2018.2.6(火)
納得できぬこと、理不尽な振る舞い。そのようなことどもには一歩も引かぬ。そのような風情の志摩子だった。
その志摩子と、東中 昂(ひがしなかこう)は、立ったまま正面から睨み合った。
相馬禮次郎は一歩下がり、様子見の体勢である。
五秒か、六秒か……。
寸刻の間の後、東中は破顔した。軽く仰のき、実際に笑い声をあげる。笑いながら志摩子に声を掛けた。
「なんと、元気のええこっちゃのう」
志摩子は無言。
東中 昂(こう)は笑いながら、志摩子を宥めるような口調で言葉を続けた。
「まあ、いきなり手ぇ出したんは確かに大人げなかった。許せ」
まさかこの男が詫びを入れるとは……志摩子は意外な成り行きに軽く目を見開いた。
「どないや。このままではせっかくの場ぁが興ざめや。おまんもこないな形で座敷しまいにしとない(終わりにしたくない)やろ」
「へえ……」
ようやく東中から視線を外し、少し俯き加減になった志摩子は軽く呟いた。
東中 昂(こう)が畳み掛ける。
「でや、仲直りの手打ちといこやないか」
相馬禮次郎がようやく割って入った。
「ああ、ほれがええ、ほれがよろし、ほな……」
相馬は、先ほど跨ぎ越した膳を今度は回り込み、元の席に座した。東中に声を掛ける。
「さあ、昂(こう)はん、あんたも座んなはれ、小まめ、おまん(お前)もや」
座を仕切る相馬禮次郎の示すまま、東中 昂(こう)は相馬の左側、やはり先程自らが座していた席に戻った。
志摩子は少しためらった後、相馬と東中に向かい合う形で、膳を挟んで座した。志摩子の背には、金屏風。その脇には道代と野田太郎が座していた。
志摩子は、相馬と東中よりも、背後の二人を強く意識した。
(野田はん……あない酷い目に会わはって、大丈夫やろか)
(道……あんた、なんや変やで、どないしたんや、大丈夫かぁ)
「ほれ」
顔を上げた志摩子は、東中 昂が鷲掴みにし、此方に突き出した徳利を見た。
「さあ、小まめ」
東中に習うように、相馬禮次郎が杯を突き出してきた。
「へえ」
両手で受け取った志摩子の杯に、東中 昂(こう)が無造作に酌をした。
「おおきに、頂戴しますぅ」
杯を両手で支え、軽く頭を下げた志摩子は、一息で飲み乾した。乾した杯を、志摩子は相馬ではなく東中に差し出した。
「どうぞ、東中の旦さん」
「む」
志摩子は、相馬が膳に置いた徳利を取り上げ酌をする。
こちらも一息で飲み乾した東中は、空の杯を相馬に突き出した。
「ほれ、れいじろ(禮次郎)はん」
「ほい」
志摩子は手にしたままの徳利を、今度は相馬禮次郎に差し出し、酌をする。
相馬が空けた杯は、志摩子に戻って来た。
「ほれ、小まめ」
志摩子の手から取り上げた徳利で、相馬は志摩子の杯を酒で満たした。
「おおきにー」
志摩子、東中、相馬。三人の間を杯が一巡した。
道代は霧の中にいた。
時折、何か、姿形(すがたかたち)すら判然とせぬものが行き過ぎる。
(どなたやろか……)
とりあえず人であろう、と考える道代であった。
(何して、おいやすんか〔おいでになるのか〕)
その人影が、立っているのか座っているのか、それすら判然とは見て取れぬ道代であった。
いや……。
それどころか、自分自身が今座っているのか立っているのか……まさか寝ているはずは、とまで思う道代であった。
(だいたいが〔そもそも〕……)
(どこなんやろ、ここ)
(何してんねやろ、うち)
(なんや……)
とりとめもなく思いを巡らせるうち、自分はいったい何者なのだろう、そんなことまで判然としなくなる道代であった。しかし、それでいてさほど不安も無い、まるで水か空気にでもなったような思いの道代であった。
(けど、なんや……)
何か一つ大事なことを忘れているような、もどかしいというほどでもないが、どこか落ち着かない気分もする道代であった。
(なんやろ)
(一体……何が気に掛かるんやろ)
「……♪かぁす(霞)むよぉごぉと(夜毎)の~」
霧の彼方から聞こえて来たものを、道代の耳が捉えた。
(あれ?)
(唄、や)
(何やろ)
「♪かがぁりぃびぃ(篝火)にぃ~」
(これ……)
(何べんも)
(何べんも聞いたと思うけど……)
「♪ゆぅめぇ(夢)も~ いざぁよう~」
(あ、あれあれ)
水か空気のようだった道代の意識に、生々しい感情が生じた。忘れることなど考えられぬものを、どうしても思い出せない。道代の意識は踠(もが)いた。もどかしさに泣きそうになった。泣く、という生の感情が意識の底から這い出て来た。もう少しだ。
「♪べにぃざぁくぅらぁ~あぁ(紅桜)~」
(何してんのん、はよ早(は)よ)
「♪しぃのぉ(偲)ぶぅ~おもぉ(思)いぃを~ ふりぃそぉでぇ(振袖)にぃ~」
(も、ちょいや!)
「♪ぎお~ぉおん こい(恋)し~ぃやぁ」
(せや、祇園!)
「♪だあらありぃのぉ おぉびぃ(帯)よぉ~」
(姐さん!)
霧が晴れた。
道代の視界がようやく鮮明になった。
小まめの志摩子の後ろ姿、立ち姿が道代の眼前にあった。
(小まめ姐さん!)
