2016.3.15(火)
「遅かったなあ、あや」
め、という最後の文字は発声されなかった。
それは久美の口の奥、軟口蓋のあたりにひっかかり、留まり、へばり付いた。それは、しつこく粘つく痰のように久美には思えた。が、久美にはどうしても吐き出すことが出来なかった。
あやめの様子は異常だった。
その服装も、顔つきも、立ち居振る舞いも、久美がよく知っているあやめのものではなかった。立ち居振る舞いと云っても、あやめは木偶(でく)のように、ただ立っているだけだった。
久美は一目見て、あやめが尋常の状態ではないことを察知した。そんなあやめを見るのは、久美には初めての事であった。
久美があやめに掛けた中途半端な呼びかけ。それに続くはずの、どないしたん、あやめっ、という言葉も、全く久美の口を出なかった。久美はその言葉を、意識して押し留めた。声に出せなかった。いや、出すまでもなかった。
久美は、部屋に入ってきたあやめを一目見ただけで、全てを察した。先ほどまで考えていたことが現実であったことを久美は即座に察した。
考えていたこと……。
危惧である。
あやめの料理が発覚することへの危惧である。
源蔵に見つかることへの危惧である。
そして、その結果起こるであろうことへの生々しい想像であった。
意識の表層に浮かび上がろうとする危惧。
それを、無理やり押さえつけようとしていた久美であった。
押さえつけようと意識することすら、久美は恐れていた。
しかし、久美のその危惧は現実のものになってしまった。久美は眩暈を感じた。
続けて久美の内部に生じたのは、後悔であった。
取返しのつかない後悔だった。
どす黒い後悔が、低く空を覆う雨雲のように久美の内に沸き上がり、久美の全身を絡め捕った。
(や〔犯〕られよった)
(やられてしもた〔しまった〕)
(あやめ……)
(可哀そうに)
(あやめぇ)
(狂犬に)
(やられてまいよった〔犯されてしまった〕)
(なんでや〔何故だ〕)
(なんでやろ)
(なんでもっと早〔はよ〕う)
(ここ、出て行かんかったんやろ)
(二人で)
(出て行かんかったんやろ)
(無理やりにでも)
(引きずってでも)
(あやめを引きずってでも)
(出て行かなあかん〔行かねばならな〕かったんや)
(あやめは嫌がったやろけど)
(そらあ、野田さんへの思いやろ)
(野田さんを供養したい)
(野田さんの居場所やったここで)
(野田さんを供養したい)
(せやったんやろ〔そうだったんだろう〕)
(出ていこゆうたら〔出て行こうと言ったら〕)
(嫌がったやろ、あやめ)
(ほんでも〔それでも〕)
(ほんでも、出て行くべきやったんや)
(無理やりにでも、そないせなあかんかったんや〔そうしなければならなかったんだ〕)
(うち〔私〕や)
(うちがそないせなあかんかったんや)
(そないすべきやったんや)
(あやめが、自分から出て行くはずない)
(せめて四十九日までは)
(それまでは、ここにおる)
(そない思とった〔思っていた〕はずや、あやめ)
(うち〔私〕や)
(うちの責任や)
(うちがそないせなあかんかったんや)
(うちが、出て行こ、言わなあかんかったんや)
(かんにんや)
(かんにんやで、あやめ)
(かんにん……)
久美の後悔と自責の念は止まらなかった。
久美を苛(さいな)み続けた
久美の唇は乾ききっていた。上下の唇は張り付いたまま、久美の意思に反し、開こうとしなかった。久美は張り付いた唇を抉じ開けるように、無理やり言葉を押し出した。
「あやめ……」
久美は、唇に微かな痛みを感じた。ひび割れたような唇からようやく出た久美の言葉は、その唇と同様にひび割れていた。
「………」
あやめは返事をしなかった。無言のまま、部屋に入ったところに突っ立っていた。その目は、久美を見ていなかった。いや、何も見ていなかった。しかし……。
会話を拒否している、そのようには見えない。
あやめには、久美の言葉が聞こえていないようであった。
「あやめぇ」
「………」
久美は口をつぐんだ。
今のあやめには言葉を掛けても無駄だ。久美はそう判断した。
久美はゆっくり立ち上がった。あやめに近づく、一歩、二歩……。二歩目の足は半歩で止まった。久美の目の前にあやめがいた。久美はゆっくりと右腕を上げ、あやめに向けて伸ばした。腕が伸び切らないうちに、右手の指先があやめの顔の直前に達した。右肘は、まだ軽く曲がっていた。
