは、適当な数字を書いたんじゃないでしょうか。
経験を積めば、だいたい何リットルってわかるんでしょうね。
その伝票は、学校から帰ると、たいがい玄関の下駄箱の上に置かれたままでした。
お金は、そのとき、現金で払ったんですかね?
お釣りは貰いたくないですよね。
細かい小銭を用意して、きっちりの金額で払いたいです。
↑お釣り用のこういう缶を、わが家で見た記憶は無いですが。
伝票にも触りたくないので、下駄箱に置かせて放っておいたんだと思います。
ゴミ捨てに行くときに、ゴミ袋越しに掴んで袋に入れたんじゃないですか。
なくてはならない商売なのに、やはり好かれていなかったのは仕方のないことでしょう。
↑「み」
縁側から茶の間を覗いたところ。
↓縁側の下に、七輪が収納してあります。
↑「み」
こんなところに突っこんであるということは……。
料理用ではなく、暖房用だったのじゃないでしょうか?
夏場は不要なので、ここに仕舞われてるわけです。
暖房と云っても、主暖房ではなく、手あぶり程度でしょうが。
網を載せて、お餅を焼いたりしたのかも知れません。
↓でも、普通は火鉢を使いますよね。
↑昭和26年の新潟市(現・中央区)。寒かったでしょうね。
ほんとに冬の暖房として七輪を使ったか、ちょっと自信がなくなりました。
ひょっとしたら、魚は外で焼いたんでしょうか。
↑サンマを焼いてるところ。
台所で焼いたら、家中が煙りだらけになるでしょうから。
縁側の沓脱ぎ石の上で焼いたのかも知れません。
↑「み」
建物脇にあった展示品です。
葛飾区は、玩具産業が盛んだったようです。
誰もが聞いたことがある玩具メーカーに、『タカラトミー』があります。
1955(昭和30)年、葛飾区本田宝木塚町(ほんだほうきづかちょう)で……。
『(有)佐藤ビニール工業所』が創業されました。
創業者は、佐藤安太(1924年~)。
安太、31歳のときです。
この会社が、後の『タカラトミー』となります。
“タカラ”は、地名にある“宝”から取られたそうです。
『(有)佐藤ビニール工業所』は……。
1960(昭和35)年に発売した『ダッコちゃん』でブレイクします。
↑浮き輪代わりにもなったのでしょうか?
その後、1967(昭和42)年に出した『リカちゃん』で……。
おもちゃ業界をリードする地位は、不動のものとなりました。
現在の本社は、葛飾区立石にあります。
本田宝木塚町(ほんだほうきづかちょう)は、その後、宝町に改名されてます。
↑「み」
縁台と将棋盤。
そう言えば、この家には、お風呂がありませんでした。
みんな、銭湯に通ったんでしょうね。
↑「み」。昨年訪ねた『江戸東京たてもの園』の『子宝湯(足立区千住元町から移築)』。
ひょっとしたら、工場の工員さんも、銭湯に行ってから帰ったかも。
銭湯帰りに、この縁台で将棋を指すこともあったのでしょう。
ぜったい、蚊に食われます。
↑村田英雄『王将』のモデルとなった坂田三吉は、縁台将棋で強くなったそうです。
↑「み」
奥に自転車があります。
お爺ちゃんが、酔っ払い運転をしたかも知れません。
↑瓶を持ったままは乗らないでしょうが。
頑丈一辺倒ですね。
荷台に、子供を載せたりもしたでしょう。
座布団を敷かなければ、お尻が痛かったはず。
↑昭和の蕎麦屋。驚異的なスキルです。そもそも、どうやって積むんでしょう?
↑「み」
三輪自動車です。
ダイハツのミゼット。
軽自動車です。
1957(昭和32)年から1972(昭和47)年まで販売されてたそうです。
15年間ですね。
顔がカエルみたいで、とても可愛いです。
↑走行してる様子。かなりやかましいです。
でも、なんで三輪である必要があったんでしょう。
調べてみたら、法制度の有利性があったことがひとつ。
戦前は何と、三輪は無免許で乗れたそうです。
もちろん、戦後はダメですが。
あとは、前輪がひとつということで……。
ハンドルを切るステアリングの構造が簡単なため、コストが抑えられたそうです。
当然、小廻りも効きますから、路地裏のようなところまで、配達で入って行けました。
欠点はもちろん、安定性の悪さ。
カーブで、よく転けたそうです。
実際、安定性の悪さは、↑の動画でもよくわかります。
しかし、自動車という乗り物ですが……。
考えてみれば、機構的にはものすごく単純ですよね。
早い話、前のタイヤが左右に動くだけでしょ。
こんな機械が、なんで最低100万円もするんですか。
1,000万円の高級車なんて、考えられませんよ。
↑レクサス LX570(トヨタ)。11,150,000円(税込)。これより高い国産車も、4車種くらいあるようです。
自動車に比べたら、農業機械や建設機械は、実に複雑な可動部を有します。
↓バックホーなんか、いったい何カ所が動くんでしょう。
とにかく、自動車の値段は、もっと下げられるはず。
若者の車離れが進んでるそうですが……。
購入して維持していく出費がバカらしいという気持ちはわかります。
地方では、乗らずには生活できないという事情もありますが……。
カーシェアリングやコミュニティバスなどの仕組みが充実していけば、個人で所有する人は減っていくでしょう。
さて、話に戻りましょう。
↑「み」
可愛いので、もう1枚、撮りました。
手前の木箱は、ゴミ箱でしょう。
↑「み」
最後に、遠景を1枚。
ミゼットは、大事にされてたんだなぁという気がします。
なぜか、東北の『曲り家(まがりや)』を連想してしまいました。
東北の家では、大事な労働力である馬を、室内で飼ってたんです。
↑『遠野ふるさと村(岩手県遠野市)』という施設です(入場料、大人520円)。
これで、ボルト・ナット工場一家の写真は終わりです。
↑「み」
水郷葛飾に伝わる、魚採りの道具。
職業としての漁ではなく、遊び兼自給用で使ったものなんでしょうね。
↓奥の細長いものは、ウナギとドジョウ用の罠で、『ウナギドウ』。
↑「み」
ドジョウが水面に出て空気を吸うのは、呼吸のためではないそうです。
↑おっさん顔です。いわゆる、どじょうヒゲ。
空気を吸って、お尻から泡を出し、腸を掃除してるのだとか。
空気呼吸は必要ないので、冬期は泥の中で冬眠できます。
↑あわれ……。
手前の瓶のようなものでは、ハゼを採ったようです。
『セルビン』と書いてあるみたいです。
説明書きは写ってましたが、残念ながら読めませんでした。
要は、中にエサを入れておき……。
入れるけど出れない仕組みを作れば良いようです。
「セル」は、セルロイドの略でしょうか?
現在は、ペットボトルを使えば、子供でも作れます。
↑簡単に出られそうですが、透明だとわからないんですかね?
