2021.9.19(日)
佐耶は、スカートのウエストに手をやり、カギホックを外した。
ファスナーの擦過音が、異世界が開く音に聞こえた。
実際、異世界は開かれた。
スカートが真下に落ちたのだ。
佐耶はショーツを着けていない。
上は、裾をスカートに入れないオーバーブラウス。
ショート丈だ。
つまり、その裾はお臍の下までしかない。
下腹部は丸出しだ。
アルビノのような真っ白い下腹に、漆黒の陰毛が煙っている。
陰毛が真っ黒なのは、日本人の血が混ざっているからだろうか。
「美咲も脱いで」
「えー、恥ずかしいよ」
「わたしがぜんぜん恥ずかしくないとでも思ってるの?」
「だって、佐耶、スタイルいいから」
「関係ないでしょ。
備わってる器官は同じなんだから。
じゃ、わたしが脱がしてあげる。
そのまま立ってて」
佐耶は、わたしの足元にひざまづいた。
背中越しに、佐耶の丸いお尻が見えた。
頬ずりしたいような、つるつるの肌だった。
佐耶の指が、スカートのホックを外す。
布の上からだけど、人の手が這い回る感触にうっとりとなった。
ファスナーの擦過音の後、風が起きた。
スカートが、落下傘のように落ちたのだ。
佐耶の手が、ショーツにかかった。
唾を飲みこむ。
下腹部に外気を感じた。
普段、決して外気に触れない箇所だ。
お風呂とトイレは別だが、あそこには外気がない。
「美咲……。
すっごい濡らしてる。
パンツ、透けてるよ。
だから、わたしみたいにノーパンで帰れば良かったのに。
これ、お母さんに見せられないよ」
「いつも自分で洗うから。
お風呂で」
「へー。
偉いのね」
「佐耶は洗わないの?」
「うちは、そういうとこの神経、雑な家族だから。
パパのもママのも弟のも、もちろんわたしのも、みーんな一緒。
脱水が終わって、洗濯物引っ張り出すとき、みーんな絡み合っててさ。
なんか、家族全員で乱交してたみたい」
「洗濯ネット、使わないの?」
「だから、雑な家族って言ったでしょ。
ほら、脚」
佐耶に脚を叩かれ、床まで下ろしたショーツを足踏みして抜く。
ファスナーの擦過音が、異世界が開く音に聞こえた。
実際、異世界は開かれた。
スカートが真下に落ちたのだ。
佐耶はショーツを着けていない。
上は、裾をスカートに入れないオーバーブラウス。
ショート丈だ。
つまり、その裾はお臍の下までしかない。
下腹部は丸出しだ。
アルビノのような真っ白い下腹に、漆黒の陰毛が煙っている。
陰毛が真っ黒なのは、日本人の血が混ざっているからだろうか。
「美咲も脱いで」
「えー、恥ずかしいよ」
「わたしがぜんぜん恥ずかしくないとでも思ってるの?」
「だって、佐耶、スタイルいいから」
「関係ないでしょ。
備わってる器官は同じなんだから。
じゃ、わたしが脱がしてあげる。
そのまま立ってて」
佐耶は、わたしの足元にひざまづいた。
背中越しに、佐耶の丸いお尻が見えた。
頬ずりしたいような、つるつるの肌だった。
佐耶の指が、スカートのホックを外す。
布の上からだけど、人の手が這い回る感触にうっとりとなった。
ファスナーの擦過音の後、風が起きた。
スカートが、落下傘のように落ちたのだ。
佐耶の手が、ショーツにかかった。
唾を飲みこむ。
下腹部に外気を感じた。
普段、決して外気に触れない箇所だ。
お風呂とトイレは別だが、あそこには外気がない。
「美咲……。
すっごい濡らしてる。
パンツ、透けてるよ。
だから、わたしみたいにノーパンで帰れば良かったのに。
これ、お母さんに見せられないよ」
「いつも自分で洗うから。
お風呂で」
「へー。
偉いのね」
「佐耶は洗わないの?」
「うちは、そういうとこの神経、雑な家族だから。
パパのもママのも弟のも、もちろんわたしのも、みーんな一緒。
脱水が終わって、洗濯物引っ張り出すとき、みーんな絡み合っててさ。
なんか、家族全員で乱交してたみたい」
「洗濯ネット、使わないの?」
「だから、雑な家族って言ったでしょ。
ほら、脚」
佐耶に脚を叩かれ、床まで下ろしたショーツを足踏みして抜く。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2021/09/19 05:39
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今日は何の日
9月19日は、『子規忌』。
明治時代の俳人で歌人の正岡子規(まさおか しき/1867~1902)の忌日。
秋の季語。
この日は「子規忌(しきき)」のほかに……。
辞世の句「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」など、三句にヘチマが詠みこまれていることから「糸瓜忌(へちまき)」。
別号として獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)を用いたことから、「獺祭忌(だっさいき)」とも呼ばれます。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/10919a2.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「正岡子規について」を引用させていただきます。
1867年10月14日(慶応3年9月17日)……。
伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に、長男として生まれます。
