2019.4.20(土)
投げ方はおそらく、ハンマー投げ方式でしょう。
縄文時代の室伏広治ですね。

何メートル飛んだのかわかりませんが……。
バシャンと海中に落ち、石の重みで底まで沈みます。
そしたら、縄をたぐり寄せてったんです。
すると、海中の砂に潜むヒラメなどが、先端の刃先に引っ掛かるわけです。

↑引っ掛かりそうです。これはカレイですが。
なんだか、効率が良くない気もしますがね。
でも、ヒラメやカレイがたくさんいれば、そこそこ取れたんじゃないですか。
ただし、そうとうに疲れたはずですよね。
あ、疑似餌ってのはひょっとして……。
ルアーのことですか?

↑綺麗ですよね。わたしは1度、ホームセンターの釣りコーナーで小さいのを買って、針を外してバッグの飾りにしたことがあります。
でも、ルアーは無理でしょう。
石ですよ。
それを、底に落とさないように引っ張るなんて、できっこないですよ。
そんなことが出来るのは、そうとうな体力を持つアスリート級の人物でしょうね。
まさに、縄文時代の室伏広治です。

消耗する体力と、得られる獲物のコスパは、かなり悪いんじゃなでしょうか。
しかし、↑の復元図で、わたしがひとつ疑問に思ったのは……。
刃が一方向にしか出てないこと。
これだと、海底で刃が上や横になってたら、ヒラメに引っかかりにくいと思います。
石の形状で、かならず刃が下を向くように出来るものでしょうか?
もしそうなら、こういう精巧な形状にしたというのもわかります。
でもわたしならむしろ、刃を多方向に付けますね。
金属があれば、かぎ爪のようなものを付ければ簡単です。

↑新潟県村上市の三面川で、鮭を引っ掛けて獲る「テンカラ漁」で使われる鉤針。3本針ですね。
でも、石しかない時代では、これで精一杯なのかも知れません。
おそらくそのときも石の取り付け方に疑問を持ったのでしょう……。
↓先端部の写真を撮ってます。

↑「み」
石が付きそうな痕跡はありませんよ。
↓剣類です。

↑「み」
緑色になってるのは、銅でしょうね。
銅戈(どうか)とあります。
初めて聞く名称です。
教科書で習ったのは確か、銅矛(どうほこ)でした。
調べてみたら……。
「戈」というのは、刃を柄の横に付ける武器のようです。

西洋の死神が持ってる鎌みたいなものでしょうか。
しかし、柄の横に付けたのでは、すぐ外れてしまうような気がするのですが。

↑ぜったい、すぐに取れます。
この当時は鎧とかがないから、大丈夫なんですかね?

↑これは、鎧なんでしょうか?
でも、空振りして岩とかにぶつけたら、外れますよね。
戦いの最中、スペアは持たないでしょうから……。
外れたら、一巻の終わりなんじゃないですか?
もう一つの方は、鉛矛(なまりぼこ)となってます。

↑「み」
矛は、矛先(ほこさき)というように……。
棒の先端部に被せて装着するようです。

それなら、金属部はもっと短くてもいいんじゃないですかね。
柄を長くすればいいだけです。
これだけの材料があれば、先っぽを4つくらい作れるはず。
第一、こんなもの、振り回せるんですか。
木製の丈夫な棒の先に、鋭利な短い刃物を付けた方が、よほど実用的だと思います。
考えるに……。
これらはどちらも、儀式用じゃないですか?
とうてい、実戦で使えたとは思えません。

↑銅矛のレプリカ。ひょっとしたら、光らせるのは目くらまし作戦でしょうか。それに対抗するのが、遮光器だったりして。
↓でたー。

↑「み」
どうみても、手裏剣です。
古代にもあったんですね。
そのころから忍者がいたんでしょうか。

↑変態忍者……。では、ありません。京都太秦映画村での台風被害です。
↓「巴型銅器」となってます。

↑「み」
しかし……。
調べてみたら、手裏剣じゃありませんでした。
祭器とあります。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。
ほんとですかね?
古墳時代には、装飾品として使われた例があるそうですが……。
弥生時代の用途は不明だそうです。
本来、武器だったものが、使える者がいなくなり……。
装飾品に変化したんじゃないでしょうか。

↑原型はこういう形。
やっぱり、弥生時代にも、忍者がいたんですよ。
しかし滅びてしまい、手裏剣の技も伝わらなかったのです。
↓管玉です。

↑「み」
“くがたま”かなと思いましたが、違ってました。
“くだたま”のようです。
でも、教科書で、“くがたま”と云う言葉を習った覚えがあります。
ネットを探したら、そこここで“くがたま”という表記が見つかりました。
確かに、形状としては、「管(くだ)」なわけですから……。
「管玉(くだたま)」が正しいのでしょう。
ATOKでも、“くだたま”からは変換できますが……。
“くがたま”では出来ません。
ちなみに、「玉」がつく装飾品では、もうひとつ……。
「勾玉」というのがあります。

↑これは、胎児(もしくは水子)を象ったものじゃないでしょうか?
この読みは、“まがたま”です。
元々は、「曲玉(まがりだま)」だったようです。

↑家紋です。
「勾」にも「曲がる」という意味があるそうです。
「勾配」なんて言葉もあります。
しかし、普通の日本人は、「勾玉」を“まがたま”とは読めませんよね。
調べてみたら、「勾」の音読み(呉音)は、“ク”だそうです。
ひょっとしたら、こっちが“くがたま”なんじゃないでしょうか?
さて、管玉に戻ります。
早い話、これはビーズですよね。

素材は、ガラス・碧玉・滑石・凝灰岩などだそうです。
縄文時代からあるそうです。
一番の疑問は、どうやって穴を空けたのかということ。

金属なんてなかった時代ですよね。
錐のようなものは作れないでしょう。
ネットをいろいろ調べたところ……。
竹で空けたみたいですね。
竹ひごを錐のように使ったのでしょう。

もちろん、これで石に穴を空けるのは容易なことではありません。
両側から、少しずつ掘り進んだみたいです。
トンネルを掘るようなものでしょう。

次第に、道具も考案されていったんじゃないでしょうか。
わたしは、一番重要なのは……。
管玉を固定する方法だと思います。

これがグラグラしてると、作業がはかどらない。
足の裏で挟んだくらいでは、動かないようには固定できないでしょう。
万力なんか無い時代です。

どうやったんですかね。
ひょっとして……。
粘土板に埋めこんだとか。

日干しして粘土が固まれば、動かないんじゃないですか?

