2016.1.19(火)
♪月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
京都祇園きっての呉服商、宝田晋(すすむ)の座敷であった。
場所は京都・先斗町沿いの料亭「花よ志」の二階。
宝田の座敷に音曲(おんぎょく)が入るのは珍しいことである。まして『祇園小唄』のような俗曲は、宝田の趣味から外れていた。
それが何故……。
それは宝田自身にも分からないことであった。
気まぐれ、としか言いようがない。
宝田は、軽く手を振って三味奏者を下がらせた。盃を取り上げる。
侍る志摩子女将が、すかさず銚子を手にした。
「どうぞ、旦さん」
「うむ」
短く応じた宝田は、注がれた酒を飲み干す。
軽く短く、酒薫混じりの息をついた。
「のう、女将」
「へえ、旦さん」
「この店も、ちょいご無沙汰やったが……」
「ほんまでっせ、旦さん。せいだいご贔屓に」
「どないや、あいつは元気か」
「あいつて、旦さん……」
宝田は、志摩子を見やることなく言葉を継いだ。
「この店であいつ、ゆ(言)うたら、あいつしかおらんがな」
「ほほ、説明になってまへんがな、旦さん。あやめのことでっしゃろ」
宝田は、軽く唇を歪めた。苦笑交じりに志摩子に返答する。
「せや。女子高生料理人、あやめやがな。お、もう今さら女子高生でもないか」
「ほほ、そうですなあ。あの子もえーと、もういくつになりましたかいなあ」
「大学出たんが……この春か。誕生日、来とったら……23ゆうことやの」
「ほない(そう)なりますか」
宝田晋は、盃を志摩子に突き出した。
志摩子は、手にした銚子ですかさず酌をする。
「23か……一昔前やったら、もう中年増(ちゅうどしま)ゆうとこやが、今時(いまどき)はのう。花の盛り、とでもなるんかのう」
「なんですのん、旦さん。そないに(そんなに)あやめの歳、気にしやはるて(お気になさるとは)……」
宝田は、注がれた盃の酒を、喉を湿す程度に軽く口に含んだ。
「いやあ、なんとのう(何と無く)、な」
「あやめに、結婚話、とか」
「はは、そんな事でもないけんど」
廊下に声があり、座敷の襖が引き開けられた。
盆を手にした花世が歩み入り、宝田の前に座す。捧げるように、盆の上の椀を宝田の膳に置いた。
「お椀どす」
ひと声掛ける花世に、宝田は問いかけた。
「この椀、誰や」
「へえ、あやめどす」
「ふむ」
宝田は椀の蓋を取り、掲げた椀に口を付けた。一口、口にする。
宝田は、叩きつけるように椀を膳に置き、立ち上がった。
「女将、帰るわ」
「へ、旦さん。どないしやはったん(どう、されたのですか)……旦さん!」
宝田は、引き留めようとする志摩子には答えず、後も見ずに座敷を出て行った。
見送る志摩子は、花世と顔を見合わせた。
その夜遅く、宝田晋(すすむ)とその姪、明子は、座敷に座して向かい合っていた。京都祇園の呉服商「宝月」の家族用の居間である。宝田が明子に語り掛けた。
「いやあ、ほらあ、えげつない(酷い)味やったで」
「ほ(そ)んな、おじさま……」
宝田明子は、文字通り目を剥いた。先ほど「花よ志」で出された椀物の味を語る伯父、晋に対して、である。
「あのあやめさんが、そないな椀物作るわけ、おへん(無い)やないですか!」
血相を変えて伯父に詰め寄る明子に、宝田も少し声を大きくした。
「むろん儂かて、あのあやめが、あないな(あのような)しくじり(失敗)やらかした(仕出かした)とは考えとらん。なんぞの間違いか、ほやなかったら(そうでなければ)……」
「ほ(そ)れはいったい……」
明子は、全く理解できないという風に伯父、晋(すすむ)を見やった。
「まあ待て、明子。実は、こないなことは初めてやないんや。もう半月以上も前になるか、いっぺん(一度)おかし(訝し)な椀物が出たことあった。あやめの調理でな。
まあほの時は、今回ほどはひどい(酷い)味やなかったし、儂も、まあこないなこともあるか思て、なん(何)も言わんかったんや。
しかし、今回はほんま(本当)に無茶苦茶な味やった。どない考えても、うっかりとか、失敗とかゆう(云う)ようなもん(物)やない。明らかに、何ぞの(何かの)企みとしか思えん、ひどいもんやったわ」
「せやったら(それなら)おじさま!」
なおも言い募る明子を、宝田晋は軽く手を上げて制した。
「おそらく……店の評判とか、ほないなもん(そのようなもの)を度外視した企みやろ。ほ(そ)の目的は、あやめとしか考えられん。あやめを貶める。ほのための企み、ゆう(云う)ことやろ」
「ほ(そ)れやったら、おじ様!」
明子の、晋への声掛けは、ほとんど悲鳴であった。
「まあ、落ち着かんかい、明子。
