2016.1.26(火)
ひと月近くが経ち九月に入っていたが、京の季節はまだ夏の気配であった。
あやめは、一心不乱に洗い物を行っていた。
あの、宝田の椀物の一件以来、あやめは包丁を禁じられていた。あやめはそのことについて、言い訳や抗弁をすることは一切なかった。「花よ志」調理場でのあやめの立場は未だに追い回しである。そういうことでは、あやめは通常の仕事を行っていることになる。
しかし……。
碗方の田辺銀二は「花よ志」を辞めていた。他の店に移ったらしいが、あやめは詳しいことは聞かされていなかった。
焼方の平野良雄は、いつの間にか店に顔を出さなくなっていた。こちらは辞めたとも聞いていない。
つまり、「花よ志」の厨房は現在、関目源蔵と幸介、それにあやめの、わずか三人の戦力になっていた。
それでも源蔵は、あやめに包丁を持たせようとしなかった。実質、幸介と二人だけで「花よ志」の厨房を切り回していた。「花よ志」は、数室の座敷を持つ料亭である。いかに小さな店とはいえ、これは考えられない事であった。
幸介は、毎夜厨房を上がる頃には、ぼろきれの様に疲れ切っていた。日夜、源蔵に命じられるまま、口を開く余裕もないほど、厨房内を駆けずり回っていた。あやめを気に掛ける、そんな余裕も、今の幸介にはなかった。
源蔵の働きはそれ以上であった。この状態でも料理の質はいささかも落とさなかった。いやむしろ、めっきり少なくなった客の間では「近頃、美味(うも)なった」という評判であった。中には「この世のものやないような美味さや」「鬼気迫る、ゆ(云)うかのう」などという声もあった。源蔵の働きはもはや人のものではなく、鬼神か阿修羅を思わせるものであった。
それでも源蔵は、あやめに包丁を持たせなかった。あやめは追い回しとして、調理以外の厨房の下働きを一手に引き受けていた。決して手を抜くことはしなかった。
料亭「花よ志」の厨房は今、三人の鬼が支えていた。
九月の一夜、「花よ志」女将の志摩子と立て板の源蔵は、いつもの様に志摩子の自室で酒を酌んでいた。
源蔵は畳の上に直に座し、大胡坐を掻いていた。もろ肌脱ぎである。手にした木の一合桝の酒を、放り込むように口にした。京都伏見の銘酒「筺姫(はこひめ)」である。酒薫混じりの吐息を軽く吐いた。
志摩子は源蔵と同様、畳に座し源蔵に侍っていた。こちらは横坐り、襦袢一枚を肩に引っ掛けていた。その体の前面は剥き出しである。豊かな双の乳房が時折軽く揺れた。
源蔵は志摩子に声を掛けた。
「殺(や)るんは簡単やけど、ほれはあかんねやろ(駄目なんだろう)」
「せや(そうだ)。あっさり楽にさしたるかい。あの子、あやめにはたっぷり地獄を見てもらわんとなあ。いや、あの子だけやない。兄貴の健三もや。二人揃(そろ)て地獄送りにしたる」
「おいおい」
源蔵はさすがに苦笑した。
志摩子は声を継ぐ。
「ほんま(本当)やったらあの二人の二親も、その親らも地獄見さしたるとこなんやけんど、もうとっくにいてもとるわ(死んでしまっている)。残念なこっちゃが、これはしゃあないわ。その分、あやめと健三にはたっぷり、地獄の底の底まで見したる(見せてやる)」
「しやけど(しかし)……おまん(お前)もおっとろしい(恐ろしい)おなごやのう」
「何ゆ(言)うてんのん、源ちゃん。あんた、知らんわけやないやろ、うちの恨み」
「まあ、そらそやが。健三と……包丁持っとるやつには何の責任もないやないかい」
「何ゆうてんねん。親があって子が育つんやないかい。あの二人も、同罪や」
「親が憎けりゃ、かい」
「ふん」
志摩子は、源蔵の持つ木桝を取り上げた。桝の酒を、源蔵に倣うように口に放り込む。
源蔵は、志摩子の仕草を眺めながら語り掛けた。
「そういやあいつはもう、包丁持っとるやつ、やないなあ」
「ほほ、ほな、包丁持ってへんやつ、かいな」
「はは、まあそういうこっちゃが、あないな(あのような)えげつない(酷い)椀物作ったやつや。ほれ(それ)も当然やろ」
「源ちゃん、あんたの方がえげつないで。あの椀はあやめのせいやないやろが」
「何ゆ(言)うとんねん。あれはみいんな(全部)おまん(お前)が企んだことやろが」
「ほほ、せやったなあ。まあ、あれは運んだ花世のお手柄や。塩やらなんやら椀に放り込んでなあ。うま(上手)いことやりよったわ。なんぞ褒美やらんとなあ」
志摩子は口の端を釣り上げた。笑ったようにも、牙を剥いたようにも見えた。慈母観音と夜叉と、二つが同居する志摩子であった。
「ほれにしてもお志麻。店の客足、落ちる一方やないかい。まあ、当然のことかもしれんが、宝田のおっさんの影響力、大きいゆ(云)うことかのう」
「ふん。いっとき落ちてもどってことないわい。味は落ちてぇへんやろが、源ちゃん」
「ほら当たり前や。調理してんのは儂、狂犬源蔵やぞ。『気も狂うほどの美味さ』じゃ」
「まあ、たといこの店潰れても、ほかにも店ある。ちょっとした小料理屋もな。いよいよとなりゃ源ちゃん、そっちに移りゃええがな」
「みいんな(全部)おまはん(あなた)が乗っ取った店やろが。えげつない(酷い)手口でのう」
