2016.5.31(火)
雪に降り込められた鞍馬・貴船の山道。
道代と、小まめの志摩子の乗る乗用車は、道の傍らの雪溜まりに鼻面を突っ込んで止まっていた。車内は、二人きりだった。運転手は助けを求めて車を離れていた。
後部座席に、二人は並んで坐っていた。
乗用車の前面窓は、ほぼ雪に埋まっていた。運転手がつけっぱなしにしていった前照灯は、用を成さなくなっていた。
車内灯はついていなかった。二人は、そのようなものがあることすら知らなかった。
車内に閉じ込められた道代と志摩子にとっては、かすかに雪が照り返す前照灯の光が唯一の照明だった。
ほの暗い車内で、することも無く、二人は切れぎれに会話を続けた。その視線は、時折、見慣れた、しかし目鼻立ちも判然としない互いの顔を捉えるが、ほとんどは窓外に送られていた。車の外は相変わらず雪である。風も出てきたようだ。
「姐さん、そないな……」
道代の言葉はそれ以上続かなかった。
「腸(はらわた)の奥まで覗かれてるような……」という、志摩子の言葉を聞いての事であった。
追いかけるように志摩子が言葉を継いだ。
「ほんまに気色(きしょく)の悪い。いっそはっきり、押し倒されでもした方がまだましやわ」
「なに、おいやすのん(仰る)姐さん」
道代の声が少し高くなった。
「ふん。ほんまにそないされたら、張り倒したるんやけんどな」
「姐さん……」
「まあ、おかしな目つきで見られてる、ゆうだけでそうもでけんわなあ。せやから余計腹立つんや」
「姐さん……」
「もう、あんお方の座敷は、金輪際ごめん(御免)や。覚えときや、道」
「へえ……」
しばらく言葉が途切れた。
が、無聊に耐え切れず、すぐに志摩子は言葉を継いだ。
「なあ、お道」
「へえ、姐さん」
「あんたともつきあい、結構、なご(長く)なったなあ」
「そうどすなあ」
「うちらが会(お)うたん、いつごろやったかいねえ」
「そうどすなあ、二年……いや、三年くらいどすやろか」
「まだそんなもんかいねえ」
「へえ。姐さんが舞妓はんで出やはって(お出になって)すぐくらいに、うちがお付きするようになりましたさかい」
「ふん」
「どないしやはったんどす、姐さん」
「いや、なんとのう、な」
「へえ」
「それなりに、いろんなことあったなあ、思(おも)て」
「そう……どすなあ」
道代の脳裏を、過去の様々な出来事が行き過ぎた。祇園に来る前の、幼い頃のこともあったがそれらはすぐに薄れ、道代が思い浮かべる過去のことどもには、そのほとんどに志摩子がともにいた。
いや、逆かもしれない。
志摩子に寄り添う、影のように寄り添う。それが道代自身の内に刷り込まれた自身の映像であった。
車のエンジンが止まった。
車内に静寂が訪れた。
しばらく二人は気付かなかったが、先に声にしたのは志摩子だった。
「あれ?」
「何どす、姐さん」
「えらい静かになったなあ。ちゃうか、道」
「あ……そないゆうたら」
道代と志摩子は言葉を切り、耳に神経を集中させた。互いの呼吸音が聞こえそうな、車外に降りしきる雪の音まで聞こえるような、それほどの静寂だった。
「姐さん……」
「どないやねん、道」
「車のエンジン……止まってますわ」
運転手がかけっぱなしにしていった車のエンジンは、確かに止まっていた。
「はあ、エンジンなあ」
「へえ」
「まあ、耳障りな音せんようになって、結構なこっちゃ」
「姐さん、何のんきなこと」
「のんきて、なんやのん、道」
道代の声がまた、高くなった。それは悲鳴にも近かった。
「姐さん! 車のエンジン止まるゆうことは、車内の暖房も止まるゆうことでっせ」
「はあ、暖房なあ」
志摩子の返答は、事態を全く把握していないものだった。
「姐さん! ここは京の街中やおへん。鞍馬の山中どっせ。夏やったらともかく、こないな冬の最中(さなか)、暖房のうなったらどないなるか……」
「ほれに、雪、降っとるしなあ」
志摩子の言葉は、その内容とは裏腹の、悠然としたものだった。
「姐さん。うち、ちょと(ちょっと)人、探してきますわ」
「あほなこと言いな(言うものではない)。運転手はんがそないゆうて出ていかはって、いまだにもんて(戻って)きはらへんやないの。近くに人家なんぞない、ゆうこっちゃ」
志摩子の言葉は、事態を冷静に分析したものだった。
道代は少し落ち着いた。
「こないなときにバタついたらあかん。慌てたもんがドつぼにはまるんや。動いたらあかんえ(いけないよ)、道」
「へえ。へえ、姐さん」
こないに(ここまで)肝(きも)の据わったお人やったか……。道代は、志摩子をあらためて見直す思いだった。
「ええか、道」
「へえ」
「うちらが今でけることは『待つ』。この一手や」
「へえ」
「待つのんは、救いの手か、夜が明けるか、雪が止むか。それはわからんけんど、とにかく、この車ん(の)中にじっとして動かんことや」
「へえ」
「まあ、ゆうてみたら、山登りしてて雪に降り込められ動けん、そういう状況やな」
「はあ。山登り、どすか」
「せや、ビバーク、ゆうたかなあ」
道代は、ふと心が軽くなる自分を覚えた。
「えらい言葉、知ったはります(ご存じです)なあ、姐さん」
「ふん。前にな、座敷にいやはった若いお人におせて(教えて)もろた(いただいた)んや。なんや、お供、てな感じのお人やったけんど、聞いたら、京大の学生はんや、ゆうことやった」
「きょうだい! へえ、そらあたいしたもんでんなあ」
道代は中学校も出ていない。小学校すらろくに通わないまま、今の置屋に奉公するようになったのだ。学生、それも京都大学など、道代には想像の埒外、目も眩むような雲の上の存在だった。
「でな、道」
「へえ、姐さん」
「こうゆ(云)うとき、まずやらんならんこと、なんや思う?」
「さあ、それは……大声で助けを呼ぶ、やおへんわ(ではないでしょう)なあ」
「ふん。ちょっとはわかっとるやないか、道」
「いやあ、なんもわかりまへん。何ですやろ、姐さん」
道代は、志摩子を見つめた。
志摩子は少し唇を綻ばせ、おもむろに答えた。
「今、うちらが持っとるもん、なんやろか、ゆうことや。学生はんは、装備品のチェック、ゆ(言)うてはったなあ」
