2012.3.3(土)
み「以上、『遠野物語』より、『寒戸の婆』の一節でした。
どーんとはらい」
律「パチパチパチ。
すごーい。
『おはなしでてこい』みたい」
み「かなり違うと思うが」
律「最後の“どーんとはらい”って、昔話の最後に言う言葉なのよね」
み「結句って云われてる。
地域によって、いろいろな言い方があるみたいだね」
律「一番ポピュラーなのは……。
やっぱり、“めでたしめでたし”?」
み「めでたく終わらないお話もあるからね。
特に東北では。
“どーんとはらい”は、その東北地方」
律「どういう意味なの?」
み「“はらい”は、すす払いとかの“払い”じゃないかな」
み「昔話の世界から、現実世界に戻るおまじないみたいなもんだよ」
律「“お祓い”の意味もあるんじゃないの?」
み「あ、そうかもね」
老「そうとう脚色してあるが……。
まぁ、大筋は間違っとらんようじゃな」
み「脚色なんかしてないぞ。
覚えてたままだよ」
老「どうやら……。
物語が、お前さまの頭の中で勝手に増殖したようじゃの。
確かに、人の想像力を掻き立てて止まない話ではある」
み「このお話の主役って、何だと思う?」
律「それは……。
“寒戸の婆”でしょ」
↑水木しげるロードの『寒戸の婆』
み「ノンノンノンノン」
律「何でフランス語で否定するのよ!
人差し指まで立てて」
み「フランス語と東北弁は似てるって説がある」
律「誰の説?」
み「タモリ」
↑ブラタモリ
律「バカバカしい。
で、お話の主役は誰なのよ?」
み「風だよ、風」
み「もし、このお話に風が吹いてなかったら……。
こんなにも、人の心には食いこんでこなかったはず」
律「なるほど。
それは、否定できないかもね」
み「『ゲンセンカン主人』って漫画知らない?」
律「玄関の主人?」
み「ゲンセンカン!
つげ義春の漫画だよ」
み「『寒戸の婆』の話を読むと……。
『ゲンセンカン主人』を連想する」
律「何で?」
み「風。
『ゲンセンカン主人』の漫画の中を、風が吹いてるんだ」
み「スゴく印象的」
律「そう言えば……。
『風の又三郎』とか……」
み「東北って、風が似合うのかも」
律「だよね。
先生も読んでみなよ。
『遠野物語』」
み「日本人の土俗性が、ヒシヒシと伝わってくるよ。
道徳教育の道具になってない、教訓なんかとは無縁な“お伽話”のパワーだね」
ちょっと、寄り道が過ぎましたね。
でも、『寒戸の婆』のお話は……。
わたしの心に、鉤爪のように食いこんでます。
自分では、それほど脚色して語ったつもりは無いのですが……。
改めて原典を当たってみたところ……。
↑わたしの持ってる『遠野物語(角川文庫)』
思ってたより、遥かに短いお話でした。
マスミンが言ったように、わたしの中で勝手に増殖してたようです。
原文は、以下のとおりです。
…………………………………………………………………………
黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ。
…………………………………………………………………………
老「それでは、続きを語ってよいかの?」
み「何の話、してたんだっけ?」
店「お待たせしました」
律「Mikiちゃん、答えが来たわよ」
↑これは、西馬音内『弥助そば』の“ひやがけ”(大盛り)。
↓秋田川反漁屋酒場の写真は、この程度のものしかありませんでした。
み「おー、そうそう。
お蕎麦の話だったね。
こりゃ美味しそうだわ。
湯気がモワッと上がらないとこが、いいよ。
中締めって感じだね。
それでは、さっそくいただきましょう」
老「まだ、由来を語り終えておらぬぞ」
み「お蕎麦が来るまでって約束でしょ」
老「お前さまが、長々と『寒戸の婆』を語ったからではないか」
み「そんなら、語りんさい。
でも、食べながら聞くからね。
