桟橋の向こうで黒い影が緩やかに上下している。
足を止めた伊織は、身を低めたまま背後の紫乃を振り返った。
「船を揺らさぬよう、一人ずつゆっくりと乗り込みましょう。それから、いつ切り合いになってもよいよう、背負うた
伊織の囁きに、紫乃は長刀を降ろして羽織を脱いだ。
抜き取った鞘を羽織の上に置くと、長刀を掴んで伊織に頷く。
雲間から月も顔を出したか、輝く瞳で眦を決した紫乃の顔が浮かび上がった。
「では……」
伊織は大刀の鯉口を切ると、左手の親指でその鍔を抑える。
「参りましょう」
低い姿勢のまま、再び二人は砂地から桟橋の上へと足を進めた。
広いところで幅五間(9m)、長さ十間(18m)ほどの甲板の中央に船倉に降りる階段が見えた。
中を覗き込むと、薄汚れた床板が壁の灯にぼんやりと照らし出されている。
取引が済んで酒盛りでもしているのだろう、男たちの声高な話声が聞こえた。
紫乃に目で合図を送ると、伊織は静かに梯子段を降りていく。
通路右側の開き戸から灯が漏れて、中で男たちの大きな笑い声が沸き上がった。
船尾に向かって奥の突き当りに、もう一つ開き戸が見える。
伊織は紫乃に頷くと奥の部屋へと足を進めた。
その背中に続いて紫乃が足を踏み出した時、右足の下で五寸(15㎝)幅ほどの床板が不自然に沈み込んだ。
途端にどこかで軋む様な音がしたと同時に、カラカラと木を打ち付け合う音が響いた。
「いかん、鳴子だ!」
先ほどの部屋の中で叫び声が上がり、乱暴に開いた開き戸から男が飛び出してきた。
右手に持った身幅の広い刀が振り下ろされる瞬間、伊織は引き抜きざまに大刀で男を斜に切り上げる。
血飛沫と共に男の体が梯子段の手前に倒れ込んだ。
続いて飛び出ようとする男を長刀の柄で突き返すと、紫乃は思い切って部屋の中に踏み込む。
風を切って紫乃が長刀を水平に振るうと、残った四五人の男たちは三間四方ほどの部屋の壁にへばりついた。
「無駄な殺生はしたくない! 死にたくなければ大人しくしていなさい!」
油断なく長刀を構えたまま、紫乃は部屋の中を見廻す。
「ここにはお蝶さんはいません。伊織様は奥を、ここは私が」
「かたじけない」
紫乃に頭を下げた伊織は通路の奥へと向かう。
紫乃が女だと悟った男たちは、背中を壁に張り付かせたまま互いの顔を窺う。
一人の男はその髭面に微かな笑みを浮かべると、突然刃物片手に紫乃に飛びかかった。
長刀の柄で切っ先を跳ね返して、そのまま流れるように風を切った刃が男の腕に舞い戻る。
「ぎゃあ!」
悲鳴を上げて手首を切られた男が床に転がった。
逆側から掴みかかった二人の男たちは、長刀の柄で足を払われ、これまた相次いで床に転がる。
仁王立ちの紫乃から胸元に刃を突き付けられ、二人の男は仰向けのまま怯えた表情で両手を上げた。
そのまま顔を上げた紫乃が周囲に睨みを利かすと、残った二人の男も壁に張り付いたまま慌てて首を横に振る。
ようやく胸元から刃を引いた紫乃は、二三度部屋の床を指差す。
男たちが二度三度と頷くのを認めると、紫乃は部屋を出て開き戸にかんぬきを降ろした。
部屋に足を踏み入れた伊織は、目を見開いてそのまま立ちすくんだ。
三間四方ほどの部屋の正面に二人の女が立っている。
「お蝶!!」
「伊織様!」
叫びを上げたお蝶の首筋に刃物の冷たい輝きが見えた。
「ど、どうしてここに……」
悲痛な眼差しを向けるお蝶の後ろで、沙月女はわずかにその片頬を緩めた。
「やっぱりお前か……。申し訳ないが、さっきまでお前を語ってこの女とたっぷり楽しんでたとこさ。さあ、刀を捨てな!」
殺気だった言葉尻とともに後ろ手のお蝶を引き寄せると、前に回した短刀を改めてお蝶の首筋に突きつける。
「く……」
きつく唇を噛んで、刀を掴んだ伊織の右手が細かく震えた。