でも、管玉が円柱形ですから……。
作業するうち、回るようになってしまうかも知れません。
管玉は、円柱形に加工する前の……。
角柱くらいにした段階で、穴を空けたんじゃないでしょうか。

それなら、粘土板に埋めこんでも、クルクル回ってしまうことはないでしょう。
粘土板を裏返せば、反対側からも作業が出来ます。
穴を空ける竹ひごにも、工夫があったはずです。
火起こしの方法にありますよね。
↓こういうやつ。

舞錐(まいぎり)式火起こし器と云うようです。
この方式で、竹ひごを回転させるわけです。
錐のように両手を擦り合わせる方法より、ずっと効率的じゃないですかね。

しかし、いずれにしても、片手間で出来る作業ではありません。
おそらくすでに、穴空け専業の人がいたんじゃないでしょうか。
有力者は、管玉生産工房のようなものを各々で持っており……。
そこで、管玉職人が、分業で働いてた。

↑『小樽市総合博物館』の展示。小樽で暮らせるほど暖かかったわけです。
近くの竪穴式住居から、通勤してたんですかね?

↑虫さえいなければ、住んでみたい気がするのですが……。ぜったい、カマドウマがいたと思います。
あ、ひょっとしたら、集団生活をしてたのかも。
三内丸山遺跡にありましたよね。
大型竪穴住居。

長さ32メートル、幅9.8メートル。
共同作業所だったという説もあります。
ひょっとしたら、作業所兼住居だったかも知れません。
↓何でしょう?

↑「み」
下の方は、自転車のサドルっぽいですが、もちろんそんなはずありません。
弥生時代の道具です。
上の方は、馬具かなと思いましたが、違ってました。
田下駄(たげた)だそうです。
穴には鼻緒を通し、田んぼを履いて歩いたわけです。

↑こちらは、明治から大正ころの田下駄。中央部が盛りあがってるところなど、縄文時代と形状が一緒です。
これから連想するのは、忍者が水上歩行に使ったと云われる「水蜘蛛」です。

ところで、この水蜘蛛ですが……。
実際の使い方は、違ってたそうです。
確かに、こんなのを履いて水上を歩いてたら、狙われ放題です。
↓実際の使われ方はこちら。

忍者は泳げなかったんですかね?
ひょっとしたら、重いものを向こう岸に渡すときに使ったのかな。
でも、それなら、船でいいはずです。

↑道頓堀川を忍者姿で観光する「忍者船」。乗船時間は50分。大人:4,500円、子ども:3,500円(高けー)。
いったい、いかようなメリットがあったんでしょうか?
強いて言えば、「水蜘蛛」なら、畳めば背負って運べます。

船ではそうはいきません。
むしろ、向こう岸に渡る道具ではなく……。
下流に下るための道具だったのかも?

↑流れに任せて下るだけなら、漕ぐ必要もありません。
これなら、陸路を歩くより遙かに楽でしょう。
でも、見つかったら狙われ放題なのは同様です。
夜、使ったんですかね?
流れに身を任せれば、下流まで下れます。
ひょっとしたら、仮眠も取れたかも。
いや、いくらなんでも無理でしょうね。
真っ暗闇ですよ。
怖すぎます。

↑月明かりがあれば安心ですが……。見つかってしまう危険が増します。
もちろん「水蜘蛛」は、流れの速い上流部では使えないでしょう。
岩にぶつかったら、バラバラになってしまいますから。
使えるのは、流れの穏やかな下流部です。
となると、ついうっかり居眠りしてるうちに……。
海に出てしまったりする可能性もあります。

そうなったらもう、戻れませんよ。
夜は怖くて使えない。
昼は、人目が怖くて使えない。
使えるときがないではないか!
ほんとに、忍者が使ったんですか?
むしろ、遊び道具だったんじゃないでしょうか?
それか、釣りの道具です。
流れの真ん中あたりで針を下ろして、大物を狙ったのかも?

↑ほら、こんなのがあった。「ポンツーンボート」と云うようです。
でも現在、「水蜘蛛」のような道具がないのは不思議ですよね。
ボートなどではなく、もっと手軽に水に浮ける道具が開発できそうですけど。
ライフジャケットに浮き輪を合体させたようなもの、ないですかね?

↑近いものはありました。
↓「弥生時代の生活の道具」の説明書きです。

↑「み」
↓再び、銅鐸です。

↑「み」
見事な造形です。
周りに付いてる、耳みたいなのは何ですかね?
↓調べたら、まさしく「双耳」でした。

単なる飾りでしょうか?
わたしが思うに、この「双耳」や周りを縁取るヒレみたいなものは……。
偶然の産物から発生したのではないでしょうか?
鋳あがったときに、銅がはみ出した「バリ」ですよ。

最初は、このバリは、丁寧に取ってた。
そのうち、実に見事な「バリ」の付いた銅鐸が鋳あがります。
で、「これ、ありでね?」となるわけです。
というわけで、「バリ」から派生した飾りが発達することになるわけです。
如何?
↓なんじゃこりゃー?

↑「み」
例によって、説明書きがピンボケで読めません。
『東京国立博物館』のページを探したらわかりました(こちら)。
「旋端文石(模造)」でした。
しかし、読み方すらわかりません。
こちらのサイトさんでは、「旋帯文石」となってます。
『東京国立博物館』に展示されてるのは、「岡山県倉敷市矢部楯築遺跡出土」となってます。
後者は、「岡山県の楯築(たてつき)神社に御神体として安置されている旋帯文石」とあります。
『東京国立博物館』のが「模造」ということであれば……。
本物は、楯築神社にあるのでしょう。
倉敷市のページ(こちら)で、「旋帯文石」の読み方がわかりました。
“せんたいもんせき”でした。
「石の表面には全面に特殊な帯状曲線入組文様(旋帯文)が飾られ」とあります。
となれば、『東京国立博物館』のサイトの「旋端文石」は間違いじゃないですか?
↓『Weblio 辞書』の解説です()。
+++
本遺品は、約三五〇キログラムの石灰岩系の岩石に人面を刻み、体部全体に帯状の紐を旋回させ束縛したような文様を精緻に彫成したものである。この文様は弥生時代の祭祀儀式に用いられた大形器台と同種で、祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品である。弥生時代社会をみるうえに欠かせない重要な遺品であるとともに、原始工芸の一水準をも示している。
+++
結局、「祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品」としかわからないわけですね。
350キロということは、ある場所に据えっぱなしで用いられたのでしょう。
ひょっとして、粘土を当てて模様を写したとか?
いや、むしろ、ナンのような食べ物を、焼く前に押しつけたのかも?
模様を写し取って、それを焼いて食べれば魔除けになりそうじゃないですか。
↓これも田下駄でしょうか?

