緞帳がゆっくりと降りてくる。
もうすっかり幕の向こうに客の顔が見えなくなると、満面に笑みを浮かべてお蝶が口を開いた。
「ねえねえ八十さん、あたし最後んとこどうだった? よかった?」
「なに、よかったなんてもんじゃねえ。いつだってお蝶さんはとびっきりでさあ。」
「ほんと? だって団子三本なんて持たすんだもん、何かいわれがあったのかい?」
「えへへ、いや別段・・・。ただ、何となくなんですがね・・・。」
「ほらごらん。いつもこんな調子なんだからもう。大体あんたね・・・。」
「まあまあ、お蝶、もういいじゃないか。明日からはまた新しい出し物なんだ。今日は千秋楽の無礼講で、一杯やりに行こう。」
「わあっ、菊ちゃん行こう行こう。あたしむすっと黙ってばっかりで、もうぱあっと騒ぎたかったのよ。」
「よっ、水月さん、あなた舞台の外ではとたんに賑やかですね。ぱあ~っと、いやいいですねえ~。行きましょう、行きましょう。」
「あら、八十さま。あなた女ばかりの中に男一人でお出でになりますの?」
「あいたっ、羅紗様、そうでした。綺麗どころの中にあたしみたいな親爺は目の毒、じゃなかった目の汚れ・・・。どうぞ皆さんで行っておくんなさい。」
「ふ~ん、大人は難しいのね・・。」
「そうだ、春ちゃん秋ちゃん。おじちゃんと一緒に行こうか、ご馳走するよ。」
「いやあ~だ、八十さんと一緒なんて。それに浮世絵の先生たちが沢山、あたいたちのこと描きたいって表で待ってんのよ。」
「ああ、そうか・・。そいつは行かなくちゃいけねえなあ・・・。」
「まあ八十さん、可哀そうに・・・。私でよければ一杯お付き合いしますよ。」
「ありがてえ、美夜叉さん・・・。役どころと違ってあなたあ、いつも優しいねえ・・。でも今日はめでてえ打ち上げの日だ。あたしなんかに構わず、どうか皆さんと一緒に行っておくんなさい。」
「そうですか・・・? では遠慮なく。赤さん黒さん、参りましょうか。」
がやがやと綺麗どころの声が表に遠のいて行く。
八十さんは何となく寂しげな様子で、表に続く暖簾を上げながら振り返った。
「え? 何ですお客さん。お通はどうしたんだって・・・? あれっ? お客さん、お通は、お通さんは・・・お蝶さんの一人二役。早変わりですぜ。
最初からお通の役者さんは、居やしなかったんで・・。二人に見えたんなら、お客様の優しい心が二人に見せたんでさあ。」
その時、表から八十さんに黄色い声がかかった。
「ちょいと八十さん、何やってんのう? 早く来ないと行っちゃうようっ!」
とたんにどっと若い女たちの笑い声が上がる。
「おおっとお客さん、お呼びだ。世の中捨てたもんじゃありませんねえ・・。血なまぐさいお話の後でも、この暖簾ひとつくぐって表に出りゃあ、天下泰平元禄の世だ。
お客さん、今日は長いこと観てくださって有難うございました。それじゃあ、また・・。はあ~い、今行きますようっ!!」
八十さんが暖簾の向こうに姿を消すと、表でまたどっと笑いさざめく声が上がった。
完
●次回からは、新シリーズの連載が始まります。
緞帳がゆっくと降りてくる。
八十さんは舞台の袖からまばらな入りの客席を覗いて、はあっと小さな溜息をついた。
しばらく締まりのない表情を肩の上に乗せていたが、やがてうんっと顔を上げて舞台小屋の奥へと歩いて行く。
控えの間の前まで来ると、八十さんはおもむろにその足を止めた。
ほっぺたを両手で挟んで押し上げる様に動かすと、即席にあまり上品でもない笑顔が出来上がる。
「先生!」
そう元気な声を出しながら勢いよく襖を開ける。
「先生、お蔭様で結構な入りで、私らも張り切ってやらさせて頂きました。」
部屋の中には中年の上品な女性が座っている。
化粧もせず質素な身なりではあったが、八十の方を見てほほ笑んだ風情は、そこはかとなく人の心を和ませる人柄を感じさせた。
