2020.6.27(土)
「ほら、もっとこっちに来な。
マンツーマンの実演付き特別授業だ。
フェラチオ講座としようかね」
美弥子の脚は、トイレの床に踏みこんだ。
万里亜は便器に座っている。
女教師はその前で、男性が用を足す方向で立っている。
美弥子は、女教師の体側から万里亜の横顔を臨むかたちだ。
いや。
女教師ではない。
肌のきめが、記憶の中の女教師とはまったく違う。
当時の女教師は、40の坂をかなり越えていたはずだ。
肌からは艶が失われ、くすんだ翳が皮膚の下に沈んでいた。
少し押しただけで、黒ずんだ痣が出来そうだった。
しかし今、間近で見る身体は違った。
瑞々しさが漲り、産毛が金色に戦いでいる。
あたりまえだ。
これは、由美なのだ。
「ほら、万里亜。
始めな。
見せてやるんだよ。
お前のフェラテクを。
こいつをフェラできれば……。
どんなデカマラでも相手できるよ」
女教師は、万里亜の髪から手を外した。
万里亜は、ディルドゥを吐き出そうとすればいつでも可能な状態だ。
しかしディルドゥは、万里亜の口中に埋もれたままだった。
万里亜の口は、太い陰茎を咥えている。
決して、見栄えの良い顔ではない。
ネットで見たアダルトグッズを思い出した。
そう。
ダッチワイフ。
その口は、男性の陰茎を受け入れるため、最初からまん丸に開いているのだ。
異様につぶらな瞳と、O字型に開いた口。
脳裏に焼き付いてしまう表情だった。
そして今、万里亜の顔は、そのダッチワイフそのものなのだ。
万里亜とて、それに気づいていないわけがない。
しかし、自らが不様な顔になっていることを、決して嫌ってはいない。
むしろ逆だ。
万里亜の頬には、安らかな曲線が憩っていた。
マンツーマンの実演付き特別授業だ。
フェラチオ講座としようかね」
美弥子の脚は、トイレの床に踏みこんだ。
万里亜は便器に座っている。
女教師はその前で、男性が用を足す方向で立っている。
美弥子は、女教師の体側から万里亜の横顔を臨むかたちだ。
いや。
女教師ではない。
肌のきめが、記憶の中の女教師とはまったく違う。
当時の女教師は、40の坂をかなり越えていたはずだ。
肌からは艶が失われ、くすんだ翳が皮膚の下に沈んでいた。
少し押しただけで、黒ずんだ痣が出来そうだった。
しかし今、間近で見る身体は違った。
瑞々しさが漲り、産毛が金色に戦いでいる。
あたりまえだ。
これは、由美なのだ。
「ほら、万里亜。
始めな。
見せてやるんだよ。
お前のフェラテクを。
こいつをフェラできれば……。
どんなデカマラでも相手できるよ」
女教師は、万里亜の髪から手を外した。
万里亜は、ディルドゥを吐き出そうとすればいつでも可能な状態だ。
しかしディルドゥは、万里亜の口中に埋もれたままだった。
万里亜の口は、太い陰茎を咥えている。
決して、見栄えの良い顔ではない。
ネットで見たアダルトグッズを思い出した。
そう。
ダッチワイフ。
その口は、男性の陰茎を受け入れるため、最初からまん丸に開いているのだ。
異様につぶらな瞳と、O字型に開いた口。
脳裏に焼き付いてしまう表情だった。
そして今、万里亜の顔は、そのダッチワイフそのものなのだ。
万里亜とて、それに気づいていないわけがない。
しかし、自らが不様な顔になっていることを、決して嫌ってはいない。
むしろ逆だ。
万里亜の頬には、安らかな曲線が憩っていた。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2020/06/27 06:31
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今日は何の日
6月27日は、『ちらし寿司の日』。
ちらし寿司などの調理用食材の製造販売メーカーである『㈱あじかん(http://www.ahjikan.co.jp/)/広島県広島市西区』が制定。
日付は、6月27日が岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった池田光政(備前岡山藩主)の命日であることから。
山の幸、海の幸などの食材をたっぷり使った「ちらし寿司」を食べて、夏に向けて元気になってもらうことが目的。
記念日は、2004(平成16)年、『(社)日本記念日協会(https://www.kinenbi.gr.jp/)』により認定、登録されました。
