2021.2.15(月)
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「隠れ場所から出て行けば気づかれるだろうし……。
早く立ち去ってほしいと思ってました。
そしたらその男の子……。
学生ズボンのチャックを開けて、何かを出したんです。
それが何かは、すぐにわかりました。
幼いころ、父親とお風呂に入ったとき見たものです。
おちんちんです。
おしっこをするつもりなのかと思いました。
でも、父親のとは、形状が違ってました。
それが、“勃起”してる状態であることは、さすがに知識として知ってました。
息を殺して見てると……。
男の子は、自分のおちんちんを掴んで、扱き始めたんです。
あっという間でした。
先端から噴き出した白いものが、フェンスの編み目を抜けていきました。
それが“射精”だということも、知識では知ってました。
でももちろん、見るのは初めてでした。
男の子は、フェンスに頭を押しつけて、しばらく固まってました。
でも、ようやくフェンスを離れると、ズボンの前を仕舞い、ふらふらと立ち去って行きました。
男の子の姿が塔屋に消えるのを確認し……。
隠れ場所から出ました。
男の子の立ってた場所に駆け寄りました。
ありました。
フェンスの土台のコンクリートに、点々と濡れた跡が。
ほとんど透明でしたが……。
大きい飛沫には、白い部分も残ってました。
わたしは、それに手を伸ばしました。
不潔な感じはしませんでした。
その男の子は、何ていうか、植物的な感じの子だったんです。
そしてわたしは、その子のことが少し好きでした。
その子の体内から出た液体が目の前にある。
伸ばした指で掬いました。
もう、体温は感じられませんでした。
なんだか、すぐにでも消えてしまいそうでした。
返した指に、鼻を近づけてみました。
衝撃でした。
やはりその男の子は、植物だったんだと思いました。
そのころ、通学途中にあるこんもりとした木から、とても強い匂いがしてたんです。
その匂いと一緒でしたから」
「シイの木の花だね」
「そうなんですか」
「6月ころだろ」
「そうです。
この街にもあるんですよ」
「最近は、庭にシイの木のあるようなお屋敷は少なくなったけどね」
「公園です」
「隠れ場所から出て行けば気づかれるだろうし……。
早く立ち去ってほしいと思ってました。
そしたらその男の子……。
学生ズボンのチャックを開けて、何かを出したんです。
それが何かは、すぐにわかりました。
幼いころ、父親とお風呂に入ったとき見たものです。
おちんちんです。
おしっこをするつもりなのかと思いました。
でも、父親のとは、形状が違ってました。
それが、“勃起”してる状態であることは、さすがに知識として知ってました。
息を殺して見てると……。
男の子は、自分のおちんちんを掴んで、扱き始めたんです。
あっという間でした。
先端から噴き出した白いものが、フェンスの編み目を抜けていきました。
それが“射精”だということも、知識では知ってました。
でももちろん、見るのは初めてでした。
男の子は、フェンスに頭を押しつけて、しばらく固まってました。
でも、ようやくフェンスを離れると、ズボンの前を仕舞い、ふらふらと立ち去って行きました。
男の子の姿が塔屋に消えるのを確認し……。
隠れ場所から出ました。
男の子の立ってた場所に駆け寄りました。
ありました。
フェンスの土台のコンクリートに、点々と濡れた跡が。
ほとんど透明でしたが……。
大きい飛沫には、白い部分も残ってました。
わたしは、それに手を伸ばしました。
不潔な感じはしませんでした。
その男の子は、何ていうか、植物的な感じの子だったんです。
そしてわたしは、その子のことが少し好きでした。
その子の体内から出た液体が目の前にある。
伸ばした指で掬いました。
もう、体温は感じられませんでした。
なんだか、すぐにでも消えてしまいそうでした。
返した指に、鼻を近づけてみました。
衝撃でした。
やはりその男の子は、植物だったんだと思いました。
そのころ、通学途中にあるこんもりとした木から、とても強い匂いがしてたんです。
その匂いと一緒でしたから」
「シイの木の花だね」
「そうなんですか」
「6月ころだろ」
「そうです。
この街にもあるんですよ」
「最近は、庭にシイの木のあるようなお屋敷は少なくなったけどね」
「公園です」
コメント一覧
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1. Mikiko- 2021/02/15 06:11
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今日は何の日
2月15日は、『西行忌』『兼好忌』。
「西行忌」は、平安後期の歌人・西行法師(さいぎょうほうし)の1190(文治6)年の忌日(旧暦)。
法名の円位(えんい)から、「円位忌」とも称されます。
実際に亡くなったのは、旧暦2月16日ですが……。
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」の歌より、前夜の2月15日が忌日とされてます。
1190年の2月15日を新暦に換算すると、3月22日にあたります。
西行は、1118(元永元)年、武家に生まれました。
武士であり、僧侶、歌人でもあります。
俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。
鳥羽院(とばいん)に、北面武士(ほくめんのぶし:身辺を警衛する武士)として仕えます。
平清盛(たいら の きよもり)、平時忠(たいら の ときただ)、崇徳院(すとくいん)、徳大寺実能(とくだいじ さねよし)らと交わります。
23歳で出家して、法号は円位、後に西行、大本房、大宝房、大法房とも称します。
仏道修行、和歌に励み、諸国を遍歴。
仏教観を基として、独自の抒情歌を確立。
72歳で死去。
和歌は、約2300首が伝わります。
『新古今集(しんこきんしゅう)』に94首が収められ、家集に『山家集(さんかしゅう)』など。
その逸話や伝説を集めた説話集に、『撰集抄(せんじゅうしょう)』『西行物語』があります。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/102155.html)のページから転載させていただきました。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2021/02/15 06:11
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今日は何の日(つづき)