今度の件、あやめに何の落ち度も無いにしてもや。こないな(この様な)事が起こるゆう(と云う)ことは、あの店、『花よ志』に今、なんぞ(何か)の事情がある、ゆう(云う)ことや。尋常やないなんかが起こっとる、ゆう(云う)ことや。
ほれ(それ)にもし儂らが巻き込まれる、ゆう(と云う)ようなことになったら、下手したらうちの暖簾に傷がつく。祇園の老舗『宝月』にな。ほ(そ)れだけは絶対にあってはならん。わかるか、明子」
「へえ(はい)。しやけど(だけど)……」
宝田は深く両腕を組んだ。
「さっきもゆうたように、今度のことはおそらく誰ぞ(誰か)の企みや。あやめを貶めよゆう(云う)な。何のために、ほないな(そのような)ことすんのかはわからんが……。
で、や(それで)。その企みに載せられるんも業腹な話やが、あこ(あそこ)までのことやられては、黙ってはおれんがな。席立って帰る。もう「花よ志」とは縁切りや、ゆう(云う)態度示さんとなあ」
明子は、全く釈然としない、という風に伯父に詰め寄った。
「それはそうどすやろけど、しやけど(だけど)おじ様……」
「しやけど、やない! ええか、明子。これはきつう(厳しく)ゆうとく(言っておく)。今後、あやめに会うことはもちろん、『花よ志』に近づくこと一切ならん(近づいてはいけない)。ええな、わかったな」
「そんな……」
♪夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字
祇園恋しや だらりの帯よ
コメント一覧
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1. 包丁人ハーレクイン- 2016/01/19 10:30
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♪祇園小唄♬
>宝田の趣味から外れていた
ではなぜ、宝田晋はやらせたのか。
それはもちろん、作者がやりたかったからですね。
まあそれはともかく、いよいよ始まりました、志摩子・源蔵、極悪コンビの悪だくみ。花世、道代も巻き込んでのその目的は、あやめ。あやめの評判を地に落とすこと、にあったようです。
いったいなんのために。そんなことをして何の得があるのか。「花よ志」の評判まで悪くなるのでは……などと考えてしまいますが、そこは今後のお楽しみ。
一気に緊迫する『アイリス』。匣の開くその時目指し、ひたすら駆け抜ける所存です。
今後の展開を、乞う!ご期待。
♪鴨の河原の水やせて
咽ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
♪雪はしとしとまる窓に
つもる逢うせの差向(さしむか)い
灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ
(結局、最後までやっちまったぜ、祇園小唄)
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2. Mikiko- 2016/01/19 19:52
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いったいなんのために
お手並み拝見ですね。
『祇園小唄』の作詞は、長田幹彦だそうです(知らん)。
小説家みたいです。
初期には、谷崎潤一郎や吉井勇と並び称されたとか。
今、この人の名を知る人は少ないんじゃないでしょうか。
それで連想するのは、佐藤春男ですね。
全盛期、その名声は谷崎、芥川を凌いだそうです。
わたしは、この人の詩歌に、高校時代はまりました。
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3. こまったちゃんHQ- 2016/01/19 22:39
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>お手並み拝見
実は……前コメで「そこは今後のお楽しみ」何ぞと書きましたが、実は苦慮しております。当初の予定では、この「悪だくみの目的」については、とぼけてさらっと流すつもりだったのです。そして、一気呵成に「開けゴマ! Open Sesame!」で匣を開けるところまで雪崩れ込むところだったのです。もう、ストーリーは出来上がっているのです(まだ書いてはいませんが)。
ほんとに、源蔵・志摩子の悪だくみが始まってから、筆がすいすい進むのです。現に、次回分はもう書き上げているのです。
ところが! 管理人さんから「あやめの評判を落としたいという理由」を書け、という、嫌がらせ!とも思えるお達しが。さあ、困った。何とかその理由を捻りださねばならなくなりました。うーん。どうすんべ。
