2018.2.10(土)
わたしは、初めてのお店に入るのが苦手なんです。
外に人が並んでるようなお店なら、味は良いのでしょうが……。

↑東京新宿の『うどん 慎』さん。最近では外人観光客も並ぶようになり、列が伸びたそうです。
わたしは、並んでまでお昼を食べる気にはなりません。
配給じゃあるまいし。

↑敗戦間近のころ。食料はすべて配給制だったそうです。
味よりむしろ、落ち着いて食べられる雰囲気が大事です。
一番、当たり外れのないのが、お蕎麦屋さんだと思います。
ただし、小綺麗なお店。
暖簾の紺色が濃い感じですかね。

↑東京・日暮里『川むら』さん。ちょっと高級そうです。
そういうところなら、味も雰囲気も、入る前からだいたい想像がつきます。
住宅街なら、お昼時でも、さほど混んでません。
一旦入るともう引き返せませんから、引き戸を開けた時点で滞在時間を決めます。
早く出たいような雰囲気だったら、きつね蕎麦か何かを注文します。

ほんとは、天ぷら蕎麦が好きなんですけど……。

本格的なお店では、注文を受けてから揚げるでしょうから、出てくるまで時間がかかります。
逆に、ゆっくり出来そうな雰囲気だったら……。
天ざるにビールでしたね。

↑これこれ。ネギだけは残しますが。
しかし、値段はかなりいっちゃいます。
2,000円近くになりますかね。
前夜の夕食より高くつきます。
ま、たまのおごりと自分を納得させるわけです。

↑この2人、老後は厳しいと思います。
でも、そういうお蕎麦屋さんが見当たらないことも多々あります。
あっても、昼時のサラリーマンが出入りしてるような店は避けます。
落ち着きませんから。
で、適当なお店が見つからない場合は……。
コンビニでサンドイッチを買い、小公園のベンチで食べたりしてました。

↑これは、コンビニのじゃないようです。
でも、子供連れのお母さんに、不審そうな目で見られたりします。
お蕎麦屋が見つからなかった腹いせで、缶ビールも飲んでますので……。
ひときわ不審度が増してます。
はなはだ落ち着きません。

↑この女は不審すぎです。通報されます。
といったわけで、東京での昼食は、決して楽しみなイベントではありませんでした。
で、あるとき、ふと気づいたのです。
食べなくていいんでないの?
3食、食べなきゃならないという法律があるわけではありません。
アスリートの中には、5食も6食も食べる人もいます。
江戸時代以前の人や、うちで飼ってた犬は、2食でした。

↑うちの犬は、朝晩、味噌汁かけご飯でした。食い意地の張った犬でしたが、なぜかミョウガの味噌汁だけは食べられませんでした。
それなら、わたしも2食でいいでないか。
こう決めたら、実に気が楽になりました。
いいことばっかりです。
まず、お昼を食べる場合では……。
スケジュールは、午前の部、お昼、午後の部と3分割されてしまいます。
ところが、お昼を抜いてしまえば……。
1日を、シームレスに扱えます。
お昼どきで切る必要がないんです。
もちろん、時間の節約になるということもあります。
せっかくの東京です。
お昼を抜いても、いろいろ見て回る方が楽しいです。
更に!
お昼を抜けば、その日の夕食が美味しく食べられるのです。
特に、ビールの一口目は、堪えられません。
思わず、「えーい、ちくしょう!」と唸ってしまいます。

↑これこれ。
ビールとかき揚げとテレビ。

↑↑「み」。カツ丼の上にあるのがかき揚げです。
わたしにとって、三種の神器と言っても過言ではありません。
さて。
何を書いてるのか、わからなくなりました。
とにかく、お昼を食べないということです。
これは、新潟での日常生活でも同じです。
お昼休みは、この『単独旅行記』や『紙上旅行倶楽部』を書く時間に当ててます。
お昼なんか食べてられません。
休日は、お昼を食べることは可能ですが、食べません。
なぜなら、休日のわが家の夕食は、17:30分と早めなんです。
理由のひとつは、夜を長くしたいということ。

↑もちろん、秋に限りません。
録画した番組を、たくさん見なくてはなりませんから。
もちろん、お酒を飲みながらです。
冬は、ワインの燗です。
ホットワインではありません。
あれは、カップごとレンジで温めて飲みますよね。

わたしは、日本酒用の電気式酒燗器を用います。

↑まさしく、この機種です。
「人肌燗」から「飛切燗」まで、好きな温度に設定できます。
わたしは、「上燗」から少し「熱燗」よりにセットしてます。
酒燗器からは、小さめのぐい呑みに注いで飲みます。

↑こんな感じですが、スーパーで100円くらいのものです。
3口くらいで飲めるので、お気に入りの温度が冷めたりしません。

↑太田和彦の影響があるかも知れません(『ふらり旅 いい酒いい肴』
しかし!
あまりにも飲みやすいのが欠点。
わたしは、22:30分くらいまで飲みます。
飲み始めるのが、18:30分過ぎくらいなので……。
4時間近くも飲むことになります。
ワインを、4時間も飲み続けると……。
翌朝の気分は、かなりヒドいものです。

↑ここまでではありませんが。
ということで、最近は、水で割ってます。
7:3くらいですかね。

酒燗器にワインを注ぎ、その後、水を足します。
面倒なので、計ったりはしません。
かき混ぜもしません。
そのまま熱します。
ワインそのもののアルコール度数は、10度くらいですので……。
この方式だと、7度くらいになってるはず。
以前は、赤葡萄ジュースで割ったりもしてみたのですが……。

↑まさしくこれです。
ワインの味が変わってしまい、イマイチでした。
水なら、薄まるだけで味は変わりません。
これで飲み続けると、ほろ酔い加減が持続して、いい具合です。
翌朝にも、ほぼ残りません。
7:00に朝食を食べますが、ご飯を2膳いただけます。

めでたしめでたし。
また、いらんことを書いてしまいました。
休日の夕食が、17:30分と早いことについてでした。
もうひとつの理由は、相撲にあります。
この時間から食べ始めれば、三役あたりから結びの一番まで、ゆったりと鑑賞できるのです。

↑ぬいぐるみがテレビに背を向けてて妙ですが、撮影者は相撲を見てるわけです。
相撲のない時期は、民放のニュースを見ます。
NHKは、この時間、ニュースをやってないので。
で!
夕食が早いので、お昼を摂ると、お腹が空かない状態で夕食に向かうことになります。
これは正直、楽しくないです。
空腹は最高の調味料という言葉もあります。