先生、いただきましょう」
律「そうね。
申し訳ないけど……。
このお蕎麦を前にしたら、我慢できそうにないわ」
み「じゃ……。
いっただきまーす」
律「いただきまーす」
ズズ、ズズズー。
み「う、うめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
律「ヤギか、あんたは。
でも、ほんとに美味しいわ」
老「江戸時代からの味を、かたくなに守っておるそうじゃ。
化学調味料など、まったく入っておらん」
み「素朴な味って云うんだろうけど……。
結局、それが一番ってことなのかもね」
ズズ、ズズズー。
律「ちょっと、もう少し、おしとやかに食べれない?」
み「お蕎麦は、大音響を立てるほど美味しいの」
律「それは、わからないでもないけどね。
お汁、飛ばさないでちょうだい」
み「お汁、入った?」
律「3滴くらい入った」
み「じゃ、返して」
律「このアマ……」
老「そろそろ、語ってもよいかな」
み「許可する」
↑便利な画像じゃ
み「食べ終える前に語り終えよ」
老「お前さまは、食べるスピードが早すぎじゃ。
わんこそばじゃないんじゃから……」
老「もっとゆっくりと食べなさい」
み「お蕎麦を前にするとさ……。
なぜか、のんびり食べる気にならないんだよ」
律「なんでよ?」
み「江戸っ子が憑依するのかね」
律「落語の影響じゃないの?」
み「『時そば』とか?」
律「落語でお蕎麦を食べる場面って、特徴的よね」
み「扇子を箸に見立てた所作でしょ」
律「スゴい音立てて、あっという間に食べちゃうじゃない」
み「だから、大音響を立てながら、あっという間に食べるのが美味しいんだって」
律「消化に悪いわよ」
み「蕎麦なんて、粉を練ってあるだけなんだから……」
み「噛まないで飲みこんだって、胃で溶けるから大丈夫」
律「そうかしら?
こないだの飲み会で、吐いた子がいたけど……。
お蕎麦が、そのままの形で出てきたわよ」
み「汚い!」
律「あら、失礼」
み「とにかく、お蕎麦なんてものはね……。
眉根を吊り上げて……。
親の敵みたいに食べるのが筋なのよ」
律「見習いたくない筋ね」
老「妙な筋もあったもんじゃが……。
酒のツマミに取ったんじゃろ。
徳利が冷めてしまうぞ」
み「あ、そうだった。
先生、注いで」
律「目の前にあるでしょ」
み「手が離せないの」
律「お箸を置けばいいだけじゃないの」
み「ちぇ。
せっかくの勢いが」
律「何の勢いよ」
み「それじゃ……。
わびしく、手酌酒といきますか」
み「どぶろくも手酌だったけど……。
やっぱり、徳利ってのは風情が出すぎだね。
一気に侘しい気分になる」
老「それが良いのではないか。
蕎麦屋では、騒がしい酒は似合わぬ。
ひとり、手酌をしながら……。
蕎麦を啜るのが筋じゃ」
み「今度は、そっちが筋かい。
でも、ま、徳利がひとつしかないんだから……。
取り合いしても見苦しいでしょ。
ここは、わたしがお注ぎしましょう。
ほれ、マスミン、お猪口持って」
老「ほぅ。
酌が出来るのか」
み「あのね。
酌くらい、子供でも出来るっての」
老「それでは、遠慮無く」
み「家訓ね」
老「家訓じゃ」
み「ウソこけ。
はい、どうぞ」
老「……」
律「Mikiちゃん。
それは止めなさいって言ったでしょ」
み「秘技、2ミリ酒。
お味わい下さい」
老「これでは、きき酒も出来んぞ」
み「きき酒って、やり方があるの?」
老「まずは……。
静かな環境が必要じゃな。
特に、騒々しいオナゴが脇におらぬこと」
み「誰のことを言っておるのだ」
老「酒は、きき猪口に七分目まで注ぐ。
ほれ、注ぎんしゃい」
み「ほんまかよ。
まぁ、いい。
作法を見せていただきましょう。
ほれ、七分目」
老「それでは……。
……」
み「何してんの、早く飲みんしゃい」
老「いきなり飲んでどうする。
