2015.8.1(土)
み「そんなら、ゴミ捨て場?」
小「日常的に使うゴミ捨て場とは、違ってたようですね」
↑こちらは、明らかなゴミ捨て場の貝塚。
み「当たり前じゃ。
この場所の名前からもわかるわい」
律「何が?」
み「『南盛土』」
み「つまり、土が盛ってあるわけでしょ」
律「捨ててったら、どんどん高くなったからでしょ?
これ、どのくらいの厚さがあるの?」
小「2メートルから、2メートル50センチくらいあるそうです」
↑奥の作業員さんの服装が秀逸です。
小「ここは、1,000年間使われたようですね」
律「1,000年もゴミを捨ててったら、そのくらい積もるでしょ」
み「あにょな。
日常的に出るゴミを捨てようと思ったら……。
普通、穴を掘って埋めるでしょ」
↑ゴミは集積場所に出すのが当たり前と思ってるのは、都会人です。田舎では集積場所まで遠い家もあります(車で15分というところもあるとか)。どうするかと云うと、敷地が広いので、穴を掘って埋めちゃうんですね。
律「穴がいっぱいになったから、今度は盛っていったってことじゃないの?」
み「捨てづらいだろ。
穴がいっぱいになったら、別の穴を掘って、そこに捨てるのが当たり前。
同じ場所に、1,000年もゴミを捨て続けるわけがない」
↑英国科学者が予測した、1,000年後の人類。
み「どうなの?」
小「単なるゴミ捨て場じゃなかったろうとは云われてます。
お祭りなんかが行われたんじゃないかって」
↑長野県茅野市。『尖石遺跡(縄文時代の集落遺跡)』があります。
み「お祭りというか、儀式だな。
たぶん、甦りの儀式」
律「どういうこと?」
み「土器だの土偶なんかは、元もと土だったわけでしょ」
み「石器やヒスイも、鉱物資源だよね」
↑ヒスイの原石。
み「だから、それらが壊れたりしたとき……。
感謝を込めて、土に返そうとしたんじゃないの?
そしてまた、新たな資源となって、自分たちの前に蘇ってほしいって」
↑これは、三内丸山遺跡から出た袋状編物(別名『縄文ポシェット』)。針葉樹(ヒノキ科)の樹皮から作られてるそうです。右下の丸いのは、中に入ってたクルミ。クルミを1つ残して埋めるってのが、儀式っぽいですよね。
小「へー。
なるほど」
み「でも、儀式的な盛土が、1,000年も続いたってことは……。
宗教的なバックボーンが、1,000年間変わらなかったってことだよね。
そうとう強固な支配階級がいないと、そうはいかんよな」
律「卑弥呼とか?」
↑映画『卑弥呼(1974年・監督:篠田正浩)』。卑弥呼役は、監督の妻・岩下志麻。
み「ま、時代はぜんぜん違うけど……。
そういうシャーマンを兼ねた支配者がいた可能性があるな」
↑こちらは『吉野ヶ里遺跡(弥生時代)』の展示物。ここにも行きたい!
律「縄文時代って、まだそういう社会が無かったんじゃないの?」
み「獲物を求めて、原野を点々としてたみたいな?」
律「そうそう」
み「この遺跡を見れば、そうじゃなかったってことが、一目瞭然でしょ。
だいたい、何人くらい住んでたわけ?」
小「500人はいたみたいです」
↑縄文人の生活。新潟県『十日町博物館』の展示。十日町の笹山遺跡からは、有名な火焔型土器(国宝)が出土してます。
み「500人!
これが社会でなくてどうする」
小「ですね」
み「でも、500人となると……。
狩猟で食べていくなんて、とうてい無理だわな」
律「どうして?」
み「例えば、ライオンの群れを考えてみればいい」
み「多くても、20頭くらいでしょ。
500頭のライオンの群れがいたとして……。
食べていけると思う?」
律「ムリってことね」
み「んだす。
食べられる陸上動物なんて、定住当初に狩り尽くされてる。
以後は、狩猟で食べていくなんてムリだったはず」
小「学校の図書館で調べたんですが……。
食料のうち、獣の肉が占める割合は、1%に満たないらしいです」
み「1%じゃ、オカズにもならんわな。
薬用みたいなもんじゃないの」
↑京都大原の朝市で売られてたそうです。
律「じゃ、何を食べてたの」
み「だから、縄文海進でしょ。
この丘のすぐ下が、海だったんです」
律「魚ってこと?」
み「然り」
律「魚だって、獲り過ぎたらいなくなるんじゃないの?」
↑ニシンです。いなくなって当たり前ですね。
み「近代漁業で獲ったらそうなるだろうけどね。
それは、魚をよその地域に出荷して生活するためでしょ」
↑ニシンの出荷。モッコ背負いの人夫は、食事を摂る時間も無く、歩きながらにぎり飯を食べたそうです。
み「500人程度を養うためだけに捕るなら……。
海の資源は、無尽蔵と言ってもいいんじゃないの。
捕っても捕っても、向こうから押し寄せて来たはず」
み「ここが陸上動物との違いだね」
律「数が違うってこと?」
み「ていうか、陸上の野生動物は、人間と生活圏が重なるから……。
共存できんわけよ。
捕り尽くされたり……」
み「人間によって生活環境が変えられて、追い立てられたり。
その点、魚は、こんなにすぐ近く住んでても……。
人間と生活圏が重ならないわけじゃない。
陸と海で」
↑青木繁『海の幸』。
み「だから、ここの人たちにとってのタンパク源は、魚だったはず」
↑『新潟県立歴史博物館』。
律「魚だけ食べてたの?」
み「魚はオカズです。
主食は、栽培してたんだと思うよ」
律「お米とか?」
み「米は、まだ来てないでしょ。
ヒエとかだったんじゃないかな」
律「ヒエ……。
やっぱり、貧しかったわけね」
小「これも図書館で調べたんですが……。
ヒエは、貯蔵も簡単で、栄養的にも優れてるそうです」
↑粘りが無くモソモソした舌触りなので、汁をかけたりして食されたと思われます。
み「主食として、最適ではないか」
小「あと、ヤマブドウやキイチゴ、ヤマグワなんかの種がたくさん出土してます」
↑ヤマブドウ
み「山の実も、主食のひとつだったってことか」
小「どうも、違うらしいんです」
み「どう違うの?」
小「これらの木の実から、お酒を作ってたんじゃないかって云われてます」
律「果実酒?」
み「つまり、食生活には余裕があったってことだよ。
木の実をそのまま食べてしまわず、嗜好品に変えて楽しんでたわけだから」
律「じゃ、主食は、ヒエだけ?」
小「クリも栽培されてたみたいですよ」
み「おー、クリはええね。
食べるのが簡単で。
