2022.8.20(土)
「出そう?」
侑人が頷く。
絵里子は起ちあがった。
2人の結合部を眼下に見下ろす。
幼い陰茎が、陰毛の中で前後している。
しかし、やはりコンドームが脱げそうだ。
脱げないうちにイカせてやろう。
絵里子は、腹の前で両腕を交差した。
右の指先で、左側の侑人の乳首を摘まむ。
左の指は、右側の香織の乳首だ。
香織のはもちろんだが、侑人の乳首も硬く凝っていた。
指先で擦る。
擦る。
擦る!
「あぁぁ。
出ちゃう。
出ちゃうよ」
「いいんだよ、そのまま出して。
香織、ちゃんと見て。
初めて、男がおまえのまんこの中で射精する瞬間を」
香織は、半眼になった目を見開いた。
懸命に股間を覗きこむ。
「で……。
出るぅ。
で、出る。
がっ。
ががっ」
侑人の強ばりを、乳首を摘まんだ指先に感じた。
「き、来てるぅ。
精子が……。
精子が来てるぅぅぅ」
精液だまりの膨張を感じたのかも知れない。
香織の垂れ下がっていた両腕が持ちあがった。
片手は、絵里子が擦っているのと反対の乳首を摘まんだ。
もう一方の腕は股間に沈んだ。
指先が激しく捏ねられている。
後を追うつもりだ。
介錯してやろう。
絵里子は、乳首を摘まんだ指を捻りあげた。
「ひんぎ」
一瞬で香織の瞳が裏返った。
オセロの駒が、ひっくり返ったようだった。
侑人の両腕が、香織の足裏から外れた。
香織の両脚は、木偶人形のように落下した。
侑人の上体が揺れた。
後ろに倒れたら危ない。
絵里子は侑人の腕を取り、前方に引いた。
侑人の上体が、香織の胸に倒れこんだ。
薄い胸に落ちた額が捻られ、こっちを向いた。
白目を剥き、舌を口元から零した相貌だ。
この上なく卑猥で、それでいて、この上なく崇高な顔だった。
侑人が頷く。
絵里子は起ちあがった。
2人の結合部を眼下に見下ろす。
幼い陰茎が、陰毛の中で前後している。
しかし、やはりコンドームが脱げそうだ。
脱げないうちにイカせてやろう。
絵里子は、腹の前で両腕を交差した。
右の指先で、左側の侑人の乳首を摘まむ。
左の指は、右側の香織の乳首だ。
香織のはもちろんだが、侑人の乳首も硬く凝っていた。
指先で擦る。
擦る。
擦る!
「あぁぁ。
出ちゃう。
出ちゃうよ」
「いいんだよ、そのまま出して。
香織、ちゃんと見て。
初めて、男がおまえのまんこの中で射精する瞬間を」
香織は、半眼になった目を見開いた。
懸命に股間を覗きこむ。
「で……。
出るぅ。
で、出る。
がっ。
ががっ」
侑人の強ばりを、乳首を摘まんだ指先に感じた。
「き、来てるぅ。
精子が……。
精子が来てるぅぅぅ」
精液だまりの膨張を感じたのかも知れない。
香織の垂れ下がっていた両腕が持ちあがった。
片手は、絵里子が擦っているのと反対の乳首を摘まんだ。
もう一方の腕は股間に沈んだ。
指先が激しく捏ねられている。
後を追うつもりだ。
介錯してやろう。
絵里子は、乳首を摘まんだ指を捻りあげた。
「ひんぎ」
一瞬で香織の瞳が裏返った。
オセロの駒が、ひっくり返ったようだった。
侑人の両腕が、香織の足裏から外れた。
香織の両脚は、木偶人形のように落下した。
侑人の上体が揺れた。
後ろに倒れたら危ない。
絵里子は侑人の腕を取り、前方に引いた。
侑人の上体が、香織の胸に倒れこんだ。
薄い胸に落ちた額が捻られ、こっちを向いた。
白目を剥き、舌を口元から零した相貌だ。
この上なく卑猥で、それでいて、この上なく崇高な顔だった。
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2022/08/20 05:44
-
今日は何の日
8月20日は、『定家忌』。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、公家で歌人だった……。
藤原定家(ふじわら の ていか/さだいえ)、1241(仁治2)年の忌日(旧暦)。
名前の「定家」は「ていか」と音読みされることが多く……。
「定家忌」は、「ていかき」と読みます。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/108208.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「藤原定家について」を引用させていただきます。
1162(応保2)年生まれ。
父は、公家で歌人の藤原俊成(ふじわら の しゅんぜい/としなり)。
母は、女房(上級女官)で歌人の美福門院加賀(びふくもんいんのかが)。
初名は、光季・季光。
法名は、明静(みょうじょう)。
別名として、京極中納言(きょうごくちゅうなごん)と称されます。
父のあとを継いで有心体(うしんたい)の象徴的歌風を確立し、歌壇の指導者として活躍。