みなさんも、1度、お昼を抜いて、夕食を食べてみてください。
美味しくてたまげますよ。
さて。
脱線、終わり。
『葛飾区郷土と天文の博物館』を出たのが、12:10分ころ。
お昼どきですが、わたしはお昼を食べないというご説明が、少々長くなってしまったわけです。

↑「み」。左から右に歩いてます(たぶん)。
来た道を戻ります。
どうやら、雨は上がったようです。

↑「み」
道路の中央部分が緑地帯になってます。
それが、『曳舟川親水公園』なのでしょう。
やけに真っ直ぐな道だと思ってましたが、昔は川だったようです。
『曳舟川』という名称からみると、むしろ人工の運河だったんじゃないでしょうか。

↑在りし日の曳舟川。新潟市にあった堀に似てます。

↑「み」
『曳舟川親水公園』に入ってみました。
水辺の再現ですね。
夏になれば、子供たちが入って遊ぶのでしょう。
わたしが住んでる亀田郷でも、こういう親水公園があります。
亀田郷の親水公園は、排水路跡であることが多いようです。

↑その名も『亀田排水路公園』。

↑「み」。『曳舟川親水公園』です。
亀田郷の公園と、驚くほどコンセプトが似てます。
偽物の川を作っても、仕方ないと思うのですが。

↑「み」
田んぼがありました。
これはやや斬新です。
地元の小学生が植えたのでしょうか?

↑「み」。この日は、5月26日。植えたばかりのようです。
なお、この後、再び脇道に戻って歩き始めたのですが……。
後ろから、声高な中国語が聞こえて来ました。
2人連れの女性のようです。
喧嘩をしてるわけではなく、通常の会話みたいでした。
アジア系外国人は、なんであんな大声でしゃべるんですかね?
わたしが行くスーパーでも、ときおり会話が聞こえます。
大陸系の人はたくましいなという気がします。

↑『アジアの純真』は、PUFFYのデビューシングルですが、2011年公開の同名映画がありました(内容は重いみたいです)。
葛飾区というのは、アジア系外国人が多い土地なのかも知れません。
江戸川区の葛西あたりには多いと聞きますが。

↑なんと、こちらにも親水公園がありました。

↑「み」
『お花茶屋駅』に戻りました。
撮影時間は、12:17分。
思いのほか、早く着きました。
予定では、12:30分に『お花茶屋駅』に着き、12:37分の京成本線に乗る予定でした。

↑12時台は、10分おきに出てます。
でも、その後の写真の撮影時刻を見ると、どうやら12:17分に乗れたようなんです。
少し発車が遅れたのか、カメラの時刻が進んでたのかも知れません。

↑「み」
これが、「その後の」写真。
京成本線で、『お花茶屋駅』から3駅目の『千住大橋駅』です。

↑「み」。前の写真のアップです。
撮影時刻は、12:25分になってます。
『お花茶屋駅』12:17分発の電車は、『千住大橋駅』に12:23分に着きます。

12:17分に乗らなければ、12:25分にこの写真は撮れないわけです。
予定では、12:37分に乗るつもりでしたから……。
思いがけず、ここで20分もの貯金が出来ました。
一旦すっからかんになった人が、心機一転、再び小金を貯め始めた感じです。

駅前を歩く人を見ると、傘を差してます。
再び、雨が降ってきたようです。

↑「み」。前の写真のアップです。こんな写真1枚にも、ドラマが感じられますね。

↑「み」
わたしも、傘を差して歩き始めます。
むやみにだだっ広い道路です。

↑「み」
こんな石碑がありました。
『弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
●行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。(『奥の細道』)』
芭蕉は弟子たちと一緒に舟に乗り、この千住で降りて、別れを惜しんだわけです。

↑『奥の細道図(与謝蕪村)』。『奥の細道』本文を書き写し、俳画を新たに描き加えたもの(重要文化財)。
当時の旅は、道中、何があるかわかりません。
終の別れとなる可能性もあったわけです。
なお、『千住大橋』は、江戸幕府が開かれる前から架かってたそうです。
架けたのは、徳川家康。
1594年のこと。
家康が、江戸で架けさせた最初の橋だそうです。

↑『しかみ像(徳川美術館所蔵)』。家康31歳のおり、三方ケ原で武田信玄に大敗を喫し、城に逃げ帰ったときの肖像。戒めとするため、惨めな自分を、あえて描かせたそうです。
1625年、千住宿が、日光道中の最初の宿に指定されました。
まさしく千住は、江戸との堺だったわけです。

↑歌川広重『名所江戸百景 千住の大はし』。
芭蕉がこの大橋に立ったのは、1689(元禄2)年のこと。
『千住大橋』の架橋から、95年後のことです(架け替えられて、別の橋になってましたが)。
もちろん、すべてネットからのコピペ情報で……。
千住大橋が、芭蕉ゆかりの地だったという知識は、この旅行のときはまるで持ち合わせてませんでした。

↑「み」
『千住大橋』です。
立派な橋ですね。
もちろん、徳川家康が架けた橋ではありません。
それでも竣工は、1927(昭和2)年と古いです。
信濃川に架かる新潟市の『萬代橋』より、2年古いです。

↑『萬代橋』です。1964(昭和39)年の新潟地震(M7.5)では、架橋直後の『昭和大橋』は落ちましたが、『萬代橋』はびくともしませんでした。その映像を見て、設計者は涙を流したそうです。平成16年、重要文化財に指定。国道に架かる橋としては、『日本橋』に次ぐ指定でした。
と思ったら、『千住大橋』は、どうやら2本架かってるようです。

↑『Google Map』の3D画像を切り取ったので、ちょっと歪んでます。一番左の細い橋は、ガス管かなにかだと思います。
もう1本の橋は、1973(昭和48)年の竣工。
要は、交通量が増えたため、車線を増やす必要があったのでしょう。
昭和2年の橋がまだ十分使えたので……。
もう1本、同じ程度の橋を架け、上下線で別の橋を渡るようにしたんだと思います。
この道路は、国道4号。
『日光街道』です。

なお、『千住大橋』と云う橋の名前ですが……。
当初、家康が架けたときは、ただの『大橋』だったそうです。
隅田川に架かる唯一の橋だったからです。
その67年後に、両国に大橋が架かったため……。
以後、地名を冠して『千住大橋』と呼ばれるようになったとか。
江戸時代の橋は、もちろん木橋で、6回、架け替えられました。
正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)です。
この間、1度も洪水等による流失がなかったとか。
家康の眠る東照宮に繋がる『日光街道』の橋は、そうとうに頑丈に作られたのでしょうね。