↑「み」
解説文を拡大してびっくり。
↓「石製履(いしせいくつ)」とあります。

↑「み」
確かにこれなら、究極の安全靴です。
万葉集の歌を思い出しました。
●信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背
信濃路へ旅する夫を案じた妻の歌です。
「信濃道は、最近通じたばかりの道ですから、鋭い切り株がほうぼうにあります。きっと踏むでしようから沓をはいて行って下さい、あなた」という意味。
この当時、足の裏に傷を負うことは、即、死に繋がる恐ろしいことだったでしょう。

↑こんなとこ、そもそも入って行けません。
信濃路が開通したのが西暦713年。
もう奈良時代に入ってます。
「石製履」の年代は、古墳時代の5世紀。
奈良時代より、300年も前です。
いくら究極の安全靴でも、石の靴を履いたら信濃路は歩けないでしょう。

↑石の靴を履いて散歩する中国人。何考えてんねん。でも、歩く距離は、20メートルだそうです。
もちろん、歩けないだろうことは、古墳時代でも一緒です。
どういうときに使ったんですかね?
やっぱり、身体を鍛えるためでしょうか。
鉄下駄の元祖ですよ。
↑けっこう、いい値段ですね。
そもそも、鼻緒の穴が空いてるじゃないですか。
「履」より「下駄」です。
「石下駄」じゃないですか。

↑『実相寺(静岡県富士市)』にある石下駄。仁王さま用だそうです。
裏側に出っ張りがあるところも、下駄と似てます。
むしろこれを、「履(くつ)」とした理由が知りたい。
問題は、用途ですが……。
ひょっとしたら、刑罰用?
これを履いて、グランド10周とか。

今、そんな指導したら、懲戒免職ですけどね。
やっぱり、古墳時代の仁王さま用ですかね?
あ、古墳時代の仁王さまでピンときました。
大魔神用じゃないですか?

↑長浜市『海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館』の入り口前におわします。
ま、それは冗談としても……。
生身の人間用ではないんじゃないでしょうか。
つまり、死者用の履です。
お墓の中で腐らないようにということ。
ひょっとしたら、遺体をこの履に縛り付けることで……。
死霊が地上に出てこないようにしたのかも知れませんね。

↓中国製の鏡です。

↑「み」
「方格規矩四神鏡 (ほうかくきくししんきょう)」とあります。
初めて聞く名称です。
「中央の方格(方形の紋様)と、規矩(きく=コンパスと定規)」とのこと。
さっぱりわかりません。
もうちょっと気の利いた名称は付けられないものですかね。
鏡の名称で、わたしが知ってるのは「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」だけです。

↑縁の断面が三角形になってます。
しかし、こういう鏡の画像って、ほぼすべてが、裏面の装飾を写したものです。
表面の鏡は、どうなってるんですかね。
わたしは、そっちの方が興味があります。

↑反射させると像が浮かびあがる「魔鏡」だったようです(実物は錆びにより、光を反射しません)。
また、これらの鏡は銅製です。
そのため、酸化して緑青を吹いて、こんな色になってるわけです。
作られた時点では、オリンピックの銅メダルの色だったはず。
つまり、黄金に近い色です。

綺麗だったでしょうね。
↓また、謎の物体。

↑「み」
「家形飾環頭柄頭(いえがたかざりかんとうつかがしら)」だそうです。

↑「み」
どこが「家」やねんと思いましたが……。
どうやら、わたしが撮った角度が良くないようです。
↓これです。

たしかに、柄頭(つかがしら)に家が付いてますね。
丸い飾り部分を、「飾環頭(かざりかんとう)」と云うようです。
でも、何で飾りに家が付いてるんですかね?
ほんとうに家なんでしょうか?
確かに家の形にも見えますが……。
家と言うより、神社の屋根に似てる気がしますね。
伊勢神宮とかの。

ひょっとしたら、そうした神聖な建物を模した飾りなのかも知れません。
↓またまたわからんものがありました。

↑「み」
すぐに連想したのは、観光地なんかにある記念撮影用の顔出しパネルです。

でも、下の柄頭と比べたら、顔を出せるほどの大きさではないようです。
↓説明板が、どうやら読めました。

↑「み」
3番ですから、「鍬形石」ですね。
どこが「鍬」なんじゃいと思いましたが……。
下の部分が、鍬の刃ですね。

とすれば……。
わたしが顔出し用と誤解した穴は、柄を通す穴になります。
デカすぎでしょ?
と思ったら、違ってました。
単に「鍬」に形が似てると云うだけで、用途は別でした。
↓『ブリタニカ国際大百科事典』の解説です(こちら)。
+++
古墳時代の腕飾りの一種。碧玉製で、形が鍬に似ていることからこの名があり、宝器の一種とされている。
+++
腕輪なら、穴がデカいのもわかります。
そう言われてみると……。
穴は、それぞれ大きさや形が微妙に違う気もします。

↑奈良県『島の山古墳』からの出土品。
ひとりひとりに合わせた特注品だったんですかね?
穴が楕円形です。
細長い方の両端に何かが付いてます。
一方は、名前の由来になった「鍬形」の刃。
もう一方は何でしょう。
いずれにしろ、腕をだらんと下げたときの上腕の形は……。
身体の前後の方向に細長くなります。
前後に筋肉が付いてるからです。

なので、「鍬形」は、身体の前方か後方を向くかたちになります。
でも、「鍬形」が前にあったら、腕を曲げたときに邪魔になりますよね。
後ろに出てたんですかね。
どういう意味があるんでしょう。
「おれの後ろに立つな」ということですか?

あ、違うか。
二の腕に付けたんじゃないのか。
二の腕じゃ、落ちますよね。
石ですから重いです。
肩じゃないですか?
肩の上に鍬の刃が、ステゴサウルスの骨板みたいに立ちあがってたんです。

何のためかは……。
わかりかねます。
あ、ひょっとしたら、防具の一種だったのかも。
大魔神の兜の両脇が、立ちあがってます。

あれは、埴輪の武人像をモチーフにしたものだと思います。

あの立ち上がりはやがて……。
武士の兜の、いわゆるクワガタに変化していくのでしょう。

埴輪の兜時点で、すでに装飾化してたわけです。
でも元々は肩に付けてて、実際に防御機能があった。
横から槍で突かれたり、剣を横殴りに振られたりしたとき……。
顔を防御するための防具だった。

↑最近のプロ野球、こういうヘルメットの人が増えましたよね。
単なる飾りなら、木製でいいわけです。
軽いですし。
でも、石製だったのは……。
防具として、槍や剣を防ぐためのものだったからじゃないですか。
如何?
しかし、ネットを探しても……。
この「鍬形石」を装着した画像が、ひとつもないんですよ。
誰もわからないってことなんですかね?
↓カッパの頭の皿でしょうか?