「はあ。そうびひん、どすか」
「せや(そうだ)。道、今あんたが持っとるもん、身につけてるもん、みいんな確かめるんや。うちもやる」
「へえ。姐さん」
コメント一覧
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1. 道草食いハーレクイン- 2016/05/31 12:57
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長くなっております
志摩子女将の昔語り。
いや、「道代語りの志摩子物語」でしょうか。
始まりましたのが『アイリス#143』からですから、今回で8回を数えることになりました。ほんの2,3回で切り上げるはずだったのですが、あれこれ枝葉を書いてしまう悪い癖が出ております。まあ、書いていて楽しいことは楽しいんですが。
それにしても「小まめ物語」。
始まってから一度もエッチシーンがありません。まあ、道代も小まめの志摩子もまだ小娘。しょうがないと言えばしょうがないのですが、かくてはならじ。
『アイリス』は変態舞妓小説です。次回以降を乞う、ご期待。
で、ようやくキーパーソンの「相馬の旦さん」が登場しました。今のとこ名前だけですが。
このおっさんさえ出してしまえば、先は見えました、「小まめ物語」。あと数回で切り上げて、「花よ志」に戻りたいと思います。
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2. Mikiko- 2016/05/31 19:47
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運転手は……
どうしたんでしょうね。
遭難しましたかね。
車は、当然のごとくガス欠です。
でも、着物なら、それほど寒くないのでは?
舞妓なら、振り袖です。
袖の中に頭を突っ込めば、だいぶ暖かいでしょう。
新聞紙があれば心強いですが、車中には無いかな。
でも、この車って、タクシーですよね。
タクシー無線って、山中じゃ通じないんですかね?
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3. ♪運転手は君だ~HQ- 2016/05/31 22:46
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↑しゃしょうはぼくだ~
タクシー
じゃないです、ハイヤーです。#149に↓書きましたぞ。
>道代と、小まめの志摩子は送迎用のハイヤーの車中にいた。
タクシー無線は、当時(終戦後数年目)はなかったでしょう。
>着物なら、それほど寒くないのでは?
これこれ。
そのあたりを次回に書くのではないか。
冬の貴船の山道。車中とはいえ暖房無し。しかも雪中。
これをどう乗り切るかが次回のテーマです。
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4. Mikiko- 2016/06/01 07:36
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タクシーとハイヤー
別の車なんですか?
呼ぶと来るのがハイヤーで、手を上げて停めるのがタクシーかと思ってました。
そう言えば、ハイヤーには、黒塗りの大型車があるような気もします。
タクシー無線が初めて運用されたのは、昭和28年の札幌だそうです。
それまでは、会社が運転手と連絡を取る手段は、無かったんですかね。
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5. うちのは三菱の軽HQ- 2016/06/01 12:39
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タクシーは
そこらを流してるやつ(電話でも呼べますが)、ハイヤーは予約の貸し切り、でしょうね。
車種や装備も違います。
タクシーは、はで派手塗装で、車種もお手軽(カローラ?)。
ハイヤーは黒塗りで豪華車種(ベンツ?)、じゃないですかね。
タクシー無線は昭和28年から
ふうん。
ということは「無線無し設定」は、ぎりぎりセーフということですね。
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6. Mikiko- 2016/06/01 22:03
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ハイヤー
企業などの得意客を持ってないと、それ用の車は抱えてられないですよね。
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7. タクシー呼んでHQ- 2016/06/01 23:27
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得意客
そういう意味では、京都のハイヤー業界、とくに花街近くは悠々とやってけるでしょうね。
大阪では……苦しいかな。
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8. Mikiko- 2016/06/02 07:32
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なるほど
料亭が、帰るお客にハイヤーを呼ぶんですかね。
もちろん料金は、接待側の会社に請求されるんでしょう。
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9. 接待番宣ハーレクイン- 2016/06/02 17:49
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料金は接待側に請求
「当然どす」(「花よ志」女将志摩子)