2018.11.9(金)
『上野大仏』が最初に建立されたのが、1631年。
なんと、越後村上藩主『堀直寄(なおより)』が、戦死者慰霊のため建立したものだとか。
戦死者というのは、何の戦ですかね?
『関ヶ原の合戦』でしょうか?(当然、堀氏は東軍でした)
↑堀氏の名前はありません。布陣だけ見たら、西軍(青)が圧倒的に有利です。
最初は、漆喰造りの像だったそうです。
↑漆喰と云えば、左官の超絶技巧『鏝絵』が思い浮かびます。
早い話、粘土の像です。
2.6メートルくらいだったようです。
ところが、1647年の地震で、この大仏さまは倒壊してしまいます。
しかし、1660年ごろ、遊行僧『浄霊(凄い名前)』により、青銅製の金銅仏(金メッキ)として再興されます。
↑遊行の僧と云えば、『西行』が有名です(和歌山県紀の川市にある『西行法師像』)。
1698年には、大仏殿も建立されます。
屋根付きのお堂に収まったわけです。
これからしばらく、大仏さまは幸せな時を過ごします。
しかし!
お堂が出来てから144年後の1842年。
覆堂が火災になります。
中の大仏さまは蒸し焼き状態になりますから、大きく損傷してしまいます。
2年後の1844年、堀家の支流で、越後村松藩第9代藩主の『堀直央(なおひで)』が大仏殿を修復。
さらに、しかし!
幕末の1856年、『安政の大地震』により頭部が損傷。
↑プレート境界型の大地震でした。富士山も噴火しました。
さすがにそのままにはしておけないので、再び堀直央が修復。
で、明治を迎えます。
しかし、ここから更に大仏さまの受難が始まります。
1875(明治8)年、上野公園の整備にともない大仏殿が撤去されます。
↑明治末期から大正初期にかけての写真のようです。光背は、大正5年ごろ取り払われたみたいです。
そして、1923(大正12)年、関東大震災が起きます。
頭部が落下しました。
↑無残を通り越して、不気味です。
大仏さまは解体され、寛永寺が保管しましたが……。
資金の目処が立たず、再建は断念されました。
そして、太平洋戦争の始まる1年前の1940(昭和15)年……。
軍需金属資源として、顔面部以外がすべて供出され、大仏さまは消滅します。
↑寺院の梵鐘も供出。こんなことまでしなくちゃならない戦争が、勝てるわけありません。
なんと、越後村上藩主『堀直寄(なおより)』が、戦死者慰霊のため建立したものだとか。
戦死者というのは、何の戦ですかね?
『関ヶ原の合戦』でしょうか?(当然、堀氏は東軍でした)
↑堀氏の名前はありません。布陣だけ見たら、西軍(青)が圧倒的に有利です。
最初は、漆喰造りの像だったそうです。
↑漆喰と云えば、左官の超絶技巧『鏝絵』が思い浮かびます。
早い話、粘土の像です。
2.6メートルくらいだったようです。
ところが、1647年の地震で、この大仏さまは倒壊してしまいます。
しかし、1660年ごろ、遊行僧『浄霊(凄い名前)』により、青銅製の金銅仏(金メッキ)として再興されます。
↑遊行の僧と云えば、『西行』が有名です(和歌山県紀の川市にある『西行法師像』)。
1698年には、大仏殿も建立されます。
屋根付きのお堂に収まったわけです。
これからしばらく、大仏さまは幸せな時を過ごします。
しかし!
お堂が出来てから144年後の1842年。
覆堂が火災になります。
中の大仏さまは蒸し焼き状態になりますから、大きく損傷してしまいます。
2年後の1844年、堀家の支流で、越後村松藩第9代藩主の『堀直央(なおひで)』が大仏殿を修復。
さらに、しかし!
