2022.10.12(水)
「ぐ」
侑人の目が開いた。
香織の脚をどけようと、腕を持ちあげたが……。
両腕はロープで縛られたうえ、タオルに包まれている。
香織の脚を掴むことは出来ない。
それでもようやく、香織の脚を押しのけた。
というか、香織が脚を引いたようにも見えた。
しかし、左右に引き分けられた脚はどうすることも出来ない。
「解いて!」
「ふん。
自分で解いてみな。
問題解くの、得意なんでしょ?」
侑人は、タオルの上から巻かれたロープに噛みついた。
しかし、結び目は裏側にあり、歯が届かない。
「ははは。
そんなんじゃ解けないよ。
あたし、会社辞める前、運送係の助手やってたんだ。
あたしが付いてた運転手が、ロープ結びの達人だったの。
あれは、一種のマニアだわね。
で、そのオヤジから、トラックロープの結び方、イヤになるほど教えられたってわけ」
香織は侑人の頭の脇を離れると、侑人の脚を跨ぎ越し、股間の真下に身を移した。
「それじゃ、侑くん、これから尋問を始めます。
もし、ウソを付いたら……。
わかってる?
タマ、蹴りあげるから。
痛さは、さっきわかってるよね?
あたし、カッとなると手加減とか出来ないタイプだから……。
ひょっとしたら、潰しちゃうかも」
侑人は震えあがったようで、開かれた脚を閉じようとしたが……。
もちろん、叶わない。
「美咲さん、ロープ、ちゃんと持ってて下さいよ。
それじゃ、侑くん。
第一問。
ていうか、これが全部だけど。
侑くんは、ヤッたの?
あの豚と」
香織は絵里子を振り向いた。
「このやろ。
豚とはなんだ」
絵里子が吠えた。
侑人の目が開いた。
香織の脚をどけようと、腕を持ちあげたが……。
両腕はロープで縛られたうえ、タオルに包まれている。
香織の脚を掴むことは出来ない。
それでもようやく、香織の脚を押しのけた。
というか、香織が脚を引いたようにも見えた。
しかし、左右に引き分けられた脚はどうすることも出来ない。
「解いて!」
「ふん。
自分で解いてみな。
問題解くの、得意なんでしょ?」
侑人は、タオルの上から巻かれたロープに噛みついた。
しかし、結び目は裏側にあり、歯が届かない。
「ははは。
そんなんじゃ解けないよ。
あたし、会社辞める前、運送係の助手やってたんだ。
あたしが付いてた運転手が、ロープ結びの達人だったの。
あれは、一種のマニアだわね。
で、そのオヤジから、トラックロープの結び方、イヤになるほど教えられたってわけ」
香織は侑人の頭の脇を離れると、侑人の脚を跨ぎ越し、股間の真下に身を移した。
「それじゃ、侑くん、これから尋問を始めます。
もし、ウソを付いたら……。
わかってる?
タマ、蹴りあげるから。
痛さは、さっきわかってるよね?
あたし、カッとなると手加減とか出来ないタイプだから……。
ひょっとしたら、潰しちゃうかも」
侑人は震えあがったようで、開かれた脚を閉じようとしたが……。
もちろん、叶わない。
「美咲さん、ロープ、ちゃんと持ってて下さいよ。
それじゃ、侑くん。
第一問。
ていうか、これが全部だけど。
侑くんは、ヤッたの?
