2018.1.9(火)
下げた野田太郎の後頭部と背中を一瞥したのち、志摩子は隣に座す相馬禮次郎を見遣った。
志摩子、相馬、それに東中 昂(ひがしなかこう)の三人はこの順に並んで座し、共に床の間に背を向けていた。中央が相馬。相馬の右隣りが志摩子、左隣が東中。
野田太郎は、この三人に向かい合い、畳に両手を突いて深々と頭を下げたままである。
志摩子は、そのまま相馬に声を掛けた。
「あの、旦さん……」
「なんや」
「今のお話ですけんど……」
聞いた相馬禮次郎は、とりあえず目の前の野田太郎に声を掛けた。
「おい太郎、もうええぞ、あっちゃで控えとれ」
「へい」
ようやく顔を上げた野田太郎は立ち上がり、も一度頭を下げ、先ほど居た入り口の板戸のあたりに向かって歩き始めた。その背に、再度相馬の声が掛かる。
「そっちやない」
一瞬振り向いた野田は、直ぐに顔を戻し相馬の見遣る先に目を遣った。座敷奥の金屏風の、野田から見て左の端、道代の控えるあたりを相馬禮次郎は見ていた。
野田は直ちに左斜めに向きを変え、今、確認した相馬の視線を辿るように部屋の奥に向かった。
その背に、相馬の声が掛かる。
「せや、そのおなごし(女子衆)の横に控えとれ」
野田太郎は、金屏風の隅に座す道代の脇に歩み寄り、道代に寄り添うように、その脇に座り込んだ。正座である。
道代は、その太郎に目を遣るでなく、声を掛けるでも無く、そして志摩子を見遣ることも無く、宙に目を泳がせていた。
野田の動きを目で追っていた志摩子の目には、当然道代の姿も入る。先ほど気付いた道代の、普段に比べどことなく異なる様子が、相変わらず気に掛かる志摩子だった。
(みち……)
いったいどないしたん、と考える志摩子に、相馬の声が掛かった。
「分ったな、小まめ」
一瞬言葉に詰まる志摩子だったが、直ぐに、体勢を立て直そうというような口調で相馬に答えた。
「せやかて旦さん、うち、もうちょと(もう少し)……芸妓に……せめて襟替えさしてもろて、芸妓にならしてもろて、もうちょと、芸に励みとおす」
「ほないなもん、なんぼやたかて切り無いやないか」
「…………」
「まさかおまん、死ぬまで芸妓やろてなこと、思とるわけやないやろ」
「そらあ旦さん……」
相馬禮次郎は、志摩子から東中 昂(こう)に顔を振り向けた。
「東中はん」
「む」
「例のもん、ちょと出してくれはるか」
東中 昂は自らの背後、床の間に上体を捻じ曲げた。地袋(じぶくろ)の戸を引き開け、中から数冊の書類を掴み出した。無造作に相馬に突き出す。
「ほれ」
「ほい」
受け取った相馬禮次郎は、その書類をそのまま志摩子に差し出した。
両手で、捧げ持つようにした志摩子は、まず表紙の文字を眺めた。何やら書いてあるが、ほとんどが漢字。
おずおずと一枚目をめくる。一気に文字が小さくなるが、やはりほとんどが漢字。意味を掴むどころか、そもそも志摩子には読むことすら出来そうになかった。書類から顔を上げた志摩子は、呆然と相馬を見遣った。
「旦さん……」
「どないや」
「どないもこないも旦さん、何書いたあるんやら、うちらにはさっぱり……」
相馬は杯を手にした。
志摩子は書類を脇に置くと、徳利を取りあげ相馬の杯を満たした。
相馬禮次郎は軽く、舐めるように酒を口にした後、杯を手にしたまま志摩子を見遣った。
「ほれはなあ、今話した先斗町(ぽんとちょう)の店、ほれの土地たてもん(建物)の権利書や」
「けんり、しょ」
「ちょと、貸してみい」
手の杯を膳に置き、志摩子が差し出した書類を受け取って、しばらく弄っていた相馬は、目的の部分を見つけたか、開いたままの書類を左手で支え志摩子に突き出した。右手の人差し指の先で、開いた頁の中程を指し示す。
「ほれ、ここや」
上体を軽く折り、さらに顔を書類に近づける志摩子。
相馬の指先には、竹田志摩子、の文字があった。
我が氏名を書類の中に認めた志摩子は、ぼんやりと顔を上げた。上げた志摩子の視線の先には、相馬禮次郎の笑顔があった。
いや……笑顔、というには違和感のある、志摩子にとっては何とも……いっそ薄気味悪い、と言いたくなるような相馬の表情だった。
志摩子は相馬から視線を外し、正面の金屏風を、見るともなく見た。その脇に座しているはずの道代と野田太郎の姿は、志摩子の意識には上らない。
呟くように相馬に声を返した。
「旦さん……」
「わかったか」
「え、いえ、へえ……あの……」
「竹田志摩子……小まめ、おまはんの本名やろが」
「へえ、そう……どす」
