ハチの遺体は、東京帝国大学農学部に運ばれ、病理解剖がなされました。
フィラリアに侵され、腹水が溜まっていたそうです。
しかし、ホルマリン液で保存された臓器を、後年に再検査したところ……。
直接の死因は、癌だったようです。

↑上野氏とハチ公は、東大の庭でようやく出会うことが出来ました。
ハチの剥製が造られたのは、『国立科学博物館』の前身『東京科学博物館』です。
ハチの遺体は、実際にはそうとう汚れ、臭気も酷かったそうです。
毛の洗浄、折れた耳の修復などを行い、元気なころのハチを再現しました。
制作者のひとり、本田晋は……。
ハチの胴体に、「いつ死に、いつ作られ、誰が作ったのか」を記載した封筒をこっそり収めたと、後年述懐しています。
何万点も剥製を作った人ですが、そんなことをしたのはハチだけだったとか。
さて、もう一度、ハチの剥製を見てみましょう。

顔つきが、今の秋田犬とは違うような気がします。
今の秋田犬は、もっと潰れた顔をしてますよね。
プーチン犬とか。

極端なのは、わさおです。

ハチが生まれたのは、秋田県大館市で、両親とも名前の付いた犬ですから、おそらく純血種でしょう。
東大教授のもとに送られたわけですからね。
わたしは、ハチの顔の方が好きです。
今の秋田犬は、なんであんなブサい顔になっちゃったんですかね。
さて、キリがないので、次の犬に移ります。
上段の右側にいるのは、カラフト犬です。

熊みたいですね。
これも、たいへん有名な犬の剥製です。
名前は、ジロ。
そう、南極観測隊と共に南極に渡り……。
そのまま南極に置き去りにされたにもかかわらず、1年後に生きて発見された犬です。
生き残ったのは、15頭のうち、タロとジロの兄弟犬2頭のみ。

↑置き去りにした隊員を恨むこともなく、尻尾を振ってじゃれついてきたそうです。
犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びました。
氷に閉じ込められた南極観測船『宗谷』を救出したのは、アメリカ海軍の砕氷艦『バートン・アイランド号』。

犬を置き去りにすることは、この艦長の命令だったのです。
この話を続けようとしたら、まったく筆が進まなくなってしまいました。
なので、カラフト犬の話をします。
名前のとおり、樺太や千島列島で作り出された犬種です。
アイヌなどの北方民族が、犬ゾリや猟犬として使ってました。

熊のような外見からもわかりますが、寒冷地に適した長毛が特徴です。
氷点下40度にも耐えるそうです。
反面、暑さにはからきし弱く、気温が10度を超えると消耗してしまうとか。
日本犬ブームですが、まったく見かけないなと思ったら、すでに絶滅してしまったそうです。
ひとつには、車や機械が普及し、使役犬としての役目が終わったこと。
そのため、純血種を守る必然性がなくなり、雑種化が進みました。
野犬となったものは、エキノコックス症の発生による野犬狩りで掃討されてしまったそうです。
1970年代のようです。

↑北海道旅行に行ったときは、バスガイドさんから、キタキツネには絶対に触るなと言われました。バスが見えると道路に出てくるキツネがいるんです。ガイドさんは、“観光ギツネ”と呼んでました。
さて、3匹目の犬です。
こちらは、甲斐犬。

甲斐黒号という名前だそうです。
と云っても、誰も知らないでしょう。
でも、この犬は、ものすごい記録を持ってるのです。
生まれたのは、昭和13(1938)年1月。

↑国家総動員法が制定された年です。
亡くなったのが、昭和41(1966)年8月。

↑ビートルズが来日した年です。
なんと、28年7ヶ月も生きたのです。
甲斐犬が、とりわけ長命というわけではありません。
平均寿命は、14~16年のようです。
28年というのは、平均寿命の倍生きたわけです。
人間にしたら、150歳くらいになるんじゃないですか。
甲斐犬は、昭和9(1934)年、天然記念物に指定されてます。

もちろん、出身は山梨県です。
昭和4年に発見され、以後、保護活動が始められたそうです。
体格は中型犬。

↑かなりなイケメンくん。
北海道犬や琉球犬と同様、弥生時代以前からの特徴を有しているそうです。
山岳地帯での猟に使われてきたそうです。
真っ黒い姿で疾走する様は、弾丸のようだとか。

↑黒ラブみたいですね。
気性が荒く、集団での猟には向かないそうです。
飼い主以外には心を開かず、逆に飼い主には忠誠を尽くします。

↑気品があります。
そのため、「一銃一狗の単独猟」において、優れた狩猟性が発揮されるとか。
天然記念物ですが、普通に飼うことは出来るようです。
でも、ペットショップに並ぶことはないので、ブリーダーに直接連絡を取る必要があるとか。

↑子熊みたいですね。
販売価格は、15万円くらいからみたいです。
この値段が、ほかの犬種と比べて高いのか安いのか、わたしにはわかりません。
でも、わたしの予想よりは安いなという気がします。
しかし、この犬を都会で繋いで飼うのは、気の毒な気がしますね。
昔、シベリアンハスキーがブームになったことがあります。
狼みたいな風貌の犬が、繋がれて飼われてる姿は、気の毒に見えました。

↑こいつは、あんまり不満を感じてないようですが。
この犬は、名前のとおり、シベリアが故郷ですので……。

日本の夏は暑すぎます。

最近、街で見ることはほとんどなくなりました。
やっぱり、日本の平地では長生きできないんじゃないでしょうか。
何かの本で読んだ話ですが……。
異常に竹輪の好きなシベリアンハスキーがいたそうです。
竹輪を1本丸ごと放り投げると、空中でかぶりつき、着地したときには飲みこんでたそうです。

↑こういうことをしたら、手ごと食べられたでしょう。
いったいどれくらい食べるのかと思った飼い主さんが、竹輪を大量に買って試してみたとか。
でも、26本で竹輪が無くなってしまい、そのポテンシャルは計れなかったそうです。
あまり利口な犬種ではないようです。

↑侵入を企ててるようです。
↓さて、次の写真はこちら。

↑「み」
これは、ニホンオオカミの骨格標本です。
ニホンオオカミは……。
明治38(1905)年、奈良県で捕獲されて以来見つかっておらず、絶滅したものとされています。

↑だそうです。
オオカミと云えば、平井和正のウルフガイを思い起こします。

でも、ニホンオオカミは、そんな格好いいものではありませんでした。
↓こちらが、ニホンオオカミの剥製です。

↑これは、作り方がヘタすぎなんじゃないでしょうか。
この剥製も、『国立科学博物館』にあるようですが……。
どうやらわたしは見過ごしたみたいです。
骨格標本は『日本館』にあり、剥製は『地球館』にあります。

しかし、見過ごしたのも、↓この剥製を見れば、むべなるかなです。

↑どう考えても、ヘタクソです。
オオカミという語から連想する精悍さ、迫力は、まるでありません。

↑ハイイロオオカミです。
実際、大きさは中型犬程度。
体重も、15㎏前後らしいです。
昔、山犬と呼ばれてたのが、ニホンオオカミのようです。

↑もののけ姫の山犬。違うよなー。
現在、ニホンオオカミと一番近い日本犬は、柴犬だとか。

↑タバコ屋で店番をする柴犬。キュウリが好物。
現在の犬との大きな違いは、夏と冬で毛色が変化したこと。
↓は、『和歌山県立自然博物館』に展示されてる剥製。

↑これは、多少はオオカミっぽいですが、やはりどこか妙です。
これは、冬毛でしょうね。
なお、ニホンオオカミの剥製は、国内に3体、オランダに1体あるのがすべてだそうです。
日本の残り1体は、東京大学農学部にあります。

↑これが一番マシでしょうか。でも、なんかヘンですね。脚とか。
こちらも冬毛ですね。
どうも、顔つきは、標本製作者の思い入れに影響されるみたいですね。
和歌山の標本は、頭から鼻にかけて段差があり、日本犬のようです。
オランダにある1体は、江戸時代にシーボルトが持ち帰ったものだそうです。

↑日本の植物を初めてヨーロッパに紹介した本。
↓さて、続く1体は、こちら。

↑「み」
これも、日本列島から絶滅してしまった動物です。
ニホンカワウソ。

↑これまた、ヘンな形です。これじゃ、管狐ですよ。ほんとに中に骨が入ってるのでしょうか。東京都羽村市立動物園所蔵。プレートには、『明治40年3月18日購入 31円』とあります。
ニホンオオカミと比べても、かなり大きな動物だったことがわかります。

↑2体は上下にあるのですが、2体を入れて撮った写真がこれしか見つかりませんでした。このあたり、撮影者の一人としても、反省ですね。
尻尾を入れない体長で、80㎝くらい。
尻尾まで入れると、1.3メートルくらいになります。

↑1974年6月発行の切手。
日本列島で最後に目撃されたのは、1979年。
↓なんと、8ミリフィルムの映像が残ってました。
以後、目撃例がなく、2012年に絶滅種とされました。
絶滅させたのは、もちろん人間です。
毛皮が保温力に優れていたため、乱獲されたのです。

さらに、河川の護岸工事により、住処が失われ……。

↑多摩川です。まだ、こんな工事が続けられてるようです。
河川の汚染により、餌も奪われました。
これだけの体格ですから、生存するにはそうとうな魚介類が必要だったでしょう。

↑体格の比較。⑥アメリカミンク ⑦エゾクロテン ⑧ホンドテン ⑨ニホンカワウソ。それ以外の番号は、こちらを御覧ください。
残念でなりません。
昔話に出てくるカワウソは、キツネやタヌキと同様、トリックスターです。
妖怪視されてた地域も多く……。

室町時代の国語辞典『下学集』には、「獺(かわうそ)、老いて河童に成る」と書かれてるとか。

↑今の子供に、効果があるんでしょうか。
ニホンカワウソはいなくなりましたが、カワウソ自体は、水族館でも見られます。
とても愛嬌のある動物で、とても妖怪の一種には見えません。
↓カワウソとタッチできる水族館は、大人気。
↓夏には、流しカワウソを見られる水族館もあります。
ペットとして買ってる人もいるようです。
最大の魅力は、お風呂の中で、一緒に遊べること。
猫ではぜったいに出来ません。
↓飼い主の腕に絡みついたり、とにかく可愛いです。
これらのカワウソは、すべて、コツメカワウソという種類。
名前のとおり、爪が小さいので、危険が少ないそうです。
体格も、ニホンカワウソよりずっと小さく、猫くらい。
↑前足が器用なので、異様に可愛いです。
わたしも飼いたいなと思って、ネットを探したんですが……。
信じられない値段でした。
なんと、70万円が相場だとか。

↑飼えるのは、セレブだけ。
ひとつは、人工繁殖が非常に難しいこと。
犬や猫のように、ブリーダーが存在しないんでしょうね。
となれば、野生の子供を捕獲してくるほかはありません。
入荷自体が非常に少なく、珍種専門のショップでも、年に1,2匹入るかどうかとのこと。
これで、寿命は犬よりも短く、12年ほどです。
しかも、飼うのも大変。
まず、運動量が多いので、広い場所が必要。
水浴びの施設も要ります。
↑このお宅のお風呂、すごく広そうです。
餌も、生の魚介類になります。
普通の家では、とても飼えないと思います。
↑フェレットフードなども食べるようですが、新鮮な魚介類も必要だとか。
ここで思いついたのですが、漁港で飼ったらどうでしょうか。
広い場所も、水浴びの出来る水槽も、元からあります。

魚介類だって、市場に出せない雑魚がたくさん確保出来るはず。

↑とある漁港で捨てられた雑魚。保健所の指導により、一般人が食用に貰い受けることは出来ないとか。
海の魚は、食べられないですかね?
塩味がついてて、むしろ喜ぶのでは。
↑美味しそうですが、行列してまで食べますかね。スーパーで、1匹100円でしょ。
で、カワウソがいることで、漁港に人が呼べます。
子供連れの家族が、たくさんやって来るはず。
そうした人たち向けに、魚介類を提供するコーナーも作れば、ぜったいに流行りますよ。

↑熱海魚市場『浜焼きコーナー』。
このアイデア、どこかで採用してくれませんかね。
アイデア料は要りません。
パクリ放題でけっこう。
ただし、わたしが行ったらタダにしてください。
大丈夫、カワウソほどは食べませんから。

↑ホッケです。これ一匹で満腹しそう。
ただし、ビールはたくさん飲みます。

↑どんどん持って来い。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
またまた、人間の暮らしに戻って来ました。
パネルには、『弥生の米づくり』とあります。
現代の田んぼと比べて、圧倒的に違うのは、人の数ですね。

現在、わたしの住む亀田郷の田んぼは、区画整理されてます。
すべて、綺麗な長方形です。

いったいあれは、何メートル×何メートルなのでしょうか。
50メートルプールよりは広い感じがします。
人が入ってるのを見るのは、田起こし、田植え、農薬や肥料の散布、稲刈りでしょうか。

↑コンバインでの稲刈り。これは、やってみたい気がします。
でも、せいぜい、人は2人くらいしかいません。
もちろん、機械は入ってます。
お父ちゃんが機械に乗り、お母ちゃんがその補助。
総員2名という感じですかね。

↑田植え機。これはスゴい発明だと思います。
これで米が高く売れれば、ボロ儲けですが……。
そんなわけはありませんね。

亀田郷は、もともと湿地帯だったところの水を抜いて乾田にしたので……。
どこもかしこも真っ平らです。

↑“地図にない湖”と呼ばれたころの亀田郷。
どの区画に入っても、さほどの違いはないはず。
でも、昔は違ったでしょうね。
重機もありませんから、土地を作り変えるのではなく……。
米を植えられる場所を選んで、田んぼにしたはずです。
平らでないところでは、大切な条件が違ってきます。
米作りで最も大事なもの。
すなわち、水です。