アク抜きとかしなくていいからね」
↑栃の実のアク抜き。重曹と木灰を使うそうです(『只見町ブナセンター(福島県南会津郡)』でのアク抜き作業→こちら)。
み「生でも食べれるし」
↑犬も食うなる。
小「ものすごい大木のクリの柱も発見されてます。
次は、その柱を使った、例の復元建物を見てみましょう」
み「しかしこのシェルターの中……。
今は秋だからいいけど……。
ちょっと前だと、暑くてたまらなかったんじゃないか?」
小「冷房、ありませんからね」
み「いい時に来たわい」
小「それじゃ、出ましょう」
み「おー、やっぱり外界の空気は美味い。
次のターゲットは、あれじゃな」
小「『三内丸山遺跡』を象徴する建造物ですね」
み「うーむ。
これは、インパクトあるわ。
柱は、クリなわけね?」
小「そうです。
実際、穴の中にクリの柱が残ってましたから」
み「ほんとにこんな形だったのかね?」
小「これは、学説のひとつを元に復元した形です。
栽培されたクリなら、こんな高いはずがないという説もあります」
↑“栗林”という苗字があるくらいですから、栗を栽培するシステムは、昔からあったのでしょう。
み「なるほど。
こんなに高いんじゃ、栗の実は落ちてくるまで待たなきゃならんわな」
律「あら、栗の実なんて、落ちてるのを拾うんじゃないの?」
↑長靴で踏んづけて、栗の実を取り出します。
み「観光農園の栗拾いならそうだろうけど……。
主食にするとしたら、そんな悠長な収穫はしてられんでしょ」
律「どうするの?」
み「上に伸びる枝は切って、枝を横に伸ばすようにして……。
棒で叩くとかしたんじゃないの」
律「頭の上に落ちてきたら大変よ」
み「ヘルメット、被ってたの」
律「縄文時代にあるわけないでしょ」
み「わかった。
幹にロープを結んで、揺さぶるんだ。
これなら、幹から離れて作業できる」
↑これは栗拾いではありません。伐採作業で、木を倒す方向を調整してるのです。
律「こんな大木、揺さぶられないでしょ」
↑マジで太いです。
み「これは、実を収穫するクリじゃなかったんだよ。
つまり、収穫用のクリと、柱にするクリは、別に育てられてた」
↑『栗太郎』と呼ばれる赤城山の巨木(樹齢、500~600年)。
小「なるほど」
み「1,500年も続いた集落なんだから……。
何世代か後の子孫のために木を育てるって考え方も、持ってたはず」
律「でも、柱にする木なら、クリじゃなくてもいいわけでしょ?
クリの柱なんて、あんまり聞かないじゃない。
どうして、ほかの木を使わなかったのかしら?
日光の杉並木とか、スゴく太くて真っ直ぐよね」
み「はい、チミ」
小「またボクですか。
“桃栗三年”って言葉があるでしょ」
↑チロルチョコです。ちなみに、“かき”には柿の種が入ってるとか。
小「クリは、成長が早いんですよ。
しかも、その材は、湿気に強くて腐りにくいうえに……。
割りやすくて、加工もしやすい」
↑栗材の円卓。直径、1.2メートル。信じられないほど高いです。なんと、116,000円。誰が買うんじゃ?
み「おー、まさしく、柱に打ってつけではないか。
このころは、カンナがけするわけじゃないんだから……。
ちょっとくらい曲がってたっていいのよ」
↑柱用の栗材。
み「一番大切なのは、材質ってこと。
おわかり?」
律「あんたが答えたわけじゃないでしょ。
で、これは、何をする建物なの?」
み「そもそも、どういうものが建ってたのかわからんのだから……。
何をするためのものか、わかるはずがないでしょ」
律「これが建ってたんじゃないの?」
み「だから……。
これは、ひとつの説を元に復元された形よ。
ま、当たらずとも遠からず、って気はするけどね」
律「これだとしたら、ここで何をするわけ?」
み「はい、チミ」
小「一番考えられるのは、物見櫓でしょう」
↑吉野ヶ里遺跡(弥生時代)の『物見櫓』。地震が来たら、倒れそうですね。
み「なるほど。
物見がいるということは……。
攻めて来る敵がいるということ?」
↑これも吉野ヶ里遺跡での想像図。
小「これだけ豊かな集落なら、貯蔵物とかは魅力でしょうね」
み「だよな。
でも、結局、1,500年も続いたわけよね。
てことは、ここらでは、この集落が最強だったと言っていいんじゃない?」
↑『国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)』の展示。弥生時代です。ここも行きたい。
小「攻めてくる敵はいないってことですか?
じゃ、これは、物見櫓じゃないことになりますね」
み「うんにゃ。
敵じゃない者を見張ってたかも知れん」
小「誰です?」
み「海じゃよ。
これは、海を見張るための物見櫓」
↑明治初期の新潟港。水戸教(みとおしえ)と呼ばれる水先案内人が、船を見張ってました。
律「海から誰かが来るって云うの?
泳いで?」
み「アホきゃ。
半魚人じゃあるまいし」
↑これは、半人魚? 走り出す直前のニシンですかね?
律「じゃ、誰よ?」
み「交易相手に決まっておる。
つまり、船が来るのを、ここで見張ってたわけ」
律「この時代に船があったのかしら?」
↑ありました。6000年前なら、三内丸山遺跡よりも早い時代です。
み「チミ。
たしかここでは、ヒスイも出たんだよな」
小「出ました」
↑『三内丸山遺跡』から出土したヒスイ。
み「どこのヒスイかわかったの?」
小「成分分析したところ……。
新潟県の糸魚川産でした」
み「糸魚川市の姫川では、今でもヒスイが採れる」
↑天然記念物につき、採石はできません。
律「ほんとに海から来たのかしら?
陸の道じゃないの?」
み「糸魚川から青森まで、何キロあると思ってるんだ」
み「しかも、日本海の海岸沿いは……。
高速道も通らないほど山が海際まで迫ってる箇所が、いくつもある。
糸魚川を出たら、すぐに『親不知子不知(親知らず子知らず)』と呼ばれる天下の険がそびえてる」
↑失礼! 『親不知』は、糸魚川より富山寄りでした。
み「動物に乗せて行けないから、人間が担いでいくしかないんだぞ。
ヒスイの原石を。
どれだけ運べるっていうの?」
律「どうして動物に乗せられないの?
暖かかったら、象とかいたんじゃない?」
↑『野尻湖ナウマンゾウ博物館(長野県信濃町)』。旧石器時代まで生息してました。
み「おるかい!
