2016.3.1(火)
床に蹲(うずくま)るあやめの頭上から、野獣の唸り声が降ってきた。その声には、先ほど感じられた柔らかさは微塵もなかった。
「立たんかい、ど新入り」
あやめは、少し首を擡(もた)げた。その目に、厨房用の高下駄を履いた裸足の足が入った。野獣、関目源蔵の後足であった。
あやめは、萎えた肘を突っ張り上体を起こそうとしたが、腕の筋肉には全く力が入らなかった。
踠(もが)くあやめの襟首に、野獣の前足が掛かった。あやめは、料理人服の襟を掴まれ、無理やり全身を引き上げられた。恐ろしい膂力(りょりょく)だった。あやめは、幼い子供のように無力だった。まったく無抵抗のまま、厨房の床に立たされた。
源蔵の顔が間近にあった。野獣の呼気があやめに吹き付けられた。野獣が歯を剥き出し、軋り声を上げた。
「おう、ど新入り」
「………」
「おまん(お前)に、罰は与えた」
「………」
「おまんにとって、これ以上の罰は無いやろ」
「………」
「怨むんやったらなんぼでも怨め」
「………」
「仕返ししたかったら、してもええで」
「………」
「いつでも受けたる」
軋るような野獣の唸り声は、どことなく楽しそうであった。
「まあ、それはそれとして、今度は褒美や。おまん(お前)に褒美、やる」
「……ほう、び……」
あやめは、ようやく声を返した。あやめは、誰か他人のもののように自分の声を聞いた。嗄(しわが)れた老婆の声であった。
あやめ自身にわかるはずもないが、その表情も老婆のそれに見えた。年老い、疲れ切った老婆の貌(かお)であった。
「せや。さっきのおまんの料理は、ほんまに見事なもんやった。その、褒美やがな」
「りょう、り……」
あやめの声は譫言(うわごと)のようになった。その思考はまったく纏(まと)まりを欠き、かろうじて漏らす言葉は、源蔵の言葉を鸚鵡返しに繰り返すだけだった。
「せや。椀と八寸やったやろが」
「わんと……はっすん……」
「なんじゃい、忘れたんかい。美味い、て褒めたった(褒めてやった)やろが」
「褒める……兄さん、が……」
「儂が褒めたんがおかしいか」
「兄さんが、褒めた……」
「はは。まあ確かに、めったにせんわな(しないな)」
「………」
「で、その褒美、やろっちゅう(あげようという)んやないか」
「ほう、び。くれる……。兄さん、が……」
「せや。こっち来い」
源蔵は、立たせたあやめを軽々と反転させ、背後から抱え込んだ。両腕をあやめの両腋下から前へ通し、肘を返して、あやめの後頭部で両手を組んだ。格闘技でいう羽交い絞め、フル…ネルソンなどと呼ばれる技法で、相手を制する効果が大きいとされる。暴行や強姦行為などでもよく見られる体勢であった。
だが、今のあやめは、このような技法で制するまでもない、いわば腑抜けた状態であった。源蔵の意図は、放っておけば崩れてしまいそうになるあやめを、立たせておくことにあるのだろう。
この体勢から手首と肘を張れば、相手の首を圧迫し苦痛を与えることが出来るのだが、源蔵はそうはしなかった。その必要もなかった。
腑抜けたあやめは、源蔵の為すがままだった。
「行くで、ど新入り」
源蔵は、前方に軽く一歩踏み出した。
その動きに背後から押され、あやめも一足(ひとあし)前に進んだ。あやめの足取りは、いかにも頼りなかった。源蔵が羽交い絞めで支えていなければ、その一足であやめは頽(くずお)れていただろう。
源蔵がもう一歩、前に出た。
再び押されたあやめも、もう一足進んだ。二人のその動きは、道を見失った幼子のようなあやめに、進むべき方向を源蔵が示しているようにも見えた。
あやめの下腹に、調理台の縁が当たった。その感触を捉えたか、源蔵はそれ以上足を踏み出すことをしなかった。あやめと源蔵は、同じ方向を向いて前後に重なり合い、調理台のすぐ手前に立ち尽くした。
源蔵は、羽交い絞めの両腕を、あやめの両腋から抜いた。
源蔵に支えられていたあやめの上体が軽くぐらついた。あやめの膝が折れそうになった。そのままにして置けば、あやめは調理台のすぐ前の床に頽(くずお)れただろう。