まずは、色を見るんじゃ。
利き猪口には、底に蛇の目が描かれておるじゃろ」
老「その藍色の部分で、酒の透明度を見……。
白い部分で、酒の色を見る」
み「見た?」
老「うむ」
み「次は?」
老「せわしないのぅ。
次は、香りじゃ。
きき猪口を、軽く揺り動かす」
み「目が回るじゃないの」
老「そんなのはお前さまだけじゃ。
このとき立ち上がる香りを、『上立ち香』と呼ぶ」
み「嗅いだ?」
老「うむ」
み「鼻の穴が動いてないけど」
老「そういう下品な嗅ぎ方をしてはいかん」
み「次」
老「5~10ミリリットルほどの酒を口に含む」
み「おー、ようやく飲むんだね」
老「飲むのでは無い。
口に含むのじゃ。
啜るようにしながら舌の上で転がし……。
味の特徴や濃さを把握する」
↑きき酒中
老「口に含んだときに感じられる香りを、『含み香』と云う。
鼻に抜ける香りも確かめる」
み「確かめた?」
老「うむ」
み「次、次」
老「全体の香味のバランスを確かめたら……」
み「やっと飲むんだね」
老「吐き出す」
み「出すなよ!」
老「後味やキレを見るためじゃ」
み「ノド越しは?」
老「あれは、味では無い」
み「ちぇ。
せっかく人が注いでやったお酒、吐き出す気か」
老「出さぬよ」
み「何で」
老「きき酒と云うのは、常温の酒で行うものじゃ」
老「これは燗酒じゃろ」
み「なんじゃそれ!
結局、只飲みじゃん」
老「雰囲気だけはわかったじゃろ」
み「もっともらしい顔してやるってのは、わかった」
老「味の方は、ご自分で確かめなされ。
ま、高級酒では無いが……。
酒らしい酒じゃよ」
み「何で盃出すのよ?」
老「おかわりじゃ」
み「ダメー」
老「一杯では味わうこともならぬわ」
み「全然きき酒できてないじゃん」
律「Mikiちゃん、お注ぎしなさい」
み「そう言えば……。
何で、マスミンにお酒おごってるわけ?」
律「それも忘れたの?
このお蕎麦の由来を教えていただくんでしょ」
み「あ、そうだった。
タダ酒はいかんよ、ちみ。
ちゃんと注がれた分は、語りなさい」
老「お前さまが、話の腰を折ってばかりいるからでないか」
↑鯖折り(さばおり)
み「いつそんなことしたよ?」
老「『寒戸の婆』を持ちだしたではないか」
み「どこからその話になったんだっけ」
老「じゃから……。
放浪癖のある弥助が、10歳のとき……。
家を出たまま帰ってこなかった、というところまでじゃよ」
↑読んだと思うのだが、まったく記憶に無し
み「あぁ、そうだった。
思い出した。
それでは、続きをどうぞ。
早くしないと、お蕎麦食べ終えちゃうぞ」
老「話の腰を折るでないぞ」
み「へいへい」
老「結局弥助は……。
1年経っても、2年経っても帰らなかった。
親もようやく諦め、葬式を出した」
み「やっぱり、似てるじゃないの。
『寒戸の婆』と」
律「Mikiちゃん」
み「へいへい。
お先をどうぞ」
老「ところがある日……。
その弥助が帰ってきた」
み「ますますそっくりじゃない」
老「と言っても、弥助が帰ってきたのは……。
いなくなってから10年目のことじゃ」
み「それは……。
お早いお帰りで。
『寒戸の婆』とはだいぶ違うな」
老「いなくなったのが、10歳のときじゃから……。
帰って来たときは、まだ二十歳じゃな。
見違えるほど立派な若者になってたそうじゃ」
み「おー。
農家としては、理想的なんじゃない。
子供のころは、どっかに行ってて……。
働き手になってから帰って来るなんてさ」
老「ところが弥助は……。
農作業を手伝おうとはしなかった」
み「親不孝者!
さんざ心配かけておいて」
老「何でも、大阪の砂場でそば打ちの修行をしてきたとかで……。
西馬音内川に架かる『二万石橋』の袂で、蕎麦屋を開いた」
老「これがまさに、今ある店の場所じゃな」
み「『二万石橋』って橋は、どういう由来?
