2018.12.8(土)
しかし、ここから更に大仏さまの受難が始まります。
1875(明治8)年、上野公園の整備にともない大仏殿が撤去されます。

↑明治末期から大正初期にかけての写真のようです。光背は、大正5年ごろ取り払われたみたいです。
そして、1923(大正12)年、関東大震災が起きます。
頭部が落下しました。

↑無残を通り越して、不気味です。
大仏さまは解体され、寛永寺が保管しましたが……。
資金の目処が立たず、再建は断念されました。
そして、太平洋戦争の始まる1年前の1940(昭和15)年……。
軍需金属資源として、顔面部以外がすべて供出され、大仏さまは消滅します。

↑寺院の梵鐘も供出。こんなことまでしなくちゃならない戦争が、勝てるわけありません。
戦後となり、1967(昭和42)年……。
上野観光連盟が願主となり、大仏殿の跡地に「パゴダ(仏塔)」が建立されます。

↑建立から半世紀が過ぎ、苔むしてます。
そして、1972(昭和47)年、寛永寺に保管されていた顔面部が、レリーフとして安置されました。

↑どどーん。外人観光客は、かなり驚くんじゃないでしょうか(日本人でも驚きます)。
衝撃的なお姿ですが……。
このレリーフ、受験生に人気だとか。
合格祈願だそうです。

何度も落ちたけど……。
もうこれ以上は落ちない、という験担ぎだそうです。
お顔に触れると更にパワーがいただけるとか。
近くでまじまじ見てると……。
寛永寺の方が、「是非お顔に触ってくださいね」と言ってくれるそうです。

↑絵馬も売ってます。こちらも強烈。
これは、見ものでしたね。
知ってれば行ったんですが。

↑ここにおわします。
ま、上野なら、まだ何度か機会があるでしょう。
↓何だと思います?

↑「み」
わたしも、まったく忘れてました。
↓拡大して、ようやく判明。

↑「み」
「五右衛門風呂」です。
もちろん、石川五右衛門が釜茹でになった実物ではありません。
↓説明書きをちゃんと撮影した画像を拝借します。

取材は、こうでなくちゃなりません。
しかし、底だけじゃなくて、周りも熱くなるのは怖いですね。

↑怖いです。酔っ払っては入れません。
↓鮮明な写真をよく見ると、釜と焚き口は別に作られてるようです。

↓銭湯の番台です。

↑「み」
台東区内の銭湯で、実際に使われてたものを移築したそうです。
↓座ってみることも出来たようです。

↑美人さんですね。もちろん、わたしではありません。
上の写真で、「舌代」というのが気になりました。
↓明瞭な画像を発見。

「保健所の通達により貸グシと貸タオルは(謎の字)来きません」。
山冠に“々”なんて字は、初めて見ました。
単純に類推すれば、“出”だと思われます。
調べてみたら、やはりそうで、“出”の異字体でした。
「舌代」は“しただい”でした。
わたしは、“ぜつだい”と読んでました。
実は「絶大」のことで、「ものすごく重要」という意味かと。
もちろん、まったく違ってました。
「口で言う代わりに文書に書いたもの」だそうです。
飲食店の品書きのはじめに記してあるとか。

↑ありました。
飲食店なら、わからないことはないですね。
「舌」を使って食べるわけですから、その料金という意味に取れます。
わたしは、1度も見たこと無いですが。
わたしは、番台には上がりませんでした。
恥ずかしゅうて上れませんよ。
ま、座ったって、風呂場が見えるわけじゃありませんし。
うっかり上がったりすると、外人に写真を撮られかねませんでした。
とにかく、この施設も外人が多かったんですよ。
単独で来てる外人もいましたが……。
数人の外人に、日本人のガイドみたいな人が付いてるグループもありました。
外人がこんなの見て、面白いんですかね?
銭湯の番台は、ちょっとイメージできないんじゃないですか。
座った人が、異性の裸まで覗けるなんて。
かつて、銭湯の番台は、男性の憧れの職業のひとつだったようです。

↑『ドリフ大爆笑』より。困ったことになる股間を、膝掛けで隠すわけですね。
今も、こういう銭湯は残ってるんですかね。
ほとんどが、フロント形式になってしまったんじゃないでしょうか。

番台は、脱衣所での「板の間稼ぎ(泥棒)」を防ぐためにあったんだと思います。
フロントになった場合、脱衣所は監視できません。
監視カメラも付けられないでしょうしね。
ま、ロッカーの鍵をしっかり閉めてお入りくださいということでしょう。
しかし、銭湯というのも、重要な日本文化のひとつです。
区じゃ難しいと思いますので……。
都の直営で、昔ながらの銭湯を残すべきじゃないでしょうか。
でも、番台に座る人の人選が、ちと問題ですね。
都の職員ですか?
↓もうテレビが入ってる時代の茶の間ですね。

↑「み」
団らんが終わったら、ここに布団を敷いて寝たんだと思いますが……。
布団を入れる押し入れがないですね。
あ、ひょっとしたら、こちら側の開口部が押し入れスペースなんですかね?
左に下駄があるところは、玄関ではなく、勝手口でしょう。

↑まさしくこれです。男性は、『三河屋』さんの御用聞きですね。
しかし、框がこんなに低かったんでしょうか?
縁の下がないことになります。
↓まさしく、勝手口の隣には、お勝手(台所)があります。

↑「み」
↓電気釜とガス台、あとは流し。

↑「み」
電気釜は、『東芝』が1955(昭和30)年に発売を開始したものだそうです。

↑輸出用ポスター。まさか、輸出もしてたとは思いませんでした。どういう人が買ったんでしょう?
お米を研いで、分量の水を入れてセットし……。
電気釜の中央下部に見えるスイッチを押すと、ご飯が炊けます。
炊き上がると、ガチョンと音を立ててスイッチが切れる仕組み。
トースターみたいですね。
↑トースターに驚く猫。
今どきの炊飯器のように、タイマーもなければ保温機能もないそうですが……。
それで十分だと思います。
わたしが東京に住んでたころ使ってた炊飯器も、この機能だけだったと思います。
わたしはお冷やご飯が大好きなので、保温されない不便はまったく感じませんでした。
いろいろ付いてれば、それだけ故障する原因も多くなるわけですし。

↑現代の主流、IH(電磁式)炊飯器。この製品は、炊飯器部分を外してIHクッキングヒーターとしても使えるそうです。壊れたとき、何にも料理出来なくなりますね。
ガス台と流しは、職人さんがその場でトタン板を曲げて作ったようです。
昔の職人さんは、こうした「現場合わせ」が出来ました。
今は、キッチンユニットを搬入するだけです。
洗面器はホーロー、食器洗いは亀の子束子ですね。