↑「み」
また、妙な銘板がありました。
隅田川は、千住あたりでは千住川、浅草あたりでは浅草川と呼ばれてたようです。
地元の人が、勝手に地元の地名を付けて呼んだんですかね?
「千住大賑会(おおにぎわいかい)・河原」と言うのは、地元の自治会のようです。
↓『千住大橋』の清掃作業も行ってるとか。

さて、『千住大橋』を渡ります。
『千住大橋駅』のある側は、足立区。
橋を渡ると、荒川区です。


↑「み」
舫ってあるのは、釣り船ですかね。
↓画像をアップしたら、舳先部分に椅子があります。

↑「み」
ここに座って釣るんでしょうか?
↓松方弘樹なんかがやってたトローリングかと思いましたが……。

あれは、船の後方に座りますよね。
↓船を走らせながら釣るわけですから。

前の椅子で釣るには、船は停まってる必要があります。
特等席なんでしょうか?
どこに座ろうが、釣果に影響はないと思いますが。
椅子は回転するみたいですから、座り心地はいいのかも知れません。

↑船酔いやトイレ問題で、わたしはぜったい楽しめないと思います。

↑「み」
隅田川を渡りきりました。
でも、隅田川って、こんなに狭かったですかね?
あ、思い出しました。
徳川家康が、隅田川に初めて橋を架けたのがこの千住だったんです。

↑安藤(歌川)広重『名所江戸百景 千住の大はし』。
なぜ、家康はここを選んだのか?

↑『駿府城公園(静岡市葵区)』の本丸跡に建つ家康の銅像。
千住あたりは、隅田川の川幅が一番狭まってるんじゃないんですかね?
そう思って、ネットを検索したら……。
面白いサイトさんを見つけました(こちら)。
隅田川にかかる橋の一覧表が載ってます。
最大の特徴は、表示順が変えられること。
上の見出しの「長さ(m)」をクリックしてみて下さい。
クリックするたびに、長い順、短い順に切り替わります。
短い順にすると……。
『千住大橋』がトップです。
長さはわずか、96.1メートル。
2番目の『駒形橋』でも、149.6メートルですから……。
『千住大橋』が、抜きん出て短いことがわかります。
ちなみに最長は『佃大橋』で、476.3メートル。

↑『佃大橋』。シンプルな桁橋です。近未来的な景色ですね。
『千住大橋』のほぼ5倍の長さです。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。

↑「み」
ちゃんと『隅田川』と書いてありました。
『千住川』というのは、その地域だけで呼ばれた名称なのでしょう。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
荒川区教育委員会が建てた案内板です。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
撮影時間がほとんど同じなので、前の案内板と並んでたのかも知れません。
こちらも、荒川区教育委員会です。

↑「み」
さて、目的地に着きました。
『荒川ふるさと文化館』です。

↑「み」
平成10(1998)年5月1日、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館しました。
南千住図書館が併設されています。
荒川に関する考古・歴史・民俗資料を、荒川の通史に基づき展示公開していますとのこと。
観覧料は、100円です。
↓典型的なハコ物ですね。

↑竣工は、1998(平成10)年。
↓まず、気になるのが、入り口前に置かれたこの銅像。

↑「み」
スカートの裾を絞ってるようです。
タイトルは、『夢現』となってます。

↑「み」。読みにくいですが。
製作者は、浦山一雄(かずお・1919~1997)氏。
Wikiに載ってないので、有名じゃない人なのかなと思いましたが……。
最年少で日展評議員に選ばれ、1963年には文部大臣賞も受賞されてました。
とても、脚が魅力的な像です。

↑富山市にある『ブルージーンズ』。これも脚がいいです。
この入口の写真の撮影時間は、12:36分。
予定表では、12:55分でしたから、20分早い到着でした。
さっそく、中に入りましょう。
学芸員のような人はいないみたいで……。
受付には、警備員のユニフォームを着たおじいさんが座ってました。
コインロッカーがあるか聞きましたが、無いとのこと。
リュックを背負っての観覧となりました。

↑「み」
さっそく、芭蕉と『千住大橋』にまつわる展示です。
興味が無いので、素通りします。

↑「み」
『千住大橋』のジオラマですね。
両岸の民家の大きさを見れば、川幅が狭いことがよくわかります。

↑「み」
さてさて。
またまた昭和の佇まいが見えてきました。
常設展示室は、原始から近現代までの展示が、時系列で並んでたようです。
↓ホームページでの『常設展示室』についての記述です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
通史の展示で、荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などが展示されています。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
でもわたしは、ひとまたぎに近現代までワープしたようです。
原始から近代までの写真が、上の2枚しかないのです。
いい加減疲れて、ぜんぶ見てる気力がなかったんだろうと思います。
ここは、昭和41(1966)年ごろの路地風景を再現した復元家屋のエリアになります。

↑「み」。ピンボケだったので、遠景ショットですみません。
玄関の引き戸がいい佇まいです。
わたしは、サッシの引き戸が好きじゃないんです。

↑わが家の写真ではありませんが、ほぼ同じです。
防犯対策に優れ、メンテナンスもほとんど要らない優れものであることはわかります。
わが家の玄関もそうですから。
でも、やっぱり風情がね。
開け閉めで、ガタピシする感じもいいじゃないですか。
↓今のサッシのレールは、金属を折り曲げた一体成形になってますが……。

古い引き戸は違いました。
丸型のレールが打ちつけてありました。

↑かなりの年代物。釘が摩耗してます。
そこに戸車が載って動くわけです。

↑上のレールに載ってた引き戸です。戸車の釘が抜けてますね。修理の様子のようです(こちら)。

↑「み」
夕餉の支度が出来てるようです。
時計は、6時半過ぎ。

↑「み」。これもピンボケでした。
うちの夕食時は、アニメが放映されてたような記憶があります。
ここのテレビは消されてるようです。
しつけの良い家なんですかね。
コタツではなく、扇風機が出てますから、夏なのでしょう。

↑「み」。お皿には、何も載ってないようです。隣のサンマの匂いで食べるのでしょうか?

↑「み」
玄関を入ったところのようです。
右が、玄関の引き戸だと思われます。
引き戸の形状が、遠景ショットと違います。
別の家なのでしょうか(記憶なし)。
玄関引き戸の内側にカーテンがあるというのは、初めて見ました。
居間に入るのに、もうひとつ扉があります。
確かに、こうでなくては、冬は寒くて大変でしょうね。
ここに電話があるのは、居間では混みいった話がしにくいからでしょうか?

↑「み」
電話のない近所の人が、借りに来たりもしたんですかね?