しかし、源蔵はそうはさせなかった。
あやめの背が、恐ろしい力で押された。
源蔵の手が、あやめの背後からその上体を押し下げたのだ。
腑抜けたあやめは、何の抵抗も見せずに調理台に突っ伏した。あやめは、片頬を調理台の表面に押し付け、その体重のほとんどを調理台に預けた。
萎えたあやめの両脚は、体重を支える役目を免れた。あやめの下半身に掛かっていた上半身の荷重が失せ、その両脚はだらりと垂れ下がった。
あやめの両足から、履いていた下駄が脱げ落ちた。野田太郎の、今は形見となった古びた高下駄だった。
源蔵は、少し体を動かし、あやめの斜め後方に移動した。その体は、あやめにほとんど密着するほどの距離にあった。源蔵の高下駄に、あやめの足から脱げ落ちた下駄が触れ、小さく乾いた音を立てた。源蔵は軽く見下ろした後、煩(うるさ)そうにその下駄を蹴り飛ばした。あやめの高下駄は、両足のものがきれいに揃って厨房の床を転がり、少し先の調理台にぶつかって止まった。先ほどより少し大きく、が、やはり乾いた音が厨房内に響いた。
あやめはその間、一言も発することなく、身じろぎ一つしなかった。両目は軽く閉じていた。あやめは、自失しているようにも、安らかに眠っているようにも見えた。
源蔵は、その左手で改めてあやめの背を抑え込んだ。
あやめは、抵抗することも、些かの反応をすることもなかった。源蔵の為すがままだった。
源蔵の右手があやめの腰に伸びた。あやめの下半身を包んでいる料理人服のズボン。その腰の部分はゴムで締めてある簡素なものであった。このゴムの部分に手を掛け、源蔵は躊躇なく一気にに引き下ろした。あやめのズボンは、下着ごとあっさりと引き下ろされ、あやめの脚から引き抜かれた。あやめの下半身が剥き出しになった。
厨房天井の照明の下、あやめの尻の白さは圧倒的だった。服の上からではよくわからないが、あやめの尻の盛り上がりは見事だった。
普段のあやめは、特に運動をしているわけではなく、何らかの鍛錬を行っているわけでもない。しかし、あやめの日常は、目覚め、起き、活動している間は、そのほとんどの時間を立ち仕事に費やしていた。しかも、現在のあやめの仕事は、追い回しとして絶え間なく厨房内を駆け回ることであった。あやめの一日の移動距離はどれほどのものだったろう。その日常が、あやめの下半身を鍛え上げていた。
あやめの尻は見事に引き締まり、鍛え上げられたアスリートのそれを思わせた。しかし、尖ったところは少しもなく、その滑らかな丸みはどこか誇らしげに、匂うような女の風情を漂わせていた。
すらりと伸びるあやめの両脚には、贅肉一つなかった。尻から腿へ、腿から脹脛へ続く滑らかな曲線は、譬えようもないほど美しかった。
下半身を裸に剥かれても、あやめは何の反応も示さなかった。あやめの剥き出しの下半身は、厨房内の少し冷えた空気に曝され軽く鳥肌が立ったが、あやめはそれにも無関心のようであった。
あやめは、冷たい調理台の表面に突っ伏したまま、相変わらず眠ったように両目を閉じていた。
「おう、上向け、ど新入り」
あやめが悲鳴を上げるか、泣き喚きでもするかと考えていたか、源蔵は少し拍子抜けしたように声を掛けてきた。
その声にも、あやめは反応しなかった。
少し苛立ったように、源蔵はあやめの肩に手を掛けた。荒々しい仕草であやめを反転させた。
調理台に仰向かされたあやめは、まだ目を閉じたままだ。その無表情な顔には、何の感情も現れていなかった。
源蔵は軽く舌打ちをした。いつ脱いだのか、源蔵の下半身もあやめと同様剥き出しになっていた。
つい先ほど、志摩子の体内に強(したた)かに放った源蔵の陰茎は、再び固く、隆々と立ち上がっていた。その亀頭は大きく張り出し、艶々(つやつや)と天井の照明を反射していた。源蔵は、掌に取った自らの唾液に、どっぷりと亀頭を浸した。
野獣が唸り声を上げた。その声は、捕らえた獲物を引き裂く肉食獣の、歓喜の雄叫びに聞こえた。
「褒美、やる。ほれ」
野獣は、陰茎の先、てらてらと光る巨大な亀頭を、あやめの膣に捻(ね)じ込んだ。
