2016.8.13(土)
↓民家の塀際に、謎の花を発見。

↑「み」
涼し気なブルーで、綺麗でした。
セージかも知れません。
↓こんな脇道がありました。

↑「み」
夜に通るのは、怖いでしょうね。
先が、江戸時代に続いてそうです。
↓さて、目的地に着きました。

↑「み」
ここは、『東京都立小金井公園』。

↑「み」
なんと、小平市、小金井市、西東京市、武蔵野市にまたがります。

↑公園の北西に広がるゴルフ場は、小金井カントリー倶楽部。
面積は、80万㎡。

潰して宅地にしたら、いくら儲かるんでしょうか。
さてさて。
わたしの目的地ですが、小金井公園そのものではありません。
小金井公園の中にある施設です。
↓公園内を進みます。

↑「み」
ケヤキなど、武蔵野の落葉樹が鬱蒼と繁り、森のようです。
ようやく、目印が見えて来ました。
↓繁り放題の落葉樹とは違い、手入れがされた樹木です。

↑「み」
しかしながら、大きさはあたりのケヤキにも負けません。

↑建物の左右に立つ丸い樹冠の木です。人と比べていただくと、大きさがわかるかと思います。
この木は、キンモクセイなんです。
キンモクセイは、民家の庭に、よく植えられています。

普段は、何の特徴もない常緑樹ですが……。
秋の秋分の日ころでしょうか、その存在が際立ちます。
花です。

オレンジ色の花が、濃い緑の葉に映えて綺麗ですが……。
それ以上に驚かされるのは、香りです。
上品な香水のような香りが、遠くまで漂うのです。
むしろ、香りから先に気づいて、「あ、このあたりにキンモクセイがいるな」ってわかるほど。

秋の日の自転車散歩は、この香りを訪ね歩くのが楽しみです。
「あ、この家にもキンモクセイがあったんだ」って気付かされます。

実は昨年、わが家にも植えたんです。
車庫の脇には、それまで矮性のネムノキが植えてありました。

↑これは矮性種かどうかわかりませんが、矮性のネムは、これくらいの大きさで、たくさん花を咲かせます。
夏の初めに咲く、夢のような花が大好きだったんですが……。

憎っくきコガネムシに、ことごとく食べられてしまいました。

↑こういう、紺色のヤツでした。
とにかく、ネムの花に、大粒のコガネムシの実が成ってるように付くんです。

↑これはネムノキじゃありませんが、こんな感じでした。
矮性のネムノキでは、あっという間に食べ尽くされます。
花だけじゃなくて、葉まで食べるんですよ。
とうとう、一昨年、力尽きて枯れてしまいました。
山賊に襲われた薄幸の美女のようでした。

↑道の駅象潟『ねむの丘』に建つ西施像。●象潟や雨に西施がねぶの花/芭蕉。
てなわけで、喪が開けた昨年の春。
跡地に、キンモクセイを植えることにしたんです。
キンモクセイなら、コガネムシに食べられることもないでしょうし。
車庫の脇は、道路にも面してるので、通りかかる人にも香りが届けられると思いました。
わが家も、キンモクセイが香る家の仲間入りをしたかったのです。

↑三重県の民家。香りもスゴいでしょうね。
苗は、ネットで買いました。
九州の業者でした。
ヤブランやヒメクチナシも一緒に購入。

↑ヤブランも秋の花です。宝石のような瑠璃色の実が成ります。
すべて、上等な苗でした。
キンモクセイは、1.5メートルの苗木です。

↑3,000円ちょっとだったと思います。
とても元気そうな苗だったのですが……。
根に付いてた土が粘土質なのが、少し気がかりでした。

↑にゃんだこりは? 粘土遊び、楽しかったですよね。
わが家の庭は、砂地なのです。

↑わが家ではありません。鳥取砂丘です。
田んぼを砂で埋め戻した造成地なんですね。
根付くことを祈りながら、砂に腐葉土を混ぜて植え込みました。

↑園芸用の腐葉土には殺虫剤が入ってる場合がありますので、カブトムシの幼虫の餌などには使わない方がいいです。
植え終わって、支柱を立て……。
花を見ることが出来ますようにと、もう一度手を合わせました。
そしたらなんと、その年の秋に、もう花を咲かせたんです。

花は小さめで、まだ香りも強くありませんが、立派にキンモクセイの香りでした。
その年の冬は、九州から嫁入りした娘のために……。
万全の冬囲いをしました。
キンモクセイは、寒風に弱いんです。

吹きさらしになる場所などに植えると、年々小さくなってしまいます。
まず、ジュート(黄麻)の布(幹巻きテープ)で、幹を手厚く巻きました。

↑植樹地では、鹿による食害を防ぐために行われてるそうです。
葉には、コーティングの意味も込めて、スプレーのマシン油を散布。

↑マシン油は、文字どおり機械油のこと。油膜で虫を覆い窒息死させます。葉がコーティングされるので、寒風からも守れます。
さらに、上から、袋状にした寒冷紗を掛け、裾で縛りました。

↑わが家のは写真を撮り忘れました。こんな感じになります。
根の上には、厚々と腐葉土をかぶせました。

↑これもわが家ではありません。夏の日除けや乾燥防止にもなります。
おかげで、今年の春、冬囲いを取ったときには、葉一枚傷んでませんでした。
今年も、新芽を伸ばしてます。

↑これもわが家のではありません。茶色っぽい新芽が、とても可憐です。
でも、思ったほど、伸びが良くないのがちょっと心配。
肥料は、ちゃんとやってるんですけどね。
ま、今は、根を伸ばす時期なのかも知れません。
さてさて。
『江戸東京たてもの園』のキンモクセイに戻りましょう。

↑これは、花どき。香りが降ってくるそうです。
この木を見たのは、2度目なんです。
つまり、ここには再訪ということになります。
このキンモクセイを見たときは、最初、クスノキかと思いました。

↑京都大学時計台前のクスノキ。
新潟と東京の気候の違いを一番感じさせてくれるのが、このクスノキです。
東京では、クスノキが街路樹に使われてます。

いずれも、年を経て、一抱えもありそうな大木になってます。

↑『霞が関桜田通り』警視庁前のクスノキ。右下の通行人と比べても、立派さがわかると思います。
新潟では、クスノキは、ほとんど観葉植物の扱いです。
露地に植えたら、必ず冬に枯れてしまいます。
庭木でも、植えられてないでしょう。
新潟で育つ常緑広葉樹の高木は……。
タブノキ、スダジイ、マテバシイ、など。
シラカシは、冬にやられる場合が多いです。