『新古今和歌集』『新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)』の撰者となります。
また、武士で歌人の宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)に依頼され……。
『小倉百人一首(おぐら ひゃくにんいっしゅ)』も撰しました。
定家自身の作で、百人一首に収められているのは……。
「来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」。
一方で、『源氏物語(げんじものがたり)』『土佐日記(とさにっき)』など……。
古典の書写、校訂にも大きな功績を残します。
この際に用いた仮名遣いが、「定家仮名遣(ていかかなづかい)」のもととなり……。
明治時代に至るまで、一定の支持を得ました。
続きは次のコメントで。
-
––––––
2. Mikiko- 2022/08/20 05:44
-
今日は何の日(つづき)
引用を続けます。
また、『松浦宮物語(まつらのみやものがたり)』の作者は、定家とする説が有力です。
1241(仁治2)年、80歳(数え年)で死去。
その他の著書に、2000(平成12)年に国宝に指定された日記『明月記(めいげつき)』、歌集『拾遺愚草(しゅういぐそう)』……。
歌論書『近代秀歌(きんだいしゅうか)』『毎月抄(まいげつしょう)』『詠歌大概(えいがたいがい)』などがあります。
以上、引用終わり。
もちろん、名前は知っています。
名前だけですが。
でも、鎌倉時代も生きた人だとは知りませんでした。
平安時代のイメージを持ってました。
鎌倉時代の始まりは、1185年。
でも、わたしには未だにこの年号に違和感があります。
1192年で習いましたから。
いわゆる、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」です。
1185年じゃ、「いい箱(1185)」になってしまいます。
箱作ってどうするって感じです。
1192年は、源頼朝が征夷大将軍に就任した年。
でも幕府は、1185年に成立してたということのようです。
1185年と云うと、定家23歳(満年齢)のとき。
定家は、満で79歳まで生きてますから……。
人生の3分の2以上が、鎌倉時代だったわけです。
『源氏物語』の書写、校訂にも携わったとのこと。
源氏の作者、紫式部が生きたのは、970年以降かつ978年以前~1019年以降とのこと。
定家が生まれる140年以上前に亡くなってます。
定家にとっては、まさに『源氏物語』は古典だったわけです。
うーむ。
意外でした。
続きはさらに次のコメントで。
-
––––––
3. Mikiko- 2022/08/20 05:45
-
今日は何の日(つづきのつづき)
↑の百人一首に入った歌以外で有名な歌には、↓が上げられます。
●見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
●春の夜の夢のうき橋とだえして峰にわかるる横雲の空
どちらも、音がぴったり合っていて、綺麗な歌です。
技巧的すぎるという評価をされることもあるようです。
でもわたしは、こういう技が好きです。
ところで、平安から鎌倉でわたしが連想するのは……。
どうしても、「中世温暖期」です。
この時代は、世界的に暖かかったんです。
海面水温が、今より3度くらい高かったそうです。
日本の沿岸部からは、この時代の遺跡が出ません。
なぜなら、今の沿岸部は、そのころ海の下だったからです。
温暖化で海面が上昇してたからです。
その後、また寒くなり……。
底になったのが江戸時代。
品川で2メートルの雪が積もり、隅田川が全面結氷したそうです。
明治ころまで寒かったようです。
小氷期と呼ばれてます。
その後、気温が再び上昇し、今に至ります。
なので、現在気温が高くなってるのは、大きな気候サイクルの一環ということです。
決して、排出された温室効果ガスだけのせいではないのです。
これを理解したうえで……。
ヒステリックにならずに、環境保全活動をしてもらいたいものです。
-
––––––
4. 手羽崎 鶏造- 2022/08/21 11:10
-
藤原定家。
自作のNo97は、百人一首の中で一番
興味を魅く歌です。
(というか、百人一首ファンの中で、
最も熱い議論になる部分ですね)
「業界」では、これは単なるラブソングではなく
「来ぬ人」とは「恩人・上司・仇?」である後鳥羽院の
ことを指した歌であるというのが一般的な
通説になっています。
淡路・松帆の浦は現存します。
この歌の舞台の近辺で育ったワタシには、
京の著名な文化人、定家が
なんでこんな地を?藻塩を焼く風習を?
