2019.5.11(土)
払子側が残ってないのは……。
おそらく、球形の接合部は、木製か骨製だったんじゃないですか。

↑「ブリッジピン」というギターの部品のようです。牛骨製。
石を丸く加工するのは大変です。
しかも、払子を付ける穴まで抉らなければなりません。
重いし。
ということで、木か骨で造った。
当然それらは、朽ちて失われてしまう。
ということで、証拠が残らないんです。
でも、わたしの脳裏には、ありありと映像が浮かびます。
劣勢の中、顔色を変え……。
馬上で、兜の払子の角度をひょいと変えてる将軍の姿が。

↓家形の埴輪です。

↑「み」
↓さまざまな形があります。

↑「み」
↓これなんか、「家形飾環頭柄頭」に付いてた家に似てますね。

↑「み」
家形の埴輪が、死者と一緒に埋葬された理由には……。
主に、2通りの説があるようです。
ひとつは、埋葬された人の魂が宿る場所とするため。

↑ムリヤリ宿る魂。
たしかに、必ず開口部があり、中が空洞になってますよね。
もう一つの説は、多くの家形埴輪が整然と置かれてることから……。
生前に暮らした屋敷を再現したというもの。

死後も、生きてるときと同じ暮らしが出来るようにという、残された者の祈りでしょう。
これは、大いにわかる気がします。
↓愛馬でしょうか。

↑「み」
殺して一緒に墓に入れてしまうのではなく……。
こうして、身代わりを造って合葬したわけです。
ホッとしますね。
↓急にむさ苦しいものが出て来ました。

↑「み」
↓「3」ですから、「挂甲(けいこう)」ですね。

↑「み」
そもそも、「手偏に圭」という文字を初めて見ました。
「挂甲」は、古代日本で用いられた鎧(甲)の形式のひとつだとのこと。
「甲」は、甲冑(かっちゅう)の「甲」ですね。
「挂甲」は、便宜的に名付けた名称で……。
当時、そう呼ばれてたわけじゃないようです。
↓この埴輪が着用してるのが「挂甲」です。

鉄や革でできた小札(こざね)を……。
縦横に、紐で綴じ合わせて作られてるとのこと。
つまりは、「大魔神」の鎧ですよね。

わたしが撮った写真のものは、どうしてこんな状態になってるのでしょう。
とても、役に立ちそうには見えません。
綴じる紐が朽ちてるからでしょうか?
↓さっぱりわからないものたち。

↑「み」
上のは足ヒレみたいですが、見るからに金属ですから違いますね。
↓どうやら、馬に付けた品々のようです。

↑ヒレみたいなのはないようですが。
馬は重くて、いい迷惑だと思います。
↓これはすぐにわかります。

↑「み」
鞍です。
綺麗なものですが、なんとなく安定が悪そうです。
静かに歩いてるときはいいですが……。
馬が走り出したら、あっという間に滑り落ちそうです。

↑馬から落ちるナポレオン。ほんまの画か?
走り出さないよう、手綱を押さえる人がいたんでしょう。
鞍にはもちろん、貴人が乗ってたわけです。
↓古墳時代のきのこです。

↑「み」
もちろん違うのでしょうが、説明書きを撮ってないんです。
下の筒状の支えは、明らかに展示用でしょう。

なんで、この状態で展示する必要があるのか。
ビスケットみたいに見える笠の部分は……。
おそらくは、木製でしょう。
古墳の蓋ですかね?
残念ながら、ネット検索しても情報は得られませんでした。
↓人形の埴輪です。

↑「み」
縄文時代の土偶は、変人の芸術家が造った感じですが……。

古墳時代の埴輪は、素朴で民芸品のような味わいがあります。
↓素朴を通り越して、稚拙な感さえあります。

↑「み」
職人が造ったのでしょうか?
右のは、犬ですか?
アリクイみたいですけど。

↑ぬいぐるみです。
わたしは、埴輪は素人が造ったんじゃないかと思ってます。
もちろんすべてではありません。
フル装備の馬などは、専門の職人が造ったでしょう。

↑「み」
でも、簡単な人形は、亡くなった人の家族が自ら造ったのでは?

つまり、自分の分身を自分で造ったわけです。
亡くなった人が、あの世でも、家族に囲まれて過ごせるようにということです。
あ、今、思いつきました。
↓これなんか、ひょっとしたら、当時の漫才師じゃないですか。

↑右手は「よしなさい」を繰り出そうとしてるように見えます。
墓の中で退屈しないよう……。
こうしたひょうきん者も一緒に入れたわけです。
昔は、病気に罹れば、もう祈るほかはなかったでしょう。
でも逆に、今みたいに……。
一縷の望みを求めて、ドクターショッピングを繰り返すような苦痛はありません。

死は、本人も家族にとっても、あらがえないものだったのでしょう。
だからむしろ、命を長らえようとするより……。
死後のことを考えたんだと思います。

今は、ほんとうに幸せな時代なんでしょうか?
でも、確実に今の方が優れてることがあります。
苦痛を和らげる技術です。

わたしは、病を治すより、苦痛を和らげる方が重要だと思います。
これを医術の第一義としない医師は、医師じゃないと思ってます。
また、話がズレました。
解説を続けます。
↓ズレた後は、見事に大ブレ。

↑「み」
アル中が撮っても、ここまではブレないと思うのですが。

↑この人ならブレます。
家のようですが、埴輪ではないみたいですね。
こういうことがあるから……。
ほんとうは、2枚ずつ撮っておいた方がいいのでしょう。
枚数のメモリ容量は、十分余ってます。
でも、バッテリーは保たないでしょう。
予備バッテリーを持って行けばいいだけですが。