「ふふん」
志摩子は、今度は上唇と小鼻を蠢かせた。単に笑ったようにも、自慢をしているようにも見えた。瓜子姫と天邪鬼とが同居する志摩子であった。
「まあ源ちゃん。しばらく人手が足りんで大変やろけど、ほ(そ)のあたりはちゃんと考えてる。頼むで」
「まかしとかんかい」
源蔵は、どことなく生き生きとしていた。料理に没頭しながら人を甚振る(いたぶる;いじめる)。源蔵にしかわからない、この上ない愉しみであった。源蔵は、今の日常に酔っていた。
「ほんで? あやめと健三を殺(や)ったとして、潔子はどないすんねん」
「潔子かいな。あの子は呼び戻して、またどこぞに送り込みゃええがな。潰す相手の店なり家(うち)なりにな。
あの子もちょう(少し)薹(とう)立ってきたけんど、その分、色気が増した。そこらのスケベ男やったら見ただけで洩らしよるやろ。まあ、男、垂らし込むんはあの子の趣味みたいなもんやし」
「ふん」
源蔵は、志摩子の膝前の四合瓶を掴み上げた。桝に注ぐことなく、口飲みにする。
源蔵は、伏見の銘酒「匣姫」を一気に喉に流し込んだ。その様は「きょうき」を呑むようであった。凶器が狂気を呑むように……。
志摩子が源蔵に撓垂(しなだ)れ掛かった。
「源ちゃあん。うち(私)にも飲ましてえな」
源蔵は、志摩子の腰を抱え込んだ。
志摩子は、源蔵に顔を寄せた。
二人の唇がぬらりと合わさる。
源蔵は、口内に残った酒を志摩子の口に注ぎ込んだ。続けて舌を送り込む。
「ぐぶ」
志摩子の、いや二人の合わさった口元から、酒混じりの唾液が垂れた。
「かはあああ」
志摩子は唇を外して大きく仰け反った。天を仰ぐ。志摩子の目は、自室の天井も「花よ志」の屋根も貫き、暗黒の京の夜空を睨んだ。睨み付けた。京の闇夜を行く妖(あやかし)を糾弾するように、いや、誘(いざな)うように睨み付けた。
その目が不意に閉じた。仰け反った志摩子の剥き出しの喉元に、源蔵が唇を当てたのだ。それは肉食獣が、捕らえた獲物の喉笛を喰い切ろうとするような激しさだった。
志摩子は、自らを捧げるように、挑むように、さらに大きく仰け反った。志摩子の喉元は肉食獣の咢に曝(さら)された。
(喰べて、源ちゃん)
(喰べて)
(うちを喰べてえや、源ちゃん)
(源ちゃん)
「源ちゃぁん」
志摩子は、悲鳴交じりに源蔵に呼びかけた。
「お志摩っ」
肉食獣の源蔵は口を開き、志摩子の喉元に歯を当てた。喰らいつく。
いや、志摩子も肉食獣だった。源蔵を迎え撃つように、牙を剥くように口を開いた。志摩子の白い前歯が、室内の仄暗い灯りを照り返した。
コメント一覧
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1. 菊と包丁ハーレクイン- 2016/01/26 16:52
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始まりました、あやめの受難
その1はなんと「包丁禁止」
まったくの濡れ衣の椀物一件が原因ですが、あやめは唯々諾々と命に従います。
その心のうちは、まだわかりません。
このまま禁止されっぱなしだと、「花よ志」にいる意味自体無くなるわけですが……。
あやめの受難。今後も続きます。
田辺銀二と平野良雄がバックレちゃいました。「花よ志」に見切りをつけたのでしょうか。平野は、料理人自体に見切りをつけたのかもしれません。
で、志摩子・源蔵極悪コンビ。
悪だくみはまだまだ続きそうですがそれはともかく、今回の二人の媾合。狂気のまぐわい、という感もあります。一体この二人、どうなってるんでしょうか。
吾(あれ)、汝(いまし)にまぐわいせむと欲(おも)ふはいかに(古事記[上];イザナキノミコト)。
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2. Mikiko- 2016/01/26 19:53
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料理人の世界
あまりにも前近代的で、わたしなら1日も持ちませんね。
職人の世界が、今どうなってるのかわかりませんが……。
まだ、「見て盗め」とかやってるんでしょうかね。
もしそうなら、そう遠くないうちに、日本の技術は失われてしまうでしょう。
日本の技術の後継者は、むしろ外国人かも知れませんね。
元魁皇の浅香山親方が、日本人力士のだらしなさについて語ってました。
稽古総見かなんかのとき……。
怪我をしてる日本人力士は、痛そうな顔だけ出して、浴衣も脱がずに帰ってしまうそうです。
外国人力士は、相撲を取れない怪我を負ってても、土俵の周りで身体をどこか動かしてるとか。
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3. のこったのこったHQ- 2016/01/26 20:23
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テレビの……
