「私、疲れたわ。シャワー浴びていい?」
ミッシェルはタチアナにもう一度口づけをすると、そう告げた。
タチアナはゆっくりと頷き、脱衣所に向かう彼女を見送ったあと自分のつま先を見つめた。
ブロンドのヘアーにハンチグ帽を被り、淡いサングラスといういでたちだったミッシェルは、帽子をフックにかけ、サングラスを外すと溜息をついた。思い直したようにブロンドヘアーの頭頂部をつまみ、一気に引き上げた。
そこに現れたのは、髪の毛1本生えていないスキンヘッドの頭だった。衣服をすべて脱ぎ去り、洗面台に向かう。ゆっくりと水道の水で顔を洗うと、眉毛もまつ毛もすべて流され、毛髪というものがすべてなくなった顔が現れた。
収抗がん剤の副作用で、体毛すべてが失われていたのだ。
洗い終わると鏡を見つめた。
幼いころ自分が想像していた年齢の体には遠く及ばない体が映し出されていた。
体毛のない顔と頭。頬がこけ、アバラ骨が浮き出た胸、そして骨に皮が付いているように細くなった手足。人間には見えない、まるで映画に出てくるような宇宙人そのもの。
見るたびに愕然とし、膝から崩れそうになる。そんな気持ちを彼女が支えてきてくれた。
ふと鏡を見ると、生まれたままの姿のタチアナが背後に立っているのが見えた。
「お願いだから私の姿を見ないで」
ミッシェルは両手で胸を押さえ、その場にしゃがみ込んでしまった。
タチアナは背後からゆっくりと腕を回し、彼女を立ち上がらせ耳元に告げた。
「素敵よ。大丈夫。安心して。私の愛は変わらないわ……」
そう、その言葉でどれだけ心が救われてきたか計り知れなかった。
己の姿を見るたびに襲ってくる恐怖と嫌悪感、そして絶望。
その気持ちが、彼女の魔法のような“安心”という一言で溶かされていくのが分かった。
「ありがとう……でもこんな体嫌いでしょ?」
タチアナは首を横に振った。
「そう、以前はあなたの体に惹かれ繋がりたいと常日頃思っていた。もちろん今でも体で繋がりたいと思うけど、それ以上にあなたと心と心で繋がっていたいと思う。
ミッシェル。
あなたはあなただから、どんなことになっても私は愛し続ける」
ミッシェルは振り向くと、タチアナの胸に顔を埋め嗚咽を漏らした。
「タチアナ、あなたと永遠に愛を続けた……」
タチアナはミッシェルの顎を上げ、唇を彼女の唇に重ね、言葉の続きをさえぎった。
2人の裸婦はお互いを強く抱きしめあい、4つの瞳からは水晶の様に輝く涙が流れた。
リビングのTVではニュースが流れおり、体操の結果がタチアナの演技と共に伝えられていたが、画面下部にテロップが小さく流れていたことを、2人は知る由もなかった。
『南オセチアでの5日間に及ぶロシアとグルジアの紛争が、フランスの調停により停戦合意となった』
彼女の名はミッシェル・エマーソンと言った。タチアナより2歳年下であったが、はた目では彼女の方が年上に見えた。
ホテルで、ミッシェルとタチアナは見つめ合っていた。
「やっと、二人きりになれたね」
というのも、ここまで来るのに大変な思いをしたからだった。
競技会場を出たタチアナを、マスコミが待ち構えていた。タチアナを見るや否や、ぐるりと取り囲んだ。
彼女へのインタビューは、演技よりもカミングアウトについての質問がほとんどだった。
「演技には興奮しましたが、競技前に発表した経緯をお聞かせ願いますか?!」
「同性愛に対するこの国の対応はどう思われますか?」
「恋人との関係は何時からですか?」
「恋人とご結婚なされるって、本当ですか?!」
タチアナは、彼らの目に興味本位でしかないものを感じとり、嫌悪感を抱いた。
「すみません。競技に集中していたので体力を使い果たしており、ご質問には後日お答えしたいと思います。今日は選手村に帰らせてください。お願いします」
「そんなこと言わず、今、答えてくださいよ!」
「同性への興味を感じたのは何時からですか?」
「男性はお嫌いなのですか?」
質問が再び熱を帯び始めたころ、彼女に助っ人が介入した。
暖かいまなざしで公私ともに面倒を見てくれていたコーチだった。
「彼女は疲れ切っています。ここでメダリストが倒れたりしたら、あなた方はアメリカ国民の敵になり、国民が黙っていないでしょう」
その言葉で一同がギョッとした。国民の敵という言葉が、彼らの心にぐさりと効いた。
彼らはしぶしぶ輪の一部を開放した。
タチアナはコーチに感謝しつつ、はやる心を押さえながらゆっくりと迎えのバスに乗り込んだ。そんな様子を輪の後ろで見ていたミッシェルは、急いでタクシーを拾い乗り込んだ。
自分の宿泊するホテルへ向かう途中、彼女を拾うことを事前に打ち合わせておいたからだ。
ホテルの部屋に入ると、タチアナはミッシェルの頬を包むように両手をそえ、ゆっくりと口づけをした。
「愛している……ミッシェル」
ミッシェルの両目には、溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「私の為に、あんな辛いことを受ける……」
タチアナは、人差し指を彼女の唇にそっと押し当てると囁いた。
「それ以上は言わないで。私が望んだことだから……。辛くないと言えば嘘になるけど。
でもカミングアウトして良かったと思う。あなたに対しての思いが正しいことを自分自身が認識できたから。今はとても幸せな気持ちでいっぱいなの」