トイレさえウォシュレットだったら、こういうところに住みたいです。
でも、こんな作りが残ってる部屋だったら、トイレは間違いなく和式でしょう。

↑小学校では、トイレだけを改装する予算などは取れないのでしょうね。
最近、古い団地の部屋を、現代風にリフォームする流れがありますが……。
↓正直わたしは、壁を取っ払ってフローリングにされたような部屋には、まったく魅力を感じません。

↑築50年の団地をリノベーションした部屋。
四畳半くらいの和室2部屋に区画されてた方が、ずっと惹かれます。

↑実に落ち着きます。こんな部屋で、テレビを見ながら晩酌したいです。コタツで「鱈ちり」なら最高。
これからは、昔の雰囲気にリフォームするという流れも、出てくるんじゃないでしょうか。
↓白黒テレビ。

↑「み」
わたしが物心ついたころは、すでに家にはカラーテレビがありました。
↓いわゆる「家具調」というヤツでした。

リモコンなどはなく、チャンネルでした。
あるとき、チャンネルのガチャガチャ部がスポッと抜けてしまいました。

でも、挿せば普通に回せます。
チャンネルを変えられたくないときは、ガチャガチャ部を隠したりしてました。
もちろん、怒られて取りあげられましたが。

↑まさしく、これです。
わたしの叔父は、白黒からカラーへの移行を経験してました。
ジャイアント馬場のパンツが真っ赤だったことに、衝撃を受けたそうです。

↑白黒テレビでは、グレーに見えたそうです。
↓ここは、昭和30年代の暮らしを再現したスペースでした。

↑「み」。またもやピンボケでした。
ひとつの部屋を何通りにも使ってた時代です。
ちゃぶ台で食事をする部屋であり……。
↑この本も面白かったです。
テレビを見ながらくつろいだり、お母さんがミシンをかけたりもしました。
そして夜は、布団が敷かれ、寝室となるわけです。

↑わたしも今、こんな感じで寝てます。布団は落ちないし、暑ければ畳に転がり出られます。実に快適。
今とはまったく違いますね。
食事は、ダイニングキッチン。

くつろぐのはリビングルーム。

お母さんは、専用の家事室でしょうか。

ミシンなんかは、かけませんわな。
寝るのはもちろん、ベッドルーム。

↑布団の取り合いにならないもんですかね?
用途用途で別の部屋が使われます。
こんな狭い国で、だだっ広いアメリカの家を真似た暮らしを始めたわけです。

↑アメリカの家。落ち着かん!
今はむしろ、空き部屋を持て余す時代になってるんじゃないでしょうか。
空き家が問題になってますが……。

それぞれの家庭内でも、空き部屋問題が生じてる。
かく言う我が家もそうです。
1階が、ダイニングキッチンは含めずに、5部屋あります。
2階が、3部屋。
家族は、わたしと母の2人だけです。
1階の部屋は、すべて母が使ってます。
といっても、1部屋は仏壇が置いてあるだけ。

↑『仏壇返し』という体位。なんでこの格好が、『仏壇返し』なんですかね?
ほぼ物置化してる洋間がひとつ。
お客が来たときしか使わない部屋がひとつ。
日常的に使ってるのは、2部屋だけですね。
2階も、1部屋は箪笥が置いてあるだけです。

↑素人ですね。箪笥は、一番下から順に物色するのが正しい手順です。我が家の箪笥には、衣類しか入ってませんが。
この30年代の展示のように、一部屋を何通りにも使う、慎ましい暮らしをしてみたいのですが……。
部屋が有り余ってるのです。
国が老いるというのは、こういうことを言うんでしょう。
しかし、有史以来、国が老いるというのは、初めての経験なんじゃないでしょうか。
いったいこの先、どうなっていくんでしょうね。

↑限界集落の廃校跡。こうして、再び自然に帰っていくわけです。
↓茶の間にある食器棚。

↑「み」
わが家にも、客間にあります。
わが家で今……。
茶の間の食器棚が開けられるのは、お客が来てお茶を出すときだけなんじゃないでしょうか。
この展示の昭和30年代は、茶の間は食事室でもあったわけですから……。
食器棚があってもおかしくないわけです。

↑『杉並区立西田小学校郷土資料展示室』です。一般の人も観覧できるようです。
でも、茶の間で食事をしなくなった今も……。
茶の間に食器棚は置かれてる気がしませんか。
もう、お茶碗なんかは入ってません。
その代わりに、旅行先で買ったコケシなんかが入ってたりします。

↑こんな感じ
あ、思いだした!
食器棚じゃありません。
茶箪笥ですよ、茶箪笥!
うーむ。
懐かしい響きです。
お菓子なんかも入ってましたね。
湿気た煎餅とか。
今のお煎餅は、1枚ずつ包装されてたりします。

昔は、大袋に剥き出しで入ってました。
当然、すべては食べきれないので、封をして茶箪笥に戻します。
封と入っても、洗濯挟みで挟むだけですので……。

あっという間に湿気てしまいます。
↓番台を、反対側からも撮ってました。

↑「み」
やっぱり、番台に上がることに未練があったのかも知れません。
まだロッカーがなく、脱衣カゴの時代なんでしょうね。

↑わたしの写真はピンボケだったので、拝借画像です。何でピンボケばっかりなんですかね?
板の間稼ぎを見張るために、番台が必要なわけです。
石鹸などの販売だけだったら、フロント形式でもいいはずですから。
↓窓から撮った『不忍池』です。

↑「み」
この蓮根、都とかが収穫しないんですかね?
↓1階に下りました。

↑「み」
ここは、大正期の街並みを再現したエリアです。
向かって右が、駄菓子屋。
左は、洗い張りかなんかの居職(いじょく)の住まいでしょうか?
駄菓子屋は、室内の造作もされてますが……。
左側は壁だけの造りのようです。
注目したいのは、路地の中央に連なる「ドブ板」。
雨水などを流す排水路に、板のフタをしたものです。
選挙の手法のひとつに、「ドブ板選挙」と云うのがあります。
まさしく、こうした路地の奥まで入りこみ……。
おかみさんなどひとりずつに、頭を下げて握手して回る選挙です。
かつて、新潟3区の田中角栄が得意としてました。

角栄は、「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない」と言ってたそうです。
さて、わたしがこの「ドブ板」に注目したのは……。
選挙の話をしたかったわけではありません。
この「ドブ板」、恐ろしい一面を持ってるんです。
大正期になれば、ある程度、消防も発展してきたでしょうが……。
江戸時代は、水による消火はほぼ出来ませんでした。

↑延焼しそうな先の家屋を壊して火の広がりを防ぐ「破壊消防」と云う方法です。
江戸の街は、何度も大火に襲われてます。
冬は、ほんとに怖い季節だったんです。

↑乾燥した強風の中で火が出れば、紙と板で出来た家はひとたまりもありません。
裕福な商家などでは、女房子供を郊外に疎開させたほどですから。
その火事が広がる原因のひとつとなったのが、この「ドブ板」なんです。
文字どおり、板で出来てます。
路地の中を、奥まで連なってますね。
早い話、導火線と一緒なんです。
↓ここを火が走って、長屋の奥、一軒一軒まで入って行くわけですよ。

