2014.8.2(土)
み「そうだ。
ちょっと、言ってみてよ」
み「何を?」
律「“生まれてすみません”」
み「“生まれてすみません”」
律「あんたが言うと、心からうなずきたくなるわね」
み「じゃかし。
わたしが生まれてなかったら、あんたも生まれてないの。
それじゃ、結局何も買わないわけ?」
↑わたしとしては、『斜陽館起こし文』がお勧めかと(324円)。ネットからも買えます(こちら)。
律「あんた、Tシャツ、買いなさいよ」
み「くれてもいらんわ」
律「そこまで言うもんじゃないわ。
そしたらどうするの?
このまま出る?」
み「さっき、裏から見た建物には、スゴく興味がある」
み「小じんまりした、古い住宅って、大好きなんだ。
東京の大田区に『昭和のくらし博物館』ってのがあるんだけど、知ってる?」
律「知らない」
み「いわゆる、戦後に建った文化住宅ね」
↑建築当時
建てられたのは、昭和26年。
前年に始まった住宅金融公庫の融資を受けて建てられた、いわゆる『公庫住宅』です。
住宅金融公庫の制度は今も続いてますが……(現在は、住宅金融支援機構となってるようです)。
昭和20年台に建てられた住宅は、今、ほとんど残ってないとか。
『昭和のくらし博物館』は、2002年、国の登録有形文化財に指定されてます。
この住宅が博物館として公開されたのは、1999年ですが……。
わたしはしばらくその存在を知りませんでした。
『昭和のくらし博物館(河出書房新社)』という本を書店で見つけ、初めて知ることになったわけです。
新潟に帰ってからでした。
わざわざ、東京まで行きましたね。
この博物館を見るためだけに。
なんていうか、おとぎの家みたいに感じました。
ちゃぶ台のまわりに家族が集ってたころの、小さな家です。
↑『昭和のくらし博物館』で、『ちゃぶ台の昭和』という企画展が行われたときの展示。
1,2階合わせても、床面積は18坪(59.4平米)しかありません。
しかも、借入金返済のため、2階の2間には下宿人を置いてたそうです。
↑下宿人が住んだ2階の部屋。スゴく居心地良さそうです。冬でも、陽が射すと暖かかったのでは?
もちろん、朝夕の賄い付き。
1階に、この家の家族、両親と4姉妹が暮らしました。
なんだか、この設定だけでテレビドラマが出来そうですよね。
ほんとに、実際行ってみていただきたいのですが……。
ここで暮らしたいと、心から思える住宅でした。
↑夕涼みしながらの一杯。美味しいでしょうね。
実はわたし、中学生のころは、将来、建築家になりたいと思ってたんです。
お小遣いから、『ニューハウス』などという雑誌を買い、間取りの研究などもしてました。
↑昭和7年創刊。残念ながら、平成19年、休刊となりました。
この夢は、高校生のとき、儚くも消えてしまいました。
理系科目が、まったく出来なくなったからです。
中学までは、なんとかなったんですけどね。
もし夢がかなってたら、今ごろは、テレビのリフォーム番組かなんかに出てたかも。
今でも、新聞に建売住宅の広告などがあると……。
間取り図に見入ってしまいます。
ついでなので、もし戦後住宅に興味がある方に、お勧めの博物館をお伝えしようと思ったんですが……。
どうも、このシリーズ、昔書いたなと思い当たりました。
探してみたら、やっぱりありました。
これから紹介しようとしてた『松戸市立博物館』の団地も、すでに取り上げ済みでした。
これら、昭和な住宅に興味をお持ちになられた方は……。
『東北に行こう!(32)』、ぜひお読み下さい。
それでは、お話を続けます。
み「東京の小金井には……。
『江戸東京博物館』の分園、『江戸東京たてもの園』ってのがある」
↑正面に見える建物は、お寺ではなく、銭湯です。
み「ここも面白いよ。
ただ、ちょっと大邸宅が多いけどね。
その中で、イチオシは『前川國男邸』」
み「建築家の前川國男が、自宅として建てた家。
洋風住宅なんだけどね。
小ぢんまりして、一人暮らしなら、ほんと住みやすそう」
↓動画でご覧いただけます。
前川國男は、新潟市に生まれた建築家(1905~1986)。
でも、すぐに移住されたようで、小学校から東京です。
府立一中(現・日比谷高校)→ 一高 → 東京帝大。
エリート中のエリートですね。
この自邸は、昭和17(1942)年の作品(37歳)。
晩年には、新潟市美術館も設計されてます。
↑1985年、亡くなる1年前の作品。
み「東京に住んでるんだったら……。
一度、見てごらんなさい」
律「そうね。
何かのついでがあったら行ってみるわ」
み「やっぱり、ここも入ってみる。
俄然、興味が出てきた」
律「よし。
それなら、ここは折半にしましょう」
み「最初から、そう言って!」
律「それじゃ、入りましょう」
み「たのもー」
律「道場破りじゃ無いんだから」
↑剣客商売スペシャル『道場破り(平成22年)』より。中央は、道場破りの浪人を演じた中村梅雀。
主「お決まりですか?」
み「しじみラーメン、2つ」
主「は?」
み「じゃなくて……。
大人2枚」
主「1,000円になります」
み「まかりまへんな?」
主「精一杯、ご案内させていただきます!」
↑やや意味が違います。
主「えーっと、まず上がったこの座敷が……。
太宰のお母様が息を引き取った部屋になります」
み「『斜陽館』じゃなくて?」
主「この家は当時、『斜陽館』の離れで、廊下で繋がってたんです」
み「ずいぶん離れた離れだな。
どんだけ長い廊下なんだ?」
↑小野川温泉(山形県米沢市)『亀屋万年閣』さん
主「いえ。
当時、この家は、ここには無かったんです。
戦後、太宰のお兄さんが『斜陽館』が売却するときに……。
離れだけをこちらに曳家し、そこに住まわれたわけです」
“曳家(ひきや)”と、は建築物をそのままの状態で移動する工法です。
当然のことながら、途中に障害物があれば出来ません。
『斜陽館』と、今の『疎開の家』は、100メートルほど離れてますが……。
当時は、津島家の敷地内での移動だったのです。
み「ほう。
それなら、廊下の謎も解け申した。
しかし……。
この部屋で、死の床にあってさ。
天井を見つめてる気分って、どんなんだろ。
テレビも無いんだよ」
律「そうよね」
み「なんか、斎藤茂吉の『死にたまふ母』を連想するね」
●死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
律「太宰も添い寝したのかしら?」
主「お母さんは、この部屋でベッドに寝てたようです」
み「ありゃ。
そりゃ、モダンだわね」
主「太宰の小説『故郷(青空文庫)』に、こんな一説があります。
読ませていただきます」
『母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。けれども意識は、ハッキリしていた。
「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。私が園子を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。枕頭にいた五所川原の叔母は、微笑ほほえみながら涙を拭いていた。』
↑『太宰治生誕祭』で挨拶する太宰の長女、津島園子さん。
律「やっぱり、切ないわね。
お別れの場面は。
わたしは、これが辛いから……。
新しい命を取り上げる産婦人科を選んだのよ」
主「あ、お医者さまでしたか」
み「藪ですが」
↑藪医者の語源については、諸説あるようです(参照)。
律「うるさい」
主「さきほどの一節は、こう続きます」
『突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷い手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。』
主「太宰は、隣の洋室に逃げ込んで、嗚咽をこらえたのでしょう。
その部屋が、こちらです。
どうぞ」
律「さっきの和室と、雰囲気がぜんぜん違うわね」
み「モダンな感じだよね。
ベッドを置くなら、この部屋にすれば良かったのに。
なんでじゃ?」
律「応接セットとかがあって、置けなかったからじゃない?」
主「さっきの一節は、さらにこう続きます」
『洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。』
み「ほれ、がらんとしてたぞ」
律「応接セットがあっても、がらんとした感じだったんじゃないの」
み「いずれにしろ、邪魔なものは母屋の『斜陽館』に運べばいいわけだ。
あんだけ広い家なんだから。
ここにベッドを置けない理由はないぞ」
律「寒かったからじゃないの?