↑「み」
裏にあったバイク。
スクーターですかね?
荷物用の荷台が付いてます。
うちの祖父ちゃんのバイクは、座席の後ろにもシートが繋がってた気がします。
子供のころ、よく後ろに乗せてもらいました。
↓こんな感じだったかな。

↑現金正価155,000円となってます。かなり昔の値段でしょうね。

↑「み」
良い感じですね。
夏の夕暮れ。
6時半過ぎなら、まだ明るいです。
と思ったら、昭和風景の写真はこれで終わりでした。
家の中には上がれなかったんですかね?
今となってはもう、忘却の彼方です。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
松尾芭蕉の年譜です。
残念ながら、興味なし。
芭蕉の句で、一番好きなのは、↓でしょうか。
●行く春を近江の人と惜しみける
最後が「惜しみけり」じゃないところに、なんとも言えない晩春感が出てます。
さて、『荒川ふるさと文化館』で撮った写真はこれまでです。
エントランスの写真が、12:36分。
最後の芭蕉の写真が、12:44分。
なんと、たった、8分の観覧でした。
マジ?
思い出した!
この施設での写真が少なかったわけ。
館内撮影禁止だったんですよ。
すなわち、これまでの写真はぜんぶ、監視の目を盗んで撮ったものでした。
↓申し訳ないので、受付カウンターで、冊子を購入しました。

↑「み」
例によって、帰りの新幹線で撮った写真です。
平成27年の企画展で作られた冊子のようです(こちら)。
わたしは芭蕉に興味がありませんが……。
母が俳句をやるので、お土産に買いました。
値段は忘れました。
レシートは出なかったようです。
これにて、お土産の購入は終了。
ま、こんなものでしょう。
これで、観覧予定のすべての施設を回り終えました。
今回は、小物施設を量で稼ぐ旅でした。
ちょっと慌ただしかったですね。
さて、『荒川ふるさと文化館』には、京成本線の『千住大橋駅』から『千住大橋』を渡ってきたわけですが……。
帰りは、同じ道を戻りません。
ここから、JR常磐線の『南千住駅』に向かいます。

↑「み」
途中にあった神社。
『天王祭』という幟が立ってます。
調べたら、『素盞雄(すさのお)神社』でした。
地元では、『天王様』と呼ばれてるとか。
南千住、三ノ輪、三河島、町屋など、61町に及ぶ区域の総鎮守。

↑町内会の掲示板に貼られたポスター。
創建は、延暦14(795)年と伝えられます。
古くから疫病除けで知られ……。
安政5(1858)年、江戸にコレラが流行した際は、疫除のお守りを求めて参詣者が群れ集まったとか。

↑現在の厄除け祈願のお札(祈祷を受けるともらえるんだと思います)。
『天王様』と呼ばれる由来は……。
元々の祭神が、『牛頭天王(ごずてんのう)』だったからです。

↑愛知県津島市にある『牛頭天王像』。顔が馬で頭上に牛、足が鳥という異形の像。
『牛頭天王』は神仏習合の神で、祇園精舎(釈迦が説法を行った寺院)の守護神。

↑現在の祇園精舎。もちろん、インドにあります。
薬師如来であるとともに、スサノオでもあったそうです(ようわからん)。
明治の廃仏毀釈により、祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め……。

↑廃仏毀釈。寺を壊したり城を壊したり、正直、明治政府は嫌いです。江戸時代が続いてほしかった。
社名も、『天王神社』から『素盞雄神社』へ改称したようです。
こんな由緒ある神社なら、参拝すればよかった。
まさしく、『天王祭』の“後の祭り”です。

↑『天王祭』の様子。大祭ですね。

↑「み」
『千住大橋』から続く国道4号に出ました。
国道4号は、日光街道、奥州街道だった道筋。
『青森市』まで続く大動脈です。

↑「み」
JR常磐線『南千住駅』に着きました。
メモによると、到着時刻は、13:02分。
『荒川ふるさと文化館』を出たのが、12:50分。
徒歩12分の道のりでした。
予定では、この駅に着くのは13:35分を見こんでました。
30分ほど余裕があります。
といって、30分では何も出来ません。
このまま、『東京駅』に向かいます。
13:04分発『上野』行き快速に乗れたみたいです。

↑これは、快速のみの時刻表。このほかに、各停がたくさんあります。
上越新幹線は、もちろん『上野』から乗車できます。
なので、このまま乗ってれば、『上野』には、13:12分に着きます。

でも、わたしは『東京駅』から乗るつもりです。
もちろん、指定券を持ってないからです。
『上野駅』から自由席に乗ったのでは、窓側に座れない可能性もあります。
東京から帰るとき、いつも思うのですが……。
『上野駅』で自由席の列に並んでる人は、窓側に座れなくてもいいと思ってるんですかね?
どうして、『東京駅』まで行って並ぼうとしないのでしょう?
さっぱりわかりません。
さて、もちろん『上野駅』で降りても……。
山手線(もしくは京浜東北線)に乗り換えれば、『東京駅』に行けます。
でもわたしは、ひとつ手前の『日暮里駅』で乗り換えることにしました。
小さい駅の方が、乗り換えがしやすいと思ったので。

↑「み」
これは、『日暮里駅』の山手線ホームです。
ホームドアを見ると、新潟との格差を実感します。
でも、東京のホームには、ほんとにホームドアが必要なんだなと実感することも確かです。
人混みのボリュームが尋常じゃないのです。

↑帰省ラッシュで混雑する『東京駅』の東海道新幹線ホーム。『博多』行き『のぞみ』の自由席乗車率は200%。『博多』まで5時間、立ったままなんですかね? 座ってる人だって、トイレに行くだけでも大変ですよ。
ヘタすると、ホーム際にいる人は、ホームにこぼれ落ちかねませんよ。
メモによると、『東京駅』に着いたのは、13:30分。
上越新幹線では、13:40分発の『とき323号』がありました。
発車する23番線ホームにあがると……。

↑上越新幹線ホームは、20~23番線。
発車10分前です。
すでに自由席には、長い列が出来てました。
ダメ元で並びます。
乗りこんでみましたが……。
残念ながら、窓際の席はすべて埋まってしまってました。
せっかくの旅行の締めを、通路側で過ごすのは残念すぎます。

↑通路側では、2時間じっと座ってるだけになります。窓外の景色も撮れません。
この便に乗るのは諦め、列車を降りました。
次の便は、14:40分。
1時間もあります。
14時台は、これ1本しかないんです。

仕方ありません。
さすがに、この便の列には、まだ人が並んでませんでしたので……。
ちょっと、写真を撮ることにしました。
外に人が並んでるようなお店なら、味は良いのでしょうが……。

