2016.7.23(土)
今年は、去年より1週間遅い旅行でした。
去年は、小出インターなどのバス乗り場には、雪が残ってましたが……。

↑これは、十日町市のブナ林。別名『美人林(びじんばやし)』。残雪の中の芽吹きです。1度行ってみたい気がするのですが、素人カメラマンがたくさんいるのでしょうね。
今年は、まったくありませんでした。
↓雲に切れ間が出てきました。

↑「み」
↓赤い鉄橋と並走。

↑「み」
どこだったか、さっぱり覚えてません。
実は、このあたりから、ウトウトモードに入ってしまったのです。

↑このギャップは衝撃です。
やはり、3時半に起きてバタバタしてたのと……。
気疲れもあったのでしょう。
バスの心地よい揺れもあり、眠気に抗せなくなりました。
↓いつの間にか、関東平野に出てました。

↑「み」
清流が流れ、遠くには市街地が見えます。
ここは、どこなんですかね。
間違いなく、群馬県です。
沼田市かなという気がします。

↑蝶のような形をしています。昔からの沼田市は、左側の小さい翅の方。右の翅は、利根村でした。くびれた部分の昭和村と川場村とは、合併協議が上手くいかなかったらしいです。地域の主張が強い土地柄なんでしょうかね。
Wikiには、「中心街は河岸段丘の上に形成されている」という記述がありました。
↑の写真を見ても、市街地は高い位置にあるようです。
風景を見た感じでは、良さそうな街です。
標高は400メートルくらい。
日本一の河岸段丘の上に出来た街だそうです。
夏も、昼間は暑くなっても、夜は涼しいんじゃないですか。
でも、冬はそうとう寒そうですね。
雪も降るようです。

↑冬の沼田市
ここで、にわかに思い出しました。
そうです。
河岸段丘。
ブラタモリでやりましたよ。

↑河岸段丘の権威、タモリ教授。桑子真帆ちゃん、懐かしいです。
もちろん、真田絡みでしたけど。

↑残念ながら、お城は残っていません。江戸時代初期に、藩主の暴政を咎められ、沼田藩は廃藩となります。城は破却され、堀も埋められました。
河岸段丘は、魅力的ですね。

↑造成したようにまっ平らです。水はけが良く安定した地盤で、災害に強い良好な宅地となるそうです。
でも、住むとしたら……。
冬に、しばらく滞在してから判断した方が良さそうです。
ほどなくバスは、2回めのトイレ休憩。
埼玉県の『上里サービスエリア』に停まりました。

このあたりではもう、晴れ間も見えていました。

↑「み」サービスエリアからの眺め。
外の駐車場はおそらく、パークアンドライドというシステムじゃないでしょうか。

↑こういう意味です。わたしは長らく“パークアイランド”だと思ってました。
つまり、自宅から『上里サービスエリア』までマイカーで来て、ここからバスで首都圏に向かうんです。
当てずっぽうですが、たぶん合ってるんじゃないかな。
遠くに見える茶色い畑は、麦畑です。
いわゆる、麦秋というやつですね。

↑小津安二郎の映画の題名にもなりました。主演はもちろん、原節子。
新潟県で麦畑は、まったく見られません。
それが、関東平野に入ると、田んぼはほとんど無く、麦畑ばかりになります。
特にこの時期は、田植えの終わったばかりの田んぼと、刈り入れを待つ麦畑の対比が際立ちます。

↑なんと、隣り合ってる画像がありました。愛知県豊田市です。撮影は5月の末。ちょうどこの旅行のころですね。
↓サービスエリアの土には、タンポポが咲いてました。

↑「み」
たぶん、カントウタンポポではなく、セイヨウタンポポじゃないでしょうか。

↑残念ながら、わたしの写真では確認できません。
オオバコもありますね。
子供のころ、このオオバコの茎で、オオバコ相撲をしたものです。
強そうな茎を探し、相手のと絡み合わせて引っ張るだけです。

切れた方が負け。
なんで、あんなことが楽しかったんですかね。
でも、あの日もタンポポが咲いてた気がします。
あれは、カントウタンポポだったんだろうな。

↓オオイヌノフグリも咲いてました。

↑「み」
雑草の扱いですが、小さくて可憐な花です。

名前は、あまりにも可哀想です。
イヌノフグリという別な植物があり、この果実が犬の陰嚢(フグリ)に似ているため、この名が付けられました。

↑イヌノフグリの果実。言われてみればですが……。
オオイヌノフグリは、イヌノフグリの花に似て、少し大きいためこの名になったそうです。
でも、果実はハート型で、フグリには似てないんです。

↑オオイヌノフグリの果実。これを犬の陰嚢には例えないでしょう。
大迷惑な話ですよね。
そもそも、果実の形から、犬の陰嚢を連想するという感性が尋常でありません。

↑こちら、ブラジルの精巣がん啓蒙マスコット。ゆるキャラですが……。陰毛やシミまで再現。女性に大人気だとか。ブラジル、恐るべし……。
しかもそれを、品種名にしたんですよ。
学者にはときどき、デリカシーに欠けた人がいますからね。

↑デリカシーの無い郵便。出す方も恥ずかしいでしょうにね。
でも、ほんとにオオイヌノフグリなのか、実は自信が無いのです。
新潟では、3月ころの早春に咲く花だからです。
それが、5月の末に埼玉で咲くものでしょうか?

↑埼玉県の最北端ではありますが、上里サービスエリアの標高は70メートルほどです。
ひょっとしたら、別の似た花なのかも知れません。
さて、この『上里サービスエリア』ですが……。
なんでバスがトイレ休憩に利用するのか、良く分かりました。
トイレがとても綺麗なんです。

あまりにも綺麗なので、座ったら落ち着いてしまい……。
うんこまでしてしまいました。

↑イメージです。
休憩時間は15分もあるので、余裕でうんこが出来ます。
さてさて、先を急ぎましょう。
高速バスを降車できる最初の停留所は、『川越的場』です。

↑JR川越線の『的場駅(川越から2つ目)』、徒歩10分。
↓そのあたりまで来ると、空はいい具合に晴れてきました。

↑「み」
心が浮き立ちます。
↓バスはいつしか一般道へ(いつ高速を出たのか定かでないのです)。

↑「み」
今回、わたしが降りるのは、終点の『池袋』ではなく、2つ前の『練馬駅』。
『川越的場』の次です。

↑今年乗ったのは「6便」。昨年が「10便」でした。
思い返せば昨年、バスが遅れて、健診時間ギリギリに飛びこむことになりました。
サービスエリアの休憩を余裕で取ってるので、まさか遅れるとは思ってなかったんです。