そもそも、道なんか無いわけ。
崖が海から切り立ってるの。
その崖に張り付きながら、ロッククライミングみたいに進んでいくしかないの」
↑実際に親不知の崖のようです。
み「自分のことだけで精一杯。
親は子を気遣う余裕もなく、子もまた、親を気にかける余裕もない」
み「これをもって、『親知らず子知らず』と呼ばれることとなったのじゃ」
↑『親不知子不知の像』
律「何で語り部になるのよ」
み「ときどき、乗り移るのじゃ」
律「気味の悪い女」
み「じゃからして!
糸魚川から青森までは、海上以外のルートは、とうてい考えられない。
海なら、対馬海流が北上してるからね」
み「ベルトコンベアみたいな海の道があるわけ。
船なら、ヒスイの原石もたくさん積めるし」
律「ほんとに、そんな船があったのかしら?」
↑葦船だそうです。沈みそうで怖いです。
み「あったの!
外洋に出る必要なんか無いのよ。
陸地を見ながら北上すればいいんだから。
ところどころに、寄港地もあったはず」
↑糸魚川市には、県立海洋高校があります。水産高校ですが、実習船『海洋丸(299t)』を保有しており、40日の航海実習もあります。中央の美人は先生ではなく、アナウンサーです。
律「ま、いいわ。
船で糸魚川からここまで来るとしましょう。
でも、どうしてそれを見張ってなきゃならないの?」
み「当時は、電話も電報も無いのよ。
いつ、どこから船が入るかわからない。
遠くから船を見つけて、受け入れの準備をするわけだ」
律「何の準備?」
み「やっぱり、とりあえずは、遠路の無事を祝って……。
一杯、やるんじゃない?」
律「あんたじゃあるまいし」
み「チミ、さっき言ってたよね。
ここでは、お酒も作られてたって」
小「はい。
ヤマブドウやキイチゴ、ヤマグワを発酵させて作ってたらしいです」
↑ヤマグワです。美味しそうですね。これを食べずに、お酒にしてしまうんだからスゴい。
み「すなわちそれは……。
遠路の航海を乗り越えた者たちを迎える、宴のためのお酒よ」
律「ほんとかしら?」
み「お酒はもちろん、食べ物も準備しなければならない」
↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。
み「着いてから準備したんじゃ、大事な使者を待たせてしまう。
だから、遠目から見つけるために、こういう櫓を建てた」
律「ふーん。
でも、単なる物見櫓が、ここまで立派な建物だったのかしら?」
↑茨城県『逆井城』の物見櫓。壊れたら、また立て直せばいいという造りですね。
み「ほー。
案外、鋭いではないか」
律「そんなもの、見ればわかるわよ。
遠くを見るだけなら、こんな建物を建てなくても……。
高い木に登ればいいわけでしょ。
当時の人は、まだ半分、猿だったんだろうから、お手のものじゃない?」
↑大相撲を見てると、上半身毛だらけで、明らかに進化の途上にあると思われる力士がいます。
み「バカタレ!
猿とは、はるか昔に分化しておるわ。
じゃがしかし、物見櫓の用途だけで、これだけの構造物は不要なことは確か」
律「じゃ、どういう用途?」
み「漫画家の星野之宣は『宗像教授伝奇考』の中で……」
み「鳥葬に用いられたと描いているな」
律「何よ、それ?」
み「すなわち、亡骸を高みに上げて、鳥に食べさせるわけ」
↑これはもちろん鳥葬ではありません。怒ってますね。巣が近いんでしょうか。
律「ヒドいじゃない」
み「鳥が魂を咥えて、天に運んでくれるという思想です」
律「ほんとなの?」
み「説のひとつです。
実際には、どうかね。
人間の死体を食べつくすほどの猛禽類がいたのかってこと」
↑知床に群れる大鷲。北の海は豊かです。
み「猛禽類が狙う地上の小動物は、おそらく人間に狩り尽くされてるからね。
ここらを縄張りにしてるのは、せいぜい一つがいくらいじゃないの?」
律「昔の人は、たくさん死んだから、毎日のように死体が出たんじゃない?」
↑『荼毘室(やきば)混雑の図』。安政5年(1858) 、コロリ(コレラ)大流行。安藤広重、山東京伝もこれで亡くなったそうです。
み「てことはなにかい?
鷲は、人間の死体だけを餌にしてたと?」
律「じゃないの」
み「あにょな。
大集落とはいえ、せいぜい人口500人です。
毎日のように人が死んでたら、あっという間に滅びてしまうわい」
↑京都の山奥にあるそうです。詳しくは、こちらを。
小「でも、その説、面白いですね。
ラドンみたいなのが飛んでたりして」
↑ラドン違いでした。
み「そんなのがいたら、生きてる人間が食われるわ」
↑こちらです。
律「じゃ、あなたの説はどうなのよ?
これを、何に使ったか?」
み「使ったというより、見せるために作ったんじゃない?」
律「誰によ?」
み「船でやってくる交易相手だよ。
ひとつは、灯台代わり。
海際の高台に、こんなのが建ってたら、そうとう遠くから目立つでしょ。
夜は、この上で火を焚いたかも知れない」
↑護摩壇の火ですが、人の形に見えます。
小「火の見櫓じゃなくて……。
火見せ櫓ってことですか?」
み「うまい。
座布団十枚」
小「いりませんって。
危なくて座れないでしょ」
↑畳なら安定したものです。
小「でも、火を焚いたのなら、屋根がなくて正解ですね」
み「たぶんね」
↑もちろん、屋根があったという説もあります。一番左は、柱だけだったという説。
律「今、“ひとつは”って言ったわよね。
それじゃ、まだほかの用途があるってこと?」
み「用途っていうか……。
早い話、権威付けでしょ。
ここには、これだけの構造物を建てられる文明があり……。
それを率いる強力な支配者がいるってことを示してるわけだ」
↑どうしても、卑弥呼のイメージです。
律「なるほど。
これだけの柱を建てたんだもんね。
象とか、使ったのかしら?」
↑スリランカの象。運んでる丸太は建築資材ではなく、自分のエサだそうです。踏み折って、芯を食べるのだとか。
み「象なんておるかい!」
律「じゃ、人力だけ?」
み「だしょうな」
律「復元するときも、人力だったのかしら?」
み「どうなの?」
小「大型クレーンを使ったみたいですね」
み「やっぱり」
小「それじゃ、実際の穴を見てみましょう」
律「あら、そこに建てたんじゃないの?」
み「違うに決まっとろうが。
中に柱も残ってるんだから、穴は保全しなくちゃならないのです」
小「こちらです」
↑こういう状態で展示されてるようです。しかし、無料の施設で、監視員とかは、ちゃんと置いているんでしょうかね? これだと、子供が落ちたりしかねませんよ。
み「うひょー。
こりゃ、デカすぎだろ」
律「聞くと見るとじゃ大違いってやつね」
み「大きさは、どんななの?」
小「穴は、直径、深さ共に2メートルです。
これは、6つの穴、すべて同じです。
穴の間隔はすべて、4.2メートル」
↑出土当時のようす。
律「ものさしでもあったのかしら?」
小「あったようです。
しかも、この三内丸山遺跡でだけ使われたものさしではなく……。
ほかの遺跡とも共通の尺度があったといわれてます」
み「どうしてわかるの?
