全競技が終わり、まばらになった観客席の中、手すりをギュッと掴み、一点を見つめている彼女がいた。
表彰式での夢のようなひと時が終わり、チームメイトから暖かい声援に送り出されたタチアナだったが、そんな姿を目の当たりにして、どう声を掛けようかと今更迷い、茫然と彼女の姿を見つめていた。
タチアナの気配を感じたのか、振り向いた彼女の顔が輝いた。
「タチアナ? ……いつからそこにいたの?」
「ちょっと前から。あなたのことを見て居たくて……」
そう言うと、タチアナは彼女のもとに駈け寄り抱きしめた。
「会いたかった……」
「……私も。いてもたってもいられなくてここまで来てしまった」
見つめ合ってから暫らくして、お互いにクスリと笑った。
「ここではね」
「……・そうね」
まばらになったとはいえ、観客席には名残惜しそうにしている数人の観客がいて、競技の余韻を楽しんでいた。本土ではいざ知らず、異国の地、ましてや保守的な国で、同性同士が熱い抱擁をし、口づけをし合う姿を目撃すれば、怪訝な顔されるのは目に見えていたからだ。
タチアナはそっと手を伸ばすと、彼女の手を握った。
「さあ、行きましょう」
「どこへ?」
「決まっているでしょう。あなたが泊まっているホテルへよ。まさか私が宿泊している選手村に、あなたを連れていく訳にはいかないでしょう。もっとも、チームメイトのみんなは大歓迎してくれるでしょうけど、当局が黙っていないわ」
当局というのは“中国”だと、彼女はすぐに分かった。
「そ、そうね」
青白い顔をしていた彼女の頬に、ほんのりと血色が戻ったのがとても可愛いとタチアナは思った。
「そうする」
タチアナの手を強く握り返した彼女は、あどけない少女の様に見えた。
(私の為に来てくれた……)
観客席からは、周りの熱気とは対象的にひっそりと佇むアメリカ人女性が、タチアナを笑顔で見つめていた。
彼女は、数年前まではタチアナとオリンピック代表の座を争うほどの実力者だったが、ある日、突然引退してしまった。
病気だった。不治の病に侵され、数年の命と宣告されたからであった。
(前より、幾分痩せている……)
タチアナは彼女の気持ちが痛いほどわかっているので、来てくれた喜びと彼女の体のことを思い、目頭が熱くなった。
(本来ならば、ここにいるのは彼女だった)
コーチと共に控室へ下がる際、涙がこぼれた。
「あ、どうしたことでしょう。タチアナ選手、控室へ戻る際、泣いております……。やはり悔しかったのでしょうか?」
解説者は戸惑いながら答えた。
「真意は分かりませんが……。たぶん、自国のチームが金メダルを逃したことへの思いからだと思われます」
「今回、この結果に、ご覧の視聴者の皆さんの意見は色々あると思われます。私個人の意見は、アナウンサーとして言ってはいけない場面ですが、敢えて言わせて頂きます……。
“クソだ!"」
アナウンサーは解説者に睨まれるかと思ったが、意外な返答が返って来た。
「同意します」
解説者はニヤリと笑うと、アナウンサーに、にじり寄り、頬にキスをした。
耳たぶまで真っ赤になったアナウンサーは、〆のアナウンスをした。
「CMNが第29回夏季オリンピック北京大会、女子体操決勝が行われた北京国家体育館からお送りしました。素敵な夜を……。アメリカ万歳!」
控室へ戻る廊下で、タチアナのチームメイトが彼女を気遣って集まって来てくれていた。
「タチアナ、よかったわよ!」
「素敵だった!」
「私もあのような演技をしてみたい!」
一人ひとりと抱き合い称え合っていたが、タチアナの心は、彼女の元へ一刻も早く行きたいという気持ちで揺れていた。
一人のチームメイトが、彼女の只ならぬ様子を察して尋ねた。
「どうしたの?」
タチアナはうつむいた。
「…………来ているの?」
タチアナはゆっくりと頷いた。