↓ご丁寧に、説明書きまでブレてます。

↑「み」。科捜研でも解析不可能。
発作でも起こしてたんですかね。
しゃっくりでも出たんでしょうか。

↑人差し指を耳に入れてじっとしてると、1分で止まるそうです。ほんまか?
でも、ブレたという自覚があれば、撮り直してたはずです。
さっぱりわかりません。
↓最初は、文字を記した石板かと思いました。

↑「み」
でも、かろうじて読めた説明書きによると……。

↑「み」。こちらは肉眼でも解読可能でした。
「敷石」でした。
古墳時代から造られてたんですね。
筋目に沿って、真っ直ぐ割れる石はありますからね。

↑頁岩(けつがん)と読むようです。語感がイマイチです。“シェール"の方がいいですね。
敷石のように四角い板状にするというのが、もっとも簡単な石の加工法かも知れません。
↓敷石と云っても、道路に使われたものではありませんでした。

↑「み」
でもこの図で、上に載ってるのが敷石です。
つまりここは、地表部に出てたと云うことでしょうか?
だけど、人が踏んで歩いたとは考えにくいです。
天井石の方が相応しいのでは?
どうも納得できないので、ネットを調べたら……。
やはり、わたしの間違いでした。
↓綺麗な図が見つかりました。

↑「敷石」は、黒い石ではなく、ホワイト板チョコみたいなところです。
しかし、古墳が、いかに丁寧に造られてたか良くわかりますね。
生きてる人のものより、お金も手間もかけてたんじゃないでしょうか。
命が儚かった時代は、あの世にこそ、ほんとの人生があると信じられてたのかも知れません。

↑天国とは……。毎日飲み放題で、二日酔いもしないし、肝臓も悪くならない。
↓故人は、アイスキャンデーが好きだったのでしょうか。

↑「み」
もちろん、そんなことはありません。
上は、「台石」。
下が、「扉石残片」とあります。
だんだん飽きてきましたね。
↓家のようですが……。

↑「み」
ずいぶん丸みを帯びてます。
と思ったら、家ではありませんでした。

↑「み」
「陶棺」と云われても……。
人がそのまま入れるとは思えません。
資料を探したら、高さ13.5㎝、長さ41㎝とありました。
骨壺なんでしょうか。
屋根の部分は、外せるのでしょう。
↓ちゃんと人が長らえる大きさの陶棺もあったようです。

↑高さ88㎝、長さ180㎝。
こちらも、東京国立博物館の品のようです。
なんでわたしは、撮ってなかったんでしょう。
あ、わかった。
↓例の、大ブレ画像ですよ。

何を撮ってたかわかって、少しすっきりしました。
ここでまた閃きました。
小さな陶棺は、子供用ですよ。
いや、さらに幼い子供。
はっきり言えば……。
死産したような場合、小さな陶棺に収めたんです。

昔の平均寿命が短いのは……。
乳児などの死亡率が高かったからです。

↑明治期でも、乳児死亡率が2割近かったとは驚きです(現在は0.2%程度ですから、100倍です)。
平均寿命が20代と云っても……。
みんながみんな、20代で亡くなったわけではありません。
何割かの人は、ごく普通に70歳くらいまでは長らえたと思います。

でも、乳児の死亡率が高かったので……。
均すと、平均寿命が20代になったりするわけです。
古墳時代なども、死産や乳児での死亡率は高かったのでしょう。
なのでおそらく、そうした子供たちのための小さな陶棺は……。
既製品として売られてたんじゃないでしょうか。

↑乳児の棺に相応しい、かわいいお家です。
亡くなってから造ったんじゃないと思います。
さまざまな大きさの陶棺が並んだ工房が目に浮かびます。
今の小売店のようなものはなく……。
そうした工房から、直接買ったんじゃないでしょうか。
↓これまた愉快そうな人形埴輪です。

↑「み」
↓説明書きは、ブレブレでまったく読めません。

↑「み」
いろいろ探したら……。
「盾持人(たてもちびと)」となってるようです。
盾を持ってると云うことは、兵士ですか?
なんで笑ってるんでしょう?
盾を背負ってる姿のようです。
盾を持ってるから安心だと笑ってるんですか?
そんなわけありませんよね。
↓また、体験コーナーです。

↑「み」
これは、やってみませんでした。
あんまり意味がないんじゃありませんか。
当時、部品をバラバラに作って、焼いてから組み立ててたわけじゃないでしょう。
何かの入れ物なら、そういうのもありでしょうが。
↓これは近代的な感じですね。

↑「み」
なんだか、衛兵みたいです。
↓こちらも「盾持人」とあります。

↑「み」
こちらは納得です。
盾を身体の前面に持ってますし……。
何より、顔つきが友好的じゃありません。
機動隊みたいです。

↑現代の「盾持人」。
わかった!
↓笑った「盾持人」の意味ですよ。

↑「み」
あれは、戦いに勝って帰って来たときの兵士の像ですよ。
だから笑ってるし、盾を背中に担いでたんです。
おそらく、戦勝を祈って、笑って帰る姿を像にしたんでしょう。
それに対し、機動隊みたいな「盾持人」は……。
これから戦いに行くときの兵士なんです。
納得じゃろ?
↓鶏(ニワトリ)です。

↑「み」
この時代に鶏がいたのかと驚きましたが……。
日本に大陸から持ちこまれたのは、弥生時代だそうです。
それじゃ弥生時代に、稲作と並行して養鶏が行われてたのかと思いましたが……。
どうやら違うようです。