滅びた小野寺家が、二万石?」
老「いやいや。
『二万石橋』の名がついたのは、江戸時代になってからじゃ。
出羽国由利郡に、亀田藩と本荘藩があっての。
両藩ともに、石高が二万石じゃった。
その2藩が、参勤交代の際、この西馬音内を通ったんじゃな」
み「なるほど。
しかしまた……。
大阪とはね。
何で江戸に出なかったんだろ?」
老「この時代は……。
大阪に出る方が、遥かに簡単じゃぞ」
み「何で?」
老「北前船じゃよ」
み「あ、そうか。
北前船に潜りこめば……。
何の苦労もなく、大阪に着けるわけだ」
律「さっき、砂場っておっしゃいましたよね。
東京で食べたことのある御蕎麦屋さんが、確か『砂場』って店名でした」
律「スゴく古いお店でしたけど……。
本店は、大阪にあるのかしら?」
老「いやいや。
大阪の砂場には、現在、蕎麦屋は無くなってしまい申した」
律「どうしてです?」
老「どうも良くわからんのじゃが……。
幕末から明治にかけて……。
大阪の砂場の蕎麦屋は、続々と江戸に移ってしまったんですな」
み「“砂場”ってのは、地名?」
老「正式な名称では無かったらしいの。
通称のようじゃ」
み「砂丘地とか?」
↑鳥取砂丘
老「いやいや。
文字どおり、砂を置いた場所、すなわち資材置き場じゃな」
み「何に使う資材よ?」
老「大阪城の築城じゃ」
み「げ。
それって、秀吉の時代?」
老「そうなるの。
築城が始まったのは、天正十一年」
老「1583年のことじゃ。
当然、人足も大勢集められた。
人が集まれば、食べるものが必要。
というわけで、蕎麦屋が多数出店したわけじゃ」
み「今の住所で云うと、どのへんなの?」
老「大阪市西区新町あたりじゃな」
み「ぜんぜんわからん」
律「大阪城の近くなんでしょ?」
老「まぁ、遠くはないんじゃが……。
すぐ近くというわけでもない。
直線距離にしても、3㎞以上ある」
み「そんなとこに資材置き場があったら、不便じゃないのよ。
ダンプもない時代に」
老「確かに、そうじゃな。
実は、食文化史の方面からは……。
蕎麦を切って食べるようになったのは、もっと後だという疑問も呈されておる」
み「なんだよ!
根底から揺らいでるじゃん」
老「ま、説のひとつとして聞きなさい」
み「で……。
大阪城からは、少し離れてるわけね」
老「地下鉄の長堀鶴見緑地線の『西大橋』が最寄り駅になるな。
隣の駅は、『心斎橋』じゃ」
み「その地名は、聞いたことがある」
老「『西大橋』のすぐ近く、『なにわ筋』という大きな道路沿いに、新町南公園がある」
み「有名な公園?」
老「無名じゃ」
み「なんじゃそれ」
老「その公園に、『砂場発祥の地』の碑が建っておるんじゃ」
これを書いてて、『東京紅團』さんというサイトを発見しました。
そこに、『砂場を歩く』というページがあり、実に興味深かったのでご紹介します。
驚いたのは、『砂場 いずみや店内』という画像です。
この絵が書かれたのは、豊臣秀吉の時代より遙かに後の、寛政10年(1798年)だそうです。
まず、画像を御覧ください。
どうです?
これ、露天じゃないんですよ。
屋根の下の“店内”なんですよ。
この絵を見て連想したのは……。
映画の『Kill Bill Vol.1(2003年)』でした。
『Kill Bill Vol.1』は、栗山千明も出演したアメリカのアクション映画。
↑栗山千明が演じたキャラ『ゴーゴー夕張』
わたしは、『六番目の小夜子』以来、栗山千明に注目してたので……。
↑右は主演の鈴木杏ちゃん(当時小学生!)