↑バスを呪いました。
でも今年は、着いてから急ぐ用事が無いので、少々遅れても大丈夫。
と、思ってたら、時刻表の11:52分より、だいぶ早く到着しました。
こんなもんなんですね。
あ、思い出しました。
確か、この先の池袋まで行く間で混雑したんです。

↑イメージ画像ですが、こんな感じでした。
さて、降りてはみたものの、方角がさーぱりわかりません。
ここからは、しばらく歩くつもりなんですが、どっちに踏み出していいのか見当がつかないのです。
もちろん地図は持ってますが、どういう方向に見るのか不明です。
降りてすぐのところに、練馬区役所の高層ビルがあります。

とにかく、落ち着いて方角を再確認するため、区役所に入ってみることに。
↓中は、吹き抜けのフロアになってました。

↑「み」
ひとくちに区と言っても、東京の区と、新潟市などの政令指定都市の区では大違い。
東京の区は特別区と言って、独立した自治体なんです。

↑大阪都構想では、特別区の設置を目指してます。
当然、区長は選挙で選ばれますし……。

↑浮いたポスターの人は、後藤輝樹候補(自営業)。区長選挙の供託金は100万円です。間違いなく没収だと思います。
区議会もあります。

↑港区議会で質問するやなざわ亜紀区議(自民党)。
学校は区立です。

それに対し、政令指定都市の区は行政区と云い、単に行政上の区割りでしかありません。
区長はいますが、市の職員です。
区議会はありません。
学校も区立ではなく、市立になります。
これは、人口370万の横浜市でも、人口80万の新潟市でも一緒です。

さて、その特別区である練馬区ですが……。
巨大です。

↑北側が埼玉県と接してます。
と言っても、もちろん面積ではありません。
面積は、たったの48km2。
新潟市の15分の1です。
しかしながら人口は、71万人。
ほとんど政令指定都市の規模を有してます。

↑練馬駅周辺
ちなみに、東京の特別区で最大の人口を誇るのは、世田谷区。

↑南側が神奈川県と接してます。
人口、87万人です。
81万人の新潟市より多いです。
面積は、58km2で、新潟市の12.5分の1。
住みすぎだろ。

さてさて、区役所のトイレを借りて(もちろん無料です)から……。
地図を見直して、方向を確認。
とにかく、最初に間違わないことが肝心です。
むやみに歩き出すと、必ず違う方向に行ってしまいます。

↑道路で迷った場合は、まさしくその通り。しかし、人生の岐路においては、『正しい』道がどれかは誰にもわからないはずです。
区役所の周りは大都会ですが、歩き出すとすぐに住宅街に入ります。
↓低層のマンションと住宅が連なってます。

↑「み」
↓小学校がありました。

↑「み」。後で地図を調べたら、練馬区立中村小学校でした。創立は昭和21年。この校舎は、昭和45年に建ったようです。もう50年近く前ですね。
校門前の曲がった大木は、おそらくソメイヨシノでしょう。
年代を感じますね。
↓わずかに見えた校庭は、なんと芝生でした。

↑「み」。芝生になったのは、平成18年だとか。
羨ましいです。
新潟に芝生の校庭なんて、ありませんから。
思い切り転げ回れますね。
↓このあたり、まだ農地が残ってました。

↑「み」
売り払えば、一生遊んで暮らせるでしょうにね。

↑豆まきで、豆の代わりに小判を撒く紀伊国屋文左衛門(例えが古いですが)。
素直に頭が下がります。
練馬は、江戸時代から大根で有名な農村でしたから……。

↑碑まで建ってます(練馬区春日町4-16『愛染院』)。
古くからの農家が、まだ残っているのでしょう。
↓途中、奇怪な横断幕がありました。

↑「み」
ここはタクシー会社で、横断幕はこの会社が出しているのでしょう。
何のためでしょうか?
おそらくここらは、古い住宅が低層マンションになったりして、新らしい住民も多い場所だと思います。
幕を出す前は……。
そういう新規の住民から、深夜タクシーの出入りの騒音に対し、苦情が寄せられたんじゃないでしょうか。

↑普通、苦情を言う側も、かなりの勇気が必要だと思うのですが……。最近は、何の躊躇も感じない人が多いようですね。
それで、この横断幕を出した。
マンションの下見に来る人は、当然、近隣の環境を確かめるため、付近を歩きます。

↑不動産広告での「徒歩X分」の表示は、すべてこの計算だそうです。自分が80メートルを歩いてどのくらいかかるか、知っておいた方がいいですね。
この会社の前を通れば、横断幕が目に入らないわけがありません。
つまり、ここは深夜にタクシーの出入りで騒音のある環境なんですよと、喧伝してるわけです。

↑タクシー会社は、かなりうるさいようです(参照)。
それをわかって買ってくださいね、わかって買った以上は苦情を言わないでくださいねということでしょう。
↓こっちの方向には、看板も出てました。

↑「み」
タクシー会社も、苦情に苦慮してやむなく立てたのでしょうが……。
何か、殺伐としたものを感じずにはおれません。
↓誰も住んでない団地がありました。

↑「み」
旧郵政省の官舎だったみたいです。
どうして閉鎖されちゃったんでしょうね。
これも、郵政民営化のあおりですかね。

↑ギリギリだったんですね。
高度成長期には、この官舎が満杯で、どのベランダにも洗濯物が翻っていたことでしょう。
そういう時代にタイムスリップして、まだ新しいこの官舎を見てみたい気がしました。

↑タイムスリップしたら、まず路線バスに乗ってみたいです。女性の車掌さんがいたんですよね。狭い商店街なんかに無理やり入りこんだりする路線も多かったようです。朝から晩まで乗りたいです。
↓強烈な名前のドラッグストアを発見。

↑「み」
お分かりになりますか?
『一本堂(IPPONDO)』です。

↑「み」
言わずと知れた、無修正AVメーカー『一本道(1pondo)』を連想させます。

もちろん、こちらの『一本堂』の方が先なのでしょう。

↑なんと、チェーン店でした。これは、下石神井店(練馬区下石神井)。
お客さんの中で、わたしのような連想をする人はごく少数派なんでしょうね。
ひょっとしたら、経営者や従業員も知らないのかも。
ま、知らないのなら、それに越したことはありませんが。
これで思い出すのが、スズキの軽自動車『ハスラー(HUSTLER)』です。

この車名を聞いたアメリカ人の多くは、笑わずにはおれなかったそうです。
なぜなら、『Hustler(ハスラー)』という、有名ポルノ雑誌があるからです。

↑実際の内容は、もっと過激です。もちろん、無修正。
1974年創刊という老舗雑誌です。
アメリカ人で、知らない人はいないと思います。
車名を決めるときの会議で、この問題が議論されなかったんですかね?
もし、会議のメンバーが、この雑誌のことを一人も知らなかったとすれば……。
はなはだ浮世離れした会社だと思います。
ひょっとしたら、鈴木会長がよしと言ったら、何も言えない会議なんじゃないですか?