↑新潟市内の銀行。あまり元気がありません。
キンモクセイも、吹きさらしにすると、痛みます。
農家の庭先には、タブノキの巨木がありますね。

↑新潟市内の農家。
直径、1メートルくらいの樹木も珍しくありません。
そういう木は、市町村の保存樹に指定され……。
大した額じゃないでしょうが、維持費も支給されるようです。

↑タブノキの新芽。ピンク色で、花のようです。
直径1メートルの樹木が庭に生えてても、近所迷惑にならないというのが……。
新潟の農家の庭の広さです。
ちなみに、苗木を植える場合、結果が一番いいのは、スダジイだそうです。

↑新潟市内の公共施設。
タブノキより寒さに耐えるとか。
ムクムクと太るそうです。
マテバシイは葉が大きいので、雪折れする場合があります。

↑ご覧の大きさ。常緑なので、新潟の湿った雪が付着しやすいのです。
雪囲いをするか、頻繁に雪を払ってやる必要があります。
でも、わたしは、このマテバシイが好きなんです。
南国の雰囲気が出るんですよ。
特に、株立(かぶだち)と言って、たくさんの幹を寄せた樹形は素敵です。

話が飛んでしまいました。
クスノキの話でしたね。
新潟の屋外でクスノキを植えられるのは、アトリウムのような場所だけです。
新潟市街のアーケードの下に、植えられてます。

↑屋根のある商店街『古町モール』。街路の左右に、ひょろっと生えてるのがクスノキ。
南国でこんなところに植えたら、あっという間に天井に届いてしまうのでしょうが……。
新潟では、生きてるのがやっとで、ほとんど大きくなりません。
それを狙って植えたんですかね?
大きくしないのが目的なら、いくらでもほかの樹木がありそうですが。
わたしが植えるなら、カクレミノかな。

日陰に強く、カエルみたいな葉っぱが可愛い常緑樹です。

大きくならないので、マンションのエントランスなどにも植えられてます。

↑新潟市内のマンション。陽あたりが悪いですが、元気にしてます。
さて、話を東京に戻しましょう。
その前に、↓キンモクセイが歌詞に出てくる曲をお聞き下さい。
巨大なキンモクセイが左右にそびえるこの建物は……。
『江戸東京たてもの園』の正面入口です。

この建物自体、『光華殿』という建築物を改修したものなのです。
『光華殿』は、昭和15(1940)年、『紀元二千六百年記念式典』の会場として……。
宮城前広場(現在の皇居外苑)に建設されたました。

↑式典の模様。見えてる建物が『光華殿』だと思います。
元々、この式典のためだけに作られた仮設の建物だったそうです。
式典の後は解体され、現在地に移されたものだとか。
いきなりこの場所に移されたみたいなので……。
この小金井公園が昔、何だったのか、気になって調べてみました。
『江戸東京たてもの園』の開館は、1993(平成5)年。
その前身は、『武蔵野郷土館』だったそうです。

↑『武蔵野郷土館』時代の展示。
原始、古代から近、現代に至る武蔵野の生い立ちをテーマにした施設だったようです。

↑色っぽい姿勢ですが、男性です。屈葬されてるのです。
そっちも見てみたかったですね。
『武蔵野郷土館』があったのは、1954(昭和29)年から1991(平成3)年まで。
それでは、その前は何だったのでしょう。
『光華殿』が移されたのは、1941(昭和16)年。
そのころの小金井公園は、小金井大緑地と呼ばれてました。

↑昭和22年、米軍機による撮影。写ってるのは、小金井公園の北西に広がる『小金井カントリー倶楽部』。なんと、このゴルフ場の開場は、1937(昭和12)年。戦後は一時、進駐軍に接収されたそうです。
『紀元二千六百年記念式典』がとり行われた昭和15(1940)年は……。
言わずと知れた、太平洋戦争開戦の前年です。

↑昭和16(1941)年12月9日(真珠湾攻撃の翌日)の新聞。
小金井大緑地は、防災緑地として整備されたそうです。
その当時、ここが国の用地だったわけではありません。
多数の農家の土地です。
昭和15年(1940)の秋、このあたりの農家一帯に呼び出し状が届きました。
印鑑を持って、小金井小学校(現・小金井市立一小)に来いと言うのです。

↑なんと、明治6年開校です。
これが、農地の強制買い上げだったのです。
今だったら、これだけの規模の農地を買い上げるなんて、何年かかるかわかったもんじゃありません。
でも、当時は違います。
嫌も応もありません。
まぁ、ヒドい話ですが……。
これが戦争というものなんでしょう。
でも、皮肉なことに、この軍の横暴が、ここに大公園を残すことになったわけです。
もし、ここが買い上げられず、農地のままだったとしたら……。
ぜんぶ、宅地として造成されてたことでしょうね。

↑どこだか不明。
ま、これで、『光華殿』がいきなりここに移された理由もわかりました。
さて、その『光華殿』は今、『江戸東京たてもの園』のビジターセンターになってます。

↑向かって右側に、車いす用のスロープがあります。
入場券は、ここで買います。
中は、フツーの博物館のエントランスです。

料金は、400円。

↑「み」
この値段は、施設の規模を考えると、驚くほど安いです。
前にも書きましたが、ここを訪ねたのは、2度目です。
前回、いつ来たのか忘れてしまいましたが……。
なんとなく、エントランス周辺の雰囲気が、ぜんぜん違ってました。
光華殿やキンモクセイなど、施設の様子はそのままなんですけどね。
まず、ぎょっとしたのは、ビジターセンター前に蝟集する群衆。

↑なぜか、混んでる画像がほとんどありません。あの日だけだったのでしょうか。
団体客らしいです。
外国人らしい集団も見えます。

↑この人は単独行動です。日本に観光に来て、いきなり渋川に行く外人は、まずいないでしょう。アニメの舞台になった街を見たいんだそうです。理解不能……。
若いのはたぶん、建築デザインか何かの専門学校生じゃないでしょうか。

↑イメージです。
チャラい雰囲気からして、大学生じゃなさそうです。

↑こういう系統。
ま、ここまで来て引き返す気にはなれないので、ビビりながらも館内に入ります。
400円を払い、案内役らしいお姉さんに、ロッカーの場所を聞きます。
実は、このロッカーに一抹の危惧があったんです。
なんとなれば、この日と翌日が、伊勢志摩サミットだったからです。