さっきの一節にあったじゃない」
み「それは単に、この部屋の暖房を点けてなかったからでしょ。
セントラル・ヒーティングじゃないんだから。
ほら、あんなマントルピースじゃ、点けたってすぐ暖まらないよ」
主「あ、このマントルピースはフェイクで……。
中は棚になってるんです。
ワインを入れてたようです」
み「にゃに。
てことは、暖房はどうするわけ?
煙突が抜ける穴が無いじゃん。
当時は石油ストーブなんか無いだろうから……。
結局、火鉢?」
み「でも、たとえ火鉢だって……。
あんなだだっ広い和室より、この洋間の方が、ずっと効きがいいはず。
なぜなのじゃ?」
律「なんでそうこだわるわけ?」
み「こだわってるわけじゃないけどね。
和室を使うんなら、普通に布団でいいわけでしょ」
律「ベッドの方が、ずっと便利よ。
おトイレに連れて行ったりするの、お布団からじゃ大変」
み「だから……。
それなら、洋室にベッドを置けばいいじゃん」
律「そんなの、好き好きじゃないの」
み「あなた、どう思います?」
主「わかりません」
み「きっぱり答えましたね」
主「和室でベッドを使った理由までは書かれてませんから。
でも、わたしなりに推測はできます」
み「語ってみしゃんせ」
主「母屋で暮らしてたころ……。
お母さんはおそらく、和室のお布団を使ってたんでしょう」
↑母屋『斜陽館』の和室。落ち着かなそうな部屋です。
み「ま、その時代の人なら、当然だわな」
主「病に伏すようになって、こちらの新座敷に移られたときも……。
最初は、さっきの和室でお布団を敷いてたんだと思います。
でも、病が重くなって、一人での起き伏しがままならなくなった。
人の介助が必要になった場合……。
やはり、床から起こすのは大変です。
で、ベッドを入れた」
み「介助って、誰がやってたの?」
主「ちょっと待って下さい。
『故郷』の中に記述を探してみます。
えーっと。
あ、なんだそうか」
み「何よ?」
『病室には叔母の他に、看護婦がふたり、それから私の一ばん上の姉、次兄の嫂、親戚のおばあさんなど大勢いた。』
み「やっぱりスゴい家だったんだね。
専属の看護婦が、2人も付いてたんだ」
↑美人ですね。弘前公園にあるようです。
み「給料払って丸抱え?」
律「じゃないの?」
み「看護婦さんの給料って、高いよね?」
律「まぁ、女医を除けば……。
女性の付く職業の中では、かなりの高報酬でしょうね」
み「大地主のやることは、違うわ。
でも……。
なぜ、あの和室にベッドを入れたわけ?」
主「雰囲気が変わってしまわないよう、周りが気を使ったんじゃないでしょうか?」
律「洋室が使えなかった理由があるんじゃないの?」
み「あ、そうか。
ここに間借り人を置いてたんだ」
律「何で、そんな人を置くのよ?」
み「部屋賃が入るでしょ」
律「専属の看護婦を2人も雇う家が……。
間借り人なんて置くわけないわ」
み「地主のやることは、わからんからな。
妙なところでケチだったりする。
ご主人!」
主「はい」
み「探して」
主「は?」
み「その『故郷』の中に、書いてあるんじゃないの?
洋室が、どういう使われ方をしてたか。
案内料、2人で1,000円も払ったんだから」
主「はい。
ただいま」
み「案内料って、何人で来ても、1人500円取るわけ?」
主「そういう仕組みです」
み「仕組みって、あなたが設定したんでしょうが。
それって、おかしくない?
だって、お客が何人でも……。
相手をするのは、あなた1人なわけでしょ?」
↑お客が10人で、5,000円の大儲け。と思いましたが……。これは、ツアーのコースになったときの様子なので、1人500円は取ってないと思われます(好意的推測)。
主「そうなります」
み「そしたら、お客が1人のときも、3人のときも……。
あなたが説明できる量は変わらないわけじゃない」
主「はぁ」
み「だったら、1組あたり、500円にすべきじゃないの。
今まで、文句出なかった?」
主「はい」
「旅先では、誰もケチらないのよ」
↑うなってます。
み「いい商売してるではないか。
でも、わたしらはそうはいかんぞ。
1,000円分、きっちり案内していただきます。
ほれ、検索!
この洋室が、どうやって使われてたか」
主「はい!
えーっと。
あ、ありました」
『日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。』
み「ほれ、見給え。
何にも使われてなかったんだ。
なら、どうしてこの洋室に、ベッドを入れなかったわけ?」
律「あ、わかった」
み「何よ?」
律「この部屋、周りを見てご覧なさい。
壁も天井も、真っ白でしょ?」
み「だから?」
律「この部屋で、ベッドに寝てたら……。
病院みたいだからよ」
律「真上を見れば、真っ白い天井なんだから」
主「なるほど。
それは、あるかも知れませんね」
律「そうよ。
看護婦を2人も雇うくらいなら……。
特別室に入院した方が、ずっと安あがりじゃない」
↑『JA高知病院』の特別室。1日 8,400円。正看護師の時給は、平成23年度時点で2,340円だそうです。8,400円では、看護師2人を1時間48分しか雇えません。
律「それをしないで、自宅で寝てたってことは……。
よっぽど病院が嫌いだったのよ。
だから、病院を連想させる洋室じゃなくて……。
さっきの和室にベッドを入れたわけ」
主「なるほど!
深いですな」
み「あ!