「ふふ、伊織さんとやら……。載寧に気に入られたお蝶を簡単に渡すわけにゃいかない。でも取引が無事に進みだした今は、得物を置いてこのまま大人しく立ち去りゃあ、あたしたちもこれ以上あんたと面倒を起こすつもりはないのさ」
少し声色を和らげて沙月女は伊織の様子を探る。
「お蝶を置いたまま私が立ち去ると思うか! お蝶を放せ! さすれば刀を収めてこのまま立ち去ってもよい」
切れ長の目で沙月女を見据えたまま、伊織は迷いもなくそう言い放った。
「それじゃあ、物別れでけりがつかない。ここはひとつ、お互いに刀を収めて話をしようじゃないか」
「う……」
一瞬伊織の構えにゆるみが生じた時、お蝶の叫びが上がった。
「だめ、伊織様! あたしに構わず早くこいつをやっつけて! もう鳴子を聞いて仲間がやってくるはず。こいつは時を稼いでるだけよ!!」
「お前は黙ってな!!」
後ろ手をねじり上げる沙月女に身を抗わせると、お蝶は短刀を持った沙月女の手を掴んだ。
「もうあたしなんか!」
「あ、こいつ!!」
自らお蝶が喉を突こうとした時、
「お蝶さん!!」
伊織の背後から疾風が舞い込んだ。
短刀とお蝶の喉の間を貫いて、長刀の柄が背後の壁板に突き刺さった。
紫乃はそのまま体当たりするようにお蝶を抱き込んで、二人の体はもんどりうって床に転がる。
「こいつ!!」
その背中に振り下ろされた沙月女の短刀を、きな臭い音を立てて伊織の大刀が受けた。
伊織がその短刀を跳ね上げると、信じられぬことに沙月女は低い天井との間三尺でとんぼを切って伊織の背後に舞い降りる。
「ああ!」
「伊織様!!」
お蝶と紫乃の叫びが上がる中、背後から切り付けた短刀が伊織の肩で力なく止まった。
浅く伊織に切り込んだまま、沙月女の体がゆっくりとその背中に覆いかぶさる。
左脇から後ろに抜けた大刀の切っ先が、沙月女の胴体を貫いていた。
「伊織様!」
「大丈夫!?」
身を起こした紫乃とお蝶が、急いで伊織のもとに近寄る。
「かすり傷だ。それより早くここを離れねば」
眉を寄せた伊織の返事に、ふと紫乃とお蝶の表情が緩む。
三人は頷き合うと部屋を出て甲板へと急いだ。
甲板に上がった伊織を若い女の笑い声が迎えた。
「あはは、鷹、留守してる間にお客さんだよう」
船べりに立った春花の後から、秋花、鷹、載寧、四五人の子分を引き連れたお竜が次々と船に乗り込んでくる。
「うちの縄張りで勝手な真似は許さない。それにお前、よくもあたしに一杯食わせたね。覚悟しな!」
お竜の合図で身を乗り出した子分たちを制して、背後からゆっくりと鷹が姿を現す。
「ここに上がってきたということは沙月女を倒したか……」
後から甲板に上がった紫乃とお蝶も、伊織の左右に身構える。
「お蝶……、やはりまだ性根を残してたね。もうこのまま逃がすわけにはいかない。お前たちは知りすぎた。この船であの世へ向かってもらう」
抜き放った鷹の短めの忍び刀が、月明かりに冷たく輝いた。
「お前たち何してんだい。さっさとやっちまいな!!」
お竜の一括に、子分達が雄たけびを上げて伊織に切りかかる。
滑るように短刀から身をかわすと、伊織は先頭の男の足を切り払った。
倒れ込む男をよけて間髪入れず切り込んだ鷹の刀を、歯を噛むような音で伊織の大刀が受け止める。
そのまま競り合った伊織に再び男たちが迫ると、素早く身を寄せた紫乃の長刀が風を切る。
足を薙ぎ払われた男二人が甲板に転がり、柄の先で腹を突かれて悶絶した。
「このやろう!!」
隙をついて紫乃に切り込んだ男の手をお蝶が掴む。
逆手を取って自由を奪うと、男の体を甲板から海へけり落した。
振り返った途端に、月明かりに輝く銀色の線がお蝶の目に映えた。
「危ない!!」
必死にお蝶は紫乃の体を突き飛ばした。
「あ!!」
声を上げてくず折れたお蝶の右肩に銀色の金串が刺さっていた。