「この車名はアメリカのポルノ雑誌と同じになるから、止めた方がいいです」と言える社員が、一人もいなかったということです。
なんだかこれも、殺伐とする話ではあります。
さてさて。
目的地が見えて来ました。
バスを降りてから、徒歩30分程度です。
↓踏切からホームが見えます。

↑「み」
ここは、西武新宿線の『都立家政駅』です。

なんでこんなとこに来たのかと云うと……。
ここは、わたしが住んでた街なんです。
東京では、4箇所に住みました。
その中で、一番好きだった街がここです。
線路は、今も高架化されてません。
↓駅も平屋です。

↑「み」
↓駅前から続く商店街。

↑「み」
高架じゃない私鉄の駅前から続く狭い商店街が、わたしは大好きです。
でも……。
わたしがいたときは、こんなに閑散としてませんでした。

↑これは、昭和40年代の都立家政商店街。もちろん、わたしがいたのはずっと後の時代ですが、賑やかさはこんな感じでした。
今が、平日(木曜日)の昼間だからでしょうか?
わたしの記憶で印象的なのは、夕方の風景。

↑これは、冬のようですが。
通りは、夕食の買い物をする主婦、会社帰りのOL、塾や遊びを終えたらしい小学生たちでいっぱいでした。
買い物の主婦は、荷物を満載した自転車を引いてるので、いっそう混雑します。

↑さすがに、こういう人はいませんでしたが。どうやって積むんでしょうね?
でも、そんな商店街を歩くのが好きでした。
さまざまな表情の人たち。
あるとき、思いつめたみたいな、今にも泣きそうな小学生の女の子とすれ違ったことがあります。
夏休みの終わりころだったでしょうかね。
ノースリーブから出た丸い肩が、真っ黒に日焼けしてました。

↑この子は生焼けですね。
↓これは、わたしがよく通ったスーパー丸正の跡地。

↑「み」。フィットネスクラブになっているようです。
残念ながら、2012年に閉店してしまいました。

これが無くなったら、車に乗れない主婦は、不便になったでしょうね。

↑在りし日のスーパー丸正。2階が衣料品とかの売り場でした。
↓さて、この細い商店街から脇道に入ると、静かな住宅街が広がってます。

↑「み」
↓井戸がありました。

↑「み」
今も使われてるんでしょうか?
わたしが引っ越してから付けられたとは思えないのですが……。
こんなのがあった記憶がありません。
↓幼稚園です。

↑「み」
中野区立若宮幼稚園。

これは、わたしが住んでるころからありました。
もちろん、覚えてます。
いや。
覚えてるどころじゃありません。
この幼稚園前の道路で、わたしは実に印象的なシーンを見たんです。
大学のコンパかなんかで、帰りが遅くなった日でした。
夜道ですが、街灯がそこそこにあるので、真っ暗ではありません。
ここいらは、道路が城下町みたいに鈎方に曲がってたりするんです。

↑福島県二本松市の二本松城城下町。
その小路から、この幼稚園前の道に出たときでした。
街灯が道路を照らし、道の先まで見通せました。

↑イメージです。
その道路のド真ん中。
街灯のスポットライトの下で……。
若いカップルが、抱き合ってキスをしていたんです。

ぶったまげましたね。
映画の1シーンのようでした。

おそらく本人たちも、そういう盛りあがり方をしてたんでしょう。
一瞬、引き返そうかと思いましたが、それも業腹です。
といって、「よっ、ご両人、ひゅーひゅー」などという掛け声を掛ける余裕などありません。

2人の脇を、何も見えてないフリで、足早に通り過ぎました。

2人は、誰かがすぐ脇を通る気配はわかったでしょうが……。
顔も上げようとはしませんでした。
でも何で、道路の真ん中で、イキナリ盛りあがったんですかね?

帰ってからヤレと言いたかったです。
時間からして、同じ部屋に帰るしかないわけですよ。

商店街にも飲み屋がありますが、駅は反対方向ですから……。
明らかに、どこか別のところで飲んで、『都立家政駅』に降り立ったはずなんです。

↑夜の都立家政商店街。
ひょっとしたら、初めてその女性を、自分のアパートまで連れて来たのかも知れません。
時間的に見て、もう女性には、引き返す選択肢は無い。
としてもです。
なじぇに路上で?

我慢できなかったんですかね。

あの後、2人は、おそらくアパートに雪崩れ込み……。
ことに及んだことと思います。

↑ちっとも楽しそうじゃありませんね。この体勢は、四囲の警戒にはもってこいだと思いますが。
もちろん、後をつけるわけにはいきませんから、それっきりです。
首尾はどうだったか、わかりませんけど……。
たぶん、男は速かったでしょうね。
あっという間。

鳥の交尾だったんじゃないでしょうか。

↑鳥の画像を探してたら、これを発見。一瞬、着ぐるみかと思いましたが……。野生の鳥です。タチヨタカ。面白い顔ですね(こちら)。
あの2人にとって、都立家政という街は……。
こっ恥ずかしい青春の1ページとして記憶に残ったのかも知れません。

さてさて。
話を続けましょう。
わたしが住んでたアパートにも行ってみたんですが……。
すっかり取り壊されて、跡地は駐車場になってました。
甘酸っぱい記憶が詰まった場所が、またひとつ消えてしまいました。
こうして、人は歳を取り……。
そうして、自分も消えていくんですね。

↑こういう消え方じゃありませんが。
付近を散歩してみました。
↓まだ、こんな昭和のアパートが残ってました。

↑「み」
でも、人の住んでる気配はありません。
↓そこここに空き地が出来てて、新しい建物になるようです。

↑「み」
東京では、空き家が問題になってるようです。

↑文京区の空き家。20年後には、3戸に1戸が空き家になるというシミュレーションもあるとか。
老齢化した住人が、施設に入ったり、亡くなったりして、住む人がいなくなるんでしょう。
でも、東京なら地価も高いし、空き地が売れないわけないのに……。
どうして、そのまま放置されるんでしょう。
子供がいない人ばかりじゃないと思います。
ひょっとしたら、相続で揉めてるんですかね。

↓高校がありました。

↑「み」
都立鷺宮高校です。

実は、この高校が、駅名の『都立家政』の由来なんです。
鷺宮高校の旧名が、都立中野高等家政女学校と云うんですね。
開校は古く、1912(明治45)年7月です。
豊多摩郡立農業学校(現都立農芸高校)附設実業女学校としての創立でした。