幕末の1856年、『安政の大地震』により頭部が損傷。
↑プレート境界型の大地震でした。富士山も噴火しました。
さすがにそのままにはしておけないので、再び堀直央が修復。
で、明治を迎えます。
しかし、ここから更に大仏さまの受難が始まります。
1875(明治8)年、上野公園の整備にともない大仏殿が撤去されます。
↑明治末期から大正初期にかけての写真のようです。光背は、大正5年ごろ取り払われたみたいです。
そして、1923(大正12)年、関東大震災が起きます。
頭部が落下しました。
↑無残を通り越して、不気味です。
大仏さまは解体され、寛永寺が保管しましたが……。
資金の目処が立たず、再建は断念されました。
そして、太平洋戦争の始まる1年前の1940(昭和15)年……。
軍需金属資源として、顔面部以外がすべて供出され、大仏さまは消滅します。
↑寺院の梵鐘も供出。こんなことまでしなくちゃならない戦争が、勝てるわけありません。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/11/09 07:20
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遊行者遊行者
本編で書いた「遊行僧」という言葉に……。
何か若いころの記憶を呼び覚まされそうな気配を、ずっと感じてました。
ようやく思い出しました。
若い頃好きだった詩人に、大手拓次という人がいます。
その人の詩でした。
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●美の遊行者
そのむかし、わたしの心にさわいだ野獣の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへつてきた。
すべての空想のあたらしい核(たね)をもとめようとして
南洋のながい髪をたれた女鳥(をんなどり)のやうに、
いたましいほどに狂ひみだれたそのときの一途(いちづ)の心が
いまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやつてきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であつた。
苗床のなかにめぐむ憂ひの芽(め)望みの芽、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。
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好きな詩のひとつで、何度も読み返したので、記憶が残ってたんですね。
「遊行僧」とは、拠点寺院を定めず、生涯を通じて遍歴する僧のことです。
僧の身分ではない遍歴者が、「遊行者」なんでしょうね。
旅の文学には、若山牧水や山頭火のように、寂しさを突き詰めるものがある一方……。
対局には、「東海道中膝栗毛」などの珍道中ものがあります。
ま、わたしが書いてる『東北に行こう!』などのシリーズも、そっち方面なわけですが。
基本的に、前者は一人旅、後者は複数旅になります。
わたしが毎年行ってる『単独旅行記』は一人旅ですが……。
寂しさはもちろん感じません。
何度も往復した新幹線で、10年住んだ東京に行くだけですからね。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2018/11/09 07:21
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遊行者(つづき)
一人旅をしたことは、何度かありますが……。
ほとんどが日帰りでした。
福島県の会津若松、秋田県の新庄、長野県の飯山。
いずれも、車を使って行って来ました。
『Mikiko's Room』を始める前は、休日はヒマだったですからね。
東京以外で、泊まりがけの一人旅に出たのは、1度だけだったと思います。
行き先は、長野県の伊那。
高校の友達で、信州大学の農学部に進んだ子(女子)がいたんです。
1度も同じクラスにならなかった子で、友達の友達だったことから知り合いました。
農学部に進むような子ですから、少し変わってたところが、お互いウマが合ったのでしょう。
で、大学に入ってから、その子が住んでる伊那に遊びに行ったわけです。
理系の学部は授業が忙しいらしく……。
昼間は、わたしをほっぽらかして、授業に行ってしまいました。
で、わたしはひとりで時間を潰さなければなりません。
バスに乗って、伊那市街に行こうとしましたが……。
乗り間違えました。
このときは、ほんとに心細くて不安でした。
進行方向を向いたバスの座席に、腰が浮きそうな格好で座りながら……。
あー、自分は一人旅には向いてないなと、心から思い知りました。
伊那の街中では、川がごうごうと流れてたという記憶だけあります。
天竜川でした。
たまたまその日の流れが激しかっただけなのかも知れませんが……。
新潟の真っ平らな川との違いに、ますます異郷感を感じたものです。
でもそろそろ、『単独旅行記』の行き先も、東京以外を考えたいなと思ってます。
自分がどう変わったかも知りたいですし。