2016.8.9(火)
道代と志摩子が、住み慣れた祇園の置き屋に帰り着いたのは、もう陽が高く昇ってからだった。
小まめの志摩子は、そのまま担がれるように自分の部屋に移され、寝かされた。風呂や食事どころではなかった。戻りの車の中で、志摩子は道代の肩に頭を預け、道代に肩を抱かれ、すでに半ば眠っていた。その身には厚く毛布が巻かれていた。
手早く下着一枚にされた志摩子が、頽れるように布団に横たわった時には、すでに寝息を立てていた。
その志摩子を、部屋の隅に控えてしばらく見守っていた道代は、志摩子が軽い寝息を立て始めると、そっと部屋を出た。
宛がわれた使用人用の居室に戻った道代は、何をする気力もなく、しばらく部屋の隅にへたり込んだ。
本来この部屋は、数人の下働きが共同で用いる相部屋なのだが、ここしばらくは道代一人で使っていた。特に道代の立場が上になったということではなく、下働きの小女が、この置き屋では今のところ道代だけ、ということであった。
(なんちゅう、一夜やったんやろ)
道代は、まだ、住み慣れた部屋に今いる、という実感が持てないでいた。先ほどまでの、貴船山中の一夜は、今となっては夢のような出来事になっていた。が、しかし現在の自分が現実の中にいるという実感も、持てない道代であった。
(ほんまに、何ちゅうことやったんやろ)
道代は一睡もしていなかった。また、昨日の夕刻、ありあわせの簡単なものを口にしたきり、何も食べていなかった。しかし、全く眠気がさしてこない道代であった。何の食欲もわかない道代であった。
道代は、何をする気力もないまま、切れ切れに昨夜のことを思い浮かべていた。
その道代に、部屋の外から声が掛かった。
「道……起きとるか?」
置き屋の女将、辰巳としの声に、道代は振り向きざま遅滞なく返事を返した。
「へえ、おかあ(母)はん」
部屋の襖が音もなく開いた。覗けたとしの顔は煤けたように、まるきり老婆の風情であった。
としは、廊下に立ったまま、道代の様子を窺うように目を遣る。
「ちょっと、ええか」
「へえ、おかあはん」
としは部屋に歩み入り、膝を突いて襖を閉じた。道代に向き直る。
としも道代も、畳に直に正座した。
としは、道代に向き直りはしたが、その目は道代を見ていなかった。目の前の畳や、天井や、部屋の隅のあらぬ方を何となく見やるだけのとしだった。
そんなとしの前に座した道代は、こちらも言葉一つ出なかったし、としを特に見るでもなかった。
道代ととしの間には、どことなく奇妙な緊張感があった。
その緊張感に耐え兼ねたように、としがようやく声を掛けた。
「なあ、道……」
「へえ、おかあ(母)はん」
「まあ……よう、無事やった」
「へえ……」
「あの雪ん中、まさか貴船の山中で立ち往生てなあ」
「へえ……」
道代には、機械的に返事を返すしか術はなかった。なんの言葉も出てこない道代だった。
としは、自らの口をこじ開けるように言葉を継いだ。
「運転手はんから聞いたんやけんど」
「へえ」
「助けを呼びに、車、離れはったんや、て」
「へえ」
「ほして、車のエンジン、止まってもうたんや、て」
「へえ」
「ほしたら、暖房、止まってまう、て」
「へえ」
「まあ、なんちゅうことなあ」
としは、天井を改めて仰いだ。
道代は、それでも簡単な返答しかできなかった。
「へえ」
「さぶ(寒)かったやろに」
「へえ、いえ……」
「ほんで、あんたら、抱きおうてた、て」
「へ、へえ」
「ほれも、服脱いで、裸で、て」
「す、すんまへん」
道代は、身を縮こまらせた。その脳裏には、昨夜の、志摩子との痴態が鮮やかに蘇っていた。
「いや、責めとるんやない、責めるわけ、ないやないの」
「へえ……」
「運転手はん、ゆ(言)うてはったで、賢いやり方やあ、て」
「へえ」
「暖房ないとこで暖取る、いっちゃん(一番、最も)ええやり方や、て」
「へえ……」
道代には、変わらず簡単な返答を返す以外、何の術もなかった。
「まあ、あんたか志摩子か、どっちゃの知恵かしらんけんど、ようやってくれたことや」