↑熱田神宮(名古屋市)に住み着く鶏。弥生時代からいたわけではないようです。名古屋コーチンだとか。
鶏は、食肉用として繁殖されることはなかったそうです。
採卵が目的でもなかったみたいです。
すなわち、純粋なペット、愛玩用です。
↑室内で飼われてる鶏のピーちゃん(夜店のヒヨコ出身)。毎朝、お兄ちゃんを起こしに行くそうです。
というより、時を告げる鳥として、神聖視されてたとか。
それで、こんな立派な埴輪が作られるわけです。
食用なら、こうは作りませんよね。
下の筒状のものは……。
鶏が時を告げるときに上った、切り株みたいなのじゃないでしょうか。
すなわちこの像は……。
神聖な鳥が、まさに時を告げようとする姿を写したものだということです。
筒に丸い穴が空いてるのは……。
密閉してしまったら、焼いたときに中の空気が膨張して割れてしまうからでしょう。

↑目と口を表現する穴は、焼くときの空気抜きを兼ねてるわけです。
↓あきらかに、靴です。

↑「み」
↓説明書きには、「金銅製沓(こんどうせいくつ)」とあります。

↑「み」
こんなの履いて歩いたら、すぐ壊れたろうなと思いましたが……。
違いました。
朝鮮半島伝来の、葬送用の沓でした。
「金銅(こんどう)製」というのは……。

↑コンドーです。『柔道一直線』のころでしょうか。美形ですね。
青銅で作られ、金メッキが施されてたという意味のようです。
金メッキの歴史は古く……。

↑金メッキではありません(たぶん)。
日本でも、古墳時代には用いられてたそうです。
もちろん金は、電気で溶かしたのではなく……。
水銀で溶かしたそうです。

塗った後、加熱して、水銀を蒸発させるんだとか。
思い切り身体に悪そうですね。
メッキ職人は、早死にだったんじゃないですか。
蒸気を吸いこむでしょうから。

↑水俣病は、メチル水銀が原因。
↓気に入ったのか、別角度からも撮ってました。

↑「み」
こういう品を展示する場合……。
作られた当時の状態を再現したレプリカを一緒に置くべきじゃないでしょうか。
この沓は間違いなく、黄金色だったはずですから。

↓明らかに木製です。

↑「み」
↓「木棺残欠」とあります。

↑「み」
奈良市都祁甲岡町(つげこうかちょう)にある……。
小治田安万侶(おはりだのやすまろ)という人の墓から、見つかったそうです。
中に入ってたのは、火葬した骨だったとか。
火葬した骨は、縄文時代の遺跡からも出るそうです。
わたしは、近年までは全国的に土葬かと思ってました。
違ったんですね。
火葬は、仏教と共に広まったみたいですね。
お釈迦様が火葬されたからだそうです。

↑江戸時代の火葬。よほど郊外でやらないと、火事の危険がありますよね。
↓屋根瓦でしょうね。

↑「み」
↓丸いのは、「軒丸瓦(のきまるがわら)」という部分です。

↑「み」
説明書きを撮ってませんでした。
奈良時代の平城京からの出土のようです。
↓これは、鬼瓦ですね。

↑「み」
奈良時代や飛鳥時代のようです。
こんなに古くからあったんですね。
そう云えば最近、鬼瓦みたいな顔の人って、いなくなりましたよね。
昔は、結構歩いてた気がするんですが。

↑ビートたけしのネタ「鬼瓦権蔵」。このキャラはあんまり、「鬼瓦」って感じじゃありません。
↓突如、現代的なフォルムのものが。

↑「み」
タイヤのホイールかと思いましたが……。
↓なんと「円面硯」という硯(すずり)でした。

↑「み」
上の丸い面で墨をすり……。
周りの溝に溜めるようです。
今のような石の硯が使われ始めたのは、平安時代からとのこと。

↑『源氏物語絵巻』。黒いのが、硯の入った硯箱。
それ以前は、陶硯(とうけん)と呼ばれる焼きものの硯だったそうです。
画像の「円面硯」は、奈良時代のものですね。
それにしても、台の部分がなぜこんなに高くなってるのでしょうか?

スリットが空いてる理由は、なんとなく想像できます。
軽くするためでしょう。
しかし、台が無ければ、もっと軽くなるし、片付けやすいです。
ネットを検索してみましたが(ざっとですけど)……。
なぜ、台が付いてるのかを記した文章は見つかりませんでした。
裏返しにして、筆や墨を入れたんですかね?
形から、なんとなく連想したのは……。
地球平面説。
亀と象が大地を支えてるという図柄です。

↓陶器の五重塔のようです。

↑「み」
説明書きも写ってますが、小さくて読めません。
ネットを探してようやく見つけました。
「瓦塔」でした。
“かわらとう"ではなく、“がとう"。
ガトーショコラとは、色や質感は似てますが関係はありません。

木造建築の塔を模した焼物製の塔が、「瓦塔」。
奈良時代から平安時代にかけて作られたようです。
造られた目的については定説がないそうです。
木造の仏塔の代わりに安置して信仰の対象としたという説があるとか。
本物の木造の塔を建てるには……。
資金、技術、時間、いずれもたいへんです。

↑薬師寺西塔(1981年再建)。総工費は15億円だったそうです。案外安く出来ましたね。
その代わりに「瓦塔」を造って祈ったのでしょうか。
ここでちょっと思いつきました。
こういう塔を建てたいという模型じゃないでしょうか。
つまり、これを公開して……。
こんな立派な塔を造りたいから、ぜひ寄付をお願いしますというわけです。
一種の宣材ですね。
ひょっとしたら、これを携えて、各地を巡ったのかも知れません。
口先の説明だけよりは、ずっと効果ががありそうですよ。
↓何でしょう。