あの豚と」
香織は絵里子を振り向いた。
「このやろ。
豚とはなんだ」
絵里子が吠えた。
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2022/10/12 05:42
-
今日は何の日
10月12日は、『芭蕉忌』。
江戸時代前期~中期の俳人、松尾芭蕉(まつお ばしょう/1644~1694)の忌日(旧暦)。
冬の季語。
この日は、「芭蕉忌(ばしょうき)」のほかに……。
「時雨忌(しぐれき)」「桃青忌(とうせいき)」「翁忌(おきなき)」とも呼ばれます。
「時雨(しぐれ)」は、旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあります。
「桃青(とうせい)」は芭蕉の別号であり、「翁(おきな)」は芭蕉を指す言葉です。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/110125.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「松尾芭蕉について」を引用させていただきます。
松尾芭蕉は、1644(寛永21)年、伊賀国阿拝郡(現:三重県伊賀市)に生まれました。
幼名は金作。
通称は甚七郎など。
名は宗房(むねふさ)。
俳号は、初め宗房(そうぼう)、次いで桃青、やがて芭蕉(はせを)と改めます。
藤堂良忠(とうどう よしただ/俳号:蝉吟=せんぎん)に仕えます。
その良忠とともに……。
京都にいた歌人で俳人の北村季吟(きたむら きぎん)に師事し、俳諧の道に入りました。
歌人で俳人の松永貞徳(まつなが ていとく)を祖とする貞門派(ていもんは)を学びますが……。
江戸に下って、談林派(だんりんは)に触れて、大きな影響を受けます。
1680(延宝8)年、深川の芭蕉庵に居を移します。
このころから、独自の蕉風(しょうふう)を開拓していきます。
蕉風は、芸術性の極めて高い句風であり、私意私情を去って自然と一体になることを目指したもので……。
さび、しおり、細み、軽みなどを基本理念とします。
続きは次のコメントで。
-
––––––
2. Mikiko- 2022/10/12 05:42
-
今日は何の日(つづき)
引用を続けます。
1684(貞享元)年、『野ざらし紀行』の旅に出ます。
旅から戻った後、1686(貞享3)年の春に芭蕉庵で催した蛙(カエル)の発句会で……。
有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音(ふるいけや かはづとびこむ みずのおと)」を詠みました。
僧侶で歌人の西行(さいぎょう)500回忌に当たる1689(元禄2)年……。
弟子の河合曾良(かわい そら)を伴い、『おくのほそ道』の旅に出ます。
https://zatsuneta.com/img/110125_01.jpg
↑芭蕉(左)と曾良(右)。クリックすると、大きい画像が見られます。
江戸を発ち、東北、北陸を巡り、岐阜の大垣まで、約150日間600里(約2400km)の旅を終え……。
1691(元禄4)年、江戸に帰ります。
未知の国々を巡る旅の中で、数多くの句を詠みました。
そのほか、伊勢へ向かう『笈の小文(おいのこぶみ)』や『更科紀行(さらしなきこう)』など……。
各地への旅を通して、蕉風を確立していきます。
1694(元禄7)年10月12日、旅先の大坂で病気のため死去。
50歳。
後世、句集は『俳諧七部集』に収められました。
そのほかの著書として、俳文『幻住庵記(げんじゅうあんき)』や……。
日記『嵯峨日記(さがにっき)』などがあります。
芭蕉は、古今に並ぶ者のない優れた俳人として、俳聖(はいせい)とも呼ばれます。
関連する記念日として、『おくのほそ道』の旅に出た日に由来して……。
5月16日は「日本旅のペンクラブ(旅ペン)」が制定した「旅の日」という記念日になってます。
以上、引用終わり。
続きはさらに次のコメントで。
-
––––––
3. Mikiko- 2022/10/12 05:43
-
今日は何の日(つづきのつづき)
芭蕉は、公儀隠密だったという説があります。
怪しまれずに諸国を巡るのには……。
旅の俳人というのは、もってこいの隠れ蓑です。
芭蕉の出身地は、伊賀上野。
すなわち芭蕉は、伊賀忍者だったのです!
忍者の最も重要な仕事は、情報の収集です。
決して、手裏剣を投げたり、水に潜ったりするのが本分ではないのです。
逆に、テレビに出てくるような眼光鋭く不気味な人物は……。
忍者には、最も不適任と言えるでしょう。
情報収集をする上で重要なのは、まず怪しまれないこと。
人あたりが悪かったら話になりません。
さらに、話し上手である必要があります。
一方的なインタビューのような形では、ほんとの話は引き出せないものです。
こちらからもいろいろ楽しい話をして、相手を喜ばせます。
で、相手は、何とかお返ししようとして……。
言っちゃマズいことまでも、ポロッと喋ってしまうわけです。
諸国を巡っている芭蕉には、話のネタは無尽蔵にあったでしょうね。
つまり、優秀な忍者には……。
ピン芸人級の話力が備わってたはずです。
テレビの忍者、偽物です。
さて。
わたしは、かつてから「奥の細道」には疑惑を持ってました。
「奥の細道」は……。
旅から帰ってから書かれたものではないのではないか、というものです。
隠密だったかどうかは別にしても……。
俳句の実力という点では、非常に優れていたということは事実です。
いや。
ひょっとしたら、とんでもない天才だった。
続きはさらにさらに次のコメントで。
-
––––––
4. Mikiko- 2022/10/12 05:43
-
今日は何の日(つづきのつづきのつづき)
すなわち!