「つまりやな、この書類にある土地たてもん(建物)の所有者、つまり持ち主は、既におまはんや、ゆうことやがな」
志摩子の目が泳いだ。
正面の金屏風と、頭上の金色の格天井。
輝く金色(こんじき)に包まれた志摩子の意識は、ふい、と現実感を無くした。
自らの左に座す、相馬禮次郎。
相馬のその、さらに左に座す東中(ひがしなか)……昂(こう)。
座敷の向こうに控える……はずの……道代。
その横に居並ぶ……。
(はて、あのお方)
(名は……なんちゅうたかいなあ)
この座敷にいるはずの、自ら以外の人間の気配が、志摩子の意識の内で……希薄になってゆく。
(うちが……女将)
(先斗町の……)
(先斗町ゆうたら)
(祇園の……川向う)
(祇園に並ぶ花街)
(そこの、料理屋の)
(うちが……)
(うちが、女将)
(一店の……女将)
夢見心地、とまではいかないが……舞妓、舞い、お座敷……襟代え、芸妓、芸……。
これまでの来し方と、先行きの生き方。そんなものが、流れるように志摩子の脳裡を行き過ぎた。
その、これまで思い描いてきた先行き、それとは全く異なる生き方をいきなり示され、戸惑うしかない志摩子だった。
嬉しいのか、哀しいのか、夢を見せられているのか、夢から覚めさせられたのか。自らの気持ちがわからず、非現実感の中を彷徨う思いの志摩子だった。
(なんやろ)
志摩子は、右の膝先の下に何やら違和感を覚えた。座している畳と、自らの膝先の間に、挟まっているものがある。
志摩子は、首を下に向けた。舞扇(まいおうぎ)だった。
(あ…………)
志摩子は両手を伸べ、膝の下から舞扇を引き出した。扇を持った両手を、正座の腿の上に置く
(うちは、舞妓……)
(襟代え済まして、芸妓に……)
(うちは……)
志摩子に現実感が戻った。
顎を引く。
身と意識を包んでいた金色の光が薄れる。
座敷内をしっかり見つめ直す。
左横に座す相馬禮次郎。
相馬を挟んで座す東中 昂(ひがしなかこう)。
正面に金屏風。
屏風の左隅に並んで控える道代と、野田、太郎。
志摩子は軽く上体を左に捻り、相馬禮次郎を見遣りながら声を掛けた。
「ほんでも旦さん、うち……うち、今日のこのお座敷、うちの襟替えの相談やあて、おかあ(母)はんに聞かされてきましたえ」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2018/01/09 11:53
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舞妓稼業引退
小まめの志摩子に持ちかけた相馬の旦さん、相馬禮次郎の話です。
それは、祇園に並び立つ(川向うですが)京の花街、先斗町の料理屋を土地付きで志摩子に、という話。
花街の料理屋一軒がどのくらいの値になるのか、わたしなどに見当の付くわけもありませんが、尋常の額ではないのは確かでしょう。
以前書きましたが、舞妓には給金というものはありません。いくらお座敷勤めに励んでも、収入はゼロ。無論、旦那衆からご祝儀などは随時いただけるでしょうが、いわゆる社会人としては半人前、どころかいわばまだすねかじりの身、なんですね。
これが、襟替えを済ませて晴れて芸妓になりますと、収入のあるれっきとした社会人、ということになるわけです。
そういう立場の志摩子にしますと、相馬の旦さんの話はある意味、実にありがたい話ということなんですが、志摩子は「もうちょと、芸に励みとおす(と思います)」と、どうも乗り気ではないようです。
この志摩子に対する、相馬禮次郎の反応は。
そして、今一つ正体の判然としない東中 昂(こう)はどう動く。
『アイリス』踊熊庵の場、次回を乞う!ご期待。
〔あ,道代を書き忘れたHQ〕
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2. Mikiko- 2018/01/09 20:03
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人から土地建物をもらった場合……
かなりの額の贈与税が課税されます。
現在時点での話とすると……。
土地建物の購入額が5千万円の場合……。
贈与税はなんと、22,895,000円になります。
現金で払えなければ、土地建物を売らなければなりません。
ま、志摩子の場合、これも相馬のかかりになるのでしょうが。
芸妓への払いは、お座敷の時間で計算するんですかね?
料理屋からは、いったん置屋に支払われ……。
置屋がピンハネした後、芸妓に渡されるんでしょうか?