↑「み」
休憩用(?)のソファー越しに、植栽スペースが見えます。
↓『ヘデラ・カナリエンシス』というウコギ科の蔓植物。
↑「み」
これ、うちの庭の裏手にもはびこってます。
まったく陽の当たらないところに、ポット苗を1株だけ植えたんです。
それが、あっという間に広がり、大群落を成してしまいました。
繁殖力には、猛烈なものがあります。
蔓を伸ばして這い回り、地面に接した蔓から根を出して定着します。
ただ、登坂力は大したことありません。
ここでも、数カ所からは立ちあがってますけどね。
これがナツヅタ(ブドウ科)だったら大変です。
↑名前のとおり、落葉性です。真っ赤な紅葉が美しいです(童謡『まっかな秋』)。
あっという間に、タイル壁など見えなくなってしまいます。
登坂力は強烈。
ガラス面も登ります。
別荘地などで、これを外壁に這わせてると……。
留守の間に、窓を覆われてしまうことさえあります。
↑「み」
ロッカーもあり、使わせてもらいました。
100円玉を入れて施錠しますが、解錠すれば戻ってきます。
さて、『葛飾区郷土と天文の博物館』の写真は、これでお終いです。
ロッカーの写真を撮ったのが、12:07分。
↓入口のサツキツツジの写真が、11:48分でした。
↑「み」
滞在時間、19分。
別に、急いで見たつもりはないんですけどね。
予定では、ここでの見学時間に30分を取ってありました。
11:50~12:20分まで。
10分ほど、貯金が出来たことになります。
↑博物館の全貌です。立派ですね。中央上部のドームは、プラネタリウムです。
さて。
お昼時です。
普通の人なら、ここで昼食にするでしょう。
でも、わたしは昼食を摂らないので、このまま次の施設に向かいます。
実はわたしが、普段の生活でも昼食を摂らなくなったのは……。
東京に遊びに来たときの経験からなんです。
昔は、普通に昼食を摂ってました。
ていうか、摂るものだと思って、疑問を持たなかったんです。
でも、これがなかなかハードルが高い。
この駅周辺は、松戸市の『八柱駅』のように道路が錯綜していません。
駅前でナビを見たら、そのまま行けそうでしたが……。
いちおう、確認のためにナビを見ながら歩き出します。
↑「み」
売物件を発見。
わざわざ写真を撮ったのは、敷地の狭さに驚いたからだと思います。
うちの玄関前くらいしかありません。
更地にすると、思いのほか敷地が小さかったんだと感じるものですけど。
この家を売りに出した人も……。
こんな狭いところに住んでたのかと、驚いたんじゃないでしょうか。
しかし、こんな敷地に一軒家を建てるメリットって、あるんですかね?
マンションの方が、よほどいいと思いますが。
↑「み」
道路を横断したようです。
歩道に咲いてる黄色い花は、キンシバイの園芸品種『ヒペリカムヒデコート』だと思います。
樹名板がなく、確認できませんでしたが。
咲き始めたばかりの花が、雨に濡れて綺麗でした。
↑「み」
↑「み」。サツキツツジの花が散りかけてます。東京は早いですね。
この画像の撮影時刻は、11:48分。
電車が『お花茶屋駅』に着いたのが、11:37分でした。
迷うことなく、無事到着しました。
予定表では、11:50分に着くことになってました。
わずか2分ですが、再び貯金が出来ました。
『葛飾区郷土と天文の博物館』は、葛飾区立の博物館です。
入館料は何と、高校生以上が100円。
小中学生は、50円です。
『天文』とあるように、プラネタリウムもあります。
ただし、観覧は別料金になります。
高校生以上、350円。
小中学生、100円です。
わたしは、プラネタリウムを見ると必ず寝てしまうので、今回は観覧しません。
↑「み」。童顔なんだから、ヒゲはやめてほしい。
ロビーを入ったところ。
泉麻人の講演ポスターでした。
この人のエッセイは、よく読みました。
中でも、↓『大東京バス案内(講談社文庫)』は、何度か読み返しました。
【中古】 大東京バス案内(ガイド) / 泉 麻人 / 講談社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】 |
↑残念ながら、新刊では買えないようです。
東京でバス散歩するときの参考にさせていただいてます。
泉さんは、東京生まれの東京育ち。
子供のころの話を読むと、わたしとの環境の違いをつくずくと感じます。
わたしも東京に生まれ育ってたら、どんな人生だったんだろうと思います。
これから住む気にはなれませんが、子供のころなら住みたかったです。
講演を聴きたかったのですが、7月1日じゃどうしようもありません。
↑「み」
常設展示の『郷土展示室』。
↓葛飾区は、水に囲まれた土地です。
しかし、今気づいたのですが……。
川を帆船で航行したのでしょうか。
横から風が吹いたら……。
落語の『船徳』みたいに、岸にぶつかってしまうのでは?
良い風のときだけ帆をあげて、普段は櫓で漕いだんですかね?
↓それにしても、『船徳』と云えば、古今亭志ん朝。
上手かったですよね。
享年63(肝臓癌)。
生きてれば、今年79歳。
ものすごい芸が見れてたかも知れません。
たぶん、父親の「志ん生」を継いでたでしょうね。
↑「み」
農具です。
昔の葛飾で使われてた道具でしょう。
例によって、説明書きを読んでないので、推測でしか書けませんが。
「葛飾」の入る印象的な句があります。
●葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり【水原秋桜子】
句集『葛飾』に収められた代表的な句です。
句集『葛飾』の発刊は、1930(昭和5)年。
このころの葛飾には、まだ水郷の景色が広がってたのでしょうか。
↑常磐線『金町駅』の北側には、広大な『都立水元公園』が広がります。水郷の名残りを感じられると思います。
なお、秋桜子は、一高から東大医学部を出た俊才です。
今はどうか知りませんが、昔は、俳句をたしなむお医者さんが多かったようです。
新潟大学医学部も、中田瑞穂が赴任して以来、さかんになったようです。
現在でも、医学部俳句部というのがあるみたいです。
ほかの学部と医学部は別の場所にあるので、医学部だけの部なんでしょうね。
↑「み」
足踏みの水車です。
田んぼに水を入れるのに使われたんだと思います。
ということは、用水路より、田んぼが高いからですかね?
↓それらしい絵が見つかりました。
現在、わたしが住む地域で、このような水車は使われてません。
ま、全国的に無いでしょうね。
田んぼに水を入れるには……。
用水路と田んぼの間にある堰を外すだけだと思います。
つまり、用水路の水面の方が高いわけです。
田んぼの方が高いということは……。
低湿地帯だからでしょうか。
田んぼが低いと稲が水浸しになるので……。
田面は土を盛って高くしてある。
なので、用水路より高い田んぼに水を揚げるためには、水車が必要。
ということですかね?
↑「み」
でたー!
わたしの大好物、肥たごです(食べるわけではありませんが)。
おととし行った『江戸東京博物館』では、その重さを体感してきました。
↑担げます(女性は、わたしではありません)。
上の肥たご群を見て不思議だったのは、奥の大きな樽です。
これが一杯になったら、牛馬でさえ運べないでしょう。
これは何に使われたかと云うと……。
船です。
下肥の運搬船があったわけです。
↑これは、昭和20年代(葛飾区を流れる綾瀬川)。樽ではなく、船体自体に積みこんだのでしょう。
で、都市部の各地に寄港しては、肥たごで運ばれてきた下肥を、この大樽に移した。
都市部で下肥を満載した船は、農村の水路に入って、農民に売って歩いたのでしょう。
農民も、多少のお金を払ってでも、下肥を在所で手に入れられれば……。
自ら都市部を回って収集する手間が省けます。
つまり、下肥運搬業は、立派な産業として成り立ってたわけです。
↑「み」
『母屋と水塚』のジオラマです。
この模型、妙なところにお気づきでしょう。
藁葺き屋根が、農家の『母屋』だと思います。
なんだか、縄文時代の竪穴式住居みたいですよね。
↑滋賀県蒲生郡竜王町(復元です)。
つまり、屋根の下の部分が低い。
ていうか、ほとんどないです。
↓ある部分をアップにすると、その理由がわかります。
↑「み」
人が舟に乗ってます。
つまり、一面の茶色は、土の庭ではなく……。
泥水なんです。
早い話、洪水のときの風景。
舟は、右の『母屋』から、奥の建物に向かってます。
奥の建物が、『水塚』です。
ここには、人が2人立ってます。
つまり、水面より高い位置にいるわけです。
土盛りして建物を建ててあるんですね。
倉庫兼、洪水時の避難所だったわけです。
各家の敷地内に、洪水の避難所があったと云うことです。
今の住宅事情では、とうてい考えられないことですが……。
昔は治水が進んでないので、たびたび洪水に襲われたのでしょう。
公共的な避難所は無かったでしょうし。
しかし……。
ここで、ギモンがひとつ。
母屋自体を、土盛りした上に建てられなかったのでしょうか?