料理番組や京都ものを見ていますと、それほど前近代的とも思えませんが、まあ、テレビですからね。
「花よ志」は、これ以上ない前近代的、というより魑魅魍魎の跋扈する料亭ですが、まあこれはお話ですから。
相撲の世界は、使い古された言い回しですが「ハングリー」な力士がのし上がるんでしょうね。初代若乃花(だと思うんだけど)の警句「土俵の中には金も名誉も埋まっている」。いい得て妙、ですね。
ただ、これは日本人、外国人は関係ないと思います。日本人にもハングリーな力士はいるし、外国人にもちゃらんぽらん力士はいるでしょう。逸ノ城なんてその最たるもの。この人の稽古嫌いは有名だそうです。今場所は散々でしたが、これで目が覚めなければもう引退だな。
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4. Mikiko- 2016/01/27 07:31
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有名な店長が……
店員の腹を蹴ったりしてたじゃないですか。
権力を握ると、人の本性が出ますよね。
今の日本の若者に、ハングリーな人間なんておるの?
相撲に入門する若者なんか、みんなデブですよ。
ハングリーな生活で、あんなに太れるわけないでしょ。
精神的なハングリーさ、という考え方もあるでしょうが……。
肉体的なものより、遥かに難しいでしょうね。
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5. 太っちょハーレクイン- 2016/01/27 12:22
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みんなデブ
そないな失礼な。
幕下上位に面白い力士がいます。往年の舞の海か智ノ花か、というところです。今場所もう1勝していれば来場所はお関取だったのになあ。まあ、頑張っとくんなはれ。
え? 四股名でっか? 知りまへん(おい!)。
力士が太るのは仕事です。ハングリーさに欠けるわけではありません。
まあ、何を言おうが、「結果がすべて」の世界ですが。
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6. Mikiko- 2016/01/27 19:50
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白鵬は……
入門時、62kgだったそうです。
大鵬も、解説の北の富士さんも、ガリガリだったとか。
肉が付いていくと共に強くなっていったわけです。
これが、自然でしょ。
最初からデブなら手っ取り早いというのは、大間違い。
不摂生して付いた肉など、害悪以外の何ものでもありません。
そういうデブは、まず、80kgくらいまで絞ることから始めるべき。
それで音を上げるような輩は、『みのりフーズ』に売り飛ばすべし。
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7. どすこいハーレクイン- 2016/01/27 21:23
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デブに……
えらく反感をお持ちのようだが、太る体質というのはあるわけで、それだけで批判される筋合いではなかろう。
肉も武器です。
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8. Mikiko- 2016/01/28 07:22
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相撲は……
土俵の外に出れば敗けです。
しかも、体重制限が無い。
となれば、体重が重い方が有利なことは確かです。
でも、体重を増すことは、両刃の剣でもあります。
最近の土俵を見ればわかるとおり……。
非常に、脚のケガが目立ちます。
しかも、ほとんどの場合、重症化してます。
これも、体重増加による大きな弊害のひとつでしょう。
それにしても、ケガをしてながら出場するってのは、どういう了見なんでしょうかね。
きっちり休んで、治療に集中すべきです。
遠藤など、もうこれでお終いでしょう。
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9. 協会理事長代行HQ- 2016/01/28 08:34
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>ケガをしてながら出場するってのは、どういう了見
まったく同感です。
やはり、番付を下げたくない一心なんでしょうか。
悪役遠藤くんには頑張って出直してほしいものです。
それにしても逸ノ城はほんとに腹立たしい。どこも悪くないはずなのに今場所の体たらく。こちらにこそ引退勧告を出したいよ。