わたしもわかった!」
律「また出た。
負けず嫌い」
み「洋室は、機密性が高すぎるからだ」
律「なんでそれがダメなの?」
み「暖房だよ。
火鉢にしろ何にしろ……」
み「火を使う暖房だと、機密性の高い部屋は、かえって危険」
↑一酸化炭素と結びついたヘモグロビン(血液に含まれるタンパク質)を、COHb(一酸化炭素ヘモグロビン)と云うそうです。一酸化炭素は、酸素の250倍もヘモグロビンと結びつきやすいそうです。
み「だから、和室にしたんだよ。
和室なら、そこら中に隙間があるから……」
み「自然換気が出来るからね。
ひょっとしたら……。
この洋間は、冬には使われなかったのかも」
↑洋間を案内する白川さん。
主「ほー。
なぜ、和室にベッドを入れてたのか……。
そのことに、これほどこだわった方は初めてです。
わたしも、もう一度、一連の作品を読み返してみましょう。
ひょっとしたら、見逃してた記述が見つかるかも知れません」
み「勉強になったろ。
その分、まけなさい」
主「いえ、その分、いっそう熱心にご案内させていただきます」
↑熱心に説明する白川さん。左の人物は、“生ゆるキャラ”こと『おもち君』(なんと、五所川原市観光課の職員です)。
↓動画でどうぞ。
み「まず、そのケチを直しなさい」
律「人のこと、言えないでしょ」
主「それでは続いて、さっきの和室の奥の6畳間にどうぞ」
↓この建物の間取り図がありました。
この図も、白川さんが描かれたようです。
離れだったので、お風呂もトイレもありません。
でも、曳家で持ってきたら、造らにゃなりませんよね。
位置的には、奥に付けた玄関の隣がいいと思うのですが。
いや、やっぱり洋間の右かな。
ふむ。
玄関の左にトイレ。
洋間の右にお風呂。
これがベストか。
おや。
ちょっと待て。
この家って、台所がねーじゃん。
どーなってんじゃ?
↓白川さんは、こんな位置図も描いてらっしゃいます。
お上手ですよね。
み「この部屋は、『故郷』に記述があるの?」
主「見舞客の控室みたいな使われ方をしてたようです。
えーっと。
最初の方だな。
ありました」
『私たちは隣りの六畳の控えの間に行って、みんなと挨拶を交かわした。』
み「なるほど。
そういう用途か」
主「太宰が見舞った日は……。
連れてきた園子さんを、ここに寝かしたりしたようです」
み「隣のだだっ広い和室より、ずっと落ち着く感じだね」
主「後に、太宰はこの家に疎開してくるわけですが……。
この6畳間が、彼の仕事部屋でした。
疎開した期間は、1年と4ヶ月くらいなんですが……。
ここで太宰は、23もの作品を書きました」
み「うん。
ここは絶対、落ち着くわ」
主「でも、落ち着いてばかりもいられなかったようです」
み「なんで?」
主「昔の文学仲間や、地元の文学青年が……。
ひっきり無しに訪ねて来たからです。
東京で名を売った作家が、地元に戻ったわけですから」
み「正確な期間は、いつからいつまでなの?」
主「終戦直前の昭和20年7月末から、翌21年の11月までです」
↑桜桃忌(6月19日)に、洋間で行われた朗読会の様子。白川さん、半袖で張り切ってますね。太宰はあの世で、こそばゆがってるかも?
み「なるほど。
ほとんどが、戦後だね。
それなら、文学青年が集まっても……。
特高に睨まれることも無かったわけだ」
み「誰はばかることなく、文学論を戦わせられたってことね」
主「ま、そういう人たちも、当然のことながらいたでしょうが……。
質の悪い仲間も、少なくなかったみたいですね」
み「たちの悪いって、どんな?」
主「早い話、タカリです。
終戦直後の物資のない時期ですからね。
ここで書かれた『親友交歓』に、こんなシーンがあります」
『「酒は無いのか」と突然かれは言った。
私はさすがに、かれの顔を見直した。かれも、一瞬、工合いの悪そうな、まぶしそうな顔をしたが、しかし、つっぱった。
「お前のところには、いつでも二升や三升は、あると聞いているんだ。飲ませろ。かかは、いないのか。かかのお酌で一ぱい飲ませろ」
私は立ち上り、
「よし。じゃ、こっちへ来い」
つまらない思いであった。
私は彼を奥の書斎に案内した。
「散らかっているぜ」
「いや、かまわない。文学者の部屋というのは、みんなこんなものだ。俺も東京にいた頃、いろんな文学者と附き合いがあったからな」
しかし、私にはとてもそれは信じられなかった。』
律「それは、ヒドいわね」
み「典型的な、悪いタイプの文学青年だね。
文学をやる人間は、無頼な態度を取るもんだと思ってるわけだ」
↑買うのに勇気が要りますねー。
み「こういうヤツは、絶対に売れません。
ていうか、そもそも、小説自体、書いてないと思う」
律「なんで?」
み「書いたら、才能の無いことが、自分でわかっちゃうからね。
何も書かないうちは、『いつかは大作家』と思いこんでいられる」
律「そのまま年取ったら、大変よ」
み「ま、いつ目が覚めるかだよね。
長引くと、後が大変だと思う。
でも、今の若いやつでも、案外こういうの、多いんじゃない?」
律「ヒッキーみたいなの?」
み「そうそう。
今は、ネットがあるからさ……。
引きこもってても、社会と繋がってる気でいられるんだよ」
み「それが、怖いところでもある」
律「確かに」
み「部屋は、これだけ?」
主「いえ、さっきの洋間の向こうに……。
もう2部屋、和室があります。
あ、間取り図を持ってるんでした」
み「先に見せんかい」
主「すみません。
あっけに取られてて、出すのを忘れてました」
み「にゃに?」
主「独り言です。
そうそう。
洋間の前の廊下は、サンルームを兼ねてるんですよ」
主「床材が、ちょっと変わってます。
もう一度、ご覧になりますか?」
み「あないせい」
律「何で、そんなに偉そうなわけ?」
み「500円払ったからじゃ」
主「確かに頂戴いたしました。
Tシャツもいかがですか?」
み「断る」
主「……」
律「そんな断言したら、びっくりなさるじゃないの」
み「あのTシャツを見た方が、びっくりしたわい」
主「こちらです。
どうぞ。
今、ちょうど陽があたってます」
み「おー、これは暖かそうだ……。
って、それはありえんでしょ」
律「なんでよ。
こんなに、陽があたってるじゃない」
み「サンルームって、いつ使うわけ?」
律「それは、冬に決まってるでしょ。
この狭い廊下を閉めきっておけば……。
暖房が要らないくらい暖まったんじゃないかしら?」
み「だから……。
ここらは、冬に陽なんか差しませんって。
日本海側気候でしょ」
律「あ、そうか」
み「日が差すのは、10日に1日くらい。
日本海側でサンルームなんか作っても、意味ありまっせん」
↑雪の重みで屋根が抜けたサンルーム。外に張り出すタイプのサンルームでは、こういう危険もあります。
み「でも、この廊下はむしろ……。
奥の洋間にとって、夏場、役立ってたかも」
↑向かって右が洋間です。
律「なんで?」
み「この廊下があるおかげで……。
洋間に、直接陽が差さないでしょ」
↑廊下を外側から見たところ。
律「届きそうじゃない」
み「夏場は陽の位置が高いから、届きましぇん」
律「あらそう」
主「お客さんは、建築家の方ですか?」
み「そう見えるかの?」
主「見えません」
み「なんじゃそりゃ」
主「でも、気密性とか、陽あたりとか……。
建築物に詳しそうな感じですので」
み「詳しそう、とは何事じゃ。
実際、詳しいのじゃ。
ご主人は、前川國男という建築家を知っておられますかの?」
主「いえ。
寡聞にして」
み「けしからん!」
主「有名な方ですか?」
み「日本を代表する建築家の一人です。
東京の『江戸東京たてもの園』には……。
この前川自らが設計した自宅が、移築されて展示されております」
主「ひょっとして……。
あなたは、その建築家のお弟子さん?」
み「惜しい。
わたしが物心ついたころには……。
もう亡くなっておられた」
主「ということは……。
あなたは、お孫さん?」
み「惜しい」
主「えー。
ちょっとわかりません」
み「教えてほしい?」
主「ぜひ」
み「わたしは、前川國男と、出身地を同じゅうする者です」
主「は?」
み「だから、前川國男と同じ、新潟市の出身だと言っておる」
主「それって、完全に他人……」
み「黙らっしゃい」
み「遠くの親戚より近くの他人じゃ」
主「わかりました。
前川國男に憧れて、建築家になられたわけですね」
み「惜しい」
↑惜しい! 中国で、日本製を装って売られてるお菓子。これは、笑った。もっとあります(こちら)。
主「また違うんですか」
み「建築家になろうと思ったところまでは合ってる。
ただし、そのころは前川國男を知らなかったけど」
主「なんで知らないんです?