低地では、土の入手が大変なのでしょうか。
ここでまた、ちょっと脱線。
東京湾は、埋め立てで土地がどんどん広がっています。
↑クリックすると大きくなります。
最近では、大田区と江東区が、土地の帰属を巡って対立し……。
とうとう、大田区が都の調停を拒否。
江東区を訴えたそうです。
↑しかし、これって「調停」と云えるんですかね? 大田区が怒るのも無理ない気が……。
で、この海の埋め立てですが……。
日本人は、不思議にも感じません。
山から土を持ってきて、海に投入し……。
あたらしい土地を作るわけです。
↑沖縄県名護市の大浦湾。
でもこれは、土が取れる山がある国だから出来ることなんです。
たとえば、オランダ。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と云われる土地。
つまり、海の干拓により作られた国なのです。
しかし!
オランダには山がありません。
海を一面埋める土は、手に入らないのです。
そしたら、どうするか?
まず、貴重な土を使い、海を細い堤防で囲みます。
そして、内側の海水を抜くのです。
つまり、海底だったところが新しい土地となります。
もちろん、高さは海面下になりますから……。
排水設備が最も重要。
オランダと云えば風車ですよね。
実はあれ、排水機なのです。
あと、これを象徴する有名な小説があります。
メアリー・メイプス・ドッジの『ハンス・ブリンカーの物語』。
堤防に空いた穴を発見した少年が……。
堤防の決壊を防ぐため、穴に腕を突っこみ、そのまま凍死するというお話。
↑少年の銅像が立ってます。口に手を当ててるのは、大人を呼んでるんです。でも、その声が届くことはありませんでした。
オランダの干拓地の構造を考えれば、堤防の決壊がどれほど恐ろしいことかわかります。
堤防が決壊すれば、そこは再び海の底になってしまうのです。
脱線を終わります。
↑「み」
さて、これから先が、この『葛飾区郷土と天文の博物館』に来た目的になります。
常設展示『郷土展示室』の中の「蘇る昭和30年代の葛飾」という展示です。
もう1度、今年の単独旅行のコンセプトを確認しましょう。
『路線バスと昭和を巡る旅』でしたね。
この展示は、戦後の葛飾の花形産業であったボルト・ナット製造工場と、昭和30年代の住居が再現してあるコーナーです。
再現と云っても、ジオラマではありませんよ。
ここもまた、実物大です。
と、ここで気づいたことがひとつあります。
“実物大”ということについてです。
↓『松戸市立博物館』の『常盤平団地』もそうでした。
↑「み」
わたしは単純に、実物大で再現するなんてスゴいなぁと感心してました。
でも、よく考えたら、実物大と云うことは……。
昔使われてた家具や調度を集めてくれば、そのまんま再現パーツとして使えるわけです。
これがジオラマだったら、ぜんぶ手作りしなければなりません。
↑戸塚恵子さん作。
こっちの方が、よほど大変です。
さて、続けましょう。
上の写真は、左手が住居、右手が工場になります。
別棟になってたんですね。
おそらく、工場からかなりの騒音が出たでしょうからね。
この家の家族構成は……。
工場を経営する両親、2人兄妹の子供、祖父の計5人家族です。
テレビを買ったばかりのころという設定です。
それでは、見ていきましょう。
↑「み」
工場の中です。
労災の臭いがプンプンしますね。
毎日、1本ずつくらい、指が飛んでたんじゃないでしょうか。
↑適切に冷却すれば、8時間まで再接着可能だそうです。
↑「み」
これは、住居棟の玄関です。
机がありますが、子供の学習用ではなく……。
ここで、工場の事務を執ってたんだと思います。
机左の黒電話も、工場と住居の兼用でしょう。
↑「み」
前の写真の机の前のアップです。
ボルトやナットのサイズ表のようです。
注文を受けるときの確認用でしょうか。
これだけボロボロだと云うことは……。
実際に使われてたものかも知れません。
↑「み」
玄関から、茶の間を見たところ。
職人さんも、ここで昼食を摂ったのかも知れませんね。
右下、ガラス戸に立てかけられた札には、「ご自由にお入り下さい」と書いてあります。
てなわけで、上がらせてもらいました。
↑「み」
茶の間から、台所を覗いたところです。
↑「み」
茶の間のテレビです。
室内アンテナのようですね。
こんなので映ったんでしょうか。
↑「み」
台所の奥から、勝手口を見たところ。
↑「み」
台所の流しです。
「人研ぎ(じんとぎ・人造石研ぎ出し)」のようです。
こういうのを見ると……。
↓同時代の『常盤平団地』が、いかに最先端の設備だったかよくわかります。
↑「み」
↑「み」
でたー。
和式トイレです。
しかし、男性用小便器がないということは……。
男性は、立ってやってたわけです。
まさか、しゃがんではしないでしょう。
飛び散りがスゴかったでしょうね。
↑埼玉県越生町にある小便小僧(噴き出してるのは川の水だそうです)。
↓トイレの場所は、冷蔵庫の真ん前。
↑「み」
トイレはもちろん、汲み取りです。
トイレの真ん前に冷蔵庫はどうかと思いますが……。
ほかに置き場所も無いのでしょう。
↑「み」
2畳の部屋です。
こんな家に、女中部屋があるわけありません。
お爺ちゃんが寝たんでしょうか?
狭くて落ち着きそうです。
よく眠れたでしょう。
こういう部屋を書斎にしたいものです。
手前の畳に、座卓と座布団。
奥の畳に、万年床。
良さげじゃ~。
↑「み」
布団は重そうですね。
でも、わたしは、重たい布団が嫌いではありません。
落ち着きますよ。
今は、羽毛布団で寝てますが。
ちょっと蹴っただけで飛んでしまうのが難点です。
↑「み」
冬用の半天でしょうか?
それにしては、ペラペラですね。
綿が入ってないようです。
下にあるテーブルのようなのは、ミシンだと思います。
本体は、上蓋の中に収納できる仕組みなのでしょう。
ミシンを使わないときは、子供が勉強机にしてるのかも?
↓ミシンの上の紙は教材かと思って、拡大してみたら違いました。
↑「み」
やっぱり、ミシンでしたね。
かかってる衣服は着れるようです。
気づきませんでした。
ハンガーがいやに新しいと思ったら、試着用の衣服だったんですね。
↑「み」
おー、すげー。
ピアノ(オルガン?)がありました。
おとっつあん、儲けてますね。
右手が玄関です。
しかし、工場にピアノ。
素晴らしい騒音環境ですね。
↑「み」
茶の間から玄関を見下ろしたところ。
お母さんは、この机で事務を執ってたのでしょう。
右からは、工場の騒音。
左からは、子供のピアノ。
さぞ、イライラしたでしょうね。
電話が架かってきても、子供がピアノを止めなかったりしたら……。
送話口を押さえて怒鳴ったんじゃないですか。
わたしには、こうした下町暮らしは、ぜったいに無理だと思います。
↑「み」
これは、外ですね。
縁側があります。
夏は、ここに座ってお酒を飲みたいところですが……。
たぶん、蚊がひどかったと思います。
↑こんなに可愛くはありません。
右手の地面に並ぶ板は、どぶ板だと思います。
ボーフラのアジトだったでしょう。
鉢物は、朝顔のようです。
入谷の朝顔市で買ったんでしょうか?