↑東京新宿の『うどん 慎』さん。最近では外人観光客も並ぶようになり、列が伸びたそうです。
わたしは、並んでまでお昼を食べる気にはなりません。
配給じゃあるまいし。

↑敗戦間近のころ。食料はすべて配給制だったそうです。
味よりむしろ、落ち着いて食べられる雰囲気が大事です。
一番、当たり外れのないのが、お蕎麦屋さんだと思います。
ただし、小綺麗なお店。
暖簾の紺色が濃い感じですかね。

↑東京・日暮里『川むら』さん。ちょっと高級そうです。
そういうところなら、味も雰囲気も、入る前からだいたい想像がつきます。
住宅街なら、お昼時でも、さほど混んでません。
一旦入るともう引き返せませんから、引き戸を開けた時点で滞在時間を決めます。
早く出たいような雰囲気だったら、きつね蕎麦か何かを注文します。

ほんとは、天ぷら蕎麦が好きなんですけど……。

本格的なお店では、注文を受けてから揚げるでしょうから、出てくるまで時間がかかります。
逆に、ゆっくり出来そうな雰囲気だったら……。
天ざるにビールでしたね。

↑これこれ。ネギだけは残しますが。
しかし、値段はかなりいっちゃいます。
2,000円近くになりますかね。
前夜の夕食より高くつきます。
ま、たまのおごりと自分を納得させるわけです。

↑この2人、老後は厳しいと思います。
でも、そういうお蕎麦屋さんが見当たらないことも多々あります。
あっても、昼時のサラリーマンが出入りしてるような店は避けます。
落ち着きませんから。
で、適当なお店が見つからない場合は……。
コンビニでサンドイッチを買い、小公園のベンチで食べたりしてました。

↑これは、コンビニのじゃないようです。
でも、子供連れのお母さんに、不審そうな目で見られたりします。
お蕎麦屋が見つからなかった腹いせで、缶ビールも飲んでますので……。
ひときわ不審度が増してます。
はなはだ落ち着きません。

↑この女は不審すぎです。通報されます。
といったわけで、東京での昼食は、決して楽しみなイベントではありませんでした。
で、あるとき、ふと気づいたのです。
食べなくていいんでないの?
3食、食べなきゃならないという法律があるわけではありません。
アスリートの中には、5食も6食も食べる人もいます。
江戸時代以前の人や、うちで飼ってた犬は、2食でした。

↑うちの犬は、朝晩、味噌汁かけご飯でした。食い意地の張った犬でしたが、なぜかミョウガの味噌汁だけは食べられませんでした。
それなら、わたしも2食でいいでないか。
こう決めたら、実に気が楽になりました。
いいことばっかりです。
まず、お昼を食べる場合では……。
スケジュールは、午前の部、お昼、午後の部と3分割されてしまいます。
ところが、お昼を抜いてしまえば……。
1日を、シームレスに扱えます。
お昼どきで切る必要がないんです。
もちろん、時間の節約になるということもあります。
せっかくの東京です。
お昼を抜いても、いろいろ見て回る方が楽しいです。
更に!
お昼を抜けば、その日の夕食が美味しく食べられるのです。
特に、ビールの一口目は、堪えられません。
思わず、「えーい、ちくしょう!」と唸ってしまいます。

↑これこれ。
ビールとかき揚げとテレビ。

↑↑「み」。カツ丼の上にあるのがかき揚げです。
わたしにとって、三種の神器と言っても過言ではありません。
さて。
何を書いてるのか、わからなくなりました。
とにかく、お昼を食べないということです。
これは、新潟での日常生活でも同じです。
お昼休みは、この『単独旅行記』や『紙上旅行倶楽部』を書く時間に当ててます。
お昼なんか食べてられません。
休日は、お昼を食べることは可能ですが、食べません。
なぜなら、休日のわが家の夕食は、17:30分と早めなんです。
理由のひとつは、夜を長くしたいということ。

↑もちろん、秋に限りません。
録画した番組を、たくさん見なくてはなりませんから。
もちろん、お酒を飲みながらです。
冬は、ワインの燗です。
ホットワインではありません。
あれは、カップごとレンジで温めて飲みますよね。

わたしは、日本酒用の電気式酒燗器を用います。

↑まさしく、この機種です。
「人肌燗」から「飛切燗」まで、好きな温度に設定できます。
わたしは、「上燗」から少し「熱燗」よりにセットしてます。
酒燗器からは、小さめのぐい呑みに注いで飲みます。

↑こんな感じですが、スーパーで100円くらいのものです。
3口くらいで飲めるので、お気に入りの温度が冷めたりしません。

↑太田和彦の影響があるかも知れません(『ふらり旅 いい酒いい肴』
しかし!
あまりにも飲みやすいのが欠点。
わたしは、22:30分くらいまで飲みます。
飲み始めるのが、18:30分過ぎくらいなので……。
4時間近くも飲むことになります。
ワインを、4時間も飲み続けると……。
翌朝の気分は、かなりヒドいものです。

↑ここまでではありませんが。
ということで、最近は、水で割ってます。
7:3くらいですかね。

酒燗器にワインを注ぎ、その後、水を足します。
面倒なので、計ったりはしません。
かき混ぜもしません。
そのまま熱します。
ワインそのもののアルコール度数は、10度くらいですので……。
この方式だと、7度くらいになってるはず。
以前は、赤葡萄ジュースで割ったりもしてみたのですが……。

↑まさしくこれです。
ワインの味が変わってしまい、イマイチでした。
水なら、薄まるだけで味は変わりません。
これで飲み続けると、ほろ酔い加減が持続して、いい具合です。
翌朝にも、ほぼ残りません。
7:00に朝食を食べますが、ご飯を2膳いただけます。

めでたしめでたし。
また、いらんことを書いてしまいました。
休日の夕食が、17:30分と早いことについてでした。
もうひとつの理由は、相撲にあります。
この時間から食べ始めれば、三役あたりから結びの一番まで、ゆったりと鑑賞できるのです。

↑ぬいぐるみがテレビに背を向けてて妙ですが、撮影者は相撲を見てるわけです。
相撲のない時期は、民放のニュースを見ます。
NHKは、この時間、ニュースをやってないので。
で!
夕食が早いので、お昼を摂ると、お腹が空かない状態で夕食に向かうことになります。
これは正直、楽しくないです。
空腹は最高の調味料という言葉もあります。

みなさんも、1度、お昼を抜いて、夕食を食べてみてください。
美味しくてたまげますよ。
さて。
脱線、終わり。
『葛飾区郷土と天文の博物館』を出たのが、12:10分ころ。
お昼どきですが、わたしはお昼を食べないというご説明が、少々長くなってしまったわけです。