怖いですね。
長屋の住人の中には、下駄を履いて寝た人もいたそうです。
これは、北斎の娘の応為(おうい)のことでしたかね?
火事マニアだったそうです。

↑葛飾応為『吉原格子先之図』。「江戸のレンブラント」と呼ばれてます。
草履などでは、折れ釘を踏み抜いたりして危険です。
抗生物質などのない当時……。
深い傷を負うことは、命取りになりかねませんから。
ですから、火事で逃げるときは下駄が一番です。
荷物は、何も持ちません。
身ひとつです。
住まいの長屋は、借家。

↑左上隅の箱みたいなのは、枕屏風です。中には布団が積んであります。押し入れはありません。
家財は、ほとんどが「損料貸し」というレンタル品。

↑こんなシリーズものがあるようです。面白そうですね。
自分の所有物なんか、ほとんどないんです。
宵越しの銭もないわけですから。
↑こちらも面白そうです。
ま、考えてみれば、気楽な暮らしです。
病気でもしたら、それっきりですが。
↓「小唄」の師匠の住まいですね。

↑「み」
表札(?)は、「春日可津」となってます。

↑「み」
“かすがかつ”でしょうか。
これが、師匠の芸名なのでしょう。
「春日」は、流派かも知れませんね。
わたしが好きな『半七捕物帳』にも、ときどき小唄の師匠が出て来ました。
芸名は、「文字春」とか頭に“文字”が付きました。
でも、改めて調べてみたら、小唄ではなく、常磐津の師匠でした。
↓『津の国屋』。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
赤坂裏伝馬町の常磐津の女師匠文字春が堀の内の御祖師様へ参詣に行って、くたびれ足を引き摺って四谷の大木戸まで帰りついたのは、弘化四年六月なかばの夕方であった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↑物語冒頭の文章です。この一節だけで、いきなり物語に引きこまれます。
この“文字”は何だろうとずっと不思議に思いながら、一度も調べずに来ました。
今回、初めて調べてわかりました。
常磐津の創始者が、『常磐津文字太夫(もじだゆう)』を名乗ってたんです。
この“文字”を継いでるわけですね。
常磐津は、浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成されるそうです。
小唄とは、大分違ってましたね。
でも、“文字"とは何なのかは、わからないままです。
シツコク調べたら、刀工に「左文字(さもんじ)」という一派があるようです。
「右文字」は、いませんでした。
『左甚五郎』、『左とん平』。
なんで、右がいないんでしょうね?
しかし、表札(?)が出てると言うことは……。
ここは、表の入口なんですよね。
入口のすぐ脇に、洗濯物が干してあります。
↓入口に近い方のは、白足袋でしょう。

↑「み」。またもやピンボケですが。
もうひとつの方は……。
これって、下着なんじゃないですか?

↑「み」
↓半襦袢とかいうやつ。
でも、筒袖なのが不思議です。
あ、これは大正期か。
筒袖の半襦袢って、いつごろ発明されたんですかね?
確かに、三味線を弾くには、こちらの方が良さそうな気はします。
でも、いずれにしろ、色っぽいですよね。
ていうか、色っぽすぎませんか?
入口脇に、足袋と半襦袢が干してあるんですよ。
ひょっとしたら、男の入門者を誘う餌ですかね?
中で、違うことを教えてるのかも知れません。
三味線の音が途絶える時間があるんじゃないですか。
今なら、テープをかけておけますが……。

大正期では無理でしょう。
↓長屋です。

↑「み」
なんだか江戸時代みたいですが、↓奥に柱時計が掛かってます。

↑「み」
ここは、銅壷(どうこ)職人の一家(4人)の住まいだそうです。
銅壷とは、銅板で作った湯沸かし器のことだとか。
当初、ヤカンのことかなと思いましたが、画像を探したらぜんぜん違いました。

↑注ぎ口があるということは、ヤカンとしても使ったのでしょう。あ、お湯を捨てるための口か。
これは、火鉢の中に入れて使うそうです。
ヤカンが主な役目ではなく、お燗を付ける道具みたいですね。
こういうので燗を付けて飲んだら、楽しそうですね。
老後の楽しみにしようかな。

↑これは新しい作みたいですね。
なお、銅壷職人は、銅壷だけを作ってたわけではなく……。
鍋やヤカンなど、銅を材料とする器具全般を作ってました。
もちろん、作るだけでなく、修理も行います。

↑現代の修理画像です。今はむしろ、新しい物が手に入りにくいので、修理して使うしかないのかも知れません。
昔の人は、壊れたら捨てるなんてことしませんからね。
↓ここは玄関かと思ったら、作業場だそうです。

↑「み」
さまざまな道具が揃ってます。
↓これが、炉です。

↑「み」。どうしてもピンボケですね。
ブロックみたいに石を積んだ右側が炉です。
炉の前に小さな椅子があります。
ここに腰掛けて作業したのでしょう。
石組みの左側にある箱が鞴(ふいご)です。
手前に取っ手が付いていて……。
それを押したり引いたりすると、風が右側の炉に吹き出す仕組み。

↑こういうものです。
火力を強め、材料となる金属片を溶かすわけです。
燃料は、石炭やコークス(石炭から揮発分を除いたもの)だそうです。

↑図で“ガス”とあるのが「揮発分」だと思います。
職人には、家で仕事をするものと……。
客先に出かけていって仕事をするもの、2種類があります。
前者を居職(いじょく)、後者を出職(でじょく)と云いました。
銅壷屋は居職、大工などが出職です。

↑浮かない顔ですね。
わたしがなるなら、断然、居職です。
出かけていくのは面倒ですから。
仕事に飽きたら、茶の間に上がって寝転がってしまえばいい。

↑あ~、楽だ。
「今日はもう止め!」と決めれば、風呂屋に行って、晩酌です。

↑ネズミの尻尾に、猫の首輪が結ばれてます。どういう謎でしょう?
飲み過ぎて二日酔いになっても、朝早く出かけなくていい。
云ってみれば、在宅ワークです。
わたしの憧れですね。
でも、大工などの出職にも、いいところはありました。
例えば、雨の日などは、休みになったようです。

↑作り物ではなく、インドネシアで撮られた実写だそうです(ホンマか?)
梅雨のころは、毎日、家でゴロゴロできますよね。
ただ、日当ですから、仕事に出なければ、お金は入りません。
おかみさんは、腹立たしかったでしょうね。
明治、大正までは……。
小学校を卒業すると、すぐに奉公に出るのが普通でした。
12歳くらいで親方の元に弟子入りし……。
徴兵検査のある20歳までの8年くらいの年季奉公の間に、職人としての技術を身に付けたそうです。
↑これは、江戸後期のお話。千太郎は、7歳で奉公に出たそうです。切ないです。
この間はもちろん、親方の元に住みこみです。
親方の家の家事などもしながら……。
親方や年長の職人の仕事を、見よう見まねで覚えます。
年季が明けると、ようやく一人前とみなされ……。
初めて給金がもらえたそうです。
休日は、明治時代までは、「藪入り」の日だけ。
1月15日と7月15日の2日だけです。