「恐れ入谷の鬼子母神」でお馴染みの真源寺で、七夕ころに開かれる市です。
↑1鉢、2,000円のようです。ま、比較的良心的なお値段じゃないですか。気分が良ければ、わたしも買うかもしれません。
↑「み」
路地のどぶ板です。
候補者が、こういうところまで入りこんで支持を訴える選挙手法を……。
「どぶ板選挙」と呼ぶわけです。
↑田中角栄先生です。曰く「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない」。選挙の神様でした。
↑「み」
トイレの窓です。
下の細長い窓は、掃除用の掃き出し窓。
出歯亀が、ここから覗くわけです。
↑元祖『出歯亀(出っ歯の亀太郎)』。風呂専門だったんですかね? 出所後、すぐ覗いて逮捕の記事。
この窓の下にある、四角い板は、汲み取り口ですね。
↑「み」
バキュームカーではなく、柄杓で汲んでた時代のようです。
↑買われて帰った家で、汲み取りに使われると知った柄杓の気持ちは、いかばかりでしょうか。
わたしは、こういうタイプの汲み取り口は、実際に見たことはありません。
↓わが家も昔は汲み取りでしたが、汲み取り口は地面の上にあったと思います。
↑掃き出し窓との位置関係も、こんな感じでした。
そう云えば最近、バキュームカーを見ませんね。
最後に見たのがいつか、思い出せないほどです。
わたしが小学校のころは、まだ、帰り道でときおり出会いました。
見ると、親指を握ったんじゃなかったでしょうか。
霊柩車でしたかね?
↑アラブの富豪が日本でこれを見て、「ジャパニーズ・デラックス・カー」と叫び、購入を熱望したとか(聞いた話や)。
汲んでるときは、ホースが生き物のようにのたうってたのを覚えてます。
↑まさに、蛇踊りのごとしでした。
先日、メル友と汲み取り時代の話をしたことがあります。
その人は、大阪府堺市の方。
で、汲み取りは、呼ばなくても定期的に来たんだそうです。
これには驚きました。
うちは、一杯になると、電話で呼んだんです。
堺方式では、1回いくらと決まってたようです。
定期的に来れば、汲む量もほぼ同じでしょうからね。
うちの場合は、汲んだ量に応じて、料金を払ってたと思います。
汲み取り屋(業者を、こう呼んでました)が、量を書いた伝票を置いていきましたから。
タンクに、目盛りが付いてたんでしょうかね?
汲む前にメモして、汲んだ後の量から引いて算出したんでしょうか?
↑画像発見!(松江市のホームページ)。超絶アバウトそうな目盛りですが。
でも、汲む前にメモし忘れることだってあったはず。
そういうときは、適当な数字を書いたんじゃないでしょうか。
経験を積めば、だいたい何リットルってわかるんでしょうね。
その伝票は、学校から帰ると、たいがい玄関の下駄箱の上に置かれたままでした。
お金は、そのとき、現金で払ったんですかね?
お釣りは貰いたくないですよね。
細かい小銭を用意して、きっちりの金額で払いたいです。
↑お釣り用のこういう缶を、わが家で見た記憶は無いですが。
伝票にも触りたくないので、下駄箱に置かせて放っておいたんだと思います。
ゴミ捨てに行くときに、ゴミ袋越しに掴んで袋に入れたんじゃないですか。
なくてはならない商売なのに、やはり好かれていなかったのは仕方のないことでしょう。
↑「み」
縁側から茶の間を覗いたところ。
↓縁側の下に、七輪が収納してあります。
↑「み」
こんなところに突っこんであるということは……。
料理用ではなく、暖房用だったのじゃないでしょうか?
夏場は不要なので、ここに仕舞われてるわけです。
暖房と云っても、主暖房ではなく、手あぶり程度でしょうが。
網を載せて、お餅を焼いたりしたのかも知れません。
↓でも、普通は火鉢を使いますよね。
↑昭和26年の新潟市(現・中央区)。寒かったでしょうね。
ほんとに冬の暖房として七輪を使ったか、ちょっと自信がなくなりました。
ひょっとしたら、魚は外で焼いたんでしょうか。
↑サンマを焼いてるところ。
台所で焼いたら、家中が煙りだらけになるでしょうから。
縁側の沓脱ぎ石の上で焼いたのかも知れません。
↑「み」
建物脇にあった展示品です。
葛飾区は、玩具産業が盛んだったようです。
誰もが聞いたことがある玩具メーカーに、『タカラトミー』があります。
1955(昭和30)年、葛飾区本田宝木塚町(ほんだほうきづかちょう)で……。
『(有)佐藤ビニール工業所』が創業されました。
創業者は、佐藤安太(1924年~)。
安太、31歳のときです。
この会社が、後の『タカラトミー』となります。
“タカラ”は、地名にある“宝”から取られたそうです。
『(有)佐藤ビニール工業所』は……。
1960(昭和35)年に発売した『ダッコちゃん』でブレイクします。
↑浮き輪代わりにもなったのでしょうか?
その後、1967(昭和42)年に出した『リカちゃん』で……。
おもちゃ業界をリードする地位は、不動のものとなりました。
現在の本社は、葛飾区立石にあります。
本田宝木塚町(ほんだほうきづかちょう)は、その後、宝町に改名されてます。
↑「み」
縁台と将棋盤。
そう言えば、この家には、お風呂がありませんでした。
みんな、銭湯に通ったんでしょうね。
↑「み」。昨年訪ねた『江戸東京たてもの園』の『子宝湯(足立区千住元町から移築)』。
ひょっとしたら、工場の工員さんも、銭湯に行ってから帰ったかも。
銭湯帰りに、この縁台で将棋を指すこともあったのでしょう。
ぜったい、蚊に食われます。
↑村田英雄『王将』のモデルとなった坂田三吉は、縁台将棋で強くなったそうです。
↑「み」
奥に自転車があります。
お爺ちゃんが、酔っ払い運転をしたかも知れません。
↑瓶を持ったままは乗らないでしょうが。
頑丈一辺倒ですね。
荷台に、子供を載せたりもしたでしょう。
座布団を敷かなければ、お尻が痛かったはず。
↑昭和の蕎麦屋。驚異的なスキルです。そもそも、どうやって積むんでしょう?
↑「み」
三輪自動車です。
ダイハツのミゼット。
軽自動車です。
1957(昭和32)年から1972(昭和47)年まで販売されてたそうです。
15年間ですね。
顔がカエルみたいで、とても可愛いです。
↑走行してる様子。かなりやかましいです。
でも、なんで三輪である必要があったんでしょう。
調べてみたら、法制度の有利性があったことがひとつ。
戦前は何と、三輪は無免許で乗れたそうです。
もちろん、戦後はダメですが。
あとは、前輪がひとつということで……。
ハンドルを切るステアリングの構造が簡単なため、コストが抑えられたそうです。
当然、小廻りも効きますから、路地裏のようなところまで、配達で入って行けました。
欠点はもちろん、安定性の悪さ。
カーブで、よく転けたそうです。
実際、安定性の悪さは、↑の動画でもよくわかります。
しかし、自動車という乗り物ですが……。
考えてみれば、機構的にはものすごく単純ですよね。
早い話、前のタイヤが左右に動くだけでしょ。
こんな機械が、なんで最低100万円もするんですか。
1,000万円の高級車なんて、考えられませんよ。
↑レクサス LX570(トヨタ)。11,150,000円(税込)。これより高い国産車も、4車種くらいあるようです。
自動車に比べたら、農業機械や建設機械は、実に複雑な可動部を有します。
↓バックホーなんか、いったい何カ所が動くんでしょう。
とにかく、自動車の値段は、もっと下げられるはず。
若者の車離れが進んでるそうですが……。
購入して維持していく出費がバカらしいという気持ちはわかります。
地方では、乗らずには生活できないという事情もありますが……。
カーシェアリングやコミュニティバスなどの仕組みが充実していけば、個人で所有する人は減っていくでしょう。
さて、話に戻りましょう。
↑「み」
可愛いので、もう1枚、撮りました。
手前の木箱は、ゴミ箱でしょう。
↑「み」
最後に、遠景を1枚。
ミゼットは、大事にされてたんだなぁという気がします。
なぜか、東北の『曲り家(まがりや)』を連想してしまいました。
東北の家では、大事な労働力である馬を、室内で飼ってたんです。
↑『遠野ふるさと村(岩手県遠野市)』という施設です(入場料、大人520円)。
これで、ボルト・ナット工場一家の写真は終わりです。
↑「み」
水郷葛飾に伝わる、魚採りの道具。
職業としての漁ではなく、遊び兼自給用で使ったものなんでしょうね。
↓奥の細長いものは、ウナギとドジョウ用の罠で、『ウナギドウ』。
↑「み」
ドジョウが水面に出て空気を吸うのは、呼吸のためではないそうです。
↑おっさん顔です。いわゆる、どじょうヒゲ。
空気を吸って、お尻から泡を出し、腸を掃除してるのだとか。
空気呼吸は必要ないので、冬期は泥の中で冬眠できます。
↑あわれ……。
手前の瓶のようなものでは、ハゼを採ったようです。
『セルビン』と書いてあるみたいです。
説明書きは写ってましたが、残念ながら読めませんでした。
要は、中にエサを入れておき……。
入れるけど出れない仕組みを作れば良いようです。
「セル」は、セルロイドの略でしょうか?