↑「み」
一瞬、トイレかと思って、色めき立ちました。
↓でも、残念ながら違いました。

↑「み」
「経筒(きょうづつ)」。
文字どおり、お経を収めた筒です。
でも、日常的に使われたものではありません。
経典を土中に埋納する「経塚」造営の際、経典を納めるために用いられた容器です。

↑この方とは関係ありません。
当初は、後世まで、お経を伝えようという目的だったようです。
早い話、「経筒」はタイムカプセルだったわけです。

しかしだんだん、追善供養や現世利益などに目的が変化していったとか。
↓硬貨が登場しました。

↑「み」
↓「開基勝宝(かいきしょうほう)」とあります。

↑「み」
初めて聞きました。
日本最初の金貨だそうです。
「開基勝寳」の文字は吉備真備(きびのまきび)の筆によるものだとか。

↑岡山県小田郡矢掛町「吉備真備公園」に建つ像。そうか、吉備の国の出身だったんですね。
吉備真備は、奈良時代の学者であり、政治家。
右大臣にまで上りました。
右大臣になった学者は、もう一人います。
菅原道真です。

↑少年時代の道真。11歳で漢詩を作ったそうです。
吉備真備、ひょっとしたら当時の新元号の文字も書いてたかも知れませんね。

さて、「開基勝宝」です。
現存するのは、32枚だそうです。
もちろん、古銭店では買えません。
重要文化財です。
すべてが、「東京国立博物館」に所蔵されてるようです。
↓貝殻のお金でしょうか。

↑「み」
何で突然、時代が遡るのかと思いましたが……。
違いました。
↓「和同開珎」の鋳型でした。

↑「み」
「和同開珎」は、日本で最初の流通通貨だそうです。

この読み方ですが、わたしは“わどうかいほう”と習った気がします。
どうやら読み方には、2種類の説があるようです。
「国立科学博物館」のフリガナは、“かいちん”ですね。

↑「み」
この読み方をめぐり……。
江戸時代から今日まで、「珍宝(ちんぽう)論争」と呼ばれる論争が続いてるそうです。

でも最近は、“ちん"が優勢なようで……。
教科書では、“ちん"が5冊、“ちん(ほう)"が3冊。
“ほう"だけのものは無いそうです。
材質は、銅です。
埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅が産出した事を記念し……。
元号が「和銅」に改められると共に、「和同開珎」が作られたそうです。

↑遺跡になってるようです。12分で500メートルは、かなりの山道ですね。
和銅は、「にきあかがね」と呼ばれ、純度が高く精錬を必要としない自然銅のことだとか。
ではなぜ、通貨の名前が、「和銅」ではなく「和同」なのか?
こちらに解説がありましたが……。
わたしの読解力が及ばず、さっぱりわかりませんでした。

↑秩父名物「味噌おでん」。かかってるのは、決して“あかがね"ではありません。
↓なんじゃこりゃー。

↑「み」
船の舳先を、下から見あげたようです。
説明書きを撮ってないので、何だかわかりません。
↓これもわからん。

↑「み」
↓説明書きは、相変わらずピンボケです。

↑「み」
目が痛くなるほど睨んで、どうやらわかりました。
最初の文字は、「氏」みたいな偏に「鳥」のようです。
どうやら、「鴟尾」と書いてあるようです。
調べたら、読みは“しび”でした。
瓦屋根の両端につけられる飾りですね。

↑唐招提寺金堂(奈良市)。
火除けのマジナイだそうです。
有名なところでは、名古屋城の金のシャチホコがあります。

火除けだから、水に棲む魚を象るようになったんでしょうかね。
↓横からも撮ってました。

↑「み」
わかった!
↓わたしが撮った1枚目。

鴟尾の裏側ですよ。
うーむ、すっきりした。
しかし、こんなの、どうやって屋根の上にあげたんですかね。
考えられるのは……。
細かく分割できたんじゃないでしょうか。
で、屋根の上で組み立てた後……。
接合面を目塗りしたんです。
ひょっとしたら、仕上げの鏝絵的な装飾は……。
左官が、屋根の上で行ったのかも知れません。

↑現代の左官職人による鏝絵(こてえ)。これを、コテだけで造形するんですよ。
↓小判です。

↑「み」
慶長小判。

↑「み」
ついに、江戸期に突入です。
関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、幕府設立に先立ち……。

貨幣制度の整備を重要課題の一つとして、小判の鋳造を命じました。
最初の発行は、慶長6(1601)年だそうです。
確かに、幕府設立の前ですね。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。
1601年は、関ヶ原の戦いの翌年です。
大河ドラマなどで江戸時代が舞台となる場合……。
たいがい、このころか幕末のどっちかです。

↑『八重の桜』。2013(平成25)年。
あとは、忠臣蔵ですね。

↑『元禄太平記』。1975(昭和50)年。
わたしは、江戸後期の爛熟した町人文化のころが好きなんですが……。

さすがに、1年を保たせられるストーリーは、作りづらいのでしょう。
見学写真は、まだ続きます。
読む方も飽きてきたでしょうが、書く方はもっと飽きてきました。
知識がないせいで、面白みが感じられないからでしょう。
↓また、なんかわからんもの。

↑「み」
↓「輪宝(りんぽう)」だそうです。

↑「み」
密教の仏具だとか。
悪を打破するそうです。
ヒーローものに使えそうですね。
そう云えばあんまり、仏教系のヒーローっていませんよね。

↑さがしたらありました! 『レインボーマン』の変身の呪文。明らかに仏教系!
この後、立て続けにピンボケが続くので、何枚か省略。
↓着物です。

↑「み」
江戸時代に作られた振り袖のようです。
わたしは、振り袖はおろか、着物すら着たことがありません。
和装で着てるのは、綿入れ半纏だけです。
↑袖で物を引っ掛けたり、不便なところもあるのですが……。なぜか、止められません。
おそらく、球形の接合部は、木製か骨製だったんじゃないですか。