ものさしが出土したわけ?」
↑こちらは、平城京(710~784)跡から出土したもの。三内丸山遺跡が栄えたのは、これより4,000年も昔です。
小「それは、無いです。
でも、こうした柱の間隔なんかが、35センチの倍数になってるそうです」
み「4.2メートル割る、35センチは……」
小「ぴったり、12です」
み「暗算で答えおったな。
お前、ソロバン1級か?」
↑トニー谷。子供のころ、実際にそろばん塾に通ってたそうです。1級では無かったと思いますが。
小「前に計算して覚えてるだけです。
1級の暗算は、もっと難しいと思うけど」
↑“あんざん”違いですが。こんなの、どこに着て行くんでしょう。
み「まぁ、いい。
じゃ、ほかの遺跡の柱間隔も、35センチの倍数になってるってこと?」
小「そうです。
35㎝は、縄文尺と云われてるんですよ」
み「おー、それは初めて聞いた。
アルプス一万尺なら、聞いたことがあったが」
↑『アルプス一万尺』のアルプスは、日本アルプスだそうです。槍ヶ岳の頂上を『大槍(おおやり)』と云い、その西側に『小槍(こやり)』があります。こんなところで踊りを踊るのは、頭がオカシイとしか思えません。
律「ぜんぜん違うでしょ」
み「穴に、柱が残ってたんだよね」
小「直径1メートルのクリの柱です」
律「何千年も前のものが、よく残ってたわね」
小「柱の周囲が焦がされてたそうです。
それで、腐食が防げたんですね」
↑これは柱ではなく杭ですが、防腐のために“焼く”という工法は、現在でも使われてます。
み「そういう知識があったわけだ」
律「スゴいわね」
み「しかし……。
2メートルの穴に、直径1メートルの柱なんて、どうやって入れたんだ?」
↑柱は、縮んでるそうです。
律「入るんじゃないの?
2倍もあるんだから」
み「そりゃ、20センチの穴に、10センチの柱を建てるんならわけないよ。
突っ立てて落とせばいいだけだからね」
み「でも、直径1メートルの柱を、立てて入れたわけだろ」
律「ふふ。
わかったわよ」
み「ハズレです」
律「何でよ!
いいから、聞きなさい。
この穴は、丸く掘ってあるけど……。
実際は、そうじゃなかったの」
み「どゆこと?」
律「つまり、穴の一方は、緩やかな角度で、斜めに掘られてた。
斜路ね」
み「なるほど。
その斜路に柱の根元を寝かせて……。
頭の方を、少しずつ持ち上げていくわけか」
↑『諏訪大社』御柱祭
律「そうそう。
土を盛りあげるかして、少しずつね。
で、ある程度まで立ち上がったら……。
反対側から、綱で引っ張る」
↑これは、“ヨイトマケ”という地盤を突き固める作業です。
み「にゃんと。
当たらずとも遠からずかも。
それなら、出来んこともないか」
律「でしょ」
み「でも、弱点が1つある」
↑5つもあるのかよ! 詳しくは、こちら。
律「何よ?」
み「穴の強度。
斜路を掘った箇所は、いくら後から突き固めても……。
どうしても、地盤が弱くなる。
反対側から風が吹いたら、柱が傾きかねないでしょ」
律「あなたの知能は、縄文人以下ね」
↑『国立科学博物館』の展示
み「なんじゃと!」
律「1本柱なら、そういうことも考えられるけど……。
これは、6本もあるのよ」
律「斜路を掘る方向を、1本1本変えればいいじゃない。
柱同士は、がっしりと繋げてあるわけでしょ」
律「それなら、どの方向から風が吹いても、残りの5本で耐えられるわよ」
小「なるほど。
現場の責任者なら、当然、そう考えますね」
み「にゃんと……。
ひょっとして正解?」
律「えっへん!」
小「でも……。
実際、斜路のある柱穴はひとつもないんです」
律「どうして!
まさか、思いつかなかったとか?
やっぱり、人間と言っても、まだサルが入ってたってこと?」
み「先生が思いつくことを、縄文人が思いつかないわけ無いでしょ」
律「どういう意味よ」
み「そのまんまの意味。
素人だって思いつくってこと。
ということは……。
あえて、斜路を掘らなかったってことだよね?」
↑弥生時代後期の『伊勢遺跡』。柱穴には、明らかに斜路が掘られてます。
小「そうなりますね」
み「やっぱり、宗教的な匂いがプンプンするな」
み「実用的なだけの用途だったら……。
ぜったい、斜路を掘って建ててる」
律「斜路説は、わたしが言ったんですからね」
み「誰でも思いつくことでしょ」
律「あんた、思いつかなかったじゃない。
斜路を掘った方向に、風で倒れるとか言って」
↑2012年4月の嵐。滋賀県近江八幡市で、電柱17本が倒れたそうです。同じ日、わが家も停電しました。
み「過去を振り返るな!
とにかく、この柱には、楽して建てようという意図がまったくない。
むしろ、あえて困難な方法で建てられてる。
それだけ、ここの住民にとっては、特別な建物だったわけだ」
小「異議ありません」
み「先生は?」
律「あんたが打ち立てた学説じゃないでしょ。
どうでもいいじゃないの。
何千年も前に済んじゃったことなんだから」
み「過去を見極めることにより……。
これからの日本の行く末を、正しく導く指針が得られるのじゃ」
律「こないだ、看護師長が、あるドクターのことを……。
風呂屋の釜って言ってた」
み「なんじゃそれ?」
律「わたしも、ナースたちもぜんぜんわからないから、聞いたのよ。
そしたらね……。
『風呂屋の釜』の中は、お湯ばっかりでしょ。
つまり、『湯うばっか』……」
律「『言うばっか』ってこと」
み「その話が、なんでここで出てくるのじゃ」
律「だから、あんたにもその称号を差し上げますってこと」
み「失敬な!