現在は、ペットボトルを使えば、子供でも作れます。
↑簡単に出られそうですが、透明だとわからないんですかね?
↑「み」
休憩用(?)のソファー越しに、植栽スペースが見えます。
↓『ヘデラ・カナリエンシス』というウコギ科の蔓植物。
↑「み」
これ、うちの庭の裏手にもはびこってます。
まったく陽の当たらないところに、ポット苗を1株だけ植えたんです。
それが、あっという間に広がり、大群落を成してしまいました。
繁殖力には、猛烈なものがあります。
蔓を伸ばして這い回り、地面に接した蔓から根を出して定着します。
ただ、登坂力は大したことありません。
ここでも、数カ所からは立ちあがってますけどね。
これがナツヅタ(ブドウ科)だったら大変です。
↑名前のとおり、落葉性です。真っ赤な紅葉が美しいです(童謡『まっかな秋』)。
あっという間に、タイル壁など見えなくなってしまいます。
登坂力は強烈。
ガラス面も登ります。
別荘地などで、これを外壁に這わせてると……。
留守の間に、窓を覆われてしまうことさえあります。
↑「み」
ロッカーもあり、使わせてもらいました。
100円玉を入れて施錠しますが、解錠すれば戻ってきます。
さて、『葛飾区郷土と天文の博物館』の写真は、これでお終いです。
ロッカーの写真を撮ったのが、12:07分。
↓入口のサツキツツジの写真が、11:48分でした。
↑「み」
滞在時間、19分。
別に、急いで見たつもりはないんですけどね。
予定では、ここでの見学時間に30分を取ってありました。
11:50~12:20分まで。
10分ほど、貯金が出来たことになります。
↑博物館の全貌です。立派ですね。中央上部のドームは、プラネタリウムです。
さて。
お昼時です。
普通の人なら、ここで昼食にするでしょう。
でも、わたしは昼食を摂らないので、このまま次の施設に向かいます。
実はわたしが、普段の生活でも昼食を摂らなくなったのは……。
東京に遊びに来たときの経験からなんです。
昔は、普通に昼食を摂ってました。
ていうか、摂るものだと思って、疑問を持たなかったんです。
でも、これがなかなかハードルが高い。
↑「み」
これは、ベランダの出入口から、建物上階を見あげたもの。
2階と3階が見えます。
ここは、ベランダと窓が再現されてるだけで……。
部屋の中は造られてないと思います(あったりして)。
↑「み」
上階は外観だけとは言え、造りに手抜きはありません。
↓ベランダの反対側の仕切りには物置がなく、パネルを破って逃げられるようになってます。
↑「み」
↑「み」
また、部屋の中に取って返しました。
なにしろ、見物客がわたし一人だったので、思うままに動けます。
ほかの見物客がフレームに入れば、撮影もためらわれるところですが……。
もう、独壇場の撮り放題です。
この写真にあるボックスは、いわゆる「蠅帳」です。
読みは、“はいちょう”になります。
“はいちょう”で変換してみてください。
食品を、一時的に保管するボックスです。
今、これがある家は少ないでしょうね。
冷蔵庫に入れちゃうでしょうから。
でも、昔の冷蔵庫は小さかったので、蠅帳は必需品だったでしょう。
↑「み」。蠅帳と冷蔵庫のツーショット。
わが家も、昔は「蠅帳」がありました。
でも、こんな立派な箱ではありません。
↓こういう、上から被せる折りたたみ式のカバーでした。
↑「み」
階段を下りたところにある、集合ポストです。
1つの階段に、左右2戸ですから……。
これだと、3階分ですね。
なお、もちろんのこと、1つの建物では、部屋が横に何戸も並んでます。
↑現在の『常盤平団地』です。
階段が、2戸おきにあるんだと思います。
同じ階でも、ほかの階段を使う人とは、ほとんど顔を合わせることはないでしょう。
むしろ、同じ階段を使う、上下階では顔見知りになりますね。
上の階の方が、優越感を感じそうですが……。
実際には、不便だと思います。
もちろん、エレベーターが無いからです。
日々の出入りで、階段を上り下りしなくてはなりません。
一番大変なのが、引っ越しでしょう。
引っ越し業者の値段も、上の階は高かったんじゃないですかね?
↑無茶しますね。
↑「み」
また、外に出ました。
左側下方に、コンクリートの出っ張りがあります。
これは、ダストシュートです。
各階の階段に開口部があり、そこからゴミを投入すると、ここに落ちてくる仕組みです。
なお、現在の常盤平団地では、使用できなくなってます。
ゴミを分別して出さなきゃならなくなりましたからね。
エレベーターが普及してからは、建物が高層化したため……。
1階部分のゴミを溜めるキャパが追いつかなくなり、設置されなくなりました。
わたしの小学校にも、ダストシュートはあったんです。
↑新潟県見附市立今町小学校(わたしの母校ではありません)。この校舎は、改築工事により取り壊されたようです。
でも、使われてませんでした。
学校では、児童の転落事故を恐れ塞がれたそうです。
↑「み」
左に、ダストシュートの出口が写ってます(窓は、1階の浴室です)。
↑「み」
これは、階段にあるダストシュートの入れ口です(金属ポールは、展示用の人止め柵)。
たしかにこの大きさなら、小さい子供は入ってしまうでしょうね。
↑「み」
意図不明の写真。
ずいぶん、上から撮ってます。
カメラを頭上に翳して撮ったようです。
なお、ドアの上半分の方に、フラップのようなものがあります。
これは、のぞき窓です。
団地内には、誰でも入りこめます。
エリートサラリーマン家庭ばかりとなれば……。
押し売りまがいの訪問販売もあったでしょう。
昼間、奥さんひとりのときは、うっかり扉を開けられません。
↓展示物でも、ちゃんと開く構造になってたようです。
わたしは行儀が良いので、開いてみませんでした。
触ってくれば良かった。
でも、かなりデカい窓ですよね。
なんで、こんなにデカいのでしょう?
押し売りの目を、傘の先で突くためでしょうか?
↓と思ったら、どうやら窓には強化ガラスが嵌めこまれてたようです。
↑奈良市の中登美第二団地(現役)です。
↑「み」
ここにちゃんと、牛乳箱が写ってましたね。
牛乳箱の左上にあるのは、来客が押すブザーだと思います。
上の窪んだ窓は、トイレの窓ですね。
換気口を兼ねた明かり取りでしょう。
しかし、コンクリートが分厚い感じですよね。
こんなものなんでしょうか?
窓の左隣にあるのは、たぶん表札だと思います。
そう云えば、謙二郎と陽子には、名字がありませんでした。
なんで、名字だけ設定しなかったんでしょうね?