↑以下、黄文字入りの画像は、鷺宮高校同窓会のページから拝借しました。
開校当時は、中野駅南口近くの中野町桃園にありました。
当初は、一般家庭の女子のための学校として、生け花、裁縫、料理などの授業に重点が置かれていました。

↑“割烹”は、今では料理屋ですが、“割烹着”という名称があるように、本来は家庭での調理を云ったのだと思います。
後に、良妻賢母をモットーとする校風が築かれると……。
軍人や富豪の娘などが入学するようになり、志望者が急増します。

で、1923(大正12)年、豊多摩郡から東京府に移管され、東京府立中野家政女学校と改称されました。

↑中野町桃園時代の校舎。桃園には、かつて中原中也も暮らしました。
当時、一般の女学校課程の上に実業科目を教える女学校は、全国にここ一つしか無かったそうです。

↑“家事科”って名称もスゴいです。
で、家政科の卒業生が無試験で教師になれるなどの特典があったことも評判となり……。
志望者は、東京のみならず関東一円から集まったそうです。
昭和4年、東京府立高等家政女学校と改称。
↓高野辰之作詞の校歌が作られました。

↑クリックで拡大画像を表示できます。
1937(昭和12)年には、定員が400名から1200名に増員され、校舎が手狭になりました。
で、翌年、現在地に移転したのです。
しかしながら、当地は交通の便が悪かったため、西武鉄道に駅の新設を依頼しました。

↑隣の『鷺ノ宮駅』からでも、徒歩6分程度です。おそらく当時は、雨が降ったりすると足元が悪くなるので、少しでも近い駅を欲したのでしょう。
当初、西武鉄道は難色を示してたそうですが、新駅の土地を提供する人が出たり、校長などが熱心に要請したことにより……。
1937(昭和12)年12月、『府立家政駅』の開設が決まりました。

↑昭和12年12月、開設されたばかりの『府立家政駅』。
そのころは人家もまばらで、学校の周りには大根畑や麦畑が広がっていたそうです。

↑牧野虎雄『麦秋』。昭和8年ごろの新宿区下落合付近(『都立家政駅』から5駅新宿寄り)を描いた絵だそうです。
1943(昭和18)年7月、都制施行に伴い都立中野高等家政女学校と改称され……。
駅名も、『都立家政駅』に変更されました。
戦後は新制高校となり、1950(昭和25)年1月、現校名の都立鷺宮高等学校に名称変更されました。
昭和26年、校歌も新しくなりました。

↑クリックで拡大画像を表示できます。
西武鉄道からは、地元に駅名変更の打診があり、『東鷺ノ宮駅』という提案がされたそうです。
しかしながら、すでに『家政銀座商店街』という商店街名を使用していた商店会が、駅名を変えられては困ると反対しました。
で、『都立家政』という駅名のまま、現在に至るということです。

↑昭和38年の『都立家政駅』。右に見える『協立信用金庫』は、後の『西武信用金庫』。
今後はもう、駅名が変わることはないでしょう。
今も、実業学校の特色を残した学科構成なのかと思いましたが……。
普通科だけでした。

↑『鷺高祭(文化祭)』。
学業レベルは、入試偏差値50ちょい。
大学に進学する生徒が大半のようですが……。
日東専駒(日本、東洋、専修、駒沢)はちょっと難しく、大東亜帝国(大東文化、東海、亜細亜、帝京、国士舘)といったところがメインのようです。
国立大は皆無です。
卒業生には、けっこう有名人がいます。
伊東絹子、米長邦雄、海江田万里、群ようこ、假屋崎省吾、寺門ジモン、濱田万葉。
海江田万里は慶応ですから、ちょっと意外です。

↑2015年1月、衆議院選挙敗北の責任を取り(自らも落選)、党代表を辞任。
伊東絹子は、昭和28年の『ミス・ユニバース』世界大会で3位に入った美女。
彼女の体型から、八頭身美人という言葉が流行語になったそうです。

↑中央が伊東絹子。外人の中に混じって、脚の長さもまったく見劣りしません。
さてさて、話を続けましょう。
実を言うと……。
街を歩いてたら、もっと懐かしさがこみ上げて来るかと思ってたんです。

でも、自分でも不思議なほど、感動は少なかったです。
もう、この街での感情の記憶が、わたしから離れてしまったと云うことでしょうか。

『都立家政駅』に戻ります。
反対側に見えるホームが、『高田馬場』『西武新宿』方面です。

↑「み」
わたしが、この日乗るのは、反対方向。
↓向かい側のホームに、『西武新宿』行きが入ってきました。

↑「み」
なんだか地下鉄みたいな色で、西武線っぽい感じがしません。
↓西武線と云えば、やっぱり黄色い車両でしょう。

↓郊外方面の電車が入ってきました。

↑「み」
やっぱり、この色です。
でも、黄色がなくなったわけじゃないようです。
銀色が続いたのは、たまたまなんですかね。
↓目的の駅に着きました。

↑「み」
ここは駅なので、それでもホームと建物が離れてますが……。
走ってる途中など、電車の窓近くまで民家が迫ることがあります。
路面電車みたいな風景です。
東京の私鉄じゃ、当たり前なんですかね。
新潟では、ぜったいに見れません。
わたしが降りたのは、『花小金井』という駅です。

↑南口です。
住所は、小平市になります。

↑このあたりの市の位置関係は、さっぱりわかりません。
今日の午後のメインは、この駅近くの施設を見学することなのです。
施設までは、少し歩きます。
駅を出てすぐ、道路の向こう側に駐輪場が見えました。
↓スゴい数ですね。

↑「み」
↓街路樹の植桝に、ピンク色の花が咲いてました。

↑「み」
ムラサキカタバミでしょうか?
わたしが歩いているのは、小金井街道。
市道ではなく、都道です。
都が、こんな植栽をしますかね。
ひょっとしたら、近隣の人が植えたのかも知れません。
途中、回転すし屋の前で、アルバイト募集の看板を発見。
↓時給に驚きます。

↑「み」
新潟では、寿司屋の店員が、とてもこんなにはもらえません。
これに釣られて、みんな東京に出るんですかね。
でも、生活費が高いから、残るのは同じだと思うんですけど。
↓もう、ガクアジサイが咲いてました。

↑「み」
中央の高木は、ハナミズキのようです。
もちろん、花はとっくに終わってます。

↑ハナミズキの花。花びらに見えるのは総苞で、中央の粒々が花です。
東京では、育つんですね。
それを真似てか、新潟の街路にも一時期植えられましたが……。
満足に育ってるところはありません。
夏の暑さは、東京のほうが上だと思うので……。
やっぱり、冬にやられるんでしょうか。
↓と思ったら、甲府で立派に育ってます。