↑「ブリッジピン」というギターの部品のようです。牛骨製。
石を丸く加工するのは大変です。
しかも、払子を付ける穴まで抉らなければなりません。
重いし。
ということで、木か骨で造った。
当然それらは、朽ちて失われてしまう。
ということで、証拠が残らないんです。
でも、わたしの脳裏には、ありありと映像が浮かびます。
劣勢の中、顔色を変え……。
馬上で、兜の払子の角度をひょいと変えてる将軍の姿が。

↓家形の埴輪です。

↑「み」
↓さまざまな形があります。

↑「み」
↓これなんか、「家形飾環頭柄頭」に付いてた家に似てますね。

↑「み」
家形の埴輪が、死者と一緒に埋葬された理由には……。
主に、2通りの説があるようです。
ひとつは、埋葬された人の魂が宿る場所とするため。

↑ムリヤリ宿る魂。
たしかに、必ず開口部があり、中が空洞になってますよね。
もう一つの説は、多くの家形埴輪が整然と置かれてることから……。
生前に暮らした屋敷を再現したというもの。

死後も、生きてるときと同じ暮らしが出来るようにという、残された者の祈りでしょう。
これは、大いにわかる気がします。
↓愛馬でしょうか。

↑「み」
殺して一緒に墓に入れてしまうのではなく……。
こうして、身代わりを造って合葬したわけです。
ホッとしますね。
↓急にむさ苦しいものが出て来ました。

↑「み」
↓「3」ですから、「挂甲(けいこう)」ですね。

↑「み」
そもそも、「手偏に圭」という文字を初めて見ました。
「挂甲」は、古代日本で用いられた鎧(甲)の形式のひとつだとのこと。
「甲」は、甲冑(かっちゅう)の「甲」ですね。
「挂甲」は、便宜的に名付けた名称で……。
当時、そう呼ばれてたわけじゃないようです。
↓この埴輪が着用してるのが「挂甲」です。

鉄や革でできた小札(こざね)を……。
縦横に、紐で綴じ合わせて作られてるとのこと。
つまりは、「大魔神」の鎧ですよね。

わたしが撮った写真のものは、どうしてこんな状態になってるのでしょう。
とても、役に立ちそうには見えません。
綴じる紐が朽ちてるからでしょうか?
↓さっぱりわからないものたち。

↑「み」
上のは足ヒレみたいですが、見るからに金属ですから違いますね。
↓どうやら、馬に付けた品々のようです。

↑ヒレみたいなのはないようですが。
馬は重くて、いい迷惑だと思います。
↓これはすぐにわかります。

↑「み」
鞍です。
綺麗なものですが、なんとなく安定が悪そうです。
静かに歩いてるときはいいですが……。
馬が走り出したら、あっという間に滑り落ちそうです。

↑馬から落ちるナポレオン。ほんまの画か?
走り出さないよう、手綱を押さえる人がいたんでしょう。
鞍にはもちろん、貴人が乗ってたわけです。
↓古墳時代のきのこです。

↑「み」
もちろん違うのでしょうが、説明書きを撮ってないんです。
下の筒状の支えは、明らかに展示用でしょう。

なんで、この状態で展示する必要があるのか。
ビスケットみたいに見える笠の部分は……。
おそらくは、木製でしょう。
古墳の蓋ですかね?
残念ながら、ネット検索しても情報は得られませんでした。
↓人形の埴輪です。

↑「み」
縄文時代の土偶は、変人の芸術家が造った感じですが……。

古墳時代の埴輪は、素朴で民芸品のような味わいがあります。
↓素朴を通り越して、稚拙な感さえあります。

↑「み」
職人が造ったのでしょうか?
右のは、犬ですか?
アリクイみたいですけど。

↑ぬいぐるみです。
わたしは、埴輪は素人が造ったんじゃないかと思ってます。
もちろんすべてではありません。
フル装備の馬などは、専門の職人が造ったでしょう。

↑「み」
でも、簡単な人形は、亡くなった人の家族が自ら造ったのでは?

つまり、自分の分身を自分で造ったわけです。
亡くなった人が、あの世でも、家族に囲まれて過ごせるようにということです。
あ、今、思いつきました。
↓これなんか、ひょっとしたら、当時の漫才師じゃないですか。

↑右手は「よしなさい」を繰り出そうとしてるように見えます。
墓の中で退屈しないよう……。
こうしたひょうきん者も一緒に入れたわけです。
昔は、病気に罹れば、もう祈るほかはなかったでしょう。
でも逆に、今みたいに……。
一縷の望みを求めて、ドクターショッピングを繰り返すような苦痛はありません。

死は、本人も家族にとっても、あらがえないものだったのでしょう。
だからむしろ、命を長らえようとするより……。
死後のことを考えたんだと思います。

今は、ほんとうに幸せな時代なんでしょうか?
でも、確実に今の方が優れてることがあります。
苦痛を和らげる技術です。

わたしは、病を治すより、苦痛を和らげる方が重要だと思います。
これを医術の第一義としない医師は、医師じゃないと思ってます。
また、話がズレました。
解説を続けます。
↓ズレた後は、見事に大ブレ。

↑「み」
アル中が撮っても、ここまではブレないと思うのですが。

↑この人ならブレます。
家のようですが、埴輪ではないみたいですね。
こういうことがあるから……。
ほんとうは、2枚ずつ撮っておいた方がいいのでしょう。
枚数のメモリ容量は、十分余ってます。
でも、バッテリーは保たないでしょう。
予備バッテリーを持って行けばいいだけですが。

