うららかな午後の日差しが山々に降り注いでいる。
室に面した山腹の岩に腰を降ろして、亜希子は遥か下方の景色をぼんやりと眺めていた。
この地に来てわずか2週間余りにもかかわらず、その間に起きた様々な出来事が脳裏に去来する。
しかし今亜希子の目の前には、数百年を越えて何事も無かったかのように、のどかな山里の景色が広がっているばかりだった。
山沿いに見え隠れしている九十九折りの道を一台のバイクが上って来るのが見える。
切れ切れに聞こえていたその排気音は徐々に大きくなり、やがて亜希子の後ろで止まった。
「宿舎にいないと思ったら、やっぱりここだったのね」
「ええ……」
亜希子は目方慶子の声に振り返った。
十日室の事件からもう五日が経過していた。
「病院の碧ちゃんも順調に回復しているみたいで、本当によかったわ」
「ええ、お蔭様で。あなたには何とお礼を言っていいか……」
そう言うと亜希子は慶子の顔をじっと見つめた。
「い、いえ、それは仕事ですから……。あ、その仕事で今日は報告に来たのよ」
一瞬はにかんだ笑顔が消えて、慶子は再び口を開く。
「今日小山内薫と村長の妻の篠崎由紀恵が、養子である篠崎碧さんに対する保険金目当ての殺人未遂で逮捕されたわ。そして篠崎由紀恵に関しては、別件の殺人容疑でも追及される事になると思う」
「そうですか、わかりました……」
亜希子は力なく返事をすると、再び山里の景色に目を向けた。
「津山署に身柄を拘束されてから、小山内薫はあっけないほどすべてを話してくれました。自白を含めた証拠からして、今回の事件に関してはさすがに篠崎由紀恵も言い逃れは出来ないでしょう。それから……」
言いにくそうに口ごもった慶子の話を、亜希子は黙って待った。
「共犯の疑いで東京で身柄拘束された大北真希が、何故かあなたのご主人に取り入っていたみたいなの……」
亜希子は黙って山々に目を向けたままだった。
「いえ、あなたのご主人は犯罪に関与した可能性は少ないんだけど、大北真希はご自宅に入り込んで一緒に暮らしていたらしいの。小山内薫の自供にもあったけど、よほどあなたとご主人を引き離したかったみたいね……。言わばご主人も、今回の被害者の一人かもしれないわ……」
亜希子はふと視線を落とすと小さく呟いた。
「主人は……、あの人は仕事も出来るし、またいい人とやり直しが出来ると思うわ……」
奥深い山の静けさが二人を包み込んだ。
「そこ、座っていい……?」
「あ、ええどうぞ」
振り返った亜希子は、身体をずらして慶子の座る場所を開ける。
横に腰を降ろした慶子は、亜希子と並んで山々の景色に目を向けた。
「あたしね、亜希子さん……」
「ええ……」
「小山内さんは、保険金なんてどうでもよかったんじゃないかって思ったの。身柄を拘束された彼女は、すぐ何のためらいも無くこの事件の真相を話した。そしてね、津山署の調書の中に不思議なことを言っているわ……」
「不思議なこと……」
亜希子は小さく呟いた。
「もう十日室の習わしを終らせたかったって……」
「え……?」
「小山内さんは今回の取材依頼で東京を訪れた際、会社であなたを見たらしいの。そしてそれ以来、自分の中で何かが変わったって……」
亜希子は慶子の横顔から自分の足元に視線を落とす。
「それまで彼女は、仕事が立て込むと激しい怒りや悲しみを覚えて、時々病院で治療を受けていたらしいの。彼女は今回、もう十日室の慣習をなくして心の平安を得る時が来たと思ったそうよ」
「私、岡山まで降りた時、調査で足を伸ばしたの。いえ、これはその、仕事とはちょっとちがうんだけど……」
亜希子は足元を見つめたまま慶子の話に耳を傾ける。
「世の中には不思議な事があるものね……。あなたの母方のご出身は広島の三原でしょ?」
「ええ、古い家系だとは聞いてるけど……」
「三原の家の敷地内に、古い石碑が立ってるのを覚えてない……?」
「え……?子供の頃何度か行っただけだから、ちょっと………」
首を傾げた亜希子は、やがて顔を上げて目を見開いた。
「ええ、あった、あったわ、小さい石碑が……。もうかなり古びて、彫り込まれた文字も読めなかったけど……」
慶子は亜希子の横顔に言った。
「それが山の奥様だったのよ。荼毘に付された奥様は、ご恩を感じていた人たちの手で故郷へ届けられたの」
亜希子は目頭が熱くなるのを感じた。
「この土地の村史や民さんのお父さんの研究から三原につながって、三原の郷土史研究家の話からあなたのご先祖にたどり着いたの……」
遺骨を抱いて山を降りて行く村人たちの姿が、九十九折の道に見える様な気がした。