有名な方だったんでしょ?」
み「わたしはまだ中学生だったの。
建築史までは学んでおらなんだ」
主「でも、中学生で建築家を志すなんて、大したものですね」
み「そうであろう」
↑大工はぜったいに無理だと思いました。不器用なので。
主「でも、なろうと思ってたってことは……。
ならなかったわけですよね。
どうしてです?」
み「聞きたいか?」
主「あんまり」
み「なんじゃそりゃ。
聞きなさい」
主「はぁ。
どうぞ」
み「なんじゃ、その気のない返事は。
まぁ、いい。
わたしの建築家への夢を断ったのは……。
日本の受験制度なのじゃ」
主「どういうことです?」
み「建築家に成るためには……。
工学部に進まにゃならんわけ」
↑北大です。かっこいいですね。
主「でしょうね」
み「工学部は、理系です」
↑白衣は憧れでした。
主「ですね」
み「わたしは、理系科目が、皆目出来なかったのです」
↑上九一色村のオウム真理教施設に強制捜査が入ったときの新聞見出しが、「富士山麓にオウム泣く」だったそうです。警察の作戦名も、まさしくこれだったとか。
み「建築家になる夢は……。
あわれ、高校1年生で消えてしまったのだ」
主「早や」
み「しかし!
夢敗れたりと言えど……。
建築物を見るわたしの視線は、今も輝いておるのじゃ」
↑水おしろいで描いてます。わたしではありませんよ。
み「だろ?」
主「はぁ」
み「だから……。
こういう建物が、春夏秋冬、日々の暮らしで、どんな表情を見せてくれるのか……。
とても興味があるのです。
ということで……。
このサンルームが、夏場、奥の洋間に果たした役割を、今語り出そうというわけです」
律「長が」
み「やかまし。
つまりは、夏場の日除けですな」
主「は?」
み「このサンルームが無かったら、洋間に直接陽が当たることになるわけです。
いい?
昔は、クーラーなんて、なかったのよ。
気密性の高い洋間に陽が当たり続けたら……。
ステテコ一丁でも居られません」
↑“♪ドンブリバチャ ウイタウイタ ステテコシャンシャン”がこれのようです。
律「こんな洋間で、そんな下品な格好する人いないわ」
↑ステテコの似合う街、東京下町。もちろん、昭和の風景です。
み「それは、クーラーの無かった昔を知らない人の言い草です。
昔は、列車なんかでも、クーラーが無かったでしょ」
主「ですね。
津軽鉄道では、今も無い車両があります。
冷房が無いどころか……。
真夏に、ストーブ列車も走らせてます」
み「それは、ヤケクソすぎです」
ちょっと、言ってみてよ」
み「何を?」
律「“生まれてすみません”」
み「“生まれてすみません”」
律「あんたが言うと、心からうなずきたくなるわね」
み「じゃかし。
わたしが生まれてなかったら、あんたも生まれてないの。
それじゃ、結局何も買わないわけ?」
↑わたしとしては、『斜陽館起こし文』がお勧めかと(324円)。ネットからも買えます(こちら)。
律「あんた、Tシャツ、買いなさいよ」
み「くれてもいらんわ」
律「そこまで言うもんじゃないわ。
そしたらどうするの?
このまま出る?」
み「さっき、裏から見た建物には、スゴく興味がある」
み「小じんまりした、古い住宅って、大好きなんだ。
東京の大田区に『昭和のくらし博物館』ってのがあるんだけど、知ってる?」
律「知らない」
み「いわゆる、戦後に建った文化住宅ね」
↑建築当時
建てられたのは、昭和26年。
前年に始まった住宅金融公庫の融資を受けて建てられた、いわゆる『公庫住宅』です。
住宅金融公庫の制度は今も続いてますが……(現在は、住宅金融支援機構となってるようです)。
昭和20年台に建てられた住宅は、今、ほとんど残ってないとか。
『昭和のくらし博物館』は、2002年、国の登録有形文化財に指定されてます。
この住宅が博物館として公開されたのは、1999年ですが……。
わたしはしばらくその存在を知りませんでした。
『昭和のくらし博物館(河出書房新社)』という本を書店で見つけ、初めて知ることになったわけです。
新潟に帰ってからでした。
わざわざ、東京まで行きましたね。
この博物館を見るためだけに。
なんていうか、おとぎの家みたいに感じました。
ちゃぶ台のまわりに家族が集ってたころの、小さな家です。
↑『昭和のくらし博物館』で、『ちゃぶ台の昭和』という企画展が行われたときの展示。
1,2階合わせても、床面積は18坪(59.4平米)しかありません。
しかも、借入金返済のため、2階の2間には下宿人を置いてたそうです。
↑下宿人が住んだ2階の部屋。スゴく居心地良さそうです。冬でも、陽が射すと暖かかったのでは?