↓ご丁寧に、説明書きまでブレてます。

↑「み」。科捜研でも解析不可能。
発作でも起こしてたんですかね。
しゃっくりでも出たんでしょうか。

↑人差し指を耳に入れてじっとしてると、1分で止まるそうです。ほんまか?
でも、ブレたという自覚があれば、撮り直してたはずです。
さっぱりわかりません。
↓最初は、文字を記した石板かと思いました。

↑「み」
でも、かろうじて読めた説明書きによると……。

↑「み」。こちらは肉眼でも解読可能でした。
「敷石」でした。
古墳時代から造られてたんですね。
筋目に沿って、真っ直ぐ割れる石はありますからね。

↑頁岩(けつがん)と読むようです。語感がイマイチです。“シェール"の方がいいですね。
敷石のように四角い板状にするというのが、もっとも簡単な石の加工法かも知れません。
↓敷石と云っても、道路に使われたものではありませんでした。

↑「み」
でもこの図で、上に載ってるのが敷石です。
つまりここは、地表部に出てたと云うことでしょうか?
だけど、人が踏んで歩いたとは考えにくいです。
天井石の方が相応しいのでは?
どうも納得できないので、ネットを調べたら……。
やはり、わたしの間違いでした。
↓綺麗な図が見つかりました。

↑「敷石」は、黒い石ではなく、ホワイト板チョコみたいなところです。
しかし、古墳が、いかに丁寧に造られてたか良くわかりますね。
生きてる人のものより、お金も手間もかけてたんじゃないでしょうか。
命が儚かった時代は、あの世にこそ、ほんとの人生があると信じられてたのかも知れません。

↑天国とは……。毎日飲み放題で、二日酔いもしないし、肝臓も悪くならない。
↓故人は、アイスキャンデーが好きだったのでしょうか。

↑「み」
もちろん、そんなことはありません。
上は、「台石」。
下が、「扉石残片」とあります。
だんだん飽きてきましたね。
↓家のようですが……。

↑「み」
ずいぶん丸みを帯びてます。
と思ったら、家ではありませんでした。

↑「み」
「陶棺」と云われても……。
人がそのまま入れるとは思えません。
資料を探したら、高さ13.5㎝、長さ41㎝とありました。
骨壺なんでしょうか。
屋根の部分は、外せるのでしょう。
↓ちゃんと人が長らえる大きさの陶棺もあったようです。

↑高さ88㎝、長さ180㎝。
こちらも、東京国立博物館の品のようです。
なんでわたしは、撮ってなかったんでしょう。
あ、わかった。
↓例の、大ブレ画像ですよ。

何を撮ってたかわかって、少しすっきりしました。
ここでまた閃きました。
小さな陶棺は、子供用ですよ。
いや、さらに幼い子供。
はっきり言えば……。
死産したような場合、小さな陶棺に収めたんです。

昔の平均寿命が短いのは……。
乳児などの死亡率が高かったからです。

↑明治期でも、乳児死亡率が2割近かったとは驚きです(現在は0.2%程度ですから、100倍です)。
平均寿命が20代と云っても……。
みんながみんな、20代で亡くなったわけではありません。
何割かの人は、ごく普通に70歳くらいまでは長らえたと思います。

でも、乳児の死亡率が高かったので……。
均すと、平均寿命が20代になったりするわけです。
古墳時代なども、死産や乳児での死亡率は高かったのでしょう。
なのでおそらく、そうした子供たちのための小さな陶棺は……。
既製品として売られてたんじゃないでしょうか。

↑乳児の棺に相応しい、かわいいお家です。
亡くなってから造ったんじゃないと思います。
さまざまな大きさの陶棺が並んだ工房が目に浮かびます。
今の小売店のようなものはなく……。
そうした工房から、直接買ったんじゃないでしょうか。
↓これまた愉快そうな人形埴輪です。

↑「み」
↓説明書きは、ブレブレでまったく読めません。

↑「み」
いろいろ探したら……。
「盾持人(たてもちびと)」となってるようです。
盾を持ってると云うことは、兵士ですか?
なんで笑ってるんでしょう?
盾を背負ってる姿のようです。
盾を持ってるから安心だと笑ってるんですか?
そんなわけありませんよね。
↓また、体験コーナーです。

↑「み」
これは、やってみませんでした。
あんまり意味がないんじゃありませんか。
当時、部品をバラバラに作って、焼いてから組み立ててたわけじゃないでしょう。
何かの入れ物なら、そういうのもありでしょうが。
↓これは近代的な感じですね。

↑「み」
なんだか、衛兵みたいです。
↓こちらも「盾持人」とあります。

↑「み」
こちらは納得です。
盾を身体の前面に持ってますし……。
何より、顔つきが友好的じゃありません。
機動隊みたいです。

↑現代の「盾持人」。
わかった!
↓笑った「盾持人」の意味ですよ。

↑「み」
あれは、戦いに勝って帰って来たときの兵士の像ですよ。
だから笑ってるし、盾を背中に担いでたんです。
おそらく、戦勝を祈って、笑って帰る姿を像にしたんでしょう。
それに対し、機動隊みたいな「盾持人」は……。
これから戦いに行くときの兵士なんです。
納得じゃろ?
↓鶏(ニワトリ)です。

↑「み」
この時代に鶏がいたのかと驚きましたが……。
日本に大陸から持ちこまれたのは、弥生時代だそうです。
それじゃ弥生時代に、稲作と並行して養鶏が行われてたのかと思いましたが……。
どうやら違うようです。