「す、すんまへん」
「しやから、謝ることない、て」
としの口調は、少し滑らかになった。改めて道代を見やり、言葉を継いだ。
「へえ」
「しやけどな、道」
「へえ」
「世の中、いろんな奴がおる」
「へえ」
「人の不幸を、面白おかしゅう騒ぎ立てるアホもようけおる」
「へえ」
「あんたと志摩子が、あの雪の夜、あないやったこないやったて、あることないこと噂する輩が、必ずおるんや」
「へえ」
「人の生き死にほど、おもろい噂話はないんや。わかるか、道」
としは、ゆったりと道代を見据えた。
そのとしの視線に引かれるように、道代もとしを見返した。
「へ、へえ」
「あんたらはようやった。よう無事に戻って来た」
「へえ」
「しやけんどな、道」
「へえ」
「油断しとったら、必ず話に尾ひれがつくんや」
「へえ」
「うっかりしとったら、必ずそないなるんや」
「へえ」
「ええか、道」
「へえ」
「そないなったら、祇園の舞妓、小まめに傷ついてまうんや」
小まめ、の名が出た途端、道代の背筋に一本、真っ直ぐな筋が通った。背筋に沿って、細く強靭な鉄の棒を通されたように、道代は姿勢を正した。
「へえ」
「わかるな、道」
「へえ、おかあ(母)はん」
「運転手はんには、かとう(固く)口止めしといた」
「へえ」
「ええか、道。ゆんべ(昨夜)の事は、夢やった、思い(思いなさい)」
「ゆめ……」
「せや。あんたらは、ゆんべ一夜、おんなじ夢、見とったんや」
「へえ」
「ええか、道。ゆめや、夢やで」
「へえ、おかあ(母)はん」
「わかったな」
「へえ、ようわかりました。うち、小まめ姐さんを傷つけるようなこと、一言もい(言)わしまへん」
祇園の置き屋の女将、辰巳としと、下働きの小女、近藤道代は、抱えの舞妓、小まめの志摩子を守る、という共通の目的、連帯感を抱いて見詰めあった。
「ほな、あんたもゆっくり休みよし」
「へえ、おおきに、おかあはん」
辰巳としは、あとも見ずに使用人用の居室を出た。
一人残された道代は、布団も敷かず畳に倒れ伏した。
コメント一覧
-
––––––
1. 昔々あるところにHQ- 2016/08/09 08:46
-
>油断しとったら、必ず話に尾ひれがつくんや
祇園の置き屋の女将、辰巳としのセリフです。
まあ、わからないでもないですが、わたしのようなぼーっと生きてる人間には「そんなもんかなあ」としか言いようがありません。
ともあれ、死の危険すらあった(これも、そうかなあ、です)貴船山中の場、無事に生還した道代と小まめの志摩子。二人の絆がさらに強くなったことは間違いありません。まあ、作者としましては、そのあたりが狙いだったわけです。
しかし、志摩子女将の昔語り。長くなっております。
ほんのちょっとしたエピソードのつもりで始めたこの話。そろそろ切り上げて元に戻らなあかんのです。あやめと久美が待ちくたびれているでしょう。が、まだ終われません。
この昔話の最大のポイントは「殺したいほどのあやめへの恨み」これです。誰のって、もちろん志摩子女将です。一体、何があったのでしょうか。年齢からしますと、この頃あやめはまだ幼子。ひょっとしたらまだ生まれていないかもしれません。それが何故……。
謎が謎を呼ぶ(そんな大層なもんかい)志摩子昔語り。次回以降、「嵯峨野の場」になります。
今後とも『アイリスの匣』ご愛顧のほど、御願い奉ります。
作者敬白
-
––––––
2. Mikiko- 2016/08/09 21:40
-
先日……
ブラタモリの「嵐山」「伏見」を見直しました。
嵐山と嵯峨野って、どういう関係なんですか?
どっちかがどっちかを含んでるんですかね?
「伏見」は、途中で寝落ちしたので、ほとんど記憶がありません。
伏見稲荷の千本鳥居が、外国人に人気だそうです。
確かに、無人の千本鳥居は、異次元に吸い込まれそうに見えるかも知れません。
でも今は、人だらけで、神秘性なんか無いんじゃないでしょうか。
今上天皇は、退位されたら、京都御所に住まれたらどうでしょう?