サミットと旅程が重なることは、宿やバスを予約した後、気づきました。
前に気づいていたら、日程は変えていたかも知れません。
でも、この5月最後の週末以外の日程を組むのは難しかったことも確かです。
会社が3月決算なので、5月の申告までは大忙し。

4月中は、勘定科目内訳明細書など、税理士事務所に渡す書類作りに追われます。

ゴールデンウィーク前にそれを渡して、一段落ですが……。
もちろん、ゴールデンウィークに旅行なんて出来ません。
どれだけ混むかわかりませんから。

↑ディズニーランドのようです。わたしは、一生、行くことはないでしょう。
そもそも、宿だって取れないでしょ。
そのゴールデンウィークが明けると……。
わたしがまとめた書類を吟味してる税理士事務所から、頻繁に問い合わせの電話が入ります。

↑向うだって、かけたくてかけてるんじゃないでしょうが……。かかって来ると、ほんとにイヤなものです。
申告まで日がないので、会社を休んでるわけにはいきません。
ようやく、5月の終盤になって、申告書が出来上がります。

つまり、決算業務から開放されるのが、5月最後の週末あたりなんです。
ほんとは、6月に入ってからの方が、業務的にはずっと余裕があります。
でも、6月は、お天気が心配。

宿は、早く予約すればするほど安くなります。
わたしは今回、45日以上前の割引コースで予約しました。
県外高速バスの予約は、1ヶ月前からです。

いい席を取りたいので、発売開始日に予約を入れます。
つまり、こんなに前に旅程を決めなければならないので……。
今年の梅雨入りがいつごろかなど、まったくわかりません。

東京は、年によっては、6月に入ってすぐ梅雨入りしたりしますからね。
雨の中の旅行では、あまり楽しくありません。
特に今回は、『江戸東京たてもの園』をコースに入れたので、一層です。
外を歩かなくてはなりませんから。
その点、5月終盤であれば、まず梅雨入りはしてないはず。
関東の気候が一番安定して、旅行に良い季節は……。
ゴールデンウィークが開けてから、梅雨入りまでの間だと思うんです。
ゴールデンウィークまでは、案外寒い日があったりしますから。

↑今年4月29日の天気予報。
かと言って、梅雨が明けてしまってからでは、とうてい楽しい旅行にはならないでしょう。
東京の夏は、暑すぎます。

まさしく東京砂漠。
わたしは東京の街を歩きたいので、歩くのが苦痛な時期には行きたくないのです。

↑猛暑日の井の頭自然文化園のリス。体温を下げてるんでしょうね。
てなわけで、たとえ伊勢志摩サミットの日程に気づいていたとしても……。
この日を外せたかは、微妙です。
不便があったらあったで、旅行記のネタにしてやるという覚悟でした。

↑こんなのまで売ってるんですね。
で、サミット前のニュースでは、東京の駅のロッカーが封鎖され、ゴミ箱まで撤去されてました。

↑一番迷惑したのは、雑誌などを漁るホームレスの人たちでは?
ひょっとしたら、『江戸東京たてもの園』のロッカーもダメかもと思ってたんです。
なんでロッカーが要るかと云うと……。
大荷物を背負ってるからです。
ホテルから投稿するために、ノートパソコンまで入ってます。
見た目は、登山者のリュックみたいです。

↑ここまでではありませんが。
こういうのを背負ったまま、歩き回りたくないわけです。
リュックが、展示物にぶつかったりする恐れもありますし。
というわけで、真っ先にロッカーのありかを聞きました。
実は、どこにあるかは、ネットで調べて知ってました。

↑不確かな情報です。必ず、現地で聞いてください。
でも、使えるかどうかは書いてない。
そこまで行ってから封鎖されてたら業腹なので、お姉さんに聞いたわけです。
ロッカーは、何事も無く使えました。
やれやれです。
最初に100円玉が必要ですが、利用を終了したときに戻ります。

↑『江戸東京たてもの園』のじゃありませんが、つまり、こういうタイプです。
ビジターセンターを抜け、戸外のエントランス広場に降ります。

↑写真を撮り忘れましたので、拝借画像です。このガラス扉を抜けると、エントランス広場になります。
ここで、以前来た時と、明らかに違う雰囲気を感じました。
ハッピを着て、人待ち顔で立ってるお年寄りが何人かいるのです。

↑青いハッピを着た人がそうです。エントランス広場で、数人、客待ちをしてました。
一目でピンときました。
ボランティアガイドです。
わたしは、こーゆー人たちが、はなはだ苦手です。
嫌いなのではありません。
苦手なのです。

↑猫が、ア・プリオリに風呂が苦手なのと同様です。
きっと、一生懸命勉強した知識で、一生懸命説明してくれるのでしょう。

↑いい光景です(皮肉にあらず)。
わたしはどーも、そーゆー一生懸命さが苦手なんです。
といって、いい加減で緩ければ……。

ぜったい腹が立つでしょう。
そんなら、どうすればいいんだ!
と言われるかも知れませんが……。
早い話、わたしとは関わらないでほしいのです。
目を合わせないように、傍らを足早に通り過ぎます。

敷地は広大で、特に順路などは無いようです。
↓パンフレットをもらいましたが、こんなのを見ても、わけがわかりません。

闇雲に歩き出します。
↓するとなんと、わたしがもう一度見たいと思ってた建物が、すぐ目の前にありました。

↑「み」
これは、『前川國男邸』です。
前川國男(1905~1986)は、建築家。

新潟市美術館の設計者でもあるので、わたしには馴染みの名前です。

↑2006年、新潟市美術館で『前川國男建築展』が開かれました。
この建物は、昭和17(1942)年、前川が自邸として、品川区上大崎に建てたものです。

↑居間でくつろぐ前川夫妻(昭和30年代)。
建築資材の入手が困難な時期だからでしょうか、凝った作りはまったくありません。
外も内も、シンプルそのもの。

↑これは、新たに作られた模型です。
それがまたいいんですね。
ところが中に入って、ギョッとしました。
いるのです。
わが天敵、ボランティアガイドが!

