2016.3.22(火)
あやめは調理台に向かっていた。
「花よ志」の厨房であった
厨房の内部はすべて奇麗に片付き、床は水に濡れていた。あやめが掃除をし、片づけ、水を打ったのだ。あやめは、与えられたその日の仕事のすべてを終えていた。
天井の照明は落とされ、厨房は闇の中に沈んでいた。あやめの頭上の一灯だけが、その手元を照らしていた。
厨房内に、あやめ以外の人はいなかった。話し声はもちろん無い。物音も無く、時折、戸外から鴨川のせせらぎが聞こえる。それほど室内は静まり返っていた。
しかし、あやめの手元から物音が聞こえる。微かな音ではあったが、何者かがその存在を主張するように、静まり返った厨房内に響き渡っていた。あやめは両腕の肘を折り、調理台の表面に沿って両手を前後に、規則的に動かしていた。その両手には愛用の柳葉、刺身包丁がしっかりと保持されている。包丁の更に下には砥石。砥石の表面は、厨房の床と同様、水に濡れていた。
大きく傷つけられたあやめの包丁であった。
その傷は深かった。
これが人ならば、致命傷と云っていい傷であった。
通常であれば、諦めて新しい包丁を求め、一刻も早くそれを自らの手に合うように手入れをする。一日も早く新しい包丁に慣れることに腐心する。
それほど大きい傷をつけられたあやめの包丁であった。
だが、あやめは新しい包丁に取り替えようとはしなかった。
砥石とは、砥粒と称する細かい粒状の研磨剤を煉瓦状に固めた人造の石である。天然の岩石から切り出した砥石もあるのだが、近ごろは砥石用の天然石はほとんど枯渇しかかっている。京都ではまだわずかに産出するそうだが、そして、天然の砥石は人造のものよりも優れた研ぎ具合が得られるというが、あやめは天然石の砥石を見たことはなかった。
「研ぐ」という作業は、研磨剤により、包丁に微細な傷をつけるということである。その極微小の傷により、包丁は切れ味を取り戻すことが出来るのだ。
砥石は、含む砥粒の大きさにより「荒砥」「中砥」「仕上げ砥」の三種類があり、この順に砥粒は細かくなっていく。さらに、砥石の面を平面に直す用途の「面直し砥」があるが、これは包丁に用いることはない。
料理人が普段用いる砥石は「中砥」である。
「仕上げ砥」は刃の細かい調整のため、「荒砥」は刃が大きく欠けたときや、刃のない包丁の刃付けのための砥石で、普段用いることはない。しかし今、あやめの包丁の下にある砥石は「荒砥」であった。
源蔵の手により、大きく傷ついたあやめの包丁。
あやめは、その刃こぼれを何とか修復しようと腐心しているのだった。
包丁の各部には名称がある。食材に接し、切る部分を「刃先」、その反対側、いわゆる"背"の側を「峰」と称する。包丁は「刃先」の側で切る。「峰」の側では当然切らない。
実際に切るのに用いるのは「刃先」から背の側へかけてのわずかな部分だけで、ここを「切刃(きりは)」と称する。「切刃」以外の部分を「腹」と称し、切刃とは明らかに色合いも光沢も異なっている。切羽と腹の境を成すのが「鎬(しのぎ)」である。
「切刃」の幅は、包丁にもよるが1センチあるかないか。包丁はその先端である「切っ先」から柄につながる「刃元(はもと;マチ)」まで、ほぼ同じ幅で「切刃」が伸びている。
庖丁を研ぐというのは「刃先」、および「切刃」にかけての部分を砥石の表面に当て、滑らせるということである。

↑包丁各部の名称。「先」は「切っ先」、「寸法」は「刃渡り」とも云う。刀身の濃い灰色の部分が「腹」である。
あやめの包丁の傷は「切刃」の幅の半ば近くまで達するほどの深さだった。しかもその位置は「切っ先」と「刃元(マチ)」とのちょうど中間あたりにあった。この傷のある限り、包丁としての役に立たないことは明らかだった。
あやめの意図は、荒砥を用いて、この傷が無くなるまで「切刃」を削り落とそうということであろう。しかしそうすれば、「切刃」の幅が元の半分以下になってしまう。それでいったい、包丁として使い物になるのだろうか……。
もちろん、これほどの研削作業が短時間で終えられるものではない。あやめの深夜の作業は幾夜も続いた。
その作業を妨げる者は誰もいなかった。
源蔵は、あれ以来あやめに近づこうとしなかった。あやめの包丁を傷つけ、あやめを犯したあの夜以来、源蔵はあやめに近づこうとしなかった。だがもちろん、昼間は板場の長としてあやめと幸介を使い回す源蔵であった。
碗方の田辺銀二と焼方の平野良雄がいなくなり「花よ志」厨房の戦力は、わずか三人になっていた。当然、長の源蔵も含め、一人一人の負担は大きくなる。あやめは、日に幾度も源蔵に怒鳴られ、小突き回され、追い回される毎日だった。
料理を行うのは源蔵と幸介、あやめは調理作業からは遠ざけられていた。
調理場の長は本来、花板である。野田が亡くなった今、源蔵が花板に直るはずが、そうはならなかった。源蔵は相変わらず立て板のまま、実質的な長として「花よ志」の厨房を仕切っていた。源蔵の花板就任を妨げるものは何もないはずであったが、そうはならなかった。源蔵はそうしようとしなかった。そんな事には全く関心が無いようであった。名前なぞはどうでもいい、要は実質だ。今現在、「花よ志」の厨房の長は自分だ。源蔵にはそれで十分であり、この男特有の感性であるのかもしれなかった。