なんで新潟は、ダメなんですかね。
去年は、小出インターなどのバス乗り場には、雪が残ってましたが……。

↑これは、十日町市のブナ林。別名『美人林(びじんばやし)』。残雪の中の芽吹きです。1度行ってみたい気がするのですが、素人カメラマンがたくさんいるのでしょうね。
今年は、まったくありませんでした。
↓雲に切れ間が出てきました。

↑「み」
↓赤い鉄橋と並走。

↑「み」
どこだったか、さっぱり覚えてません。
実は、このあたりから、ウトウトモードに入ってしまったのです。

↑このギャップは衝撃です。
やはり、3時半に起きてバタバタしてたのと……。
気疲れもあったのでしょう。
バスの心地よい揺れもあり、眠気に抗せなくなりました。
↓いつの間にか、関東平野に出てました。

↑「み」
清流が流れ、遠くには市街地が見えます。
ここは、どこなんですかね。
間違いなく、群馬県です。
沼田市かなという気がします。

↑蝶のような形をしています。昔からの沼田市は、左側の小さい翅の方。右の翅は、利根村でした。くびれた部分の昭和村と川場村とは、合併協議が上手くいかなかったらしいです。地域の主張が強い土地柄なんでしょうかね。
Wikiには、「中心街は河岸段丘の上に形成されている」という記述がありました。
↑の写真を見ても、市街地は高い位置にあるようです。
風景を見た感じでは、良さそうな街です。
標高は400メートルくらい。
日本一の河岸段丘の上に出来た街だそうです。
夏も、昼間は暑くなっても、夜は涼しいんじゃないですか。
でも、冬はそうとう寒そうですね。
雪も降るようです。

↑冬の沼田市
ここで、にわかに思い出しました。
そうです。
河岸段丘。
ブラタモリでやりましたよ。

↑河岸段丘の権威、タモリ教授。桑子真帆ちゃん、懐かしいです。
もちろん、真田絡みでしたけど。

↑残念ながら、お城は残っていません。江戸時代初期に、藩主の暴政を咎められ、沼田藩は廃藩となります。城は破却され、堀も埋められました。
河岸段丘は、魅力的ですね。

↑造成したようにまっ平らです。水はけが良く安定した地盤で、災害に強い良好な宅地となるそうです。
でも、住むとしたら……。
冬に、しばらく滞在してから判断した方が良さそうです。
ほどなくバスは、2回めのトイレ休憩。
埼玉県の『上里サービスエリア』に停まりました。

このあたりではもう、晴れ間も見えていました。

↑「み」サービスエリアからの眺め。
外の駐車場はおそらく、パークアンドライドというシステムじゃないでしょうか。

↑こういう意味です。わたしは長らく“パークアイランド”だと思ってました。
つまり、自宅から『上里サービスエリア』までマイカーで来て、ここからバスで首都圏に向かうんです。
当てずっぽうですが、たぶん合ってるんじゃないかな。
遠くに見える茶色い畑は、麦畑です。
いわゆる、麦秋というやつですね。

↑小津安二郎の映画の題名にもなりました。主演はもちろん、原節子。
新潟県で麦畑は、まったく見られません。
それが、関東平野に入ると、田んぼはほとんど無く、麦畑ばかりになります。
特にこの時期は、田植えの終わったばかりの田んぼと、刈り入れを待つ麦畑の対比が際立ちます。

↑なんと、隣り合ってる画像がありました。愛知県豊田市です。撮影は5月の末。ちょうどこの旅行のころですね。
↓サービスエリアの土には、タンポポが咲いてました。

↑「み」
たぶん、カントウタンポポではなく、セイヨウタンポポじゃないでしょうか。

↑残念ながら、わたしの写真では確認できません。
オオバコもありますね。
子供のころ、このオオバコの茎で、オオバコ相撲をしたものです。
強そうな茎を探し、相手のと絡み合わせて引っ張るだけです。

切れた方が負け。
なんで、あんなことが楽しかったんですかね。
でも、あの日もタンポポが咲いてた気がします。
あれは、カントウタンポポだったんだろうな。

↓オオイヌノフグリも咲いてました。

↑「み」
雑草の扱いですが、小さくて可憐な花です。

名前は、あまりにも可哀想です。
イヌノフグリという別な植物があり、この果実が犬の陰嚢(フグリ)に似ているため、この名が付けられました。

↑イヌノフグリの果実。言われてみればですが……。
オオイヌノフグリは、イヌノフグリの花に似て、少し大きいためこの名になったそうです。
でも、果実はハート型で、フグリには似てないんです。

↑オオイヌノフグリの果実。これを犬の陰嚢には例えないでしょう。
大迷惑な話ですよね。
そもそも、果実の形から、犬の陰嚢を連想するという感性が尋常でありません。

↑こちら、ブラジルの精巣がん啓蒙マスコット。ゆるキャラですが……。陰毛やシミまで再現。女性に大人気だとか。ブラジル、恐るべし……。
しかもそれを、品種名にしたんですよ。
学者にはときどき、デリカシーに欠けた人がいますからね。

↑デリカシーの無い郵便。出す方も恥ずかしいでしょうにね。
でも、ほんとにオオイヌノフグリなのか、実は自信が無いのです。
新潟では、3月ころの早春に咲く花だからです。
それが、5月の末に埼玉で咲くものでしょうか?

↑埼玉県の最北端ではありますが、上里サービスエリアの標高は70メートルほどです。
ひょっとしたら、別の似た花なのかも知れません。
さて、この『上里サービスエリア』ですが……。
なんでバスがトイレ休憩に利用するのか、良く分かりました。
トイレがとても綺麗なんです。

あまりにも綺麗なので、座ったら落ち着いてしまい……。
うんこまでしてしまいました。

↑イメージです。
休憩時間は15分もあるので、余裕でうんこが出来ます。
さてさて、先を急ぎましょう。
高速バスを降車できる最初の停留所は、『川越的場』です。

↑JR川越線の『的場駅(川越から2つ目)』、徒歩10分。
↓そのあたりまで来ると、空はいい具合に晴れてきました。

↑「み」
心が浮き立ちます。
↓バスはいつしか一般道へ(いつ高速を出たのか定かでないのです)。

↑「み」
今回、わたしが降りるのは、終点の『池袋』ではなく、2つ前の『練馬駅』。
『川越的場』の次です。

↑今年乗ったのは「6便」。昨年が「10便」でした。
思い返せば昨年、バスが遅れて、健診時間ギリギリに飛びこむことになりました。
サービスエリアの休憩を余裕で取ってるので、まさか遅れるとは思ってなかったんです。