知り得ていたのかがとても謎でした。
フツーは知り得ないでしょう。
もし、定家が実際に、この地を訪ねていたのなら
松帆の浦から望む海(明石海峡)の先に見た地は、
対岸の明石でも須磨でもなく、それは
絶対に隠岐(後鳥羽院の配流先)
であったであろうと想像しています。
-
––––––
5. Mikiko- 2022/08/21 17:54
-
ほー
そういう見方があったことは、初めて知りました。
後鳥羽天皇は、1180年の生まれ。
定家の18年下です。
亡くなったのは、1239年。
定家の死は、その2年後です。
なんとなーく、稚児趣味的な匂いを感じてしまいます。
-
––––––
6. 手羽崎 鶏造- 2022/08/21 18:54
-
「百人一首」は3歳上の姉の
影響もあり、フツーにカルタ取りに
興じていたので、中学校内の
カルタ取り大会に代表で出た覚えがあります。
上の句5文字で、下の句はほとんど覚えて
いたと思います。(そんな子はザラに居た)
大学生になって、マルクス経済学者の
林直道先生をお呼びして講演会を持つ機会がありました。
(学生と自治会がお金を出し合って)
事情を知った林先生はノーギャラでお引き受け
いただき時間超過・質問歓迎の大サービスで
そのうち3分の1は経済の話ではなく、最近
こういう本を出したんだという「百人一首の秘密」
についての「脱線」話であったことを覚えています。
林先生は文学研究者ではないのですが、
「百人一首」には、この意味あり気な?
順序には(註)、撰者・定家の何らかの
メッセージが隠されているのではと
いう仮説に立ちました。
100首を100枚のカードにして順に
並べて、その作者・詠まれている題材・特徴を
色分けて行き、「絵物語」として再構成して、
或る結論に辿り着くのです。
結論ですか?
ぜひ、この書をお読みいただきお考えください。
<註解>
100番目は順徳院。後鳥羽院の悲運の
息子です。
1番目は天智天皇。後鳥羽院が理想とした
治世の時代です。
後鳥羽院は理想に向けて、幕府に対して兵を
起こしますが(承久の乱)敗北し、息子ともども
隠岐に流され、生涯京には戻れませんでした。
定家の「百人一首」とは、単なる和歌集にとどまらず、
後鳥羽院親子の霊・呪詛を鎮めるためのものでも
あったのではという林直道説をワタシも一定
支持しています。
-
––––––
7. Mikiko- 2022/08/22 06:08
-
面白そうですね
「後鳥羽院親子の霊・呪詛を鎮めるため」ですか。
読みたくなりました。
日本三大怨霊と呼ばれるのは……。
菅原道真、平将門、崇徳天皇。
すべて、平安時代の人です。
以前にも書いたとおり、平安時代から鎌倉時代にかけては……。
中世温暖期と呼ばれる、世界的に暖かい時代でした。
海面温度が、今より3度も高かったそうです。
そんな気候であれば……。
当然、異常気象が起こります。
竜巻、ゲリラ豪雨など、今より凄かったでしょう。
たとえば、↓スーパーセル(超巨大積乱雲)が、京都の上にかかったとしたら……。
https://www.youtube.com/watch?v=VoO89cqDgJU
当時の人は、怨霊が現れたと恐れたでしょう。
わたしは、この時代の怨霊は……。
異常気象が作り出したものだと思ってます。
-
––––––
8. 手羽崎 鶏造- 2022/08/22 12:50
-
当時の方が私たちの想像を遥かに
越える、怨霊への恐怖があったこと。
自然現象への畏れは強かったものと
思います。後鳥羽院の怨霊も実在したと
考えられています。
「百人一首」最大のミステリーは、
これはどういう目的で編まれたものなのかということ。
定家にとって最大の支援者・スポンサーである
後鳥羽院が定家らに命じたことと、結果、定家が遺した
ものとは、「承久の変」を経て、違ったものになって
しまったとワタシは考えています。
経済学者・林直道の指摘は、その後、国文学者ら
から相当バッシングを浴びたようです。
林先生は門外漢であるが故の推理を働かせた
だけで、時代背景・権力関係をも含めて
読み解く面白さを教えてくれました。
林直道「百人一首の秘密」なかなか手に入らない
かもしれませんので、回答をこっそりお教えしましょう。
100枚のカードを関係性を以って、再構成して
出て来た風景と隠し文字は「みなせ」だそうです。
「後鳥羽院」を奉る神社の在る地・水無瀬を指しています。
-
––––––
9. Mikiko- 2022/08/22 17:54
-
門外漢が首を突っこんだら……
反発は避けられないでしょう。
縄張りを荒らされるわけですから。
でも、林先生は、失うものは何もありません。
国文学者が、経済学の領域を荒らすことはあり得ないでしょうし。
笑ってたんじゃないですか。