花板、立て板、椀方……板場役職の階級制の最下位は、下働きの追い回しである。追い回しと云ってもいろいろいる。包丁を持たされ、食材の下ごしらえ程度はこなす追い回し。料理の経験が全くなく、掃除や片付け、料理人の指示のままにその補助を行う追い回し。料理の道で生きる気持ちすらまだ定まらず、特に何をしたいという気持ちも無く、とりあえず厨房で働き始めた追い回し……。追い回しの中には、長続きしない者が多い。昨日までいた追い回しが、今日はもういない。どこへ行ったのかもわからない。そのような追い回しは珍しいものではなかった。
であるから、かつての上客、呉服商宝田との確執があったにせよ、あやめが「花よ志」の厨房にあって追い回しであるというのは、いかにも奇妙な事であった。事情を知らない外部の者に「何か明かせないわけがあるのだろう」と思わせてしまう事態であった。
久美は、「花よ志」一階の廊下の端と厨房との境に立っていた。下がる暖簾を軽く掻き上げ、厨房内を窺っていた。その視線の先にはあやめの背があった。
久美は、あやめが何をしているのかはよく承知していた。何かに取り憑かれた様に庖丁を研ぐあやめを、声も掛けずに見守っていた。
久美とあやめは、あの夜以来抱き合っていなかった。
腑抜けたような、魂を抜かれてしまったようなあやめ。そのようなあやめと肌を合わせる気にはなれない久美だった。あまりに痛々しいあやめに触れることは、どうしてもできない久美だった。久美が求めれば、あやめが拒むことはないだろう。だが、それは久美にはどうしても出来なかった。
あやめが元のあやめに戻るまでは……。
その思いで自分を抑えている久美だった。いや、
うち(自分)の力で、なんとしてもあやめを元に戻す。あやめを取り戻す。
そう、固く自分に言い聞かせている久美だった。何ものかに対し、そう宣言している久美であった。
それまでは……あやめが元のあやめに戻るまでは、あやめの好きにさせる。
そう決めている久美だった。
うちと包丁とどっちが大事なん。
そんなことは、あやめに問わない久美だった。
もし問うてみれば……「そんなん、どっちも大事に決まってるやん」という答えが必ず返ってくる。それは百も承知の久美であった。あやめが庖丁を研ぐのは、誰にも止められないことであった。
ならば……。
ならば、うち(私)があやめを守る。
もうこれ以上あやめを傷つけさせはしない。
決して……。
コメント一覧
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1. ♪包丁とぎましょHQ- 2016/03/22 15:00
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あやめが庖丁を研ぎ始めました
いや、こうなると「研ぐ」というより「修復する」と云った方がいいかもしれません。それほど深い包丁の傷。
これを何とかしようというあやめ、些か鬼気迫るものがあります。その心中、如何ばかりか。いや、大丈夫か、あやめ、と声を掛けたくなりますが、ここはしばらく見守りたいと思います。
見守る、と云いますと久美。
こちらは些か悲壮感が見えます。
中京署の六地蔵警部補の久美評は……「あれは危なっかしい。無鉄砲ゆうか……周りが見えてへん、ゆうとこある」ですからねえ。どうも心配です。
で、気になりますのは源蔵。
あやめとの一件以来、こ奴、どうもただの狂犬、ただの殺人鬼ではないように思えてきました。何やら複雑な人格のような……。こちらも今後、観察、いや監視を続けたいと思います。
で、問題は今回、包丁の部分名称がやたらに出てきます。
「そんなんわからんわい」ということで、図を付けさせていただきましたが、些かやり過ぎたなあ、と反省しております。
要は、傷の位置が「刃のほぼ中央、深さは1センチほど」。
これだけでよろしいわけで、図も含め、“包丁講座”は読み飛ばしていただければよろしいかと思います。
あやめ、久美、源蔵。
いずれも、今後の動向が気になるところです。
次回以後の『アイリス』に、乞う!ご期待。
おまけ。
↓こんなんあります。
NHKみんなのうた『はさみとぎ』
♪今日も朝から口笛吹いて
陽気なぼくは はさみとぎよ
といしがまわりゃ心がはずむ
いつもにこにこ しあわせものよ
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2. Mikiko- 2016/03/22 19:42
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些か
読めませんでした。
なるほど。
“いささか”ですか。
サザエさんの登場人物におられます。
伊佐坂という漢字を振るようです。
海と関係ないですよね。
包丁研ぎ。
わたしは、1度も研いだことがありません。
包丁は1本だけ持ってますが……。
トーストを切るくらいしか使わないので、切れ味は気になりません。
切れなくなったら、100均から買うだけです。
母は、スーパーに回ってくる包丁研ぎを利用してるみたいですが。
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3. 弥栄なんてのもHQ- 2016/03/22 22:02
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些(いささ)かも読めない