↑バスを呪いました。
でも今年は、着いてから急ぐ用事が無いので、少々遅れても大丈夫。
と、思ってたら、時刻表の11:52分より、だいぶ早く到着しました。
こんなもんなんですね。
あ、思い出しました。
確か、この先の池袋まで行く間で混雑したんです。

↑イメージ画像ですが、こんな感じでした。
さて、降りてはみたものの、方角がさーぱりわかりません。
ここからは、しばらく歩くつもりなんですが、どっちに踏み出していいのか見当がつかないのです。
もちろん地図は持ってますが、どういう方向に見るのか不明です。
降りてすぐのところに、練馬区役所の高層ビルがあります。

とにかく、落ち着いて方角を再確認するため、区役所に入ってみることに。
↓中は、吹き抜けのフロアになってました。

↑「み」
ひとくちに区と言っても、東京の区と、新潟市などの政令指定都市の区では大違い。
東京の区は特別区と言って、独立した自治体なんです。

↑大阪都構想では、特別区の設置を目指してます。
当然、区長は選挙で選ばれますし……。

↑浮いたポスターの人は、後藤輝樹候補(自営業)。区長選挙の供託金は100万円です。間違いなく没収だと思います。
区議会もあります。

↑港区議会で質問するやなざわ亜紀区議(自民党)。
学校は区立です。

それに対し、政令指定都市の区は行政区と云い、単に行政上の区割りでしかありません。
区長はいますが、市の職員です。
区議会はありません。
学校も区立ではなく、市立になります。
これは、人口370万の横浜市でも、人口80万の新潟市でも一緒です。

さて、その特別区である練馬区ですが……。
巨大です。

↑北側が埼玉県と接してます。
と言っても、もちろん面積ではありません。
面積は、たったの48km2。
新潟市の15分の1です。
しかしながら人口は、71万人。
ほとんど政令指定都市の規模を有してます。

↑練馬駅周辺
ちなみに、東京の特別区で最大の人口を誇るのは、世田谷区。

↑南側が神奈川県と接してます。
人口、87万人です。
81万人の新潟市より多いです。
面積は、58km2で、新潟市の12.5分の1。
住みすぎだろ。

さてさて、区役所のトイレを借りて(もちろん無料です)から……。
地図を見直して、方向を確認。
とにかく、最初に間違わないことが肝心です。
むやみに歩き出すと、必ず違う方向に行ってしまいます。

↑道路で迷った場合は、まさしくその通り。しかし、人生の岐路においては、『正しい』道がどれかは誰にもわからないはずです。
区役所の周りは大都会ですが、歩き出すとすぐに住宅街に入ります。
↓低層のマンションと住宅が連なってます。

↑「み」
↓小学校がありました。

↑「み」。後で地図を調べたら、練馬区立中村小学校でした。創立は昭和21年。この校舎は、昭和45年に建ったようです。もう50年近く前ですね。
校門前の曲がった大木は、おそらくソメイヨシノでしょう。
年代を感じますね。
↓わずかに見えた校庭は、なんと芝生でした。

↑「み」。芝生になったのは、平成18年だとか。
羨ましいです。
新潟に芝生の校庭なんて、ありませんから。
思い切り転げ回れますね。
↓このあたり、まだ農地が残ってました。

↑「み」
売り払えば、一生遊んで暮らせるでしょうにね。

↑豆まきで、豆の代わりに小判を撒く紀伊国屋文左衛門(例えが古いですが)。
素直に頭が下がります。
練馬は、江戸時代から大根で有名な農村でしたから……。

↑碑まで建ってます(練馬区春日町4-16『愛染院』)。
古くからの農家が、まだ残っているのでしょう。
↓途中、奇怪な横断幕がありました。

↑「み」
ここはタクシー会社で、横断幕はこの会社が出しているのでしょう。
何のためでしょうか?
おそらくここらは、古い住宅が低層マンションになったりして、新らしい住民も多い場所だと思います。
幕を出す前は……。
そういう新規の住民から、深夜タクシーの出入りの騒音に対し、苦情が寄せられたんじゃないでしょうか。

↑普通、苦情を言う側も、かなりの勇気が必要だと思うのですが……。最近は、何の躊躇も感じない人が多いようですね。
それで、この横断幕を出した。
マンションの下見に来る人は、当然、近隣の環境を確かめるため、付近を歩きます。

↑不動産広告での「徒歩X分」の表示は、すべてこの計算だそうです。自分が80メートルを歩いてどのくらいかかるか、知っておいた方がいいですね。
この会社の前を通れば、横断幕が目に入らないわけがありません。
つまり、ここは深夜にタクシーの出入りで騒音のある環境なんですよと、喧伝してるわけです。

↑タクシー会社は、かなりうるさいようです(参照)。
それをわかって買ってくださいね、わかって買った以上は苦情を言わないでくださいねということでしょう。
↓こっちの方向には、看板も出てました。

↑「み」
タクシー会社も、苦情に苦慮してやむなく立てたのでしょうが……。
何か、殺伐としたものを感じずにはおれません。
↓誰も住んでない団地がありました。

↑「み」
旧郵政省の官舎だったみたいです。
どうして閉鎖されちゃったんでしょうね。
これも、郵政民営化のあおりですかね。

↑ギリギリだったんですね。
高度成長期には、この官舎が満杯で、どのベランダにも洗濯物が翻っていたことでしょう。
そういう時代にタイムスリップして、まだ新しいこの官舎を見てみたい気がしました。

↑タイムスリップしたら、まず路線バスに乗ってみたいです。女性の車掌さんがいたんですよね。狭い商店街なんかに無理やり入りこんだりする路線も多かったようです。朝から晩まで乗りたいです。
↓強烈な名前のドラッグストアを発見。

↑「み」
お分かりになりますか?
『一本堂(IPPONDO)』です。

↑「み」
言わずと知れた、無修正AVメーカー『一本道(1pondo)』を連想させます。

もちろん、こちらの『一本堂』の方が先なのでしょう。

↑なんと、チェーン店でした。これは、下石神井店(練馬区下石神井)。
お客さんの中で、わたしのような連想をする人はごく少数派なんでしょうね。
ひょっとしたら、経営者や従業員も知らないのかも。
ま、知らないのなら、それに越したことはありませんが。
これで思い出すのが、スズキの軽自動車『ハスラー(HUSTLER)』です。

この車名を聞いたアメリカ人の多くは、笑わずにはおれなかったそうです。
なぜなら、『Hustler(ハスラー)』という、有名ポルノ雑誌があるからです。

↑実際の内容は、もっと過激です。もちろん、無修正。
1974年創刊という老舗雑誌です。
アメリカ人で、知らない人はいないと思います。
車名を決めるときの会議で、この問題が議論されなかったんですかね?
もし、会議のメンバーが、この雑誌のことを一人も知らなかったとすれば……。
はなはだ浮世離れした会社だと思います。
ひょっとしたら、鈴木会長がよしと言ったら、何も言えない会議なんじゃないですか?