↑水入れの瞬間。ワクワクするでしょうね。
昔は、村同士、家同士で、水争いがあったようですよね。

当然それは、米作りを始めた当初からあったはずです。

こういうジオラマや絵を見ると、弥生時代のくらしは、とても平和そうに思えます。

でも、ぜったいにそうではなかったはず。
水争いレベルの小競り合いはしょっちゅうあったでしょう。
それが村と村の対立になれば、争いはエスカレートし、戦争になります。

殺し合いです。

↑戦争で殺された弥生人の骨。
敵の蔵を襲って強奪したりもしたでしょう。

ひょっとしたら、収穫した米は、簡単にはわからない場所に保管したのかも。
どこからも見える高床式倉庫などは、格好の標的ですよね。

↑『登呂遺跡(静岡県)』で復元された高床式倉庫。なお、現代の教科書では、『高床倉庫』という表記になっているようです。
ほんとにあんな目立つところに、大事な米を入れておいたのでしょうか。
ただ、収穫した米なら隠しようもありますが……。
収穫前では、どうしようもありません。
田んぼを持って逃げるわけにはいかないのです。
夜陰に乗じて、よその村の田んぼに入り、稲を刈ってしまうなんてこともあったかも知れません。
収穫期には、そこここに篝火を焚き、櫓の上から見張ったんじゃないでしょうか。

↑『吉野ヶ里遺跡(佐賀県)』で復元された物見櫓。
ひょっとしたら銅鐸は……。
櫓に吊るし、異変を知らせるために鳴らしたのかも知れません。

以後、豊作を祈る神事には、欠かせない祭器にもなっていったわけです。
豊作を脅かす一番の敵は、集落外の人間だったということです。
↓続いての写真は、こちら。

↑「み」
弥生時代と変わり映えしませんが……。
パネルには、『江戸の里』とあります。
農村風景は、弥生時代も江戸時代も、大して変わらなかったようですね。

このジオラマで表現されているのは、里山を利用した暮らしです。
里山とは、まさしく、里と山の間にある自然。
自然ですが、人が手を入れ、管理している自然です。

↑唱歌『故郷(ふるさと)』の世界ですね。
里山では、炭の材料となる落葉広葉樹(いわゆる雑木)が育てられ……。

↑伸びた幹が定期的に伐られるので、「株立ち」という特殊な形状になります。
それらの木々が落とす葉は、畑の肥料として持ち出されます。

↑「落ち葉かき」は、大切な作業でした。
したがって、雑木のひこばえ(刈られた後に出る芽)に光が当たるよう……。

また、林での作業がしやすいよう、下草が綺麗に刈られた林となります。

↑自然風に見えますが、純粋な自然林は、決してこんな景観にはなりません。
秋の七草として知られる、キキョウ、ナデシコ、オミナエシなどは……。

自然林にあっては、被圧されてしまい、繁栄できません。
しかし、人が作った人工林に適応したことにより、身近な植物として生き延びることができたのです。
さて、そんな里山ですが……。
現在は、どんどん姿を消しています。
炭を焼くための木を育てる必要はなくなり……。

↑炭焼き。3日くらい泊まり込みになる大変な作業です。
化学肥料の発達により、堆肥を作る落ち葉も不要となりました。

さらに、そこで暮らす人たちの高齢化により、里山を管理する担い手が失われています。
で、どうなるかと云うと……。
里山が消え、山に帰るわけです。
昔の村落のエリアは、「山→里山→里」というふうに分けられてました。
里山は、山と里の間にあるバッファゾーン(緩衝地帯)だったのです。

山の動物、熊や猪は、里山までは下りて来ても……。
どこかほんとうの自然とは異質なことを感じるのでしょう。
そこに定住しようとはせず、餌を探し終えると、また山に帰っていきました。
しかし、里山がなくなるとどうなるか。
山と里が、直接接することになります。

山の動物が、ひょいと山を抜けると、里に出てしまうのです。
そこには、畑があります。
作物が取りやすい状態で植えられた畑は、彼らにとってどう見えるでしょう。
「食べ放題」チケットを貰ったようなものです。

↑じゃがいも畑に踏みこんだイノシシの足跡。
イノ、シカ、サル。

猟友会も高齢化して、畑を荒らす動物を狙う銃口もありません。

↑猟友会ではないと思われます。
彼らの跳梁跋扈を防ぐためには、電気柵のような方法しかありません。

↑悲惨な事故も起きましたよね。
電気柵は、生産性を上げるための投資ではありません。
当たり前の収量を死守するための設備です。
こんなところに投資額がかさめば、疲弊するばかりです。
やがては限界集落となり、里の暮らしは立ち行かなくなるでしょう。

なんともやるせない話ですが、画期的な策は編み出せそうもありませんね。
さて、滅入るばかりなので、次に進みましょう。
↓こちらです。

↑「み」
パネルには、『稲作に伴う環境の変遷』とあります。
ジオラマで表現されているのは、縄文時代の稲作です。
以前は、稲作は弥生時代に始まるとされていました。

しかし、縄文後期の土器片から、プラントオパールが発見されたことにより、この定説は覆りました。
イネ科の植物は、吸い上げた水分中の珪酸を、細胞に蓄積する性質があります。
珪酸は、細胞内でひとつに固まり、珪酸体となります。
イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還りますが……。
珪酸体は、ガラス質であるため腐ることがなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになるのです。
その珪酸体が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるものです。

↑『吉野ヶ里遺跡(写真:佐賀県教育委員会)』。
つまり、土器から珪酸体が発見されたということは、イネ科植物が煮炊きされていたということなのです。

と云っても、縄文時代の稲作は、弥生時代のような、大規模、集約的な営みではなかったようです。
ジオラマは、河川の氾濫原で、小規模に行われてる稲作の様子です。

もちろん、この程度の生産量では、主食にはなりえないでしょう。
とりあえず植えといて、収穫できれば儲けものといった感じじゃないでしょうか。
別に、米が採れなくても、ほかに食べ物はたくさんありました。
なにしろ、縄文時代は温暖ですからね。
この時代に作られていた米は、畑みたいな乾燥地でも育つ、熱帯ジャポニカ米だったそうです。

↓さて、次の写真はこちら。

↑「み」
突然、何を思ったか、天井を撮ってます。
ドーム天井ですね。
どうやら、見学場所を移るため、ホールに戻ったようです。
↓この天井を外から見ると、こんな感じ。

現在、博物館を作るとして、こんなドーム天井が設計されることはまず無いでしょう。
↓非常に装飾的なデザインです。

ステンドガラスに施された絵柄は、鳳凰。

↑上に2羽。左右に1羽ずつ。
ドームの中心にも、ステンドガラスが嵌められてます。

この『日本館』が竣工したのは、1930(昭和5)年。
起工は、その2年前です。
よくこんな華美な装飾に予算がついたものだと感心します。
今、こんなのを作ろうとしたら、おそらくやり玉でしょう。
なお、この建物は、2008年に重要文化財に指定されてます。

↓次の写真は、これ。

↑「み」
『フナクイムシからシールド工法』というパネルです。
↓その下に展示されてるのは、こちら。

↑「み」
↓アップします。

見るからに気持ちの悪い虫です。
実は、“ムシ”と名が付いてますが、虫ではありません。
貝の仲間だそうです。
ま、船のそばにいるわけですからね。
海水生のフナクイムシは、海中の木材を食べて生きてるそうです。

↑キモい!
食べると同時に、空けた穴を巣穴にするわけです。

↑高知県安芸郡東洋町の浜に打ち上げられた流木。
しかし、ここで疑問が生じます。
海中にある木材ってのは、どんなものなんでしょう?
海底からは、木は生えません。
あるとしたら、沈没船くらい。

↑長崎沖で見つかった、元寇船。
でも、木製の船なんて、腐ちてしまうのにそう長い年月はかからないんじゃないでしょうか(元寇船は、なんで腐らないんだ?)。
ひとつの船が腐ちてしまったら、次の船には、どうやって移るのでしょう。
広い海の中で、沈没船に行き当たる確率なんて、そうそうあるものじゃないです。

↑こんなのに出会う可能性は、さらに低いでしょう。
やっぱり、浮かんでる船を狙うんですかね。
船を追いかけて、蛭みたいに貼り付くんでしょうか?

↑これじゃ、泥棒です。
でも、航行してる船に取り付くのは無理でしょう。
やっぱり、港に停泊してる間ですかね。
動き出すまでの間で、身体が潜れるだけの穴を空けなくてはなりません。

よほど歯が丈夫じゃなきゃ無理ですね。
と思って、よく調べてみたら、歯で齧ってるわけじゃありませんでした。
ギョウチュウのような体ですが、ごく一部に貝殻が残ってるのです。
元々は二枚貝ですので、貝殻は2枚付いてます。
この貝殻を、ドリルのように使って木材を削ってるそうです。
恐るべき生き物です。

↑白いのが、貝殻のドリルビット。
さらにスゴいことがあります。
水中で木材に穴を空けると、穴の表面から水を吸って、木材が膨張するのだそうです。
後戻りできなくなりますし、下手すれば潰されてしまいます。
しかし、そうはならない。
なぜかと云うと、穴の内壁に石灰質の粘液を分泌して、穴を補強しているからです。
これを観察から発見したのは、イギリスのエンジニア、マーク・ブルネル。

↑ロンドンに建つ銅像。
19世紀初頭のことです。
彼は、ひらめきました。
この習性は、トンネル掘削に応用出来るんじゃないかと。
で、誕生したのが、『シールド工法』。
これによって、テムズ川の川底を渡る『テムズトンネル』を掘ることに成功したのです。

↑19世紀半ばの『テムズトンネル』内部。日本はまだ、江戸時代です。
『シールド工法』については、↓をどうぞ。

↑「み」
↓さて、次の写真です。

↑「み」
いったい、何を意図して撮ったのか、さっぱり思い出せません。
おそらく、黄色い帽子の小学生を撮ったんだと思います。
彼らが展示内容を理解するのは、まだ難しいかも知れません。
でも、たとえ理解できなくても、こういう施設を体験するというのは良いことだと思います。
こういうのを見ると、都会に生まれたかったなと感じます。

↓さて、次です。

↑「み」
『鳥に似た新幹線』というパネル。
カワセミが、羽音を消していたとは驚きです。
でも、水の中の魚に、水上の音は聞こえるものなんですかね?
確かに子供のころ、叔父の釣りに付いていったとき……。

↑叔父ではありません。このまま転がり落ちたら、中に入ってる人は助からないんじゃないすか?
大声で喋ると怒られました。
そう言えば、池の鯉は、手を叩くと寄ってきます。

↑浅ましいです。
でもあれは、人の姿が見えるからじゃないですかね?

↑鯉に餌をやる田中角栄。1972年、総理大臣になった当日の写真だそうです。
水槽を叩けば驚きますが、あれは振動が伝わるからじゃないでしょうか?

↑音が無いなら、音に敏感にはならない気もしますが……。
ま、翼にそういう仕組みのあるカワセミが、選抜されて生き残ったと云うことは……。
効果があるということなのでしょう。

さて、このパネルに写ってる新幹線。
500系というタイプです。

今の新幹線は、鼻面が長くて膨らんでおり……。
カモノハシがおたふく風邪になったみたいで格好良くありません。

でも、この500系は違います。
シュッとしてますよね。

イケメン新幹線です。
SF的というか、未来的なフォルムです。
今はまだ使われてるようですが、近いうちにラストランを迎えるという噂です。
惜しいですね。
カモノハシの方が、空気抵抗とかで有利なのかも知れませんが……。
日本の技術力を象徴する新幹線には、デザイン面も重視してもらいたいものです。

↑イケメンとブサイクが並んだところ。
↓次の写真です。

↑「み」
このように、さまざまな年代の子供たちで一杯です。
ここで放牧してレポートを書かせれば、修学旅行の半日、先生方は楽を出来ます。
お茶でもしてるのかも知れませんね。
『国立科学博物館』には、カフェがあります。
コーヒーや紅茶が290円と、超リーズナブル。

↑もちろん、税込みです。
フードメニューも、ビーフカレーやミートソースパスタが、600円です。

↓次は、こちら。

↑「み」
入館してすぐ、リュックを預けた中庭のロッカーです。
と云っても、これで帰るわけではありません。
このときは、特別展をやってたんです。
『恐竜博2016』。
副題は、『二大肉食恐竜、夢の共演!』。

先に書いたように、『国立科学博物館』の常設展の入館料は、高校生以下は無料です。

つまり、小学生から高校生まで、あまた蝟集している修学旅行生は……。
すべて、タダで常設展を見てるわけです。

↑これは、ダダ。
当然のことながら、ひどく混んでます。
やかましいです。
いいかげんうんざりして来ました。
しかし、特別展には、お金を払わないと入れません。
普段のわたしだったら……。
別料金を払ってまで、特別展を見ることは無かったかも知れません。
でも、とにかく常設展のカオスから逃れて、静かに鑑賞したい気分になってたので……。
ほぼ、即決で『恐竜博2016』に入ることにしました。

安くありませんよ。
なんと!
大人の当日券は、1,600円です(高校生以下は、600円)。
常設展の大人の入館料は、620円ですから、3倍近くになります。
両方合わせると、2,220円。
大散財ですね。
フィラリアに侵され、腹水が溜まっていたそうです。
しかし、ホルマリン液で保存された臓器を、後年に再検査したところ……。
直接の死因は、癌だったようです。