いくつか腹案はあるのですが、下手したら「匣が開くとき」が大幅に遅れる、という可能性も出てきました。こまった困った困ったぞ、と。次回の投稿までに、何とか道筋だけでもつけねばなりません。
引っ張りにかかる、という手もあるんですがねえ。
ということでそれどころではないのですが(おい)長田幹彦、わたしも知りません。これだけ人口に膾炙した歌なのにねえ。
まあ、作品はともかく、作者名というのはそんなものかも知れません。小説だってねえ、作品は知ってても書いたのは誰? というケースは多いもんね。ある意味、それでいいんじゃないですかね。
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4. Mikiko- 2016/01/20 07:36
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当然です
店の信用や得意客と引き換えにしてまで、あやめの評判を落とそうとするわけですからね。
ヘタすりゃ、店が潰れます。
そうとうな理由が無ければなりません。
これを考えずに書き進めるという蛮勇には驚きました。
わたしは、その場で理由を思いついたシチュしか書きません。
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5. 思案投げ首HQ- 2016/01/20 12:58
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いや、だから……
その「そうとうな理由」については、読者の想像に任せようと、そういうつもりだったのですよ。
「花よ志」が潰れる問題については、遣り手の志摩子女将の事ですから、うまく立ち回る……と。万一潰れたとしても、まだほかに、乗っ取った店持ってますからなあ、志摩子女将。
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6. Mikiko- 2016/01/20 19:50
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あほですか
推理小説で、犯行動機を読者の想像に任せるようなものではないか。
ほかにも店を持ってるなんて、1度も読んだ覚えないぞ。
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7. 支店長ハーレクイン- 2016/01/20 22:06
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ほかにも支店
まあ、支店というわけではないが、いろいろ持ってるということだ。食べ物関係とは限らんぞ。
詳しくは、京都中京署での捜査会議場面を読み返したまへ。
>犯行動機を読者の想像に任せる
倒叙もの、というやつだな(ちがう違う)。
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8. Mikiko- 2016/01/21 07:19
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『花よ志』はすでに……
人に売ってしまってたというのはどうだ?
手放すとなったら惜しくなり……。
いっそ、評判を落としてしまおうと思ったとか。
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9. 泥縄ハーレクイン- 2016/01/21 16:37
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志摩子・源蔵は……
極悪コンビですから、そんなセコいことはやりません。
彼らの動機と手法については、現在検討中です(今頃かい!)。
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10. Mikiko- 2016/01/21 19:46
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ほー
大きく出ましたね。
せっかく、簡単に片付けられる言い訳を考えてやったのに。
それでは、お手並み拝見といきましょうか。
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11. 地取り捜査HQ- 2016/01/21 20:51
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お手並み拝見2
いうにや及ぶ、ですわ(『アイリス』#92;京都中京署 山科源太巡査部長)