引用を続けます。
「兼好忌」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての歌人で随筆家の吉田兼好(よしだ けんこう)の1350(正平5)年の忌日(旧暦)。
ただし、忌日については諸説があり確定してません。
1352(正平7)年にはまだ存命だったという説もあります。
ちなみに、1352年の2月15日を新暦に換算すると、3月1日にあたります。
兼好は、1283(弘安6)年ころに生まれたとされます。
本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。
一般に「吉田兼好」と呼ばれますが、これは兼好の生家である卜部家が京都の吉田神社の神官をしており……。
その子孫が吉田姓を名乗ったためであり、江戸時代以降、吉田兼好と通称されるようになりました。
また、出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ……。
中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表してます。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集に『兼好法師家集』があります。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/102156.html)のページから転載させていただきました。
以上、引用終わり。
続きはさらに次のコメントで。
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3. Mikiko- 2021/02/15 06:12
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今日は何の日(つづきのつづき)
吉田兼好の『徒然草』には、興味深い記述があります。
「家の作りやうは夏を旨(むね)とすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ悪き住まひは、耐へ難き事なり」
家は、夏のことを考えて作れということです。
当時はもちろん、冷房はありません。
どんなに暑くても、ウチワだけです。
冬なら、着こんで火を焚けば、なんとか暖を取れるわけです。
それだけの記述でしょうか。
でも、底冷えのする京都ですよ。
火鉢程度の暖房で、「冬はいかなる所にも住まる」と言えたのでしょうか。
実は、背景があります。
この時代は、世界的に暖かかったんです。
中世温暖期と呼ばれます。
日本では、平安時代から鎌倉時代にかけてです。
実際、日本の沿岸地域からは、この時代の遺物が出ません。
なぜなら、そのころ、今の沿岸地域は海の底だったからです。
平安海進と呼ばれます。
海面温度は、今より3度も高かったとか。
つまり、吉田兼好の生きた時代は……。
夏は、耐えがたいほど暑かったわけです。
「冬はいかなる所にも住まる」と言えるほどだったのでしょう。
地球温暖化対策が叫ばれてますが……。
現在が、地球史上最も温暖化が進んでる時代ではないこと。
このことは、忘れてはいけないと思います。
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4. 手羽崎 鶏造- 2021/02/16 04:13
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「諸国を遍歴」した歴史上の人物は
数あれど。
その裏に、それを可能にした財力(スポンサー)と
その黒幕(フィクサー)の存在・狙いが有るように
思えてなりません。
「仏の教え」とか「俳諧の道」とかを口実にすれば
いいだけのことで、訪ねた地の軍事的・政治的
な何かを把握したかったその手先という要素も
有ったと考えた方が自然でしょう。
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5. Mikiko- 2021/02/16 05:55
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松尾芭蕉は……
公儀隠密だったという節があります。
俳人は、最高の隠れ蓑じゃないですか。
わたしは、奥の細道の句は……。
出発前に、ほとんどすべて出来上がってたと思います。
その句を本物にするために、現地を訪ねて行ったのでしょう。
句と違うお天気のときなど、何日も待ったんじゃないですかね。
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6. 手羽崎 鶏造- 2021/02/16 09:11
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芭蕉は伊賀上野の出身ですから
忍術・鍛錬の素地が有ったことは容易に
推測出来ます。
だから、あれだけの長距離を歩けたのでしょう。
一番の狙いは、地方の藩の勢力(経済力・軍事力・
統治力)把握にあったろことはまず間違いないでしょうね
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7. Mikiko- 2021/02/16 19:25
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ひょっとしたら……
松尾芭蕉は、1人ではなかった可能性もありますね。
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8. 手羽崎 鶏造- 2021/02/17 11:17
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なるほど、芭蕉複数説。
有るかもしれませぬ。
同行した僧侶?が居ましたな。
コイツがまたいかにも胡散臭い。
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9. Mikiko- 2021/02/17 18:15
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同行者は……
河合曾良ですね。
僧侶だったこともあったんですかね?
「奥の細道」の後、曾良は……。
将軍家宣の命により、幕府の巡見使随員となり九州を廻るとあります。
やはり、怪しい。