彼女の名はミッシェル・エマーソンと言った。タチアナより2歳年下であったが、はた目では彼女の方が年上に見えた。
ホテルで、ミッシェルとタチアナは見つめ合っていた。
「やっと、二人きりになれたね」
というのも、ここまで来るのに大変な思いをしたからだった。
競技会場を出たタチアナを、マスコミが待ち構えていた。タチアナを見るや否や、ぐるりと取り囲んだ。
彼女へのインタビューは、演技よりもカミングアウトについての質問がほとんどだった。
「演技には興奮しましたが、競技前に発表した経緯をお聞かせ願いますか?!」
「同性愛に対するこの国の対応はどう思われますか?」
「恋人との関係は何時からですか?」
「恋人とご結婚なされるって、本当ですか?!」
タチアナは、彼らの目に興味本位でしかないものを感じとり、嫌悪感を抱いた。
「すみません。競技に集中していたので体力を使い果たしており、ご質問には後日お答えしたいと思います。今日は選手村に帰らせてください。お願いします」
「そんなこと言わず、今、答えてくださいよ!」
「同性への興味を感じたのは何時からですか?」
「男性はお嫌いなのですか?」
質問が再び熱を帯び始めたころ、彼女に助っ人が介入した。
暖かいまなざしで公私ともに面倒を見てくれていたコーチだった。
「彼女は疲れ切っています。ここでメダリストが倒れたりしたら、あなた方はアメリカ国民の敵になり、国民が黙っていないでしょう」
その言葉で一同がギョッとした。国民の敵という言葉が、彼らの心にぐさりと効いた。
彼らはしぶしぶ輪の一部を開放した。
タチアナはコーチに感謝しつつ、はやる心を押さえながらゆっくりと迎えのバスに乗り込んだ。そんな様子を輪の後ろで見ていたミッシェルは、急いでタクシーを拾い乗り込んだ。
自分の宿泊するホテルへ向かう途中、彼女を拾うことを事前に打ち合わせておいたからだ。
ホテルの部屋に入ると、タチアナはミッシェルの頬を包むように両手をそえ、ゆっくりと口づけをした。
「愛している……ミッシェル」
ミッシェルの両目には、溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「私の為に、あんな辛いことを受ける……」
タチアナは、人差し指を彼女の唇にそっと押し当てると囁いた。
「それ以上は言わないで。私が望んだことだから……。辛くないと言えば嘘になるけど。
でもカミングアウトして良かったと思う。あなたに対しての思いが正しいことを自分自身が認識できたから。今はとても幸せな気持ちでいっぱいなの」
全競技が終わり、まばらになった観客席の中、手すりをギュッと掴み、一点を見つめている彼女がいた。
表彰式での夢のようなひと時が終わり、チームメイトから暖かい声援に送り出されたタチアナだったが、そんな姿を目の当たりにして、どう声を掛けようかと今更迷い、茫然と彼女の姿を見つめていた。
タチアナの気配を感じたのか、振り向いた彼女の顔が輝いた。
「タチアナ? ……いつからそこにいたの?」
「ちょっと前から。あなたのことを見て居たくて……」
そう言うと、タチアナは彼女のもとに駈け寄り抱きしめた。
「会いたかった……」
「……私も。いてもたってもいられなくてここまで来てしまった」
見つめ合ってから暫らくして、お互いにクスリと笑った。
「ここではね」
「……・そうね」
まばらになったとはいえ、観客席には名残惜しそうにしている数人の観客がいて、競技の余韻を楽しんでいた。本土ではいざ知らず、異国の地、ましてや保守的な国で、同性同士が熱い抱擁をし、口づけをし合う姿を目撃すれば、怪訝な顔されるのは目に見えていたからだ。
タチアナはそっと手を伸ばすと、彼女の手を握った。
「さあ、行きましょう」
「どこへ?」
「決まっているでしょう。あなたが泊まっているホテルへよ。まさか私が宿泊している選手村に、あなたを連れていく訳にはいかないでしょう。もっとも、チームメイトのみんなは大歓迎してくれるでしょうけど、当局が黙っていないわ」
当局というのは“中国”だと、彼女はすぐに分かった。
「そ、そうね」
青白い顔をしていた彼女の頬に、ほんのりと血色が戻ったのがとても可愛いとタチアナは思った。
「そうする」
タチアナの手を強く握り返した彼女は、あどけない少女の様に見えた。