甲板の上に倒れた紫乃の足元にも、三本の輝きが突き立っている。
「ひゃあ、三本避けやがった。こいつは面白くなったねえ。あっははは」
甲板より一段高くなったかじ取り場で、下を見下ろした春花が笑い声を上げた。
「ようし、じゃあそろそろ勝負を決めようじゃないか」
船首に立った秋花もそう声をかける。
「く……!」
鷹の刀を跳ね返して、伊織も甲板のお蝶と紫乃に駆け寄る。
鋭い眼光で鷹一味を見廻すと、二人をかばうようにその前に立ちはだかった。
「ほう伊織さんとやら、さすがに肝が据わってるね。だけど今度は二人合わせて八本の得物を投げる。ふふ、見事避けきれるかな?」
そう言って意味深な笑みを浮かべた春花の後に秋花も続ける。
「そろそろ夜明けも近くなってきた。ねえ鷹、あたしたちが投げたと同時に切り込んで、もう終わらせちまおうよ」
「わかった」
そう答えて身構えた鷹の後ろで、ほくそ笑んだお竜と載寧の目が伊織たちに注がれる。
そんな視線を睨み返しながら伊織は口を開いた。
「この上はこちらも打って出るのみ」
その言葉にお蝶と紫乃もしっかりと頷く。
「じゃあ行くよ」
そう言って金串を構えた春花の視線が、突然上に向けられた。
「ああ! 鷹、上を!!」
春花の叫びに敵味方同時に上を見上げた。
暗い夜空から一斉に火の雨が降ってくる。
「火矢だ、避けろ!!」
鷹の叫びに皆甲板の端へ逃げると、油を染ませた綿を巻いてあるのだろう、甲板に刺さった矢は周囲に火をまき散らして燃え上がる。
「鷹! 周りを見て!!
鷹が船べりから見廻すと、いつの間にか松明を灯した数隻の小舟に取り巻かれ、陸では別の黒装束の集団が桟橋を取り巻いていた。
「春花秋花、綱を切って船を出すんだ!! 載寧は火を消せ!」
大慌てで載寧が頭陀袋で火を消し始め、春花と秋花は船を岸につないだ数本の綱を切って回る。
鷹も一緒に三人が櫂で桟橋を押すと、船はゆっくりと桟橋を離れ始めた。
「今だ。さあ早く!」
舵取り場の陰に身を潜めていた伊織たちは急いで身を起こす。
まだ櫂で桟橋を突いている三人の隙をついて、伊織は桟橋に飛び降りた。
「さあ早くこっちへ」
差し出した伊織の両手にお蝶が掴まろうとした時、
「逃がすもんか!」
短刀片手に物陰からお竜が飛び出した。
「危ないお蝶さん!!」
次の瞬間、お蝶をかばった紫乃の脇腹に刃物の輝きが埋まっていた。
「ああ! 紫乃さん!!」
お蝶の叫びと共に、身を翻した紫乃が袈裟懸けに長刀をお竜に振り下ろす。
「ぎゃああ!!」
悲鳴を上げて逆側の船べりまで逃げたお竜は、そのまま船の外に落ちて周囲に水音を響かせた。
「早くこっちへ」
伊織とお蝶は揺らぐ紫乃の体を桟橋に担ぎ下ろして砂浜へと運ぶ。
黒装束の一人が合図すると、何故か浜辺の一団は松明の炎を掲げて伊織たちを取り囲んだ。
仰向けに照らし出された紫乃の顔からは、もうすっかり血の気が引いていた。
「し、紫乃さん、しっかりして!!」
お蝶の叫びに紫乃は薄っすらと目を開く。
傷を確かめた後、伊織はゆっくりと顔を上げた。
「し、紫乃さん……。このようなことになってしまって………」
紫乃は生気のなくなった顔を微かにほころばせる。
「い、いえ伊織様……。ここまで私を連れて来てくださり、ありがとうございました」
「そんな、これからも一緒ですよ! 早く良くなって、また一緒に帰りましょう」
そう語り掛けたお蝶に、紫乃は力なく右手を差し出す。
「紫乃さん……」
冷たい手をお蝶の温かい両手が包み込む。
「お蝶さん、これからは伊織様と末永くお幸せに………」
「そんな………。本当は、本当はあたしなんかよりあなたの方が伊織様にふさわしいのよ。
早く元気になって………」
そう言いかけた時、海の方で大きな爆発音が巻き起こった。