上記の記述は、こちら(https://zatsuneta.com/archives/106273.html)のページから転載させていただきました。
さらに同じページから、「ちらし寿司について」を引用させていただきます。
ちらし寿司とは、酢飯に多種類の具材を合わせて作る寿司で、単に「ちらし」と呼ぶこともあります。
ちらし寿司の「ちらし」は、寿司飯の中、または上に様々な具材を「散らす」ことに由来します。
ちらし寿司の誕生には諸説あります。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2020/06/27 06:32
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今日は何の日(つづき)
引用を続けます。
その一説。
江戸時代初期の1654年、備前(現:岡山県)で大洪水が起き……。
当時の藩主だった池田光政が、汁物以外に副食を一品に制限する「一汁一菜令」という倹約令を出したことがきっかけといわれてます。
災害復旧のため、食事まで制約された人々は、そのような状況の中で少しでも美味しい食事をしたいという思いから……。
できる限りの具材をご飯に混ぜ込み、小さな幸福を噛みしめながら苦境を乗り越えました。
その時の混ぜご飯が、現在の「ちらし寿司」の原型となったとされてます。
また、「一汁一菜令」が出されていた当時、寿司の具材を器(寿司桶)の底に敷き……。
それらを酢飯で覆い隠すことで粗食を装い、食事の直前に器をひっくり返して食卓を飾ったという逸話もあります。
以上、引用終わり。
備前岡山藩主の池田光政が、「ちらし寿司」のきっかけを作ったという記述から……。
食中毒を防ぐため、ご飯や具材に酢を混ぜることを奨励したのかと思ってました。
まったく違いましたね。
バカ殿じゃないですか。
災害復旧に汗を流す人たちに、おかずを制限するとは。
まともに聞いてたら、脚気になりますよ。
こういうバカの言うことを聞かなかった庶民に、拍手を送りたいです。
具材を酢飯の底に敷き、粗食を装うというのは、素晴らしいアイデアですね。
続きはさらに次のコメントで。
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3. Mikiko- 2020/06/27 06:32
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今日は何の日(つづきのつづき)
これと似た話があります。
高知のカツオのタタキ。
あるとき、城内で、生魚を食べての食中毒が流行りました。
藩主が激怒。
いついかなるときも戦時に備えていなければならない武士が……。
便所通いをするとは何ごとか!
生魚を食べることが禁じられます。
でも、やはり食べたい。
で、カツオの表面だけ炙って……。
「これは、焼き魚ぜよ」と言って食べたわけです。
さて。
わたしと「ちらし寿司」。
食べる機会は、まったくありません。
新潟には、家庭で「ちらし寿司」を作る文化はないと思います。
お祝い事でも、テーブルに「ちらし寿司」があがることはないですね。
なお、酢飯に具材を混ぜるのが、「ばら寿司」。
酢飯の上に具材を散らすのが、「ちらし寿司」だそうです。
わたしは、「ばら寿司」の方が美味しそうに思えます。
ま、食べることはないでしょうが(そんならネタにすな)。
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4. 手羽崎 鶏造- 2020/06/27 08:53
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長崎の「吉宗」でしたか、蒸した「ちらし寿司」が
小さな温かい陶器で出てきた記憶があります。
たしか叔母にご馳走になった時で、今も
とても一人で入れる店ではないです
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5. Mikiko- 2020/06/27 11:18
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「ちらし寿司」を蒸す
創業は、慶応2年(1866年)。
今回のコロナ禍で……。
老舗がだいぶ消えてしまうんじゃないでしょうか。