↑「み」。左から右に歩いてます(たぶん)。
来た道を戻ります。
どうやら、雨は上がったようです。

↑「み」
道路の中央部分が緑地帯になってます。
それが、『曳舟川親水公園』なのでしょう。
やけに真っ直ぐな道だと思ってましたが、昔は川だったようです。
『曳舟川』という名称からみると、むしろ人工の運河だったんじゃないでしょうか。

↑在りし日の曳舟川。新潟市にあった堀に似てます。

↑「み」
『曳舟川親水公園』に入ってみました。
水辺の再現ですね。
夏になれば、子供たちが入って遊ぶのでしょう。
わたしが住んでる亀田郷でも、こういう親水公園があります。
亀田郷の親水公園は、排水路跡であることが多いようです。

↑その名も『亀田排水路公園』。

↑「み」。『曳舟川親水公園』です。
亀田郷の公園と、驚くほどコンセプトが似てます。
偽物の川を作っても、仕方ないと思うのですが。

↑「み」
田んぼがありました。
これはやや斬新です。
地元の小学生が植えたのでしょうか?

↑「み」。この日は、5月26日。植えたばかりのようです。
なお、この後、再び脇道に戻って歩き始めたのですが……。
後ろから、声高な中国語が聞こえて来ました。
2人連れの女性のようです。
喧嘩をしてるわけではなく、通常の会話みたいでした。
アジア系外国人は、なんであんな大声でしゃべるんですかね?
わたしが行くスーパーでも、ときおり会話が聞こえます。
大陸系の人はたくましいなという気がします。

↑『アジアの純真』は、PUFFYのデビューシングルですが、2011年公開の同名映画がありました(内容は重いみたいです)。
葛飾区というのは、アジア系外国人が多い土地なのかも知れません。
江戸川区の葛西あたりには多いと聞きますが。

↑なんと、こちらにも親水公園がありました。

↑「み」
『お花茶屋駅』に戻りました。
撮影時間は、12:17分。
思いのほか、早く着きました。
予定では、12:30分に『お花茶屋駅』に着き、12:37分の京成本線に乗る予定でした。

↑12時台は、10分おきに出てます。
でも、その後の写真の撮影時刻を見ると、どうやら12:17分に乗れたようなんです。
少し発車が遅れたのか、カメラの時刻が進んでたのかも知れません。

↑「み」
これが、「その後の」写真。
京成本線で、『お花茶屋駅』から3駅目の『千住大橋駅』です。

↑「み」。前の写真のアップです。
撮影時刻は、12:25分になってます。
『お花茶屋駅』12:17分発の電車は、『千住大橋駅』に12:23分に着きます。

12:17分に乗らなければ、12:25分にこの写真は撮れないわけです。
予定では、12:37分に乗るつもりでしたから……。
思いがけず、ここで20分もの貯金が出来ました。
一旦すっからかんになった人が、心機一転、再び小金を貯め始めた感じです。

駅前を歩く人を見ると、傘を差してます。
再び、雨が降ってきたようです。

↑「み」。前の写真のアップです。こんな写真1枚にも、ドラマが感じられますね。

↑「み」
わたしも、傘を差して歩き始めます。
むやみにだだっ広い道路です。

↑「み」
こんな石碑がありました。
『弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
●行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。(『奥の細道』)』
芭蕉は弟子たちと一緒に舟に乗り、この千住で降りて、別れを惜しんだわけです。

↑『奥の細道図(与謝蕪村)』。『奥の細道』本文を書き写し、俳画を新たに描き加えたもの(重要文化財)。
当時の旅は、道中、何があるかわかりません。
終の別れとなる可能性もあったわけです。
なお、『千住大橋』は、江戸幕府が開かれる前から架かってたそうです。
架けたのは、徳川家康。
1594年のこと。
家康が、江戸で架けさせた最初の橋だそうです。

↑『しかみ像(徳川美術館所蔵)』。家康31歳のおり、三方ケ原で武田信玄に大敗を喫し、城に逃げ帰ったときの肖像。戒めとするため、惨めな自分を、あえて描かせたそうです。
1625年、千住宿が、日光道中の最初の宿に指定されました。
まさしく千住は、江戸との堺だったわけです。

↑歌川広重『名所江戸百景 千住の大はし』。
芭蕉がこの大橋に立ったのは、1689(元禄2)年のこと。
『千住大橋』の架橋から、95年後のことです(架け替えられて、別の橋になってましたが)。
もちろん、すべてネットからのコピペ情報で……。
千住大橋が、芭蕉ゆかりの地だったという知識は、この旅行のときはまるで持ち合わせてませんでした。

↑「み」
『千住大橋』です。
立派な橋ですね。
もちろん、徳川家康が架けた橋ではありません。
それでも竣工は、1927(昭和2)年と古いです。
信濃川に架かる新潟市の『萬代橋』より、2年古いです。

↑『萬代橋』です。1964(昭和39)年の新潟地震(M7.5)では、架橋直後の『昭和大橋』は落ちましたが、『萬代橋』はびくともしませんでした。その映像を見て、設計者は涙を流したそうです。平成16年、重要文化財に指定。国道に架かる橋としては、『日本橋』に次ぐ指定でした。
と思ったら、『千住大橋』は、どうやら2本架かってるようです。

↑『Google Map』の3D画像を切り取ったので、ちょっと歪んでます。一番左の細い橋は、ガス管かなにかだと思います。
もう1本の橋は、1973(昭和48)年の竣工。
要は、交通量が増えたため、車線を増やす必要があったのでしょう。
昭和2年の橋がまだ十分使えたので……。
もう1本、同じ程度の橋を架け、上下線で別の橋を渡るようにしたんだと思います。
この道路は、国道4号。
『日光街道』です。

なお、『千住大橋』と云う橋の名前ですが……。
当初、家康が架けたときは、ただの『大橋』だったそうです。
隅田川に架かる唯一の橋だったからです。
その67年後に、両国に大橋が架かったため……。
以後、地名を冠して『千住大橋』と呼ばれるようになったとか。
江戸時代の橋は、もちろん木橋で、6回、架け替えられました。
正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)です。
この間、1度も洪水等による流失がなかったとか。
家康の眠る東照宮に繋がる『日光街道』の橋は、そうとうに頑丈に作られたのでしょうね。

↑「み」
また、妙な銘板がありました。
隅田川は、千住あたりでは千住川、浅草あたりでは浅草川と呼ばれてたようです。
地元の人が、勝手に地元の地名を付けて呼んだんですかね?
「千住大賑会(おおにぎわいかい)・河原」と言うのは、地元の自治会のようです。
↓『千住大橋』の清掃作業も行ってるとか。

