2020.6.29(月)
「おごっ。
おごご」
万里亜のうめき声で、我に帰った。
女教師は、腰を前後に振り始めていた。
便器に座る万里亜は、上体を前傾させている。
あの角度で突かれたら、ディルドゥの亀頭が喉奥を抉るはずだ。
万里亜は、涙を流し始めていた。
しかし、自由な両手は、女教師を突き放そうとはしていない。
こちら側の手の指は、自らの乳首を摘まんでいる。
いや、捻っている。
向こう側の手は、股間部に伸びていた。
擦っている。
指の狭間から、丸々と膨れた陰核が覗く。
鶉の卵ほどの陰核は、指先に翻弄され輪郭を消していた。
「ほら、美弥子。
イキな。
万里亜も逝くよ」
美弥子は、自らの陰核を激しく引いた。
「ほら!
ほら!」
「ぃ、イク……。
先生、イク」
「イキな!」
「あごっ」
最後の声は、万里亜だった。
瞳が裏返っていた。
刹那……。
バフ。
破裂音が聞こえた。
同時に、生々しい便臭が立ちあがる。
万里亜が脱糞したのだ。
「あがっ」
美弥子の尻が真下に落ちた。
視界が揺れる。
美弥子は上体を倒し……。
迫りあがろうとする瞳で、懸命に前方を見ようとした。
そう。
見たかったのだ。
万里亜の糞便を。
しかし……。
叶わなかった。
万里亜の豊満な尻が、便座を覆ってしまっていた。
見たかった……。
美弥子の脳裏に、便器の水溜まりに沈む万里亜の大便が映った。
丸々と太い、サツマイモのような便だった。
水溜まりから大便を抱きあげ、頬ずりしたいと思った。
万里亜の便で、泥人形みたいになった自らの顔が……。
意識の消える刹那……。
おぼろに見えた最後の光景だった。
おごご」
万里亜のうめき声で、我に帰った。
女教師は、腰を前後に振り始めていた。
便器に座る万里亜は、上体を前傾させている。
あの角度で突かれたら、ディルドゥの亀頭が喉奥を抉るはずだ。
万里亜は、涙を流し始めていた。
しかし、自由な両手は、女教師を突き放そうとはしていない。
こちら側の手の指は、自らの乳首を摘まんでいる。
いや、捻っている。
向こう側の手は、股間部に伸びていた。
擦っている。
指の狭間から、丸々と膨れた陰核が覗く。
鶉の卵ほどの陰核は、指先に翻弄され輪郭を消していた。
「ほら、美弥子。
イキな。
万里亜も逝くよ」
美弥子は、自らの陰核を激しく引いた。
「ほら!
ほら!」
「ぃ、イク……。
先生、イク」
「イキな!」
「あごっ」
最後の声は、万里亜だった。
瞳が裏返っていた。
刹那……。
バフ。
破裂音が聞こえた。
同時に、生々しい便臭が立ちあがる。
万里亜が脱糞したのだ。
「あがっ」
美弥子の尻が真下に落ちた。
視界が揺れる。
美弥子は上体を倒し……。
迫りあがろうとする瞳で、懸命に前方を見ようとした。
そう。
見たかったのだ。
万里亜の糞便を。
しかし……。
叶わなかった。
万里亜の豊満な尻が、便座を覆ってしまっていた。
見たかった……。
美弥子の脳裏に、便器の水溜まりに沈む万里亜の大便が映った。
丸々と太い、サツマイモのような便だった。
水溜まりから大便を抱きあげ、頬ずりしたいと思った。
万里亜の便で、泥人形みたいになった自らの顔が……。
意識の消える刹那……。
おぼろに見えた最後の光景だった。
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2020/06/29 06:20
-
今日は何の日
6月29日は、『佃煮の日』。
佃煮を扱う『全国調理食品工業協同組合(http://zenchoshoku.or.jp/info/?page_id=271)/東京都台東区東上野』が制定。
日付は、佃煮の発祥の地である佃島(東京都中央区佃)の守り神である住吉神社が創建されたのが……。
1646(正保3)年6月29日(新暦では8月10日)であることから。
魚介類、昆布、豆、牛肉など、種類も多く……。
不足しがちな栄養素も豊富な佃煮を、もっとPRすることが目的。
記念日は、2004(平成16)年、『(社)日本記念日協会(https://www.kinenbi.gr.jp/)』により認定、登録されました。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/106291.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「佃煮について」を引用させていただきます。
佃煮とは、醤油、みりん、砂糖などで甘辛く煮付けた食べ物。
現在では、全国各地に佃煮の産地があります。
香川県の小豆島は醤油の産地で、佃煮も多く作られており、特に昆布の佃煮が有名です。
ほかにも、静岡県焼津市のマグロ、カツオの佃煮などがよく知られてます。
佃煮の名前は、江戸時代に佃島で作り始められたことに由来します。
1582(天正10)年6月2日に京都で起きた「本能寺の変」がきっかけで佃煮が生まれたとされます。
そのため、6月2日は「甘露煮の日」となってます。
また、佃島で作られた佃煮は……。
参勤交代で訪れる大名たちにより、江戸名物の土産物として全国に広まって行きました。
以上、引用終わり。
続きは次のコメントで。
-
––––––
2. Mikiko- 2020/06/29 06:21
-
今日は何の日(つづき)
「本能寺の変」の一件は初耳でした。
↓「カネハツ食品㈱(http://www.kanehatsu.co.jp/)」さんのサイトに、詳しい逸話が載ってました(原典⇒http://www.kanehatsu.co.jp/oishisaikiiki/020/)
+++
1582年6月2日早朝。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいました。
見つかれば、信長の盟友である家康も当然標的です。
なんとしても岡崎城へもどらねば……家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとりました。
ところが神崎川(現在の大阪市住吉区)で足留めを食らいます。川を渡る舟が無かったからです。
ここに救世主のごとく現われたのが、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民たち。
手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意したのです。
気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもありません。
以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになりました。
後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもあります。
+++
なるほど。
しかしこれによると、「佃煮が生まれたきっかけ」となったわけではなく……。
すでにあったものを、家康一行に提供したわけですよね。
続きはさらに次のコメントで。
-
––––––
3. Mikiko- 2020/06/29 06:21
-
今日は何の日(つづきのつづき)
しかもこの解説文を読む限り、佃煮が生まれたのは佃島ではなく……。
大阪の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)じゃないですか。
どゆこと?