「この車名はアメリカのポルノ雑誌と同じになるから、止めた方がいいです」と言える社員が、一人もいなかったということです。
なんだかこれも、殺伐とする話ではあります。
さてさて。
目的地が見えて来ました。
バスを降りてから、徒歩30分程度です。
↓踏切からホームが見えます。

↑「み」
ここは、西武新宿線の『都立家政駅』です。

なんでこんなとこに来たのかと云うと……。
ここは、わたしが住んでた街なんです。
東京では、4箇所に住みました。
その中で、一番好きだった街がここです。
線路は、今も高架化されてません。
↓駅も平屋です。

↑「み」
↓駅前から続く商店街。

↑「み」
高架じゃない私鉄の駅前から続く狭い商店街が、わたしは大好きです。
でも……。
わたしがいたときは、こんなに閑散としてませんでした。

↑これは、昭和40年代の都立家政商店街。もちろん、わたしがいたのはずっと後の時代ですが、賑やかさはこんな感じでした。
今が、平日(木曜日)の昼間だからでしょうか?
わたしの記憶で印象的なのは、夕方の風景。

↑これは、冬のようですが。
通りは、夕食の買い物をする主婦、会社帰りのOL、塾や遊びを終えたらしい小学生たちでいっぱいでした。
買い物の主婦は、荷物を満載した自転車を引いてるので、いっそう混雑します。

↑さすがに、こういう人はいませんでしたが。どうやって積むんでしょうね?
でも、そんな商店街を歩くのが好きでした。
さまざまな表情の人たち。
あるとき、思いつめたみたいな、今にも泣きそうな小学生の女の子とすれ違ったことがあります。
夏休みの終わりころだったでしょうかね。
ノースリーブから出た丸い肩が、真っ黒に日焼けしてました。

↑この子は生焼けですね。
↓これは、わたしがよく通ったスーパー丸正の跡地。

↑「み」。フィットネスクラブになっているようです。
残念ながら、2012年に閉店してしまいました。

これが無くなったら、車に乗れない主婦は、不便になったでしょうね。

↑在りし日のスーパー丸正。2階が衣料品とかの売り場でした。
↓さて、この細い商店街から脇道に入ると、静かな住宅街が広がってます。

↑「み」
↓井戸がありました。

↑「み」
今も使われてるんでしょうか?
わたしが引っ越してから付けられたとは思えないのですが……。
こんなのがあった記憶がありません。
↓幼稚園です。

↑「み」
中野区立若宮幼稚園。

これは、わたしが住んでるころからありました。
もちろん、覚えてます。
いや。
覚えてるどころじゃありません。
この幼稚園前の道路で、わたしは実に印象的なシーンを見たんです。
大学のコンパかなんかで、帰りが遅くなった日でした。
夜道ですが、街灯がそこそこにあるので、真っ暗ではありません。
ここいらは、道路が城下町みたいに鈎方に曲がってたりするんです。

↑福島県二本松市の二本松城城下町。
その小路から、この幼稚園前の道に出たときでした。
街灯が道路を照らし、道の先まで見通せました。

↑イメージです。
その道路のド真ん中。
街灯のスポットライトの下で……。
若いカップルが、抱き合ってキスをしていたんです。

ぶったまげましたね。
映画の1シーンのようでした。

おそらく本人たちも、そういう盛りあがり方をしてたんでしょう。
一瞬、引き返そうかと思いましたが、それも業腹です。
といって、「よっ、ご両人、ひゅーひゅー」などという掛け声を掛ける余裕などありません。

2人の脇を、何も見えてないフリで、足早に通り過ぎました。

2人は、誰かがすぐ脇を通る気配はわかったでしょうが……。
顔も上げようとはしませんでした。
でも何で、道路の真ん中で、イキナリ盛りあがったんですかね?

帰ってからヤレと言いたかったです。
時間からして、同じ部屋に帰るしかないわけですよ。

商店街にも飲み屋がありますが、駅は反対方向ですから……。
明らかに、どこか別のところで飲んで、『都立家政駅』に降り立ったはずなんです。

↑夜の都立家政商店街。
ひょっとしたら、初めてその女性を、自分のアパートまで連れて来たのかも知れません。
時間的に見て、もう女性には、引き返す選択肢は無い。
としてもです。
なじぇに路上で?

我慢できなかったんですかね。

あの後、2人は、おそらくアパートに雪崩れ込み……。
ことに及んだことと思います。

↑ちっとも楽しそうじゃありませんね。この体勢は、四囲の警戒にはもってこいだと思いますが。
もちろん、後をつけるわけにはいきませんから、それっきりです。
首尾はどうだったか、わかりませんけど……。
たぶん、男は速かったでしょうね。
あっという間。

鳥の交尾だったんじゃないでしょうか。

↑鳥の画像を探してたら、これを発見。一瞬、着ぐるみかと思いましたが……。野生の鳥です。タチヨタカ。面白い顔ですね(こちら)。
あの2人にとって、都立家政という街は……。
こっ恥ずかしい青春の1ページとして記憶に残ったのかも知れません。

さてさて。
話を続けましょう。
わたしが住んでたアパートにも行ってみたんですが……。
すっかり取り壊されて、跡地は駐車場になってました。
甘酸っぱい記憶が詰まった場所が、またひとつ消えてしまいました。
こうして、人は歳を取り……。
そうして、自分も消えていくんですね。

↑こういう消え方じゃありませんが。
付近を散歩してみました。
↓まだ、こんな昭和のアパートが残ってました。

↑「み」
でも、人の住んでる気配はありません。
↓そこここに空き地が出来てて、新しい建物になるようです。

↑「み」
東京では、空き家が問題になってるようです。

↑文京区の空き家。20年後には、3戸に1戸が空き家になるというシミュレーションもあるとか。
老齢化した住人が、施設に入ったり、亡くなったりして、住む人がいなくなるんでしょう。
でも、東京なら地価も高いし、空き地が売れないわけないのに……。
どうして、そのまま放置されるんでしょう。
子供がいない人ばかりじゃないと思います。
ひょっとしたら、相続で揉めてるんですかね。

↓高校がありました。

↑「み」
都立鷺宮高校です。

実は、この高校が、駅名の『都立家政』の由来なんです。
鷺宮高校の旧名が、都立中野高等家政女学校と云うんですね。
開校は古く、1912(明治45)年7月です。
豊多摩郡立農業学校(現都立農芸高校)附設実業女学校としての創立でした。