松戸謙二郎とかにすれば良かったのに。
ま、これだと、同名の人がいてしまうでしょうけど。
↑「み」
トイレの窓に興味を持ったのか、わざわざトイレの中に引き返して撮ってます。
左の窓の向こうは浴室です。
浴室の反対側には、戸外への窓があります。
おそらく、トイレの採光のための窓ですね。
↓イラストの間取り図がありましたので、位置関係をご確認下さい。
↑「み」
これが、浴室の反対側の窓です。
鍵が懐かしいですね。
↑「み」。ちょっとピンボケでした。窓の外にピントが合ってしまったようです。
窓に鍵は必要ないようにも思いますが……。
↓ダストシュートに載れば、1階の浴室には窓から入りこめてしまいそうです。
↑「み」
↑「み」
再び、階段の俯瞰。
配水管まで再現してありますね。
↑「み」
またまた階段を上ります。
ここは、謙二郎と陽子の住む1階から、さらに上階に続く階段。
下に、人止め柵のポールが写ってます。
つまり、ここから上は進入禁止なのです。
↑「み」
人止め柵を乗り越え、上階に侵入しました。
ドアノブに、何か下がってますね。
このときはさすがに、文字を読んでる余裕はありませんでした。
↓拡大してみます。
↑「み」。ムリヤリ拡大したので、画像が粗くなってます。
上に「危険」、下に「落下注意」と書いてます。
いったい何が落下するというのでしょう?
不法侵入者への鉄槌でしょうか?
おそらく、ドアノブが落ちるということだと思うのですが。
もちろんわたしは、触りませんでしたけど。
↑「み」
反対側のドアも、物入れの扉もちゃんとあります。
内部は造られていないはずですが……。
誰かが住んでそうなリアリティが、プンプンしてました。
ひょっとしたら、立ち入り禁止区域には監視カメラがあって……。
侵入者を確認したときは、警備員が飛んでくるシステムになってるかも知れません。
こんなところで捕まってるわけにいきませんので、早々に退散しました。
↑「み」
また、建物の外に出てます。
縁の下の換気口ですね。
↓この常盤平団地は、1階でも、5段の階段を上る構造になってます。
↑「み」
ということは、1階の下には縁の下があるわけです。
ただの空洞なんですかね?
残念ながら、ネット上に情報はないようです。
↑「み」
これは、六畳間の窓です。
柵の下に何か下がってます。
この画像を撮ったときは、まったく気づいてなかったと思います。
↓モノクロ写真ですね。
↑「み」
三輪車に乗った子供でした。
ちょっと怖いです。
↑「み」
当たり前ですが、2階にも同じ窓があります。
さっき、人止め柵を乗り越えて、ドア前まで侵入した部屋の窓です。
内部は造られていないはずなのですが……。
胸騒ぎのようなものを感じる窓です。
あまりにも気になったので、もう一度、階段を上ったようです。
再び、人止め柵を越え、2階へ。
↓この部屋の窓です。
↑「み」
怖いので、すぐに退却。
常盤平団地の写真は、これで終了です。
↓これが、1枚目の写真でした。
↑「み」
撮影時刻は、9時46分。
その上の最後の写真の撮影時刻は、10時5分。
わずか、19分の滞在でした。
もっといたような気がしてなりません。
何度も階段を上り下りしてますからね。
なんか、別の時間が流れてたんじゃないでしょうか。
なお、この『松戸市立博物館』の常盤平団地編を書くに当たり……。
参考にさせていただいた書籍があります。
↓こちらです。
『常盤平団地』の展示と、実際に常盤平団地に暮らした人の写真で綴られてます。
この本は、今回の執筆にあたって買ったものではありません。
奥付を見ると、2001年の初版になってます。
『Mikiko's Room』を始めるずっと前に買って持ってたものです。
もちろん、団地暮らしに対する憧れが、購入動機だったと思います。
さて、『常盤平団地』編は、これにて終了です。
↑「み」
いきなり虚無僧ですが……。
ここはまだ、『松戸市立博物館』の中です。
↓博物館ホームページの説明文を転載します。
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江戸時代の小金宿(現在の松戸市小金)には、一月寺という変わった名前の虚無僧寺院がありました。虚無僧寺一月寺は、青梅鈴法寺とともに、普化宗(ふけしゅう)総本山として全国に知られていました。正確には、「普化宗触頭」あるいは「普化禅宗惣本寺」といいました。
普化宗は、中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅宗の一派で、その僧侶を虚無僧といいます。しかし、明治4年(1871年)政府の普化宗廃止令により、普化宗総本山一月寺の歴史は閉じられました。
ここでは、主に虚無僧や一月寺、尺八の歴史について紹介しています。
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普化宗は、臨済宗(禅宗)の一派のようです。
普化(?~860)は、唐の時代の中国の禅僧。
生涯遊行した奇行僧だそうです。
↑『普化禅師振鈴図』。死後、棺から忽然と消えたそうです。“フケる”という言葉は、ここから生まれたとか(ヨタに非ず)。
日本における普化宗は、江戸時代、虚無僧集団として忽然と歴史の舞台に現れます。
教義や信仰上の内実はほとんどなく……。
尺八を法器と称して、禅の修行や托鉢のために吹奏しました。
1614(慶長19)年、徳川家康より与えられたとされる『慶長之掟書』により……。
諸国通行の自由など、種々の特権を持っていたため、隠密の役も務めたとも言われてます。
維新後、明治政府により、普化宗は廃宗とされました。
虚無僧キャラで有名なのは……。
吉川英治『鳴門秘帖』の主人公である、隠密の法月弦之丞(のりづきげんのじょう)でしょう。
幾度も映像化されています。
特に、1977年~78年にかけて、NHKで放送されたテレビ時代劇では……。
法月弦之丞を田村正和が演じました。
↑右は、“見返りお綱”役の三林京子。
まさに、美剣士という言葉そのものの姿で、大変な人気だったとか。
↑「み」
見てのとおり、尺八です。
名前の由来は、標準の管長が、一尺八寸(約54.5cm)であったこと。
真竹の根元で作られます。
手孔は前面に4つ、背面に1つ。
江戸時代には、幕府の法度により、尺八は普化宗の虚無僧のみが演奏できました。
虚無僧以外の者は吹いてはならなかったわけですが……。
実際には尺八をたしなむ者は多くいたそうです。
これで思い出しました。
法螺貝です。
今では、山伏のイメージしかありませんが……。
戦国時代は、軍勢への合図として使われてました。
江戸時代になってからは、戦場で吹かれることはなくなったわけですが……。
先祖からの法螺貝が、家宝のように伝わった家もあったでしょう。
それを見れば、吹きたくなるのが人情です。
ひそかに吹奏する、愛好者もいたようです。
↑現代の愛好者。『新潟県立看護大学』の「ほらガール」だそうです。
しかし、法螺貝は元々、戦場で使われていた音色であり……。
中には、落城のときにだけ吹かれる『落城の譜』などもありました。
こんな曲を、いきなり城下で吹き立てたら大変なことになります。
で、愛好者は、山に登って、誰もいないところで吹くようになったとか。
実はこれ、小説で読みました。
岡本綺堂の『三浦老人昔話』にある、『落城の譜』。
『青空文庫』で読めますので、興味のある方はどうぞ(→『三浦老人昔話』)。
↑「み」
昭和35(1960)年ごろの『一月寺』。
元々は“いちげつでら”と称し、普化宗の関東総本山でした。
しかし、江戸幕府と縁が深かった普化宗は、明治政府により廃宗とされました。
僧侶は僧侶資格を失い、以後、近くの万満寺(まんまんじ)の助力を得ながら在家が管理する形となっていたそうです。
昭和30年代になって、日蓮正宗に改宗し、“いちがつじ”と読みを変え現在に至るとのこと。
↑現在の『一月寺』。江戸時代と同じ場所にあります。
普化宗時代の寺宝は松戸市に寄贈され、『松戸市立博物館』などで見ることが出来るわけです。
↑「み」
江戸時代の『一月寺』です。
怪しさ満点ですね。
↓左の方に、籠を背負った子供がいます。
↑「み」
これは、何の籠でしょう。
もう1人が、釣り竿のようなものを持ってますから……。
釣った魚を入れる籠でしょうか?