京都の人は、とても喜ぶと思います。
-
––––––
3. ♪京都嵯峨野に…HQ- 2016/08/10 03:39
-
↑吹く風は~ 愛の言葉を笹舟に~ あぜ~くら~
(『嵯峨野さやさや』作詞:伊藤アキラ、作曲:小林亜星。
㈱愛染蔵のCMソング。)
愛染蔵(あぜくら)は、2006年に倒産した大阪の和服販売会社です。
嵐山と嵯峨野
ははあ。
そのあたりは現在調査中です。
まあ、地図や観光番組などですと、隣接観光地、という感じなんですが……。
伏見は、市内の南の方で、明らかに離れていますね。
伏見の千本鳥居。
どこやらのCMになったくらいに有名になっちゃいました。
従姉妹・兄弟で、車に乗り合わせて行こうとして行き着けなかった話はしましたなあ。
退位後の天皇帰京。
京都人は「天下を取った」、と躍り上がるでしょう。
まあ、使っていない建物を有効利用する、ということでは結構なことです。掃除が大変、かな。
それにしても、ブラタモの「嵐山・伏見」なんてあったんですねえ。完全に見逃していました。再放映、せんかなあ。
-
––––––
4. Mikiko- 2016/08/10 07:48
-
京都
こちらも暑いんでしょうね。
嵯峨野の方は、少しは涼しいんでしょうか。
『ブラタモリ』、「嵐山」「伏見」は、別々の回です。
「嵐山」は、近江アナの初回だったと思います。
確か、再放送も終わってるはずです。
再々放送待ちになりますね。
-
––––––
5. うっかり八兵衛HQ- 2016/08/10 12:14
-
嵯峨野
映像なんかを見ますと、奥深い山里という感じですが、実際にはそれほどでもないです。JR山陰本線(愛称;嵯峨野線)のすぐ北っ側という場所で、駅近。今頃は人でごった返し、暑っ苦しいでしょう。鞍馬や貴船の方がよほど過ごしやすいはずです。
>「嵐山」は、近江アナの初回
ははあ。近江アナはいつの間にか交代になってまして、あ、見過ごしたな、と思ってました。そうか、その時が「嵐山」だったか。
近江アナは、なんかぼーっとした感じですが、大丈夫かなあ。
-
––––––
6. Mikiko- 2016/08/10 19:52
-
近江アナ
こないだ、「わたし、ゆとり世代なんです」と言ったところ……。
タモリに、「そうみたいだね」と返されてました。
前にも書きましたが、早稲田大学政経学部政治学科卒です。
ゼミ(公共政策)では、副幹事長だったそうです。
-
––––––
7. 受験世代ハーレクイン- 2016/08/11 01:31
-
ゆとり世代
ははあなるほど、納得です。
もう、そんな時代なんですねえ。
まあ、世の中が平和でいいかもしれません。
しかし、ゼミの責任者に役職名があるのか。わたしらはそんなのなかったぞ。
副幹事長ねえ。
「近江友里恵く~ん」って、呼びかけたくなっちゃうね。
-
––––––
8. Mikiko- 2016/08/11 06:46
-
政治学科のゼミですから……
入党後の予習なんじゃないですか。
京都は、相変わらず暑いんでしょうか。
新潟は、晴れてるんですが、2日続けて30度に届きませんでした。
今日も、29度の予報。
今日は、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の後編ですね。
-
––––––
9. 暑いって言うな!HQ- 2016/08/11 10:09
-
↑昨日、久しぶりに会った母親が喚きました
入党後の予習
なるほど。
予習・復習は学習の基本です
が、さっぱりやらん生徒も多い。困ったものです。
暑い京都
わたしは、近寄る気はありません。
冬の寒さもヤだけどね。
あんな暮らしにくい町によく住むよなあ、あやめ姐さん(ええ加減にせえよ、の番宣)。
バスの旅
前回、うっかり見逃したんだよね。
今日はしっかり録画予約しました。
-
––––––
10. Mikiko- 2016/08/11 19:10
-
バスの旅
今回は、先週の後編です。
前編を見なければ、意味がないではないか。
お母さん、元気で重畳です。
暑さを感じるのは、若い証拠です。
-
––––––
11. ボケ老人ハーレクイン- 2016/08/11 21:13
-
バスの旅
録画予約に失敗しました。なんでだろ~。
やはり「後編だけ」という熱意の無さのなせる業でしょうか。
まとめて再々放映、やらんかのう。
元気な母親
元気はいいんですが、年を取ってますます口うるさくなってます。
先日、誕生日が来て93歳。
マジに100歳が見えてきました。