この『Kill Bill Vol.1』も見たんですが……。
その中に、日本の飲み屋が描かれたシーンがありました。
↑後半に、ちょこっとだけ出てきます
あのシーンを見た田舎者は、わたしを含めて、全員ぶったまげたでしょう。
どこにあるんだ、こんな店、って感じでした。
でも……。
あったんですね。
あのお店のモデルは、西麻布にある『権八』とのことです。
ブッシュ大統領と小泉純一郎首相が会食(2002年)して有名になったそうです。
場所柄もあり、お客は、日本人より外人さんが多いんだとか。
でも、こういうお店……。
決して、21世紀になって初めて出来たわけじゃないんですね。
もっともっと、ずーっと昔にあったんです。
18世紀末、寛政10年の大阪に。
もう一度、画像を掲げます。
まさしく『砂場 いずみや店内』の図は……。
『Kill Bill Vol.1』に描かれた飲み屋そっくりじゃないですか。
江戸時代の農政学者中井履軒は、『蕎麦をひさぐ伝』という著作の中で……。
この和泉屋について書いてます。
それによると……。
店の周りには、蕎麦倉、醤油倉、鰹節倉などが7棟も建っていたそうです。
これについては、左図の上の方に描かれてるのがそれだと思います。
店内には、九尺(2.7メートル)角の据え床が並び、雇人は百人いたとか。
この絵を見たときは……。
多少……、というか、かなりの誇張があると思っていたんですが……。
どうやら、文章の裏付けもあるようです。
賑わってたことだけは、間違いないみたいですね。
何でそんなに賑わったかと云うと……。
安かったらしいんですね。
どんな蕎麦好きでも、百文は食べられなかったそうです。
少食の人なら、十六文で腹いっぱいだったとか。
十六文という値段は、江戸の蕎麦の通り相場です。
落語の『時そば』でも、十六文でしたよね。
量的には、小腹を抑えるくらいだったと思います。
とても、それだけで満腹するような分量ではなかったはず。
和泉屋は、大盛り系のお店の走りだったのかも知れませんね。
もっとも、人が集まるのには、もうひとつ理由がありました。
大阪城築城が終わり、資材置き場の役目を終えた砂場は……。
なんと、遊郭になったんですね。
新町遊郭と呼ばれたそうです。
江戸の吉原……。
京都の島原……。
そして、大阪の新町。
これが、日本三大遊郭と呼ばれたそうです。
『ここに砂場ありき』の碑は、新町南公園ですが……。
そのすぐ近くにある新町北公園には……。
『だまされて来てまことなり初さくら(千代女)』の碑が建ってます。
お話を、続けます。
律「でも、東京で食べたお蕎麦と、見た目が似てるわ」
み「東京のどこよ?」
律「虎ノ門」
律「すぐ近くで学会があって……。
お昼に案内されたの。
木造三階建ての、スゴく古いお店」
老「あの店が建てられたのは……。
確か、大正12年(1923年)ですな」
み「よく、そんなことまで知ってるね」
老「日本史の女王は……。
1923年で、何も思いつかんかな?」
み「ん?
あ、関東大震災!」
み「それじゃ、震災直後に建て替えられたってことか」
老「いやいや。
震災は9月じゃぞ。
あれだけの店が、その年のうちに建つわけが無い。
あの店は、震災直前に出来ておったのじゃ」
み「てことは……。
震災でも壊れなかったってわけ?
木造の三階建てなんでしょ?
真っ先に潰れそうだけどね」
老「蕎麦屋専門の大工が建てたからの」
み「へ?
蕎麦屋しか建てない大工なんていたの?」
老「いたようじゃな。
蕎麦屋大工と云った。
蕎麦屋の天井は、船底天井と云う特殊な形状をしておるからの」
み「どんな形?
天井から船底が下がってるみたいな?」
老「逆じゃ。
真ん中が高くなっておる。
船底を逆さにしたような形状じゃな」
み「専門の大工が、それを作ったってわけね」
老「震災の揺れにも、ビクともしなかったそうじゃよ」
み「蕎麦屋だけ建てて食べていけるってのが、スゴいよね」
み「大正時代って……。
今よりも、はるかに豊かな時代だったんじゃないの?」
↑大正時代の『浅草花屋敷』
老「ま、江戸の町には……。
蕎麦屋が異常に多かったというのも確かじゃがな」
↑急ぎの客は、框に腰掛けたまま食べたようです(左の2人)。座敷に上がっても、座卓のようなものはありません(右のおっさん)。料理はお盆に載せられ、そのまま畳に置かれてます。
み「どのくらいあったの?」
老「幕末ころでは、一町に一軒あった」
み「一町って、どのくらいの距離よ?」
老「109.09メートルじゃな」
み「約100メートルに一軒ってこと?