学問をないがしろにする気か」
律「学問ってのは、あんたみたいな薄っぺらい絵看板を立ち上げることじゃないの。
看板の裏側に、しっかりした裏付けを打ち付けるのが学問」
み「思いつきで言ったでしょ」
律「わかる?」
み「わかりまんがな。
風呂屋仲間ではないか」
律「一緒にしないで」
小「日常的に使うゴミ捨て場とは、違ってたようですね」
↑こちらは、明らかなゴミ捨て場の貝塚。
み「当たり前じゃ。
この場所の名前からもわかるわい」
律「何が?」
み「『南盛土』」
み「つまり、土が盛ってあるわけでしょ」
律「捨ててったら、どんどん高くなったからでしょ?
これ、どのくらいの厚さがあるの?」
小「2メートルから、2メートル50センチくらいあるそうです」
↑奥の作業員さんの服装が秀逸です。
小「ここは、1,000年間使われたようですね」
律「1,000年もゴミを捨ててったら、そのくらい積もるでしょ」
み「あにょな。
日常的に出るゴミを捨てようと思ったら……。
普通、穴を掘って埋めるでしょ」
↑ゴミは集積場所に出すのが当たり前と思ってるのは、都会人です。田舎では集積場所まで遠い家もあります(車で15分というところもあるとか)。どうするかと云うと、敷地が広いので、穴を掘って埋めちゃうんですね。
律「穴がいっぱいになったから、今度は盛っていったってことじゃないの?」
み「捨てづらいだろ。
穴がいっぱいになったら、別の穴を掘って、そこに捨てるのが当たり前。
同じ場所に、1,000年もゴミを捨て続けるわけがない」
↑英国科学者が予測した、1,000年後の人類。
み「どうなの?」
小「単なるゴミ捨て場じゃなかったろうとは云われてます。
お祭りなんかが行われたんじゃないかって」
↑長野県茅野市。『尖石遺跡(縄文時代の集落遺跡)』があります。
み「お祭りというか、儀式だな。
たぶん、甦りの儀式」
律「どういうこと?」
み「土器だの土偶なんかは、元もと土だったわけでしょ」
み「石器やヒスイも、鉱物資源だよね」
↑ヒスイの原石。
み「だから、それらが壊れたりしたとき……。
感謝を込めて、土に返そうとしたんじゃないの?
そしてまた、新たな資源となって、自分たちの前に蘇ってほしいって」
↑これは、三内丸山遺跡から出た袋状編物(別名『縄文ポシェット』)。針葉樹(ヒノキ科)の樹皮から作られてるそうです。右下の丸いのは、中に入ってたクルミ。クルミを1つ残して埋めるってのが、儀式っぽいですよね。
小「へー。
なるほど」
み「でも、儀式的な盛土が、1,000年も続いたってことは……。
宗教的なバックボーンが、1,000年間変わらなかったってことだよね。
そうとう強固な支配階級がいないと、そうはいかんよな」
律「卑弥呼とか?」
↑映画『卑弥呼(1974年・監督:篠田正浩)』。卑弥呼役は、監督の妻・岩下志麻。
み「ま、時代はぜんぜん違うけど……。
そういうシャーマンを兼ねた支配者がいた可能性があるな」
↑こちらは『吉野ヶ里遺跡(弥生時代)』の展示物。ここにも行きたい!
律「縄文時代って、まだそういう社会が無かったんじゃないの?」
み「獲物を求めて、原野を点々としてたみたいな?」
律「そうそう」
み「この遺跡を見れば、そうじゃなかったってことが、一目瞭然でしょ。
だいたい、何人くらい住んでたわけ?」
小「500人はいたみたいです」
↑縄文人の生活。新潟県『十日町博物館』の展示。十日町の笹山遺跡からは、有名な火焔型土器(国宝)が出土してます。
み「500人!
これが社会でなくてどうする」
小「ですね」
み「でも、500人となると……。
狩猟で食べていくなんて、とうてい無理だわな」
律「どうして?」
み「例えば、ライオンの群れを考えてみればいい」
み「多くても、20頭くらいでしょ。
500頭のライオンの群れがいたとして……。
食べていけると思う?」
律「ムリってことね」
み「んだす。
食べられる陸上動物なんて、定住当初に狩り尽くされてる。
以後は、狩猟で食べていくなんてムリだったはず」
小「学校の図書館で調べたんですが……。
食料のうち、獣の肉が占める割合は、1%に満たないらしいです」
み「1%じゃ、オカズにもならんわな。
薬用みたいなもんじゃないの」
↑京都大原の朝市で売られてたそうです。
律「じゃ、何を食べてたの」
み「だから、縄文海進でしょ。
この丘のすぐ下が、海だったんです」
律「魚ってこと?」
み「然り」
律「魚だって、獲り過ぎたらいなくなるんじゃないの?」
↑ニシンです。いなくなって当たり前ですね。
み「近代漁業で獲ったらそうなるだろうけどね。
それは、魚をよその地域に出荷して生活するためでしょ」
↑ニシンの出荷。モッコ背負いの人夫は、食事を摂る時間も無く、歩きながらにぎり飯を食べたそうです。
み「500人程度を養うためだけに捕るなら……。
海の資源は、無尽蔵と言ってもいいんじゃないの。
捕っても捕っても、向こうから押し寄せて来たはず」
み「ここが陸上動物との違いだね」
律「数が違うってこと?」
み「ていうか、陸上の野生動物は、人間と生活圏が重なるから……。
共存できんわけよ。
捕り尽くされたり……」
み「人間によって生活環境が変えられて、追い立てられたり。
その点、魚は、こんなにすぐ近く住んでても……。
人間と生活圏が重ならないわけじゃない。
陸と海で」
↑青木繁『海の幸』。
み「だから、ここの人たちにとってのタンパク源は、魚だったはず」
↑『新潟県立歴史博物館』。
律「魚だけ食べてたの?」
み「魚はオカズです。
主食は、栽培してたんだと思うよ」
律「お米とか?」
み「米は、まだ来てないでしょ。
ヒエとかだったんじゃないかな」
律「ヒエ……。
やっぱり、貧しかったわけね」
小「これも図書館で調べたんですが……。
ヒエは、貯蔵も簡単で、栄養的にも優れてるそうです」
↑粘りが無くモソモソした舌触りなので、汁をかけたりして食されたと思われます。
み「主食として、最適ではないか」
小「あと、ヤマブドウやキイチゴ、ヤマグワなんかの種がたくさん出土してます」
↑ヤマブドウ
み「山の実も、主食のひとつだったってことか」
小「どうも、違うらしいんです」
み「どう違うの?」
小「これらの木の実から、お酒を作ってたんじゃないかって云われてます」
律「果実酒?」
み「つまり、食生活には余裕があったってことだよ。
木の実をそのまま食べてしまわず、嗜好品に変えて楽しんでたわけだから」
