納得できぬこと、理不尽な振る舞い。そのようなことどもには一歩も引かぬ。そのような風情の志摩子だった。
その志摩子と、東中 昂(ひがしなかこう)は、立ったまま正面から睨み合った。
相馬禮次郎は一歩下がり、様子見の体勢である。
五秒か、六秒か……。
寸刻の間の後、東中は破顔した。軽く仰のき、実際に笑い声をあげる。笑いながら志摩子に声を掛けた。
「なんと、元気のええこっちゃのう」
志摩子は無言。
東中 昂(こう)は笑いながら、志摩子を宥めるような口調で言葉を続けた。
「まあ、いきなり手ぇ出したんは確かに大人げなかった。許せ」
まさかこの男が詫びを入れるとは……志摩子は意外な成り行きに軽く目を見開いた。
「どないや。このままではせっかくの場ぁが興ざめや。おまんもこないな形で座敷しまいにしとない(終わりにしたくない)やろ」
「へえ……」
ようやく東中から視線を外し、少し俯き加減になった志摩子は軽く呟いた。
東中 昂(こう)が畳み掛ける。
「でや、仲直りの手打ちといこやないか」
相馬禮次郎がようやく割って入った。
「ああ、ほれがええ、ほれがよろし、ほな……」
相馬は、先ほど跨ぎ越した膳を今度は回り込み、元の席に座した。東中に声を掛ける。
「さあ、昂(こう)はん、あんたも座んなはれ、小まめ、おまん(お前)もや」
座を仕切る相馬禮次郎の示すまま、東中 昂(こう)は相馬の左側、やはり先程自らが座していた席に戻った。
志摩子は少しためらった後、相馬と東中に向かい合う形で、膳を挟んで座した。志摩子の背には、金屏風。その脇には道代と野田太郎が座していた。
志摩子は、相馬と東中よりも、背後の二人を強く意識した。
(野田はん……あない酷い目に会わはって、大丈夫やろか)
(道……あんた、なんや変やで、どないしたんや、大丈夫かぁ)
「ほれ」
顔を上げた志摩子は、東中 昂が鷲掴みにし、此方に突き出した徳利を見た。
「さあ、小まめ」
東中に習うように、相馬禮次郎が杯を突き出してきた。
「へえ」
両手で受け取った志摩子の杯に、東中 昂(こう)が無造作に酌をした。
「おおきに、頂戴しますぅ」
杯を両手で支え、軽く頭を下げた志摩子は、一息で飲み乾した。乾した杯を、志摩子は相馬ではなく東中に差し出した。
「どうぞ、東中の旦さん」
「む」
志摩子は、相馬が膳に置いた徳利を取り上げ酌をする。
こちらも一息で飲み乾した東中は、空の杯を相馬に突き出した。
「ほれ、れいじろ(禮次郎)はん」
「ほい」
志摩子は手にしたままの徳利を、今度は相馬禮次郎に差し出し、酌をする。
相馬が空けた杯は、志摩子に戻って来た。
「ほれ、小まめ」
志摩子の手から取り上げた徳利で、相馬は志摩子の杯を酒で満たした。
「おおきにー」
志摩子、東中、相馬。三人の間を杯が一巡した。
道代は霧の中にいた。
時折、何か、姿形(すがたかたち)すら判然とせぬものが行き過ぎる。
(どなたやろか……)
とりあえず人であろう、と考える道代であった。
(何して、おいやすんか〔おいでになるのか〕)
その人影が、立っているのか座っているのか、それすら判然とは見て取れぬ道代であった。
いや……。
それどころか、自分自身が今座っているのか立っているのか……まさか寝ているはずは、とまで思う道代であった。
(だいたいが〔そもそも〕……)
(どこなんやろ、ここ)
(何してんねやろ、うち)
(なんや……)
とりとめもなく思いを巡らせるうち、自分はいったい何者なのだろう、そんなことまで判然としなくなる道代であった。しかし、それでいてさほど不安も無い、まるで水か空気にでもなったような思いの道代であった。
(けど、なんや……)
何か一つ大事なことを忘れているような、もどかしいというほどでもないが、どこか落ち着かない気分もする道代であった。
(なんやろ)
(一体……何が気に掛かるんやろ)
「……♪かぁす(霞)むよぉごぉと(夜毎)の~」
霧の彼方から聞こえて来たものを、道代の耳が捉えた。
(あれ?)
(唄、や)
(何やろ)
「♪かがぁりぃびぃ(篝火)にぃ~」
(これ……)
(何べんも)
(何べんも聞いたと思うけど……)
「♪ゆぅめぇ(夢)も~ いざぁよう~」
(あ、あれあれ)
水か空気のようだった道代の意識に、生々しい感情が生じた。忘れることなど考えられぬものを、どうしても思い出せない。道代の意識は踠(もが)いた。もどかしさに泣きそうになった。泣く、という生の感情が意識の底から這い出て来た。もう少しだ。
「♪べにぃざぁくぅらぁ~あぁ(紅桜)~」
(何してんのん、はよ早(は)よ)
「♪しぃのぉ(偲)ぶぅ~おもぉ(思)いぃを~ ふりぃそぉでぇ(振袖)にぃ~」
(も、ちょいや!)