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10. Mikiko- 2016/01/28 19:52
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逸ノ城
わたしは、1804回(https://mikikosroom.com/archives/2673613.html)のコメントで、この力士は大成しないと予言しております。
まさしく、そのとおりになりつつありますね。
とにかく、分厚いサポーターは、見苦しい以外の何ものでもありません。
国技は、まず美しくなければなりません。
サポーター類は、全面的に禁止すべきです。
しなきゃ出られないのなら、休めばいいのです。
休むとサボるは大違い。
休んだ方が有意義な時間を過ごせることは多々あります。
月曜日のわたしが、良い例です。
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11. 向こう正面解説HQ- 2016/01/28 21:00
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1804回
昨年、2015年7月20の掲載ですね。『由美美弥』は、宮本夫人と農協男の絡みです。
で、『東北』がコメに掲載されています。なるほど。
しかし、これを全部やったのか。ようまあひと月ほどでできたね。大変だったろ、というのも愚かだな。
で、逸ノ城一件。↓こう書いとられますな。
>横綱と対戦しながら、負けそうになって力を抜くなど、もってのほか
>わたしは、逸ノ城は大成しないと思います
なるほど。
で、ついでに。
この回のコメで、わたしは琴奨菊をぼろくそに書いてました。
すまぬ、菊ちゃん。
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12. Mikiko- 2016/01/29 07:33
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移行作業
1ヶ月前の今ごろは、まさにその佳境にありました。
12月30日が山場でしたね。
でも、事前にいろいろ調べ、手順書を作って作業したので……。
手戻りもなく、順調に移行できたと自負しております。
琴奨菊。
亡くなった先代の佐渡ヶ嶽親方は……。
元横綱の琴櫻。
この人も、ダメ大関と言われ続けました。
横綱になるとは、誰も思ってなかったようです。
昭和47年。
1月、3月は、10勝5敗でしたが……。
5月は、1勝2敗12休。
7月は、8勝7敗。
9月が、9勝6敗。
ところが、11月に突如、14勝1敗で優勝。
翌年1月場所も、14勝1敗で連続優勝。
2場所連続優勝という文句なしの推挙条件で、横綱に昇進してます。
このとき、32歳2ヶ月。
「姥桜の狂い咲き」と揶揄する人もいたそうです。
横綱在位は、わずか8場所でしたが、もう1度優勝してます。
まさに、遅咲きの大輪を咲かせたと云うことですね。
琴奨菊にも、花の名前が入ってます。
なにか、縁を感じますよね。
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13. ボロエロ書きHQ- 2016/01/29 09:52
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順調に移行できたと自負
あんたはエラい!
わたしなら、さっさと投げ出してるな。
琴奨菊の菊。
本名の菊次一弘(きくつぎかずひろ)から取ったそうです。
一時「ボロ奨菊」なんて揶揄されましたが、もうそんな失礼なことを言う人はいないでしょう。勝てば官軍。
琴奨菊。
もし横綱を掴めば「師匠の衣鉢を継ぐ男」となるんでしょうか。
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14. Mikiko- 2016/01/29 19:59
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投げたらあかん(ピッチャーを除く)
「衣鉢を継ぐ」。
こういう字を書くんですね。
打ち間違えおってと、ツッコミかけました。
調べて良かった。
ずっと「遺髪を継ぐ」だと思ってました。
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15. 不肖の弟子HQ- 2016/01/29 22:25
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衣鉢
僧侶の話なんだよね。
衣は衣(ころも)、袈裟ですね。
鉢は托鉢(たくはつ)用の容器。
つまり、衣鉢は僧侶のシンボル。衣鉢を継ぐ、とは師匠からその教えを受け継ぐということですね。
遺髪って……僧侶に髪はないぞ。あ、一般人の話か。