↑初めて親元に帰った日でしょうか。
年に、たったの2日ですよ。
それも、朝、親方の元を発って……。
夕方には、親に伴われ、また親方の元に戻ったそうです。
聞いてるだけで辛くなりますね。

↑藪入りの日の夕方じゃないでしょうか。帰りたくないですよね。
大正時代からは、毎月1日と15日が休みになったそうです。
それでも、月に2日です。
でも、大工の弟子なら、雨とかで休めますよね。
親元には帰れなかったでしょうけど。
商家の方が、辛かったように思えます。

↑明治中頃の静岡の商家。中央が、主人と息子。ほかの3人の子供は丁稚です。
あと、商家では、いろいろ気働きを覚えなければならないでしょう。
こういうことが不得手な子は、必ずいたはずです。
その点、職人は、黙々と手仕事に励めばいいわけです。
でも……。
職人は、怪我が怖いです。
何の保証もありませんから。
「怪我と弁当は自分持ち」と言われました。
昔の人は、運不運で、まったく違った人生になったでしょうね。
↓仕事場と隣り合った、居住スペースです。

↑「み」
↓長火鉢とお銚子。

↑「み」
これから晩酌ですね。
1日で一番楽しい時間だったでしょう。
今、お銚子が載ってるところは、「猫板(ねこいた)」と云います。
↓取り外せるようになっていて、客に出す湯飲みなどを載せて運ぶのに使われました。

なお、「猫板」の語源ですが……。
まさしくそのまんま。
ここに猫が載って暖まってることが多いからです。

↓これが、銅壷(どうこ)です。

↑「み」
この職人は、かなりな道楽者のようです。
↓これは、「三味線箱」ですね。

↑「み」
この職人は、既婚者です。
↓箪笥の上に、鏡台が載ってますから。

↑「み」。相変わらず、大ピンボケ。
でも、おかみさんが三味線を弾くことは……。
芸者あがりでもない限りはなかったでしょう。
つまり、この三味線は、職人が弾いたんです。
といっても、この部屋で弾いたわけではありません。
義太夫、小唄、長唄、常磐津、清元などを習いに行ってたんです。
多くは、お師匠さん目当てだと思います。

↑これは、長唄師匠。左の男たちは、順番待ちでしょうか? これじゃ、悪事なんか働けません。
この銅壷職人は、玄関先に洗濯物を干してた色っぽい師匠に通ったんでしょうか?
でも、あまりにも近すぎて……。
悪事を働くのは難しいでしょうね。
といっても、すぐ近所に師匠がいるのに、遠くの師匠に付いたりしたら……。
魂胆が見え見えです。
悩ましいところですね。
↓大正時代の静かな夜が偲ばれます。

↓銅壷屋の横にある稲荷です。

↑「み」
可愛いお稲荷さんですね。
油揚げが供えてあります。

↑「み」
本物だったんでしょうか。
もっとよく見てくれば良かったな。
榊も青々としてますね。
作り物だったら、ちょっとがっかりですが。
そういうのを見てこなくてはなりませんね。
ところで、この榊立てと榊で、忘れられないことがあります。
わたしは以前、小さな神棚を2階に祀ってました。

↑これより、もう少しチャチでした。いつ捨てたのか覚えてませんが、今はもうありません。
一応榊立てもありましたが……。
作り物の榊を入れてました。

↑こういうやつ
ある、正月前のこと。
観葉植物のガジュマルを、ベランダから取りこみました。

↑「み」。本物です(2010年1月の写真)。
さすがに、新潟の冬を、外で過ごさせるわけにはいかないので。
でも、夏場に葉が茂りすぎてたので、枝を切り詰めました。
ガジュマルの枝は、切ったところから、乳液のような真っ白い汁が零れるんですよ。

ちょっと生々しく、怖い感じさえあります。
その切り取った枝を、捨てようとして、ふと思いつきました。
これって、榊の葉に似てるじゃん。
ということで、正月くらい、本物の植物の方がいいだろうと……。
作り物を取り去り、ガジュマルの枝を榊立てに挿しました。
正月中くらいは枯れさせたくなかったので、水も入れました。
で、無事に正月も終わりましたが……。
ガジュマルは、まだ枯れません。
務めは果たしたわけですが……。
枯れてないのに捨てるのは気の毒です。
枯れたら捨てようと思い、水だけは足してました。
ところが、いっこうに枯れないんです。
神棚は、まったく日のあたらない場所にありました。
なので薄暗く、ほとんどまじまじと見ることはありませんでした。
大して気にも留めずにいたのですが……。
さすがに、節分で撒いた豆を拾ってるとき見あげて、疑問を感じました。

↑わが家は当然、落花生。大豆のところは、撒いた豆は食べないんですかね?
榊立てに挿してから、優に1ヶ月以上経ってます。
まだ枯れないというのは、尋常ではありません。
で、改めて榊立てを手に取り、まじまじと見て仰天しました。
枯れるどころではありません。
新しい薄緑の小さな葉が、いくつも開き始めてたのです。

↑ほかの植物もそうですが、新芽というのは、ほんとうに可愛いものです。
枝を、榊立てから引っこ抜いてみて……。
更に、びっくり仰天。
枝の切り口から、もうもうと根が出てたのです。

↑こちらは、コップに水差ししたガジュマル(拝借画像です)。普通に根が出るようです。
なんと、薄暗い神棚の榊立ての中で、独立した生命体として生き始めてたんです。

新潟の湿気の多さも良かったのかも知れません。

↑あと、冬場は、最高気温と最低気温の差が小さいのも良かったのかも。
しかし、ガジュマルの生命力の強さに、改めて感服しました。
そして今も、感服し続けてます。
なぜなら、その2本のガジュマルの枝、今もまだ生き続けてるんです。
2階のトイレの中です。
榊立てから抜いた2本を束ねて茶碗に入れてたら、根っ子がくっついて、1本になりました。

↑「み」。これは、2010年1月の様子。茶碗から出した写真です。およそ9年前です。
そのまま、10年以上が経ちました。
最近はさすがに茶碗が小さくなったので、100均で買ったガラスの保存瓶に入れてます。

↑「み」。これが、2018年11月。元気です。
根が伸びられないので、大きさはほとんど変わりません。
でも、同じ大きさを保ちながら……。
ずっと生き続けるというのはスゴいと思います。
また脱線しました。
元に戻します。
↓次の写真。

