2016.2.8(月)
客「今の金額に換算するのは、なかなか難しい話です。
江戸時代と今では、ある品物は今よりずっと価値が高かったり……。
あるいは、その逆だったりするからです」
み「基本的な物で比べればいいんじゃないの?
お米とか」
↑実際、こういうバランスだったようです。
客「お米は、今よりずっと価値が高かった品目のひとつですね」
こちらのサイトを見ると……。
お米1升(1.5kg)で、1,650円になってます。
5kgに換算すると、5,500円です。
今の2倍以上ですよね。
↑これは安いです。本物ですかね?
こんなに高いのに、なんと、1人1日、5合も食べてたそうです。
アホでないの。
これじゃ、脚気になるわな。
地方では雑穀を混ぜてたでしょうから、ビタミンB1が不足することも無かったでしょうが……。
江戸では、精米された白米を食べる習慣が広まってましたからね。
脚気は、「江戸患い」と呼ばれたそうです。
なお、現代人も白米を食べてますが、脚気にならないのは……。
オカズから、必要なビタミンB1を摂れるからです。
江戸の人が、いかに白米だけを食べてたかわかりますね。
客「お米で換算すると、1両は4万円程度にしかなりません」
み「げ。
40万円盗んだだけで首が飛ぶってこと?」
↑軽の中古車しか買えません。
み「それじゃ、毎日、そこら中で首が飛んでたでしょ。
『たまや~』『かぎや~』って」
律「それじゃ花火でしょ」
↑両国の川開き。この花火は、これから開くんですかね? どう見ても「スカ」に思えるんですが。
み「じゃ、ほかのもので比べたら?」
客「かけ蕎麦の値段で比較すると……」
↑江戸東京博物館でわたしが撮ってきた「二八蕎麦」の屋台。
客「1両、12~13万円になります」
み「お。
妥当でないかい」
江戸時代と今では、ある品物は今よりずっと価値が高かったり……。
あるいは、その逆だったりするからです」
み「基本的な物で比べればいいんじゃないの?
お米とか」
↑実際、こういうバランスだったようです。
客「お米は、今よりずっと価値が高かった品目のひとつですね」
こちらのサイトを見ると……。
お米1升(1.5kg)で、1,650円になってます。
5kgに換算すると、5,500円です。
今の2倍以上ですよね。
↑これは安いです。本物ですかね?
こんなに高いのに、なんと、1人1日、5合も食べてたそうです。
アホでないの。
これじゃ、脚気になるわな。
地方では雑穀を混ぜてたでしょうから、ビタミンB1が不足することも無かったでしょうが……。
江戸では、精米された白米を食べる習慣が広まってましたからね。
脚気は、「江戸患い」と呼ばれたそうです。
なお、現代人も白米を食べてますが、脚気にならないのは……。
オカズから、必要なビタミンB1を摂れるからです。
江戸の人が、いかに白米だけを食べてたかわかりますね。
客「お米で換算すると、1両は4万円程度にしかなりません」
み「げ。
40万円盗んだだけで首が飛ぶってこと?」
↑軽の中古車しか買えません。
み「それじゃ、毎日、そこら中で首が飛んでたでしょ。
『たまや~』『かぎや~』って」
律「それじゃ花火でしょ」
↑両国の川開き。この花火は、これから開くんですかね? どう見ても「スカ」に思えるんですが。
み「じゃ、ほかのもので比べたら?」
客「かけ蕎麦の値段で比較すると……」
↑江戸東京博物館でわたしが撮ってきた「二八蕎麦」の屋台。
客「1両、12~13万円になります」
み「お。
妥当でないかい」
コメント一覧
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1. ソバよりご飯HQ- 2016/02/08 11:10
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白米てんこ盛り
そういえば、かつての日本の軍隊は「白い飯が腹いっぱい食えるで」が隊員勧誘の決め台詞だったとか。
あれ?でも、かつての日本には徴兵制があったよなあ。ではこれは、志願兵徴用のためか。
魚沼産コシヒカリ、5㎏2,500円也。
なんぼなんでも安い。バッタもんというか……古々米?