↑「み」
↓「2」ですから、「車輪石」ですね。

↑「み」
もちろん、実際に車輪として使われたわけではありません。
車輪に形状が似た石ということです。
「鍬形石」も、形状からの命名です。
用途を確定できないので、形状から名前を付けてるのでしょう。
仕方のないことではあります。
しかし、「車輪石」は、用途が特定されてるようです。
腕飾りとのことです。
放射状の模様から、貝を加工したものに見えますが……。
「石」というとおり、碧玉(へきぎょく)製だそうです。

↑島根県松江市玉湯町玉造産出の碧玉。碧玉とは不純な石英で、色は赤や緑があるそうです。
「車輪石」の放射状の刻みは、「貝輪」を模したものだとか。

↑縄文中期の「貝輪」。
つまり、元々は貝で造られてたものが……。
石製に変わったということなのでしょう。
用途がはっきりわかったのは……。
埋葬人骨の腕にはめられた状態で出土するからだとか。
これを造るには、貝を加工した方が、遙かにたやすいです。
石にわざわざ、貝を模した刻みを入れるのは、容易なことではないでしょう。
これは、埋葬された人物が、いかに重要な人だったかを表現するものではないでしょうか。
簡単には造れないものをあえて造って、埋葬したのです。
家族愛とか、そういうことじゃないですね。
権力者など、ステータスの表現なのでしょう。
あと、生きてる人が、この「車輪石」を腕飾りとするのは考えにくいです。
邪魔ですよ。
腕の何処につけたんでしょう?
拳を通すわけですから、手首ならブラブラします。
二の腕まで引きあげたら、明らかに身体にあたりますよね。
これを邪魔と感じないのは、死者だけです。
死者だけが着けた飾りじゃないですか。
↓初めて、見てすぐに用途がわかるものがありました。

↑「み」
↓まさしくこれです。

↑「み」
しかし、確かに椅子ですが……。
生きた人が座るものではないのでしょう。
副葬品ですね。
あの世での生活に不自由がないように……。
こうした日用品を模したものを一緒に埋葬したのだと思います。
↓またわからないものが出ました。

↑「み」
↓「埴製合子(はにせいごうす」とあります。

↑「み」
「合子(ごうす)」ってのは何ですかね?
あ、「合う」ということは……。
本体と蓋でしょうか。
キノコの笠みたいなのが、蓋です。
↓『世界大百科事典』の解説です(こちら)。
+++
ごうす【合子】
身と蓋とからなる小型の容器。古墳時代には近畿とその隣接地域で碧玉または滑石で作った石製合子を使用した。平面が円形で、径5cmほどの有脚の碧玉製合子が4世紀にあらわれ、平面が楕円形で、長径10cm以上の平底無脚の滑石製合子は5世紀にくだる。ともに蓋は甲高に作るが、鈕(つまみ)はつけていない。木製品を祖形とするものであろうが、なにを入れるものかはわからない。岡山市金蔵山(かなくらやま)古墳出土の長径40cmほどの埴製(はにせい)合子には各種の鉄製工具を入れてあった。
+++
大当たりでしたね。
↓碧玉の合子は、生きた人が使ったものでしょう。

埴製合子は、副葬品ですね。
鉄製工具は、その人の生前の職業で使ったものではないでしょうか。
でも、職人に古墳が造られるとも思われません。
埋葬される人に仕えてた職人の工具じゃないですか。
おそらく、職人の代わりには、埴輪像が入れられたのでしょう。

↑茨城県桜川市真壁町『はにわの西浦』。凄いですね。
↑の解説では、「鈕(つまみ)はつけていない」とありますが……。
摘まんで開けられる重さじゃないからでしょう。
両手を蓋の下に差し入れて、持ちあげたんだと思います。
あ、「鈕(つまみ)はつけていない」というのは、生きた人間用の小型の合子のことか。
「径5cm」なら、摘まんで開けられますね。

↑つまみの付いた合子。直径10㎝。現代の作品です。
↓でも、その後の「合子」にも、つまみがないものはたくさんあるようです。
昔は、つまみを付けるには、技術を要したでしょう。
でも今なら、さほど高いハードルではないと思います。
なんで、付けないのか?
わたしが思うに……。
つまみは、かなり破損しやすい部位だと思います。

簡単に傷物になってしまう。
贈り物などでもらったら、大事に使いたいでしょうから……。
出来るだけ壊れにくいよう、単純な形状にしてるのじゃないでしょうか。
↓突然、兜と鎧です。

↑「み」
鉄製の武具が現れたわけです。
しかし、重かったでしょうね。
動けるためには、薄くしなければなりません。
でも、薄すぎたら、剣が通ってしまう。

悩ましいところです。
しかし、兜のてっぺんにある漏斗みたいなのは何でしょう?

一瞬、杯かと思いました。
つまり、相手を討ち取ったとき……。
ここにお酒を入れて飲んだ。

↑これは「馬上杯」。文字どおり、勝利を祈願して馬上で飲む杯。
しかし、自分が討ち取られることを想定して……。
わざわざ頭に杯を載せておくわけありませんよね。

調べたところ……。
名称だけはわかりました。
「受鉢(うけばち)」と云うようです。
Wikiでは……。
「この受鉢には、獣毛や繊維による払子状の装飾が付けられていたのではないかと考えられている。なお福岡県行橋市稲童の稲童古墳群21号墳からは、受鉢に樹枝状の金属製装飾が取り付けられた例が全国で唯一出土している」とあります。
↓「樹枝状の金属製装飾」というのは、これです。

これが唯一ということは……。
おそらくほかのものには、後世に残らない材質のものが付いてたからなのでしょう。
すなわち、「獣毛や繊維による払子状の装飾」ということです。
「払子」は、“ほっす"と読むようです。
↓仏教の法具ですね。

こういうものの根元を、半球形の「受鉢」に据え、縛ったのでしょうか。
でも、どうして半球形である必要があったのか。
固定するだけなら、もっと別の形状になりそうです。
わたしが思うに、半球形の「受鉢」であれば……。

払子の角度を、さまざまに変えられそうです。
つまり、払子側の根元が球形なんです。

↑根元が丸っぽいです。
それを、半球形の「受鉢」に載せて縛った。
きっと、占いかなんかで、払子の方向を決めたんですよ。

今日は前に垂らすとか。

↑見合い写真?
しかも、垂らす方向は、戦いの最中にも変わった。
旗色が悪いときは、反対側に倒すとか。
あ、ひょっとしたら、戦法のサインだったのかも。
いずれにしろ戦いの最中ですから……。
いちいち解いて、縛り直したりしてるヒマはありません。

↑関ヶ原から敗走する島津勢。
そんなことしてたら、後ろから斬られますよ。
馬上でも、ひょいと片手で変えられなければなりません。
ということで、頭頂に半球形の「受鉢」が付いてるわけです。
縄文時代の室伏広治ですね。

何メートル飛んだのかわかりませんが……。
バシャンと海中に落ち、石の重みで底まで沈みます。
そしたら、縄をたぐり寄せてったんです。
すると、海中の砂に潜むヒラメなどが、先端の刃先に引っ掛かるわけです。

↑引っ掛かりそうです。これはカレイですが。
なんだか、効率が良くない気もしますがね。
でも、ヒラメやカレイがたくさんいれば、そこそこ取れたんじゃないですか。
ただし、そうとうに疲れたはずですよね。
あ、疑似餌ってのはひょっとして……。
ルアーのことですか?