↑「み」
これも路地のようですが……。
ピンボケなうえ、意図がわかりません。
1875(明治8)年、上野公園の整備にともない大仏殿が撤去されます。

↑明治末期から大正初期にかけての写真のようです。光背は、大正5年ごろ取り払われたみたいです。
そして、1923(大正12)年、関東大震災が起きます。
頭部が落下しました。

↑無残を通り越して、不気味です。
大仏さまは解体され、寛永寺が保管しましたが……。
資金の目処が立たず、再建は断念されました。
そして、太平洋戦争の始まる1年前の1940(昭和15)年……。
軍需金属資源として、顔面部以外がすべて供出され、大仏さまは消滅します。

↑寺院の梵鐘も供出。こんなことまでしなくちゃならない戦争が、勝てるわけありません。
戦後となり、1967(昭和42)年……。
上野観光連盟が願主となり、大仏殿の跡地に「パゴダ(仏塔)」が建立されます。

↑建立から半世紀が過ぎ、苔むしてます。
そして、1972(昭和47)年、寛永寺に保管されていた顔面部が、レリーフとして安置されました。

↑どどーん。外人観光客は、かなり驚くんじゃないでしょうか(日本人でも驚きます)。
衝撃的なお姿ですが……。
このレリーフ、受験生に人気だとか。
合格祈願だそうです。

何度も落ちたけど……。
もうこれ以上は落ちない、という験担ぎだそうです。
お顔に触れると更にパワーがいただけるとか。
近くでまじまじ見てると……。
寛永寺の方が、「是非お顔に触ってくださいね」と言ってくれるそうです。

↑絵馬も売ってます。こちらも強烈。
これは、見ものでしたね。
知ってれば行ったんですが。

↑ここにおわします。
ま、上野なら、まだ何度か機会があるでしょう。
↓何だと思います?

↑「み」
わたしも、まったく忘れてました。
↓拡大して、ようやく判明。

↑「み」
「五右衛門風呂」です。
もちろん、石川五右衛門が釜茹でになった実物ではありません。
↓説明書きをちゃんと撮影した画像を拝借します。

取材は、こうでなくちゃなりません。
しかし、底だけじゃなくて、周りも熱くなるのは怖いですね。

↑怖いです。酔っ払っては入れません。
↓鮮明な写真をよく見ると、釜と焚き口は別に作られてるようです。

↓銭湯の番台です。

↑「み」
台東区内の銭湯で、実際に使われてたものを移築したそうです。
↓座ってみることも出来たようです。

↑美人さんですね。もちろん、わたしではありません。
上の写真で、「舌代」というのが気になりました。
↓明瞭な画像を発見。

「保健所の通達により貸グシと貸タオルは(謎の字)来きません」。
山冠に“々”なんて字は、初めて見ました。
単純に類推すれば、“出”だと思われます。
調べてみたら、やはりそうで、“出”の異字体でした。
「舌代」は“しただい”でした。
わたしは、“ぜつだい”と読んでました。
実は「絶大」のことで、「ものすごく重要」という意味かと。
もちろん、まったく違ってました。
「口で言う代わりに文書に書いたもの」だそうです。
飲食店の品書きのはじめに記してあるとか。

↑ありました。
飲食店なら、わからないことはないですね。
「舌」を使って食べるわけですから、その料金という意味に取れます。
わたしは、1度も見たこと無いですが。
わたしは、番台には上がりませんでした。
恥ずかしゅうて上れませんよ。
ま、座ったって、風呂場が見えるわけじゃありませんし。
うっかり上がったりすると、外人に写真を撮られかねませんでした。
とにかく、この施設も外人が多かったんですよ。
単独で来てる外人もいましたが……。
数人の外人に、日本人のガイドみたいな人が付いてるグループもありました。
外人がこんなの見て、面白いんですかね?
銭湯の番台は、ちょっとイメージできないんじゃないですか。
座った人が、異性の裸まで覗けるなんて。
かつて、銭湯の番台は、男性の憧れの職業のひとつだったようです。

↑『ドリフ大爆笑』より。困ったことになる股間を、膝掛けで隠すわけですね。
今も、こういう銭湯は残ってるんですかね。
ほとんどが、フロント形式になってしまったんじゃないでしょうか。

番台は、脱衣所での「板の間稼ぎ(泥棒)」を防ぐためにあったんだと思います。
フロントになった場合、脱衣所は監視できません。
監視カメラも付けられないでしょうしね。
ま、ロッカーの鍵をしっかり閉めてお入りくださいということでしょう。
しかし、銭湯というのも、重要な日本文化のひとつです。
区じゃ難しいと思いますので……。
都の直営で、昔ながらの銭湯を残すべきじゃないでしょうか。
でも、番台に座る人の人選が、ちと問題ですね。
都の職員ですか?
↓もうテレビが入ってる時代の茶の間ですね。

↑「み」
団らんが終わったら、ここに布団を敷いて寝たんだと思いますが……。
布団を入れる押し入れがないですね。
あ、ひょっとしたら、こちら側の開口部が押し入れスペースなんですかね?
左に下駄があるところは、玄関ではなく、勝手口でしょう。

↑まさしくこれです。男性は、『三河屋』さんの御用聞きですね。
しかし、框がこんなに低かったんでしょうか?
縁の下がないことになります。
↓まさしく、勝手口の隣には、お勝手(台所)があります。

↑「み」
↓電気釜とガス台、あとは流し。

↑「み」
電気釜は、『東芝』が1955(昭和30)年に発売を開始したものだそうです。

↑輸出用ポスター。まさか、輸出もしてたとは思いませんでした。どういう人が買ったんでしょう?
お米を研いで、分量の水を入れてセットし……。
電気釜の中央下部に見えるスイッチを押すと、ご飯が炊けます。
炊き上がると、ガチョンと音を立ててスイッチが切れる仕組み。
トースターみたいですね。
↑トースターに驚く猫。
今どきの炊飯器のように、タイマーもなければ保温機能もないそうですが……。
それで十分だと思います。
わたしが東京に住んでたころ使ってた炊飯器も、この機能だけだったと思います。
わたしはお冷やご飯が大好きなので、保温されない不便はまったく感じませんでした。
いろいろ付いてれば、それだけ故障する原因も多くなるわけですし。

↑現代の主流、IH(電磁式)炊飯器。この製品は、炊飯器部分を外してIHクッキングヒーターとしても使えるそうです。壊れたとき、何にも料理出来なくなりますね。
ガス台と流しは、職人さんがその場でトタン板を曲げて作ったようです。
昔の職人さんは、こうした「現場合わせ」が出来ました。
今は、キッチンユニットを搬入するだけです。
洗面器はホーロー、食器洗いは亀の子束子ですね。