↑上野氏とハチ公は、東大の庭でようやく出会うことが出来ました。
ハチの剥製が造られたのは、『国立科学博物館』の前身『東京科学博物館』です。
ハチの遺体は、実際にはそうとう汚れ、臭気も酷かったそうです。
毛の洗浄、折れた耳の修復などを行い、元気なころのハチを再現しました。
制作者のひとり、本田晋は……。
ハチの胴体に、「いつ死に、いつ作られ、誰が作ったのか」を記載した封筒をこっそり収めたと、後年述懐しています。
何万点も剥製を作った人ですが、そんなことをしたのはハチだけだったとか。
さて、もう一度、ハチの剥製を見てみましょう。

顔つきが、今の秋田犬とは違うような気がします。
今の秋田犬は、もっと潰れた顔をしてますよね。
プーチン犬とか。

極端なのは、わさおです。

ハチが生まれたのは、秋田県大館市で、両親とも名前の付いた犬ですから、おそらく純血種でしょう。
東大教授のもとに送られたわけですからね。
わたしは、ハチの顔の方が好きです。
今の秋田犬は、なんであんなブサい顔になっちゃったんですかね。
さて、キリがないので、次の犬に移ります。
上段の右側にいるのは、カラフト犬です。

熊みたいですね。
これも、たいへん有名な犬の剥製です。
名前は、ジロ。
そう、南極観測隊と共に南極に渡り……。
そのまま南極に置き去りにされたにもかかわらず、1年後に生きて発見された犬です。
生き残ったのは、15頭のうち、タロとジロの兄弟犬2頭のみ。

↑置き去りにした隊員を恨むこともなく、尻尾を振ってじゃれついてきたそうです。
犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びました。
氷に閉じ込められた南極観測船『宗谷』を救出したのは、アメリカ海軍の砕氷艦『バートン・アイランド号』。

犬を置き去りにすることは、この艦長の命令だったのです。
この話を続けようとしたら、まったく筆が進まなくなってしまいました。
なので、カラフト犬の話をします。
名前のとおり、樺太や千島列島で作り出された犬種です。
アイヌなどの北方民族が、犬ゾリや猟犬として使ってました。

熊のような外見からもわかりますが、寒冷地に適した長毛が特徴です。
氷点下40度にも耐えるそうです。
反面、暑さにはからきし弱く、気温が10度を超えると消耗してしまうとか。
日本犬ブームですが、まったく見かけないなと思ったら、すでに絶滅してしまったそうです。
ひとつには、車や機械が普及し、使役犬としての役目が終わったこと。
そのため、純血種を守る必然性がなくなり、雑種化が進みました。
野犬となったものは、エキノコックス症の発生による野犬狩りで掃討されてしまったそうです。
1970年代のようです。

↑北海道旅行に行ったときは、バスガイドさんから、キタキツネには絶対に触るなと言われました。バスが見えると道路に出てくるキツネがいるんです。ガイドさんは、“観光ギツネ”と呼んでました。
さて、3匹目の犬です。
こちらは、甲斐犬。

甲斐黒号という名前だそうです。
と云っても、誰も知らないでしょう。
でも、この犬は、ものすごい記録を持ってるのです。
生まれたのは、昭和13(1938)年1月。

↑国家総動員法が制定された年です。
亡くなったのが、昭和41(1966)年8月。

↑ビートルズが来日した年です。
なんと、28年7ヶ月も生きたのです。
甲斐犬が、とりわけ長命というわけではありません。
平均寿命は、14~16年のようです。
28年というのは、平均寿命の倍生きたわけです。
人間にしたら、150歳くらいになるんじゃないですか。
甲斐犬は、昭和9(1934)年、天然記念物に指定されてます。

もちろん、出身は山梨県です。
昭和4年に発見され、以後、保護活動が始められたそうです。
体格は中型犬。

↑かなりなイケメンくん。
北海道犬や琉球犬と同様、弥生時代以前からの特徴を有しているそうです。
山岳地帯での猟に使われてきたそうです。
真っ黒い姿で疾走する様は、弾丸のようだとか。

↑黒ラブみたいですね。
気性が荒く、集団での猟には向かないそうです。
飼い主以外には心を開かず、逆に飼い主には忠誠を尽くします。

↑気品があります。
そのため、「一銃一狗の単独猟」において、優れた狩猟性が発揮されるとか。
天然記念物ですが、普通に飼うことは出来るようです。
でも、ペットショップに並ぶことはないので、ブリーダーに直接連絡を取る必要があるとか。

↑子熊みたいですね。
販売価格は、15万円くらいからみたいです。
この値段が、ほかの犬種と比べて高いのか安いのか、わたしにはわかりません。
でも、わたしの予想よりは安いなという気がします。
しかし、この犬を都会で繋いで飼うのは、気の毒な気がしますね。
昔、シベリアンハスキーがブームになったことがあります。
狼みたいな風貌の犬が、繋がれて飼われてる姿は、気の毒に見えました。

↑こいつは、あんまり不満を感じてないようですが。
この犬は、名前のとおり、シベリアが故郷ですので……。

日本の夏は暑すぎます。

最近、街で見ることはほとんどなくなりました。
やっぱり、日本の平地では長生きできないんじゃないでしょうか。
何かの本で読んだ話ですが……。
異常に竹輪の好きなシベリアンハスキーがいたそうです。
竹輪を1本丸ごと放り投げると、空中でかぶりつき、着地したときには飲みこんでたそうです。

↑こういうことをしたら、手ごと食べられたでしょう。
いったいどれくらい食べるのかと思った飼い主さんが、竹輪を大量に買って試してみたとか。
でも、26本で竹輪が無くなってしまい、そのポテンシャルは計れなかったそうです。
あまり利口な犬種ではないようです。

↑侵入を企ててるようです。
↓さて、次の写真はこちら。

↑「み」
これは、ニホンオオカミの骨格標本です。
ニホンオオカミは……。
明治38(1905)年、奈良県で捕獲されて以来見つかっておらず、絶滅したものとされています。

↑だそうです。
オオカミと云えば、平井和正のウルフガイを思い起こします。

でも、ニホンオオカミは、そんな格好いいものではありませんでした。
↓こちらが、ニホンオオカミの剥製です。

↑これは、作り方がヘタすぎなんじゃないでしょうか。
この剥製も、『国立科学博物館』にあるようですが……。
どうやらわたしは見過ごしたみたいです。
骨格標本は『日本館』にあり、剥製は『地球館』にあります。

しかし、見過ごしたのも、↓この剥製を見れば、むべなるかなです。

↑どう考えても、ヘタクソです。
オオカミという語から連想する精悍さ、迫力は、まるでありません。

↑ハイイロオオカミです。
実際、大きさは中型犬程度。
体重も、15㎏前後らしいです。
昔、山犬と呼ばれてたのが、ニホンオオカミのようです。

↑もののけ姫の山犬。違うよなー。
現在、ニホンオオカミと一番近い日本犬は、柴犬だとか。

↑タバコ屋で店番をする柴犬。キュウリが好物。
現在の犬との大きな違いは、夏と冬で毛色が変化したこと。
↓は、『和歌山県立自然博物館』に展示されてる剥製。

↑これは、多少はオオカミっぽいですが、やはりどこか妙です。
これは、冬毛でしょうね。
なお、ニホンオオカミの剥製は、国内に3体、オランダに1体あるのがすべてだそうです。
日本の残り1体は、東京大学農学部にあります。

↑これが一番マシでしょうか。でも、なんかヘンですね。脚とか。
こちらも冬毛ですね。
どうも、顔つきは、標本製作者の思い入れに影響されるみたいですね。
和歌山の標本は、頭から鼻にかけて段差があり、日本犬のようです。
オランダにある1体は、江戸時代にシーボルトが持ち帰ったものだそうです。

↑日本の植物を初めてヨーロッパに紹介した本。
↓さて、続く1体は、こちら。

↑「み」
これも、日本列島から絶滅してしまった動物です。
ニホンカワウソ。

↑これまた、ヘンな形です。これじゃ、管狐ですよ。ほんとに中に骨が入ってるのでしょうか。東京都羽村市立動物園所蔵。プレートには、『明治40年3月18日購入 31円』とあります。
ニホンオオカミと比べても、かなり大きな動物だったことがわかります。

↑2体は上下にあるのですが、2体を入れて撮った写真がこれしか見つかりませんでした。このあたり、撮影者の一人としても、反省ですね。
尻尾を入れない体長で、80㎝くらい。
尻尾まで入れると、1.3メートルくらいになります。

↑1974年6月発行の切手。
日本列島で最後に目撃されたのは、1979年。
↓なんと、8ミリフィルムの映像が残ってました。
以後、目撃例がなく、2012年に絶滅種とされました。
絶滅させたのは、もちろん人間です。
毛皮が保温力に優れていたため、乱獲されたのです。

さらに、河川の護岸工事により、住処が失われ……。

↑多摩川です。まだ、こんな工事が続けられてるようです。
河川の汚染により、餌も奪われました。
これだけの体格ですから、生存するにはそうとうな魚介類が必要だったでしょう。

↑体格の比較。⑥アメリカミンク ⑦エゾクロテン ⑧ホンドテン ⑨ニホンカワウソ。それ以外の番号は、こちらを御覧ください。
残念でなりません。
昔話に出てくるカワウソは、キツネやタヌキと同様、トリックスターです。
妖怪視されてた地域も多く……。

室町時代の国語辞典『下学集』には、「獺(かわうそ)、老いて河童に成る」と書かれてるとか。

↑今の子供に、効果があるんでしょうか。
ニホンカワウソはいなくなりましたが、カワウソ自体は、水族館でも見られます。
とても愛嬌のある動物で、とても妖怪の一種には見えません。
↓カワウソとタッチできる水族館は、大人気。
↓夏には、流しカワウソを見られる水族館もあります。
ペットとして買ってる人もいるようです。
最大の魅力は、お風呂の中で、一緒に遊べること。
猫ではぜったいに出来ません。
↓飼い主の腕に絡みついたり、とにかく可愛いです。
これらのカワウソは、すべて、コツメカワウソという種類。
名前のとおり、爪が小さいので、危険が少ないそうです。
体格も、ニホンカワウソよりずっと小さく、猫くらい。
↑前足が器用なので、異様に可愛いです。
わたしも飼いたいなと思って、ネットを探したんですが……。
信じられない値段でした。
なんと、70万円が相場だとか。

↑飼えるのは、セレブだけ。
ひとつは、人工繁殖が非常に難しいこと。
犬や猫のように、ブリーダーが存在しないんでしょうね。
となれば、野生の子供を捕獲してくるほかはありません。
入荷自体が非常に少なく、珍種専門のショップでも、年に1,2匹入るかどうかとのこと。
これで、寿命は犬よりも短く、12年ほどです。
しかも、飼うのも大変。
まず、運動量が多いので、広い場所が必要。
水浴びの施設も要ります。
↑このお宅のお風呂、すごく広そうです。
餌も、生の魚介類になります。
普通の家では、とても飼えないと思います。
↑フェレットフードなども食べるようですが、新鮮な魚介類も必要だとか。
ここで思いついたのですが、漁港で飼ったらどうでしょうか。
広い場所も、水浴びの出来る水槽も、元からあります。

魚介類だって、市場に出せない雑魚がたくさん確保出来るはず。

↑とある漁港で捨てられた雑魚。保健所の指導により、一般人が食用に貰い受けることは出来ないとか。
海の魚は、食べられないですかね?
塩味がついてて、むしろ喜ぶのでは。
↑美味しそうですが、行列してまで食べますかね。スーパーで、1匹100円でしょ。
で、カワウソがいることで、漁港に人が呼べます。
子供連れの家族が、たくさんやって来るはず。
そうした人たち向けに、魚介類を提供するコーナーも作れば、ぜったいに流行りますよ。

↑熱海魚市場『浜焼きコーナー』。
このアイデア、どこかで採用してくれませんかね。
アイデア料は要りません。
パクリ放題でけっこう。
ただし、わたしが行ったらタダにしてください。
大丈夫、カワウソほどは食べませんから。

↑ホッケです。これ一匹で満腹しそう。
ただし、ビールはたくさん飲みます。

↑どんどん持って来い。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
またまた、人間の暮らしに戻って来ました。
パネルには、『弥生の米づくり』とあります。
現代の田んぼと比べて、圧倒的に違うのは、人の数ですね。

現在、わたしの住む亀田郷の田んぼは、区画整理されてます。
すべて、綺麗な長方形です。

いったいあれは、何メートル×何メートルなのでしょうか。
50メートルプールよりは広い感じがします。
人が入ってるのを見るのは、田起こし、田植え、農薬や肥料の散布、稲刈りでしょうか。

↑コンバインでの稲刈り。これは、やってみたい気がします。
でも、せいぜい、人は2人くらいしかいません。
もちろん、機械は入ってます。
お父ちゃんが機械に乗り、お母ちゃんがその補助。
総員2名という感じですかね。

↑田植え機。これはスゴい発明だと思います。
これで米が高く売れれば、ボロ儲けですが……。
そんなわけはありませんね。

亀田郷は、もともと湿地帯だったところの水を抜いて乾田にしたので……。
どこもかしこも真っ平らです。

↑“地図にない湖”と呼ばれたころの亀田郷。
どの区画に入っても、さほどの違いはないはず。
でも、昔は違ったでしょうね。
重機もありませんから、土地を作り変えるのではなく……。
米を植えられる場所を選んで、田んぼにしたはずです。
平らでないところでは、大切な条件が違ってきます。
米作りで最も大事なもの。
すなわち、水です。

↑水入れの瞬間。ワクワクするでしょうね。
昔は、村同士、家同士で、水争いがあったようですよね。

当然それは、米作りを始めた当初からあったはずです。

こういうジオラマや絵を見ると、弥生時代のくらしは、とても平和そうに思えます。

でも、ぜったいにそうではなかったはず。
水争いレベルの小競り合いはしょっちゅうあったでしょう。
それが村と村の対立になれば、争いはエスカレートし、戦争になります。