↑熱田神宮(名古屋市)に住み着く鶏。弥生時代からいたわけではないようです。名古屋コーチンだとか。
鶏は、食肉用として繁殖されることはなかったそうです。
採卵が目的でもなかったみたいです。
すなわち、純粋なペット、愛玩用です。
↑室内で飼われてる鶏のピーちゃん(夜店のヒヨコ出身)。毎朝、お兄ちゃんを起こしに行くそうです。
というより、時を告げる鳥として、神聖視されてたとか。
それで、こんな立派な埴輪が作られるわけです。
食用なら、こうは作りませんよね。
下の筒状のものは……。
鶏が時を告げるときに上った、切り株みたいなのじゃないでしょうか。
すなわちこの像は……。
神聖な鳥が、まさに時を告げようとする姿を写したものだということです。
筒に丸い穴が空いてるのは……。
密閉してしまったら、焼いたときに中の空気が膨張して割れてしまうからでしょう。

↑目と口を表現する穴は、焼くときの空気抜きを兼ねてるわけです。
↓あきらかに、靴です。

↑「み」
↓説明書きには、「金銅製沓(こんどうせいくつ)」とあります。

↑「み」
こんなの履いて歩いたら、すぐ壊れたろうなと思いましたが……。
違いました。
朝鮮半島伝来の、葬送用の沓でした。
「金銅(こんどう)製」というのは……。

↑コンドーです。『柔道一直線』のころでしょうか。美形ですね。
青銅で作られ、金メッキが施されてたという意味のようです。
金メッキの歴史は古く……。

↑金メッキではありません(たぶん)。
日本でも、古墳時代には用いられてたそうです。
もちろん金は、電気で溶かしたのではなく……。
水銀で溶かしたそうです。

塗った後、加熱して、水銀を蒸発させるんだとか。
思い切り身体に悪そうですね。
メッキ職人は、早死にだったんじゃないですか。
蒸気を吸いこむでしょうから。

↑水俣病は、メチル水銀が原因。
↓気に入ったのか、別角度からも撮ってました。

↑「み」
こういう品を展示する場合……。
作られた当時の状態を再現したレプリカを一緒に置くべきじゃないでしょうか。
この沓は間違いなく、黄金色だったはずですから。

↓明らかに木製です。

↑「み」
↓「木棺残欠」とあります。

↑「み」
奈良市都祁甲岡町(つげこうかちょう)にある……。
小治田安万侶(おはりだのやすまろ)という人の墓から、見つかったそうです。
中に入ってたのは、火葬した骨だったとか。
火葬した骨は、縄文時代の遺跡からも出るそうです。
わたしは、近年までは全国的に土葬かと思ってました。
違ったんですね。
火葬は、仏教と共に広まったみたいですね。
お釈迦様が火葬されたからだそうです。

↑江戸時代の火葬。よほど郊外でやらないと、火事の危険がありますよね。
↓屋根瓦でしょうね。

↑「み」
↓丸いのは、「軒丸瓦(のきまるがわら)」という部分です。

↑「み」
説明書きを撮ってませんでした。
奈良時代の平城京からの出土のようです。
↓これは、鬼瓦ですね。

↑「み」
奈良時代や飛鳥時代のようです。
こんなに古くからあったんですね。
そう云えば最近、鬼瓦みたいな顔の人って、いなくなりましたよね。
昔は、結構歩いてた気がするんですが。

↑ビートたけしのネタ「鬼瓦権蔵」。このキャラはあんまり、「鬼瓦」って感じじゃありません。
↓突如、現代的なフォルムのものが。

↑「み」
タイヤのホイールかと思いましたが……。
↓なんと「円面硯」という硯(すずり)でした。

↑「み」
上の丸い面で墨をすり……。
周りの溝に溜めるようです。
今のような石の硯が使われ始めたのは、平安時代からとのこと。

↑『源氏物語絵巻』。黒いのが、硯の入った硯箱。
それ以前は、陶硯(とうけん)と呼ばれる焼きものの硯だったそうです。
画像の「円面硯」は、奈良時代のものですね。
それにしても、台の部分がなぜこんなに高くなってるのでしょうか?

スリットが空いてる理由は、なんとなく想像できます。
軽くするためでしょう。
しかし、台が無ければ、もっと軽くなるし、片付けやすいです。
ネットを検索してみましたが(ざっとですけど)……。
なぜ、台が付いてるのかを記した文章は見つかりませんでした。
裏返しにして、筆や墨を入れたんですかね?
形から、なんとなく連想したのは……。
地球平面説。
亀と象が大地を支えてるという図柄です。

↓陶器の五重塔のようです。

↑「み」
説明書きも写ってますが、小さくて読めません。
ネットを探してようやく見つけました。
「瓦塔」でした。
“かわらとう"ではなく、“がとう"。
ガトーショコラとは、色や質感は似てますが関係はありません。

木造建築の塔を模した焼物製の塔が、「瓦塔」。
奈良時代から平安時代にかけて作られたようです。
造られた目的については定説がないそうです。
木造の仏塔の代わりに安置して信仰の対象としたという説があるとか。
本物の木造の塔を建てるには……。
資金、技術、時間、いずれもたいへんです。

↑薬師寺西塔(1981年再建)。総工費は15億円だったそうです。案外安く出来ましたね。
その代わりに「瓦塔」を造って祈ったのでしょうか。
ここでちょっと思いつきました。
こういう塔を建てたいという模型じゃないでしょうか。
つまり、これを公開して……。
こんな立派な塔を造りたいから、ぜひ寄付をお願いしますというわけです。
一種の宣材ですね。
ひょっとしたら、これを携えて、各地を巡ったのかも知れません。
口先の説明だけよりは、ずっと効果ががありそうですよ。
↓何でしょう。

↑「み」
一瞬、トイレかと思って、色めき立ちました。
↓でも、残念ながら違いました。

↑「み」
「経筒(きょうづつ)」。
文字どおり、お経を収めた筒です。
でも、日常的に使われたものではありません。
経典を土中に埋納する「経塚」造営の際、経典を納めるために用いられた容器です。