もちろん、朝夕の賄い付き。
1階に、この家の家族、両親と4姉妹が暮らしました。
なんだか、この設定だけでテレビドラマが出来そうですよね。
ほんとに、実際行ってみていただきたいのですが……。
ここで暮らしたいと、心から思える住宅でした。
↑夕涼みしながらの一杯。美味しいでしょうね。
実はわたし、中学生のころは、将来、建築家になりたいと思ってたんです。
お小遣いから、『ニューハウス』などという雑誌を買い、間取りの研究などもしてました。
↑昭和7年創刊。残念ながら、平成19年、休刊となりました。
この夢は、高校生のとき、儚くも消えてしまいました。
理系科目が、まったく出来なくなったからです。
中学までは、なんとかなったんですけどね。
もし夢がかなってたら、今ごろは、テレビのリフォーム番組かなんかに出てたかも。
今でも、新聞に建売住宅の広告などがあると……。
間取り図に見入ってしまいます。
ついでなので、もし戦後住宅に興味がある方に、お勧めの博物館をお伝えしようと思ったんですが……。
どうも、このシリーズ、昔書いたなと思い当たりました。
探してみたら、やっぱりありました。
これから紹介しようとしてた『松戸市立博物館』の団地も、すでに取り上げ済みでした。
これら、昭和な住宅に興味をお持ちになられた方は……。
『東北に行こう!(32)』、ぜひお読み下さい。
それでは、お話を続けます。
み「東京の小金井には……。
『江戸東京博物館』の分園、『江戸東京たてもの園』ってのがある」
↑正面に見える建物は、お寺ではなく、銭湯です。
み「ここも面白いよ。
ただ、ちょっと大邸宅が多いけどね。
その中で、イチオシは『前川國男邸』」
み「建築家の前川國男が、自宅として建てた家。
洋風住宅なんだけどね。
小ぢんまりして、一人暮らしなら、ほんと住みやすそう」
↓動画でご覧いただけます。
前川國男は、新潟市に生まれた建築家(1905~1986)。
でも、すぐに移住されたようで、小学校から東京です。
府立一中(現・日比谷高校)→ 一高 → 東京帝大。
エリート中のエリートですね。
この自邸は、昭和17(1942)年の作品(37歳)。
晩年には、新潟市美術館も設計されてます。
↑1985年、亡くなる1年前の作品。
み「東京に住んでるんだったら……。
一度、見てごらんなさい」
律「そうね。
何かのついでがあったら行ってみるわ」
み「やっぱり、ここも入ってみる。
俄然、興味が出てきた」
律「よし。
それなら、ここは折半にしましょう」
み「最初から、そう言って!」
律「それじゃ、入りましょう」
み「たのもー」
律「道場破りじゃ無いんだから」
↑剣客商売スペシャル『道場破り(平成22年)』より。中央は、道場破りの浪人を演じた中村梅雀。
主「お決まりですか?」
み「しじみラーメン、2つ」
主「は?」
み「じゃなくて……。
大人2枚」
主「1,000円になります」
み「まかりまへんな?」
主「精一杯、ご案内させていただきます!」
↑やや意味が違います。
主「えーっと、まず上がったこの座敷が……。
太宰のお母様が息を引き取った部屋になります」
み「『斜陽館』じゃなくて?」
主「この家は当時、『斜陽館』の離れで、廊下で繋がってたんです」
み「ずいぶん離れた離れだな。
どんだけ長い廊下なんだ?」
↑小野川温泉(山形県米沢市)『亀屋万年閣』さん
主「いえ。
当時、この家は、ここには無かったんです。
戦後、太宰のお兄さんが『斜陽館』が売却するときに……。
離れだけをこちらに曳家し、そこに住まわれたわけです」
“曳家(ひきや)”と、は建築物をそのままの状態で移動する工法です。
当然のことながら、途中に障害物があれば出来ません。
『斜陽館』と、今の『疎開の家』は、100メートルほど離れてますが……。
当時は、津島家の敷地内での移動だったのです。
み「ほう。
それなら、廊下の謎も解け申した。
しかし……。
この部屋で、死の床にあってさ。
天井を見つめてる気分って、どんなんだろ。
テレビも無いんだよ」
律「そうよね」
み「なんか、斎藤茂吉の『死にたまふ母』を連想するね」
●死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
律「太宰も添い寝したのかしら?」
主「お母さんは、この部屋でベッドに寝てたようです」
み「ありゃ。
そりゃ、モダンだわね」
主「太宰の小説『故郷(青空文庫)』に、こんな一説があります。
読ませていただきます」
『母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。けれども意識は、ハッキリしていた。
「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。私が園子を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。枕頭にいた五所川原の叔母は、微笑ほほえみながら涙を拭いていた。』
↑『太宰治生誕祭』で挨拶する太宰の長女、津島園子さん。
律「やっぱり、切ないわね。
お別れの場面は。
わたしは、これが辛いから……。
新しい命を取り上げる産婦人科を選んだのよ」
主「あ、お医者さまでしたか」
み「藪ですが」
↑藪医者の語源については、諸説あるようです(参照)。
律「うるさい」
主「さきほどの一節は、こう続きます」
『突然、親戚のおばあさんが私の手をとって母の手と握り合わさせた。私は片手ばかりでなく、両方の手で母の冷い手を包んであたためてやった。親戚のおばあさんは、母の掛蒲団に顔を押しつけて泣いた。叔母も、タカさん(次兄の嫂の名)も泣き出した。私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。廊下を歩いて洋室へ行った。』
主「太宰は、隣の洋室に逃げ込んで、嗚咽をこらえたのでしょう。
その部屋が、こちらです。
どうぞ」
律「さっきの和室と、雰囲気がぜんぜん違うわね」
み「モダンな感じだよね。
ベッドを置くなら、この部屋にすれば良かったのに。
なんでじゃ?」
律「応接セットとかがあって、置けなかったからじゃない?」
主「さっきの一節は、さらにこう続きます」
『洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。』
み「ほれ、がらんとしてたぞ」
律「応接セットがあっても、がらんとした感じだったんじゃないの」
み「いずれにしろ、邪魔なものは母屋の『斜陽館』に運べばいいわけだ。
あんだけ広い家なんだから。
ここにベッドを置けない理由はないぞ」
律「寒かったからじゃないの?
さっきの一節にあったじゃない」
み「それは単に、この部屋の暖房を点けてなかったからでしょ。
セントラル・ヒーティングじゃないんだから。
ほら、あんなマントルピースじゃ、点けたってすぐ暖まらないよ」
主「あ、このマントルピースはフェイクで……。
中は棚になってるんです。
ワインを入れてたようです」
み「にゃに。
てことは、暖房はどうするわけ?