ま、いいでしょう。
佃島の住人ってのは、家康が佃村から呼び寄せた漁師たちですから。
急激に増えていく江戸の人口を養う食糧確保のためです。
目の前には、無尽蔵の食料庫である江戸湾。
腕の良い漁師さえいれば、食糧不足などあっという間に解決です。
で、かつて世話になった佃村の漁民を江戸に移住させたというわけです。
さて。
わたしと佃煮。
まず、食べることはありません(だから、そういうネタを書くなって)。
子供のころは、むしろ積極的に嫌いでした。
味も苦いし……。
第一、見た目がよろしくありません。
姿形が残ってて、しかも真っ黒。
むしろ、好んで食べる子供の方が珍しいでしょう。
大人になってからも、苦手な味でした。
今度は苦みではなく、甘さです。
あまりにも甘過ぎ。
ということで、やはり敬遠してきました。
でも最は近、ちょっと平気になってきた感じです。
自分で買うことはないんですよ。
でも、ごくたまに……。
お中元などで、佃煮のセットをいただくことがあります。
捨ててしまうわけにもいかないので、母と2人で食べることになります。
けっこう、美味しいじゃん。
近ごろ、そう感じるようになってきたんです。
甘い物が、少し平気になってきましたね。
歳のせいでしょうか。
今度、思い切って買って来てみましょうか。
-
––––––
4. 手羽崎 鶏造- 2020/06/30 09:28
-
気づき事項。
大阪の佃というのは住吉区ではなく、
現・西淀川区ではないでしょうか。
神崎川は兵庫県・尼崎市との境を
流れる川です。
住吉区に流れる川は大和川だと
思います。
西淀川区と住吉区では、お分かりに
なりにくいと思いますが、風土・気性が
かなり違います。
ちなみに家康が本能寺の変直後、命からがら
岡崎に逃げ帰ったのは事実のようですが、
怖れていたものが明智勢だったのかどうかに
ついては諸説あるようです。
明智憲三郎氏の説は、個人的には面白い
と思っているのですが、信長が本能寺で
軍勢少数で居た理由は、油断していた訳ではなく
呼び寄せて謀殺しようとしていた家康に
警戒されないためであったというものです。
-
––––––
5. Mikiko- 2020/06/30 19:03
-
確かに……
佃村のあった場所は、大阪市西淀川区ですね。
「カネハツ食品㈱」さんの記述は……。
家康が足止めを食った場所が、神崎川(現・住吉区)ということだと思います。
でも、地図を見たところ、西淀川区と住吉区は、大阪市の北と南で、ずいぶんと離れてます。
神崎川は西淀川区を西から東に流れており……。
住吉区は通りようがありません。
大阪の地理はさっぱりわかりませんので、何の検証もなくコピペしてました。
「カネハツ食品㈱」さんの記述(http://www.kanehatsu.co.jp/oishisaikiiki/020/)、かなり危ういですね。
家康が「顰像(しかみぞう)」を描かせたのは、このときかと思いましたが……。
違ってました。
武田信玄にボコボコにされた「三方ヶ原の戦い」でした。
本能寺の変の9年前になります。
家康、けっこう怖い目を見てるんですね。
-
––––––
6. 手羽崎 鶏造- 2020/06/30 23:50
-
本能寺の変。逆臣・明智光秀は実は
いい人ではなかったかと、NHK大河の影響
もあり、ちょっとしたブームになっています。
ワタシは、特に明治以降、軍国主義の台頭
と共に、これは為政者による造られた歴史観で
あったのではと推測しています。
理由・背景はともかく上官を討つことは軍隊に
あって絶対に認めてはならないこと。
なので光秀は謀反人というレッテルを
必要以上に貼られたと考えています。
もう1点、信長も秀吉も目指す先には大陸侵攻
がありました。秀吉は強行しています。
光秀はそれを善しとしなかったフシがあります。
これも明治以降の為政者にとって都合のよい
ことではなかったのだろうと思うのです
-
––––––
7. Mikiko- 2020/07/01 05:57
-
洞察……
相変わらず、鋭いですね。
時の為政者によって、歴史が歪曲されることはよくあることです。
わたしは、日本の歴史の中で……。
戦国時代が一番、苦手かも知れません。
タイムマシンがあっても、ぜったいに行きたくない時代です。
やっぱり、平和が一番ですって。
江戸時代、サイコー。