↑以下、黄文字入りの画像は、鷺宮高校同窓会のページから拝借しました。
開校当時は、中野駅南口近くの中野町桃園にありました。
当初は、一般家庭の女子のための学校として、生け花、裁縫、料理などの授業に重点が置かれていました。

↑“割烹”は、今では料理屋ですが、“割烹着”という名称があるように、本来は家庭での調理を云ったのだと思います。
後に、良妻賢母をモットーとする校風が築かれると……。
軍人や富豪の娘などが入学するようになり、志望者が急増します。

で、1923(大正12)年、豊多摩郡から東京府に移管され、東京府立中野家政女学校と改称されました。

↑中野町桃園時代の校舎。桃園には、かつて中原中也も暮らしました。
当時、一般の女学校課程の上に実業科目を教える女学校は、全国にここ一つしか無かったそうです。

↑“家事科”って名称もスゴいです。
で、家政科の卒業生が無試験で教師になれるなどの特典があったことも評判となり……。
志望者は、東京のみならず関東一円から集まったそうです。
昭和4年、東京府立高等家政女学校と改称。
↓高野辰之作詞の校歌が作られました。

↑クリックで拡大画像を表示できます。
1937(昭和12)年には、定員が400名から1200名に増員され、校舎が手狭になりました。
で、翌年、現在地に移転したのです。
しかしながら、当地は交通の便が悪かったため、西武鉄道に駅の新設を依頼しました。

↑隣の『鷺ノ宮駅』からでも、徒歩6分程度です。おそらく当時は、雨が降ったりすると足元が悪くなるので、少しでも近い駅を欲したのでしょう。
当初、西武鉄道は難色を示してたそうですが、新駅の土地を提供する人が出たり、校長などが熱心に要請したことにより……。
1937(昭和12)年12月、『府立家政駅』の開設が決まりました。

↑昭和12年12月、開設されたばかりの『府立家政駅』。
そのころは人家もまばらで、学校の周りには大根畑や麦畑が広がっていたそうです。

↑牧野虎雄『麦秋』。昭和8年ごろの新宿区下落合付近(『都立家政駅』から5駅新宿寄り)を描いた絵だそうです。
1943(昭和18)年7月、都制施行に伴い都立中野高等家政女学校と改称され……。
駅名も、『都立家政駅』に変更されました。
戦後は新制高校となり、1950(昭和25)年1月、現校名の都立鷺宮高等学校に名称変更されました。
昭和26年、校歌も新しくなりました。

↑クリックで拡大画像を表示できます。
西武鉄道からは、地元に駅名変更の打診があり、『東鷺ノ宮駅』という提案がされたそうです。
しかしながら、すでに『家政銀座商店街』という商店街名を使用していた商店会が、駅名を変えられては困ると反対しました。
で、『都立家政』という駅名のまま、現在に至るということです。

↑昭和38年の『都立家政駅』。右に見える『協立信用金庫』は、後の『西武信用金庫』。
今後はもう、駅名が変わることはないでしょう。
今も、実業学校の特色を残した学科構成なのかと思いましたが……。
普通科だけでした。

↑『鷺高祭(文化祭)』。
学業レベルは、入試偏差値50ちょい。
大学に進学する生徒が大半のようですが……。
日東専駒(日本、東洋、専修、駒沢)はちょっと難しく、大東亜帝国(大東文化、東海、亜細亜、帝京、国士舘)といったところがメインのようです。
国立大は皆無です。
卒業生には、けっこう有名人がいます。
伊東絹子、米長邦雄、海江田万里、群ようこ、假屋崎省吾、寺門ジモン、濱田万葉。
海江田万里は慶応ですから、ちょっと意外です。

↑2015年1月、衆議院選挙敗北の責任を取り(自らも落選)、党代表を辞任。
伊東絹子は、昭和28年の『ミス・ユニバース』世界大会で3位に入った美女。
彼女の体型から、八頭身美人という言葉が流行語になったそうです。

↑中央が伊東絹子。外人の中に混じって、脚の長さもまったく見劣りしません。
さてさて、話を続けましょう。
実を言うと……。
街を歩いてたら、もっと懐かしさがこみ上げて来るかと思ってたんです。

でも、自分でも不思議なほど、感動は少なかったです。
もう、この街での感情の記憶が、わたしから離れてしまったと云うことでしょうか。

『都立家政駅』に戻ります。
反対側に見えるホームが、『高田馬場』『西武新宿』方面です。

↑「み」
わたしが、この日乗るのは、反対方向。
↓向かい側のホームに、『西武新宿』行きが入ってきました。

↑「み」
なんだか地下鉄みたいな色で、西武線っぽい感じがしません。
↓西武線と云えば、やっぱり黄色い車両でしょう。

↓郊外方面の電車が入ってきました。

↑「み」
やっぱり、この色です。
でも、黄色がなくなったわけじゃないようです。
銀色が続いたのは、たまたまなんですかね。
↓目的の駅に着きました。

↑「み」
ここは駅なので、それでもホームと建物が離れてますが……。
走ってる途中など、電車の窓近くまで民家が迫ることがあります。
路面電車みたいな風景です。
東京の私鉄じゃ、当たり前なんですかね。
新潟では、ぜったいに見れません。
わたしが降りたのは、『花小金井』という駅です。

↑南口です。
住所は、小平市になります。

↑このあたりの市の位置関係は、さっぱりわかりません。
今日の午後のメインは、この駅近くの施設を見学することなのです。
施設までは、少し歩きます。
駅を出てすぐ、道路の向こう側に駐輪場が見えました。
↓スゴい数ですね。

↑「み」
↓街路樹の植桝に、ピンク色の花が咲いてました。

↑「み」
ムラサキカタバミでしょうか?
わたしが歩いているのは、小金井街道。
市道ではなく、都道です。
都が、こんな植栽をしますかね。
ひょっとしたら、近隣の人が植えたのかも知れません。
途中、回転すし屋の前で、アルバイト募集の看板を発見。
↓時給に驚きます。

↑「み」
新潟では、寿司屋の店員が、とてもこんなにはもらえません。
これに釣られて、みんな東京に出るんですかね。
でも、生活費が高いから、残るのは同じだと思うんですけど。
↓もう、ガクアジサイが咲いてました。

↑「み」
中央の高木は、ハナミズキのようです。
もちろん、花はとっくに終わってます。

↑ハナミズキの花。花びらに見えるのは総苞で、中央の粒々が花です。
東京では、育つんですね。
それを真似てか、新潟の街路にも一時期植えられましたが……。
満足に育ってるところはありません。
夏の暑さは、東京のほうが上だと思うので……。
やっぱり、冬にやられるんでしょうか。
↓と思ったら、甲府で立派に育ってます。

なんで新潟は、ダメなんですかね。