煙突が抜ける穴が無いじゃん。
当時は石油ストーブなんか無いだろうから……。
結局、火鉢?」
み「でも、たとえ火鉢だって……。
あんなだだっ広い和室より、この洋間の方が、ずっと効きがいいはず。
なぜなのじゃ?」
律「なんでそうこだわるわけ?」
み「こだわってるわけじゃないけどね。
和室を使うんなら、普通に布団でいいわけでしょ」
律「ベッドの方が、ずっと便利よ。
おトイレに連れて行ったりするの、お布団からじゃ大変」
み「だから……。
それなら、洋室にベッドを置けばいいじゃん」
律「そんなの、好き好きじゃないの」
み「あなた、どう思います?」
主「わかりません」
み「きっぱり答えましたね」
主「和室でベッドを使った理由までは書かれてませんから。
でも、わたしなりに推測はできます」
み「語ってみしゃんせ」
主「母屋で暮らしてたころ……。
お母さんはおそらく、和室のお布団を使ってたんでしょう」
↑母屋『斜陽館』の和室。落ち着かなそうな部屋です。
み「ま、その時代の人なら、当然だわな」
主「病に伏すようになって、こちらの新座敷に移られたときも……。
最初は、さっきの和室でお布団を敷いてたんだと思います。
でも、病が重くなって、一人での起き伏しがままならなくなった。
人の介助が必要になった場合……。
やはり、床から起こすのは大変です。
で、ベッドを入れた」
み「介助って、誰がやってたの?」
主「ちょっと待って下さい。
『故郷』の中に記述を探してみます。
えーっと。
あ、なんだそうか」
み「何よ?」
『病室には叔母の他に、看護婦がふたり、それから私の一ばん上の姉、次兄の嫂、親戚のおばあさんなど大勢いた。』
み「やっぱりスゴい家だったんだね。
専属の看護婦が、2人も付いてたんだ」
↑美人ですね。弘前公園にあるようです。
み「給料払って丸抱え?」
律「じゃないの?」
み「看護婦さんの給料って、高いよね?」
律「まぁ、女医を除けば……。
女性の付く職業の中では、かなりの高報酬でしょうね」
み「大地主のやることは、違うわ。
でも……。
なぜ、あの和室にベッドを入れたわけ?」
主「雰囲気が変わってしまわないよう、周りが気を使ったんじゃないでしょうか?」
律「洋室が使えなかった理由があるんじゃないの?」
み「あ、そうか。
ここに間借り人を置いてたんだ」
律「何で、そんな人を置くのよ?」
み「部屋賃が入るでしょ」
律「専属の看護婦を2人も雇う家が……。
間借り人なんて置くわけないわ」
み「地主のやることは、わからんからな。
妙なところでケチだったりする。
ご主人!」
主「はい」
み「探して」
主「は?」
み「その『故郷』の中に、書いてあるんじゃないの?
洋室が、どういう使われ方をしてたか。
案内料、2人で1,000円も払ったんだから」
主「はい。
ただいま」
み「案内料って、何人で来ても、1人500円取るわけ?」
主「そういう仕組みです」
み「仕組みって、あなたが設定したんでしょうが。
それって、おかしくない?
だって、お客が何人でも……。
相手をするのは、あなた1人なわけでしょ?」
↑お客が10人で、5,000円の大儲け。と思いましたが……。これは、ツアーのコースになったときの様子なので、1人500円は取ってないと思われます(好意的推測)。
主「そうなります」
み「そしたら、お客が1人のときも、3人のときも……。
あなたが説明できる量は変わらないわけじゃない」
主「はぁ」
み「だったら、1組あたり、500円にすべきじゃないの。
今まで、文句出なかった?」
主「はい」
「旅先では、誰もケチらないのよ」
↑うなってます。
み「いい商売してるではないか。
でも、わたしらはそうはいかんぞ。
1,000円分、きっちり案内していただきます。
ほれ、検索!
この洋室が、どうやって使われてたか」
主「はい!
えーっと。
あ、ありました」
『日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。』
み「ほれ、見給え。
何にも使われてなかったんだ。
なら、どうしてこの洋室に、ベッドを入れなかったわけ?」
律「あ、わかった」
み「何よ?」
律「この部屋、周りを見てご覧なさい。
壁も天井も、真っ白でしょ?」
み「だから?」
律「この部屋で、ベッドに寝てたら……。
病院みたいだからよ」
律「真上を見れば、真っ白い天井なんだから」
主「なるほど。
それは、あるかも知れませんね」
律「そうよ。
看護婦を2人も雇うくらいなら……。
特別室に入院した方が、ずっと安あがりじゃない」
↑『JA高知病院』の特別室。1日 8,400円。正看護師の時給は、平成23年度時点で2,340円だそうです。8,400円では、看護師2人を1時間48分しか雇えません。
律「それをしないで、自宅で寝てたってことは……。
よっぽど病院が嫌いだったのよ。
だから、病院を連想させる洋室じゃなくて……。
さっきの和室にベッドを入れたわけ」
主「なるほど!
深いですな」
み「あ!
わたしもわかった!」
律「また出た。
負けず嫌い」
み「洋室は、機密性が高すぎるからだ」
律「なんでそれがダメなの?」
み「暖房だよ。
火鉢にしろ何にしろ……」
み「火を使う暖房だと、機密性の高い部屋は、かえって危険」
↑一酸化炭素と結びついたヘモグロビン(血液に含まれるタンパク質)を、COHb(一酸化炭素ヘモグロビン)と云うそうです。一酸化炭素は、酸素の250倍もヘモグロビンと結びつきやすいそうです。
み「だから、和室にしたんだよ。
和室なら、そこら中に隙間があるから……」
み「自然換気が出来るからね。
ひょっとしたら……。
この洋間は、冬には使われなかったのかも」
↑洋間を案内する白川さん。
主「ほー。
なぜ、和室にベッドを入れてたのか……。
そのことに、これほどこだわった方は初めてです。
わたしも、もう一度、一連の作品を読み返してみましょう。
ひょっとしたら、見逃してた記述が見つかるかも知れません」
み「勉強になったろ。
その分、まけなさい」
主「いえ、その分、いっそう熱心にご案内させていただきます」
↑熱心に説明する白川さん。左の人物は、“生ゆるキャラ”こと『おもち君』(なんと、五所川原市観光課の職員です)。
↓動画でどうぞ。
み「まず、そのケチを直しなさい」
律「人のこと、言えないでしょ」
主「それでは続いて、さっきの和室の奥の6畳間にどうぞ」
↓この建物の間取り図がありました。
この図も、白川さんが描かれたようです。
離れだったので、お風呂もトイレもありません。
でも、曳家で持ってきたら、造らにゃなりませんよね。
位置的には、奥に付けた玄関の隣がいいと思うのですが。
いや、やっぱり洋間の右かな。
ふむ。
玄関の左にトイレ。
洋間の右にお風呂。
これがベストか。
おや。
ちょっと待て。
この家って、台所がねーじゃん。
どーなってんじゃ?