伊織とお蝶が目を向けると、もう半町ほど沖に進んだところで密輸船が炎に包まれていた。
暗い空に火の粉を巻き上げながら、じわじわと船は海に沈んでいく。
「紫乃さん、賊の船が沈んでいきます」
しかし伊織の呼びかけに、もう紫乃の返事は返って来なかった。
「紫乃さん? ……紫乃さん!!」
お蝶の両手を紫乃はもう握り返してこない。
「なんで………、なんであなたが………わあああ~」
もう薄明るくなり始めた浜辺に、お蝶の悲痛な泣き声が響き渡った。
伊織は紫乃の体に羽織をかけ、その横に長刀を置いた。
ふと思い出して紫乃の帯から脇差を抜くとお蝶に手渡す。
「地元の寺にお願いして手厚く弔っていただくことにしよう。それから、この脇差は私たちの手で会津に……」
「はい……」
力なく頷いてお蝶はその脇差を受け取る。
伊織が再び海へと目を向けると、取り囲んでいた数隻の船も丹後方面へと去っていった。
一人の黒装束が伊織とお蝶に歩み寄る。
「生き残れてよかったね、お蝶……」
突然名前を呼ばれて、お蝶はいぶかし気な眼差しをその黒装束に向ける。
「あんたは………?」
黒頭巾を外した相手を見て、お蝶は大きく目を見開いた。
「美津!!」
お蝶の驚いた様子に、美津は切れ長の目を細める。
「驚いたかい? まあ何はともあれ、あの船が沈んで一件落着。甲賀の奴らも船で帰った。この若狭じゃ、密輸どころか酔狂の喧嘩も無かったってことさ……」
「で、でもあんたは……」
お蝶は美津の横顔に口ごもった。
「あいつらと組んでたんじゃなかったのかと、そう言いたいんだろう?」
振り向いた美津の顔をお蝶はじっと見つめる。
「あんたを騙したようでも、一度は竜神一家の地下牢で命を助けてやっただろう? 間者(かんじゃ)たそんなもんさ。もっともこれは江戸でのお礼も………あっとこれはこっちの話」
横の伊織に気が付くと、美津は薄笑いを浮かべて口を閉じた。
「詳しくは分らぬがこの度は助けていただき、この通り、心より例を申す」
生真面目に頭を下げる伊織に、美津は慌てて片手を上げる。
「いいえ、これもお役目でさ。まあしかし、近くで見るほど、うふふ、いい男………だねえ」
伊織を見る妖艶な笑みを瞬時にかき消すと、美津はお蝶を振り返る。
「じゃあお蝶、達者で。命は助かったけど、これから薬が抜けるまでは地獄だろうよ。覚悟するんだね。もっともこんないい薬が近くにいりゃあ心配ないとは思うけどね」
鼻先で笑った美津はふらりと歩き始める。
「ありがとう美津。あんたも達者でね」
お蝶のつぶやきに美津の足が止まる。
「そろそろあたしも潮時かもしれない。あんたも知っての通り、間者は裏と表の間で仕事するだろう……?」
「美津……」
「でもこのところ、どっちが裏か表か、時々自分でも分からくなる時があるんだ……」
海辺に立った三人を潮騒が包み込む。
「じゃ……」
去っていく美津の背中を、伊織とお蝶は声もなく見つめていた。
薄暗い中にゆらゆらと大石桔梗の顔が浮かび上がる。
「日が短こうなったの」
「はい」
燭台に種火が移ったことを確かめると、桔梗は欄干にもたれた羅紗に顔を向けた。
「もう京や丹後へ書面は届いたであろうか」
「夕べ夜半には早馬が発っております。もう日が落ちる前には意向が伝わっておることと存じます」
「そうか……」
羅紗は欄干から身を起こすと、そのまま上座にも向かわず桔梗の前に膝を折った。
「桔梗。お前が無事城に戻り心よりうれしく思うぞ」
「羅紗様……?」
首をかしげて窺う桔梗から、つい羅紗はその黒目勝ちの瞳を伏せる。
「年を経て初音も気が弱くなって参った。このような時わらわ一人であれば、どんなに心細い思いをしたことか……」
桔梗の顔が微かにほころんだ。
「どうかご心配なく。私がいつも羅紗様のおそばでお守りいたします」