さて、『千住大橋』を渡ります。
『千住大橋駅』のある側は、足立区。
橋を渡ると、荒川区です。


↑「み」
舫ってあるのは、釣り船ですかね。
↓画像をアップしたら、舳先部分に椅子があります。

↑「み」
ここに座って釣るんでしょうか?
↓松方弘樹なんかがやってたトローリングかと思いましたが……。

あれは、船の後方に座りますよね。
↓船を走らせながら釣るわけですから。

前の椅子で釣るには、船は停まってる必要があります。
特等席なんでしょうか?
どこに座ろうが、釣果に影響はないと思いますが。
椅子は回転するみたいですから、座り心地はいいのかも知れません。

↑船酔いやトイレ問題で、わたしはぜったい楽しめないと思います。

↑「み」
隅田川を渡りきりました。
でも、隅田川って、こんなに狭かったですかね?
あ、思い出しました。
徳川家康が、隅田川に初めて橋を架けたのがこの千住だったんです。

↑安藤(歌川)広重『名所江戸百景 千住の大はし』。
なぜ、家康はここを選んだのか?

↑『駿府城公園(静岡市葵区)』の本丸跡に建つ家康の銅像。
千住あたりは、隅田川の川幅が一番狭まってるんじゃないんですかね?
そう思って、ネットを検索したら……。
面白いサイトさんを見つけました(こちら)。
隅田川にかかる橋の一覧表が載ってます。
最大の特徴は、表示順が変えられること。
上の見出しの「長さ(m)」をクリックしてみて下さい。
クリックするたびに、長い順、短い順に切り替わります。
短い順にすると……。
『千住大橋』がトップです。
長さはわずか、96.1メートル。
2番目の『駒形橋』でも、149.6メートルですから……。
『千住大橋』が、抜きん出て短いことがわかります。
ちなみに最長は『佃大橋』で、476.3メートル。

↑『佃大橋』。シンプルな桁橋です。近未来的な景色ですね。
『千住大橋』のほぼ5倍の長さです。

↑クリックすると、大きい画像が見られます。

↑「み」
ちゃんと『隅田川』と書いてありました。
『千住川』というのは、その地域だけで呼ばれた名称なのでしょう。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
荒川区教育委員会が建てた案内板です。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
撮影時間がほとんど同じなので、前の案内板と並んでたのかも知れません。
こちらも、荒川区教育委員会です。

↑「み」
さて、目的地に着きました。
『荒川ふるさと文化館』です。

↑「み」
平成10(1998)年5月1日、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館しました。
南千住図書館が併設されています。
荒川に関する考古・歴史・民俗資料を、荒川の通史に基づき展示公開していますとのこと。
観覧料は、100円です。
↓典型的なハコ物ですね。

↑竣工は、1998(平成10)年。
↓まず、気になるのが、入り口前に置かれたこの銅像。

↑「み」
スカートの裾を絞ってるようです。
タイトルは、『夢現』となってます。

↑「み」。読みにくいですが。
製作者は、浦山一雄(かずお・1919~1997)氏。
Wikiに載ってないので、有名じゃない人なのかなと思いましたが……。
最年少で日展評議員に選ばれ、1963年には文部大臣賞も受賞されてました。
とても、脚が魅力的な像です。

↑富山市にある『ブルージーンズ』。これも脚がいいです。
この入口の写真の撮影時間は、12:36分。
予定表では、12:55分でしたから、20分早い到着でした。
さっそく、中に入りましょう。
学芸員のような人はいないみたいで……。
受付には、警備員のユニフォームを着たおじいさんが座ってました。
コインロッカーがあるか聞きましたが、無いとのこと。
リュックを背負っての観覧となりました。

↑「み」
さっそく、芭蕉と『千住大橋』にまつわる展示です。
興味が無いので、素通りします。

↑「み」
『千住大橋』のジオラマですね。
両岸の民家の大きさを見れば、川幅が狭いことがよくわかります。

↑「み」
さてさて。
またまた昭和の佇まいが見えてきました。
常設展示室は、原始から近現代までの展示が、時系列で並んでたようです。
↓ホームページでの『常設展示室』についての記述です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
通史の展示で、荒川区内で発掘された遺跡や土器、中世の板碑、近世の町や農村の暮らし、銭座の作業風景、昭和41年頃の復元家屋などが展示されています。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
でもわたしは、ひとまたぎに近現代までワープしたようです。
原始から近代までの写真が、上の2枚しかないのです。
いい加減疲れて、ぜんぶ見てる気力がなかったんだろうと思います。
ここは、昭和41(1966)年ごろの路地風景を再現した復元家屋のエリアになります。

↑「み」。ピンボケだったので、遠景ショットですみません。
玄関の引き戸がいい佇まいです。
わたしは、サッシの引き戸が好きじゃないんです。

↑わが家の写真ではありませんが、ほぼ同じです。
防犯対策に優れ、メンテナンスもほとんど要らない優れものであることはわかります。
わが家の玄関もそうですから。
でも、やっぱり風情がね。
開け閉めで、ガタピシする感じもいいじゃないですか。
↓今のサッシのレールは、金属を折り曲げた一体成形になってますが……。

古い引き戸は違いました。
丸型のレールが打ちつけてありました。

↑かなりの年代物。釘が摩耗してます。
そこに戸車が載って動くわけです。

↑上のレールに載ってた引き戸です。戸車の釘が抜けてますね。修理の様子のようです(こちら)。

↑「み」
夕餉の支度が出来てるようです。
時計は、6時半過ぎ。

↑「み」。これもピンボケでした。
うちの夕食時は、アニメが放映されてたような記憶があります。
ここのテレビは消されてるようです。
しつけの良い家なんですかね。
コタツではなく、扇風機が出てますから、夏なのでしょう。

↑「み」。お皿には、何も載ってないようです。隣のサンマの匂いで食べるのでしょうか?

↑「み」
玄関を入ったところのようです。
右が、玄関の引き戸だと思われます。
引き戸の形状が、遠景ショットと違います。
別の家なのでしょうか(記憶なし)。
玄関引き戸の内側にカーテンがあるというのは、初めて見ました。
居間に入るのに、もうひとつ扉があります。
確かに、こうでなくては、冬は寒くて大変でしょうね。
ここに電話があるのは、居間では混みいった話がしにくいからでしょうか?

↑「み」
電話のない近所の人が、借りに来たりもしたんですかね?

