タチアナは、ゆっくり呼吸を整えると笑顔で床に立った。
「演技が始まります。伴奏は、『くるみ割り人形』より“雪片のワルツ”です。ターンから入りました……。タチアナ選手は当初、コーチとして参加する予定でしたが、本人のたっての希望で選手として参加しました」
「そうですね。年齢的には今回でぎりぎりのところでしょうか」
「場内が静まり返っております。彼女の演技に魅入られていると言ったほうがよいのでしょう……。後方の3回ひねり」
「技に切れがありますね」
「見事な動きです。まるで床の上を妖精が踊っているような演技です」
「バレエの基本があるので、指先からつま先まで表現力がありますね」
「屈伸新月面!」
「綺麗に決めていきますね。私もあれほどまで完成された技はできませんでした」
「ラストに入ります。ロンダート、テンポ宙返り2回、バク転2回、屈伸ムーンサルト! 決まった! タチアナ選手が90秒間の演技を終了いたしました……。おっと、場内はまだ静まり返っております」
「このような状況は今まで見たことがありません」
アナウンサーと解説者はお互い見合うと、再び床上に目を向けた。
そこにはタチアナが天井を見上げ、立ち尽くしていた。
(終わった……。何も悔いはない……。)
見上げた顔を正面に向けると、彼女の目から一筋の涙が流れた。
その涙は、あたかも妖精の命がつきる時に発する水晶のように、キラキラ光って見えた。
彼女は、少しはにかんだ笑顔を見せると、ゆっくりと床から離れて行った。
ようやく我に返った場内から、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「ご覧ください。すごい声援と拍手です」
「確かにタチアナ選手の演技には魅了されました……。素敵でした」
「さて評価の結果が出ます……」
「おっと! 思った以上に評価が低いです。お聞きでしょうか? 場内から、ざわめきとブーイングの嵐です……。タチアナ選手の表情をモニターで見る限り、動揺している様子はなく、かえって晴れやかな笑顔が見えております」
「私が思うに、彼女は今回の演技を並々ならぬ思いで行ったと思います。全力を出し切ったからこそ、あの笑顔が出ていると思います。立派です」
「この演技での評価によって、アメリカチームは中国チームに敗れ銀メダルが確定しました。タチアナ選手の素晴らしい演技を見た後のこの現実には、なぜかやりきれない思いがあります」
「そうですね。恐れていたことが起きた……。ということになるでしょうね」
この時、タチアナの心はアメリカの応援席に座る一人の人物に向けられていた。
「第29回夏季オリンピック北京大会、女子体操決勝が行われております北京国家体育館から、CMNがお送りしております。
解説者には、前回アテネオリンピック女子体操総合でメダリストのキャリー・ヘンダーソンさんにお越し頂いております。こんばんは、ようこそ御出で下さりました」
「こんばんは」
「予選まで見ていただいて、我がアメリカの選手たちの印象はいかがでしょうか?」
「はい、申し分ない内容だと思います」
「そうですね。予選では団体総合が2位、個人総合では1,2位を独占しております。
気になる選手はおられますか?」
「はい、タチアナ・マリー二ナ選手です」
「タチアナ・マリーニナ選手は手元の資料を見ますと、変わった経歴をお持ちになっておられますね。1984年、ウクライナで生まれ、生後間もなく、ご両親は離婚。3歳のころ、お母様と渡米され、2年後にアメリカ国籍を取得、現在に至ります。体操に関しては、5歳から10歳まではバレエを習っていたそうですが、自宅のTVで女子体操の映像を見てから憧れを抱くようになり、お母様を説得され、この世界に入ったそうです。その後の活躍は皆さまのご記憶に新しい処です。それからタチアナ選手は、今回のオリンピックで引退を表明しており、コーチとして体操を教えたいとの希望ですが、残念ながら所属は決まっていないそうです。何か気になる点はありますか?」
「はい。10歳まで習っていたバレエのおかげで、彼女独特な床運動が特徴で、まるで床の上を滑っているかのようにも見えるのびやかな動きは“床上の妖精”と呼ばれており、観客を魅了させ、高得点は狙えると思います。……ただ、今回は例のことが、少なからず審査に影響を及ぼさないか危惧しております」
「例の事とは、カミングアウトの事でしょうか?」
「そうです。カミングアウトと体操の内容や表現とは関係なはずなのですが、国や人によっては拒絶または嫌悪感を抱く場合が残念ながら見受けられます。審査員の方々は公平に審査されると思いますし、そう信じていますが、会場の空気や声援の微妙な違いから影響を与えないとは断言できないことも事実です」
「タチアナ選手には、今以上の演技を求められるということですね」
「はい、その通りです」
タチアナは、演技する床を見つめていた。
(私はこの舞台の為にすべてをさらけ出した。後悔はしていない。
秘密や悩みなど、演技には重石になるだけ……。ただ……。
この姿を、ヴェロニカが見てくれてたらいい)