↑綺麗ですよね。わたしは1度、ホームセンターの釣りコーナーで小さいのを買って、針を外してバッグの飾りにしたことがあります。
でも、ルアーは無理でしょう。
石ですよ。
それを、底に落とさないように引っ張るなんて、できっこないですよ。
そんなことが出来るのは、そうとうな体力を持つアスリート級の人物でしょうね。
まさに、縄文時代の室伏広治です。

消耗する体力と、得られる獲物のコスパは、かなり悪いんじゃなでしょうか。
しかし、↑の復元図で、わたしがひとつ疑問に思ったのは……。
刃が一方向にしか出てないこと。
これだと、海底で刃が上や横になってたら、ヒラメに引っかかりにくいと思います。
石の形状で、かならず刃が下を向くように出来るものでしょうか?
もしそうなら、こういう精巧な形状にしたというのもわかります。
でもわたしならむしろ、刃を多方向に付けますね。
金属があれば、かぎ爪のようなものを付ければ簡単です。

↑新潟県村上市の三面川で、鮭を引っ掛けて獲る「テンカラ漁」で使われる鉤針。3本針ですね。
でも、石しかない時代では、これで精一杯なのかも知れません。
おそらくそのときも石の取り付け方に疑問を持ったのでしょう……。
↓先端部の写真を撮ってます。

↑「み」
石が付きそうな痕跡はありませんよ。
↓剣類です。

↑「み」
緑色になってるのは、銅でしょうね。
銅戈(どうか)とあります。
初めて聞く名称です。
教科書で習ったのは確か、銅矛(どうほこ)でした。
調べてみたら……。
「戈」というのは、刃を柄の横に付ける武器のようです。

西洋の死神が持ってる鎌みたいなものでしょうか。
しかし、柄の横に付けたのでは、すぐ外れてしまうような気がするのですが。

↑ぜったい、すぐに取れます。
この当時は鎧とかがないから、大丈夫なんですかね?

↑これは、鎧なんでしょうか?
でも、空振りして岩とかにぶつけたら、外れますよね。
戦いの最中、スペアは持たないでしょうから……。
外れたら、一巻の終わりなんじゃないですか?
もう一つの方は、鉛矛(なまりぼこ)となってます。

↑「み」
矛は、矛先(ほこさき)というように……。
棒の先端部に被せて装着するようです。

それなら、金属部はもっと短くてもいいんじゃないですかね。
柄を長くすればいいだけです。
これだけの材料があれば、先っぽを4つくらい作れるはず。
第一、こんなもの、振り回せるんですか。
木製の丈夫な棒の先に、鋭利な短い刃物を付けた方が、よほど実用的だと思います。
考えるに……。
これらはどちらも、儀式用じゃないですか?
とうてい、実戦で使えたとは思えません。

↑銅矛のレプリカ。ひょっとしたら、光らせるのは目くらまし作戦でしょうか。それに対抗するのが、遮光器だったりして。
↓でたー。

↑「み」
どうみても、手裏剣です。
古代にもあったんですね。
そのころから忍者がいたんでしょうか。

↑変態忍者……。では、ありません。京都太秦映画村での台風被害です。
↓「巴型銅器」となってます。

↑「み」
しかし……。
調べてみたら、手裏剣じゃありませんでした。
祭器とあります。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。
ほんとですかね?
古墳時代には、装飾品として使われた例があるそうですが……。
弥生時代の用途は不明だそうです。
本来、武器だったものが、使える者がいなくなり……。
装飾品に変化したんじゃないでしょうか。

↑原型はこういう形。
やっぱり、弥生時代にも、忍者がいたんですよ。
しかし滅びてしまい、手裏剣の技も伝わらなかったのです。
↓管玉です。

↑「み」
“くがたま”かなと思いましたが、違ってました。
“くだたま”のようです。
でも、教科書で、“くがたま”と云う言葉を習った覚えがあります。
ネットを探したら、そこここで“くがたま”という表記が見つかりました。
確かに、形状としては、「管(くだ)」なわけですから……。
「管玉(くだたま)」が正しいのでしょう。
ATOKでも、“くだたま”からは変換できますが……。
“くがたま”では出来ません。
ちなみに、「玉」がつく装飾品では、もうひとつ……。
「勾玉」というのがあります。

↑これは、胎児(もしくは水子)を象ったものじゃないでしょうか?
この読みは、“まがたま”です。
元々は、「曲玉(まがりだま)」だったようです。

↑家紋です。
「勾」にも「曲がる」という意味があるそうです。
「勾配」なんて言葉もあります。
しかし、普通の日本人は、「勾玉」を“まがたま”とは読めませんよね。
調べてみたら、「勾」の音読み(呉音)は、“ク”だそうです。
ひょっとしたら、こっちが“くがたま”なんじゃないでしょうか?
さて、管玉に戻ります。
早い話、これはビーズですよね。

素材は、ガラス・碧玉・滑石・凝灰岩などだそうです。
縄文時代からあるそうです。
一番の疑問は、どうやって穴を空けたのかということ。

金属なんてなかった時代ですよね。
錐のようなものは作れないでしょう。
ネットをいろいろ調べたところ……。
竹で空けたみたいですね。
竹ひごを錐のように使ったのでしょう。

もちろん、これで石に穴を空けるのは容易なことではありません。
両側から、少しずつ掘り進んだみたいです。
トンネルを掘るようなものでしょう。

次第に、道具も考案されていったんじゃないでしょうか。
わたしは、一番重要なのは……。
管玉を固定する方法だと思います。

これがグラグラしてると、作業がはかどらない。
足の裏で挟んだくらいでは、動かないようには固定できないでしょう。
万力なんか無い時代です。

どうやったんですかね。
ひょっとして……。
粘土板に埋めこんだとか。

日干しして粘土が固まれば、動かないんじゃないですか?

