2021.6.2(水)
絵里子は、冷蔵庫から缶をひとつだけ持って戻った。
「どうぞ」
美咲の前に缶を掲げる。
「あ、すみません」
美咲がグラスを両手で持って差し出した。
やはり、お酌する方が、相手に多く呑ませられる。
「絵里子さんもどうぞ」
美咲はグラスを置くと、絵里子の持つ缶に手を伸ばした。
缶を渡す。
指が触れた。
滑らかで若々しい感触だった。
「ところで、さっき途中だったじゃない」
「え?」
「もうひとつすることが減ったから……。
飲むことが増えたって」
「あ」
「何なの?」
「えーっと。
妊活です」
「不妊治療ってこと?」
「いいえ。
そんなんじゃないんです。
お医者さんに見てもらったわけじゃありませんから」
「どんなことするの?」
「単に、可能性の高い日を計算して……。
その日には、主人にも早く帰って来てもらうとか。
当然、その日はお酒も控えますし」
「あー。
おセックスの日を決めてたってこと」
「はい。
でも、主人は営業部なので、お酒の席も多くて。
妊活の日に、急に飲むことになったりするわけです。
仕事だとわかってはいても……。
ちょっと頭に来てしまいます。
こっちは、お酒も飲まないで待ってるのに」
「なるほど。
そういうことが続けば、ちょっとギクシャクしちゃうわね」
「だから、止めたんです。
完全に自然に任せようって。
出来なかったら、2人で生きていけばいいんだって」
「どうぞ」
美咲の前に缶を掲げる。
「あ、すみません」
美咲がグラスを両手で持って差し出した。
やはり、お酌する方が、相手に多く呑ませられる。
「絵里子さんもどうぞ」
美咲はグラスを置くと、絵里子の持つ缶に手を伸ばした。
缶を渡す。
指が触れた。
滑らかで若々しい感触だった。
「ところで、さっき途中だったじゃない」
「え?」
「もうひとつすることが減ったから……。
飲むことが増えたって」
「あ」
「何なの?」
「えーっと。
妊活です」
「不妊治療ってこと?」
「いいえ。
そんなんじゃないんです。
お医者さんに見てもらったわけじゃありませんから」
「どんなことするの?」
「単に、可能性の高い日を計算して……。
その日には、主人にも早く帰って来てもらうとか。
当然、その日はお酒も控えますし」
「あー。
おセックスの日を決めてたってこと」
「はい。
でも、主人は営業部なので、お酒の席も多くて。
妊活の日に、急に飲むことになったりするわけです。
仕事だとわかってはいても……。
ちょっと頭に来てしまいます。
こっちは、お酒も飲まないで待ってるのに」
「なるほど。
そういうことが続けば、ちょっとギクシャクしちゃうわね」
「だから、止めたんです。
完全に自然に任せようって。
出来なかったら、2人で生きていけばいいんだって」
コメント一覧
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1. Mikiko- 2021/06/02 05:35
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今日は何の日
6月2日は、『甘露煮の日』。
甘露煮メーカーとして知られる『㈱平松食品/愛知県豊橋市』が、2003(平成15)年に制定。
日付は、佃煮誕生のきっかけとなったとされる「本能寺の変(天正10年6月2日)」に由来し……。
さらに、甘露煮の「ろ(6)に(2)⇒露煮」と読む語呂合わせから。
惣菜感覚の佃煮として人気の高い甘露煮を、もっと多くの人にPRすることが目的。
同社では、この日を中心に、お得な「甘露煮の日フェア」や特別な「工場見学」を実施してます。
記念日は、『(社)日本記念日協会(https://www.kinenbi.gr.jp/)』により認定、登録されてます。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/106025.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「甘露煮と佃煮について」を引用させていただきます。
甘露煮とは、フナ、コイ、ハゼ、アユ、ニジマスなど、主に淡水の小魚を素焼きした後……。
砂糖または水あめ、醤油、みりん、酒などを加えて甘辛く煮つめたもの。
佃煮とは、小魚、貝、海藻、野菜などを、醤油、みりん、砂糖などで煮つめたもの。