↑拝借画像です。写真なんか撮ったら、話を聞かないわけにいいきませんから、目を合わさないようにしてました。
どうやらガイドは、エントランス広場で客待ちしてるだけでなく……。
建物一つ一つに住み着いているようです。

↑妖怪『あかなめ』。どうせなら、背中も流しに来てくれればいいのに。
おそらく、建物ごとにボランティアを置くのには、もちろんガイドの役目もあるのでしょうが……。
もうひとつの役割を、ひそかに都は期待してるんじゃないでしょうか。
つまりそれは、無報酬の見張り番です。

↑映画『張り込み』(1958年)。
そういう見張りがいないと、ぜったいにいたずらをするヤツがいるんですよ。
壁に相合傘を書いたり、柱に「あきら見参!」とか彫ったり、梁に千社札を貼ったり……。

ヘタすれば、AV撮影をしたりしかねない。

↑大暴落! しかし、裏ビデオはわかりますが……。単体とか企画って、何ですのん?
もちろん、維持管理の予算は限られてるでしょうから……。
建物1棟1棟に、都の職員を立てるわけにはいきません。

↑東京都庁の職員食堂です。腹立つ……。
そこで都が考えたのが、ボランティアです。
暇を持て余し、喜々としてタダでやってくれるヒマ人が、たくさんいるのです。

↑これは、イマジン。“Imagine”は、“想像せよ”という意味。
都としては、説明なんか下手くそだっていいんです。
人がいるだけで、いたずらの抑止力となるんですから。

もちろん、ボランティアには、そんなことは伝えてないでしょう。
彼らは、一生懸命吸収した知識を、訪れた人に伝えようとして……。
話を聞いてくれそうな人を、目をらんらんと輝かせて探してるんです。

↑作り物ではありません。タチヨタカの実写です。
とても、建物にいたずらしたりするスキなどありません。

↑隙なし! 宮本武蔵の不意打ちを、鍋蓋で受け止める塚原卜伝(実話ではありません)。
さてさて。
わたしが『前川國男邸』に入ったときは、カップルらしい2人連れがとっ捕まり、説明を受けてました。
助かった。
脇をすり抜け、誰もいない部屋を探索。

↓いきなり、台所に出ました。

↑「み」
蛇口が2つあるのは、お湯も出たんですかね?
昭和17年では、考えにくいのですが。
ガス台らしいのが、重厚です。

↑「み」
現在、この窓からは、園内の樹木が見えて、まるで別荘のような景色です。

↑「み」
上大崎に建てられたときは、何が見えたんでしょう?
↓バスルームです。

↑「み」
昔の住宅を見るときは、どうしても水回りが気になります。
しかし、窓は、上大崎でもこのままだったんですかね。
開放的過ぎますよね。
窓から丸見えです。

↑出っ歯なことから“出歯亀”の渾名をもつ池田亀太郎(実在しました)。なんと! この絵が描かれたときの年齢は、35歳。見えねー!
と言って、カーテンしたら、カビが生えるだろうし……。
ひょっとしたら、この窓の外は、ブロック塀か何かだったのかも知れませんね。
シャワーが無いようです。
石鹸だらけの身体を、どうやって流したのでしょうか?
お湯を抜いてから、洗面器のお湯をかぶったんでしょうか。
↑人生の極楽。
↓前川邸の平面図です。

台所の写真で、ガス台の右に、何かの機械がありましたが……。
今、わかりました。
あれはきっと、お風呂用のガスボイラーですね。

としたら、そのボイラーから、台所の流しにも、お湯を引いてたのでしょう。
↓ボイラーという単語が出ると、どうしてもこの歌を唄わずにはおれません。
前川邸、続けます。
↓寝室です。

↑「み」
とても、戦争中に建てられたとは思えない部屋ですよね。
ベッドって、普通に手に入ったんですかね?
写真を改めて見ると、妙に角張ってます。
ひょっとしたら、躯体は大工さんが作ったんじゃないでしょうか。
その上に畳を敷いて、敷布団を載せた。

↑こんな感じ。
しかし……。
夫婦で並んで寝るってのは、やっぱり落ち着かないですよね。
おならもはばかられますし。

わたしはやっぱり、一人の寝室がいいです。
↓壁際に、オイルヒーターがあります。

↑「み」
電気式なんでしょうね。
真冬は、なかなか温まらなかったんじゃないでしょうか。
戦時中は、寒かったような印象があります。
↓作り付けの収納。

↑「み」
この奥行きで、何を入れてたんでしょうか。
↓前川國男邸では、中央部に居間(サロン)があります。

↑拝借画像です。
ここには、ボランティアガイドがいて、写真など撮ってると話しかけられそうだったので……。
撮影は諦めました。
↓パンフレットに載ってた『前川國男邸』の説明です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として、品川区上大崎に1942(昭和17)年に建てられた住宅です。
戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。
外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎・寝室を配したシンプルな間取りになっています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓前川邸の寝室を撮影した次の画像は、これでした。

↑「み」
こんな和室は前川國男邸には無いので、違う建物に移動したはずです。
↓味わいのある和室です。

↑「み」
落ち着きそうですね。
こんな部屋で、お昼寝してみたいです。
気になったので、ネット検索してみました。
どうやら、『前川國男邸』の向かって左隣にある『小出邸』のようです。

↑拝借画像です。今の新築住宅にあっても不思議じゃない外観ですね。
立てられたのは、1925(大正14)年ですから、前川邸より、17年も前です。
文京区西片2丁目。
↓東京大学の真ん前あたりです。

↓パンフレットの説明です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅です。
当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
モダニズムの主導者なら、もっと奇抜な建物を造りそうですけどね。

↑パリ郊外に建つ『サヴォア邸』。1931(昭和6)年竣工。ル・コルビジェの設計。
やっぱり、自宅までモダニズムでは、日本人は落ち着かないんでしょうね。
↓台所です。

↑「み」
この流しは、人研ぎ(じんとぎ)のようですね。

人研ぎとは、「人造大理石研ぎ出し」の略です。
もちろん、本物の大理石を研ぎ出したわけじゃありません。
「セメントに、大理石や蛇紋岩などの種石と顔料を練り混ぜて塗り、硬化後にグラインダーで研磨して表面を滑らかに仕上げたもの」だとか。

このタイプの流しは、昔の公団住宅などで良く見られました。

↑1957(昭和32)年建築の『蓮根団地(東京都板橋区)』。
子供のころ泊まった民宿で見かけたことがあります。

↑雰囲気はこんな感じでしたが、これはタイルですね。
古い小学校なんかの手洗い場にも使われてたんじゃないでしょうか。

↑愛知県豊田市の小学校。2012年改修直前の写真のようです。
民宿では、蛇口から出る水が、少し錆臭かった記憶があります。

↑蛇口に、サビを漉す袋がかかってました。
古い流しを見ていると、いろんな五感の記憶が蘇ります。
この建物で、どうして和室と台所しか写真に撮ってないのか不思議です。
小出邸の外観は洋風です。
1階には、洋風の応接間もあります。