『一月寺』のすぐ近くには、坂川が流れてます。
↑「み」
虚無僧の歴史です。
虚無僧で一番特徴的なのは、天蓋と呼ばれる籠でしょう。
頭に被ってる籠です。
江戸時代に虚無僧が増えたのは、幕府の失業対策の目的もあるようです。
取り潰した藩の浪人や、家督を継げない武家の2男3男に、食べていく道を与えたわけです。
托鉢と云っても、体の良い物乞いです。
↑シュピースというドイツ人が描いた幕末のスケッチ。『クラリネット奏者である日本の乞食』と添え書きしてあります。
天蓋を被ることを義務づけたのも、そういう意味合いじゃないでしょうか。
しかし、これを隠れ箕にする犯罪人が増えるようになり……。
幕府も、たびたびニセ虚無僧の規制を行ったそうです。
↑「み」
『二十世紀梨』が、松戸生まれとは知りませんでした。
写真の人は、梨農家の松戸覚之助。
松戸という名字は、おそらく明治になって付けたものでしょう。
明治21(1888)年、覚之助が高等小学校2年生(13歳)のおり……。
分家の石井佐平の家を訪れた際、ゴミ捨て場に芽を出した梨の苗木があるのを発見しました。
覚之助は、石井から苗木を譲り受けて自宅に植えました。
試行錯誤すること10年、覚之助が23歳となった明治31(1898)年、ついに結実しました。
人を招いて試食してもらったたところ……。
多汁で甘く、肉質も柔らかであるとの好評価を得ました。
話を聞いた大隈重信も試食に与かったとのことです。
覚之助は当初、『新太白』と命名したのですが……。
後に、助言を得て、『二十世紀梨』と改名しました。
覚之助の偉いところは……。
この新種の苗木を、栽培を希望する農家に快く分け与えたことです。
このため、『二十世紀梨』は、またたくまに全国に普及しました。
1910年の日英大博覧会では、『二十世紀梨』は名誉賞を受けています。
現在、『二十世紀梨』誕生の地は、『二十世紀が丘梨元町』という地名になってます。
同地にある『二十世紀公園』には……。
『二十世紀梨』の日本一の産地となった鳥取県から送られた感謝の碑も建ってるそうです。
↑母ありて ざるにひとやま はだ青きありのみのむれ われにむけよとすゝめたまふ 「二十世紀」 ふるさとの秋ゆたかなり(尾崎翆)
わたしは、果物の中で、梨が一番好きかも知れません。
松戸覚之助さん、ありがとう!
↑「み」
ちょこっと休憩。
ここはまだ、2階です。
窓の外は鬱蒼たる森。
雨に濡れた緑が綺麗でした。
相変わらず、誰もいません。
↑「み」
『三匹獅子舞』という展示。
文字どおり、三匹が一組になった獅子舞のようです。
↑「み」
座って映像も見れるようですね。
でもわたしは、覗いただけで撤退したみたいです。
さて、これで見学は終わりですが……。
1階には、ミュージアムショップがあります。
母と自分用に、お土産を買いました。
↓例によって、帰りの新幹線の座席で撮影しました。
↑「み」。リュックに入れてたので、袋がシワシワです。こういう点だけは、カートが有利ですね。
↓中身は、馬と埴輪のキーホルダー。
↑「み」。キーホルダーとしては大ぶりです。女子高生なら、バッグに着けたりするんでしょうね。
松戸市内の古墳時代の遺跡から出土した品をかたどったようです。
値段はどちらも、350円。
入館料(300円)よりは高いですが……。
比較的良心的な値段だと思います。
↓わたしは買いませんでしたが、虚無僧ストラップもあります。
↑「み」
デザインがまともすぎて、イマイチ洒落っ気に乏しいです。
こんなに細かく作りこんでも、遠目からは何だかわからないと思います。
もっとデフォルメすべきかと。
↓さて、博物館を出ました。
↑「み」
撮影した時間は、10時21分。
博物館に入る前に撮った画像は、9時32分でした。
滞在時間は、50分弱。
『常盤平団地』以外の展示もしっかり見るためには……。
もう30分は必要だと思います。
さてさて。
まだ、雨が降ってます。
↓行合わせのため、歌を一曲どうぞ。
↑♪雨が小粒の真珠なら~(→拾い集めるに決まっておる)
予定では、『松戸市立博物館』の見学時間は、10:45分まで取ってありました。
24分早く見学を終えたわけです。
ま、いきなりスケジュールが押すと気が急くので、いいペースです。
まずは、『八柱駅』まで戻ります。
行きは「Google MAp」に迷わされて30分もかかりましたが……。
帰りは、来た道を戻るだけですので、迷うことはありませんでした。
再び『八柱駅』です。
と、言いたいところですが、違います。
ここは、『新八柱駅』なんです。
来たときは、『松戸駅』から新京成電鉄を使いました。
で、新京成電鉄の駅が、『八柱駅』。
今度は、JR武蔵野線に乗ります。
↑JR武蔵野線は、武蔵野台地をぐるっと巡ってます。こんな線だったとは、今、初めて知りました。ロングシートでなければ、ずっと乗り通しても面白そうなのですが。
JR武蔵野線の駅は、『新八柱駅』なんです。
もちろん、駅は隣接してます。
次の目的地は、ここから2回乗り換えなくてはなりません。
まずは、JR武蔵野線で『新八柱駅』から『東松戸駅』まで乗ります。
といっても、隣の駅です。
乗車時間、3分。
次に乗り換えるのは、『京成成田空港線』アクセス特急。
のはずでしたが……。
乗り場がさっぱりわかりません。
↓でも、予定よりスケジュールが進んでるので、呑気に写真なんか撮ってます。
↑「み」
↓上の写真を拡大してみたら、ちゃんと乗り場への矢印がありました。
↑「み」。どこ見てたんでしょうね。
この写真の時刻は、10:43分でした。
実は、10:44分発の電車があったんです。
ホームにあがったときは、その電車が発車しようとしてました。
でも、そういうときに飛び乗ると、必ず逆方向に走り出すので……。
↑たぶん、こういう顔になります。
躊躇しました。
判断が付かず、目の前でドアが閉まるのを見送りました。
↑もちろん、こんな格好はしません。
構内放送を聞くと、わたしの向かう方向の電車でした。
しかたありません。
スケジュール表には、乗るはずの時刻しか書いてないのです。
その時刻は、11:20分ですので、まだ36分も余裕があります。
焦ることはありません。
がらんとしたホームに座り、次の電車を待ちます。
この駅で聞いたのかどうか、定かではありませんが……。
急病人の対応でダイヤが乱れてるという構内放送がありました。
昨日は、『東飯能駅』での爆発物騒ぎのニュースや……。
線路内に立ち入った人がいるという構内放送を聞いてました。
なんか、異様な感じを受けましたね。
東京はもう、わたしが住んでたころの街じゃないとんだと、はっきり悟りました。
何というか、秩序が制御できなくなってきてるんじゃないでしょうか。
ギリギリのところに来てる気がします。
ここから一歩踏み外すと、とんでもないカオスになるしかないのでは。
わたしがこの意を強くしたのは、新潟に帰ってから読んだネットの記事でした。
↓JRの『武蔵小杉駅(川崎市中原区)』での、朝の風景。
これは、改札口に向かう人たちの行列です。
この日は、ダイヤの乱れがあったわけではありません。
毎朝の日常的な風景だそうです。
ダイヤが乱れたりすれば、あっという間にこの列が伸びるとか。
↑台風の日の『武蔵小杉駅』。
利用する乗客も、「いつ事故が起きてもおかしくない」という不安を抱いているそうです。
実際、そうでしょうね。
地震などで電車が止まったら、大変なことになるはず。