久美はあやめの視線を捉えようとした。あやめと目を合わせようとした。久美の視線は真正面からあやめの目に向かった。久美の視線の先には間違いなくあやめの目があったがしかし、その瞳はただそこにあるだけだった。ただあるというだけで、何も見てはいなかった。あやめの目はそこにあるが、その視神経は脳と繋がっていない。久美にはそのように思えた。今、久美の前に立っている人物は、本当にあやめなのだろうか。久美にはそのようにさえ思えた。
先ほど久美の内に生じたどす黒い後悔。その悔やみきれない後悔に、疑惑が加わった。
あやめはいったい……。
あやめは、何処に行った……。
(あやめ)
(あやめぇ)
(どないしたん〔どうしたのだ〕)
(どないしてしもたん〔どうしてしまったのだ〕)
(どこ、行ってしもたん〔何処に行ってしまったのだ〕)
(行かんといて〔行かないで〕)
(行かんといてえや)
(行ったらいやや〔行っちゃ嫌だ〕)
(うち〔私を〕置いて、行ったらいやや)
(行かんといてえな)
(行かんといてえな)
(いやや)
久美の両眼から涙が溢れ、頬を伝って滴り落ちて行く。
とめどなく滴り落ちて行く。
久美は泣いていた。
久美は手放しで泣いていた。
声も上げずに号泣していた。
愛おしいものが失われた。
愛おしいものはどこかへ行ってしまった。
愛おしいものは……。
もう、二度と戻って……。
(いやや〔嫌だ〕)
(いややあっ)
(あかん〔駄目だ〕)
(いったらあかん〔行っては駄目だ〕)
(行ったらあかん、あやめ)
(いかせへん〔行かせない〕)
(行かせへん)
(行かせへんで〔行かせはしない〕)
(あやめえっ)
「あやめえっ」
久美の両の唇を割り、心中で上げた絶叫がそのまま噴き出した。
いや、それは雄叫びだった。
闘う者が上げる、何者にも屈服しない者が上げる、諦めることを知らない者が上げる裂帛の気合だった。
それは宣戦の布告、たった一人で上げる鬨(とき)の声でもあった。
(負けるかい)
(負けてたまるかい)
(うちは負けへん)
(負けへんで)
(必ず)
(必ずあやめを)
(取り戻す)
(あやめは必ず取り戻す)
(このままあやめを)
(取られるかい)
(取られてたまるかい)
(あやめはうちのもんや〔私のものだ〕)
(誰にもわたさへん〔渡さない〕)
(渡さへんで〔渡しはしない〕)
(渡してたまるかい)
(舐めんなよ、狂犬)
(舐めとったらあかんぞ、おばはん)
後悔も疑惑も、もはや久美には無かった。
逡巡は欠片(かけら)も無かった。
あるのは闘う意志、不屈の闘志だけだった。
久美は改めてあやめの目を見据えた。
あやめは相変わらず何も見ていなかった。
久美は伸べた右腕を更に少し伸ばした。
右手の指先が軽くあやめの頬に触れた。
あやめは何の反応もしなかった。だが、あやめの体温は、久美の指先から腕を確かに伝わってきた。
あやめの温度だ。あやめだ。あやめは生きている。あやめは間違いなく生きている。
久美は更に半歩、足を送った。
愛しいあやめの体は今、久美の両腕の中に在った。何の反応も返ってこないが、間違いなくあやめだった。久美は、この上なく貴重な、至上の宝物を抱くように、その両腕で、やさしく優しくあやめを掻き抱いた。
久美の手は、いくども幾度も、あやめの背を叩いた。かるく軽く、幼いわが子を愛おしむように、あやすように、いつまでもいつまでも「背中ポンポン」を続けた。
コメント一覧
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1. とっくにたたないHQ- 2016/03/15 11:27
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久美の悔恨
俗に「後悔先に立たず」と申します。
神か悪魔でもない限り、超能力者でもない限り、未来を予見することは出来ません。
しかしそれでも、人知の限りを尽くせば見通せる未来もあるのでしょう。人の悔恨というのはそこに生じます。「あの時ああしていれば」このような思いを抱いたことの無い人はいないでしょう。
それにしても、久美の失ったものはあまりにも大きい。
ひょっとして、あやめのそれより大きいかもしれません。
木偶で腑抜け状態のあやめは、今のところ何の役にも立ちません。
久美は、たった一人でそのあやめをどう支えるのでしょうか。
しかし久美は強い。
不屈の闘志を掻き立て、何者かに宣言します
「負けるかい」
「負けてたまるかい」
「あやめは必ず取り戻す」
何者かに、ではありません。
久美が宣戦を布告した相手は、狂犬源蔵と志摩子女将の極悪コンビ。
徒手空拳の久美は勝てるでしょうか。
あやめは立ち直れるでしょうか。
あやめが立ち直るとき『アイリスの匣』は開き、物語はクライマックスに至ります。
今後の展開に、乞う!ご期待!!