↓白川さんは、こんな位置図も描いてらっしゃいます。
お上手ですよね。
み「この部屋は、『故郷』に記述があるの?」
主「見舞客の控室みたいな使われ方をしてたようです。
えーっと。
最初の方だな。
ありました」
『私たちは隣りの六畳の控えの間に行って、みんなと挨拶を交かわした。』
み「なるほど。
そういう用途か」
主「太宰が見舞った日は……。
連れてきた園子さんを、ここに寝かしたりしたようです」
み「隣のだだっ広い和室より、ずっと落ち着く感じだね」
主「後に、太宰はこの家に疎開してくるわけですが……。
この6畳間が、彼の仕事部屋でした。
疎開した期間は、1年と4ヶ月くらいなんですが……。
ここで太宰は、23もの作品を書きました」
み「うん。
ここは絶対、落ち着くわ」
主「でも、落ち着いてばかりもいられなかったようです」
み「なんで?」
主「昔の文学仲間や、地元の文学青年が……。
ひっきり無しに訪ねて来たからです。
東京で名を売った作家が、地元に戻ったわけですから」
み「正確な期間は、いつからいつまでなの?」
主「終戦直前の昭和20年7月末から、翌21年の11月までです」
↑桜桃忌(6月19日)に、洋間で行われた朗読会の様子。白川さん、半袖で張り切ってますね。太宰はあの世で、こそばゆがってるかも?
み「なるほど。
ほとんどが、戦後だね。
それなら、文学青年が集まっても……。
特高に睨まれることも無かったわけだ」
み「誰はばかることなく、文学論を戦わせられたってことね」
主「ま、そういう人たちも、当然のことながらいたでしょうが……。
質の悪い仲間も、少なくなかったみたいですね」
み「たちの悪いって、どんな?」
主「早い話、タカリです。
終戦直後の物資のない時期ですからね。
ここで書かれた『親友交歓』に、こんなシーンがあります」
『「酒は無いのか」と突然かれは言った。
私はさすがに、かれの顔を見直した。かれも、一瞬、工合いの悪そうな、まぶしそうな顔をしたが、しかし、つっぱった。
「お前のところには、いつでも二升や三升は、あると聞いているんだ。飲ませろ。かかは、いないのか。かかのお酌で一ぱい飲ませろ」
私は立ち上り、
「よし。じゃ、こっちへ来い」
つまらない思いであった。
私は彼を奥の書斎に案内した。
「散らかっているぜ」
「いや、かまわない。文学者の部屋というのは、みんなこんなものだ。俺も東京にいた頃、いろんな文学者と附き合いがあったからな」
しかし、私にはとてもそれは信じられなかった。』
律「それは、ヒドいわね」
み「典型的な、悪いタイプの文学青年だね。
文学をやる人間は、無頼な態度を取るもんだと思ってるわけだ」
↑買うのに勇気が要りますねー。
み「こういうヤツは、絶対に売れません。
ていうか、そもそも、小説自体、書いてないと思う」
律「なんで?」
み「書いたら、才能の無いことが、自分でわかっちゃうからね。
何も書かないうちは、『いつかは大作家』と思いこんでいられる」
律「そのまま年取ったら、大変よ」
み「ま、いつ目が覚めるかだよね。
長引くと、後が大変だと思う。
でも、今の若いやつでも、案外こういうの、多いんじゃない?」
律「ヒッキーみたいなの?」
み「そうそう。
今は、ネットがあるからさ……。
引きこもってても、社会と繋がってる気でいられるんだよ」
み「それが、怖いところでもある」
律「確かに」
み「部屋は、これだけ?」
主「いえ、さっきの洋間の向こうに……。
もう2部屋、和室があります。
あ、間取り図を持ってるんでした」
み「先に見せんかい」
主「すみません。
あっけに取られてて、出すのを忘れてました」
み「にゃに?」
主「独り言です。
そうそう。
洋間の前の廊下は、サンルームを兼ねてるんですよ」
主「床材が、ちょっと変わってます。
もう一度、ご覧になりますか?」
み「あないせい」
律「何で、そんなに偉そうなわけ?」
み「500円払ったからじゃ」
主「確かに頂戴いたしました。
Tシャツもいかがですか?」
み「断る」
主「……」
律「そんな断言したら、びっくりなさるじゃないの」
み「あのTシャツを見た方が、びっくりしたわい」
主「こちらです。
どうぞ。
今、ちょうど陽があたってます」
み「おー、これは暖かそうだ……。
って、それはありえんでしょ」
律「なんでよ。
こんなに、陽があたってるじゃない」
み「サンルームって、いつ使うわけ?」
律「それは、冬に決まってるでしょ。
この狭い廊下を閉めきっておけば……。
暖房が要らないくらい暖まったんじゃないかしら?」
み「だから……。
ここらは、冬に陽なんか差しませんって。
日本海側気候でしょ」
律「あ、そうか」
み「日が差すのは、10日に1日くらい。
日本海側でサンルームなんか作っても、意味ありまっせん」
↑雪の重みで屋根が抜けたサンルーム。外に張り出すタイプのサンルームでは、こういう危険もあります。
み「でも、この廊下はむしろ……。
奥の洋間にとって、夏場、役立ってたかも」
↑向かって右が洋間です。
律「なんで?」
み「この廊下があるおかげで……。
洋間に、直接陽が差さないでしょ」
↑廊下を外側から見たところ。
律「届きそうじゃない」
み「夏場は陽の位置が高いから、届きましぇん」
律「あらそう」
主「お客さんは、建築家の方ですか?」
み「そう見えるかの?」
主「見えません」
み「なんじゃそりゃ」
主「でも、気密性とか、陽あたりとか……。
建築物に詳しそうな感じですので」
み「詳しそう、とは何事じゃ。
実際、詳しいのじゃ。
ご主人は、前川國男という建築家を知っておられますかの?」
主「いえ。
寡聞にして」
み「けしからん!」
主「有名な方ですか?」
み「日本を代表する建築家の一人です。
東京の『江戸東京たてもの園』には……。
この前川自らが設計した自宅が、移築されて展示されております」
主「ひょっとして……。
あなたは、その建築家のお弟子さん?」
み「惜しい。
わたしが物心ついたころには……。
もう亡くなっておられた」
主「ということは……。
あなたは、お孫さん?」
み「惜しい」
主「えー。
ちょっとわかりません」
み「教えてほしい?」
主「ぜひ」
み「わたしは、前川國男と、出身地を同じゅうする者です」
主「は?」
み「だから、前川國男と同じ、新潟市の出身だと言っておる」
主「それって、完全に他人……」
み「黙らっしゃい」
み「遠くの親戚より近くの他人じゃ」
主「わかりました。
前川國男に憧れて、建築家になられたわけですね」
み「惜しい」
↑惜しい! 中国で、日本製を装って売られてるお菓子。これは、笑った。もっとあります(こちら)。
主「また違うんですか」
み「建築家になろうと思ったところまでは合ってる。
ただし、そのころは前川國男を知らなかったけど」
主「なんで知らないんです?