でも、管玉が円柱形ですから……。
作業するうち、回るようになってしまうかも知れません。
管玉は、円柱形に加工する前の……。
角柱くらいにした段階で、穴を空けたんじゃないでしょうか。

それなら、粘土板に埋めこんでも、クルクル回ってしまうことはないでしょう。
粘土板を裏返せば、反対側からも作業が出来ます。
穴を空ける竹ひごにも、工夫があったはずです。
火起こしの方法にありますよね。
↓こういうやつ。

舞錐(まいぎり)式火起こし器と云うようです。
この方式で、竹ひごを回転させるわけです。
錐のように両手を擦り合わせる方法より、ずっと効率的じゃないですかね。

しかし、いずれにしても、片手間で出来る作業ではありません。
おそらくすでに、穴空け専業の人がいたんじゃないでしょうか。
有力者は、管玉生産工房のようなものを各々で持っており……。
そこで、管玉職人が、分業で働いてた。

↑『小樽市総合博物館』の展示。小樽で暮らせるほど暖かかったわけです。
近くの竪穴式住居から、通勤してたんですかね?

↑虫さえいなければ、住んでみたい気がするのですが……。ぜったい、カマドウマがいたと思います。
あ、ひょっとしたら、集団生活をしてたのかも。
三内丸山遺跡にありましたよね。
大型竪穴住居。

長さ32メートル、幅9.8メートル。
共同作業所だったという説もあります。
ひょっとしたら、作業所兼住居だったかも知れません。
↓何でしょう?

↑「み」
下の方は、自転車のサドルっぽいですが、もちろんそんなはずありません。
弥生時代の道具です。
上の方は、馬具かなと思いましたが、違ってました。
田下駄(たげた)だそうです。
穴には鼻緒を通し、田んぼを履いて歩いたわけです。

↑こちらは、明治から大正ころの田下駄。中央部が盛りあがってるところなど、縄文時代と形状が一緒です。
これから連想するのは、忍者が水上歩行に使ったと云われる「水蜘蛛」です。

ところで、この水蜘蛛ですが……。
実際の使い方は、違ってたそうです。
確かに、こんなのを履いて水上を歩いてたら、狙われ放題です。
↓実際の使われ方はこちら。

忍者は泳げなかったんですかね?
ひょっとしたら、重いものを向こう岸に渡すときに使ったのかな。
でも、それなら、船でいいはずです。

↑道頓堀川を忍者姿で観光する「忍者船」。乗船時間は50分。大人:4,500円、子ども:3,500円(高けー)。
いったい、いかようなメリットがあったんでしょうか?
強いて言えば、「水蜘蛛」なら、畳めば背負って運べます。

船ではそうはいきません。
むしろ、向こう岸に渡る道具ではなく……。
下流に下るための道具だったのかも?

↑流れに任せて下るだけなら、漕ぐ必要もありません。
これなら、陸路を歩くより遙かに楽でしょう。
でも、見つかったら狙われ放題なのは同様です。
夜、使ったんですかね?
流れに身を任せれば、下流まで下れます。
ひょっとしたら、仮眠も取れたかも。
いや、いくらなんでも無理でしょうね。
真っ暗闇ですよ。
怖すぎます。

↑月明かりがあれば安心ですが……。見つかってしまう危険が増します。
もちろん「水蜘蛛」は、流れの速い上流部では使えないでしょう。
岩にぶつかったら、バラバラになってしまいますから。
使えるのは、流れの穏やかな下流部です。
となると、ついうっかり居眠りしてるうちに……。
海に出てしまったりする可能性もあります。

そうなったらもう、戻れませんよ。
夜は怖くて使えない。
昼は、人目が怖くて使えない。
使えるときがないではないか!
ほんとに、忍者が使ったんですか?
むしろ、遊び道具だったんじゃないでしょうか?
それか、釣りの道具です。
流れの真ん中あたりで針を下ろして、大物を狙ったのかも?

↑ほら、こんなのがあった。「ポンツーンボート」と云うようです。
でも現在、「水蜘蛛」のような道具がないのは不思議ですよね。
ボートなどではなく、もっと手軽に水に浮ける道具が開発できそうですけど。
ライフジャケットに浮き輪を合体させたようなもの、ないですかね?

↑近いものはありました。
↓「弥生時代の生活の道具」の説明書きです。

↑「み」
↓再び、銅鐸です。

↑「み」
見事な造形です。
周りに付いてる、耳みたいなのは何ですかね?
↓調べたら、まさしく「双耳」でした。

単なる飾りでしょうか?
わたしが思うに、この「双耳」や周りを縁取るヒレみたいなものは……。
偶然の産物から発生したのではないでしょうか?
鋳あがったときに、銅がはみ出した「バリ」ですよ。

最初は、このバリは、丁寧に取ってた。
そのうち、実に見事な「バリ」の付いた銅鐸が鋳あがります。
で、「これ、ありでね?」となるわけです。
というわけで、「バリ」から派生した飾りが発達することになるわけです。
如何?
↓なんじゃこりゃー?

↑「み」
例によって、説明書きがピンボケで読めません。
『東京国立博物館』のページを探したらわかりました(こちら)。
「旋端文石(模造)」でした。
しかし、読み方すらわかりません。
こちらのサイトさんでは、「旋帯文石」となってます。
『東京国立博物館』に展示されてるのは、「岡山県倉敷市矢部楯築遺跡出土」となってます。
後者は、「岡山県の楯築(たてつき)神社に御神体として安置されている旋帯文石」とあります。
『東京国立博物館』のが「模造」ということであれば……。
本物は、楯築神社にあるのでしょう。
倉敷市のページ(こちら)で、「旋帯文石」の読み方がわかりました。
“せんたいもんせき”でした。
「石の表面には全面に特殊な帯状曲線入組文様(旋帯文)が飾られ」とあります。
となれば、『東京国立博物館』のサイトの「旋端文石」は間違いじゃないですか?
↓『Weblio 辞書』の解説です()。
+++
本遺品は、約三五〇キログラムの石灰岩系の岩石に人面を刻み、体部全体に帯状の紐を旋回させ束縛したような文様を精緻に彫成したものである。この文様は弥生時代の祭祀儀式に用いられた大形器台と同種で、祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品である。弥生時代社会をみるうえに欠かせない重要な遺品であるとともに、原始工芸の一水準をも示している。
+++
結局、「祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品」としかわからないわけですね。
350キロということは、ある場所に据えっぱなしで用いられたのでしょう。
ひょっとして、粘土を当てて模様を写したとか?
いや、むしろ、ナンのような食べ物を、焼く前に押しつけたのかも?
模様を写し取って、それを焼いて食べれば魔除けになりそうじゃないですか。
↓これも田下駄でしょうか?