律「じゃ、主食は、ヒエだけ?」
小「クリも栽培されてたみたいですよ」
み「おー、クリはええね。
食べるのが簡単で。
アク抜きとかしなくていいからね」
↑栃の実のアク抜き。重曹と木灰を使うそうです(『只見町ブナセンター(福島県南会津郡)』でのアク抜き作業→こちら)。
み「生でも食べれるし」
↑犬も食うなる。
小「ものすごい大木のクリの柱も発見されてます。
次は、その柱を使った、例の復元建物を見てみましょう」
み「しかしこのシェルターの中……。
今は秋だからいいけど……。
ちょっと前だと、暑くてたまらなかったんじゃないか?」
小「冷房、ありませんからね」
み「いい時に来たわい」
小「それじゃ、出ましょう」
み「おー、やっぱり外界の空気は美味い。
次のターゲットは、あれじゃな」
小「『三内丸山遺跡』を象徴する建造物ですね」
み「うーむ。
これは、インパクトあるわ。
柱は、クリなわけね?」
小「そうです。
実際、穴の中にクリの柱が残ってましたから」
み「ほんとにこんな形だったのかね?」
小「これは、学説のひとつを元に復元した形です。
栽培されたクリなら、こんな高いはずがないという説もあります」
↑“栗林”という苗字があるくらいですから、栗を栽培するシステムは、昔からあったのでしょう。
み「なるほど。
こんなに高いんじゃ、栗の実は落ちてくるまで待たなきゃならんわな」
律「あら、栗の実なんて、落ちてるのを拾うんじゃないの?」
↑長靴で踏んづけて、栗の実を取り出します。
み「観光農園の栗拾いならそうだろうけど……。
主食にするとしたら、そんな悠長な収穫はしてられんでしょ」
律「どうするの?」
み「上に伸びる枝は切って、枝を横に伸ばすようにして……。
棒で叩くとかしたんじゃないの」
律「頭の上に落ちてきたら大変よ」
み「ヘルメット、被ってたの」
律「縄文時代にあるわけないでしょ」
み「わかった。
幹にロープを結んで、揺さぶるんだ。
これなら、幹から離れて作業できる」
↑これは栗拾いではありません。伐採作業で、木を倒す方向を調整してるのです。
律「こんな大木、揺さぶられないでしょ」
↑マジで太いです。
み「これは、実を収穫するクリじゃなかったんだよ。
つまり、収穫用のクリと、柱にするクリは、別に育てられてた」
↑『栗太郎』と呼ばれる赤城山の巨木(樹齢、500~600年)。
小「なるほど」
み「1,500年も続いた集落なんだから……。
何世代か後の子孫のために木を育てるって考え方も、持ってたはず」
律「でも、柱にする木なら、クリじゃなくてもいいわけでしょ?
クリの柱なんて、あんまり聞かないじゃない。
どうして、ほかの木を使わなかったのかしら?
日光の杉並木とか、スゴく太くて真っ直ぐよね」
み「はい、チミ」
小「またボクですか。
“桃栗三年”って言葉があるでしょ」
↑チロルチョコです。ちなみに、“かき”には柿の種が入ってるとか。
小「クリは、成長が早いんですよ。
しかも、その材は、湿気に強くて腐りにくいうえに……。
割りやすくて、加工もしやすい」
↑栗材の円卓。直径、1.2メートル。信じられないほど高いです。なんと、116,000円。誰が買うんじゃ?
み「おー、まさしく、柱に打ってつけではないか。
このころは、カンナがけするわけじゃないんだから……。
ちょっとくらい曲がってたっていいのよ」
↑柱用の栗材。
み「一番大切なのは、材質ってこと。
おわかり?」
律「あんたが答えたわけじゃないでしょ。
で、これは、何をする建物なの?」
み「そもそも、どういうものが建ってたのかわからんのだから……。
何をするためのものか、わかるはずがないでしょ」
律「これが建ってたんじゃないの?」
み「だから……。
これは、ひとつの説を元に復元された形よ。
ま、当たらずとも遠からず、って気はするけどね」
律「これだとしたら、ここで何をするわけ?」
み「はい、チミ」
小「一番考えられるのは、物見櫓でしょう」
↑吉野ヶ里遺跡(弥生時代)の『物見櫓』。地震が来たら、倒れそうですね。
み「なるほど。
物見がいるということは……。
攻めて来る敵がいるということ?」
↑これも吉野ヶ里遺跡での想像図。
小「これだけ豊かな集落なら、貯蔵物とかは魅力でしょうね」
み「だよな。
でも、結局、1,500年も続いたわけよね。
てことは、ここらでは、この集落が最強だったと言っていいんじゃない?」
↑『国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)』の展示。弥生時代です。ここも行きたい。
小「攻めてくる敵はいないってことですか?
じゃ、これは、物見櫓じゃないことになりますね」
み「うんにゃ。
敵じゃない者を見張ってたかも知れん」
小「誰です?」
み「海じゃよ。
これは、海を見張るための物見櫓」
↑明治初期の新潟港。水戸教(みとおしえ)と呼ばれる水先案内人が、船を見張ってました。
律「海から誰かが来るって云うの?
泳いで?」
み「アホきゃ。
半魚人じゃあるまいし」
↑これは、半人魚? 走り出す直前のニシンですかね?
律「じゃ、誰よ?」
み「交易相手に決まっておる。
つまり、船が来るのを、ここで見張ってたわけ」
律「この時代に船があったのかしら?」
↑ありました。6000年前なら、三内丸山遺跡よりも早い時代です。
み「チミ。
たしかここでは、ヒスイも出たんだよな」
小「出ました」
↑『三内丸山遺跡』から出土したヒスイ。
み「どこのヒスイかわかったの?」
小「成分分析したところ……。
新潟県の糸魚川産でした」
み「糸魚川市の姫川では、今でもヒスイが採れる」
↑天然記念物につき、採石はできません。
律「ほんとに海から来たのかしら?
陸の道じゃないの?」
み「糸魚川から青森まで、何キロあると思ってるんだ」
み「しかも、日本海の海岸沿いは……。
高速道も通らないほど山が海際まで迫ってる箇所が、いくつもある。
糸魚川を出たら、すぐに『親不知子不知(親知らず子知らず)』と呼ばれる天下の険がそびえてる」
↑失礼! 『親不知』は、糸魚川より富山寄りでした。
み「動物に乗せて行けないから、人間が担いでいくしかないんだぞ。
ヒスイの原石を。
どれだけ運べるっていうの?」
律「どうして動物に乗せられないの?
暖かかったら、象とかいたんじゃない?」
↑『野尻湖ナウマンゾウ博物館(長野県信濃町)』。旧石器時代まで生息してました。
み「おるかい!