甘露煮が甘辛いのに対して、佃煮は醤油の塩辛さが特徴。
保存性が高く、江戸時代から常備食として重宝されてきました。
佃煮という名前は、江戸時代に佃島(現:東京都中央区)で作り始められたことに由来します。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2021/06/02 05:35
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今日は何の日(つづき)
さらに同じページから、『「本能寺の変」と佃煮について』を引用させていただきます。
1582(天正10)年6月2日(今から439年前)……。
明智光秀の謀反により、織田信長は京都の本能寺で倒れました。
その時、信長の盟友だった徳川家康は、大阪の堺にいました。
信長が討たれたことを知り、身の危険を感じた家康は……。
三河国「岡崎城(現:愛知県岡崎市)」に逃げ戻ろうとしました。
陸路はすべて塞がれていたため、海路での脱出を図りました。
その途中、摂津国にあった佃村(現:大阪府西淀川区)の漁師から……。
道中食として差し出された、保存食の小魚煮のおかげで無事に帰り着くことができたのです。
1600(慶長5)年、関が原の戦いを征した家康は……。
その3年後、江戸に幕府を開き、佃村の漁師を御用漁師として呼び寄せました。
そして彼らを江戸の小島に住まわせ、その島を佃島と名付けたのです。
佃島で作られた佃煮は……。
参勤交代に訪れた大名たちにより、江戸名物の土産物として全国に広まっていきました。
以上、引用終わり。
「本能寺の変」の下りは、「佃煮の日(6月29日)」の回で書いた覚えがあります。
甘露煮も佃煮も、自分で買って食べたことはありません。
佃煮は、ときおりお中元などで送られてきたことがありました。
ま、最後までいただきましたが……。
味が気に入って、自分で買おうと思ったことは1度もありません。
佃煮は、主に海の魚や貝が原料なんですかね。
佃村や佃島で採れる魚介類なわけですから。
それに対して甘露煮は、川魚が材料ということですか。
イメージですが、甘露煮の方が、魚のサイズが大きい気がします。
続きはさらに次のコメントで。
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3. Mikiko- 2021/06/02 05:36
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今日は何の日(つづきのつづき)
遙か昔から、海に囲まれ、多くの川が流れる日本では……。
魚がたくさん獲れました。
しかし、いくらたくさん獲れても……。
そのままでは、腐らせてしまうだけです。
日保ちさせるために……。
甘露煮や干物の技術が進歩したわけですね。
ところで、話は遙か昔に遡って……。
縄文時代。
狩猟採取で生計を立ててたころ。
教科書の挿絵でには、丸木の小舟で荒海に漕ぎ出し……。
命がけで漁をする縄文人が描かれてました。
実際、精巧な銛や鉤の遺物が出てますから……。
そういう想像がされても当然でしょう。
しかし……。
はたしてそうだったんでしょうか?
縄文時代は温暖で、当時の人口からすれば……。
海の資源は、無尽蔵と云ってもいいと思います。
そんな危険な漁に出る必要があったんでしょうか?
簡単な罠や網を仕掛けておけば……。
その日に食べる魚は獲れたと思うんですよ。
その担当は、女や子供じゃなかったんでしょうか。
それでは、男はなぜ、荒海に出たのか?
わたしは、縄文の男にとっての狩猟や漁労は……。
レジャーだったと思うんです。
あんな精巧な鉤なんかは、まさに趣味のハンドメイドです。
よくできたものは、使わないで飾っておいたんじゃないですか。
だから、あれだけ残ってるわけです。
で、その日の魚釣りから帰ったら……。
鉤を眺めながら、クコ酒で一杯。
いい人生だったんじゃないでしょうか。
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4. 手羽崎 鶏造- 2021/06/02 19:41
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大坂の佃村説はよく議論になります。
堺から岡崎に逃げ帰るのに、なんで
逆方向の西淀川区にわざわざ寄るのか?