「それから私は、小山内さんの出身地を調べた。父方はどうやら兵庫県の山あいの出身ってことが分かった。そして民さんの資料では、夫である役人は貧しい国から苦学して役人に登用されたそうよ。丹波の国からね……」
亜希子は固く両目を閉じた。
「でもね……小山内さんにしても碧ちゃんにしても、そこでもう私は調べるのをやめたの。私たちの理解を越えたどんなに強い力が働いていたとしても、私の仕事ではもう何の意味も無いことなのよ……」
慶子は目を閉じたままの亜希子に告げる。
「十日室の神事は、臨時村議会で今後継続しないことに決まったわ。十日室の恩讐の歴史は、役人の子孫が室を壊すことで終わりを迎えたの……」
亜希子の目から一筋の涙がこぼれた。
目方慶子はゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ私は、今日東京に戻るわ。あなたも帰るなら、乗せていくけど……?」
亜希子は慶子を見上げて、静かに首を横に振った。
「やっぱり残るのね」
亜希子もゆっくりと岩から立ち上がる。
「私はここで碧ちゃんと暮らすわ。それがいつまで続く事か、分からないけど……」
慶子は黙って頷いた。
亜希子の肩に手を置くと、人懐こい笑みを浮べて口を開く。
「今度は居酒屋にでも行って一緒に一杯やりましょうよ」
亜希子も泣き笑いで頷いた。
「約束よ!あたしが呼び出したら、東京にだって出てくるのよ、いい?」
鼻をすすりながら亜希子はやっと返事をする。
「ありがとう……。ええ、勿論……」
「うん……と、五反田の居酒屋の割引券たくさん溜まってたんだけど、まだあったかな?えと、あ、これは免許証か……あら……?」
慶子は分厚い財布から取り出したものを岩の上に並べる。
亜希子は並んだうちの一枚を手に取った。
「割引券なんかなくても、あたしがお腹一杯奢ってあげるわ、楓ちゃん」
「あっ!!!」
慶子は血相を変えて亜希子の手から免許証をひったくる。
「何も言わないで。もうなにも聞きたくない」
「どうして?秋山 楓………きれいな名前じゃない」
「あ!今、二番目に聞きたくない事を言ったわね。もう沢山」
慶子は出したものを財布にしまい込むと、バイクに向かって歩き始める。
「どうして目方慶子なんて偽名を私に使ったの?」
長い足を上げて慶子はバイクに跨った。
「目方慶子って、"帝都物語"に出て来る巫女の名前よ。不思議な力を持ってる女って、なんかかっこいいでしょう?」
「ばかみたい……」
「ふん!」
ヘルメットをかぶろうとする慶子に亜希子は言った。
「じゃ最後に、一番聞きたくない言葉は何なの?こんなに可愛い名前なのに……」
「それはね……、もう今あなたが言ったわ。じゃ、あたしが呼び出したら集合するのよ、わかったわね!」
そう言いながらヘルメットをかぶりかけて、慶子はふとその手を止めた。
「本当は、あなたを助けたのは私じゃないのかも……」
「え……?」
亜希子は怪訝な顔を慶子に向ける。
その顔を見つめ返す慶子は、夢で見た馬上の二人を思い浮かべた。
「きっと私は、恩返しをしただけなのよ」
「何ですって……?」
「うふふ、何でもないわ。じゃ……」
慶子がヘルメットをかぶったとたんに大型バイクの排気音が鳴り響いた。
「ああ!下りはこっちこっち!!」
走り出した慶子に亜希子は大きなジェスチャーで叫ぶ。
分かってると言わんばかりに片手を振りながら、慶子のバイクは来た道を下って行った。
急いで崖の上に立つと、亜希子はふもとに降りて行く山道を眺めた。
森や山に見え隠れしながら、目方慶子のバイクが走って行く。
やがて豆粒ほどに小さくなったその姿は、とうとう尾根の向こうに見えなくなった。
たちまち山の静けさが亜希子を取り囲む。
亜希子はその姿が消えた辺りをじっと見つめ続けていた。
と、どうしたことか、突然山の端から再び逆向きに慶子の姿が飛び出した。
「うふふ……」
亜希子は小さな笑い声を漏らす。
「そうよね。あなた私の携帯番号知らなかったでしょう?楓ちゃん」
猛然と山道を登って来る慶子の姿に亜希子は笑顔で呟いた。
一陣の風に室の扉に下げられた立ち入り禁止の文字が揺れる。
気の早い山の夕暮れは、もう見渡す限り山の端を赤く染めながら、山腹に佇む亜希子を悠久の時の一ページに映しこんでいた。
明るい日の光が広々とした草原に降り注いでいる。
それは見渡す限りなだらかな起伏の続く、懐かしい景色だった。
遠くの丘の上に何か小さな輝きが見えた。
その輝きが、微かに揺れながら近づいて来るように見える。
“馬……?”