そもそも、道なんか無いわけ。
崖が海から切り立ってるの。
その崖に張り付きながら、ロッククライミングみたいに進んでいくしかないの」
↑実際に親不知の崖のようです。
み「自分のことだけで精一杯。
親は子を気遣う余裕もなく、子もまた、親を気にかける余裕もない」
み「これをもって、『親知らず子知らず』と呼ばれることとなったのじゃ」
↑『親不知子不知の像』
律「何で語り部になるのよ」
み「ときどき、乗り移るのじゃ」
律「気味の悪い女」
み「じゃからして!
糸魚川から青森までは、海上以外のルートは、とうてい考えられない。
海なら、対馬海流が北上してるからね」
み「ベルトコンベアみたいな海の道があるわけ。
船なら、ヒスイの原石もたくさん積めるし」
律「ほんとに、そんな船があったのかしら?」
↑葦船だそうです。沈みそうで怖いです。
み「あったの!
外洋に出る必要なんか無いのよ。
陸地を見ながら北上すればいいんだから。
ところどころに、寄港地もあったはず」
↑糸魚川市には、県立海洋高校があります。水産高校ですが、実習船『海洋丸(299t)』を保有しており、40日の航海実習もあります。中央の美人は先生ではなく、アナウンサーです。
律「ま、いいわ。
船で糸魚川からここまで来るとしましょう。
でも、どうしてそれを見張ってなきゃならないの?」
み「当時は、電話も電報も無いのよ。
いつ、どこから船が入るかわからない。
遠くから船を見つけて、受け入れの準備をするわけだ」
律「何の準備?」
み「やっぱり、とりあえずは、遠路の無事を祝って……。
一杯、やるんじゃない?」
律「あんたじゃあるまいし」
み「チミ、さっき言ってたよね。
ここでは、お酒も作られてたって」
小「はい。
ヤマブドウやキイチゴ、ヤマグワを発酵させて作ってたらしいです」
↑ヤマグワです。美味しそうですね。これを食べずに、お酒にしてしまうんだからスゴい。
み「すなわちそれは……。
遠路の航海を乗り越えた者たちを迎える、宴のためのお酒よ」
律「ほんとかしら?」
み「お酒はもちろん、食べ物も準備しなければならない」
↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。
み「着いてから準備したんじゃ、大事な使者を待たせてしまう。
だから、遠目から見つけるために、こういう櫓を建てた」
律「ふーん。
でも、単なる物見櫓が、ここまで立派な建物だったのかしら?」
↑茨城県『逆井城』の物見櫓。壊れたら、また立て直せばいいという造りですね。
み「ほー。
案外、鋭いではないか」
律「そんなもの、見ればわかるわよ。
遠くを見るだけなら、こんな建物を建てなくても……。
高い木に登ればいいわけでしょ。
当時の人は、まだ半分、猿だったんだろうから、お手のものじゃない?」
↑大相撲を見てると、上半身毛だらけで、明らかに進化の途上にあると思われる力士がいます。
み「バカタレ!
猿とは、はるか昔に分化しておるわ。
じゃがしかし、物見櫓の用途だけで、これだけの構造物は不要なことは確か」
律「じゃ、どういう用途?」
み「漫画家の星野之宣は『宗像教授伝奇考』の中で……」
み「鳥葬に用いられたと描いているな」
律「何よ、それ?」
み「すなわち、亡骸を高みに上げて、鳥に食べさせるわけ」
↑これはもちろん鳥葬ではありません。怒ってますね。巣が近いんでしょうか。
律「ヒドいじゃない」
み「鳥が魂を咥えて、天に運んでくれるという思想です」
律「ほんとなの?」
み「説のひとつです。
実際には、どうかね。
人間の死体を食べつくすほどの猛禽類がいたのかってこと」
↑知床に群れる大鷲。北の海は豊かです。
み「猛禽類が狙う地上の小動物は、おそらく人間に狩り尽くされてるからね。
ここらを縄張りにしてるのは、せいぜい一つがいくらいじゃないの?」
律「昔の人は、たくさん死んだから、毎日のように死体が出たんじゃない?」
↑『荼毘室(やきば)混雑の図』。安政5年(1858) 、コロリ(コレラ)大流行。安藤広重、山東京伝もこれで亡くなったそうです。
み「てことはなにかい?
鷲は、人間の死体だけを餌にしてたと?」
律「じゃないの」
み「あにょな。
大集落とはいえ、せいぜい人口500人です。
毎日のように人が死んでたら、あっという間に滅びてしまうわい」
↑京都の山奥にあるそうです。詳しくは、こちらを。
小「でも、その説、面白いですね。
ラドンみたいなのが飛んでたりして」
↑ラドン違いでした。
み「そんなのがいたら、生きてる人間が食われるわ」
↑こちらです。
律「じゃ、あなたの説はどうなのよ?
これを、何に使ったか?」
み「使ったというより、見せるために作ったんじゃない?」
律「誰によ?」
み「船でやってくる交易相手だよ。
ひとつは、灯台代わり。
海際の高台に、こんなのが建ってたら、そうとう遠くから目立つでしょ。
夜は、この上で火を焚いたかも知れない」
↑護摩壇の火ですが、人の形に見えます。
小「火の見櫓じゃなくて……。
火見せ櫓ってことですか?」
み「うまい。
座布団十枚」
小「いりませんって。
危なくて座れないでしょ」
↑畳なら安定したものです。
小「でも、火を焚いたのなら、屋根がなくて正解ですね」
み「たぶんね」
↑もちろん、屋根があったという説もあります。一番左は、柱だけだったという説。
律「今、“ひとつは”って言ったわよね。
それじゃ、まだほかの用途があるってこと?」
み「用途っていうか……。
早い話、権威付けでしょ。
ここには、これだけの構造物を建てられる文明があり……。
それを率いる強力な支配者がいるってことを示してるわけだ」
↑どうしても、卑弥呼のイメージです。
律「なるほど。
これだけの柱を建てたんだもんね。
象とか、使ったのかしら?」
↑スリランカの象。運んでる丸太は建築資材ではなく、自分のエサだそうです。踏み折って、芯を食べるのだとか。
み「象なんておるかい!」
律「じゃ、人力だけ?」
み「だしょうな」
律「復元するときも、人力だったのかしら?」
み「どうなの?」
小「大型クレーンを使ったみたいですね」
み「やっぱり」
小「それじゃ、実際の穴を見てみましょう」
律「あら、そこに建てたんじゃないの?」
み「違うに決まっとろうが。
中に柱も残ってるんだから、穴は保全しなくちゃならないのです」
小「こちらです」
↑こういう状態で展示されてるようです。しかし、無料の施設で、監視員とかは、ちゃんと置いているんでしょうかね? これだと、子供が落ちたりしかねませんよ。
み「うひょー。
こりゃ、デカすぎだろ」
律「聞くと見るとじゃ大違いってやつね」
み「大きさは、どんななの?」
小「穴は、直径、深さ共に2メートルです。
これは、6つの穴、すべて同じです。
穴の間隔はすべて、4.2メートル」
↑出土当時のようす。
律「ものさしでもあったのかしら?」
小「あったようです。
しかも、この三内丸山遺跡でだけ使われたものさしではなく……。
ほかの遺跡とも共通の尺度があったといわれてます」
み「どうしてわかるの?