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2. Mikiko- 2016/03/15 18:14
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後悔先に立たず
この、“立つ”はどういう意味なんでしょうね?
まさしく、“stand”でしょうか。
つまり、“後悔”は、露払いのように人の前を歩かず……。
後ろからひっそりと付いてくるという意味でしょうか。
“stand”は、中学1年生で並ぶ英単語。
↓面白いページがありました。
http://www.town.moroyama.saitama.jp/www/contents/1308641279848/index.html
さすがに、わからない単語はありませんでした。
しかし、“skate”や“ski”って、必要な単語ですかね?
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3. ラグビーはトライHQ- 2016/03/16 00:08
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両雄並び立たず
なんてのもありますね。
後悔の場合……「立ち竦む」の立つ。「stand」でしょうかね。
歩いたりはしない、この場合の「先」は時間的な「後先」じゃないですかね。
何かの「行為」がまずあって、少し遅れて「後悔」がどこからともなく登場する……。
そういえば、「後の祭り」なんてのもありました。
しかし、自治体のHPに、なんで英単語が載ってるんですかね。
読み上げソフトのお試し?
「try try try」がありました。
この単語の訳はどうしても「試す」になっちゃうんでしょうが……。
古いSFに『トリフィドの日(トリフィド時代)』というのがあります。この本文中に「try! try! try!」という掛け声?があります。訳は……「やれ!やれ!やれ!」だったかな。“試す”よりもっと切羽詰まった掛け声でした。場面は全く覚えていませんが、物語のクライマックスに近かったと思います。
skate、skiは授業でやるんじゃないですか。わたしはスケートがありました。中学じゃなく、高校の授業でしたが。
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4. Mikiko- 2016/03/16 07:35
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スキー授業
わたしは、小学校と高校でありました。
でも小学校のときは、小雪のためスケート授業に変更されたんです。
スケート靴には、ホッケーとフィギアがありました。
男子はいきがって、ホッケーを選んでましたが……。
すぐに、フィギアに変えてました。
ホッケーの靴は、初心者には難しいんですね。
フィギアの靴は、ブレードの先端にギザギザが付いてて……。
ここで蹴ると、比較的簡単に滑ることが出来ます。
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5. 滑り止めハーレクイン- 2016/03/16 12:00
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スケート靴
ハーフスピード、なんてのもありました。
やはり粋がった野郎が借りてましたが、どうなったかなあ。
わたしは例によって運動は全くダメですから、立つのが精いっぱい。何とかよちよち歩きが出来るようになると、同レベルの女子と手を繋いで滑りました。まあ、軟弱なことです。
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6. Mikiko- 2016/03/16 19:41
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つま先のギザギザで蹴ると……
けっこう走れました。
滑るというより、ほとんど走ってましたね。
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7. スケーターワルツHQ- 2016/03/17 00:41
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走ってどうする
ということは、スケートは苦手、と見た。
わたしのスケート授業は、大阪市内の『ラサスケートリンク』という、屋内スケート場でやりましたが、とっくのとうに閉鎖されちゃいました。
ラサ。
チベットとは何の関係もありません。
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8. Mikiko- 2016/03/17 07:40
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新潟には昔……
駅近くに、『新潟アイスリンク』という施設がありました。
夏期はプールに、冬期はスケートリンクになりました。
なので、新潟市周辺の子は、スケート経験があったのです。
↓『新潟アイスリンク』で著名だったのは、のこいのこが歌ったテレビコマーシャルです。
https://www.youtube.com/watch?v=uh8YSxDAZqA
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9. コマソンハーレクイン- 2016/03/17 08:53
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のこいのこ
1948年生まれの、当年とって68歳。
本名猪子育代(いのこいくよ)、芸名は本名のもじりだそうな。
CMソングの女王。
代表曲は……、
『エバラ焼き肉のたれ』
『サッポロ一番カップスター』
『新潟アイスリンク』(これだな)
『金商ストア』(これは関西ローカルだそうな)など多数。
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10. Mikiko- 2016/03/17 19:41
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CMソングのほかにも……
『ひらけ! ポンキッキ』で使われた『パタパタママ』は、大ヒットしたそうです(オリコン6位)。
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11. ポンキッキHQ- 2016/03/17 21:06
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パタパタママ
知らぬ。