その輝きは一頭の栗毛の馬だった。
そしてその馬の上に二人の人物が跨っている。
やがて馬は、荒い息を吐いて目方慶子の前に止まった。
馬上から中年の男女が笑いかけている。
何故か慶子はその二人が夫婦だと思った。
馬が踵を返すと、馬上の二人は慶子に向けて手招きをした。
「待って!」
慶子は叫んだ。
そのまま二人は馬に乗って去って行く。
「待って!!」
再び叫んだ時、慶子は自分の声で目が覚めた。
重なり合う枝の隙間から、薄っすらと白み始めた空が見える。
「しまった!」
慶子は上体を起こした。
昨夜来の雨も上がって、鳥の鳴き声が澄んだ森の空気を震わせている。
崖下に落ちた慶子は、運よく柔らかい土の上で気を失っていたのだ。
慌てて立ち上がると慶子は周囲を見回した。
崖伝いに4、50メートル下った辺りに室の排水口が見えた。
「あ……」
慶子は言葉を失った。
排水口からは、水が出ていなかったのだ。
「お願い、間に合って!」
そう叫ぶと、慶子は夢中で走り始めた。
やっと崖をよじ登った慶子は、呆然と室の入り口を見つめた。
どす黒い木の扉の穴から、勢いよく水が噴き出している。
扉に駆け寄る慶子の前に、朝食を届けに来た軽トラックが止まった。
「まあ……!!」
車から降りた中年の女性二人も、室を見てその場に立ちすくんでいる。
「か、鍵は!」
女性たちに駆け寄った慶子が叫んだ。
「私たちは鍵は持ってないんです。役場まで行かないと……」
「どれくらいかかるの?」
「え……と、往復50分くらいは……」
「それじゃ遅いわ」
慶子は軽トラの荷台に一枚の木の板を見つけた。
「ちょっとこれ借りるわよ」
50センチ角くらいで厚さ4センチほどの板は、慶子の片手にもかなり重かった。
「あ、それは漬物をつける時の……」
女性の返事を聞く前に慶子は扉に向かって走った。
目方慶子はズボンの裾を捲り上げて、サスペンダーから拳銃を引き抜いた。
「ひゃあっ!」
後を追って来た女性たちが悲鳴を上げてうずくまる。
慶子は扉の錠前に銃口をあてがうと、その手前に片手で板を立てた。
一秒刻みで3回、激しい金属音が響いた。
板をどけて慶子は錠前を見る。
しかし銃弾は錠前の周囲に傷をつけただけで、依然として扉を岩から解き放ってはいなかった。
慶子は板を投げ捨てた。
「下がって!!」
振り返って二人の女性に叫ぶ。
女性たちが車の背後に隠れたのを確認すると、慶子は両手に拳銃を握り締めた。
銃口を錠前の鉄棒に当てると、膝を曲げて腰を落とす。
再び激しい爆裂音が3度響き、3度目の金属音に濁った音が重なった。
錠前は斜めに留め金にぶら下がっていた。
勢い込んで慶子は扉を開けようとした。
しかし中からの水圧で金物が競り合った扉は、少し押し戻して金物を外さないと容易に開かない。
慶子は上体を扉に当てて渾身の力で押した。
盛り上がった二の腕の筋肉に、扉の穴から吹き出す水がしぶきを上げる。
「うお~~~っ!!」
慶子は吠えながら扉を揺さぶった。
その時突然、慶子の身体が後方に跳ね飛んだ。
弾ける様に開いた扉の後から、すさまじい勢いで水が噴出した。
怒涛の水勢に乗って、慶子の身体が地面の上30センチを滑って行く。
押し流されながら慶子は勢いの先を見た。
谷川の崖がみるみる目前に迫っていた。
最初の水しぶきが中空に飛び出した時、慶子は必死で片手を伸ばす。
崖上の細い楓の幹を掴んで、慶子の身体が激しい水流に揺れた。
緩いバイクズボンが水を受けて、慶子の手を木の幹から引き離そうとする。
“はっ……し、知らせ!!”
もう一方の手で、必死にサスペンダーを外す。
ゆるいバイクズボンは両足を抜けて、谷川の流れに落ちて行った。
ようやく上り始めた朝日に、慶子の白いパンツが輝いた。
水の抵抗が減って、慶子はしっかりと幹を握り直す。
やがて勢いの落ちた水流は、慶子の身体をゆっくりと地面に置いた。
濡れた長い髪を朝日に輝かせながら、目方慶子は室へと走った。
引き締まった尻から両足の筋肉が躍動する。
大きな身体を縮めて通路に入り込むと、暗い室の内部にじっと目を凝らした。
室の中程の岩盤の上に、表からのわずかな光を受けた二つの白装束が浮かび上がった。
「亜希子さん!!」
夢中で駆け寄った慶子は、手前に横たわった亜希子の名前を叫んだ。
仰向けの亜希子の合わせを開くと、その胸に耳を押し当てる。
慶子は亜希子の身体に馬乗りになると、両手でその胸を繰り返し強く押した。
「ぶはっ! ごほっ……! ごほっごほっ……!」
やがて、突然水を吐いた亜希子が激しくせき込んだ。
碧の方に移動しながら、慶子は続けて入って来た女性たちに叫ぶ。
「救急車! 救急車を呼んで!!」
慶子は血の気の引いた碧の白い顔を見おろす。
「か、神様、お願い……」
繰り返し強く碧の胸を押しながら、慶子はそう呟いた。