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3. ハーレクイン- 2018/01/09 21:15
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贈与税
は、さて置き(さて置くな)……仰せの通り、志摩子に払えるわきゃないですから、相馬の旦さんにおんぶにだっこでしょうね。まさに「志摩子の人生は相馬の物」です。
まあ、店の儲けは相馬の旦さんの懐にごっそり入るんでしょうけど。
それはともかく、半分近くを税金に持ってかれるということですか。
ぼったくりというも愚か、というところでしょうか、税務署。
芸妓への払い
これですわ。
さすがと言いますか何と云いますか、金の流れ以前に、そもそも幾らくらい掛かるものやら、調べたんですがどこにも書いてありません。
このあたり、明かされることはまず無いんでしょう。
「まああ、旦さん。そないな無粋なお話、しやはるもんやおへんえ、ほほほ」
〔野暮の極みHQ〕
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4. Mikiko- 2018/01/10 07:31
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不労所得は……
厳しく取り立てるべきです。
芸妓。
ご祝儀の収入が大きいんでしょうね。
置屋も、それまで取り立てることはしないでしょう。
バブル時代には、祝儀袋に50万入ってたこともあったそうです。
ただ、売れっ子になると……。
先輩からの苛め、嫌がらせがかなりなものだとか。
稽古の開始時間を間違って伝えられたり、お座敷の廊下で裾を踏まれたりは日常茶飯事で……。
小路ですれ違いざまに、頬を張られることさえあったそうです。
精神的に、そうとう強い女性でなければ、続けられない職業だと思います。
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5. ハーレクイン- 2018/01/10 15:43
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苛め、嫌がらせ
当然あるでしょうけど、これは芸・舞妓の世界に限らず、普遍的にあるんじゃないですかね。
特に女性の間では(って書くとブーイングかな)。無論、男の間にもあります。
舞妓の世界のセミドキュメンタリー番組って、結構テレビでやるんだけど、表立った苛めは放送されません。
しかし「すれ違いざまに、頬を……」は凄まじいね。よほど腹に据えかねた結果の所業でしょうか。
「やられたらやり返す」くらいじゃないと、やってけないかな。
〔学校だけじゃないんだ、いじめHQ〕
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6. Mikiko- 2018/01/10 19:52
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今の京都は観光客であふれかえってますから……
戸外でのいじめの危険は少ないかも知れませんね。
しかし京都、ものすごい混みようらしいですね。
まったく行く気になれません。
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7. ハーレクイン- 2018/01/10 20:55
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行く気にならない京都
しばらく近寄らないのが賢明でしょう。
取材で嵯峨野に行ったときは……思い出したくなーい。
奈良、和歌山辺りに流れて行きつつあるようですが……。
観光立国日本、で外貨を稼ごうということのようですから、しょうがないのでしょうけど。
それにしても『アイリス』。タイミングの悪いことです。
〔♪京都~らんざん大覚寺~HQ〕
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8. 手羽崎 鶏造- 2018/01/11 07:22
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置屋は、売りに出すことで儲けます。
日ハムが、メジャーリーグ球団から
見返りを稼いだり、セレッソ大阪が欧州
チームから移籍料稼ぐのと似ています。
雇われマダムとスポンサー。
構造自体は、そう大きく変わっていない
ように思いますが。
水商売は難しい。(素人には無理)
「ヤ」の方も介入してきますしね。
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9. Mikiko- 2018/01/11 07:38
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ハーレクインさん&手羽崎鶏造さん
> ハーレクインさん
↓「京都混んでる?」というページがありました。
http://kyoto.konderu.com/
混雑状況の口コミが見れるようです。
左のサイドバーで、ピンポイントの場所も指定できます。
ちょっと、使いづらいですが。
> 手羽崎鶏造さん
売りに出すというのは、舞子や芸妓を売るということ?
金銭トレードみたいなものですか?
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10. ハーレクイン- 2018/01/11 08:51
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「京都混んでる?」
ちょっと覗いてみました。
どういう風に情報収集してはるのか……。
まあ、当然でしょうけど、リアルタイムの情報は無さそうです。昨年11月や12月の混み具合がわかってもねえ。
>手羽崎鶏造さん
体のいい人身売買ってことですかね。
まあ、旦那に金出させるのも似たようなものですが。
志摩子は……雇われマダムに収まってるようなタマではありません。
〔♪ラッシュアワーの人混みを縫うようにHQ〕
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11. Mikiko- 2018/01/11 20:40
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京都でも……
雪が降ってるでしょうか?
新潟は、ドカンと来ました。
これまでは山雪型だったのですが、一転して里雪型になりました。
電車が動かず、新潟駅で、30分以上立ちん坊でした。
今、ようやく夕食を終えたところ。
窓から隣の屋根を見ると、50㎝くらい積もってるようです。
明日の朝は、雪かきをしなきゃなりません。
ということで、今夜は飲むぞ!
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12. ハーレクイン- 2018/01/11 21:33
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ドカンと……
来たようですね。
半日で50センチの積雪、とこちらでは報道されてます。
とりあえずご無事の御帰宅、何よりです。
こちら朝方、遠くの山並みがうっすら白くなりましたが、それも夕刻には消えました。
>飲むぞって……
雪かきに備えて体力温存、早く寝た方がいいのでは。
〔♪どかーんと一発やってみようよHQ〕
↑真心ブラザーズ『どか~ん』