「♪ぎお~ぉおん こい(恋)し~ぃやぁ」
(せや、祇園!)
「♪だあらありぃのぉ おぉびぃ(帯)よぉ~」
(姐さん!)
霧が晴れた。
道代の視界がようやく鮮明になった。
小まめの志摩子の後ろ姿、立ち姿が道代の眼前にあった。
(小まめ姐さん!)
(うちは……)
(せや、うちは)
(姐さんをお守り……)
京の五花街。
芸妓・舞妓の舞踊は、花街によりそれぞれ流派が異なる。小まめの属する祇園の流派は井上流、家元は4代井上万寿子である。
井上流の舞踊は、歌舞伎の動きを取り入れた独特のもので、その最大の特徴は常に軽く、時に深く腰を落とし、直立することはほとんど無いという点にある。これを井上流では「おいど(尻、腰)を落とす」と表現し、体全体に極度の緊張を強いるものである。
そもそも、井上流では舞踊を踊り、とは云わず、舞いと称している。
唄の合間に瞬時静止した志摩子の姿勢を、道代は背後からではあるがしっかりと見て取った。
志摩子はかなり深く腰を落とした中腰で静止していたが、その上体は直ぐと立ち、小首を傾げたその顔は俯くことなく、正面の相馬禮次郎と東中 昂(こう)を見据えていた。
いや、志摩子の背後にいる道代に、志摩子の視線の先が見えるはずはない。しかし、長年志摩子の舞いを見てきた道代の脳裡には、視線の先どころか志摩子の表情まで、鮮やかに浮かんでいた。
(せや)
(ああ、せやった)
(ここは姐さんのお座敷)
(嵯峨野の……)
(なんちゅうたてもん〔建物〕やったかいな)
(まあ、そないなことはどうでもええ)
(なんでや)
(なんでやろ)
(姐さんの事)
(姐さんのこと、ちょとでも忘れるやなんて……)
(今まで)
(今までうち、どないしてたんやろ)
「♪夏は河原の夕涼み~ 白い襟あしぼんぼりに~」
唄声は続いた。
道代にとって、耳に馴染んだというも愚かな、その身の隅々にまで染み込んだ『祇園小唄』の旋律であった。
いつもなら、この旋律に乗って舞う志摩子の姿を見ると、抑えても動きそうになる我が身を押さえるのに苦労する道代であった。だが、今の道代にその苦労は不要であった。逆に……。
(動〔いご〕けへん)
(体が……)
(動〔いご〕けへんがな)
(何や)
(何やこれ)
(どないしたんや、うち……)
霧は晴れ、視界は戻った。
だが、それだけだった。
端座して志摩子の舞いを見ている。
その自分にようやく気付いた道代であったが、それだけであった。
目は動く。耳は聞こえる。
それだけだった。
それ以上の体の動きは、何としても自由にならない道代であった。
知らず、叫びそうになる道代だったが、それも叶わぬことであった。ただ……。
(え?)
(何や)
(何や、これ……)
自らの下腹部からぬるりと湧き出、閉じた両腿の間を伝う液の流れを道代は感じた。
「襟替え、のう」
と、相馬禮次郎。
「へえ……」
俯き、呟くように答える志摩子。
「いまさら、のう……」
そこに、野太い声が重なった。
「なに、ぐじゃぐじゃ言うとんねん!」
志摩子は、左手を振り仰いだ。東中 昂(ひがしなかこう)が立ち上がり、志摩子を睨(ね)め付けて居た。
「一介の舞妓に一店(いってん)持たしたろ、ゆうとんのやないかい。しかも場所は京のど真ん中、先斗町(ぽんとちょう)や。何の不足があんねん(あるのだ)!」
志摩子の目尻が吊り上がった。
「ほやかて(そうは言っても)、東中の旦さん!」
東中が更に喚(わめ)く。
「やかましわ、舞妓の芸妓のと、えら(偉)そなこと言うとるが、しょせん売りもん買いもん。そもそも、おまん(お前)をここまでさしたったん(させてやったのは)、誰や思とんねん!」
相馬禮次郎が割って入った。
「まあまあ、昂(こう)はん、そこまで言わいでも。これ、小まめ、おまん(お前)も控えんかい」
相馬の制止は志摩子には通じない。
「へえへ、どうせうちらは売りもん買いもんでっさかいなあ。しやけど東中の旦さん、売りもん買いもんにもそれなりに意地はおますんやで」
「こら、小まめ」
相馬禮次郎を尻目に志摩子は膝立ち、下から東中を睨(ね)め付ける。
「ほう、こらおもろい(面白い)、どないな意地やねん、見せてもらおやないか」
志摩子は立ち上がった。
相馬禮次郎を挟み、小まめの志摩子と東中 昂(こう)は向き合った。
