2016.5.19(木)
その年、七月の十七日。道代と、小まめの志摩子は連れだって、というより志摩子が道代を引き連れて、四条大橋を渡った。東から西へ、である。
京都の東側に南北に連なる東山。京の都にとって、古くから天然の要害であったその東山連峰の西の麓を、やはり北から南へ流れる鴨川は、京の都のシンボルである。
京の街の只中を東西に延びる、京都最大の通り、四条通りが鴨川を渡る、その橋が四条大橋である。この橋の西詰め、鴨川の右岸には、先斗町(ぽんとちょう)、木屋町、新京極など著名な町筋が多くある。京都の台所と称される錦市場(にしきいちば)もこの一角にある。
四条大橋を東に渡ると祇園である。鴨川の左岸、東側は、西側とは異なった、しっとりとした趣の花街である。四条通りは祇園の只中をさらに東へ向かい、その果てに建つのが八坂神社である。
毎年、七月いっぱいをかけて行われる祇園祭は、この八坂神社の祭礼である。この一か月、鴨川の両岸では様々な行事が連日のように行われるが、その最も盛大なものは、鴨川の右岸、西側で行われる山鉾巡行である。鉾、と称される巨大な何基もの山車が、町内を練り歩くこの行事は、七月十七日の前祭(まえまつり)、二十四日の後祭(あとまつり)の二度に渡って行われ、祇園祭最大の見どころになっている。
この両日、山鉾に直接携わる人々はもちろん、見物客も含めると、狭い京の通りは文字通り人で埋め尽くされる。京都中の人が集まったのではないか、そう思わせるような賑わいになるのだ。
道代と志摩子が、祇園の街から四条大橋を西へ渡ったのは、祇園祭の前祭の日であった。時刻は夕刻。山鉾巡行は既に終わっていたが、その賑わいの余燼は、まだ町中に色濃く漂っていた。
小まめの志摩子は、鴨川の右岸に沿って、その川岸に設置される川床(かわどこ)に呼ばれたのだ。納涼のための席として設けられるこの川床は、例年五月から九月にかけて、先斗町の料理屋が設置・営業する臨時の座敷である。一応屋根はあるが壁などはなく、鴨川沿いの川風が吹き過ぎる屋外の座敷である。夏の京都の暑さはしかし、その程度でしのげるものではないが、それでも気持ちだけでも暑さしのぎになるのであろう。例年、賑わいを見せる川床であった。
席に呼ばれるのは花街、先斗町の芸・舞妓衆が主なのであるが、さすがに祇園祭の時期は人出が多く、祇園から駆り出されることも少なくなかった。
「おおきにー」
川床に上がった小まめの志摩子は、作法通りに膝をつき、両手を揃えてお辞儀をした。華やかな舞妓衣装に優雅な立ち居振る舞い。にこやかな志摩子は、たちまちに座の注目を一身に浴びた。何の気負いも逡巡も無い、流れるようなその振る舞いは人々を惹き付け、魅了し、夢の世界に誘(いざな)う。それは意図し、計算したものではなく、志摩子の人となりそのものが自然に表れたものであったろうか。
道代はもちろん座敷には上がらない。床の下、上り口の端に目立たぬように立ち、その目はいつものとおり、志摩子をしっかり捉えていた。何か事が起こればいつでも飛び出す、身を挺してでも志摩子を守る。そう考えている道代であった。
いや、そう考えてはいなかった。志摩子を守る、それは道代の奥深くに根付いた、いちいち考えたり、意識に上らせたりすることのない、そのような必要も無い、道代そのものと言っていい一つの意志であった。
大げさに言えば、志摩子は道代の存在理由とも云うべきものになっていた。
七月の祇園祭が終われば、八月は大文字、五山の送り火である。夏の京都は、息つく暇もない賑やかな行事の連続である。人の日常の暮らしの中に行事があるのか、行事を行うための日常なのか、それは京都に実際に住まう人にも分からないことであろう。それほど人と行事は、京の暮らしそのものなのであった。
ようやく炎熱の夏が過ぎ、秋風の季節になった。小まめの志摩子は、一日、京の西、嵐山に招かれた。桜・紅葉の景勝地として名高いこの地はまた、化野や小倉山など著名な名所も隣接する、京都きっての観光地であった。
京都三川のひとつ、桂川が流れ下る嵐山の最大の名所は、その桂川を渡る渡月橋(とげつきょう)であろうか。鎌倉期の亀山上皇が、橋の上空にかかる月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と述べたことから渡月の橋、渡月橋と名付けられたとされている。
小まめの志摩子が招かれたのは、この渡月橋の袂にほど近い、桂川の瀬音も聞こえようかという嵐山きっての料亭であった。
桂川沿いの道を歩く志摩子の傍らには、もちろんひっそりと道代が付き随っていた。
京の街が雪になった。
京に雪は少ない。
数十年ぶりと云われる大雪に、京の町が見かけたことのない他国になった。そのように、人々には思われた。
人や車の行き来すら難渋する中、小まめの志摩子は貴船(きぶね)の料亭に招かれた。貴船は京の北東、市内ではあるが山中にひっそりとある、山村と云ってもいいような場所である。一山越えれば、これは著名な、しかしやはり山深い鞍馬の町がある。