トイレさえウォシュレットだったら、こういうところに住みたいです。
でも、こんな作りが残ってる部屋だったら、トイレは間違いなく和式でしょう。

↑小学校では、トイレだけを改装する予算などは取れないのでしょうね。
最近、古い団地の部屋を、現代風にリフォームする流れがありますが……。
↓正直わたしは、壁を取っ払ってフローリングにされたような部屋には、まったく魅力を感じません。

↑築50年の団地をリノベーションした部屋。
四畳半くらいの和室2部屋に区画されてた方が、ずっと惹かれます。

↑実に落ち着きます。こんな部屋で、テレビを見ながら晩酌したいです。コタツで「鱈ちり」なら最高。
これからは、昔の雰囲気にリフォームするという流れも、出てくるんじゃないでしょうか。
↓白黒テレビ。

↑「み」
わたしが物心ついたころは、すでに家にはカラーテレビがありました。
↓いわゆる「家具調」というヤツでした。

リモコンなどはなく、チャンネルでした。
あるとき、チャンネルのガチャガチャ部がスポッと抜けてしまいました。

でも、挿せば普通に回せます。
チャンネルを変えられたくないときは、ガチャガチャ部を隠したりしてました。
もちろん、怒られて取りあげられましたが。

↑まさしく、これです。
わたしの叔父は、白黒からカラーへの移行を経験してました。
ジャイアント馬場のパンツが真っ赤だったことに、衝撃を受けたそうです。

↑白黒テレビでは、グレーに見えたそうです。
↓ここは、昭和30年代の暮らしを再現したスペースでした。

↑「み」。またもやピンボケでした。
ひとつの部屋を何通りにも使ってた時代です。
ちゃぶ台で食事をする部屋であり……。
↑この本も面白かったです。
テレビを見ながらくつろいだり、お母さんがミシンをかけたりもしました。
そして夜は、布団が敷かれ、寝室となるわけです。

↑わたしも今、こんな感じで寝てます。布団は落ちないし、暑ければ畳に転がり出られます。実に快適。
今とはまったく違いますね。
食事は、ダイニングキッチン。

くつろぐのはリビングルーム。

お母さんは、専用の家事室でしょうか。

ミシンなんかは、かけませんわな。
寝るのはもちろん、ベッドルーム。

↑布団の取り合いにならないもんですかね?
用途用途で別の部屋が使われます。
こんな狭い国で、だだっ広いアメリカの家を真似た暮らしを始めたわけです。

↑アメリカの家。落ち着かん!
今はむしろ、空き部屋を持て余す時代になってるんじゃないでしょうか。
空き家が問題になってますが……。

それぞれの家庭内でも、空き部屋問題が生じてる。
かく言う我が家もそうです。
1階が、ダイニングキッチンは含めずに、5部屋あります。
2階が、3部屋。
家族は、わたしと母の2人だけです。
1階の部屋は、すべて母が使ってます。
といっても、1部屋は仏壇が置いてあるだけ。

↑『仏壇返し』という体位。なんでこの格好が、『仏壇返し』なんですかね?
ほぼ物置化してる洋間がひとつ。
お客が来たときしか使わない部屋がひとつ。
日常的に使ってるのは、2部屋だけですね。
2階も、1部屋は箪笥が置いてあるだけです。

↑素人ですね。箪笥は、一番下から順に物色するのが正しい手順です。我が家の箪笥には、衣類しか入ってませんが。
この30年代の展示のように、一部屋を何通りにも使う、慎ましい暮らしをしてみたいのですが……。
部屋が有り余ってるのです。
国が老いるというのは、こういうことを言うんでしょう。
しかし、有史以来、国が老いるというのは、初めての経験なんじゃないでしょうか。
いったいこの先、どうなっていくんでしょうね。

↑限界集落の廃校跡。こうして、再び自然に帰っていくわけです。
↓茶の間にある食器棚。

↑「み」
わが家にも、客間にあります。
わが家で今……。
茶の間の食器棚が開けられるのは、お客が来てお茶を出すときだけなんじゃないでしょうか。
この展示の昭和30年代は、茶の間は食事室でもあったわけですから……。
食器棚があってもおかしくないわけです。

↑『杉並区立西田小学校郷土資料展示室』です。一般の人も観覧できるようです。
でも、茶の間で食事をしなくなった今も……。
茶の間に食器棚は置かれてる気がしませんか。
もう、お茶碗なんかは入ってません。
その代わりに、旅行先で買ったコケシなんかが入ってたりします。

↑こんな感じ
あ、思いだした!
食器棚じゃありません。
茶箪笥ですよ、茶箪笥!
うーむ。
懐かしい響きです。
お菓子なんかも入ってましたね。
湿気た煎餅とか。
今のお煎餅は、1枚ずつ包装されてたりします。

昔は、大袋に剥き出しで入ってました。
当然、すべては食べきれないので、封をして茶箪笥に戻します。
封と入っても、洗濯挟みで挟むだけですので……。

あっという間に湿気てしまいます。
↓番台を、反対側からも撮ってました。

↑「み」
やっぱり、番台に上がることに未練があったのかも知れません。
まだロッカーがなく、脱衣カゴの時代なんでしょうね。

↑わたしの写真はピンボケだったので、拝借画像です。何でピンボケばっかりなんですかね?
板の間稼ぎを見張るために、番台が必要なわけです。
石鹸などの販売だけだったら、フロント形式でもいいはずですから。
↓窓から撮った『不忍池』です。

↑「み」
この蓮根、都とかが収穫しないんですかね?
↓1階に下りました。

↑「み」
ここは、大正期の街並みを再現したエリアです。
向かって右が、駄菓子屋。
左は、洗い張りかなんかの居職(いじょく)の住まいでしょうか?
駄菓子屋は、室内の造作もされてますが……。
左側は壁だけの造りのようです。
注目したいのは、路地の中央に連なる「ドブ板」。
雨水などを流す排水路に、板のフタをしたものです。
選挙の手法のひとつに、「ドブ板選挙」と云うのがあります。
まさしく、こうした路地の奥まで入りこみ……。
おかみさんなどひとりずつに、頭を下げて握手して回る選挙です。
かつて、新潟3区の田中角栄が得意としてました。

角栄は、「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない」と言ってたそうです。
さて、わたしがこの「ドブ板」に注目したのは……。
選挙の話をしたかったわけではありません。
この「ドブ板」、恐ろしい一面を持ってるんです。
大正期になれば、ある程度、消防も発展してきたでしょうが……。
江戸時代は、水による消火はほぼ出来ませんでした。

↑延焼しそうな先の家屋を壊して火の広がりを防ぐ「破壊消防」と云う方法です。
江戸の街は、何度も大火に襲われてます。
冬は、ほんとに怖い季節だったんです。

↑乾燥した強風の中で火が出れば、紙と板で出来た家はひとたまりもありません。
裕福な商家などでは、女房子供を郊外に疎開させたほどですから。
その火事が広がる原因のひとつとなったのが、この「ドブ板」なんです。
文字どおり、板で出来てます。
路地の中を、奥まで連なってますね。
早い話、導火線と一緒なんです。
↓ここを火が走って、長屋の奥、一軒一軒まで入って行くわけですよ。