↑「み」
解説文を拡大してびっくり。
↓「石製履(いしせいくつ)」とあります。

↑「み」
確かにこれなら、究極の安全靴です。
万葉集の歌を思い出しました。
●信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背
信濃路へ旅する夫を案じた妻の歌です。
「信濃道は、最近通じたばかりの道ですから、鋭い切り株がほうぼうにあります。きっと踏むでしようから沓をはいて行って下さい、あなた」という意味。
この当時、足の裏に傷を負うことは、即、死に繋がる恐ろしいことだったでしょう。

↑こんなとこ、そもそも入って行けません。
信濃路が開通したのが西暦713年。
もう奈良時代に入ってます。
「石製履」の年代は、古墳時代の5世紀。
奈良時代より、300年も前です。
いくら究極の安全靴でも、石の靴を履いたら信濃路は歩けないでしょう。

↑石の靴を履いて散歩する中国人。何考えてんねん。でも、歩く距離は、20メートルだそうです。
もちろん、歩けないだろうことは、古墳時代でも一緒です。
どういうときに使ったんですかね?
やっぱり、身体を鍛えるためでしょうか。
鉄下駄の元祖ですよ。
↑けっこう、いい値段ですね。
そもそも、鼻緒の穴が空いてるじゃないですか。
「履」より「下駄」です。
「石下駄」じゃないですか。

↑『実相寺(静岡県富士市)』にある石下駄。仁王さま用だそうです。
裏側に出っ張りがあるところも、下駄と似てます。
むしろこれを、「履(くつ)」とした理由が知りたい。
問題は、用途ですが……。
ひょっとしたら、刑罰用?
これを履いて、グランド10周とか。

今、そんな指導したら、懲戒免職ですけどね。
やっぱり、古墳時代の仁王さま用ですかね?
あ、古墳時代の仁王さまでピンときました。
大魔神用じゃないですか?

↑長浜市『海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館』の入り口前におわします。
ま、それは冗談としても……。
生身の人間用ではないんじゃないでしょうか。
つまり、死者用の履です。
お墓の中で腐らないようにということ。
ひょっとしたら、遺体をこの履に縛り付けることで……。
死霊が地上に出てこないようにしたのかも知れませんね。

↓中国製の鏡です。

↑「み」
「方格規矩四神鏡 (ほうかくきくししんきょう)」とあります。
初めて聞く名称です。
「中央の方格(方形の紋様)と、規矩(きく=コンパスと定規)」とのこと。
さっぱりわかりません。
もうちょっと気の利いた名称は付けられないものですかね。
鏡の名称で、わたしが知ってるのは「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」だけです。

↑縁の断面が三角形になってます。
しかし、こういう鏡の画像って、ほぼすべてが、裏面の装飾を写したものです。
表面の鏡は、どうなってるんですかね。
わたしは、そっちの方が興味があります。

↑反射させると像が浮かびあがる「魔鏡」だったようです(実物は錆びにより、光を反射しません)。
また、これらの鏡は銅製です。
そのため、酸化して緑青を吹いて、こんな色になってるわけです。
作られた時点では、オリンピックの銅メダルの色だったはず。
つまり、黄金に近い色です。

綺麗だったでしょうね。
↓また、謎の物体。

↑「み」
「家形飾環頭柄頭(いえがたかざりかんとうつかがしら)」だそうです。

↑「み」
どこが「家」やねんと思いましたが……。
どうやら、わたしが撮った角度が良くないようです。
↓これです。

たしかに、柄頭(つかがしら)に家が付いてますね。
丸い飾り部分を、「飾環頭(かざりかんとう)」と云うようです。
でも、何で飾りに家が付いてるんですかね?
ほんとうに家なんでしょうか?
確かに家の形にも見えますが……。
家と言うより、神社の屋根に似てる気がしますね。
伊勢神宮とかの。

ひょっとしたら、そうした神聖な建物を模した飾りなのかも知れません。
↓またまたわからんものがありました。

↑「み」
すぐに連想したのは、観光地なんかにある記念撮影用の顔出しパネルです。

でも、下の柄頭と比べたら、顔を出せるほどの大きさではないようです。
↓説明板が、どうやら読めました。

↑「み」
3番ですから、「鍬形石」ですね。
どこが「鍬」なんじゃいと思いましたが……。
下の部分が、鍬の刃ですね。

とすれば……。
わたしが顔出し用と誤解した穴は、柄を通す穴になります。
デカすぎでしょ?
と思ったら、違ってました。
単に「鍬」に形が似てると云うだけで、用途は別でした。
↓『ブリタニカ国際大百科事典』の解説です(こちら)。
+++
古墳時代の腕飾りの一種。碧玉製で、形が鍬に似ていることからこの名があり、宝器の一種とされている。
+++
腕輪なら、穴がデカいのもわかります。
そう言われてみると……。
穴は、それぞれ大きさや形が微妙に違う気もします。

↑奈良県『島の山古墳』からの出土品。
ひとりひとりに合わせた特注品だったんですかね?
穴が楕円形です。
細長い方の両端に何かが付いてます。
一方は、名前の由来になった「鍬形」の刃。
もう一方は何でしょう。
いずれにしろ、腕をだらんと下げたときの上腕の形は……。
身体の前後の方向に細長くなります。
前後に筋肉が付いてるからです。

なので、「鍬形」は、身体の前方か後方を向くかたちになります。
でも、「鍬形」が前にあったら、腕を曲げたときに邪魔になりますよね。
後ろに出てたんですかね。
どういう意味があるんでしょう。
「おれの後ろに立つな」ということですか?

あ、違うか。
二の腕に付けたんじゃないのか。
二の腕じゃ、落ちますよね。
石ですから重いです。
肩じゃないですか?
肩の上に鍬の刃が、ステゴサウルスの骨板みたいに立ちあがってたんです。

何のためかは……。
わかりかねます。
あ、ひょっとしたら、防具の一種だったのかも。
大魔神の兜の両脇が、立ちあがってます。

あれは、埴輪の武人像をモチーフにしたものだと思います。

あの立ち上がりはやがて……。
武士の兜の、いわゆるクワガタに変化していくのでしょう。

埴輪の兜時点で、すでに装飾化してたわけです。
でも元々は肩に付けてて、実際に防御機能があった。
横から槍で突かれたり、剣を横殴りに振られたりしたとき……。
顔を防御するための防具だった。

↑最近のプロ野球、こういうヘルメットの人が増えましたよね。
単なる飾りなら、木製でいいわけです。
軽いですし。
でも、石製だったのは……。
防具として、槍や剣を防ぐためのものだったからじゃないですか。
如何?
しかし、ネットを探しても……。
この「鍬形石」を装着した画像が、ひとつもないんですよ。
誰もわからないってことなんですかね?
↓カッパの頭の皿でしょうか?