「奥の細道」の句は、すべて深川の「芭蕉庵」で詠まれてたのです。
芭蕉は、頭の中で想像するだけで……。
東北や北陸の風景を、ありありと句にすることができたわけです。
しかし、それをそのまま発表するわけにはいきません。
実際に対象を見ないで作った句など……。
まったくの無価値ですから。
つまり芭蕉は、自分の句に命を与えるために……。
実際の場所に行かなければならなかったのです。
こうして、自分の句をなぞる旅が始まりました。
でも、ひょっとしたら曾良だけは、この秘密を知ってたかもしれません。
知らなかったら、確実に怪しまれてしまうことがあります。
すなわち、その日のお天気です。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ立石寺が、大雨だったら?
「五月雨を集めて早し最上川」を詠んだときの最上川が、渇水してたら?
まず、句のとおりのお天気になるまで、2,3日は逗留するでしょう。
でも、どうしてもお天気が変わりそうもなかったら……。
やむなく、そこを発つ必要にも迫られます。
曾良が事情を知らなかったら……。
大雨でセミの声など聞こえなかった立石寺の句を、ぜったいにいぶかしむことでしょう。
曾良がもし、旅の途中で命を落としてたら、よけい面白かったのですが。
もちろん、芭蕉が殺したんです。
自分の句の秘密を知った曾良を……。
生かして江戸に帰すわけにはいかなかった。
しかし、実際に曾良が死んだのは、芭蕉の死後16年してからでした。
おそらく「奥の細道」の秘密を、自分の胸の中に抱いたまま。
-
––––––
5. 国立- 2022/10/12 10:18
- 「奥の細道」は、愛読書なんです。好きすぎて英訳をしました。松尾芭蕉が忍びの者でしたらワクワクします。俳句の達人で有る事は、正論でしょう。
-
––––––
6. Mikiko- 2022/10/12 17:51
-
冒頭は特にですが……
練りに練った文章ですよね。
わたしには、旅に出る何年も前から、推敲を重ねてきた文章に思えるのです。
あと、有名な↓の句。
●古池や蛙飛びこむ水の音
もし、この句が存在しなかったとして……。
今、これを句会に出したら、間違いなく「没」だと思います。
-
––––––
7. 手羽崎 鶏造- 2022/10/13 14:41
-
芭蕉が忍者であったかどうかはともかく、
忍(しのび)に近い鍛錬はしていたように
想像します。
素人で、あの距離は歩けないでしょう。
曾良も何者なのか不気味な存在です。
斎藤栄の推理小説だったでしょうか、芭蕉の
黒幕は幕府で、敵情視察と特に「水運」について
実証のために全国を廻ったとの説。
江戸時代から遡(さかのぼ)り、明治になって
英国人イザベラ・バード女史が東北を旅します。
この時の同行・日本人男性案内人も実に優れた方で
あったと推測します。
-
––––––
8. Mikiko- 2022/10/13 17:08
-
イザベラ・バードは……
新潟市にも来てます。
堀割と家並みの美しさを絶賛したそうです。
当時の堀は、信濃川から迷いこんだ鮭が、背びれを立てて泳いでたそうですから。
しかし、第二次大戦後、堀はドブ川に変じてしまい……。
昭和39年の新潟国体を前に、すべて埋め立てられました。
新潟市街には、それほど車が通らないのに、妙に広い道路があります。
そういうところはたいてい、昔、中央に堀が切ってあったんです。