時速5キロで歩くとしたら……。
1時間歩く間に、蕎麦屋が50軒あることになるじゃん。
いくらなんでも、多すぎだろ」
老「『桜田門外の変』が起きた万延元年(1860年)には……」
老「江戸府内で、3,763軒の蕎麦屋があったという記録もある」
み「江戸府内って、どういう定義?」
老「江戸の境界・範囲については、幕閣の間でも統一見解はなかったんじゃ。
なにしろ江戸時代は、町民・武士・僧侶によって、支配する機関がそれぞれ違ったからの。
今日で云う行政区画の概念がなかった。
それでも、文政元年(1818年)には、一応の統一見解を示しておる」
↓これが、そのとき作成された『江戸朱引図』です。
『ビバ! 江戸』というサイトさんに、この朱引き線を現代地図に起こした図が載ってました(こちら)。
これを見ると……。
西の境界線上にあるのは、東武東上線の上板橋、西武池袋線の江古田、西武新宿線の中井、中央線の東中野、小田急線の代々木上原、東急東横線の中目黒、京浜東北線の大井町。
北は、十条、王子あたり。
東は、ほぼ荒川ですね。
老「ま、山手線よりは、一回り大きいエリアじゃな」
み「人口はどのくらいいたの?」
老「100万人以上いた」
律「けっこういたのね」
み「だよね」
老「当時、世界一の大都市だったようじゃな」
み「それでも……。
3,763軒ってのは、多いよね。
電卓、電卓」
律「出た、デコ電」
み「100万割る、3,763は……。
266人。
266人に一軒か。
多いの?」
律「わかんない」
老「この数字は、屋台を含んでおらんからの」
み「え?
じゃ、この数字のほかに……。
あの『時そば』みたいな屋台があったってわけ?」
老「左様じゃ」
み「そりゃ、多いわ」
どーんとはらい」
律「パチパチパチ。
すごーい。
『おはなしでてこい』みたい」
み「かなり違うと思うが」
律「最後の“どーんとはらい”って、昔話の最後に言う言葉なのよね」
み「結句って云われてる。
地域によって、いろいろな言い方があるみたいだね」
律「一番ポピュラーなのは……。
やっぱり、“めでたしめでたし”?」
み「めでたく終わらないお話もあるからね。
特に東北では。
“どーんとはらい”は、その東北地方」
律「どういう意味なの?」
み「“はらい”は、すす払いとかの“払い”じゃないかな」
み「昔話の世界から、現実世界に戻るおまじないみたいなもんだよ」
律「“お祓い”の意味もあるんじゃないの?」
み「あ、そうかもね」
老「そうとう脚色してあるが……。
まぁ、大筋は間違っとらんようじゃな」
み「脚色なんかしてないぞ。
覚えてたままだよ」
老「どうやら……。
物語が、お前さまの頭の中で勝手に増殖したようじゃの。
確かに、人の想像力を掻き立てて止まない話ではある」
み「このお話の主役って、何だと思う?」
律「それは……。
“寒戸の婆”でしょ」
↑水木しげるロードの『寒戸の婆』
み「ノンノンノンノン」
律「何でフランス語で否定するのよ!
人差し指まで立てて」
み「フランス語と東北弁は似てるって説がある」
律「誰の説?」
み「タモリ」
↑ブラタモリ
律「バカバカしい。
で、お話の主役は誰なのよ?」
み「風だよ、風」
み「もし、このお話に風が吹いてなかったら……。
こんなにも、人の心には食いこんでこなかったはず」
律「なるほど。
それは、否定できないかもね」
み「『ゲンセンカン主人』って漫画知らない?」
律「玄関の主人?」
み「ゲンセンカン!