↑見た記憶がない。
ひょっとしたら、ボランティアガイドに話しかけられそうで、逃げたのかも知れません。

↑「み」
涼し気なブルーで、綺麗でした。
セージかも知れません。
↓こんな脇道がありました。

↑「み」
夜に通るのは、怖いでしょうね。
先が、江戸時代に続いてそうです。
↓さて、目的地に着きました。

↑「み」
ここは、『東京都立小金井公園』。

↑「み」
なんと、小平市、小金井市、西東京市、武蔵野市にまたがります。

↑公園の北西に広がるゴルフ場は、小金井カントリー倶楽部。
面積は、80万㎡。

潰して宅地にしたら、いくら儲かるんでしょうか。
さてさて。
わたしの目的地ですが、小金井公園そのものではありません。
小金井公園の中にある施設です。
↓公園内を進みます。

↑「み」
ケヤキなど、武蔵野の落葉樹が鬱蒼と繁り、森のようです。
ようやく、目印が見えて来ました。
↓繁り放題の落葉樹とは違い、手入れがされた樹木です。

↑「み」
しかしながら、大きさはあたりのケヤキにも負けません。

↑建物の左右に立つ丸い樹冠の木です。人と比べていただくと、大きさがわかるかと思います。
この木は、キンモクセイなんです。
キンモクセイは、民家の庭に、よく植えられています。

普段は、何の特徴もない常緑樹ですが……。
秋の秋分の日ころでしょうか、その存在が際立ちます。
花です。

オレンジ色の花が、濃い緑の葉に映えて綺麗ですが……。
それ以上に驚かされるのは、香りです。
上品な香水のような香りが、遠くまで漂うのです。
むしろ、香りから先に気づいて、「あ、このあたりにキンモクセイがいるな」ってわかるほど。

秋の日の自転車散歩は、この香りを訪ね歩くのが楽しみです。
「あ、この家にもキンモクセイがあったんだ」って気付かされます。

実は昨年、わが家にも植えたんです。
車庫の脇には、それまで矮性のネムノキが植えてありました。

↑これは矮性種かどうかわかりませんが、矮性のネムは、これくらいの大きさで、たくさん花を咲かせます。
夏の初めに咲く、夢のような花が大好きだったんですが……。

憎っくきコガネムシに、ことごとく食べられてしまいました。

↑こういう、紺色のヤツでした。
とにかく、ネムの花に、大粒のコガネムシの実が成ってるように付くんです。

↑これはネムノキじゃありませんが、こんな感じでした。
矮性のネムノキでは、あっという間に食べ尽くされます。
花だけじゃなくて、葉まで食べるんですよ。
とうとう、一昨年、力尽きて枯れてしまいました。
山賊に襲われた薄幸の美女のようでした。

↑道の駅象潟『ねむの丘』に建つ西施像。●象潟や雨に西施がねぶの花/芭蕉。
てなわけで、喪が開けた昨年の春。
跡地に、キンモクセイを植えることにしたんです。
キンモクセイなら、コガネムシに食べられることもないでしょうし。
車庫の脇は、道路にも面してるので、通りかかる人にも香りが届けられると思いました。
わが家も、キンモクセイが香る家の仲間入りをしたかったのです。

↑三重県の民家。香りもスゴいでしょうね。
苗は、ネットで買いました。
九州の業者でした。
ヤブランやヒメクチナシも一緒に購入。

↑ヤブランも秋の花です。宝石のような瑠璃色の実が成ります。
すべて、上等な苗でした。
キンモクセイは、1.5メートルの苗木です。

↑3,000円ちょっとだったと思います。
とても元気そうな苗だったのですが……。
根に付いてた土が粘土質なのが、少し気がかりでした。

↑にゃんだこりは? 粘土遊び、楽しかったですよね。
わが家の庭は、砂地なのです。

↑わが家ではありません。鳥取砂丘です。
田んぼを砂で埋め戻した造成地なんですね。
根付くことを祈りながら、砂に腐葉土を混ぜて植え込みました。

↑園芸用の腐葉土には殺虫剤が入ってる場合がありますので、カブトムシの幼虫の餌などには使わない方がいいです。
植え終わって、支柱を立て……。
花を見ることが出来ますようにと、もう一度手を合わせました。
そしたらなんと、その年の秋に、もう花を咲かせたんです。

花は小さめで、まだ香りも強くありませんが、立派にキンモクセイの香りでした。
その年の冬は、九州から嫁入りした娘のために……。
万全の冬囲いをしました。
キンモクセイは、寒風に弱いんです。

吹きさらしになる場所などに植えると、年々小さくなってしまいます。
まず、ジュート(黄麻)の布(幹巻きテープ)で、幹を手厚く巻きました。

↑植樹地では、鹿による食害を防ぐために行われてるそうです。
葉には、コーティングの意味も込めて、スプレーのマシン油を散布。

↑マシン油は、文字どおり機械油のこと。油膜で虫を覆い窒息死させます。葉がコーティングされるので、寒風からも守れます。
さらに、上から、袋状にした寒冷紗を掛け、裾で縛りました。

↑わが家のは写真を撮り忘れました。こんな感じになります。
根の上には、厚々と腐葉土をかぶせました。

↑これもわが家ではありません。夏の日除けや乾燥防止にもなります。
おかげで、今年の春、冬囲いを取ったときには、葉一枚傷んでませんでした。
今年も、新芽を伸ばしてます。

↑これもわが家のではありません。茶色っぽい新芽が、とても可憐です。
でも、思ったほど、伸びが良くないのがちょっと心配。
肥料は、ちゃんとやってるんですけどね。
ま、今は、根を伸ばす時期なのかも知れません。
さてさて。
『江戸東京たてもの園』のキンモクセイに戻りましょう。

↑これは、花どき。香りが降ってくるそうです。
この木を見たのは、2度目なんです。
つまり、ここには再訪ということになります。
このキンモクセイを見たときは、最初、クスノキかと思いました。

↑京都大学時計台前のクスノキ。
新潟と東京の気候の違いを一番感じさせてくれるのが、このクスノキです。
東京では、クスノキが街路樹に使われてます。

いずれも、年を経て、一抱えもありそうな大木になってます。

↑『霞が関桜田通り』警視庁前のクスノキ。右下の通行人と比べても、立派さがわかると思います。
新潟では、クスノキは、ほとんど観葉植物の扱いです。
露地に植えたら、必ず冬に枯れてしまいます。
庭木でも、植えられてないでしょう。
新潟で育つ常緑広葉樹の高木は……。
タブノキ、スダジイ、マテバシイ、など。
シラカシは、冬にやられる場合が多いです。