殺し合いです。

↑戦争で殺された弥生人の骨。
敵の蔵を襲って強奪したりもしたでしょう。

ひょっとしたら、収穫した米は、簡単にはわからない場所に保管したのかも。
どこからも見える高床式倉庫などは、格好の標的ですよね。

↑『登呂遺跡(静岡県)』で復元された高床式倉庫。なお、現代の教科書では、『高床倉庫』という表記になっているようです。
ほんとにあんな目立つところに、大事な米を入れておいたのでしょうか。
ただ、収穫した米なら隠しようもありますが……。
収穫前では、どうしようもありません。
田んぼを持って逃げるわけにはいかないのです。
夜陰に乗じて、よその村の田んぼに入り、稲を刈ってしまうなんてこともあったかも知れません。
収穫期には、そこここに篝火を焚き、櫓の上から見張ったんじゃないでしょうか。

↑『吉野ヶ里遺跡(佐賀県)』で復元された物見櫓。
ひょっとしたら銅鐸は……。
櫓に吊るし、異変を知らせるために鳴らしたのかも知れません。

以後、豊作を祈る神事には、欠かせない祭器にもなっていったわけです。
豊作を脅かす一番の敵は、集落外の人間だったということです。
↓続いての写真は、こちら。

↑「み」
弥生時代と変わり映えしませんが……。
パネルには、『江戸の里』とあります。
農村風景は、弥生時代も江戸時代も、大して変わらなかったようですね。

このジオラマで表現されているのは、里山を利用した暮らしです。
里山とは、まさしく、里と山の間にある自然。
自然ですが、人が手を入れ、管理している自然です。

↑唱歌『故郷(ふるさと)』の世界ですね。
里山では、炭の材料となる落葉広葉樹(いわゆる雑木)が育てられ……。

↑伸びた幹が定期的に伐られるので、「株立ち」という特殊な形状になります。
それらの木々が落とす葉は、畑の肥料として持ち出されます。

↑「落ち葉かき」は、大切な作業でした。
したがって、雑木のひこばえ(刈られた後に出る芽)に光が当たるよう……。

また、林での作業がしやすいよう、下草が綺麗に刈られた林となります。

↑自然風に見えますが、純粋な自然林は、決してこんな景観にはなりません。
秋の七草として知られる、キキョウ、ナデシコ、オミナエシなどは……。

自然林にあっては、被圧されてしまい、繁栄できません。
しかし、人が作った人工林に適応したことにより、身近な植物として生き延びることができたのです。
さて、そんな里山ですが……。
現在は、どんどん姿を消しています。
炭を焼くための木を育てる必要はなくなり……。

↑炭焼き。3日くらい泊まり込みになる大変な作業です。
化学肥料の発達により、堆肥を作る落ち葉も不要となりました。

さらに、そこで暮らす人たちの高齢化により、里山を管理する担い手が失われています。
で、どうなるかと云うと……。
里山が消え、山に帰るわけです。
昔の村落のエリアは、「山→里山→里」というふうに分けられてました。
里山は、山と里の間にあるバッファゾーン(緩衝地帯)だったのです。

山の動物、熊や猪は、里山までは下りて来ても……。
どこかほんとうの自然とは異質なことを感じるのでしょう。
そこに定住しようとはせず、餌を探し終えると、また山に帰っていきました。
しかし、里山がなくなるとどうなるか。
山と里が、直接接することになります。

山の動物が、ひょいと山を抜けると、里に出てしまうのです。
そこには、畑があります。
作物が取りやすい状態で植えられた畑は、彼らにとってどう見えるでしょう。
「食べ放題」チケットを貰ったようなものです。

↑じゃがいも畑に踏みこんだイノシシの足跡。
イノ、シカ、サル。

猟友会も高齢化して、畑を荒らす動物を狙う銃口もありません。

↑猟友会ではないと思われます。
彼らの跳梁跋扈を防ぐためには、電気柵のような方法しかありません。

↑悲惨な事故も起きましたよね。
電気柵は、生産性を上げるための投資ではありません。
当たり前の収量を死守するための設備です。
こんなところに投資額がかさめば、疲弊するばかりです。
やがては限界集落となり、里の暮らしは立ち行かなくなるでしょう。

なんともやるせない話ですが、画期的な策は編み出せそうもありませんね。
さて、滅入るばかりなので、次に進みましょう。
↓こちらです。

↑「み」
パネルには、『稲作に伴う環境の変遷』とあります。
ジオラマで表現されているのは、縄文時代の稲作です。
以前は、稲作は弥生時代に始まるとされていました。

しかし、縄文後期の土器片から、プラントオパールが発見されたことにより、この定説は覆りました。
イネ科の植物は、吸い上げた水分中の珪酸を、細胞に蓄積する性質があります。
珪酸は、細胞内でひとつに固まり、珪酸体となります。
イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還りますが……。
珪酸体は、ガラス質であるため腐ることがなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになるのです。
その珪酸体が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるものです。

↑『吉野ヶ里遺跡(写真:佐賀県教育委員会)』。
つまり、土器から珪酸体が発見されたということは、イネ科植物が煮炊きされていたということなのです。

と云っても、縄文時代の稲作は、弥生時代のような、大規模、集約的な営みではなかったようです。
ジオラマは、河川の氾濫原で、小規模に行われてる稲作の様子です。

もちろん、この程度の生産量では、主食にはなりえないでしょう。
とりあえず植えといて、収穫できれば儲けものといった感じじゃないでしょうか。
別に、米が採れなくても、ほかに食べ物はたくさんありました。
なにしろ、縄文時代は温暖ですからね。
この時代に作られていた米は、畑みたいな乾燥地でも育つ、熱帯ジャポニカ米だったそうです。

↓さて、次の写真はこちら。

↑「み」
突然、何を思ったか、天井を撮ってます。
ドーム天井ですね。
どうやら、見学場所を移るため、ホールに戻ったようです。
↓この天井を外から見ると、こんな感じ。

現在、博物館を作るとして、こんなドーム天井が設計されることはまず無いでしょう。
↓非常に装飾的なデザインです。

ステンドガラスに施された絵柄は、鳳凰。

↑上に2羽。左右に1羽ずつ。
ドームの中心にも、ステンドガラスが嵌められてます。

この『日本館』が竣工したのは、1930(昭和5)年。
起工は、その2年前です。
よくこんな華美な装飾に予算がついたものだと感心します。
今、こんなのを作ろうとしたら、おそらくやり玉でしょう。
なお、この建物は、2008年に重要文化財に指定されてます。

↓次の写真は、これ。

↑「み」
『フナクイムシからシールド工法』というパネルです。
↓その下に展示されてるのは、こちら。

↑「み」
↓アップします。

見るからに気持ちの悪い虫です。
実は、“ムシ”と名が付いてますが、虫ではありません。
貝の仲間だそうです。
ま、船のそばにいるわけですからね。
海水生のフナクイムシは、海中の木材を食べて生きてるそうです。

↑キモい!
食べると同時に、空けた穴を巣穴にするわけです。

↑高知県安芸郡東洋町の浜に打ち上げられた流木。
しかし、ここで疑問が生じます。
海中にある木材ってのは、どんなものなんでしょう?
海底からは、木は生えません。
あるとしたら、沈没船くらい。

↑長崎沖で見つかった、元寇船。
でも、木製の船なんて、腐ちてしまうのにそう長い年月はかからないんじゃないでしょうか(元寇船は、なんで腐らないんだ?)。
ひとつの船が腐ちてしまったら、次の船には、どうやって移るのでしょう。
広い海の中で、沈没船に行き当たる確率なんて、そうそうあるものじゃないです。

↑こんなのに出会う可能性は、さらに低いでしょう。
やっぱり、浮かんでる船を狙うんですかね。
船を追いかけて、蛭みたいに貼り付くんでしょうか?

↑これじゃ、泥棒です。
でも、航行してる船に取り付くのは無理でしょう。
やっぱり、港に停泊してる間ですかね。
動き出すまでの間で、身体が潜れるだけの穴を空けなくてはなりません。

よほど歯が丈夫じゃなきゃ無理ですね。
と思って、よく調べてみたら、歯で齧ってるわけじゃありませんでした。
ギョウチュウのような体ですが、ごく一部に貝殻が残ってるのです。
元々は二枚貝ですので、貝殻は2枚付いてます。
この貝殻を、ドリルのように使って木材を削ってるそうです。
恐るべき生き物です。

↑白いのが、貝殻のドリルビット。
さらにスゴいことがあります。
水中で木材に穴を空けると、穴の表面から水を吸って、木材が膨張するのだそうです。
後戻りできなくなりますし、下手すれば潰されてしまいます。
しかし、そうはならない。
なぜかと云うと、穴の内壁に石灰質の粘液を分泌して、穴を補強しているからです。
これを観察から発見したのは、イギリスのエンジニア、マーク・ブルネル。

↑ロンドンに建つ銅像。
19世紀初頭のことです。
彼は、ひらめきました。
この習性は、トンネル掘削に応用出来るんじゃないかと。
で、誕生したのが、『シールド工法』。
これによって、テムズ川の川底を渡る『テムズトンネル』を掘ることに成功したのです。

↑19世紀半ばの『テムズトンネル』内部。日本はまだ、江戸時代です。
『シールド工法』については、↓をどうぞ。

↑「み」
↓さて、次の写真です。

↑「み」
いったい、何を意図して撮ったのか、さっぱり思い出せません。
おそらく、黄色い帽子の小学生を撮ったんだと思います。
彼らが展示内容を理解するのは、まだ難しいかも知れません。
でも、たとえ理解できなくても、こういう施設を体験するというのは良いことだと思います。
こういうのを見ると、都会に生まれたかったなと感じます。

↓さて、次です。

↑「み」
『鳥に似た新幹線』というパネル。
カワセミが、羽音を消していたとは驚きです。
でも、水の中の魚に、水上の音は聞こえるものなんですかね?
確かに子供のころ、叔父の釣りに付いていったとき……。

↑叔父ではありません。このまま転がり落ちたら、中に入ってる人は助からないんじゃないすか?
大声で喋ると怒られました。
そう言えば、池の鯉は、手を叩くと寄ってきます。

↑浅ましいです。
でもあれは、人の姿が見えるからじゃないですかね?

↑鯉に餌をやる田中角栄。1972年、総理大臣になった当日の写真だそうです。
水槽を叩けば驚きますが、あれは振動が伝わるからじゃないでしょうか?

↑音が無いなら、音に敏感にはならない気もしますが……。
ま、翼にそういう仕組みのあるカワセミが、選抜されて生き残ったと云うことは……。
効果があるということなのでしょう。

さて、このパネルに写ってる新幹線。
500系というタイプです。

今の新幹線は、鼻面が長くて膨らんでおり……。
カモノハシがおたふく風邪になったみたいで格好良くありません。

でも、この500系は違います。
シュッとしてますよね。

イケメン新幹線です。
SF的というか、未来的なフォルムです。
今はまだ使われてるようですが、近いうちにラストランを迎えるという噂です。
惜しいですね。
カモノハシの方が、空気抵抗とかで有利なのかも知れませんが……。
日本の技術力を象徴する新幹線には、デザイン面も重視してもらいたいものです。

↑イケメンとブサイクが並んだところ。
↓次の写真です。

↑「み」
このように、さまざまな年代の子供たちで一杯です。
ここで放牧してレポートを書かせれば、修学旅行の半日、先生方は楽を出来ます。
お茶でもしてるのかも知れませんね。
『国立科学博物館』には、カフェがあります。
コーヒーや紅茶が290円と、超リーズナブル。

↑もちろん、税込みです。
フードメニューも、ビーフカレーやミートソースパスタが、600円です。

↓次は、こちら。

↑「み」
入館してすぐ、リュックを預けた中庭のロッカーです。
と云っても、これで帰るわけではありません。
このときは、特別展をやってたんです。
『恐竜博2016』。
副題は、『二大肉食恐竜、夢の共演!』。

先に書いたように、『国立科学博物館』の常設展の入館料は、高校生以下は無料です。

つまり、小学生から高校生まで、あまた蝟集している修学旅行生は……。
すべて、タダで常設展を見てるわけです。

↑これは、ダダ。
当然のことながら、ひどく混んでます。
やかましいです。
いいかげんうんざりして来ました。
しかし、特別展には、お金を払わないと入れません。
普段のわたしだったら……。
別料金を払ってまで、特別展を見ることは無かったかも知れません。
でも、とにかく常設展のカオスから逃れて、静かに鑑賞したい気分になってたので……。
ほぼ、即決で『恐竜博2016』に入ることにしました。

安くありませんよ。
なんと!
大人の当日券は、1,600円です(高校生以下は、600円)。
常設展の大人の入館料は、620円ですから、3倍近くになります。
両方合わせると、2,220円。
大散財ですね。
ということでわたしは、フーコーは、一種の興行師だったのではないかと思いました。
わざわざ、巨大な振り子を作り、それを見世物にしたのだと。

でも、違ったんです。
振り子は、巨大である必要があるのです。
というのは、小さい振り子では、軌道の変化が確認できるまで、振りが続かないのです。

まず、支点での摩擦や風の影響を小さくするためには、重たいおもりが必要です。
そして、長く振り続けるためには、振幅を大きくしなければなりません。
すなわち、長いケーブルが必要なのです。
ということで、フーコーの振り子は、巨大でなければならないというわけです。
これが逆に興行的に受けて、万国博覧会などで展示されることとなったのでしょう。
さて。
それではなぜ、軌道が変わるのかということですが……。
実は逆で、振り子の軌道は変わらないのです。
変わっていくように見える、ということです。
変わっていくのは、見ているわたしたちの立ち位置なのです。
一番わかり易い例は、北極のてっぺんです。
ここに、振り子を設置したとします。
振り子は、外からの力が加わらない限り、いつまでも同じ方向に振り続ける性質をもっています。
つまり、振り子が振れる向きは、宇宙空間に対して一定になります。
しかし、見る人が立っている地表面は、地球の自転により左に回転しています。
すると、まるで振り子の振れる方向が、右に回転しているように見えるのです。