つげ義春の漫画だよ」
み「『寒戸の婆』の話を読むと……。
『ゲンセンカン主人』を連想する」
律「何で?」
み「風。
『ゲンセンカン主人』の漫画の中を、風が吹いてるんだ」
み「スゴく印象的」
律「そう言えば……。
『風の又三郎』とか……」
み「東北って、風が似合うのかも」
律「だよね。
先生も読んでみなよ。
『遠野物語』」
み「日本人の土俗性が、ヒシヒシと伝わってくるよ。
道徳教育の道具になってない、教訓なんかとは無縁な“お伽話”のパワーだね」
ちょっと、寄り道が過ぎましたね。
でも、『寒戸の婆』のお話は……。
わたしの心に、鉤爪のように食いこんでます。
自分では、それほど脚色して語ったつもりは無いのですが……。
改めて原典を当たってみたところ……。
↑わたしの持ってる『遠野物語(角川文庫)』
思ってたより、遥かに短いお話でした。
マスミンが言ったように、わたしの中で勝手に増殖してたようです。
原文は、以下のとおりです。
…………………………………………………………………………
黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ。
…………………………………………………………………………
老「それでは、続きを語ってよいかの?」
み「何の話、してたんだっけ?」
店「お待たせしました」
律「Mikiちゃん、答えが来たわよ」
↑これは、西馬音内『弥助そば』の“ひやがけ”(大盛り)。
↓秋田川反漁屋酒場の写真は、この程度のものしかありませんでした。
み「おー、そうそう。
お蕎麦の話だったね。
こりゃ美味しそうだわ。
湯気がモワッと上がらないとこが、いいよ。
中締めって感じだね。
それでは、さっそくいただきましょう」
老「まだ、由来を語り終えておらぬぞ」
み「お蕎麦が来るまでって約束でしょ」
老「お前さまが、長々と『寒戸の婆』を語ったからではないか」
み「そんなら、語りんさい。
でも、食べながら聞くからね。
先生、いただきましょう」
律「そうね。
申し訳ないけど……。
このお蕎麦を前にしたら、我慢できそうにないわ」
み「じゃ……。
いっただきまーす」
律「いただきまーす」
ズズ、ズズズー。
み「う、うめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
律「ヤギか、あんたは。
でも、ほんとに美味しいわ」
老「江戸時代からの味を、かたくなに守っておるそうじゃ。
化学調味料など、まったく入っておらん」
み「素朴な味って云うんだろうけど……。
結局、それが一番ってことなのかもね」
ズズ、ズズズー。
律「ちょっと、もう少し、おしとやかに食べれない?」
み「お蕎麦は、大音響を立てるほど美味しいの」
律「それは、わからないでもないけどね。
お汁、飛ばさないでちょうだい」
み「お汁、入った?」
律「3滴くらい入った」
み「じゃ、返して」
律「このアマ……」
老「そろそろ、語ってもよいかな」
み「許可する」
↑便利な画像じゃ
み「食べ終える前に語り終えよ」
老「お前さまは、食べるスピードが早すぎじゃ。
わんこそばじゃないんじゃから……」
老「もっとゆっくりと食べなさい」
み「お蕎麦を前にするとさ……。
なぜか、のんびり食べる気にならないんだよ」
律「なんでよ?」
み「江戸っ子が憑依するのかね」
律「落語の影響じゃないの?」
み「『時そば』とか?」
律「落語でお蕎麦を食べる場面って、特徴的よね」
み「扇子を箸に見立てた所作でしょ」
律「スゴい音立てて、あっという間に食べちゃうじゃない」
み「だから、大音響を立てながら、あっという間に食べるのが美味しいんだって」
律「消化に悪いわよ」
み「蕎麦なんて、粉を練ってあるだけなんだから……」
み「噛まないで飲みこんだって、胃で溶けるから大丈夫」
律「そうかしら?