「もうどこへも行かず、私のそばにおってくれるか?」
大石桔梗はゆっくりうなずくと、凛々しい眼差しで羅紗を見つめた。
ふと羅紗は桔梗から目を逸らして外の宵闇に目を向けた。
「私はいつまでもお前がそばにおってくれるのは嬉しい。しかし私のために、まだ若いお前の自由を奪ってしまうのではないかと、私はふと不安になる時があるのじゃ……」
「羅紗様………」
顔をうつむかせた羅紗に向かって、大石桔梗は意を決したように口を開いた。
「今まで私は、父から続く忠義でお役目に努めて参ったと思うておりました。しかしそれが心の中で揺らぎ始めたことに、正直私自身戸惑うております」
「な、何と申す、桔梗……」
顔を上げた羅紗は、驚きの表情を桔梗に向ける。
「鶴千代様をお助けする一心であの曲者と戦いながら、いよいよ己が命を投げ出そうとした時、羅紗様、あなた様のお顔が目に浮かんだのでございます」
桔梗は夢見る様な眼差しを宙に浮かべた。
「あの白い霧の中で聞こえたのは、父の言葉であると同時に、私自身の言葉だったのかもしれません」
羅紗は桔梗の横顔をじっと見つめる。
「羅紗様にお仕えするのは刀ばかりではない。私の心の奥に隠れていたものが、父の声を借りて……」
「桔梗……」
ふと我に返った桔梗の顔が、うっすらと赤く染まった。
「ではお前は、もうその武芸で鍛えた力を使わぬと」
「いいえ」
顔を上げた桔梗の瞳が再び輝きを放つ。
「もしやの時は、私の武術でどのような曲者であろうと羅紗様に指一本触れさせませぬ。しかしあなた様と二人だけの時は、何故かこの身を柔らかく感じ、行灯に灯す火種の縄さえこの手に重く感じるのです」
羅紗は炎の陰影に揺らめく桔梗の顔を静かに見つめた。
「おそらく伊織様たちは今夜から明日が正念場かと……。羅紗様には私がついております。どうか今宵はお心安くお休み召されますよう……」
「桔梗………」
緊迫した夜を迎えたにも関わらず、羅紗は両手をついた桔梗を見つめる顔が火照るのを覚えたのである。
“動いた……”
門口のかがり火も灯さぬまま、数名の若衆が暖簾から姿を現した。
「伊織様、伊織様!」
部屋の暗がりから月明かりの中に陣内伊織の細面が現れる。
窓辺の帯刀紫乃の肩越しに、伊織は下の往来に目を凝らした。
周囲に目を配る若衆の後から、懐手の女親分が姿を現す。
“お竜………“
伊織はきつく唇を噛んだ。
一度ならず身体を貪られた相手である。
そしてその手管に悦楽の涙さえ流した記憶が生々しく蘇って、伊織は刺すような心の痛みを覚えた。
「さあ参りましょう」
「はい」
頷き合った伊織と紫乃は、明かりを消した待合の一室を後にした。
船荷の数を改めた沙月女が船べりに姿を現した。
五百石もあるだろうか、さすがに大陸から渡ってくるだけあって思いのほか大きな船である。
「中身と数に間違いはなさそうだ。手を打っていいよ」
「わかった」
桟橋から沙月女を見上げて頷くと、鷹は無言で脇の荷車に向かって顎をしゃくる。
清国の人間だろう、途端に相好を崩した数人の男たちが荷車を船に運び始めた。
「ほら、どうやら引き取りに来たようだよ」
船首で見張っていた春花から声がかかる。
「ああ」
鷹が目を向けた先に、月明かりに照らされて近づいてくる一団が見えた。
「もう取引は済んだのかい?」
険のある目を細めてお竜が口を開く。
「ああ荷を改めて、今代金を渡したところだ」
鷹の返事に片頬を緩めると、お竜は後ろの子分たちを振り返った。
「よし。お前たち、暗いうちに品物を屋敷まで引き上げるんだよ」
頭を下げた若集たちが一斉に船に乗り込んでいく。
「あっははは、さあ急いで急いで。早くしないと夜が明けちまうよ」
鋭い眼光で様子を見守る沙月女の横で、いつ船尾から近寄ったのか、秋花の嬌声が響いた。