↑上の図を見つけたとき、『コリオリの力』というのが気になりました。
ココリコじゃありませんよ。

Wikiによると……。
『コリオリの力とは、回転座標系上で移動した際に移動方向と垂直な方向に移動速度に比例した大きさで受ける慣性力の一種』だそうです。
さっぱりわかりません。
どうやらわたしには……。
一流の狙撃手になる資格が無いようです。
は?、と思われる方もおられると思います。
実は、長距離狙撃を成功させるためには、『コリオリの力』を理解してなければならないのです。
地球の自転により、弾道が変わってしまうからです。
もちろん、ゴルゴ13は、この理論に習熟しています。

実際、ゴルゴ13が、『コリオリの力』を計算して狙撃するというシーンがあるそうです(参照)。
さて。
実は、わたしが理解できたのは……。
北極点でのフーコーの振り子の説明だけです。
北極点以外の場所を考えると、頭の中で糸がこんがらがります。
さらに、赤道では振れる向きが変わらないというのは、さらにさっぱりわかりません。
鉄棒の大車輪みたいに振れそうですけど。

赤道は、自転の影響を、一番受けているはずです。
赤道の距離は、約4万キロ。
これを、24時間で一周してるわけです。
これを時速になおすと、ぶったまげますよ。
4万キロ÷24時間≒1,667㎞/h。
音速(1,225㎞/h)を遥かに超えてます。

↑この人、なんでいつもこのポーズなんですかね?
赤道に住む人は、どうして立っていられるのでしょう。
さっぱりわかりません。
↓『ヒグマ渡来の歴史』。

↑「み」
↓だそうです(説明略)。

↑「み」
↓コウモリだけが知っている(説明略)。

↑「み」。こんな雑な写真1枚から、説明なんかできまへん。
↓これは、知ってます。

↑「み」
実感として感じたこともあります。
動物ではなく、植物です。
前の会社で、北海道に社員旅行に行ったんです。
当時、新潟空港から、北海道の女満別空港まで直行便がありました。

オホーツク海方面に便が良かったんですね。
『小清水原生花園』などを見学しました。

↑わたしが行ったときは、こんなに花盛りではありませんでした。
一番面白かったのは、網走刑務所でした。

↑天井にいるフンドシの人物は「昭和の脱獄王」白鳥由栄。
網走刑務所を含め、4回脱獄しました。
網走刑務所では、鉄枠に味噌汁を噴きかけ続けて錆びさせて外し……。
天井の木枠を抜けるときは、肩の関節を外したそうです。
このときの見学では、お土産に網走刑務所のゾーリを買って帰り、母に呆れられました。

↑これこれ。
玄関に出すことを固く禁じられたので、ベランダの水やりのときに履いてました。
どうも水に弱いらしく、しばらくすると、バラバラに分解してしまいました。
話が逸れました。
その旅行のとき、道端の植物が、やたらとデカいことに驚きました。
↓の解説文にあるとおり、確かフキも見ましたね。

トトロが傘にしたフキみたいにデカかったです。

↑これは秋田の蕗ですが、このくらいあった気がします。
秋田蕗は食用になるようですが、北海道のも食用なんですかね?
ものすごく食べでがありそうです。
それとデカかったのが、水芭蕉でした。
↓江間章子(新潟県上越市出身)作詞の『夏の思い出』は、とても好きな曲です。
「♪水芭蕉の花が咲いている 夢見て咲いている 水のほとり」というフレーズが印象的ですね。
水芭蕉には、可憐な花のイメージを抱いてました。

↑尾瀬の水芭蕉。思っている以上に大きい花だということがわかります。
ところが、北海道の水芭蕉は違いました。
まるで、白菜が立ってるみたいでした。

↑北海道石狩市『マクンベツ湿原』。この写真は、まだ成長途上のようです。大きいものは、1メートルを超えるとか。白菜どころではありません。
まさに、「北海道はでっかいどう」なんですね。

↓そうそう、『ベルクマンの法則』でした。

↑「み」。書かれてる内容については、↓で説明します。
↓イノシシが、3体並んでます。

↑「み」
左から、長野県、山口県、西表島のイノシシ。
もちろん、すべて成体のイノシシです。
明らかに、大きさが違います。
ベルクマンの法則は、1847年、ドイツの生物学者クリスティアン・ベルクマンがに発表したものです。
↓復習してみましょう。
+++++++++++++++++++++++++++++++
『恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する(Wikipedia)』
+++++++++++++++++++++++++++++++
ではなぜ、寒冷な地では身体がデカくなり、温暖な地では小さくなるのかと云うと……。
体温を維持するためには、身体が大きい方が得か、小さい方が得かという話です。
恒温動物は、体内で常に熱を生産しています。
その熱は、体表面から放出されます。
体内での熱生産量は体重に比例し、放熱量は体表面積に比例します。
体長の3乗が体重であり、体長の2乗が体表面積です。

つまり、熱生産量は体長の3乗に、放熱量は体長の2乗に比例します。
これは、体長が大きくなるにつれ、体重当たりの体表面積は小さくなることを意味してます。
寒冷な地域では、体温を維持するために、熱生産量を高め、放熱を抑える必要がありますから……。
体重あたりの表面積は小さい方がいい。
すなわち、大型である方が有利となります。

↑北海道の紋別で仕留められたヒグマ。400キロあったそうです。
逆に温暖な地域では、放熱が大事になりますから、体重あたりの表面積は大きい方がいい。
つまり、小型である方が有利ということです。
この法則はあくまで、恒温動物におけるものです。
変温動物では、逆になる場合が多いです。
虫などになると、寒冷地では活動期間が短く、大きくなれません。
熱帯の方が、巨大な昆虫がいますよね。

↑世界一大きいキリギリス『ニューギニアオオコノハギス』。さぞやかましいでしょうね。
蛇などの爬虫類では、体温を上げるためには日光浴をしなければなりません。
身体が大きいと、体温が上がるまで時間がかかります。
その間、活動できなくなってしまいます。
アナコンダとなどの巨大な蛇は、体温を上げる必要のない暑い地域に住んでます。

↑とっ捕まったアナコンダ。このサイズになると、ワニを丸呑みにするそうです。
↓ユキツバキとヤブツバキの分布図。

↑「み」
↓解説です。

↑「み」
上の図で、濃い緑色の部分は、両方のツバキの分布がない地域。
それを囲むように、日本海側と太平洋側の海岸で、ヤブツバキの分布が北の方まで伸びてます。
これはおそらく、川に落ちた種が海に出て……。
それを、海流が運ぶからでしょう。

↑種はかなり大粒です。
日本海側は、対馬海流が北上してます。
でも、太平洋側では親潮が南下してます。
おそらく、対馬海流に乗った種の一部は、そのまま津軽海峡を抜け……。
親潮に引きずられて南下し、海岸に漂着するんだと思います。
つまり、日本海側と太平洋側では、種の流れる方向が逆ということです。

↓樹形の違い。

↑「み」
ユキツバキは、冬期、雪に潰された状態になります。
このことから、耐寒性の強い樹木と誤解されがちですが……。
逆です。
耐寒性は、ヤブツバキよりも劣ります。
雪の中は、風も吹かず、温度も0度前後に保たれます。
いわば、雪の布団をかぶって、ぬくぬくと過ごしているのです。

なので、ユキツバキを、雪の積もらない海岸沿いなどに植えると……。
寒風にやられ、枯れることもしばしばです。
北関東などでも、まず育たないでしょう。
↓ガイコツ。

↑「み」
沖縄県に住んでた、港川人です。
これは、『港川1号』と呼ばれる人骨のレプリカ。

↑「み」
沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の島尻郡八重瀬町字長毛)で発見されたことから、こう呼ばれてます。
全身骨格の形で残っている日本の人骨の中では、最も古いものだそうです。
肋骨は、造り物のようですね。
港川人の身長は、男性で155㎝、女性で145㎝程度。
ちっちぇーと思われるかもしれませんが……。
これは、江戸時代の日本人の平均とほぼ同じです。

↑しかし、こんなに体重があったんですか? 明らかにメタボですよ。京は裕福だったからでしょうか。
かつて、港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきました。
しかし、近年の研究で、本土の縄文人とは異なる集団だった可能性が高いとされてます。
オーストラリア先住民や、ニューギニアの集団に近いとのことです。
↓『港川1号』から復元された顔です。

確かに、ニューギニア系ですね。
↓縄文と弥生の食生活。

↑「み」
縄文時代は、常に飢えに怯えるその日暮らしで……。
弥生時代に入り、農耕が始まると、豊かで平和な暮らしが出来るようになった。

と、思いがちですが……。
実は、まったく逆です。
農耕が始まると、穀物を蓄えるようになります。

すなわち、富の蓄積が始まるのです。
当然、貧富の差が生じ、富の収奪も起きます。
つまり、戦乱の時代に入っていくのです。

↓縄文時代の若い女性の人骨。

↑「み」
四肢の骨が異常に細く、生まれつき寝たきりだったろうと云われてます。
ポリオ(小児麻痺)だったようです。
この骨は、20歳前後のものだそうです。
すなわち、その歳になるまで彼女は、ずっと介護されて育ったのです。
胸が熱くなりますね。
↓さて、わたしの大好物のお人形です。

↑「み」。
↓この前の写真が、縄文人の少女の骨でした。

↑「み」
いきなり時代が飛びましたね。
順番に見てたと思うんですが。
この場面は、もちろん江戸時代です。
背中の男性は、寺子屋の先生。
向かい合うのは、わが子を初めて寺子屋に連れてきた母親。
先生の前にある球状のハリボテは、なんと地球儀だそうです。
発明したのは、土浦の沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)。

寺子屋では、読み書き算盤はもちろん、このような高等教育もなされてました。
江戸人の識字率の高さには、黒船などでやってきた外国人も驚いてたようです。
外国では、読み書きが出来るのは知識階級だけ。
19世紀のイギリスでも、下層階級の識字率は、10%くらいだったそうです。
それに対し、江戸では、庶民の70~80%が、読み書きできたとか。

江戸の中心部では、100%近かったようです。
教育は進んでいましたが……。
劣っていたのが、体型です。
江戸期の人の体型は、すっかり縄文時代レベルに戻ってしまいました。
平均身長は、男性で155~158㎝、女性で143~146㎝。

弥生時代は、男性で163㎝、女性で152㎝だったそうです。
江戸期というのは、日本人の身長が、もっとも低かった時代だとか。
なぜかということですが……。
ひとつには、肉食がタブー視され、動物性タンパク質の摂取が減ったということがあるそうです。

↑山くじらとは、猪のこと。食べなかったわけではなく、“薬食い”と云って、風邪を引いたりしたときに食べてたみたいです。このころの人は、クジラは魚だと思ってたんでしょうね。
ですが、わたしはもっと大きな理由として、江戸の人口密度もあるんじゃないかと思います。
江戸は、武士の街で、武家地は、江戸の64%もあったそうです。

↑緑が武家地。赤が町人地。白が寺社地。
広大な敷地です。
寺社地も、15%。
残りの21%の土地に、商人や職人たちが住んでました。
町人は人口の半分を占めてましたから、いかにせせこましい暮らしをしてたか想像できます。
長屋とかですね。

でも、狭い土地でも、人間が小さくなれば、相対的に狭くなくなります。

↑『縮みゆく人間』。1957年のアメリカ映画。原作は、同名のSF小説(リチャード・マシスン/1956年)。現在、3度目の映画化が進められてるそうです。
ひょっとしたら、大男や大女は、生き辛かったんじゃないでしょうか。
で、いじめられたりする。
特に大女は、体力を見こまれて、郊外の農家に嫁に出される。

↑見世物にはなったようです。上は3姉妹。中央が姉で16歳。「身のたけ六尺八寸余・重サ三十八貫目余」とあります。身長204㎝、体重143kgになります。
そんなこんなで、江戸では、チビの血筋が濃くなったんじゃないでしょうか。

↑右はもちろん、池乃めだか師匠。左はナイナイの岡村ですから、その小ささがわかります。
あと、正座の普及もあるんじゃないかな。
調べてみたら、正座という座り方、さほど歴史のあるものじゃありませんでした。
まさしく、広まったのは、江戸初期だとか。

↑江戸城の新年。ひれ伏すのは諸大名。正座の普及は、こういうことを始めたからですかね。
この座り方が普及することにより……。
江戸時代の人は、どんどん短足になっていったんじゃないでしょうか。

↑これは、豚足。
そんな短期間で、脚の長さが変化するかと云われるかも知れませんが……。
戦後の日本人の体型の変化は、江戸時代の比じゃないでしょう。
↓戦後のほんの50年くらいで、身長が10㎝も違ってます。

↑伸びたほとんどが、脚でしょう。生活が洋風になり、正座しなくなった影響が大きいと思います。
さて、江戸時代を掘り下げていくとキリがないので、先に進みましょう。
↓次に撮った写真です。

↑「み」
やはり、時代が遡りました。
デタラメに歩いてるから、こういうことが起こります。
この写真は、中世の街中だそうです。
ハゲのジイサマは、もちろん僧侶です。
対する2人は、どういう関係でしょうか。
『国立科学博物館』の解説を読むと、親子ではないそうです(こちら)。
この解説文には、「このころはすでに、見知らぬ他人との出会いが日常化していた」とあります。
よくわからない文章です。
この3人の、誰と誰が見知らぬ他人なのでしょう?
お坊さんが、知らない人を呼び止めて、説法でも始めたんですかね。

