「ええっ、何ですって!? 娘さんはすでに嫁がれてこちらにはいないって!? 娘さんは何人いらっしゃるのですか?」
「娘は1人しかいませんよ。正確に言うと子供は、息子が1人、そして娘は1人です…それが何か…?」
「そうですか、娘さんはお1人ですか…。妙なことをお聞きしますが、この旅館には女将さんの他にどのような方がいらっしゃるのですか?」
「はい。こんなひなびた旅館ですから従業員は少ないんですよ。私の他には夫、それから板前が2人、仲居が2人います。以前はもっといたのですが最近不景気で……」
「そうですか。ところでつかぬことをお伺いしますが、仲居さんのお歳はおいくつですか?」
「1人は今年55歳になります。もう1人は確か47歳だったと思います」
「20歳前後の若い女性はいませんか?」
「はい、おりませんが……。え…? ま、まさか……」
女将の顔色はみるみるうちに青ざめていった。
「車井原さん……」
「どうされたのですか?」
「こんなことを言うのも何ですが……もしかしてあなたが見られた女性は……」
「えっ? 私が見た女性が何だって言うのですか!?」
「いいえ、そんなことはあり得ないですわ…きっと車井原さんはお疲れだったんです。それできっと悪い夢でも見られたのだと思いますよ」
女将は口ごもってそれ以上語ろうとはしなかった。
でも明らかに何か隠している。
「女将さん……お願いです、教えていただけませんか」
女将は言うべきか言わないでおくべきかかなり迷ったが、ついに意を決して驚くべきことを話し始めた。
「車井原さんがお越しになられた目的は雪女伝説の調査でしたね。みんな祟りがあるからとあまり多くを語りたがりませんが、実は今でもたまに雪女が出ると言う噂があるんです。何でも好みの男がやってくると、彼女は人の姿で現れ、そのたぐいまれな美貌で男を魅了してしまうと言われています。やがて彼女は男を床に誘い虜にしてしまい、精を吸い尽くし、最後には氷の息を吹き掛け殺してしまう……と言われています……」
俊介は愕然とした。
「女将さん…実はその雪女に遭ったんです…」
「やはりそうでしたか……」
「遭っただけでなく毎晩その女性を……」
さすがにその先のことは言葉を濁した。
事情を察した女将は微笑みながら、
「それより先のことはおっしゃらなくても構いません。だいたいの察しがつきますので。とにかく東京にお戻りになったらご祈祷に行かれるのが良いと思います」
「ご祈祷ですか? でも少し痩せたぐらいでこの通りピンピンしてますし」
「それはあなたがよほど運がよかったのか、それとも雪女があなたのことを心底愛してしまったのか……私にはよく分かりませんが、くれぐれもご注意くださいね」
「はい、よく分かりました。ご親切にありがとうございます」
俊介は女将に10日間滞在の感謝を述べ、小千谷を後にした。
◇
俊介が帰った後、仲居が部屋の清掃に入ったところ、布団がしっとりと湿っていることに気がついた。それだけなら布団の上で水を飲み誤ってコップをひっくり返したとも考えられたのだが、さらにそのうえ、明らかに男性のものではない細くて長い髪が数本白いシーツに付着していた。
「女将さん? 先ほど帰られたお客様のお部屋なんですけど、女性同伴じゃなかったですよね?」
「ええ、お1人でお泊りだったわ」
「滞在中、外から女性のお連れ様がお見えになりませんでしたか?」
「どうしたの? あのお客様のところへはどなたも見えてないけど」
「女将さん、実はですね……」
仲居は怪訝な表情で髪の毛のことを女将に説明したのだった。
◇
一方、俊介は取材出張から帰ったのち、1日で報告書をまとめ企画部長に提出した。
当然ながら亜理紗のことは報告書には一切触れなかった。
亜理紗とのことを書けばきっと絶好のネタとして話題を呼ぶだろう。否、真実ではなくフィクションと捉える者が大半かも知れない。
いずれにしても話題になれば、他のマスコミがこぞって現地を訪れ亜理紗を探索するかも知れない。
それは困る。絶対に避けなければならない。
小千谷でのあの艶やかな出来事はそっと胸の奥底に仕舞いこんでおきたかった。生涯語ることもなく…。
(亜理紗……また会いに行くよ……きっと……)
俊介がパソコンの手を止めふと窓から外を眺めると、珍しく東京に粉雪が舞っていた。
そしてついに小千谷最後の夜が訪れた。
夜も更けた頃、いつものように亜理紗がやってきた。
俊介は募る想いを打ち明けた。
「亜理紗…僕は君を愛してしまった…。できることなら今すぐにでも君を東京に連れて帰りたい」
