婆「円仁は、学問と修行に専心し、師の最澄から深く愛された。
最澄が、『止観(しかん)』という高度な概念を学ばせた弟子は、10人おったが……」

婆「最澄の代講を任せられるようになったのは、円仁ひとりじゃった」
み「ちょっと、端折ってくれませんか」

↑端折り方。
婆「忙しないやつ。
仕方がない。
それじゃ、遣唐使船で、唐へ渡る場面から語るか」
み「浪曲師か!」

↑東大出だそうです。
み「もう少しあと!」
婆「最初に渡航を試みたときで、すでに円仁、42歳じゃぞ」
み「80くらいから」
婆「亡くなっておるわ、バカもんが。
とにかく、2度の渡航失敗にもくじけず、ようやく3度目に唐に渡った」

↑こんな船に、150人も乗ってたそうです。成功率は、50%くらいだったとも。
婆「最初に渡航を試みてから2年後、円仁、44歳のおりじゃ。
以来、まったく中国語が話せないというレベルから、約10年間に渡り修業を積んだ。
中国は、とにかく広い」

婆「当然のことながら、当時は、どこへ行くにも自分の足で歩くほかはない。
五台山への巡礼には、58日間かけて、1,270キロを歩きとおした」
律「1日、どれくらい歩いたんですか?」
婆「40㎞は、平気で歩いたそうじゃ」
律「えー。
マラソンと同じくらいじゃないですか」
婆「しかも、毎日じゃぞ」
み「足が磨り減って、半分くらいになってしまうわ」

↑ギリシャの『マラトン』という都市が、“マラソン”の語源です。『マラトン』での戦勝を伝える伝令が『アテネ』までを走り抜き、「われら勝てり」と告げて息絶えたそうです。その距離が、42.195㎞。
婆「1日40㎞を、歩いて移動するということに驚くのは……。
今は、ほかに移動手段があるからじゃ。
当時は歩くしかないのじゃから、選択肢はない。
何の疑問もなく、歩いたはずじゃ」
婆「で、修業も深まったある日のこと。
円仁は、夢を見た。
夢告と云うやつじゃ」

↑これは、夢告とは違いますね。
最澄が、『止観(しかん)』という高度な概念を学ばせた弟子は、10人おったが……」

婆「最澄の代講を任せられるようになったのは、円仁ひとりじゃった」
み「ちょっと、端折ってくれませんか」

↑端折り方。
婆「忙しないやつ。
仕方がない。
それじゃ、遣唐使船で、唐へ渡る場面から語るか」
み「浪曲師か!」

↑東大出だそうです。
み「もう少しあと!」
婆「最初に渡航を試みたときで、すでに円仁、42歳じゃぞ」
み「80くらいから」
婆「亡くなっておるわ、バカもんが。
とにかく、2度の渡航失敗にもくじけず、ようやく3度目に唐に渡った」

↑こんな船に、150人も乗ってたそうです。成功率は、50%くらいだったとも。
婆「最初に渡航を試みてから2年後、円仁、44歳のおりじゃ。
以来、まったく中国語が話せないというレベルから、約10年間に渡り修業を積んだ。
中国は、とにかく広い」

婆「当然のことながら、当時は、どこへ行くにも自分の足で歩くほかはない。
五台山への巡礼には、58日間かけて、1,270キロを歩きとおした」
律「1日、どれくらい歩いたんですか?」
婆「40㎞は、平気で歩いたそうじゃ」
律「えー。
マラソンと同じくらいじゃないですか」
婆「しかも、毎日じゃぞ」
み「足が磨り減って、半分くらいになってしまうわ」

↑ギリシャの『マラトン』という都市が、“マラソン”の語源です。『マラトン』での戦勝を伝える伝令が『アテネ』までを走り抜き、「われら勝てり」と告げて息絶えたそうです。その距離が、42.195㎞。
婆「1日40㎞を、歩いて移動するということに驚くのは……。
今は、ほかに移動手段があるからじゃ。
当時は歩くしかないのじゃから、選択肢はない。
何の疑問もなく、歩いたはずじゃ」
婆「で、修業も深まったある日のこと。
円仁は、夢を見た。
夢告と云うやつじゃ」

↑これは、夢告とは違いますね。
み「ところで、この恐山は、いつごろ開かれたわけ?」
婆「開山は貞観4年と伝えられる。
西暦862年じゃ。
平安時代初期じゃな」

↑平安時代は、江戸時代よりずっと長かったんですね。
婆「恐山の開祖は、最澄の弟子、円仁と伝えられる」

↑鶴竜?
婆「最澄は、知っておるな?」
み「さいちょう秀樹?」

婆「馬鹿たれ。
天台宗の開祖、伝教大師さまじゃ」

婆「比叡山延暦寺を開かれた」

婆「円仁は、比叡山で最澄から直接教えを受けた弟子じゃ。
のちに、第3代天台座主になられておる。
諡号は、慈覚大師」
み「痔核?
イボ痔だったのか?」

↑AV出演の奥さまに、たまにいらっしゃいます。
婆「黙って、聞かっしゃれ!
円仁は、下野国の豪族の子に生まれた」

↑今の栃木県です。
婆「兄からは儒学を勧められたが……。
早くから仏教に心を寄せ、9歳で、大慈寺に入って修業を始めた」

↑大慈寺は、栃木県栃木市に今もあります。本堂が最近落成したようです。
律「9歳で、自分からお寺に入ったんですか?」
婆「そういうことじゃ」
み「あり得ん。
豪族の子なら、遊んで暮らせたろうに」
婆「歴史に名を残す偉人の行いを……。
自分らと同じ目線で考えてはいけませんぞ。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くと……。
直ちに比叡山に向かい、最澄に師事した」

↑甲子園でおなじみの『比叡山高校』。延暦寺の経営です。
婆「開山は貞観4年と伝えられる。
西暦862年じゃ。
平安時代初期じゃな」

↑平安時代は、江戸時代よりずっと長かったんですね。
婆「恐山の開祖は、最澄の弟子、円仁と伝えられる」

↑鶴竜?
婆「最澄は、知っておるな?」
み「さいちょう秀樹?」

婆「馬鹿たれ。
天台宗の開祖、伝教大師さまじゃ」

婆「比叡山延暦寺を開かれた」

婆「円仁は、比叡山で最澄から直接教えを受けた弟子じゃ。
のちに、第3代天台座主になられておる。
諡号は、慈覚大師」
み「痔核?
イボ痔だったのか?」

↑AV出演の奥さまに、たまにいらっしゃいます。
婆「黙って、聞かっしゃれ!
円仁は、下野国の豪族の子に生まれた」

↑今の栃木県です。
婆「兄からは儒学を勧められたが……。
早くから仏教に心を寄せ、9歳で、大慈寺に入って修業を始めた」

↑大慈寺は、栃木県栃木市に今もあります。本堂が最近落成したようです。
律「9歳で、自分からお寺に入ったんですか?」
婆「そういうことじゃ」
み「あり得ん。
豪族の子なら、遊んで暮らせたろうに」
婆「歴史に名を残す偉人の行いを……。
自分らと同じ目線で考えてはいけませんぞ。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くと……。
直ちに比叡山に向かい、最澄に師事した」

↑甲子園でおなじみの『比叡山高校』。延暦寺の経営です。