↑もちろん、日蓮ではありません。
とても、そんな場面には見えません。
もし、女性と女の子が見知らぬ他人なら、明らかに人さらいです。
坊さんの風体をしてるのは、実は、人買いの親玉でしょうか。

↑溝口健二『山椒大夫』。原作はもちろん、森鴎外。悲しすぎるので、読めません。
見知らぬ他人で思い出したことがあります。
江戸時代の出来事です。
天明3(1783)年、浅間山が大噴火しました。

↑『浅間山天明大噴火之図』
現在観光地となってる、『鬼押し出し』が出来た噴火です。

↑『鬼押出し園』という公園になってます。運営はプリンスホテル。入園料、取られます(大人650円)。
この噴火で、群馬県の鎌原村(現在の嬬恋村)が火砕流に飲み込まれ、埋まってしまったのです。
日本のポンペイと呼ばれてます。

↑この本、持ってます。
現在、嬬恋村にある観音堂には、15段の石段があります。

昭和に入って、ここの発掘調査が行われました。
すると、石段は土の下にどんどん続いており……。
結局、50段あったことがわかりました。

そして、その石段の下から11段目あたりで、2体の亡骸が発掘されたのです。

若い女性と、年老いた女性のものでした。

↑『嬬恋郷土資料館』の駐車場にある案内板より。館内は撮影禁止だそうです。
性別や年齢までわかったのは、非常に保存状態が良かったからだそうです。
骨はピンク色で、頭部には髪の毛も残ってとか。
2体は、重なっていたそうです。
若い女性が年老いた女性を背負って階段を登っているとき……。
火砕流に襲われ、埋まってしまったと考えられます。
おそらく、若いお嫁さんが、お姑さんを背負ってたんじゃないでしょうか。
お姑さんは、「わたしを置いて、おまえだけ逃げろ」と、お嫁さんの耳元で叫んだ。
でも、お嫁さんは聞かなかった。
そして……。

そんなことを考えると、胸が痛みます。
火砕流は、非常にドライな土石の流体で、スピードが速いことが特徴です。
鎌原村を飲みこんだ火砕流は、秒速20メートルだったと考えられてます。
100メートルを5秒で駆け抜ける速度です。
目で見えてから逃げ始めたら、間違いなく追いつかれます。
逃げ切るには、高いところに登るしかないわけですが……。
この2人は、間に合わなかったということです。
この噴火が起こる前、鎌原村の人口は、570人でした。
噴火後に生き残った人は、93人だったそうです。

↑赤丸が観音堂。93人は、全員ここに逃げた人たちだとか。
生存率、16%です。
生き残った人も、家族を失ってしまった人がほとんどでしょう。
普通であれば、生き残った人たちは、火砕流に埋まった村を捨て……。
別の土地に移住するんじゃないでしょうか。
ポンペイの生存率は、鎌原村よりずっと高かったそうです。
でも、ポンペイは打ち捨てられ、復興されることはありませんでした。

しかし、鎌原村の生き残った93人は、ここに留まりました。
見知らぬ土地で、気兼ねして暮らすよりも……。
どんなに変わり果てても、生まれ育った土地で生きたいと思ったのでしょうか。
もちろん、土木機械などはありませんから、昔の村を掘り出すことは出来ません。
一面の岩石の上に、新しい村を作り直すことにしたのです。

↑現在の観音堂付近。
このとき取られた施策が、実に驚くべきものでした。
生存率16%ということは、家族をすべて失ってしまった人がほとんどだったはず。
生き残った人々がバラバラに暮らしていたのでは、復興はままなりません。
壮年ならなんとかなるかも知れませんが、老人や子供1人では、生きていくことさえ出来ません。
では、どうしたかと云うと……。
まず、壮年の男女を組み合わせ、新たな夫婦としました。
更にその夫婦に、生き残った老人、子供を足して、新しい家族を作ったのです。
そんなことが果たして出来るのかという気がしますが……。
そうするしか無かったのでしょうね。
昔の村では、貧富の差も多少はあったでしょうが……。
生き残った人たちは、すべて無一文の身一つです。
逆に、そのことが、利点となったのかも知れません。
さっき、新しい「家族」と書きましたが……。
むしろ、新しい「家」でしょうね。
日本人の「家」という概念の根深さを、改めて再認識する気がします。

↑江戸時代の農作業は、家族が力を合わせなければ出来ません。
さて、また話が脱線しました。
『国立科学博物館』に戻ります。
↓次の写真はこれ。

↑「み」。
時代が、更に遡りました。
これは、弥生時代です。
父親の担いでるのは、鋤でしょうか?
夕餉の支度が出来てます。
子供と一緒にいる犬は、弥生犬だそうです。

犬は、単なるペットではありません。
第1の役割は、警護だったそうです。
もちろん、野生動物から田畑を守るという役目もあったでしょうが……。

夜陰に乗じて攻めてくる、ほかの部落の兵士を見つけ……。

吠え立てて知らせる役目もあったはずです。
弥生時代は、戦乱の時代でもあったからです。
気候も寒冷化し、飢饉もあったことでしょう。

↑鎌倉時代ころ、こんなに暖かかったのは意外でした。実際、新潟平野では、平安から鎌倉にかけての遺跡が出ないそうです。すなわち、このころは海の底になっていたということです。
そして、飢饉のときには……。
犬は、食料にされるという役目もあったのです。

↑これがホントの“ホットドッグ”。
かわいそうなどとは言っていられません。
食べなければ、生きていけないのです。
泣きながら食べたのでしょうね。
そのあたりは、狩りの重要な相棒だった縄文犬とは違うようです。
縄文人にとっては、犬は家族の一員でした。
犬のお墓が、たくさん見つかってます。

↑遺跡ではありません。バス停です。和歌山県紀の川市にあります。由来は定かでないようです。
犬の骨の上には花粉の痕跡が認められ……。
おそらく、遺体の上には花が添えられたのだろうということです。
骨折が治癒した犬の骨も見つかっており……。
怪我をして猟ができなくなっても、大切に飼われてたことが伺われます。
さて、弥生犬・縄文犬と、説明しないまま使ってしまいました。
簡単に補足いたします。
まず、時代順に縄文犬(じょうもんけん)から。
犬の骨は、縄文時代の早期の遺跡からも見つかるそうです。

ユーラシア大陸から渡ってきた人が連れていたと云われています。

サイズは中型犬。
立ち耳に巻き尾という、柴犬に似た特徴を持ちます。
ただ、顔は柴犬より細面で、額から鼻にかけての段差がなく、狐に近い顔つきだったようです。

↑キツネ(上)と柴犬(下)。微妙ですけどね。
役割は、先ほど書いたように、猟犬であり番犬です。

続いて、弥生犬(やよいいぬ)。
弥生犬は、弥生時代、ユーラシア大陸から渡ってきた人たちが連れていた犬です。
縄文犬より、さらに家畜化が進められた犬種。
外見は、今の日本犬にさらに近いそうです。

↑『大阪府立弥生文化博物館』の展示。顔がのっぺりして、人面犬みたいですね。ほんとでしょうか。
頭骨の形は、四国犬に酷似してるそうです。

↑四国犬です。普通の犬ですね。弥生犬と似てるとは思えませんが。
体格は、縄文犬よりも少し大きかったようです。
2つの犬種で、もっとも違うのは、人との関係。
縄文犬が家族として扱われ、丁寧にお墓に埋葬されたことは、先ほど書きました。
でも、弥生時代の遺跡からは、犬の墓が出ないのです。
犬の骨が出るのは、ごみ捨て場。
しかもその骨は鋭く切断されており、明らかに調理された跡だそうです。
おそらく、狩りが出来なくなった犬は、食べられてしまったのでしょう。

↑猫鍋は知ってましたが、犬鍋もあるんですね。
人間が残酷になったわけではないと思います。
環境が、人と犬との関係を変えたのです。
寒冷化と戦乱です。

↑1983(昭和58)年の使い捨てカイロのCM。小学校で流行った気がします。
さて、2つの犬種ですが、もちろん今は残っていません。
絶滅したと言うよりは、交雑してしまい……。

純粋種としては残らなかったということでしょう。
現在の日本犬の共通の祖先になります。
北海道犬や琉球犬など、本州と離れた地域の犬は、縄文犬の特徴を残しているそうです。
これは、人と同じですね。

↓続いての写真は、こちら。

↑「み」
またまた歴史を遡り……。
こちらは、縄文人の一家です。
母親は、土器を作ってます。
子供は、土器を造る土をもらい、粘土遊びをしてます。
そこへ、父親が、大きな魚を銛で突いて帰ってきました。
夕食のごちそうを期待して、犬も大喜びです。
ちなみにこの犬が、縄文犬です。

↑「み」。さすが、猟犬だけあって、引き締まってます。
縄文時代というと、狩猟にたよる不安定な生活を想像してしまいます。
弥生時代になりって、農耕が始まり……。

ようやく、安定した生活を手に入れることが出来たと。
でも、はたしてそうでしょうか?
この2つの時代では、気候が違うということを考慮しなければならないと思います。
すなわち、縄文時代は温暖で、弥生時代は寒冷です。

縄文時代は、早い話、農耕などする必要がなかったんじゃないでしょうか。
森には動物が駆け回り、秋になれば、採り切れないほどの実りがある。

↑三内丸山遺跡から出た、通称『縄文ポシェット』。右下は、中にはいっていたクルミ。
海も豊かで、粗末な石針や銛でいくらでも魚が連れた。

↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。ここは、何回か行きました。
毎日、ちょっと外に出れば、必ず食べ物を得られるとしたら……。
農耕など、する必要があるでしょうか?
なんだか、エデンの園みたいな暮らしを想像してしまいますね。

↑エラストォウス・ソールズベリー・フィールド作『エデンの園』。
お酒もあったようですしね。
三内丸山遺跡からは、大量のニワトコの実が出土しています。

ニワトコの実は不味くて、飲みこむことも出来ないそうです。
それでは、その実を何に利用していたのかと云うと……。
煮出して発酵させ、お酒を作っていたのです。

↑酒造りの様子。くわしくは、こちらで。
ニワトコの実と一緒に、ショウジョウバエの蛹がたくさん出土したそうです。
ショウジョウバエは、発酵した果実によく集まります。
つまり、お酒を絞った後のカスを捨てたところに、ハエがたかったのでしょう。
お酒がある。

↑縄文時代の酒器だそうです。わたしが使ってる燗瓶とほとんど変わりません。
動物の肉がある。

木の実もある。

海の幸もある。

その日暮らしで、ぜんぜんオッケー。
朝起きたら、男は、縄文犬を連れてイノシシを狩るか……。

海に出て、魚を捕る。

女や子供は、森に入って木の実や山菜を採る。

で、お昼にはもう、帰ってくるのです。
女は、午後も土器を造ったりするのでしょうが……。

↑「み」
男どもは、獲物を捌いて、さっそく酒盛りです。

↑青森のお酒です。
良い気持ちで酔いつぶれて、1日が終わり。

まさしく、楽園の暮らしです。
こういう余裕があったからこそ、小児麻痺で寝たきりの子供を……。
介護して育てることが出来たわけです。

↑「み」。縄文時代の若い女性の人骨。寝たきりのまま成人してます。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
古代の変態ではありません。
以前、骨でご紹介しました。

↑「み」
そう、港川人ですね。
時代は、旧石器時代まで遡ります。

↑やはり、こういうイメージ。
まだ、服は無かったんですかね。
ま、沖縄だから暖かいのでしょうが。
わたしの画像は、角度が良くないので、拝借画像でご紹介します。

お父ちゃんが下げてるのは、ヤンバルクイナです。

↑飛べない鳥です。
お母ちゃんは、法螺貝と木の実を採ってきました。

どうやら、軍配はお母ちゃんに上がり、お父ちゃん、少々がっかりのようです。
港川人の身長は、男性で153~155cm、女性で144cm前後とのことです。
つまり、江戸時代の人と、同じ体型だったということです。
港川人の時代は、今から、約2万年前です。
江戸時代の人が、いかに小さかったかということがわかります。

一連の人形ですが、ほんとに表情が豊かです。

いったい誰が造ったのでしょう?
ネットを探しましたが、情報が見つかりませんでした。
↓さて、続いての写真はこちら。

↑「み」
見ればわかりますが、犬です。
なお、犬が進化して港川人になったわけではありません。
人類の歴史は、港川人で終了です。
パネルには、『伴りょ動物としての犬』とありました。
手前の白犬は、ハチ公だそうです。

秋田犬ですね。
どうやら、本物のハチ公の剥製のようです。
ハチが死んだのは、昭和10(1935)年3月8日。
渋谷川に架かる稲荷橋近くの路地で、死体が見つかりました。

死ぬまで、繋がれずにいたようです。
ご主人の上野英三郎氏が亡くなったのは、大正14(1925)年5月21日。
上野氏は、東京帝国大学農学部の教授でした。
教授会の後、脳溢血を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。
享年53歳。
ハチとの暮らしは、わずか1年でした。
しかし、ハチは、ご主人の死後、10年も渋谷駅で帰りを待ち続けたのです。