本名は常規(つねのり)。
幼名は処之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)。
父の常尚は、松山藩士。
母の八重は、藩の儒者だった大原観山(おおはら かんざん)の長女。
1872年(明治5年)、幼くして父を亡くし家督を相続。
外祖父である観山の私塾に通い、漢学を学びます。
少年時代は、漢詩、戯作、軍談、書画などに親しみました。
1883(明治16)年、旧制松山中学(現:松山東高等学校)を中退し上京。
東大予備門(後の第一高等学校)に入学し、小説家の夏目漱石(なつめ そうせき)を知ります。
このころから、和歌や俳句を作り始めました。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2021/09/19 05:40
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今日は何の日(つづき)
引用を続けます。
1892(明治25)年、帝国大学(現:東京大学)国文科を中退。
同年、新聞『日本(にっぽん)』の記者となります。
1893(明治26)年、『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』を連載し、俳句の革新運動を開始。
1894(明治27)年、日清戦争が勃発。
翌1895(明治28)年、従軍記者として中国へ赴きますが……。
その帰路に喀血し、松山に帰郷。
「血を吐くまで鳴く」と言われるホトトギスと、結核を病み喀血した自分自身を重ね合わせ……。
ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号としました。
その当時、松山中学で英語教師をしてた漱石の下宿に同居して過ごし、俳句会などを開きますが……。
帰京後は、長い病床生活に入ることになります。
1898(明治31)年、歌論『歌よみに与ふる書』を『日本』紙上に発表。
根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めます。
根岸短歌会は、後に歌人の伊藤左千夫(いとう さちお)、長塚節(ながつか たかし)らにより……。
短歌結社『アララギ』へと発展していきます。
写生文を試み、随筆『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)(1901年)』『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)(1902年)』……。
日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)(1901~02年)』などを書きます。
1902(明治35)年9月19日、脊椎カリエスにより死去。
34歳。
東京都北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)に眠ります。
続きはさらに次のコメントで。
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3. Mikiko- 2021/09/19 05:40
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今日は何の日(つづきのつづき)
さらに引用を続けます。
俳句や短歌、新体詩、小説、評論、随筆など、多方面にわたり創作活動を行い……。
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人です。
生涯に20万を超える句を詠んだ子規の作品の中で……。
最も有名な句は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」です。
1981(昭和56)年、松山市に「子規記念博物館」が開館しました。
なお、俳句雑誌『ホトトギス』は、1897年(明治30年)に……。
子規の友人である俳人の柳原極堂(やなぎはら きょくどう)により、松山で『ほとゝぎす』として創刊されました。
その誌名は子規の俳号にちなみ、後に『ホトトギス』となりました。
夏目漱石が、小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを発表したことでも知られます。
以上、長い引用を終わります。
しかし、代表句が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」というのは、ちとどうかと思います。
わたしが、もう少しあげてみます。
もちろん、わたしが好きな句です。
と思ったら、残念ながら、ありませんでした。
有名な句では、「鶏頭の十四五本もありぬべし」がありますが……。
わたしはあまり好きではありません。
実際、この句の評価を巡っては、鶏頭論争と言われる論争が起こったそうです。
詠んだ子規には、問題提起のつもりなどなかったのかも知れませんが。
でも、短歌には好きな歌がありました。
●くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
春雨の風情が、肌に伝わってくるようです。
早くも、こんな春が懐かしいですが……。
あと半年も先です(泣)。