小まめが属する祇園の置屋の女将、辰巳としはさすがに躊躇(ためら)った。その思いは、なんぼなんでもこないな(このような)日に、あない(あのような)山奥へ、というところであったろうか。
通う道路は山道一本のみ。叡山電車も走っているが、まさか舞妓姿で電車というわけにもいかない。雪で道路が塞がれば、下手をすると途中で行くも戻るも出来なくなる、という恐れも十分にあった。
「大丈夫どすえ、おかあ(母)はん。行かしてもらいますう」
話を聞いてそう答える志摩子に、なおも躊躇うとしは、傍らにいつものように控える道代に目をやった。
俯いて話を聞いていた道代は、としの視線を感じたか、目を上げた。
としと道代の視線が絡み合い、短い会話を交わした。
(行ってくれるか)
(へえ)
(頼んだで、万が一にも……)
(へえ、承知しとります)
何があっても志摩子を守る。
いまさら言われるまでも無い、道代の思いであった。
としは目を逸らせた。
「ほな……いといで(行ってきなさい)。車、呼ぶよってな」
二人は、夜中を過ぎても戻らなかった。
コメント一覧
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1. 京都市観光課HQ- 2016/05/19 08:32
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今回は……
何やら京都の観光案内みたいになっちゃいました。
しかも四季それぞれに合わせて、春の祇園(これは前回#147ですが)、夏の鴨川べり、秋の嵐山、そして冬の貴船(きぶね)。
いずれも著名な名所、観光地ですが、ただ、貴船は夏の川床がウリですね。鴨川とは異なり山中の渓流、水は冷たく気温も低い。しかも床は川面を覆い、まさに水の上、にあります。これ以上の納涼法はなかろう、という貴船の川床です。
それだけに、冬に貴船に行こうか、という方はよほどの粋人、または物好きです。いったい何者が……と気になるところですが、これは次回以降のお楽しみ。
それより気がかりは、道代と志摩子です。これはまあ無事なのはわかっているわけですが、いったい何が起こったのか……。気の揉めるところでありますが、これも次回を乞う、ご期待。
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2. 京都市観光課2HQ- 2016/05/19 08:36
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ご記憶でしょうか『アイリス』#132
この回、志摩子・源蔵極悪コンビの「あやめ追い落とし計画」が実行されました(そんなん、誰も覚えとらんわ)。
このとき、京都ご案内歌謡とでも云えます『祇園小唄』をご紹介しました。京都・祇園と云いますとやはりこれでしょう。都をどりでもよく演奏し、舞われるようです。
で、ちょうどいいかな、ということで、改めてご紹介します。残念ながら、画像・映像までは無理ですが、これはYouTubeなどをご覧いただきましょう。
『祇園小唄』
♪月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
♪夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字
祇園恋しや だらりの帯よ
♪鴨の河原の水やせて
咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
♪雪はしとしとまる窓に
つもる逢うせの差向(さしむか)い
灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ
4番までありますが、それぞれ春夏秋冬が表現されています。まあ、こういう趣向はよくあるわけですが。
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3. Mikiko- 2016/05/19 19:53
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鴨川の川床
祇園祭の前祭の日ということは、7月17日。
ちょうど梅雨が開けるころです。
夕刻とはいえ、そうとうな暑さだと思います。
舞妓が一番嫌うのが、この川床の座敷だと聞いたことがあります。
冷房がありませんからね。
汗かきの子は、堪らないでしょう。
ヘタすれば、化粧もドロドロに崩れます。
氷を入れた水枕でも背負って行かねばなりません。
『祇園小唄』。
こういうのを読むと、どうしても作詞家が気になります。
長田幹彦という人だそうです。