という疑問ですね。
信長と家康の関係についても諸説あります。
ワタシは、明智家と同じ桔梗の家紋という
こともあり、光秀贔屓の明智憲三郎氏の説がスキです。
憲三郎氏は信長による家康暗殺企て説です。
本能寺に家来が少なかったのは偶然でも
油断でもなく、堺から京に呼び寄せる家康に
「警戒するなよ。ほら、こんなに兵力は居ないから」
と安心させるためであったと推測します。
その企てを光秀は知っていたと考え、さらに
そのことをこっそり光秀は家康に伝えていた
(だから準備周到帰郷出来た)と、
その日時・場所までも推理しています。
だから家康は光秀に恩義を感じ、光秀の
腹心の娘・お福(後の春日局)を生涯、
大事に扱ったのだと展開しています。
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5. 手羽崎 鶏造- 2021/06/02 20:00
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続きです。
本能寺の変の直後、家康は「伊賀越えルート」で
本拠地・岡崎に帰ったというのが通説です。
この途中、味方に引き入れたのが服部半蔵だった
というのも有名な話です。
つまり海路は使っていないにも関わらず、なんで
経路上に位置しない今の西淀川区・佃村説が
残っているのか。
ワタシは嘘・デタラメではなく、佃村の民は関与して
いたのではないかと考えています。
あらかじめ事態の急変(自分こそが危ない)と察知
した家康は、急いであらゆる準備をした、食料・兵站
についてもそうで、エネルギー源の佃煮を佃村ではない
道中で入手した可能性を推測しています。
伊賀越えの道中、襲われることを危惧した相手というのは
実は明智勢ではないと思います。
光秀が味方になってくれと密書を送ったのに応じなかった
武将・実力者があの地を支配していた筈です。
ワタシの仮説は、光秀と家康は実は「二人の仲は
出来ていた」説なんです。
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6. Mikiko- 2021/06/03 05:54
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佃村がそういう位置関係にあることは……
初めて知りました。
でも、真っ直ぐ岡崎に向かったら、追いつかれると思ったんじゃないですか。
で、あえて逆方向に逃げた。
案外、佃村の漁師のことは、前から知ってたのかも?
漁師に化けて、舟で逃げるつもりだったのかも知れません。
でも、こんなデブの漁師じゃすぐバレると言われ……。
陸路に変更したのでは?
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7. 手羽崎 鶏造- 2021/06/04 06:45
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「国盗り物語」の影響でしょうか、家康が
堺でのんびり「物見遊山」していたとあるのは
正確ではないと思います。
堺の豪商らと情報交換していたのは間違いなく
信長に京都に来るよう命じられていたのも
事実のようです。
したがって本能寺の変は、京に近い枚方(ひらかた)
付近で知ったようで、今の西淀川区佃には寄った形跡も
遠回りする道理もないと考えられます。
ワタシはあくまでも突拍子もない仮説ではありますが、
もし、家康と光秀の仲が濃いものであったなら、家康は
いったい何(誰)を怖れていたのか?
ワタシは光秀軍ではなかった!というのが自説です。
光秀の援軍要請に応じなかった筒井順慶(大和支配)
の軍事力かもしれませんし、伊賀独自の一揆勢も存在
していたでしょうし、混沌としていた世相、野武士による
武者狩りも横行していたと考えられます。
何より、本能寺直後の光秀勢は安土城攻略等
超緊迫、で家康を探索する余裕が有ったとは思えません。
光秀と家康の蜜月説にこだわって
います
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8. Mikiko- 2021/06/04 08:12
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筒井順慶
知ってます。
洞ヶ峠ですよね。
別名、日和見順慶。
筒井康隆に『筒井順慶』という作品がありますが……。
康隆氏は、順慶の子孫ではないそうです。