雑穀米。
かつては顔を顰める向きも多かったそうですが、今ではスーパーなんかでプレミア付きだもんなあ。まあ……テキトーとしか言いようがありません。
ほほう「江戸患い」
原因不明の奇病だったんでしょうね。
ほんとに、かつての日本人はご飯をよく食べました。
今はどちらかというと嫌われものかな。妙な栄養学なんかが幅を利かす時代だからなあ。
「軽自動車専門店竜王」
竜王は、滋賀県ですね。県南部、湖東にある鄙びた町です(大津市以外の滋賀は皆、鄙びてますが)。名神のインターがあります。
両国の花火。
江戸の一大イベントだったんでしょうね。
深川の姐さんなんかを引き連れて、舟を出すのが粋だったんでしょうか。
二八蕎麦。
蕎麦粉八に小麦粉二で、二八。
で、担ぎ屋台ときますと落語『時そば』
「おう親爺、いま何時(なんどき)でい」「へい、四(よ)つで」「五(い)つ、六(む)う、七(なな)……」
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2. Mikiko- 2016/02/08 19:53
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明治時代
銀シャリで吊った陸軍は、脚気だらけになったようです。
新潟にも兵営所が出来たのですが、4年で撤退してます。
軍部は、脚気が蔓延するのは新潟の気候のせいだと考えたんです。
失敬な。
米。
うちでは『こしいぶき』を食べてます。
5kgで、1,340円くらいだったと思います。
『コシヒカリ』が食べたいとは、ちーとも思いません。
両国の花火では、明治時代、両国橋の欄干が落ち、多数の死傷者が出たとか。
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3. 銀シャリ大好きHQ- 2016/02/08 20:37
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ははあ
やはり分かってなかったんだよなあ、日本陸軍。
とにかく精神論一本。銀シャリさえ食ってりゃ世界最強、なんて言ってたからなあ。
こうなるともう、信仰だね。銀シャリ教。
5㎏1,340円。安っ、めぐみ(久しぶりだな、これ)。
さすがコメどころ新潟。安くて美味い「こしいぶき」
両国橋の花火。
漫画や小説によく登場します。
人気あるなあ、両国の花火。
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4. Mikiko- 2016/02/09 07:34
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玄米の方が……
安くて栄養があるんですからね。
精米するのは、無駄な贅沢としか云えません。
そう言えば、新潟も花火が名物です。
長岡花火とか。
花火の発祥は、やはり江戸なんですかね?
でも、火事の怖い江戸で、よく許可されましたよね。
ははぁ。
花火が夏だけの名物になったのは……。
冬は乾燥してて危険だから、禁止されてたんじゃないでしょうか。
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5. 米と花火ハーレクイン- 2016/02/09 12:05
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玄米より白米
やはり栄養より見栄え、なんでしょうか。
しかし、栄養は大事。さらに味より値段、損して得取れ(?)ということですがさて……。
こちらでは、白米よりお高くなっちゃいました、玄米。というより雑穀米。
その昔のお年寄りなら顔を顰めるところでしょうが……時代ですなあ。
♪まわる回るよ時代はまわる……
長岡の花火。
もちろん、こちらでも有名です。
しかし如何せん越後は遠い。よっぽどのことがない限り、見る機会は無いでしょう。そこがまたよろしい。
で、久方ぶりに『夏子の酒』
亡くなった夏子の兄(名前忘れた)が、亡くなる前に呉服屋に浴衣を注文します。嫁、つまり夏子の義姉へのプレゼントなんですね。
で、その染めの依頼内容が……「長岡花火の、生三尺玉の開いたところをあしらってくれ」ということでした。浴衣が届いたのは兄の死後。浴衣一杯に広がる花火模様を抱きしめ、涙する嫁……。
しかし、三尺と云いますと1メートル弱。そんなどでかい花火玉を打ち上げるんですかね、長岡。
>火事の怖い江戸で、よく許可
てやんでい、火事と喧嘩は江戸の花。
火事が怖くて花火がでけるけえ、べらぼうめ。
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6. Mikiko- 2016/02/09 19:46
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長岡花火
いっそ、北朝鮮に向けて発射したらどうなんだ?