怖いですね。
長屋の住人の中には、下駄を履いて寝た人もいたそうです。
これは、北斎の娘の応為(おうい)のことでしたかね?
火事マニアだったそうです。

↑葛飾応為『吉原格子先之図』。「江戸のレンブラント」と呼ばれてます。
草履などでは、折れ釘を踏み抜いたりして危険です。
抗生物質などのない当時……。
深い傷を負うことは、命取りになりかねませんから。
ですから、火事で逃げるときは下駄が一番です。
荷物は、何も持ちません。
身ひとつです。
住まいの長屋は、借家。

↑左上隅の箱みたいなのは、枕屏風です。中には布団が積んであります。押し入れはありません。
家財は、ほとんどが「損料貸し」というレンタル品。

↑こんなシリーズものがあるようです。面白そうですね。
自分の所有物なんか、ほとんどないんです。
宵越しの銭もないわけですから。
↑こちらも面白そうです。
ま、考えてみれば、気楽な暮らしです。
病気でもしたら、それっきりですが。
↓「小唄」の師匠の住まいですね。

↑「み」
表札(?)は、「春日可津」となってます。

↑「み」
“かすがかつ”でしょうか。
これが、師匠の芸名なのでしょう。
「春日」は、流派かも知れませんね。
わたしが好きな『半七捕物帳』にも、ときどき小唄の師匠が出て来ました。
芸名は、「文字春」とか頭に“文字”が付きました。
でも、改めて調べてみたら、小唄ではなく、常磐津の師匠でした。
↓『津の国屋』。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
赤坂裏伝馬町の常磐津の女師匠文字春が堀の内の御祖師様へ参詣に行って、くたびれ足を引き摺って四谷の大木戸まで帰りついたのは、弘化四年六月なかばの夕方であった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↑物語冒頭の文章です。この一節だけで、いきなり物語に引きこまれます。
この“文字”は何だろうとずっと不思議に思いながら、一度も調べずに来ました。
今回、初めて調べてわかりました。
常磐津の創始者が、『常磐津文字太夫(もじだゆう)』を名乗ってたんです。
この“文字”を継いでるわけですね。
常磐津は、浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成されるそうです。
小唄とは、大分違ってましたね。
でも、“文字"とは何なのかは、わからないままです。
シツコク調べたら、刀工に「左文字(さもんじ)」という一派があるようです。
「右文字」は、いませんでした。
『左甚五郎』、『左とん平』。
なんで、右がいないんでしょうね?
しかし、表札(?)が出てると言うことは……。
ここは、表の入口なんですよね。
入口のすぐ脇に、洗濯物が干してあります。
↓入口に近い方のは、白足袋でしょう。

↑「み」。またもやピンボケですが。
もうひとつの方は……。
これって、下着なんじゃないですか?

↑「み」
↓半襦袢とかいうやつ。
でも、筒袖なのが不思議です。
あ、これは大正期か。
筒袖の半襦袢って、いつごろ発明されたんですかね?
確かに、三味線を弾くには、こちらの方が良さそうな気はします。
でも、いずれにしろ、色っぽいですよね。
ていうか、色っぽすぎませんか?
入口脇に、足袋と半襦袢が干してあるんですよ。
ひょっとしたら、男の入門者を誘う餌ですかね?
中で、違うことを教えてるのかも知れません。
三味線の音が途絶える時間があるんじゃないですか。
今なら、テープをかけておけますが……。

大正期では無理でしょう。
↓長屋です。

↑「み」
なんだか江戸時代みたいですが、↓奥に柱時計が掛かってます。

↑「み」
ここは、銅壷(どうこ)職人の一家(4人)の住まいだそうです。
銅壷とは、銅板で作った湯沸かし器のことだとか。
当初、ヤカンのことかなと思いましたが、画像を探したらぜんぜん違いました。

↑注ぎ口があるということは、ヤカンとしても使ったのでしょう。あ、お湯を捨てるための口か。
これは、火鉢の中に入れて使うそうです。
ヤカンが主な役目ではなく、お燗を付ける道具みたいですね。
こういうので燗を付けて飲んだら、楽しそうですね。
老後の楽しみにしようかな。

↑これは新しい作みたいですね。
なお、銅壷職人は、銅壷だけを作ってたわけではなく……。
鍋やヤカンなど、銅を材料とする器具全般を作ってました。
もちろん、作るだけでなく、修理も行います。

↑現代の修理画像です。今はむしろ、新しい物が手に入りにくいので、修理して使うしかないのかも知れません。
昔の人は、壊れたら捨てるなんてことしませんからね。
↓ここは玄関かと思ったら、作業場だそうです。

↑「み」
さまざまな道具が揃ってます。
↓これが、炉です。

↑「み」。どうしてもピンボケですね。
ブロックみたいに石を積んだ右側が炉です。
炉の前に小さな椅子があります。
ここに腰掛けて作業したのでしょう。
石組みの左側にある箱が鞴(ふいご)です。
手前に取っ手が付いていて……。
それを押したり引いたりすると、風が右側の炉に吹き出す仕組み。

↑こういうものです。
火力を強め、材料となる金属片を溶かすわけです。
燃料は、石炭やコークス(石炭から揮発分を除いたもの)だそうです。

↑図で“ガス”とあるのが「揮発分」だと思います。
職人には、家で仕事をするものと……。
客先に出かけていって仕事をするもの、2種類があります。
前者を居職(いじょく)、後者を出職(でじょく)と云いました。
銅壷屋は居職、大工などが出職です。

↑浮かない顔ですね。
わたしがなるなら、断然、居職です。
出かけていくのは面倒ですから。
仕事に飽きたら、茶の間に上がって寝転がってしまえばいい。

↑あ~、楽だ。
「今日はもう止め!」と決めれば、風呂屋に行って、晩酌です。

↑ネズミの尻尾に、猫の首輪が結ばれてます。どういう謎でしょう?
飲み過ぎて二日酔いになっても、朝早く出かけなくていい。
云ってみれば、在宅ワークです。
わたしの憧れですね。
でも、大工などの出職にも、いいところはありました。
例えば、雨の日などは、休みになったようです。

↑作り物ではなく、インドネシアで撮られた実写だそうです(ホンマか?)
梅雨のころは、毎日、家でゴロゴロできますよね。
ただ、日当ですから、仕事に出なければ、お金は入りません。
おかみさんは、腹立たしかったでしょうね。
明治、大正までは……。
小学校を卒業すると、すぐに奉公に出るのが普通でした。
12歳くらいで親方の元に弟子入りし……。
徴兵検査のある20歳までの8年くらいの年季奉公の間に、職人としての技術を身に付けたそうです。
↑これは、江戸後期のお話。千太郎は、7歳で奉公に出たそうです。切ないです。
この間はもちろん、親方の元に住みこみです。
親方の家の家事などもしながら……。
親方や年長の職人の仕事を、見よう見まねで覚えます。
年季が明けると、ようやく一人前とみなされ……。
初めて給金がもらえたそうです。
休日は、明治時代までは、「藪入り」の日だけ。
1月15日と7月15日の2日だけです。