相馬禮次郎は身を引き加減、両腕を左右に、東中と志摩子の両者を分けようという風情である。
志摩子の視界の右隅。立ち上がり、こちらに向かう人影が見えた。道代、ではない。白一色の料理人服を纏う……。
(あん〔あの〕、お人や)
(料理人さんとしか、き〔聞〕いとらんけんど……)
(確か、野田、はん……)
「まあまあ、東中の旦さん」
東中 昂(こう)の前に立ち、両腕を伸べて宥めに掛かる体勢の野田太郎。
東中 昂が、自らの前の膳をまたぎ越し、太郎に向き合った。
「喧しわ、お前なんぞの出る幕やないわ!」
言うなり、東中 昂(こう)は、野田太郎を殴りつけた。
翻筋斗(もんどり)打つ太郎。
野田太郎は、文字通り一回転して畳に倒れた。
志摩子は、こちらは膳の脇を回り込み、倒れ伏す太郎の上に身を屈(かが)める。
「いやあ、だいじょぶ(大丈夫)どすかあ」
野田太郎は、閉じた目を開けた。
目の前に、花が見えた。
生身(しょうじん)の花、祇園の舞妓、竹田志摩子と、料理人野田太郎は初めて視線を合わせた。
太郎の目に、華やかな色彩が入った。
「柳桜をこきまぜて」などという言葉を太郎が知るはずもないが、まさにそのような華やかな色彩の集まり、としか太郎には思えなかったのだ。
高く結い上げた日本髪。
塗り重ねられた顔の白粉。
太郎は、さらに志摩子の全身に目を遣る。
ぽってりと厚みのある質感の和服。
胸高に結んだ帯。
襟元と、裾の紅(くれない)が、強烈に太郎の目を射抜いた。紅は着物の色ではない。下に重ねた内着が覗けているのだ。
紅(くれない)は、もう一か所あった。
顏の中心のやや下、口を彩る紅(べに)の色である。
紅(べに)は下唇の中央付近にのみ引かれていた。
太郎の上に屈み込む志摩子の、左側頭部の髪から垂れ下がり、左耳の脇を過ぎ、肩の高さにまで届こうかという「ぶら」と云われる細長い花飾りが揺れていた。「ぶら」は六本、それぞれ上から下まで多数の小菊の花びらをあしらってあった。
太郎は更に目を凝らした。
志摩子の頭頂部には、やはり多くの小菊をあしらった「花冠」が、右側頭部には小菊の花束に見立てた「ビラかんざし」が差してあった。
「ぶら」「冠」「ビラかんざし」を合わせ、「花簪」と称する舞妓特有の髪飾りであった。
白粉を厚く塗り、眉と目もとに墨を施した華やかな舞妓、祇園の小まめ、竹田志摩子の顔が、野田太郎の目の前にあった。だがその表情は太郎を気遣い、眉を顰(ひそ)めている。
太郎は一瞬、痛みを忘れた。
まじまじと、始めて間近に見る舞妓、竹田志摩子の顔に見惚れた。
「姐さん……」
呟きながら、太郎はふと思った。
(どこぞでお見かけしたような……)
その時、志摩子も思っていた。
(前にどこかで……)
呟く野田太郎の目に、男の両脚が入った。
見あげる太郎の視界が瞬時に暗くなった。
東中 昂(こう)が、太郎の顔を蹴り上げたのだ。
「止めとくれやすな、東中の旦さん!」
屈んだ姿勢から立ち上がり、東中を制止する志摩子の声はほとんど悲鳴だった。
「このガキが……たかが料理人の分際で……」
相馬禮次郎が東中と同様、膳をまたぎ越して太郎と東中の間に割って入った。
「も、止めときて、昂(こう)はん。それこそ、たかが料理人のやることやないかい」
志摩子も、相馬の後に続いた。
「そないどすえ、東中の旦さん。大人げの無い……」
東中 昂(ひがしなかこう)は志摩子に向き直った。
「ほう、言うやないか、小まめ」
「へえ、言わしてもらいます。何の手向かいもせんお方を殴る、蹴る。ちゃんとした大人のやらはることやおへんえ」
東中 昂は志摩子に対したまま、足元を見ずに声を上げた。
「おい、太郎」
野田太郎は、即座に返答した。
「へい、旦さん」
「もうええから、向こうへ行とれ」
太郎は上体だけ起き直った。そのまま、這うように元の場所、奥の金屏風の脇に戻る。そこには、変わらず道代が座していた。
相馬禮次郎を間に挟み、志摩子と東中 昂(こう)は睨み合った。
「おい、小まめ」
「なんどすか」
「えらい大層な口、聞くやないか」
志摩子の目尻が更に吊り上がる。
「大層かどうか知りまへんけど、東中の旦さん。うち(私)言うことは言わしてもらいますえ」
「おまん(お前)、誰に向こうて口、聞いとるんや」
志摩子は、下から睨(ね)め付ける様に東中を見た。
「鞍馬の料理人、東中はんに、ですがね」