↑この方とは関係ありません。
当初は、後世まで、お経を伝えようという目的だったようです。
早い話、「経筒」はタイムカプセルだったわけです。

しかしだんだん、追善供養や現世利益などに目的が変化していったとか。
↓硬貨が登場しました。

↑「み」
↓「開基勝宝(かいきしょうほう)」とあります。

↑「み」
初めて聞きました。
日本最初の金貨だそうです。
「開基勝寳」の文字は吉備真備(きびのまきび)の筆によるものだとか。

↑岡山県小田郡矢掛町「吉備真備公園」に建つ像。そうか、吉備の国の出身だったんですね。
吉備真備は、奈良時代の学者であり、政治家。
右大臣にまで上りました。
右大臣になった学者は、もう一人います。
菅原道真です。

↑少年時代の道真。11歳で漢詩を作ったそうです。
吉備真備、ひょっとしたら当時の新元号の文字も書いてたかも知れませんね。

さて、「開基勝宝」です。
現存するのは、32枚だそうです。
もちろん、古銭店では買えません。
重要文化財です。
すべてが、「東京国立博物館」に所蔵されてるようです。
↓貝殻のお金でしょうか。

↑「み」
何で突然、時代が遡るのかと思いましたが……。
違いました。
↓「和同開珎」の鋳型でした。

↑「み」
「和同開珎」は、日本で最初の流通通貨だそうです。

この読み方ですが、わたしは“わどうかいほう”と習った気がします。
どうやら読み方には、2種類の説があるようです。
「国立科学博物館」のフリガナは、“かいちん”ですね。

↑「み」
この読み方をめぐり……。
江戸時代から今日まで、「珍宝(ちんぽう)論争」と呼ばれる論争が続いてるそうです。

でも最近は、“ちん"が優勢なようで……。
教科書では、“ちん"が5冊、“ちん(ほう)"が3冊。
“ほう"だけのものは無いそうです。
材質は、銅です。
埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅が産出した事を記念し……。
元号が「和銅」に改められると共に、「和同開珎」が作られたそうです。

↑遺跡になってるようです。12分で500メートルは、かなりの山道ですね。
和銅は、「にきあかがね」と呼ばれ、純度が高く精錬を必要としない自然銅のことだとか。
ではなぜ、通貨の名前が、「和銅」ではなく「和同」なのか?
こちらに解説がありましたが……。
わたしの読解力が及ばず、さっぱりわかりませんでした。

↑秩父名物「味噌おでん」。かかってるのは、決して“あかがね"ではありません。
↓なんじゃこりゃー。

↑「み」
船の舳先を、下から見あげたようです。
説明書きを撮ってないので、何だかわかりません。
↓これもわからん。

↑「み」
↓説明書きは、相変わらずピンボケです。

↑「み」
目が痛くなるほど睨んで、どうやらわかりました。
最初の文字は、「氏」みたいな偏に「鳥」のようです。
どうやら、「鴟尾」と書いてあるようです。
調べたら、読みは“しび”でした。
瓦屋根の両端につけられる飾りですね。

↑唐招提寺金堂(奈良市)。
火除けのマジナイだそうです。
有名なところでは、名古屋城の金のシャチホコがあります。

火除けだから、水に棲む魚を象るようになったんでしょうかね。
↓横からも撮ってました。

↑「み」
わかった!
↓わたしが撮った1枚目。

鴟尾の裏側ですよ。
うーむ、すっきりした。
しかし、こんなの、どうやって屋根の上にあげたんですかね。
考えられるのは……。
細かく分割できたんじゃないでしょうか。
で、屋根の上で組み立てた後……。
接合面を目塗りしたんです。
ひょっとしたら、仕上げの鏝絵的な装飾は……。
左官が、屋根の上で行ったのかも知れません。

↑現代の左官職人による鏝絵(こてえ)。これを、コテだけで造形するんですよ。
↓小判です。

↑「み」
慶長小判。

↑「み」
ついに、江戸期に突入です。
関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、幕府設立に先立ち……。

貨幣制度の整備を重要課題の一つとして、小判の鋳造を命じました。
最初の発行は、慶長6(1601)年だそうです。
確かに、幕府設立の前ですね。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。
1601年は、関ヶ原の戦いの翌年です。
大河ドラマなどで江戸時代が舞台となる場合……。
たいがい、このころか幕末のどっちかです。

↑『八重の桜』。2013(平成25)年。
あとは、忠臣蔵ですね。

↑『元禄太平記』。1975(昭和50)年。
わたしは、江戸後期の爛熟した町人文化のころが好きなんですが……。

さすがに、1年を保たせられるストーリーは、作りづらいのでしょう。
見学写真は、まだ続きます。
読む方も飽きてきたでしょうが、書く方はもっと飽きてきました。
知識がないせいで、面白みが感じられないからでしょう。
↓また、なんかわからんもの。

↑「み」
↓「輪宝(りんぽう)」だそうです。

↑「み」
密教の仏具だとか。
悪を打破するそうです。
ヒーローものに使えそうですね。
そう云えばあんまり、仏教系のヒーローっていませんよね。

↑さがしたらありました! 『レインボーマン』の変身の呪文。明らかに仏教系!
この後、立て続けにピンボケが続くので、何枚か省略。
↓着物です。

↑「み」
江戸時代に作られた振り袖のようです。
わたしは、振り袖はおろか、着物すら着たことがありません。
和装で着てるのは、綿入れ半纏だけです。
↑袖で物を引っ掛けたり、不便なところもあるのですが……。なぜか、止められません。