2018.7.9(月)
続いて、冬。
これは、太平洋側への旅行であれば、むしろ一番の適期だと思います。
高い確率で晴れが期待できますから。
『江戸東京たてもの園』など、野外の施設を訪ねるには最適でしょう。
落葉樹が葉を落としてますから、建物などはとても見やすくなります。
↑手前の木が葉を茂らせてたら、だいぶ視界が遮られると思います。
それでは、なぜ冬にしないのか。
それは、新潟の交通機関の運行が予測できないからです。
上越新幹線はまず大丈夫でしょうが……。
それに乗るためには、新潟駅まで在来線を利用しなくてはなりません。
これが、ヘタすると止まってしまうんです。
↑背後にうっすらと見えてるのが新潟駅。2018年1月。積雪は80㎝を越えました。
万全を期すためには、新潟駅周辺で前泊しなければなりません。
東京から帰ったときも、新潟駅からの在来線が動いてなかったら最悪ですよ。
大荷物を背負って呆然としてる自分を想像すると、背筋が寒くなります。
↑何かにすがらなければ立っていられないでしょう。
ということで、冬も却下です。
となると、残りは春しかありません。
3月、4月、5月。
しかし、この時期にもまた問題があります。
まず、3月ですが……。
わが社の決算が、3月なんです。
そのため、3月は各事業所を回って……。
現金の残高が出納帳と合ってるかとか、金庫鍵が規則どおり運用されてるか等々を調べて来なくてはなりません。
↑ダイヤル番号を紙に書いて、金庫の扉に貼ってたバカ者もいました。
事業所は、本社以外に20カ所くらいあります。
1日に1,2カ所ずつ、事業所とスケジュールを調整しながら回ります。
ほとんど、丸1ヶ月かかるんです。
当然、デスクワークに皺寄せが来ます。
↑これはちょっとオーバーですが。
年休を取って旅行に行くなど、とうてい考えられません。
続いて、4月。
スケジュールが合わなかったりで、3月に行けなかった事業所を回ります。
あと、決算申告に備えて、勘定科目ごとの内訳書を作らなければなりません。
とても、連続する年休は取れません。
これは、太平洋側への旅行であれば、むしろ一番の適期だと思います。
高い確率で晴れが期待できますから。
『江戸東京たてもの園』など、野外の施設を訪ねるには最適でしょう。
落葉樹が葉を落としてますから、建物などはとても見やすくなります。
↑手前の木が葉を茂らせてたら、だいぶ視界が遮られると思います。
それでは、なぜ冬にしないのか。
それは、新潟の交通機関の運行が予測できないからです。
上越新幹線はまず大丈夫でしょうが……。
それに乗るためには、新潟駅まで在来線を利用しなくてはなりません。
これが、ヘタすると止まってしまうんです。
↑背後にうっすらと見えてるのが新潟駅。2018年1月。積雪は80㎝を越えました。
万全を期すためには、新潟駅周辺で前泊しなければなりません。
東京から帰ったときも、新潟駅からの在来線が動いてなかったら最悪ですよ。
大荷物を背負って呆然としてる自分を想像すると、背筋が寒くなります。
↑何かにすがらなければ立っていられないでしょう。
ということで、冬も却下です。
となると、残りは春しかありません。
3月、4月、5月。
しかし、この時期にもまた問題があります。
まず、3月ですが……。
わが社の決算が、3月なんです。
そのため、3月は各事業所を回って……。
現金の残高が出納帳と合ってるかとか、金庫鍵が規則どおり運用されてるか等々を調べて来なくてはなりません。
↑ダイヤル番号を紙に書いて、金庫の扉に貼ってたバカ者もいました。
事業所は、本社以外に20カ所くらいあります。
1日に1,2カ所ずつ、事業所とスケジュールを調整しながら回ります。
ほとんど、丸1ヶ月かかるんです。
当然、デスクワークに皺寄せが来ます。
↑これはちょっとオーバーですが。
年休を取って旅行に行くなど、とうてい考えられません。
続いて、4月。
スケジュールが合わなかったりで、3月に行けなかった事業所を回ります。
あと、決算申告に備えて、勘定科目ごとの内訳書を作らなければなりません。
とても、連続する年休は取れません。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/07/09 07:24
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今日は何の日
7月9日は、『鴎外忌』。
1922(大正11)年7月9日(今から96年前)……。
森鴎外が亡くなりました。
享年60。
写真を見ると、おじいさんの印象がありますが……。
還暦を迎えてすぐの死だったんですね。
西城秀樹さんより若死にです。
ま、当時は平均寿命が違いますが。
腎臓病に肺結核を併発したのが死因のようです。
鴎外は、第一大学区医学校(現・東大医学部)を出て陸軍の軍医となり……。
軍医のトップである軍医総監(中将)にまで上り詰めます。
作家としても名声を得て……。
医学博士にして文学博士。
従二位、勲一等。
しかし、この人の遺言がまた有名。
↓原文はカタカナ書きですが、読みづらいのでひらがなにしました(行分けと括弧書きもわたし)。
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余は少年の時より老死に至るまで一切秘密無く交際したる友は賀古鶴所君なり
こヽに死に臨んて賀古君の一筆を煩はす
死は一切を打ち切る重大事件なり
奈何なる官憲威力と雖(いえども)此に反抗する事を得すと信す
余は石見人森林太郎として死せんと欲す
宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るヽ瞬間あらゆる外形的取扱ひを辭す
森林太郎として死せんとす
墓は森林太郎墓の外一字もほる可らす
書は中村不折に依託し宮内省陸軍の榮典は絶對に取りやめを請ふ
手續はそれぞれあるべし
これ唯一の友人に云ひ殘すものにして何人の容喙(ようかい=差し出口)をも許さす
大正十一年七月六日
森林太郎 言
賀古鶴所 書
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死の3日前に口述してます。
頭は、これ以上なくしっかりしてたわけです。
ほんとにもったいないですね。
今だったら、まだまだ生きられたでしょうに。