あやめの体には激痛が生じたが、あやめは他人事のようにその感覚を受け流した。
源蔵の陰茎は赤く染まっていた。「花よ志」の厨房内には、歓喜とも憤怒ともつかぬ、歯軋りを伴った野獣の唸り声が響いた。
源蔵は、泣いているようにも見えた。
コメント一覧
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1. 予定調和ハーレクイン- 2016/03/01 14:41
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やられちゃいました
あっさりやられちゃいました。
あやめがやられちゃいました。
主人公がやられちゃいました。
やられるなら久美やろ(なんやと、こら;久美)
あやめがやられちゃいました
狂犬にやられちゃいました。
愛用の包丁に続き、本人がやられちゃいました。
うーむ。
あやめの受難、その3です。
まあしかし。
作者としましては予定通りです。
予定通りにあやめをやるために、
これまで志摩子や花世やらの、エッチシーンを書いてきたのです。
何のためにあやめをやる。
それはもちろん、匣を開けるためです。
つまり、ここまでのあやめの試練は、
すべてクライマックスへの伏線なんですね。
それにしては、エッチ度が希薄です、あやめ-源蔵の媾合。
(なんや、これで終わりかい)
あやめ可愛さに筆が鈍ってしまいました。
物書き失格でございます。
まあもちろん、あやめには気の毒ですが、
すべては物語のため。
主人公の人生が波乱万丈なのは、物語の常道です。
(手垢がついている、とも)
今後もよろしくお付き合いください。
しかし、包丁をやられた直後から、
あやめは放心状態(マグロ状態とも)。
何をされても反応がありません。
こんなあやめをやって楽しいかね、源蔵さんよ。
まあ、狂犬だからな。
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2. Mikiko- 2016/03/01 19:50
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包丁1本
わたしは、百均の包丁しか買ったことがないので……。
包丁に思い入れは、まったくありません。
母は、たまにスーパーに回ってくる、包丁研ぎのサービスを利用してます。
包丁を研いでもらう料金で、十分使える包丁が買えると思うのですがね。
なのでわたしは、今回のあやめには、不甲斐なさしか感じせんでした。
包丁が、直せないほど傷められてしまったと云うことは……。
別の包丁が、もう1セットあるんじゃないでしょうかね。
その包丁が収められてるのが“匣”ということです。
そしてその包丁により、源蔵の一物が切り落とされ……。
包丁の代わりに、匣に収められるのでしょう。
やがて干からびたそれは……。
カッパのへその緒として、妖怪博物館に展示されることになります。
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3. ♪板場の修行HQ- 2016/03/01 21:59
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包丁を研いでもらう料金で、十分使える包丁が買える
そういうことではありません。
本編にも書きましたが、使い込んだ包丁というのは、料理人にとってもはや体の一部。容易に取り換え・買い替えが利くものではありません。
万が一、愛用の包丁が失われでもしますと、新しい包丁を何とか使えるようにするのに、どれほどの手間と時間がかかるものか。しばらく仕事にならないでしょう。
>包丁を研いでもらう料金で、十分使える包丁が買える
だから、そういう問題ではないのです。手に馴染んだ包丁は容易に取り換えが利かない。お金の問題ではないのですね。
それに……ステンレス包丁は研げませんぞ。
>別の包丁がもう、1セット
ありません。
あやめの今後については、乞う、ご期待!