↑初めて親元に帰った日でしょうか。
年に、たったの2日ですよ。
それも、朝、親方の元を発って……。
夕方には、親に伴われ、また親方の元に戻ったそうです。
聞いてるだけで辛くなりますね。

↑藪入りの日の夕方じゃないでしょうか。帰りたくないですよね。
大正時代からは、毎月1日と15日が休みになったそうです。
それでも、月に2日です。
でも、大工の弟子なら、雨とかで休めますよね。
親元には帰れなかったでしょうけど。
商家の方が、辛かったように思えます。

↑明治中頃の静岡の商家。中央が、主人と息子。ほかの3人の子供は丁稚です。
あと、商家では、いろいろ気働きを覚えなければならないでしょう。
こういうことが不得手な子は、必ずいたはずです。
その点、職人は、黙々と手仕事に励めばいいわけです。
でも……。
職人は、怪我が怖いです。
何の保証もありませんから。
「怪我と弁当は自分持ち」と言われました。
昔の人は、運不運で、まったく違った人生になったでしょうね。
↓仕事場と隣り合った、居住スペースです。

↑「み」
↓長火鉢とお銚子。

↑「み」
これから晩酌ですね。
1日で一番楽しい時間だったでしょう。
今、お銚子が載ってるところは、「猫板(ねこいた)」と云います。
↓取り外せるようになっていて、客に出す湯飲みなどを載せて運ぶのに使われました。

なお、「猫板」の語源ですが……。
まさしくそのまんま。
ここに猫が載って暖まってることが多いからです。

↓これが、銅壷(どうこ)です。

↑「み」
この職人は、かなりな道楽者のようです。
↓これは、「三味線箱」ですね。

↑「み」
この職人は、既婚者です。
↓箪笥の上に、鏡台が載ってますから。

↑「み」。相変わらず、大ピンボケ。
でも、おかみさんが三味線を弾くことは……。
芸者あがりでもない限りはなかったでしょう。
つまり、この三味線は、職人が弾いたんです。
といっても、この部屋で弾いたわけではありません。
義太夫、小唄、長唄、常磐津、清元などを習いに行ってたんです。
多くは、お師匠さん目当てだと思います。

↑これは、長唄師匠。左の男たちは、順番待ちでしょうか? これじゃ、悪事なんか働けません。
この銅壷職人は、玄関先に洗濯物を干してた色っぽい師匠に通ったんでしょうか?
でも、あまりにも近すぎて……。
悪事を働くのは難しいでしょうね。
といっても、すぐ近所に師匠がいるのに、遠くの師匠に付いたりしたら……。
魂胆が見え見えです。
悩ましいところですね。
↓大正時代の静かな夜が偲ばれます。

↓銅壷屋の横にある稲荷です。

↑「み」
可愛いお稲荷さんですね。
油揚げが供えてあります。

↑「み」
本物だったんでしょうか。
もっとよく見てくれば良かったな。
榊も青々としてますね。
作り物だったら、ちょっとがっかりですが。
そういうのを見てこなくてはなりませんね。
ところで、この榊立てと榊で、忘れられないことがあります。
わたしは以前、小さな神棚を2階に祀ってました。

↑これより、もう少しチャチでした。いつ捨てたのか覚えてませんが、今はもうありません。
一応榊立てもありましたが……。
作り物の榊を入れてました。

↑こういうやつ
ある、正月前のこと。
観葉植物のガジュマルを、ベランダから取りこみました。

↑「み」。本物です(2010年1月の写真)。
さすがに、新潟の冬を、外で過ごさせるわけにはいかないので。
でも、夏場に葉が茂りすぎてたので、枝を切り詰めました。
ガジュマルの枝は、切ったところから、乳液のような真っ白い汁が零れるんですよ。

ちょっと生々しく、怖い感じさえあります。
その切り取った枝を、捨てようとして、ふと思いつきました。
これって、榊の葉に似てるじゃん。
ということで、正月くらい、本物の植物の方がいいだろうと……。
作り物を取り去り、ガジュマルの枝を榊立てに挿しました。
正月中くらいは枯れさせたくなかったので、水も入れました。
で、無事に正月も終わりましたが……。
ガジュマルは、まだ枯れません。
務めは果たしたわけですが……。
枯れてないのに捨てるのは気の毒です。
枯れたら捨てようと思い、水だけは足してました。
ところが、いっこうに枯れないんです。
神棚は、まったく日のあたらない場所にありました。
なので薄暗く、ほとんどまじまじと見ることはありませんでした。
大して気にも留めずにいたのですが……。
さすがに、節分で撒いた豆を拾ってるとき見あげて、疑問を感じました。

↑わが家は当然、落花生。大豆のところは、撒いた豆は食べないんですかね?
榊立てに挿してから、優に1ヶ月以上経ってます。
まだ枯れないというのは、尋常ではありません。
で、改めて榊立てを手に取り、まじまじと見て仰天しました。
枯れるどころではありません。
新しい薄緑の小さな葉が、いくつも開き始めてたのです。

↑ほかの植物もそうですが、新芽というのは、ほんとうに可愛いものです。
枝を、榊立てから引っこ抜いてみて……。
更に、びっくり仰天。
枝の切り口から、もうもうと根が出てたのです。

↑こちらは、コップに水差ししたガジュマル(拝借画像です)。普通に根が出るようです。
なんと、薄暗い神棚の榊立ての中で、独立した生命体として生き始めてたんです。

新潟の湿気の多さも良かったのかも知れません。

↑あと、冬場は、最高気温と最低気温の差が小さいのも良かったのかも。
しかし、ガジュマルの生命力の強さに、改めて感服しました。
そして今も、感服し続けてます。
なぜなら、その2本のガジュマルの枝、今もまだ生き続けてるんです。
2階のトイレの中です。
榊立てから抜いた2本を束ねて茶碗に入れてたら、根っ子がくっついて、1本になりました。

↑「み」。これは、2010年1月の様子。茶碗から出した写真です。およそ9年前です。
そのまま、10年以上が経ちました。
最近はさすがに茶碗が小さくなったので、100均で買ったガラスの保存瓶に入れてます。

↑「み」。これが、2018年11月。元気です。
根が伸びられないので、大きさはほとんど変わりません。
でも、同じ大きさを保ちながら……。
ずっと生き続けるというのはスゴいと思います。
また脱線しました。
元に戻します。
↓次の写真。

↑「み」
これも路地のようですが……。
ピンボケなうえ、意図がわかりません。