安倍首相の「断じて容認出来ない」には、笑うしかないですよね。
そんならどーすんだよ、ということです。
容認出来ないのなら、日本上空を通過するとき、正々堂々と迎撃すべきでしょう。
外すのが怖くて出来っこないくせに。
江戸の冬は、ほんとに怖かったみたいです。
商家などでは、妻子を郊外に疎開させる店もあったとか。
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7. 線香花火ハーレクイン- 2016/02/09 23:39
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長岡花火を北朝鮮へ……
佐渡にすら届かんだろ。
江戸260年間で大火49、大小合わせて1800回ほど生じたそうです。
で、有名な江戸三大大火は「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」です。
●明暦は3年(1657年)1月の、いわゆる振袖火事。この時の死者がなんと10万7千人。江戸の大半が焼失、江戸城天守も焼け落ちたという、江戸期最大の大火です。
●明和は9年(1772年)2月、別名行人坂の火事。「明和9、めいわく、迷惑」と揶揄されたとか。死者数14700。
●文化は3年(1806年)3月。死者数1200。
※ちなみに、八百屋お七が火付けをしたとして名高い天和の大火は、天和2年(1682年)12月。死者数は最大で3500。
やはり、冬場に多いですね。
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8. Mikiko- 2016/02/10 07:31
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八百屋お七
ずっと、明暦の大火だと思ってました。
しかし、天和の大火の死者のほうが、文化の大火よりずっと多いのに……。
どうして三大大火にならないんですかね?
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9. 火災評論家HQ- 2016/02/10 13:44
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明暦の大火は……
振袖火事という可愛い別名に惑わされてはいけません。江戸期260年を通じて最大・最悪の火事です。
なんせ公方様のお城まで焼け落ちたわけで、この火事をきっかけに江戸の都市計画が見直され(なんせきれいさっぱり焼け尽されました)、それまでの大名火消しに加え、町火消しも計画的に組織化されました。
それでも江戸の火事は絶えなかったわけです。やはり、建物が木と紙でできていたからでしょうか。
で、お七の火着け。
たしかに文化の大火より大きそうです。
焼失家屋数の違いかなあ。
で調べましたら、これも「文化」より「お七」の方が多いようです。
ふうむ。
で、さらに調べましたら、お七の火事は近所数軒だけを焼いた、ほんのボヤだったという記事もありました。ということは、火事そのものは大したことないけど、「放火」が大事件だったということでしょうか。
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10. Mikiko- 2016/02/10 19:51
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あまりにも頼りない説明なので……
自分で調べました。
『天和の大火』で焼け出された八百屋お七の一家は、檀那寺に身を寄せます。
そのとき、寺の小姓と恋仲になったんですね。
店が再建されると、当然お七一家は、寺を出て店に戻ります。
小姓と会えなくなったお七は、もう一度店が焼ければ、またお寺に行けると思い……。
店に火をつけたんです。
お七一家が焼け出された最初の火事が、いわゆる『天和の大火』。
死者、3,500人。
その後、お七が火をつけた火事は、ボヤで消し止められたそうです。
しかし、火付けは重罪であるため、火炙りになったわけです。
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11. 井原HQ西鶴- 2016/02/11 00:24
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八百屋お七一件顛末記
誰でもご存知と考え、書かなかったのだよ。
こんな話もあります。
お七を取り調べた火付け盗賊改め役人。
か弱い娘を火あぶりはあまりに酷い。そこで「15歳未満の者ならば、罪一等を免じて遠島」という決まりを思い出し、お七を問い詰める。
「これ、七。そなた齢(よわい)は十四であるな」
ところが、その心を酌めぬお七。馬鹿正直に、
「いえ。十六にござります」
と答える。
これではどうしようもなく、件の役人、
「さては不届き至極。定法通り火刑申し就くる」
で、哀れお七は火あぶりに……。
●世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は