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4. Mikiko- 2016/03/02 07:39
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これで思い出したのが……
王と長嶋の、グローブに対するエピソードです。
王は、手入れや修繕をしながら、ひとつのグローブを長く使い続けたそうです。
つまり、ファーストミットが、自分の右手と一体になるよう使いこんだわけですね。
長嶋は、まったく逆でした。
グローブを頻繁に新調し、常に革の匂いのプンプンするグローブを使ってたそうです。
じゃ、長嶋には、グローブと一体化する感覚が無かったかというと……。
違うと思います。
つまり長嶋は、新品の硬い革に自分の手を馴染ませていたのではないでしょうか。
なので、皮が柔らかくなると、新しいのと取り替えたのです。
真新しい状態に馴染ませれば、それを調達することはとても容易になります。
包丁にも、同じことが云えると思います。
つまり、下ろしたての真新しい包丁に、手を馴染ませればいいんです。
研ぎが必要になったら、買い直す。
もちろん、高い包丁は使えません。
でも、安物でも、下ろしたての切れ味は、さほど遜色が無いのではありませんか。
こうしておけば、包丁を晒しに巻いて修行に出る必要もありません。
行った先のホームセンターで買えばよろし。
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5. ♪そんな時代もHQ- 2016/03/02 12:45
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あったねと……
まわるまわるよ時代はまわる……
王vs.長嶋
宿命の戦いはグローブにも、というところですか。
ということは、あやめは王派、ということに……。
というより、料理人に長嶋派は少ないのではないですかね。
切れ味云々ももちろんあるわけですが、やはり包丁は手の延長、いや一部。気楽に新調、とは参りません。ベテランの料理人になりますと、自分の人差し指で食材を切っているような感覚になるそうです(知らんで、ただの思い付き)。
それにしても、王・長嶋ですか。
もはや、「そんな時代もあったなあ」でしょうか。
今の長嶋サンの姿はテレビで見たくないですね。
ホームセンターの包丁を使っている料理人は、いないと思われます。
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6. Mikiko- 2016/03/02 19:46
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長嶋チョーさん
野性派と思われがちですが……。
実は、すごく合理的だったんじゃないでしょうか。
たとえば、使い込んだグローブを盗まれたとします。
王は困るでしょうね。
新しいグローブが手に馴染むまで、何ヶ月もかかるんじゃないですか。
その点、長嶋は簡単です。
新しいのを注文すればいいだけですから。
そういえば長嶋は、忘れ物の名人だったと聞きます。
たぶん、グローブなども、よく忘れて失くしたんじゃないでしょうか。
そこから、こういう合理性が身についたのかも知れません。
ホームセンター包丁の料理人。
いると思いますよ。
料理人には、ギャンブル好きが多いんじゃないですか。
包丁を質入れしてる輩とかも、いるはずです。
受け出すまでは、ホームセンターのを使うしかありませんな。
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7. 賭博師料理人HQ- 2016/03/02 23:30
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合理人チョーさん
なるほど。
確かに、忘れ物名人だったそうです。
包丁が質草になりますかねえ。
質屋の親爺も「凶器はお受けでけまへんな」じゃないかね。
そもそも質屋に持っていく途中でお巡りさんに見つかったら、逮捕、じゃないの。
ギャンブル好きの料理人は確かに多いようです。わたしの知っている料理人、夏の甲子園が始まると、野球賭博の胴元をやってました。
料理人、ギャンブラー。
ともに漫画の題材によくなります。
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8. Mikiko- 2016/03/03 07:24
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堺の本焼き和包丁
↓10万~30万くらいするようです。
http://saitouhamono.com/aoniHYK.html
5万くらいは借りられるんじゃないですか。
包丁を剥き出しで持ち歩くわけありませんから……。
挙動不審でない限り、お巡りさんに見咎められることはありません。
カバンに入れ、鞘もしておけば万全です。
↑のサイトさんでは、鞘も売ってます。
質屋にレッツゴー!
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9. ♪晒に巻いてぇ~HQ- 2016/03/03 08:35
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(結局、歌っちまったい)
なんぼなんでも……
10万の包丁で5万円は貸さんでしょう。
鞘ねえ。
包丁はやはり晒でしょう。
歌は止めときますが。
鞘は、刀はともかく包丁ではねえ、何となく不衛生な感じがします。
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10. Mikiko- 2016/03/03 20:15
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鞘あて
↓こちらのアンサーをしたのは、おそらく料理人の方だと思いますが……。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1082479060
包丁を仕舞うときは、流しの下の包丁刺しには入れず、鞘に収めておくと書いてあります。
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11. エセ包丁人HQ- 2016/03/03 21:35
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ご紹介の……
料理人さん?の言
いやあ、さすがと言いますか。恐れ入りました。
包丁の扱いについて、何点かポイントを抜き書きしてみました。
●殺菌作用がある酸化チタン製の包丁がよい。
●使った後は天日干し。
●使った後の包丁は、こまめに洗う。
●違う食材を切る時は必ず包丁を洗う。
●魚を三枚おろしにした後、刺身にする時は、包丁もまな板も洗い直す。
●洗剤を付けたスポンジで洗う事はしない。
●油がついた包丁は、大根にクレンザーを付けてこする。大根に殺菌作用がある。
●使い終わった包丁は、大根とクレンザーで洗った後、水ですすいで、ふきんで水分を拭き取る。
●流しの下の包丁刺しには入れない。1本づつ鞘を作り収めておく。
包丁以外に、まな板の扱いなどにも言及されています。プロの言ですね。