「まあ、嬉しい……ありがとうございます…俊介さん、私もあなたのことが大好きです。できればいっしょに東京に行きたい……」
「ぜひとも来て欲しい。亜理紗、君さえ了解してくれたら、明日、僕からお母さんを説得するよ」
「いいえ、それは……俊介さんといっしょに行きたいけど、やっぱり行けません……」
「どうして?」
「今は理由をお話できないけど……どうしても無理なんです……」
亜理紗は表情を曇らせた。
「そうなんだ…きっと深い訳があるんだね。じゃあ今は諦めるよ。でもいつかきっと東京へ来てね。僕も機会を作ってきっと君に会いに来るから……」
「ありがとうございます……俊介さんの気持ち…すごく嬉しいです……」
亜理紗は嗚咽し一筋の涙が頬を伝った。
俊介は亜理紗の涙を指で拭ってやり、そっと抱きしめた。
もしかしたらこれが最後の夜になるかも知れない…と俊介は思った。
そんな想いを心に秘めながらふたりは愛の契りを結んだ。
俊介はいつにもまして激しく亜理紗を攻め立てた。
亜理紗もまたそれに応えるかのように、狂おしいほど悶えた。
いくつかの体位をこなした後、亜理紗が俊介の上に乗ってきた。
いつものように亜理紗は俊介の上で妖しく舞い、俊介は下から猛攻撃をかけたが、不思議なことに俊介はいくら動いても身体が温まってこない。
むしろ異常なほど身体が冷えてくる。
(ううっ…寒い……どうしたんだろう…?)
しかも奇妙なことに、摩擦することもあり本来結合部の温度は上昇するはずなのに、逆に体温よりも冷たく感じられた。
いや、そればかりか挿し込まれている亜理紗の器までが恐ろしく冷たいのだ。
端的に言えば、まるで氷の中にペニスを挿し込んでいるような、そんな想像を絶する感覚に陥った。
(おかしい……どうしてだ……)
ところが亜理紗の顔を見ると情欲に悶える女そのものの表情であり、昨夜までと何ら変わりがない。
まもなく亜理紗が絶頂を迎え、少し遅れて俊介もまた亜理紗の中で果ててしまった。
しばらくすると亜理紗は前かがみになり顔を俊介に近づけた。
俊介は亜理紗が接吻を求めてきたものだと思っていると…
(ふぅ~………)
突然亜理紗は俊介に息を吹きかけた。
その吐息は凍てつくように冷たかった。
「……!!」
俊介は身体が凍えて次第に動かなくなっていくように感じた。
亜理紗は涙をにじませながらささやいた。
「俊介さん、私はあなたが好き……あなたを東京に帰したくない……ずっとこのまま……」
亜理紗はそれだけ話すとはたと言葉を切った。
そして俊介から離れ涙声で言った。
「できない…できない、私にはとてもできないっ! さようなら…俊介さん……さようなら…ううう……」
亜理紗は別れの言葉を口走りながら、涙ながらに部屋から出ていってしまった。
しかも全裸のままで……
俊介は思いがけない成り行きに呆然としていた。
いったい亜理紗に何が起こったのか……
亜理紗が述べた別れの言葉はある程度理解できるが、『私にはとてもできない』と述べたあの一言にはどんな意味が込められていたのだろうか。
亜理紗が残した不可解な一言に俊介は思い悩んだ。
果たして彼女は何ができないと言ったのだろうか……
亜理紗が去った後も凍てつくような戦慄が俊介を支配していた。
◇
俊介はほとんど眠れないまま10日目の朝を迎えた。
朝食を運んで来たのはいつもと同じ女将であった。
そう言えば亜理紗が食事を運んできたことは一度もなかった。
俊介は亜理紗のことを母親である女将に一度聞いてみたいと思っていたが、とうとう今日まで切り出すことができなかった。と言うのも、まさか「あなたの娘さんと恋に落ちて毎晩床をともにしています」などと言うわけにもいかなかったからだ。
しかし10日間お世話になったこの旅館とも今日でおさらばだ。
俊介は思い切って亜理紗のことを尋ねてみることにした。
「女将さん、大変お世話になりました。また機会がありましたらぜひお邪魔させていただきます」
「こちらこそありがとうございました。ぜひまたいらっしゃってください。お待ちしております」
「ところで……」
「はい?」
「あのぅ…娘さんのことですが、昼間は全く見かけないのですが、どちらかに行かれているのでしょうか?」
「え…? 娘…ですか? 娘って私の娘のことですか…?」
「はい、もちろん女将さんの娘さんのことですよ」
「確かに私には娘はいますが…でも今は関西の方に嫁いでしまって、もうこちらにはいないんですよ。昨夜も電話で長話をしてしまいまして。で、その娘が何か……?」