↑「み」
裏にあったバイク。
スクーターですかね?
荷物用の荷台が付いてます。
うちの祖父ちゃんのバイクは、座席の後ろにもシートが繋がってた気がします。
子供のころ、よく後ろに乗せてもらいました。
↓こんな感じだったかな。

↑現金正価155,000円となってます。かなり昔の値段でしょうね。

↑「み」
良い感じですね。
夏の夕暮れ。
6時半過ぎなら、まだ明るいです。
と思ったら、昭和風景の写真はこれで終わりでした。
家の中には上がれなかったんですかね?
今となってはもう、忘却の彼方です。

↑「み」。クリックすると、大きい画像が見られます。
松尾芭蕉の年譜です。
残念ながら、興味なし。
芭蕉の句で、一番好きなのは、↓でしょうか。
●行く春を近江の人と惜しみける
最後が「惜しみけり」じゃないところに、なんとも言えない晩春感が出てます。
さて、『荒川ふるさと文化館』で撮った写真はこれまでです。
エントランスの写真が、12:36分。
最後の芭蕉の写真が、12:44分。
なんと、たった、8分の観覧でした。
マジ?
思い出した!
この施設での写真が少なかったわけ。
館内撮影禁止だったんですよ。
すなわち、これまでの写真はぜんぶ、監視の目を盗んで撮ったものでした。
↓申し訳ないので、受付カウンターで、冊子を購入しました。

↑「み」
例によって、帰りの新幹線で撮った写真です。
平成27年の企画展で作られた冊子のようです(こちら)。
わたしは芭蕉に興味がありませんが……。
母が俳句をやるので、お土産に買いました。
値段は忘れました。
レシートは出なかったようです。
これにて、お土産の購入は終了。
ま、こんなものでしょう。
これで、観覧予定のすべての施設を回り終えました。
今回は、小物施設を量で稼ぐ旅でした。
ちょっと慌ただしかったですね。
さて、『荒川ふるさと文化館』には、京成本線の『千住大橋駅』から『千住大橋』を渡ってきたわけですが……。
帰りは、同じ道を戻りません。
ここから、JR常磐線の『南千住駅』に向かいます。

↑「み」
途中にあった神社。
『天王祭』という幟が立ってます。
調べたら、『素盞雄(すさのお)神社』でした。
地元では、『天王様』と呼ばれてるとか。
南千住、三ノ輪、三河島、町屋など、61町に及ぶ区域の総鎮守。

↑町内会の掲示板に貼られたポスター。
創建は、延暦14(795)年と伝えられます。
古くから疫病除けで知られ……。
安政5(1858)年、江戸にコレラが流行した際は、疫除のお守りを求めて参詣者が群れ集まったとか。

↑現在の厄除け祈願のお札(祈祷を受けるともらえるんだと思います)。
『天王様』と呼ばれる由来は……。
元々の祭神が、『牛頭天王(ごずてんのう)』だったからです。

↑愛知県津島市にある『牛頭天王像』。顔が馬で頭上に牛、足が鳥という異形の像。
『牛頭天王』は神仏習合の神で、祇園精舎(釈迦が説法を行った寺院)の守護神。

↑現在の祇園精舎。もちろん、インドにあります。
薬師如来であるとともに、スサノオでもあったそうです(ようわからん)。
明治の廃仏毀釈により、祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め……。

↑廃仏毀釈。寺を壊したり城を壊したり、正直、明治政府は嫌いです。江戸時代が続いてほしかった。
社名も、『天王神社』から『素盞雄神社』へ改称したようです。
こんな由緒ある神社なら、参拝すればよかった。
まさしく、『天王祭』の“後の祭り”です。

↑『天王祭』の様子。大祭ですね。

↑「み」
『千住大橋』から続く国道4号に出ました。
国道4号は、日光街道、奥州街道だった道筋。
『青森市』まで続く大動脈です。

↑「み」
JR常磐線『南千住駅』に着きました。
メモによると、到着時刻は、13:02分。
『荒川ふるさと文化館』を出たのが、12:50分。
徒歩12分の道のりでした。
予定では、この駅に着くのは13:35分を見こんでました。
30分ほど余裕があります。
といって、30分では何も出来ません。
このまま、『東京駅』に向かいます。
13:04分発『上野』行き快速に乗れたみたいです。

↑これは、快速のみの時刻表。このほかに、各停がたくさんあります。
上越新幹線は、もちろん『上野』から乗車できます。
なので、このまま乗ってれば、『上野』には、13:12分に着きます。

でも、わたしは『東京駅』から乗るつもりです。
もちろん、指定券を持ってないからです。
『上野駅』から自由席に乗ったのでは、窓側に座れない可能性もあります。
東京から帰るとき、いつも思うのですが……。
『上野駅』で自由席の列に並んでる人は、窓側に座れなくてもいいと思ってるんですかね?
どうして、『東京駅』まで行って並ぼうとしないのでしょう?
さっぱりわかりません。
さて、もちろん『上野駅』で降りても……。
山手線(もしくは京浜東北線)に乗り換えれば、『東京駅』に行けます。
でもわたしは、ひとつ手前の『日暮里駅』で乗り換えることにしました。
小さい駅の方が、乗り換えがしやすいと思ったので。

↑「み」
これは、『日暮里駅』の山手線ホームです。
ホームドアを見ると、新潟との格差を実感します。
でも、東京のホームには、ほんとにホームドアが必要なんだなと実感することも確かです。
人混みのボリュームが尋常じゃないのです。

↑帰省ラッシュで混雑する『東京駅』の東海道新幹線ホーム。『博多』行き『のぞみ』の自由席乗車率は200%。『博多』まで5時間、立ったままなんですかね? 座ってる人だって、トイレに行くだけでも大変ですよ。
ヘタすると、ホーム際にいる人は、ホームにこぼれ落ちかねませんよ。
メモによると、『東京駅』に着いたのは、13:30分。
上越新幹線では、13:40分発の『とき323号』がありました。
発車する23番線ホームにあがると……。

↑上越新幹線ホームは、20~23番線。
発車10分前です。
すでに自由席には、長い列が出来てました。
ダメ元で並びます。
乗りこんでみましたが……。
残念ながら、窓際の席はすべて埋まってしまってました。
せっかくの旅行の締めを、通路側で過ごすのは残念すぎます。

↑通路側では、2時間じっと座ってるだけになります。窓外の景色も撮れません。
この便に乗るのは諦め、列車を降りました。
次の便は、14:40分。
1時間もあります。
14時台は、これ1本しかないんです。

仕方ありません。
さすがに、この便の列には、まだ人が並んでませんでしたので……。
ちょっと、写真を撮ることにしました。