「まあ、それは結構なこと・・・。」
「な、なんですけど先生、申し訳ありやせん。あたしが甲斐性が無いばっかしに、先日お話した通り、今回でこの小屋も閉めることになっちまって・・・。
あっしゃあ、何のお礼も出来ぬままが悔しくって・・。どうか最後に差し入れの酒だろうが芝居の着物だろうが、何だって持ってっておくんなさい・・。」
もう五十過ぎくらいだろうか、その女性は優しげな表情を少しも変えることなく口を開いた。
「八十さん、お礼を言いたいのは私の方です。皆さんがこんなに一生懸命に演じて下さって・・・。どうかお酒やお米は、最後に一座の皆さんで召し上がってください。有難うございました。」
その女性はそう言うと、目の前の座卓の上に何やら光っている物を見つめた。
八十さんが何かと覗き込むと、それは一本の銀細工の簪であった。
そして銀色に輝くその簪の中程には、もうずいぶん古びて黒ずんではいたが、小さな蝶の作り物が留めつけられていた。
「こりゃあ蝶の細工・・・。じゃあ今度のお話はひょっとして・・・。」
しばらくの静けさの後、その女性は簪を見つめながら言った。
「先月、病で亡くなりました・・・。亡くなる前でさえ、私のことを伊織様と呼んで、きっと昔のことを思い出していたのでしょう・・・。」
「そ、そいつぁあ・・・。」
八十さんはかける言葉が見つからずに、じっと女性の顔を見つめた。
しかし、やがて思いついたように八十さんは女性に問いかける。
「ら、羅紗姫様はどうしていらっしゃるんで・・・?」
「松浦家のお殿様の母君として、今も丹波で元気にしていらっしゃいますよ。」
「は、母君・・・・?!」
八十さんは要領を得ない呟きを漏らした。
簪から視線を上げた女性は、遠くを見るような目で話し始める。
「いくつもの命が失われた旅の終わりに、一つの新しい命が宿りました。今のお殿様は、江戸の小さな長屋の一室でお生まれになったのです。
取り上げたのは、お蝶さん。あの人は腕の立つ忍びでしたけれども、赤子を取り上げるのもとても上手でしたよ・・・。」
八十さんは言葉も無く女性の話に聞き入ってしまった。
「あの人はえらい人でした。国元までの長旅に耐えられるようになるまで、赤子は一年半ほど江戸の長屋で育てました。
いよいよ赤子が国元へ旅立つ時、一番悲しんで泣いたのもあの人でした・・・。」
伊織、いや菊は、ゆっくりと立ち上がって表に面した窓を開け放った。
上には抜けるように青い空が広がり、その中に風の筆が白い雲を引いている。
「一緒に暮らして三十年余り・・・。長いようで束の間のことのように感じます。あの人を背負って江戸に帰り始めた時も、このようなよい天気でした。」
菊の背中を見つめる八十さんの目が、次第に輝きを増してくる。
「きっと今頃は、久しぶりにお通さんと昔話に花を咲かせていることでしょう・・・。」
「先生!!」
急にびっくりするような大声に、菊は驚いて後ろを振り返った。
いつの間にか正座をした八十さんが満面に笑みを湛えて菊を見つめている。
「先生、また一緒にやりやしょう。おあしなんざ、いや、え~っと、なにどっかに転がってまさあ。」
「あら・・。」
八十さんの突飛な威勢のよさに、菊は思わず目を丸くした。
「小屋なんかなくなったって、これから先きゃあ外の方が涼しくって・・・。そうだ、隅田川の川っぷちなんてのも粋でようがすよ。ちと蚊に食われんのが恨みだが。あっははは・・・。」
「まあ、おっほほほ・・・。」
天下泰平元禄の世に人知れず日陰の花たちは散っていった。
亡き人を忍びつつ菊が昨日のことのように思い出した物語も、もう遥か昔の出来事である。
二人の庶民の笑い声は、人の心の優しさを信じて、舞台小屋の小窓から青空の下へと流れて行った。
完
●次回、もうひとつの最終章