有名な方だったんでしょ?」
み「わたしはまだ中学生だったの。
建築史までは学んでおらなんだ」
主「でも、中学生で建築家を志すなんて、大したものですね」
み「そうであろう」
↑大工はぜったいに無理だと思いました。不器用なので。
主「でも、なろうと思ってたってことは……。
ならなかったわけですよね。
どうしてです?」
み「聞きたいか?」
主「あんまり」
み「なんじゃそりゃ。
聞きなさい」
主「はぁ。
どうぞ」
み「なんじゃ、その気のない返事は。
まぁ、いい。
わたしの建築家への夢を断ったのは……。
日本の受験制度なのじゃ」
主「どういうことです?」
み「建築家に成るためには……。
工学部に進まにゃならんわけ」
↑北大です。かっこいいですね。
主「でしょうね」
み「工学部は、理系です」
↑白衣は憧れでした。
主「ですね」
み「わたしは、理系科目が、皆目出来なかったのです」
↑上九一色村のオウム真理教施設に強制捜査が入ったときの新聞見出しが、「富士山麓にオウム泣く」だったそうです。警察の作戦名も、まさしくこれだったとか。
み「建築家になる夢は……。
あわれ、高校1年生で消えてしまったのだ」
主「早や」
み「しかし!
夢敗れたりと言えど……。
建築物を見るわたしの視線は、今も輝いておるのじゃ」
↑水おしろいで描いてます。わたしではありませんよ。
み「だろ?」
主「はぁ」
み「だから……。
こういう建物が、春夏秋冬、日々の暮らしで、どんな表情を見せてくれるのか……。
とても興味があるのです。
ということで……。
このサンルームが、夏場、奥の洋間に果たした役割を、今語り出そうというわけです」
律「長が」
み「やかまし。
つまりは、夏場の日除けですな」
主「は?」
み「このサンルームが無かったら、洋間に直接陽が当たることになるわけです。
いい?
昔は、クーラーなんて、なかったのよ。
気密性の高い洋間に陽が当たり続けたら……。
ステテコ一丁でも居られません」
↑“♪ドンブリバチャ ウイタウイタ ステテコシャンシャン”がこれのようです。
律「こんな洋間で、そんな下品な格好する人いないわ」
↑ステテコの似合う街、東京下町。もちろん、昭和の風景です。
み「それは、クーラーの無かった昔を知らない人の言い草です。
昔は、列車なんかでも、クーラーが無かったでしょ」
主「ですね。
津軽鉄道では、今も無い車両があります。
冷房が無いどころか……。
真夏に、ストーブ列車も走らせてます」
み「それは、ヤケクソすぎです」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2014/08/02 13:06
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またまた、前回(88)のご紹介を忘れたようです。と、思います。
もう、健忘症かなあ。
まあ、よかろう。今回は力いっぱいご紹介しましょう。
●「生まれてすみません」これほど謙虚で、卑屈なセリフがあるだろうかね。さすが、太宰。
●「斜陽館起こし文」。「文」がも一つぴんと来んなあ。
●「くれてもいらんわ」太宰Tシャツ。
●二度目の登場「昭和のくらし博物館」。まさに「木と紙の家」だね。
●円い卓袱台。どうしても星一徹を思わせるんだよね。
●>1,2階合わせても、床面積は18坪(59.4平米)。今のわたしの住まいよりは広いな。
●両親と4姉妹。賄い付きの同居人。まさにTVドラマの設定だな。
●理系が駄目な建築家志望、まさに飛べない鳥だな。♪空を飛ぼうなんて悲しい話を……。
●江戸東京博物館分園、江戸東京たてもの園所属、前川國男邸。長っ。
●前川國男邸は洋風住宅。どう見ても和風だが。
●道場破り。命がけだよ、敗けたら間違いなく殺されたからね。木刀での撲殺だよ。
●近頃は、大阪でも値切るおばちゃんは少くのなりました。おそらくスーパーの発達が原因かと。
●「長い廊下」。しみじみするといいますか、ドキドキするといいますか……。
●曳家移動。すごいことやるね。
●あれ? 画像が少し変わっとるなあ。やっと気づいたよ。変えてるんや、画像。
●津島園子さんの挨拶。聞きました。
●奥が深い「藪医者」。
●寒くてたまらん、太宰家の洋室。
●>病が重くなって、一人での起き伏しがままならなくなった……。
わたしは子供の頃病気になったとき、布団ごと引っぱられて部屋を移されたことがあります。あれは気持ちよかった。
●美人看護婦さん。ていうか、看護婦さんてみんな美人に見えるよね。Mちゃん、元気かな。
●小池さんは間借り人というわけではないと思うが。
●>み「そしたら、お客が1人のときも、3人のときも……。あなたが説明できる量は変わらないわけじゃない」。
ま、そない言いはったら「み」さん。教師なんてみんなそうでんがな。生徒が1人でも100人でも労力は同じ、時給も同じ。
●正看護師の時給は2,340円。予備校講師よりは安いな。
●あ、この画像か、津島邸和室。
●主「いえ、その分、いっそう熱心にご案内させていただきます」。根性のあるご主人だのう。
●トイレ! 風呂! 台所!! 勝手に人んちの間取りを決めてんじゃねえよ。
●園子さん、落ちつかんかったろうね。大変だなあ、嫁は。
●1年4か月で23作品。ま、字数で評価すべきじゃないかね。
●桜桃忌。桜桃は、太宰の短編の表題に由来します。
●散らかっている文学者の部屋。理系野郎の部屋も散らかっています。
●サントリーウィスキー「無頼派」。サントリーさんは売りたがっているようです(あやめ)。
●「才能のないやつは書かない」。至言ですな「み」さん。
●あっけにとられると出すのを忘れる間取り図。自業自得だな「み」さん。
●「Tシャツもいかがですか」「断る……」。ゴルゴに物を売り込むのは至難の業だよ。
●冬には日が射さない日本海側気候。大変だのう。わたしは6年住んだがさほど気にならんかった。
●届きましぇん、夏場の日差し。
●建築家には見えません「み」さん。ま、頑張れ。
●親子より美味いぞ、他人丼。
●遠くの親戚より近くの他人。ということは「隣の敵」だな。
●で、日本の菓子よりも中国の菓子、と。
●助しゃんも聞きなしゃい! 格しゃんも聞きなしゃい!!
●どうしても建築家になりたければ、万難を排して理系科目に挑戦すべきだったと思うが。
●「富士山麓にオウム鳴く」。受験では「に」を挟んではいけません。√5=2.2360679……ですからね。
●ステテコ一丁でもいられない夏場の洋間。戸を開ければ済むことだと思うが。
はい、ということでございまして、「み」「律」お気楽コンビの津軽の旅は続きます。新たな同行者は現れないのかなあ。
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––––––
2. Mikiko- 2014/08/02 13:55
-
前回も、ちゃんとご紹介いただいております。
健忘症は、かなり進んでるようですね。
小池さんが間借り人である件も、解決済みですぞ。
画像は、変えておりません。
どこが変わってるんだ?
↓前川國男邸は、洋風建築です。
http://blog-imgs-69.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/201407131007451bc.jpg
理系科目が出来なくなると同時に、文学に目覚めてしまったので……。
建築家になる夢は、いとも簡単に消え去りました。
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––––––
3. ハーレクイン- 2014/08/02 17:11
-
和風にしか見えんが。
わたしは理系の勉学が進むとともに、文学に目覚めていきました。
で、どっちも中途半端、と(わはは)。