↑新潟市内の銀行。あまり元気がありません。
キンモクセイも、吹きさらしにすると、痛みます。
農家の庭先には、タブノキの巨木がありますね。

↑新潟市内の農家。
直径、1メートルくらいの樹木も珍しくありません。
そういう木は、市町村の保存樹に指定され……。
大した額じゃないでしょうが、維持費も支給されるようです。

↑タブノキの新芽。ピンク色で、花のようです。
直径1メートルの樹木が庭に生えてても、近所迷惑にならないというのが……。
新潟の農家の庭の広さです。
ちなみに、苗木を植える場合、結果が一番いいのは、スダジイだそうです。

↑新潟市内の公共施設。
タブノキより寒さに耐えるとか。
ムクムクと太るそうです。
マテバシイは葉が大きいので、雪折れする場合があります。

↑ご覧の大きさ。常緑なので、新潟の湿った雪が付着しやすいのです。
雪囲いをするか、頻繁に雪を払ってやる必要があります。
でも、わたしは、このマテバシイが好きなんです。
南国の雰囲気が出るんですよ。
特に、株立(かぶだち)と言って、たくさんの幹を寄せた樹形は素敵です。

話が飛んでしまいました。
クスノキの話でしたね。
新潟の屋外でクスノキを植えられるのは、アトリウムのような場所だけです。
新潟市街のアーケードの下に、植えられてます。

↑屋根のある商店街『古町モール』。街路の左右に、ひょろっと生えてるのがクスノキ。
南国でこんなところに植えたら、あっという間に天井に届いてしまうのでしょうが……。
新潟では、生きてるのがやっとで、ほとんど大きくなりません。
それを狙って植えたんですかね?
大きくしないのが目的なら、いくらでもほかの樹木がありそうですが。
わたしが植えるなら、カクレミノかな。

日陰に強く、カエルみたいな葉っぱが可愛い常緑樹です。

大きくならないので、マンションのエントランスなどにも植えられてます。

↑新潟市内のマンション。陽あたりが悪いですが、元気にしてます。
さて、話を東京に戻しましょう。
その前に、↓キンモクセイが歌詞に出てくる曲をお聞き下さい。
巨大なキンモクセイが左右にそびえるこの建物は……。
『江戸東京たてもの園』の正面入口です。

この建物自体、『光華殿』という建築物を改修したものなのです。
『光華殿』は、昭和15(1940)年、『紀元二千六百年記念式典』の会場として……。
宮城前広場(現在の皇居外苑)に建設されたました。

↑式典の模様。見えてる建物が『光華殿』だと思います。
元々、この式典のためだけに作られた仮設の建物だったそうです。
式典の後は解体され、現在地に移されたものだとか。
いきなりこの場所に移されたみたいなので……。
この小金井公園が昔、何だったのか、気になって調べてみました。
『江戸東京たてもの園』の開館は、1993(平成5)年。
その前身は、『武蔵野郷土館』だったそうです。

↑『武蔵野郷土館』時代の展示。
原始、古代から近、現代に至る武蔵野の生い立ちをテーマにした施設だったようです。

↑色っぽい姿勢ですが、男性です。屈葬されてるのです。
そっちも見てみたかったですね。
『武蔵野郷土館』があったのは、1954(昭和29)年から1991(平成3)年まで。
それでは、その前は何だったのでしょう。
『光華殿』が移されたのは、1941(昭和16)年。
そのころの小金井公園は、小金井大緑地と呼ばれてました。

↑昭和22年、米軍機による撮影。写ってるのは、小金井公園の北西に広がる『小金井カントリー倶楽部』。なんと、このゴルフ場の開場は、1937(昭和12)年。戦後は一時、進駐軍に接収されたそうです。
『紀元二千六百年記念式典』がとり行われた昭和15(1940)年は……。
言わずと知れた、太平洋戦争開戦の前年です。

↑昭和16(1941)年12月9日(真珠湾攻撃の翌日)の新聞。
小金井大緑地は、防災緑地として整備されたそうです。
その当時、ここが国の用地だったわけではありません。
多数の農家の土地です。
昭和15年(1940)の秋、このあたりの農家一帯に呼び出し状が届きました。
印鑑を持って、小金井小学校(現・小金井市立一小)に来いと言うのです。

↑なんと、明治6年開校です。
これが、農地の強制買い上げだったのです。
今だったら、これだけの規模の農地を買い上げるなんて、何年かかるかわかったもんじゃありません。
でも、当時は違います。
嫌も応もありません。
まぁ、ヒドい話ですが……。
これが戦争というものなんでしょう。
でも、皮肉なことに、この軍の横暴が、ここに大公園を残すことになったわけです。
もし、ここが買い上げられず、農地のままだったとしたら……。
ぜんぶ、宅地として造成されてたことでしょうね。

↑どこだか不明。
ま、これで、『光華殿』がいきなりここに移された理由もわかりました。
さて、その『光華殿』は今、『江戸東京たてもの園』のビジターセンターになってます。

↑向かって右側に、車いす用のスロープがあります。
入場券は、ここで買います。
中は、フツーの博物館のエントランスです。

料金は、400円。

↑「み」
この値段は、施設の規模を考えると、驚くほど安いです。
前にも書きましたが、ここを訪ねたのは、2度目です。
前回、いつ来たのか忘れてしまいましたが……。
なんとなく、エントランス周辺の雰囲気が、ぜんぜん違ってました。
光華殿やキンモクセイなど、施設の様子はそのままなんですけどね。
まず、ぎょっとしたのは、ビジターセンター前に蝟集する群衆。

↑なぜか、混んでる画像がほとんどありません。あの日だけだったのでしょうか。
団体客らしいです。
外国人らしい集団も見えます。

↑この人は単独行動です。日本に観光に来て、いきなり渋川に行く外人は、まずいないでしょう。アニメの舞台になった街を見たいんだそうです。理解不能……。
若いのはたぶん、建築デザインか何かの専門学校生じゃないでしょうか。

↑イメージです。
チャラい雰囲気からして、大学生じゃなさそうです。

↑こういう系統。
ま、ここまで来て引き返す気にはなれないので、ビビりながらも館内に入ります。
400円を払い、案内役らしいお姉さんに、ロッカーの場所を聞きます。
実は、このロッカーに一抹の危惧があったんです。
なんとなれば、この日と翌日が、伊勢志摩サミットだったからです。

サミットと旅程が重なることは、宿やバスを予約した後、気づきました。
前に気づいていたら、日程は変えていたかも知れません。
でも、この5月最後の週末以外の日程を組むのは難しかったことも確かです。
会社が3月決算なので、5月の申告までは大忙し。