次から次に押し寄せる人波で、引き返すことも出来なくなります。
考えただけで怖いです。
わたしは、今、東京近郊に住みたいとは思いません。
何かあったときのリスクが、あまりにも大きすぎです。
さてさて。
話を元に戻しましょう。
『東松戸駅』で、10:44分発の電車を逃したところから。
↓これは、わたしの乗る路線に向かうエスカレーターです。
↑「み」
でも、さほど悲観はしてませんでした。
東京なら、すぐに次の電車が来ると思ってましたから。
しかし……。
ここは、千葉だったのです。
↑千葉の基本風景(千葉市内です)。
次の電車は、なんと20分後の11:04分でした。
↑『東松戸駅』京成高砂方面時刻表。
でも、まだ余裕です。
わたしの予定表では、11:20分発に乗ることになってましたから。
まだ、16分の貯金があります。
なお、11:20分発は、アクセス特急という名称ですが……。
特急料金はかからず、早い話、快速電車です。
わたしが次に下りるのは、『京成高砂駅』なんですが……。
アクセス特急は、途中の駅をすべてすっ飛ばし、『京成高砂駅』まで停まりません。
所要時間は、わずかに7分。
11:27分着です。
しかるに、わたしが乗る11:04分発は、各駅停車です。
『京成高砂駅』までの間にある4つの駅にすべて停まり……。
『京成高砂駅』着は、11:14分。
それでも、10分で到着します。
なお、この電車は、北総線でした。
11:20分初は、成田スカイアクセス線。
行き先は、どちらも羽田空港です。
上の路線図からもわかりますが……。
成田スカイアクセス線というのは、『成田空港駅』発。
北総線は『印旛日本医大駅』発。
つまり、『東松戸駅』から上り方面に行くわたしにとっては、同じ路線ということです。
もちろん、ホームも同じです。
なんで路線名を違えるんでしょうね。
おそらく、わたしがホームを迷ったのは……。
北総線と成田スカイアクセス線が、別の路線だと考えたからでしょう。
ま、とにかく。
↓待ち時間があったので、ホームの水飲みなどを写してます。
↑「み」
↓線路を1枚。
↑「み」
パネルの隙間から見える風景は、まさに千葉です。
↑「み」
このホームは、かなり高い場所にあるようです。
パネルで覆ってるのは、飛び降り防止でしょうか?
さて。
11:04分発の北総線の各駅停車に乗り……。
『京成高砂駅』に着きました。
おそらく、時刻表どおりの11:14分だったと思います。
↑「み」
この画像の撮影時間は、11:17分。
『京成高砂駅』で撮ったと思います。
目の前に『歌える居酒屋 さぶ』という看板が出てます。
↑「み」
ネット検索したら、ありました。
こちらのサイトさんの情報を見ると、間違いなく『京成高砂駅』のようですね。
しかし、『さぶ』っていう名称は、実に意味深です。
ゲイ雑誌の老舗に、そのまんま『さぶ』というのがあったからです(1974年11月号~2002年2月号)。
↑幸い、目にする機会は一度もありませんでした。
で、次に乗り換えるのは、京成本線です。
Wikiによると……。
「東京都台東区の『京成上野駅』と千葉県成田市の『成田空港駅』間を『京成船橋駅』経由で結ぶ、京成電鉄の鉄道路線」とのこと。
山手線から東側の路線については、ほとんど知りません。
↓ちょっと見づらいですけど、路線図です(クリックすると大きくなります)。
赤が、京成本線。
その上の黄色が、さっきまで乗ってた成田スカイアクセス線。
ほとんど同じところを通る路線のようです。
新潟では、とーてー考えられません。
うらやましい気もしますが……。
早い話、それだけ人が溢れてるということです。
さてさて。
『東松戸駅』11:04分発の電車で、『京成高砂駅』には、11:14分に着きました。
で、『京成高砂駅』で、京成本線に乗り換えます。
ホームのベンチは、イヤに閑散としてた記憶があります。
なんとなく、不安になる雰囲気でした。
↑『京成高砂駅』のようです。まったく記憶無し。
わたしの予定表では、ここから11:33分発の電車に乗ることになってます。
でも、11:14分に着いてますから、11:33分より前の電車があると思われます。
しばらく待ちましたが、なかなか電車が来ません。
こういうときは、必ず何かの間違いを犯してるというのが、長年の経験からわかってます。
こういうとき自己判断で行動すると、まずドツボにハマります。
再び階段を上がり、2階の改札口に戻りました。
改札の脇に駅員の詰め所みたいなのがありました。
改札脇のガラス戸の中に、駅員さんが見えました。
↑左端のおばさんが立ってるところだったと思います。
改札を通る人通りもなかったので、思い切ってガラス戸の中に声を掛けました。
駅員さんは、すぐにガラスを開けてくれました。
で、これからわたしの行く『お花茶屋駅』方面のホームを聞きました。
駅員さんは起ちあがり、ガラスの中から身を乗り出して、わたしが行くべきホームを示してくれました。
とても親切な対応で、感心しました。
案の定……。
わたしが待ってたホームは、逆の方向行きでした。
電車が来なくて良かったんです。
来てたら、乗ってました。
幸運を感謝し、正しいホームに降り立ちます。
もう、身の回りに不安感は漂ってません。
実にすがすがしく、何を聞かれてもハキハキと答えられそうな心持ちです。
↑島根県雲南市にある『須賀神社』。八岐大蛇を退治した須佐之男命が、「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言われました。命は、この地の名を「須賀」と定め宮殿を建てました。それが後に『須賀神社』となったそうです。
ホームの時刻表を確認します。
11:18分発というのがありました。
迷わずこのホームに来てたら、これに乗れてました。
次の電車は、11:30分。
やっぱり平日のお昼時、12分も空いてしまってます。
でも、よく見るとこの電車は、特急でした。
特急は、『お花茶屋駅』には停まらないのです。
ホームの時刻表を確認して良かったです。
その次の電車は、11:33分発です。
何のことはありません。
わたしが、予定表に書いてた電車です。
『松戸市立博物館』で作った24分の貯金は……。
ここで、すべて使い果たしてしまったということです。
こういうのを、「悪銭身につかず」と云うんですかね?
さて、先に進みましょう。
『京成高砂駅』11:33分の電車は時刻表どおり発車しました。
わたしが下りるのは、2駅先の『お花茶屋駅』です。
11:37分着。
時刻表どおり、到着しました。
この『お花茶屋駅』自体は、葛飾区宝町にありますが……。
駅の北口を出ると、すぐに『葛飾区お花茶屋』という地名になってます。
↑ピンク色の部分が、『葛飾区お花茶屋』。
地名の由来は、江戸時代に遡ります。
八代将軍の徳川吉宗の治世。
暴れん坊将軍ですね。
その吉宗が鷹狩りに興じていた際、腹痛を起こしました。
↑『御留山(現・新宿区下落合『おとめ山公園』)』に立つ吉宗。『御留山』は、徳川家の鷹狩り場で、一般人の立ち入りは出来ませんでした。
その時、お花という茶屋の娘の看病により快気したそうで……。
この出来事により、現在の地名を賜ったとの言い伝えがあります。
↑お花想像図。
さて、これからわたしが向かうのは……。
『お花茶屋駅』からほど近い、『葛飾区郷土と天文の博物館』です。
↑女子バレーの強豪『共栄学園』がありますね。元全日本代表・益子直美さんの母校です(益子さんは、地元葛飾区の出身)。