↑「み」
↓「2」ですから、「車輪石」ですね。

↑「み」
もちろん、実際に車輪として使われたわけではありません。
車輪に形状が似た石ということです。
「鍬形石」も、形状からの命名です。
用途を確定できないので、形状から名前を付けてるのでしょう。
仕方のないことではあります。
しかし、「車輪石」は、用途が特定されてるようです。
腕飾りとのことです。
放射状の模様から、貝を加工したものに見えますが……。
「石」というとおり、碧玉(へきぎょく)製だそうです。

↑島根県松江市玉湯町玉造産出の碧玉。碧玉とは不純な石英で、色は赤や緑があるそうです。
「車輪石」の放射状の刻みは、「貝輪」を模したものだとか。

↑縄文中期の「貝輪」。
つまり、元々は貝で造られてたものが……。
石製に変わったということなのでしょう。
用途がはっきりわかったのは……。
埋葬人骨の腕にはめられた状態で出土するからだとか。
これを造るには、貝を加工した方が、遙かにたやすいです。
石にわざわざ、貝を模した刻みを入れるのは、容易なことではないでしょう。
これは、埋葬された人物が、いかに重要な人だったかを表現するものではないでしょうか。
簡単には造れないものをあえて造って、埋葬したのです。
家族愛とか、そういうことじゃないですね。
権力者など、ステータスの表現なのでしょう。
あと、生きてる人が、この「車輪石」を腕飾りとするのは考えにくいです。
邪魔ですよ。
腕の何処につけたんでしょう?
拳を通すわけですから、手首ならブラブラします。
二の腕まで引きあげたら、明らかに身体にあたりますよね。
これを邪魔と感じないのは、死者だけです。
死者だけが着けた飾りじゃないですか。
↓初めて、見てすぐに用途がわかるものがありました。

↑「み」
↓まさしくこれです。

↑「み」
しかし、確かに椅子ですが……。
生きた人が座るものではないのでしょう。
副葬品ですね。
あの世での生活に不自由がないように……。
こうした日用品を模したものを一緒に埋葬したのだと思います。
↓またわからないものが出ました。

↑「み」
↓「埴製合子(はにせいごうす」とあります。

↑「み」
「合子(ごうす)」ってのは何ですかね?
あ、「合う」ということは……。
本体と蓋でしょうか。
キノコの笠みたいなのが、蓋です。
↓『世界大百科事典』の解説です(こちら)。
+++
ごうす【合子】
身と蓋とからなる小型の容器。古墳時代には近畿とその隣接地域で碧玉または滑石で作った石製合子を使用した。平面が円形で、径5cmほどの有脚の碧玉製合子が4世紀にあらわれ、平面が楕円形で、長径10cm以上の平底無脚の滑石製合子は5世紀にくだる。ともに蓋は甲高に作るが、鈕(つまみ)はつけていない。木製品を祖形とするものであろうが、なにを入れるものかはわからない。岡山市金蔵山(かなくらやま)古墳出土の長径40cmほどの埴製(はにせい)合子には各種の鉄製工具を入れてあった。
+++
大当たりでしたね。
↓碧玉の合子は、生きた人が使ったものでしょう。

埴製合子は、副葬品ですね。
鉄製工具は、その人の生前の職業で使ったものではないでしょうか。
でも、職人に古墳が造られるとも思われません。
埋葬される人に仕えてた職人の工具じゃないですか。
おそらく、職人の代わりには、埴輪像が入れられたのでしょう。

↑茨城県桜川市真壁町『はにわの西浦』。凄いですね。
↑の解説では、「鈕(つまみ)はつけていない」とありますが……。
摘まんで開けられる重さじゃないからでしょう。
両手を蓋の下に差し入れて、持ちあげたんだと思います。
あ、「鈕(つまみ)はつけていない」というのは、生きた人間用の小型の合子のことか。
「径5cm」なら、摘まんで開けられますね。

↑つまみの付いた合子。直径10㎝。現代の作品です。
↓でも、その後の「合子」にも、つまみがないものはたくさんあるようです。
昔は、つまみを付けるには、技術を要したでしょう。
でも今なら、さほど高いハードルではないと思います。
なんで、付けないのか?
わたしが思うに……。
つまみは、かなり破損しやすい部位だと思います。

簡単に傷物になってしまう。
贈り物などでもらったら、大事に使いたいでしょうから……。
出来るだけ壊れにくいよう、単純な形状にしてるのじゃないでしょうか。
↓突然、兜と鎧です。

↑「み」
鉄製の武具が現れたわけです。
しかし、重かったでしょうね。
動けるためには、薄くしなければなりません。
でも、薄すぎたら、剣が通ってしまう。

悩ましいところです。
しかし、兜のてっぺんにある漏斗みたいなのは何でしょう?

一瞬、杯かと思いました。
つまり、相手を討ち取ったとき……。
ここにお酒を入れて飲んだ。

↑これは「馬上杯」。文字どおり、勝利を祈願して馬上で飲む杯。
しかし、自分が討ち取られることを想定して……。
わざわざ頭に杯を載せておくわけありませんよね。

調べたところ……。
名称だけはわかりました。
「受鉢(うけばち)」と云うようです。
Wikiでは……。
「この受鉢には、獣毛や繊維による払子状の装飾が付けられていたのではないかと考えられている。なお福岡県行橋市稲童の稲童古墳群21号墳からは、受鉢に樹枝状の金属製装飾が取り付けられた例が全国で唯一出土している」とあります。
↓「樹枝状の金属製装飾」というのは、これです。

これが唯一ということは……。
おそらくほかのものには、後世に残らない材質のものが付いてたからなのでしょう。
すなわち、「獣毛や繊維による払子状の装飾」ということです。
「払子」は、“ほっす"と読むようです。
↓仏教の法具ですね。

こういうものの根元を、半球形の「受鉢」に据え、縛ったのでしょうか。
でも、どうして半球形である必要があったのか。
固定するだけなら、もっと別の形状になりそうです。
わたしが思うに、半球形の「受鉢」であれば……。

払子の角度を、さまざまに変えられそうです。
つまり、払子側の根元が球形なんです。

↑根元が丸っぽいです。
それを、半球形の「受鉢」に載せて縛った。
きっと、占いかなんかで、払子の方向を決めたんですよ。

今日は前に垂らすとか。

↑見合い写真?
しかも、垂らす方向は、戦いの最中にも変わった。
旗色が悪いときは、反対側に倒すとか。
あ、ひょっとしたら、戦法のサインだったのかも。
いずれにしろ戦いの最中ですから……。
いちいち解いて、縛り直したりしてるヒマはありません。

↑関ヶ原から敗走する島津勢。
そんなことしてたら、後ろから斬られますよ。
馬上でも、ひょいと片手で変えられなければなりません。
ということで、頭頂に半球形の「受鉢」が付いてるわけです。