↑晩年のハチ公。左耳が垂れてるのは、野犬に噛まれたためだそうです。
わざわざ、巨大な振り子を作り、それを見世物にしたのだと。

でも、違ったんです。
振り子は、巨大である必要があるのです。
というのは、小さい振り子では、軌道の変化が確認できるまで、振りが続かないのです。

まず、支点での摩擦や風の影響を小さくするためには、重たいおもりが必要です。
そして、長く振り続けるためには、振幅を大きくしなければなりません。
すなわち、長いケーブルが必要なのです。
ということで、フーコーの振り子は、巨大でなければならないというわけです。
これが逆に興行的に受けて、万国博覧会などで展示されることとなったのでしょう。
さて。
それではなぜ、軌道が変わるのかということですが……。
実は逆で、振り子の軌道は変わらないのです。
変わっていくように見える、ということです。
変わっていくのは、見ているわたしたちの立ち位置なのです。
一番わかり易い例は、北極のてっぺんです。
ここに、振り子を設置したとします。
振り子は、外からの力が加わらない限り、いつまでも同じ方向に振り続ける性質をもっています。
つまり、振り子が振れる向きは、宇宙空間に対して一定になります。
しかし、見る人が立っている地表面は、地球の自転により左に回転しています。
すると、まるで振り子の振れる方向が、右に回転しているように見えるのです。

↑上の図を見つけたとき、『コリオリの力』というのが気になりました。
ココリコじゃありませんよ。

Wikiによると……。
『コリオリの力とは、回転座標系上で移動した際に移動方向と垂直な方向に移動速度に比例した大きさで受ける慣性力の一種』だそうです。
さっぱりわかりません。
どうやらわたしには……。
一流の狙撃手になる資格が無いようです。
は?、と思われる方もおられると思います。
実は、長距離狙撃を成功させるためには、『コリオリの力』を理解してなければならないのです。
地球の自転により、弾道が変わってしまうからです。
もちろん、ゴルゴ13は、この理論に習熟しています。

実際、ゴルゴ13が、『コリオリの力』を計算して狙撃するというシーンがあるそうです(参照)。
さて。
実は、わたしが理解できたのは……。
北極点でのフーコーの振り子の説明だけです。
北極点以外の場所を考えると、頭の中で糸がこんがらがります。
さらに、赤道では振れる向きが変わらないというのは、さらにさっぱりわかりません。
鉄棒の大車輪みたいに振れそうですけど。

赤道は、自転の影響を、一番受けているはずです。
赤道の距離は、約4万キロ。
これを、24時間で一周してるわけです。
これを時速になおすと、ぶったまげますよ。
4万キロ÷24時間≒1,667㎞/h。
音速(1,225㎞/h)を遥かに超えてます。

↑この人、なんでいつもこのポーズなんですかね?
赤道に住む人は、どうして立っていられるのでしょう。
さっぱりわかりません。
↓『ヒグマ渡来の歴史』。

↑「み」
↓だそうです(説明略)。

↑「み」
↓コウモリだけが知っている(説明略)。

↑「み」。こんな雑な写真1枚から、説明なんかできまへん。
↓これは、知ってます。

↑「み」
実感として感じたこともあります。
動物ではなく、植物です。
前の会社で、北海道に社員旅行に行ったんです。
当時、新潟空港から、北海道の女満別空港まで直行便がありました。

オホーツク海方面に便が良かったんですね。
『小清水原生花園』などを見学しました。

↑わたしが行ったときは、こんなに花盛りではありませんでした。
一番面白かったのは、網走刑務所でした。

↑天井にいるフンドシの人物は「昭和の脱獄王」白鳥由栄。
網走刑務所を含め、4回脱獄しました。
網走刑務所では、鉄枠に味噌汁を噴きかけ続けて錆びさせて外し……。
天井の木枠を抜けるときは、肩の関節を外したそうです。
このときの見学では、お土産に網走刑務所のゾーリを買って帰り、母に呆れられました。

↑これこれ。
玄関に出すことを固く禁じられたので、ベランダの水やりのときに履いてました。
どうも水に弱いらしく、しばらくすると、バラバラに分解してしまいました。
話が逸れました。
その旅行のとき、道端の植物が、やたらとデカいことに驚きました。
↓の解説文にあるとおり、確かフキも見ましたね。

トトロが傘にしたフキみたいにデカかったです。

↑これは秋田の蕗ですが、このくらいあった気がします。
秋田蕗は食用になるようですが、北海道のも食用なんですかね?
ものすごく食べでがありそうです。
それとデカかったのが、水芭蕉でした。
↓江間章子(新潟県上越市出身)作詞の『夏の思い出』は、とても好きな曲です。
「♪水芭蕉の花が咲いている 夢見て咲いている 水のほとり」というフレーズが印象的ですね。
水芭蕉には、可憐な花のイメージを抱いてました。

↑尾瀬の水芭蕉。思っている以上に大きい花だということがわかります。
ところが、北海道の水芭蕉は違いました。
まるで、白菜が立ってるみたいでした。

↑北海道石狩市『マクンベツ湿原』。この写真は、まだ成長途上のようです。大きいものは、1メートルを超えるとか。白菜どころではありません。
まさに、「北海道はでっかいどう」なんですね。

↓そうそう、『ベルクマンの法則』でした。

↑「み」。書かれてる内容については、↓で説明します。
↓イノシシが、3体並んでます。

↑「み」
左から、長野県、山口県、西表島のイノシシ。
もちろん、すべて成体のイノシシです。
明らかに、大きさが違います。
ベルクマンの法則は、1847年、ドイツの生物学者クリスティアン・ベルクマンがに発表したものです。
↓復習してみましょう。
+++++++++++++++++++++++++++++++
『恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する(Wikipedia)』
+++++++++++++++++++++++++++++++
ではなぜ、寒冷な地では身体がデカくなり、温暖な地では小さくなるのかと云うと……。
体温を維持するためには、身体が大きい方が得か、小さい方が得かという話です。
恒温動物は、体内で常に熱を生産しています。
その熱は、体表面から放出されます。
体内での熱生産量は体重に比例し、放熱量は体表面積に比例します。
体長の3乗が体重であり、体長の2乗が体表面積です。

つまり、熱生産量は体長の3乗に、放熱量は体長の2乗に比例します。
これは、体長が大きくなるにつれ、体重当たりの体表面積は小さくなることを意味してます。
寒冷な地域では、体温を維持するために、熱生産量を高め、放熱を抑える必要がありますから……。
体重あたりの表面積は小さい方がいい。
すなわち、大型である方が有利となります。

↑北海道の紋別で仕留められたヒグマ。400キロあったそうです。
逆に温暖な地域では、放熱が大事になりますから、体重あたりの表面積は大きい方がいい。
つまり、小型である方が有利ということです。
この法則はあくまで、恒温動物におけるものです。
変温動物では、逆になる場合が多いです。
虫などになると、寒冷地では活動期間が短く、大きくなれません。
熱帯の方が、巨大な昆虫がいますよね。

↑世界一大きいキリギリス『ニューギニアオオコノハギス』。さぞやかましいでしょうね。
蛇などの爬虫類では、体温を上げるためには日光浴をしなければなりません。
身体が大きいと、体温が上がるまで時間がかかります。
その間、活動できなくなってしまいます。
アナコンダとなどの巨大な蛇は、体温を上げる必要のない暑い地域に住んでます。

↑とっ捕まったアナコンダ。このサイズになると、ワニを丸呑みにするそうです。
↓ユキツバキとヤブツバキの分布図。

↑「み」
↓解説です。

↑「み」
上の図で、濃い緑色の部分は、両方のツバキの分布がない地域。
それを囲むように、日本海側と太平洋側の海岸で、ヤブツバキの分布が北の方まで伸びてます。
これはおそらく、川に落ちた種が海に出て……。
それを、海流が運ぶからでしょう。

↑種はかなり大粒です。
日本海側は、対馬海流が北上してます。
でも、太平洋側では親潮が南下してます。
おそらく、対馬海流に乗った種の一部は、そのまま津軽海峡を抜け……。
親潮に引きずられて南下し、海岸に漂着するんだと思います。
つまり、日本海側と太平洋側では、種の流れる方向が逆ということです。

↓樹形の違い。

↑「み」
ユキツバキは、冬期、雪に潰された状態になります。
このことから、耐寒性の強い樹木と誤解されがちですが……。
逆です。
耐寒性は、ヤブツバキよりも劣ります。
雪の中は、風も吹かず、温度も0度前後に保たれます。
いわば、雪の布団をかぶって、ぬくぬくと過ごしているのです。

なので、ユキツバキを、雪の積もらない海岸沿いなどに植えると……。
寒風にやられ、枯れることもしばしばです。
北関東などでも、まず育たないでしょう。
↓ガイコツ。

↑「み」
沖縄県に住んでた、港川人です。
これは、『港川1号』と呼ばれる人骨のレプリカ。

↑「み」
沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の島尻郡八重瀬町字長毛)で発見されたことから、こう呼ばれてます。
全身骨格の形で残っている日本の人骨の中では、最も古いものだそうです。
肋骨は、造り物のようですね。
港川人の身長は、男性で155㎝、女性で145㎝程度。
ちっちぇーと思われるかもしれませんが……。
これは、江戸時代の日本人の平均とほぼ同じです。

↑しかし、こんなに体重があったんですか? 明らかにメタボですよ。京は裕福だったからでしょうか。
かつて、港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきました。
しかし、近年の研究で、本土の縄文人とは異なる集団だった可能性が高いとされてます。
オーストラリア先住民や、ニューギニアの集団に近いとのことです。
↓『港川1号』から復元された顔です。

確かに、ニューギニア系ですね。
↓縄文と弥生の食生活。

↑「み」
縄文時代は、常に飢えに怯えるその日暮らしで……。
弥生時代に入り、農耕が始まると、豊かで平和な暮らしが出来るようになった。

と、思いがちですが……。
実は、まったく逆です。
農耕が始まると、穀物を蓄えるようになります。

すなわち、富の蓄積が始まるのです。
当然、貧富の差が生じ、富の収奪も起きます。
つまり、戦乱の時代に入っていくのです。

↓縄文時代の若い女性の人骨。

↑「み」
四肢の骨が異常に細く、生まれつき寝たきりだったろうと云われてます。
ポリオ(小児麻痺)だったようです。
この骨は、20歳前後のものだそうです。
すなわち、その歳になるまで彼女は、ずっと介護されて育ったのです。
胸が熱くなりますね。
↓さて、わたしの大好物のお人形です。

↑「み」。
↓この前の写真が、縄文人の少女の骨でした。

↑「み」
いきなり時代が飛びましたね。
順番に見てたと思うんですが。
この場面は、もちろん江戸時代です。
背中の男性は、寺子屋の先生。
向かい合うのは、わが子を初めて寺子屋に連れてきた母親。
先生の前にある球状のハリボテは、なんと地球儀だそうです。
発明したのは、土浦の沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)。

寺子屋では、読み書き算盤はもちろん、このような高等教育もなされてました。
江戸人の識字率の高さには、黒船などでやってきた外国人も驚いてたようです。
外国では、読み書きが出来るのは知識階級だけ。
19世紀のイギリスでも、下層階級の識字率は、10%くらいだったそうです。
それに対し、江戸では、庶民の70~80%が、読み書きできたとか。

江戸の中心部では、100%近かったようです。
教育は進んでいましたが……。
劣っていたのが、体型です。
江戸期の人の体型は、すっかり縄文時代レベルに戻ってしまいました。
平均身長は、男性で155~158㎝、女性で143~146㎝。

弥生時代は、男性で163㎝、女性で152㎝だったそうです。
江戸期というのは、日本人の身長が、もっとも低かった時代だとか。
なぜかということですが……。
ひとつには、肉食がタブー視され、動物性タンパク質の摂取が減ったということがあるそうです。

↑山くじらとは、猪のこと。食べなかったわけではなく、“薬食い”と云って、風邪を引いたりしたときに食べてたみたいです。このころの人は、クジラは魚だと思ってたんでしょうね。
ですが、わたしはもっと大きな理由として、江戸の人口密度もあるんじゃないかと思います。
江戸は、武士の街で、武家地は、江戸の64%もあったそうです。

↑緑が武家地。赤が町人地。白が寺社地。
広大な敷地です。
寺社地も、15%。
残りの21%の土地に、商人や職人たちが住んでました。
町人は人口の半分を占めてましたから、いかにせせこましい暮らしをしてたか想像できます。
長屋とかですね。

でも、狭い土地でも、人間が小さくなれば、相対的に狭くなくなります。

↑『縮みゆく人間』。1957年のアメリカ映画。原作は、同名のSF小説(リチャード・マシスン/1956年)。現在、3度目の映画化が進められてるそうです。
ひょっとしたら、大男や大女は、生き辛かったんじゃないでしょうか。
で、いじめられたりする。
特に大女は、体力を見こまれて、郊外の農家に嫁に出される。

↑見世物にはなったようです。上は3姉妹。中央が姉で16歳。「身のたけ六尺八寸余・重サ三十八貫目余」とあります。身長204㎝、体重143kgになります。
そんなこんなで、江戸では、チビの血筋が濃くなったんじゃないでしょうか。

↑右はもちろん、池乃めだか師匠。左はナイナイの岡村ですから、その小ささがわかります。
あと、正座の普及もあるんじゃないかな。
調べてみたら、正座という座り方、さほど歴史のあるものじゃありませんでした。
まさしく、広まったのは、江戸初期だとか。

↑江戸城の新年。ひれ伏すのは諸大名。正座の普及は、こういうことを始めたからですかね。
この座り方が普及することにより……。
江戸時代の人は、どんどん短足になっていったんじゃないでしょうか。

↑これは、豚足。
そんな短期間で、脚の長さが変化するかと云われるかも知れませんが……。
戦後の日本人の体型の変化は、江戸時代の比じゃないでしょう。
↓戦後のほんの50年くらいで、身長が10㎝も違ってます。

↑伸びたほとんどが、脚でしょう。生活が洋風になり、正座しなくなった影響が大きいと思います。
さて、江戸時代を掘り下げていくとキリがないので、先に進みましょう。
↓次に撮った写真です。