「お蝶の姿が見えないようだが……」
周囲を見回したお竜が鷹に問いかける。
「お蝶を気に入った載寧が、品物の仕入れの間むこうに一緒に連れて行くと言ってね。もう先に船の中さ」
「へえ……」
お竜は少々驚いた体で鷹の顔を斜に見つめた。
「あんたそれでいいのかい?」
鷹はお竜の顔を一瞥すると、暗い沖合へ目を向ける。
「ああ、載寧は今回の仕事で大事な役割だし。それに………」
「それに?」
「それにあたしは、正直まだお蝶には分からないところがある」
「ふ………、なるほどね」
お竜はその言葉を鼻で笑うと、心得たというように小さく頷いた。
「もう少し安心できるまで向こうで躾けてもらおうと思ってる」
「わかった。じゃあ載寧とお蝶は別として、物を引き取った後の段取りを相談しようじゃないか」
頷いた鷹は桟橋からほど近い漁具小屋に目を向ける。
「沙月女だけ見張りに残して、他はあの小屋に集まるんだ。春花、薬の件もあるから載寧も呼んできてくれ」
「わかった。その代わり賭場で遊ぶ小遣いをおくれよ。明日は親分の店でたらふく稼ぐつもりなんだからさ。あっはははは………」
苦笑いを漏らすお竜を目で催促すると、鷹は海辺にひっそりと建つ木小屋へと足を進めた。
船の小部屋に足を踏み入れた沙月女は、袖口で鼻を覆って甲板へ続く尺五寸角ほどの換気蓋を押し上げた。
みるみる熱気を帯びた部屋の空気が、白い澱みとともに上へと抜けていく。
船に乗り込むや否や阿片を吸ったのだろう、髪も身づくろいもそのままのお蝶が布団の上でまどろんでいる。
三十路半ばとはいえ、いやその年頃だからこそ、しどけなく床に横たえた身体からしっとりと落ち着いた女の色気が伝わってくる。
“いい女………”
ふと沙月女は腰を落としてお蝶の寝顔を見つめた。
軽く閉じ合わされた長いまつげがふるふると震えて、襟元から上の白い肌にほんのりと赤みがさしている。
三笠屋で見た霜降りの体が目に浮かぶ。
すらりとした若い女の体もきれいだったが、それを抱くお蝶の裸身はまさに目が眩むほど美しかった。
今度は自分がその体を抱いて雌の声を上げさせてみたい。
沙月女は体の奥に熱いほてりが沸き起こるのを感じた。
蓬莱をなくして以来、しばらく色事から遠ざかっているのも確かだったのである。
「い……、伊織様………」
沙月女はお蝶の顔を見た。
“伊織………。そうかこいつの色だったな”
うっすらと笑みを浮かべたまま、沙月女はお蝶の寝顔を見つめた。
“浪人の内儀に身を変えて入り込んだ女だった……”
ふとその顔から笑みを消すと、沙月女は立ち上がって着ているものを脱ぎ始めた。
黒っぽい衣装の下から、浅黒く引き締まった女の体が現れる。
腹部の肌には筋肉の形さえ見えて、その上に思いがけず量感のある乳房が弾んだ。
そして再び腰を落とした沙月女は、そっとお蝶の着物の帯を解き始めたのである。
沙月女はゆっくりと震える息を吐き出した。
雪のように白い裸身が目にもまぶしく輝いて、忍びで鍛えた伸びやかな肢体を霜降りの柔らかみが包んでいる。
自分の下半身が熱く潤いを増すのを感じた。
「ご、ごめんなさい。許して伊織様………」
何のことかは分らぬが、悲しげに眉を寄せたお蝶からそんなつぶやきが漏れた。
沙月女はもうたまらずお蝶の裸身を掻き抱いた。
もうお蝶が気付こうが気付くまいがどうでもよいことだと思った。
その身体を抱き寄せると、思い切り互いの乳房を揉み合わせていく。
「ぐう………」
お蝶の口から苦しげなうめきが漏れた。
「許さぬぞ、お蝶」
交情の喜びに軽いめまいを覚えながら、沙月女はお蝶の耳元にささやく。
「い、伊織様……、ゆるんんぐ………」
お蝶の返事に覆い被せるように、その艶やかな唇を吸いふさいだ。
「ふんん~!」
深く唇を重ねながら、思わず沙月女も興奮のうめきをお蝶の口中に響かせる。