(うちは……)
(せや、うちは)
(姐さんをお守り……)
京の五花街。
芸妓・舞妓の舞踊は、花街によりそれぞれ流派が異なる。小まめの属する祇園の流派は井上流、家元は4代井上万寿子である。
井上流の舞踊は、歌舞伎の動きを取り入れた独特のもので、その最大の特徴は常に軽く、時に深く腰を落とし、直立することはほとんど無いという点にある。これを井上流では「おいど(尻、腰)を落とす」と表現し、体全体に極度の緊張を強いるものである。
そもそも、井上流では舞踊を踊り、とは云わず、舞いと称している。
唄の合間に瞬時静止した志摩子の姿勢を、道代は背後からではあるがしっかりと見て取った。
志摩子はかなり深く腰を落とした中腰で静止していたが、その上体は直ぐと立ち、小首を傾げたその顔は俯くことなく、正面の相馬禮次郎と東中 昂(こう)を見据えていた。
いや、志摩子の背後にいる道代に、志摩子の視線の先が見えるはずはない。しかし、長年志摩子の舞いを見てきた道代の脳裡には、視線の先どころか志摩子の表情まで、鮮やかに浮かんでいた。
(せや)
(ああ、せやった)
(ここは姐さんのお座敷)
(嵯峨野の……)
(なんちゅうたてもん〔建物〕やったかいな)
(まあ、そないなことはどうでもええ)
(なんでや)
(なんでやろ)
(姐さんの事)
(姐さんのこと、ちょとでも忘れるやなんて……)
(今まで)
(今までうち、どないしてたんやろ)
「♪夏は河原の夕涼み~ 白い襟あしぼんぼりに~」
唄声は続いた。
道代にとって、耳に馴染んだというも愚かな、その身の隅々にまで染み込んだ『祇園小唄』の旋律であった。
いつもなら、この旋律に乗って舞う志摩子の姿を見ると、抑えても動きそうになる我が身を押さえるのに苦労する道代であった。だが、今の道代にその苦労は不要であった。逆に……。
(動〔いご〕けへん)
(体が……)
(動〔いご〕けへんがな)
(何や)
(何やこれ)
(どないしたんや、うち……)
霧は晴れ、視界は戻った。
だが、それだけだった。
端座して志摩子の舞いを見ている。
その自分にようやく気付いた道代であったが、それだけであった。
目は動く。耳は聞こえる。
それだけだった。
それ以上の体の動きは、何としても自由にならない道代であった。
知らず、叫びそうになる道代だったが、それも叶わぬことであった。ただ……。
(え?)
(何や)
(何や、これ……)
自らの下腹部からぬるりと湧き出、閉じた両腿の間を伝う液の流れを道代は感じた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2018/02/06 12:34
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二場所休場
じゃなくて二週間のお休みをいただきました『アイリスの匣』嵯峨野は踊熊庵の場。
最下位、じゃなくて再開でございます。
休場の原因は暴力沙汰と理事選挙、じゃなくて作者ギックリ腰でございます。
「悪いのは腰、キーボードは打てるやろ」と、管理人さんから罵詈讒謗、じゃなくて叱咤激励をいただきましたが、なんとおっしゃるうさぎさん♪
そない生易しい痛みでは御座いません。身動き一つするたんびに口を突いて出る苦悶の呻き。家人からは「やかましい!」と、こちらは紛れもない罵詈讒謗。
まあ、地獄の責め苦も斯くや、の2週間でしたが、ようやく両手でキーボードを打てるようになりました(これまで片手で打っていたのだよ)。
まあ、キーボートは時間を掛ければなんとかなったのですが、問題は痛みのあまりまとまった思考ができないこと。コメはともかく(コラ)、まとまったストーリーを考えるとなりますと、とてもとても……。
ということでございまして、お休みをいただいた次第。今後のこともありますので、健康に留意はもちろん、少しでも書き溜めておくことに留意していく所存です。
で、今回でございます。
前半が「志摩子と東中昂(ひがしなかこう)」の手打ち式。
後半が道代の独白。
- - - - - - - - で仕切らせていただきましたが、回の途中で視点が切り替わるという暴挙をやっちゃいました。
ギックリの後遺症とお笑いいただき、今後ともごご贔屓賜りますよう、伏して御願い奉ります。
〔ギックリは二度目HQ〕
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2. Mikiko- 2018/02/06 19:51
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ぎっくり腰
わたしはやったことがないので……。
同情的になれないのは、しかたのないところでしょう。
痛み止めを飲んでも効かないんですかね?
わたしは、肩こりがヒドいときは、ロキソニンを飲みますが……。
効きますよ。
> 少しでも書き溜めておくことに留意していく所存です。
とーてー、信じられません。
敷金として、1回分入れてもらいますかね。
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3. ハーレクイン- 2018/02/07 00:00
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>同情的になれない
非情! 無情! 冷血!(は、カポーティ)Mikiko。
肩こりと一緒にせんといてくれるか。
血行が云々じゃなく、関節がヘタっておるのだ。薬じゃどもならん。
いちおう、痛み止め(ロキソプロフェン;ジェネリックです)と貼り薬は出てますが……所詮気休めですね。
敷金
痛みが引いたら考えましょう。
ま、そんなことはともかく……。
実は破綻しかかっております、『アイリス』踊熊庵の場。
最大の要因は、相馬禮次郎と東中昂。この悪だくみコンビの性格が安定しないんですね。困ったものです。
なんとか、ボロを隠して(尻隠さず)早急に取りまとめる所存です。
〔どこへ行く! 小まめと道代、とついでに太郎!HQ〕
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4. Mikiko- 2018/02/07 07:31
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> 痛みが引いたら考えましょう
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょう。
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5. ハーレクイン- 2018/02/07 09:42
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痛み
引きません。
つまりまだ「喉元は過ぎ」ておりませんので、忘れてはおりません。
〔忘却とは忘れ去ることなりHQ〕