ものさしが出土したわけ?」
↑こちらは、平城京(710~784)跡から出土したもの。三内丸山遺跡が栄えたのは、これより4,000年も昔です。
小「それは、無いです。
でも、こうした柱の間隔なんかが、35センチの倍数になってるそうです」
み「4.2メートル割る、35センチは……」
小「ぴったり、12です」
み「暗算で答えおったな。
お前、ソロバン1級か?」
↑トニー谷。子供のころ、実際にそろばん塾に通ってたそうです。1級では無かったと思いますが。
小「前に計算して覚えてるだけです。
1級の暗算は、もっと難しいと思うけど」
↑“あんざん”違いですが。こんなの、どこに着て行くんでしょう。
み「まぁ、いい。
じゃ、ほかの遺跡の柱間隔も、35センチの倍数になってるってこと?」
小「そうです。
35㎝は、縄文尺と云われてるんですよ」
み「おー、それは初めて聞いた。
アルプス一万尺なら、聞いたことがあったが」
↑『アルプス一万尺』のアルプスは、日本アルプスだそうです。槍ヶ岳の頂上を『大槍(おおやり)』と云い、その西側に『小槍(こやり)』があります。こんなところで踊りを踊るのは、頭がオカシイとしか思えません。
律「ぜんぜん違うでしょ」
み「穴に、柱が残ってたんだよね」
小「直径1メートルのクリの柱です」
律「何千年も前のものが、よく残ってたわね」
小「柱の周囲が焦がされてたそうです。
それで、腐食が防げたんですね」
↑これは柱ではなく杭ですが、防腐のために“焼く”という工法は、現在でも使われてます。
み「そういう知識があったわけだ」
律「スゴいわね」
み「しかし……。
2メートルの穴に、直径1メートルの柱なんて、どうやって入れたんだ?」
↑柱は、縮んでるそうです。
律「入るんじゃないの?
2倍もあるんだから」
み「そりゃ、20センチの穴に、10センチの柱を建てるんならわけないよ。
突っ立てて落とせばいいだけだからね」
み「でも、直径1メートルの柱を、立てて入れたわけだろ」
律「ふふ。
わかったわよ」
み「ハズレです」
律「何でよ!
いいから、聞きなさい。
この穴は、丸く掘ってあるけど……。
実際は、そうじゃなかったの」
み「どゆこと?」
律「つまり、穴の一方は、緩やかな角度で、斜めに掘られてた。
斜路ね」
み「なるほど。
その斜路に柱の根元を寝かせて……。
頭の方を、少しずつ持ち上げていくわけか」
↑『諏訪大社』御柱祭
律「そうそう。
土を盛りあげるかして、少しずつね。
で、ある程度まで立ち上がったら……。
反対側から、綱で引っ張る」
↑これは、“ヨイトマケ”という地盤を突き固める作業です。
み「にゃんと。
当たらずとも遠からずかも。
それなら、出来んこともないか」
律「でしょ」
み「でも、弱点が1つある」
↑5つもあるのかよ! 詳しくは、こちら。
律「何よ?」
み「穴の強度。
斜路を掘った箇所は、いくら後から突き固めても……。
どうしても、地盤が弱くなる。
反対側から風が吹いたら、柱が傾きかねないでしょ」
律「あなたの知能は、縄文人以下ね」
↑『国立科学博物館』の展示
み「なんじゃと!」
律「1本柱なら、そういうことも考えられるけど……。
これは、6本もあるのよ」
律「斜路を掘る方向を、1本1本変えればいいじゃない。
柱同士は、がっしりと繋げてあるわけでしょ」
律「それなら、どの方向から風が吹いても、残りの5本で耐えられるわよ」
小「なるほど。
現場の責任者なら、当然、そう考えますね」
み「にゃんと……。
ひょっとして正解?」
律「えっへん!」
小「でも……。
実際、斜路のある柱穴はひとつもないんです」
律「どうして!
まさか、思いつかなかったとか?
やっぱり、人間と言っても、まだサルが入ってたってこと?」
み「先生が思いつくことを、縄文人が思いつかないわけ無いでしょ」
律「どういう意味よ」
み「そのまんまの意味。
素人だって思いつくってこと。
ということは……。
あえて、斜路を掘らなかったってことだよね?」
↑弥生時代後期の『伊勢遺跡』。柱穴には、明らかに斜路が掘られてます。
小「そうなりますね」
み「やっぱり、宗教的な匂いがプンプンするな」
み「実用的なだけの用途だったら……。
ぜったい、斜路を掘って建ててる」
律「斜路説は、わたしが言ったんですからね」
み「誰でも思いつくことでしょ」
律「あんた、思いつかなかったじゃない。
斜路を掘った方向に、風で倒れるとか言って」
↑2012年4月の嵐。滋賀県近江八幡市で、電柱17本が倒れたそうです。同じ日、わが家も停電しました。
み「過去を振り返るな!
とにかく、この柱には、楽して建てようという意図がまったくない。
むしろ、あえて困難な方法で建てられてる。
それだけ、ここの住民にとっては、特別な建物だったわけだ」
小「異議ありません」
み「先生は?」
律「あんたが打ち立てた学説じゃないでしょ。
どうでもいいじゃないの。
何千年も前に済んじゃったことなんだから」
み「過去を見極めることにより……。
これからの日本の行く末を、正しく導く指針が得られるのじゃ」
律「こないだ、看護師長が、あるドクターのことを……。
風呂屋の釜って言ってた」
み「なんじゃそれ?」
律「わたしも、ナースたちもぜんぜんわからないから、聞いたのよ。
そしたらね……。
『風呂屋の釜』の中は、お湯ばっかりでしょ。
つまり、『湯うばっか』……」
律「『言うばっか』ってこと」
み「その話が、なんでここで出てくるのじゃ」
律「だから、あんたにもその称号を差し上げますってこと」
み「失敬な!
学問をないがしろにする気か」
律「学問ってのは、あんたみたいな薄っぺらい絵看板を立ち上げることじゃないの。
看板の裏側に、しっかりした裏付けを打ち付けるのが学問」
み「思いつきで言ったでしょ」
律「わかる?」
み「わかりまんがな。
風呂屋仲間ではないか」
律「一緒にしないで」