↑「み」
やはり、時代が遡りました。
デタラメに歩いてるから、こういうことが起こります。
この写真は、中世の街中だそうです。
ハゲのジイサマは、もちろん僧侶です。
対する2人は、どういう関係でしょうか。
『国立科学博物館』の解説を読むと、親子ではないそうです(こちら)。
この解説文には、「このころはすでに、見知らぬ他人との出会いが日常化していた」とあります。
よくわからない文章です。
この3人の、誰と誰が見知らぬ他人なのでしょう?
お坊さんが、知らない人を呼び止めて、説法でも始めたんですかね。

↑もちろん、日蓮ではありません。
とても、そんな場面には見えません。
もし、女性と女の子が見知らぬ他人なら、明らかに人さらいです。
坊さんの風体をしてるのは、実は、人買いの親玉でしょうか。

↑溝口健二『山椒大夫』。原作はもちろん、森鴎外。悲しすぎるので、読めません。
見知らぬ他人で思い出したことがあります。
江戸時代の出来事です。
天明3(1783)年、浅間山が大噴火しました。

↑『浅間山天明大噴火之図』
現在観光地となってる、『鬼押し出し』が出来た噴火です。

↑『鬼押出し園』という公園になってます。運営はプリンスホテル。入園料、取られます(大人650円)。
この噴火で、群馬県の鎌原村(現在の嬬恋村)が火砕流に飲み込まれ、埋まってしまったのです。
日本のポンペイと呼ばれてます。

↑この本、持ってます。
現在、嬬恋村にある観音堂には、15段の石段があります。

昭和に入って、ここの発掘調査が行われました。
すると、石段は土の下にどんどん続いており……。
結局、50段あったことがわかりました。

そして、その石段の下から11段目あたりで、2体の亡骸が発掘されたのです。

若い女性と、年老いた女性のものでした。

↑『嬬恋郷土資料館』の駐車場にある案内板より。館内は撮影禁止だそうです。
性別や年齢までわかったのは、非常に保存状態が良かったからだそうです。
骨はピンク色で、頭部には髪の毛も残ってとか。
2体は、重なっていたそうです。
若い女性が年老いた女性を背負って階段を登っているとき……。
火砕流に襲われ、埋まってしまったと考えられます。
おそらく、若いお嫁さんが、お姑さんを背負ってたんじゃないでしょうか。
お姑さんは、「わたしを置いて、おまえだけ逃げろ」と、お嫁さんの耳元で叫んだ。
でも、お嫁さんは聞かなかった。
そして……。

そんなことを考えると、胸が痛みます。
火砕流は、非常にドライな土石の流体で、スピードが速いことが特徴です。
鎌原村を飲みこんだ火砕流は、秒速20メートルだったと考えられてます。
100メートルを5秒で駆け抜ける速度です。
目で見えてから逃げ始めたら、間違いなく追いつかれます。
逃げ切るには、高いところに登るしかないわけですが……。
この2人は、間に合わなかったということです。
この噴火が起こる前、鎌原村の人口は、570人でした。
噴火後に生き残った人は、93人だったそうです。

↑赤丸が観音堂。93人は、全員ここに逃げた人たちだとか。
生存率、16%です。
生き残った人も、家族を失ってしまった人がほとんどでしょう。
普通であれば、生き残った人たちは、火砕流に埋まった村を捨て……。
別の土地に移住するんじゃないでしょうか。
ポンペイの生存率は、鎌原村よりずっと高かったそうです。
でも、ポンペイは打ち捨てられ、復興されることはありませんでした。

しかし、鎌原村の生き残った93人は、ここに留まりました。
見知らぬ土地で、気兼ねして暮らすよりも……。
どんなに変わり果てても、生まれ育った土地で生きたいと思ったのでしょうか。
もちろん、土木機械などはありませんから、昔の村を掘り出すことは出来ません。
一面の岩石の上に、新しい村を作り直すことにしたのです。

↑現在の観音堂付近。
このとき取られた施策が、実に驚くべきものでした。
生存率16%ということは、家族をすべて失ってしまった人がほとんどだったはず。
生き残った人々がバラバラに暮らしていたのでは、復興はままなりません。
壮年ならなんとかなるかも知れませんが、老人や子供1人では、生きていくことさえ出来ません。
では、どうしたかと云うと……。
まず、壮年の男女を組み合わせ、新たな夫婦としました。
更にその夫婦に、生き残った老人、子供を足して、新しい家族を作ったのです。
そんなことが果たして出来るのかという気がしますが……。
そうするしか無かったのでしょうね。
昔の村では、貧富の差も多少はあったでしょうが……。
生き残った人たちは、すべて無一文の身一つです。
逆に、そのことが、利点となったのかも知れません。
さっき、新しい「家族」と書きましたが……。
むしろ、新しい「家」でしょうね。
日本人の「家」という概念の根深さを、改めて再認識する気がします。

↑江戸時代の農作業は、家族が力を合わせなければ出来ません。
さて、また話が脱線しました。
『国立科学博物館』に戻ります。
↓次の写真はこれ。

↑「み」。
時代が、更に遡りました。
これは、弥生時代です。
父親の担いでるのは、鋤でしょうか?
夕餉の支度が出来てます。
子供と一緒にいる犬は、弥生犬だそうです。

犬は、単なるペットではありません。
第1の役割は、警護だったそうです。
もちろん、野生動物から田畑を守るという役目もあったでしょうが……。

夜陰に乗じて攻めてくる、ほかの部落の兵士を見つけ……。

吠え立てて知らせる役目もあったはずです。
弥生時代は、戦乱の時代でもあったからです。
気候も寒冷化し、飢饉もあったことでしょう。

↑鎌倉時代ころ、こんなに暖かかったのは意外でした。実際、新潟平野では、平安から鎌倉にかけての遺跡が出ないそうです。すなわち、このころは海の底になっていたということです。
そして、飢饉のときには……。
犬は、食料にされるという役目もあったのです。

↑これがホントの“ホットドッグ”。
かわいそうなどとは言っていられません。
食べなければ、生きていけないのです。
泣きながら食べたのでしょうね。
そのあたりは、狩りの重要な相棒だった縄文犬とは違うようです。
縄文人にとっては、犬は家族の一員でした。
犬のお墓が、たくさん見つかってます。

↑遺跡ではありません。バス停です。和歌山県紀の川市にあります。由来は定かでないようです。
犬の骨の上には花粉の痕跡が認められ……。
おそらく、遺体の上には花が添えられたのだろうということです。
骨折が治癒した犬の骨も見つかっており……。
怪我をして猟ができなくなっても、大切に飼われてたことが伺われます。
さて、弥生犬・縄文犬と、説明しないまま使ってしまいました。
簡単に補足いたします。
まず、時代順に縄文犬(じょうもんけん)から。
犬の骨は、縄文時代の早期の遺跡からも見つかるそうです。

ユーラシア大陸から渡ってきた人が連れていたと云われています。

サイズは中型犬。
立ち耳に巻き尾という、柴犬に似た特徴を持ちます。
ただ、顔は柴犬より細面で、額から鼻にかけての段差がなく、狐に近い顔つきだったようです。

↑キツネ(上)と柴犬(下)。微妙ですけどね。
役割は、先ほど書いたように、猟犬であり番犬です。

続いて、弥生犬(やよいいぬ)。
弥生犬は、弥生時代、ユーラシア大陸から渡ってきた人たちが連れていた犬です。
縄文犬より、さらに家畜化が進められた犬種。
外見は、今の日本犬にさらに近いそうです。

↑『大阪府立弥生文化博物館』の展示。顔がのっぺりして、人面犬みたいですね。ほんとでしょうか。
頭骨の形は、四国犬に酷似してるそうです。

↑四国犬です。普通の犬ですね。弥生犬と似てるとは思えませんが。
体格は、縄文犬よりも少し大きかったようです。
2つの犬種で、もっとも違うのは、人との関係。
縄文犬が家族として扱われ、丁寧にお墓に埋葬されたことは、先ほど書きました。
でも、弥生時代の遺跡からは、犬の墓が出ないのです。
犬の骨が出るのは、ごみ捨て場。
しかもその骨は鋭く切断されており、明らかに調理された跡だそうです。
おそらく、狩りが出来なくなった犬は、食べられてしまったのでしょう。

↑猫鍋は知ってましたが、犬鍋もあるんですね。
人間が残酷になったわけではないと思います。
環境が、人と犬との関係を変えたのです。
寒冷化と戦乱です。

↑1983(昭和58)年の使い捨てカイロのCM。小学校で流行った気がします。
さて、2つの犬種ですが、もちろん今は残っていません。
絶滅したと言うよりは、交雑してしまい……。

純粋種としては残らなかったということでしょう。
現在の日本犬の共通の祖先になります。
北海道犬や琉球犬など、本州と離れた地域の犬は、縄文犬の特徴を残しているそうです。
これは、人と同じですね。

↓続いての写真は、こちら。

↑「み」
またまた歴史を遡り……。
こちらは、縄文人の一家です。
母親は、土器を作ってます。
子供は、土器を造る土をもらい、粘土遊びをしてます。
そこへ、父親が、大きな魚を銛で突いて帰ってきました。
夕食のごちそうを期待して、犬も大喜びです。
ちなみにこの犬が、縄文犬です。

↑「み」。さすが、猟犬だけあって、引き締まってます。
縄文時代というと、狩猟にたよる不安定な生活を想像してしまいます。
弥生時代になりって、農耕が始まり……。

ようやく、安定した生活を手に入れることが出来たと。
でも、はたしてそうでしょうか?
この2つの時代では、気候が違うということを考慮しなければならないと思います。
すなわち、縄文時代は温暖で、弥生時代は寒冷です。

縄文時代は、早い話、農耕などする必要がなかったんじゃないでしょうか。
森には動物が駆け回り、秋になれば、採り切れないほどの実りがある。

↑三内丸山遺跡から出た、通称『縄文ポシェット』。右下は、中にはいっていたクルミ。
海も豊かで、粗末な石針や銛でいくらでも魚が連れた。

↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。ここは、何回か行きました。
毎日、ちょっと外に出れば、必ず食べ物を得られるとしたら……。
農耕など、する必要があるでしょうか?
なんだか、エデンの園みたいな暮らしを想像してしまいますね。

↑エラストォウス・ソールズベリー・フィールド作『エデンの園』。
お酒もあったようですしね。
三内丸山遺跡からは、大量のニワトコの実が出土しています。

ニワトコの実は不味くて、飲みこむことも出来ないそうです。
それでは、その実を何に利用していたのかと云うと……。
煮出して発酵させ、お酒を作っていたのです。

↑酒造りの様子。くわしくは、こちらで。
ニワトコの実と一緒に、ショウジョウバエの蛹がたくさん出土したそうです。
ショウジョウバエは、発酵した果実によく集まります。
つまり、お酒を絞った後のカスを捨てたところに、ハエがたかったのでしょう。
お酒がある。

↑縄文時代の酒器だそうです。わたしが使ってる燗瓶とほとんど変わりません。
動物の肉がある。

木の実もある。

海の幸もある。

その日暮らしで、ぜんぜんオッケー。
朝起きたら、男は、縄文犬を連れてイノシシを狩るか……。

海に出て、魚を捕る。

女や子供は、森に入って木の実や山菜を採る。

で、お昼にはもう、帰ってくるのです。
女は、午後も土器を造ったりするのでしょうが……。

↑「み」
男どもは、獲物を捌いて、さっそく酒盛りです。

↑青森のお酒です。
良い気持ちで酔いつぶれて、1日が終わり。

まさしく、楽園の暮らしです。
こういう余裕があったからこそ、小児麻痺で寝たきりの子供を……。
介護して育てることが出来たわけです。

↑「み」。縄文時代の若い女性の人骨。寝たきりのまま成人してます。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
古代の変態ではありません。
以前、骨でご紹介しました。

↑「み」
そう、港川人ですね。
時代は、旧石器時代まで遡ります。

↑やはり、こういうイメージ。
まだ、服は無かったんですかね。
ま、沖縄だから暖かいのでしょうが。
わたしの画像は、角度が良くないので、拝借画像でご紹介します。

お父ちゃんが下げてるのは、ヤンバルクイナです。

↑飛べない鳥です。
お母ちゃんは、法螺貝と木の実を採ってきました。

どうやら、軍配はお母ちゃんに上がり、お父ちゃん、少々がっかりのようです。
港川人の身長は、男性で153~155cm、女性で144cm前後とのことです。
つまり、江戸時代の人と、同じ体型だったということです。
港川人の時代は、今から、約2万年前です。
江戸時代の人が、いかに小さかったかということがわかります。

一連の人形ですが、ほんとに表情が豊かです。

いったい誰が造ったのでしょう?
ネットを探しましたが、情報が見つかりませんでした。
↓さて、続いての写真はこちら。

↑「み」
見ればわかりますが、犬です。
なお、犬が進化して港川人になったわけではありません。
人類の歴史は、港川人で終了です。
パネルには、『伴りょ動物としての犬』とありました。
手前の白犬は、ハチ公だそうです。

秋田犬ですね。
どうやら、本物のハチ公の剥製のようです。
ハチが死んだのは、昭和10(1935)年3月8日。
渋谷川に架かる稲荷橋近くの路地で、死体が見つかりました。

死ぬまで、繋がれずにいたようです。
ご主人の上野英三郎氏が亡くなったのは、大正14(1925)年5月21日。
上野氏は、東京帝国大学農学部の教授でした。
教授会の後、脳溢血を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。
享年53歳。
ハチとの暮らしは、わずか1年でした。
しかし、ハチは、ご主人の死後、10年も渋谷駅で帰りを待ち続けたのです。

↑晩年のハチ公。左耳が垂れてるのは、野犬に噛まれたためだそうです。