4月中は、勘定科目内訳明細書など、税理士事務所に渡す書類作りに追われます。

ゴールデンウィーク前にそれを渡して、一段落ですが……。
もちろん、ゴールデンウィークに旅行なんて出来ません。
どれだけ混むかわかりませんから。

↑ディズニーランドのようです。わたしは、一生、行くことはないでしょう。
そもそも、宿だって取れないでしょ。
そのゴールデンウィークが明けると……。
わたしがまとめた書類を吟味してる税理士事務所から、頻繁に問い合わせの電話が入ります。

↑向うだって、かけたくてかけてるんじゃないでしょうが……。かかって来ると、ほんとにイヤなものです。
申告まで日がないので、会社を休んでるわけにはいきません。
ようやく、5月の終盤になって、申告書が出来上がります。

つまり、決算業務から開放されるのが、5月最後の週末あたりなんです。
ほんとは、6月に入ってからの方が、業務的にはずっと余裕があります。
でも、6月は、お天気が心配。

宿は、早く予約すればするほど安くなります。
わたしは今回、45日以上前の割引コースで予約しました。
県外高速バスの予約は、1ヶ月前からです。

いい席を取りたいので、発売開始日に予約を入れます。
つまり、こんなに前に旅程を決めなければならないので……。
今年の梅雨入りがいつごろかなど、まったくわかりません。

東京は、年によっては、6月に入ってすぐ梅雨入りしたりしますからね。
雨の中の旅行では、あまり楽しくありません。
特に今回は、『江戸東京たてもの園』をコースに入れたので、一層です。
外を歩かなくてはなりませんから。
その点、5月終盤であれば、まず梅雨入りはしてないはず。
関東の気候が一番安定して、旅行に良い季節は……。
ゴールデンウィークが開けてから、梅雨入りまでの間だと思うんです。
ゴールデンウィークまでは、案外寒い日があったりしますから。

↑今年4月29日の天気予報。
かと言って、梅雨が明けてしまってからでは、とうてい楽しい旅行にはならないでしょう。
東京の夏は、暑すぎます。

まさしく東京砂漠。
わたしは東京の街を歩きたいので、歩くのが苦痛な時期には行きたくないのです。

↑猛暑日の井の頭自然文化園のリス。体温を下げてるんでしょうね。
てなわけで、たとえ伊勢志摩サミットの日程に気づいていたとしても……。
この日を外せたかは、微妙です。
不便があったらあったで、旅行記のネタにしてやるという覚悟でした。

↑こんなのまで売ってるんですね。
で、サミット前のニュースでは、東京の駅のロッカーが封鎖され、ゴミ箱まで撤去されてました。

↑一番迷惑したのは、雑誌などを漁るホームレスの人たちでは?
ひょっとしたら、『江戸東京たてもの園』のロッカーもダメかもと思ってたんです。
なんでロッカーが要るかと云うと……。
大荷物を背負ってるからです。
ホテルから投稿するために、ノートパソコンまで入ってます。
見た目は、登山者のリュックみたいです。

↑ここまでではありませんが。
こういうのを背負ったまま、歩き回りたくないわけです。
リュックが、展示物にぶつかったりする恐れもありますし。
というわけで、真っ先にロッカーのありかを聞きました。
実は、どこにあるかは、ネットで調べて知ってました。

↑不確かな情報です。必ず、現地で聞いてください。
でも、使えるかどうかは書いてない。
そこまで行ってから封鎖されてたら業腹なので、お姉さんに聞いたわけです。
ロッカーは、何事も無く使えました。
やれやれです。
最初に100円玉が必要ですが、利用を終了したときに戻ります。

↑『江戸東京たてもの園』のじゃありませんが、つまり、こういうタイプです。
ビジターセンターを抜け、戸外のエントランス広場に降ります。

↑写真を撮り忘れましたので、拝借画像です。このガラス扉を抜けると、エントランス広場になります。
ここで、以前来た時と、明らかに違う雰囲気を感じました。
ハッピを着て、人待ち顔で立ってるお年寄りが何人かいるのです。

↑青いハッピを着た人がそうです。エントランス広場で、数人、客待ちをしてました。
一目でピンときました。
ボランティアガイドです。
わたしは、こーゆー人たちが、はなはだ苦手です。
嫌いなのではありません。
苦手なのです。

↑猫が、ア・プリオリに風呂が苦手なのと同様です。
きっと、一生懸命勉強した知識で、一生懸命説明してくれるのでしょう。

↑いい光景です(皮肉にあらず)。
わたしはどーも、そーゆー一生懸命さが苦手なんです。
といって、いい加減で緩ければ……。

ぜったい腹が立つでしょう。
そんなら、どうすればいいんだ!
と言われるかも知れませんが……。
早い話、わたしとは関わらないでほしいのです。
目を合わせないように、傍らを足早に通り過ぎます。

敷地は広大で、特に順路などは無いようです。
↓パンフレットをもらいましたが、こんなのを見ても、わけがわかりません。

闇雲に歩き出します。
↓するとなんと、わたしがもう一度見たいと思ってた建物が、すぐ目の前にありました。

↑「み」
これは、『前川國男邸』です。
前川國男(1905~1986)は、建築家。

新潟市美術館の設計者でもあるので、わたしには馴染みの名前です。

↑2006年、新潟市美術館で『前川國男建築展』が開かれました。
この建物は、昭和17(1942)年、前川が自邸として、品川区上大崎に建てたものです。

↑居間でくつろぐ前川夫妻(昭和30年代)。
建築資材の入手が困難な時期だからでしょうか、凝った作りはまったくありません。
外も内も、シンプルそのもの。

↑これは、新たに作られた模型です。
それがまたいいんですね。
ところが中に入って、ギョッとしました。
いるのです。
わが天敵、ボランティアガイドが!