じくじくと熱いものが溢れ出すのを覚えて、お蝶の太ももを股間に挟み込む。
「あは………!」
沙月女はお蝶の唇を吸い離して、胸の奥から詰まった息を吐いた。
自分の女がお蝶の肌にぬめぬめと吸い付き、そこから背筋が震えるような快感が這い上がってきたからである。
沙月女はもう夢中でお蝶のものに右手を伸ばした。
果たしてそれは沙月女の情欲を迎え入れるように、もう熱いしずくを溢れさせていたのである。
「はああ……、伊織様………」
お蝶の泣き声を聞きながら、沙月女はその熱い潤みにゆっくりと指を沈めていった。
「こうか……? これが好きか?」
「そう、それが好き。それが好きなの、伊織様.………あああ……」
「許さぬぞ、お蝶。私より先に果ててはならぬぞ」
そう言い渡しながら、沙月女は熱い露をお蝶の弾き立ったものに絡めていく。
「ああだめ、伊織様。あたしもう………」
「許さぬぞ………はあ………まだ許さぬぞ、お蝶……」
「ああ、意地悪!! ああもうだめよ……くう……お願い………!」
お蝶の反応にぞくぞくとした喜びを覚えながら、沙月女はますますその右手の動きを速めていく。
「ああ~~~! …いやあ、もう……だめ………」
「先に果ててはならぬぞ、お蝶! はあ……ほれ、唾を飲ませてやる。好きだろう?」
「ああ好き、好きよ! あうう……飲ませて、伊織様、飲ませて!」
「お願いしますと言え」
「お願いします。飲ませて、伊織しゃんぐうう……」
沙月女は再び荒々しくお蝶に唇を重ねた。
思う存分舌を絡め合うと、吸い含んだ甘い唾液を己が唾と混じり合わせる。
母親がかみ砕いた食べ物を与えるように、沙月女は二人の唾をお蝶に与えた。
「うむうううう!!」
「んぐんぐう………」
たっぷりと唇を吸い重ねながら、沙月女は中指と薬指をお蝶の中深くに抉り込ませた。
同時に親指でその上の弾き立ったものを押し転がしていく。
「んぐうう!!」
二人の唾を飲み下しながら、沙月女の腕の中でお蝶の背筋が強張って震えた。
「ぷは、ああ!! だめええ!!」
「許さぬぞ、お蝶!! 私より先に果ててはならぬ!!」
「ああ、ごめんなさい!! 許して! ああもうだめ!!」
お蝶の裸身に極みの痙攣が走るのを感じて、沙月女も己が身の内に嗜虐の喜びが燃え上がるのを感じた。
「あくう………許して伊織………ああ! …ああもうだめ!!!
唇を振り切って叫びを上げたお蝶をさらに責めさいなもうとした時、
「あ………くうう!!」
どこからか蛇のように忍び込んできたお蝶の指が、もうこの上もなく熱く疼いている沙月女の女を犯してきたのである。
あっという間に潤みを貫かれ、泣きたいように弾き立ったものごと激しく揺さぶられた。
「あ……あはあ!!」
稲妻のように極みの快感が五体を貫いた。
「あ、あおおおお~~!!」
沙月女はまるで獣のように快感に吠えた。
「いくうう!!!」
息もつけぬ快感に身を弾ませながら、沙月女はお蝶が悲鳴とともに極の飛沫を太股に浴びせるのを感じた。
まさにお蝶は相手の注文通り、沙月女の極みの直後に自分も快楽に果てたのである。
お竜一家の子分たちが荷車を引いて行ったあと、まだ夜も明けやらぬ船着き場は、寄せては返す波の音があたりに響くだけとなった。
浜辺が砂地から土に変わる辺りで、伊織と紫乃は深い藪の中に身を潜めていた。
船の様子を確かめた伊織が背後の紫乃を振り返る
「おそらく船の中は大陸の船員が四五名と、それにあのくせ毛で色黒の女のみ」
「お蝶さんの姿が見えぬところを見ると、まだ船の中に囚われているのかもしれません」
紫乃の言葉に伊織の目が輝いた。
「この上は力づくでも、救い出すなら今しかありません」
「はい。参りましょう」
二人は頷き合うと、身を低めたまま未明の砂浜を桟橋へと向かった