「些か」
わたしも、漢字は知りませんし書けません。
ただ、「いささか」という言葉は、音だけ知っていましたので、「isasaka」で打ち込んだら表示されたんですね。
便利な時代になったものです。
本棚の広辞苑は、長いこと手にしていません。
今度機会があれば、古本屋に持って行くかな(引き取ってくれなかったりして)。
「聊か」とも書くそうです。これは読めもしませんね。
見てたら、「無聊」なんて言葉を思い出しました。
ぶ‐りょう【無聊】
心配事があって楽しくないこと。
つれづれなこと。たいくつ。「―を慰める」
(広辞苑第六版)
今回、包丁について些か調べましたが、すぐに撤退。
わたしなどが下手に深入りするとどツボにハマってわけわからんくなる。
それほど複雑な世界のようです。
てったい撤退。
伊佐坂一族の名前は、すべて海と関係ないようですね。
それと、磯野家のタマをはじめ、飼い猫・飼い犬の名前も海がらみではないようですが、まあ犬猫までは面倒見切れませんわね。
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4. Mikiko- 2016/03/23 07:32
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ぶりょう
“心配事があって楽しくないこと”と“たいくつ”では、随分とニュアンスが違うと思うのですが。
“つれづれなこと”では、“つれづれ”自体が余計わからんと思います。
広辞苑が、時代のスピードと並走するのは無理ということですね。
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5. 無聊今昔HQ- 2016/03/23 11:24
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もともと……
二通りの意味があるんでしょうね、ぶりょー。
わたしは「無聊を慰める」で覚えましたから、「たいくつ」の方がポピュラーなのかもしれません。
「つれづれ」はよく知られているのでは。
つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば……
作者は、「無聊の慰め」に書いたそうです
つれ‐づれ【徒然】
①つくづくと物思いにふけること。
②なすこともなくものさびしいさま。することもなく退屈なさま。
徒然草「―なるままに、日暮し、硯にむかひて」。
③つくづく。つらつら。 広辞苑第六版
「つらつら」が、またわかりませんな。
ということで、“辞書サーフィン”が続くわけです。
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6. Mikiko- 2016/03/23 19:57
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つれづれ
井上陽水の歌にありましたね。
「そこはかとなく書き付くれば……」なんてのは、嘘っぱちに決まってます。
推敲し尽くした文章ですよ。
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7. ろくでなしHQ- 2016/03/24 00:29
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陽水つれづれ
そんなのあったっけ。
あ、↓これかな。
♪さみしさのつれづれに
手紙をしたためています
あなたに
黒いインクがきれいでしょう
青いびんせんが悲しいでしょう……
(『心もよう』作詞・作曲・歌唱:井上陽水)
陽水の女房は石川セリ。
セリの母親は陽水の事を「ろくでなし」と評価しているそうです。
で、楽曲はああいう“陽水節”ですが、↓こんなセンチメンタルなのもあります。
♪港を出る白い大きなこの船が
あなたを今つれてゆくのかこの船が
一度見たら忘れられぬ
白い船が僕の人をのせている
♪数えられぬテープの色があざやかだ
そんなテープの影に見える僕の人
それはまるで虹の中を
迷いながら僕を見てる鳥のよう
♪とても僕は見ていられずに目を閉じる
だけど船の汽笛は僕に泣けという
とじたまぶた涙流れ
白い船が僕の人をのせている
♪とじたまぶた涙流れ
白い船が僕の人をつれてゆく
(『白い船』作詞・作曲・歌唱:井上陽水)
まあしかし、よく考えたら陽水の曲って、みんなセンチメンタルなのかなあ。
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8. Mikiko- 2016/03/24 07:18
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白い船
メンタルは、ほぼ演歌ですね。
女々しい男歌というのが、演歌とは異なるところでしょうか。
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9. インナートリップHQ- 2016/03/24 08:42
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センチメンタルジャーニー
ですね。