全く知りませんでした。
東京出身で、早稲田の英文科卒。
当初は小説家で、谷崎潤一郎や吉井勇と並び称された時期もあったようです。
昭和に入ってからは、小説が振るわず、作詞家に転向。
『祇園小唄』のほかには、『島の娘』というのが売れたようですが、聞いたことのない歌でした。
今となって残るのは、『祇園小唄』だけでしょう。
でも、この歌がある限り、長田幹彦という名が、作詞家として記され続けるわけです。
“作品”って、スゴいですね。
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4. ♪赤い蘇鉄のHQ- 2016/05/19 23:13
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ドロドロ舞妓
聞いた話ですが、きりっとお座敷を務める芸・舞妓さん方は、いかな暑さの中でも汗一つ掻かないとか。涼しい顔で、平然と座敷を務められるとか。要は、気の持ちようだとか(ホンマですかいのう)。
『島の娘』は、1932年(昭和7年)にビクターレコードから発売された流行歌で、小唄勝太郎の代表曲。
作詞:長田幹彦、作曲:佐々木俊一。
♪ハア~島で暮らせば、娘十六恋心
わたし、↑これ知ってました。
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5. Mikiko- 2016/05/20 07:38
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芸妓は……
訓練期間を経てますから、コントロール出来るようになるんでしょう。
でも、入ったばかりの舞妓はどうですかね。
新陳代謝の盛んなときですし。
熟練した寿司職人は、家を出るときは常温だった手の平の温度が……。
板場に立つときは、氷水に漬けたように冷たくなってるそうです。
温かい手は、ネタを痛めますし、ごはん粒がくっつくからです。
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6. 押せば命の泉湧くHQ- 2016/05/20 13:52
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↑もう誰も知らんかな。
汗止めのツボ
両乳首のそれぞれ上方(立った姿勢で)数センチの位置にあるそうで、ここを押すと顔の汗を止められるとか。
で、女性の和服の帯は、その上端がちょうどこのツボの位置に来るとか。だから、和装の女性は顔に汗をかかないそうです。もちろん芸・舞妓さんも。
聞いた話を思い出しました。ホンマかね。
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7. Mikiko- 2016/05/20 19:43
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そんな都合のいい……
ツボがおまっかいな。
もしあるんなら、商品化されてるでしょう。
内側に親指の付いたブラとか。
昔は、冷房なんかどこにも無かったから、覚悟も出来てたでしょうが……。
今の座敷には、みんな冷房が付いてます。
無いのは、川床だけです。
嫌われますよ。
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8. 汗っかきハーレクイン- 2016/05/20 21:50
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道代と小まめ
時代は戦後すぐくらい、という設定です。
クーラーなんかはもちろんありません。せいぜい扇風機。 あとは団扇か、川風ですね。
今の舞妓さんにも、往時に思いを馳せて頑張っていただきたいものですがしかし、「思い」で汗は止められませんわな。
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9. Mikiko- 2016/05/21 08:06
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クーラーの無い時代は……
川床のお座敷が、一番涼しかったのでしょう。
今は、まったく逆です。
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10. 雪掻きハーレクイン- 2016/05/21 10:51
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で、今から……
納涼どころか、貴船の雪景色を書かんならんのですが、どうも季節感の無いお話になりそうです。
まあ、これはしょうがないよね。