↑拝借画像です。写真なんか撮ったら、話を聞かないわけにいいきませんから、目を合わさないようにしてました。
どうやらガイドは、エントランス広場で客待ちしてるだけでなく……。
建物一つ一つに住み着いているようです。

↑妖怪『あかなめ』。どうせなら、背中も流しに来てくれればいいのに。
おそらく、建物ごとにボランティアを置くのには、もちろんガイドの役目もあるのでしょうが……。
もうひとつの役割を、ひそかに都は期待してるんじゃないでしょうか。
つまりそれは、無報酬の見張り番です。

↑映画『張り込み』(1958年)。
そういう見張りがいないと、ぜったいにいたずらをするヤツがいるんですよ。
壁に相合傘を書いたり、柱に「あきら見参!」とか彫ったり、梁に千社札を貼ったり……。

ヘタすれば、AV撮影をしたりしかねない。

↑大暴落! しかし、裏ビデオはわかりますが……。単体とか企画って、何ですのん?
もちろん、維持管理の予算は限られてるでしょうから……。
建物1棟1棟に、都の職員を立てるわけにはいきません。

↑東京都庁の職員食堂です。腹立つ……。
そこで都が考えたのが、ボランティアです。
暇を持て余し、喜々としてタダでやってくれるヒマ人が、たくさんいるのです。

↑これは、イマジン。“Imagine”は、“想像せよ”という意味。
都としては、説明なんか下手くそだっていいんです。
人がいるだけで、いたずらの抑止力となるんですから。

もちろん、ボランティアには、そんなことは伝えてないでしょう。
彼らは、一生懸命吸収した知識を、訪れた人に伝えようとして……。
話を聞いてくれそうな人を、目をらんらんと輝かせて探してるんです。

↑作り物ではありません。タチヨタカの実写です。
とても、建物にいたずらしたりするスキなどありません。

↑隙なし! 宮本武蔵の不意打ちを、鍋蓋で受け止める塚原卜伝(実話ではありません)。
さてさて。
わたしが『前川國男邸』に入ったときは、カップルらしい2人連れがとっ捕まり、説明を受けてました。
助かった。
脇をすり抜け、誰もいない部屋を探索。

↓いきなり、台所に出ました。

↑「み」
蛇口が2つあるのは、お湯も出たんですかね?
昭和17年では、考えにくいのですが。
ガス台らしいのが、重厚です。

↑「み」
現在、この窓からは、園内の樹木が見えて、まるで別荘のような景色です。

↑「み」
上大崎に建てられたときは、何が見えたんでしょう?
↓バスルームです。

↑「み」
昔の住宅を見るときは、どうしても水回りが気になります。
しかし、窓は、上大崎でもこのままだったんですかね。
開放的過ぎますよね。
窓から丸見えです。

↑出っ歯なことから“出歯亀”の渾名をもつ池田亀太郎(実在しました)。なんと! この絵が描かれたときの年齢は、35歳。見えねー!
と言って、カーテンしたら、カビが生えるだろうし……。
ひょっとしたら、この窓の外は、ブロック塀か何かだったのかも知れませんね。
シャワーが無いようです。
石鹸だらけの身体を、どうやって流したのでしょうか?
お湯を抜いてから、洗面器のお湯をかぶったんでしょうか。
↑人生の極楽。
↓前川邸の平面図です。

台所の写真で、ガス台の右に、何かの機械がありましたが……。
今、わかりました。
あれはきっと、お風呂用のガスボイラーですね。

としたら、そのボイラーから、台所の流しにも、お湯を引いてたのでしょう。
↓ボイラーという単語が出ると、どうしてもこの歌を唄わずにはおれません。
前川邸、続けます。
↓寝室です。

↑「み」
とても、戦争中に建てられたとは思えない部屋ですよね。
ベッドって、普通に手に入ったんですかね?
写真を改めて見ると、妙に角張ってます。
ひょっとしたら、躯体は大工さんが作ったんじゃないでしょうか。
その上に畳を敷いて、敷布団を載せた。

↑こんな感じ。
しかし……。
夫婦で並んで寝るってのは、やっぱり落ち着かないですよね。
おならもはばかられますし。

わたしはやっぱり、一人の寝室がいいです。
↓壁際に、オイルヒーターがあります。

↑「み」
電気式なんでしょうね。
真冬は、なかなか温まらなかったんじゃないでしょうか。
戦時中は、寒かったような印象があります。
↓作り付けの収納。

↑「み」
この奥行きで、何を入れてたんでしょうか。
↓前川國男邸では、中央部に居間(サロン)があります。

↑拝借画像です。
ここには、ボランティアガイドがいて、写真など撮ってると話しかけられそうだったので……。
撮影は諦めました。
↓パンフレットに載ってた『前川國男邸』の説明です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として、品川区上大崎に1942(昭和17)年に建てられた住宅です。
戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。
外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎・寝室を配したシンプルな間取りになっています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓前川邸の寝室を撮影した次の画像は、これでした。

↑「み」
こんな和室は前川國男邸には無いので、違う建物に移動したはずです。
↓味わいのある和室です。

↑「み」
落ち着きそうですね。
こんな部屋で、お昼寝してみたいです。
気になったので、ネット検索してみました。
どうやら、『前川國男邸』の向かって左隣にある『小出邸』のようです。

↑拝借画像です。今の新築住宅にあっても不思議じゃない外観ですね。
立てられたのは、1925(大正14)年ですから、前川邸より、17年も前です。
文京区西片2丁目。
↓東京大学の真ん前あたりです。

↓パンフレットの説明です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅です。
当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
モダニズムの主導者なら、もっと奇抜な建物を造りそうですけどね。

↑パリ郊外に建つ『サヴォア邸』。1931(昭和6)年竣工。ル・コルビジェの設計。
やっぱり、自宅までモダニズムでは、日本人は落ち着かないんでしょうね。
↓台所です。

↑「み」
この流しは、人研ぎ(じんとぎ)のようですね。

人研ぎとは、「人造大理石研ぎ出し」の略です。
もちろん、本物の大理石を研ぎ出したわけじゃありません。
「セメントに、大理石や蛇紋岩などの種石と顔料を練り混ぜて塗り、硬化後にグラインダーで研磨して表面を滑らかに仕上げたもの」だとか。

このタイプの流しは、昔の公団住宅などで良く見られました。

↑1957(昭和32)年建築の『蓮根団地(東京都板橋区)』。
子供のころ泊まった民宿で見かけたことがあります。

↑雰囲気はこんな感じでしたが、これはタイルですね。
古い小学校なんかの手洗い場にも使われてたんじゃないでしょうか。

↑愛知県豊田市の小学校。2012年改修直前の写真のようです。
民宿では、蛇口から出る水が、少し錆臭かった記憶があります。

↑蛇口に、サビを漉す袋がかかってました。
古い流しを見ていると、いろんな五感の記憶が蘇ります。
この建物で、どうして和室と台所しか写真に撮ってないのか不思議です。
小出邸の外観は洋風です。
1階には、洋風の応接間もあります。

↑見た記憶がない。
ひょっとしたら、ボランティアガイドに話しかけられそうで、逃げたのかも知れません。