こないだの飲み会で、吐いた子がいたけど……。
お蕎麦が、そのままの形で出てきたわよ」
み「汚い!」
律「あら、失礼」
み「とにかく、お蕎麦なんてものはね……。
眉根を吊り上げて……。
親の敵みたいに食べるのが筋なのよ」
律「見習いたくない筋ね」
老「妙な筋もあったもんじゃが……。
酒のツマミに取ったんじゃろ。
徳利が冷めてしまうぞ」
み「あ、そうだった。
先生、注いで」
律「目の前にあるでしょ」
み「手が離せないの」
律「お箸を置けばいいだけじゃないの」
み「ちぇ。
せっかくの勢いが」
律「何の勢いよ」
み「それじゃ……。
わびしく、手酌酒といきますか」
み「どぶろくも手酌だったけど……。
やっぱり、徳利ってのは風情が出すぎだね。
一気に侘しい気分になる」
老「それが良いのではないか。
蕎麦屋では、騒がしい酒は似合わぬ。
ひとり、手酌をしながら……。
蕎麦を啜るのが筋じゃ」
み「今度は、そっちが筋かい。
でも、ま、徳利がひとつしかないんだから……。
取り合いしても見苦しいでしょ。
ここは、わたしがお注ぎしましょう。
ほれ、マスミン、お猪口持って」
老「ほぅ。
酌が出来るのか」
み「あのね。
酌くらい、子供でも出来るっての」
老「それでは、遠慮無く」
み「家訓ね」
老「家訓じゃ」
み「ウソこけ。
はい、どうぞ」
老「……」
律「Mikiちゃん。
それは止めなさいって言ったでしょ」
み「秘技、2ミリ酒。
お味わい下さい」
老「これでは、きき酒も出来んぞ」
み「きき酒って、やり方があるの?」
老「まずは……。
静かな環境が必要じゃな。
特に、騒々しいオナゴが脇におらぬこと」
み「誰のことを言っておるのだ」
老「酒は、きき猪口に七分目まで注ぐ。
ほれ、注ぎんしゃい」
み「ほんまかよ。
まぁ、いい。
作法を見せていただきましょう。
ほれ、七分目」
老「それでは……。
……」
み「何してんの、早く飲みんしゃい」
老「いきなり飲んでどうする。
まずは、色を見るんじゃ。
利き猪口には、底に蛇の目が描かれておるじゃろ」
老「その藍色の部分で、酒の透明度を見……。
白い部分で、酒の色を見る」
み「見た?」
老「うむ」
み「次は?」
老「せわしないのぅ。
次は、香りじゃ。
きき猪口を、軽く揺り動かす」
み「目が回るじゃないの」
老「そんなのはお前さまだけじゃ。
このとき立ち上がる香りを、『上立ち香』と呼ぶ」
み「嗅いだ?」
老「うむ」
み「鼻の穴が動いてないけど」
老「そういう下品な嗅ぎ方をしてはいかん」
み「次」
老「5~10ミリリットルほどの酒を口に含む」
み「おー、ようやく飲むんだね」
老「飲むのでは無い。
口に含むのじゃ。
啜るようにしながら舌の上で転がし……。
味の特徴や濃さを把握する」
↑きき酒中
老「口に含んだときに感じられる香りを、『含み香』と云う。
鼻に抜ける香りも確かめる」
み「確かめた?」
老「うむ」
み「次、次」
老「全体の香味のバランスを確かめたら……」
み「やっと飲むんだね」
老「吐き出す」
み「出すなよ!」
老「後味やキレを見るためじゃ」
み「ノド越しは?」
老「あれは、味では無い」
み「ちぇ。
せっかく人が注いでやったお酒、吐き出す気か」
老「出さぬよ」
み「何で」
老「きき酒と云うのは、常温の酒で行うものじゃ」
老「これは燗酒じゃろ」
み「なんじゃそれ!
結局、只飲みじゃん」
老「雰囲気だけはわかったじゃろ」
み「もっともらしい顔してやるってのは、わかった」
老「味の方は、ご自分で確かめなされ。
ま、高級酒では無いが……。
酒らしい酒じゃよ」
み「何で盃出すのよ?」
老「おかわりじゃ」
み「ダメー」
老「一杯では味わうこともならぬわ」
み「全然きき酒できてないじゃん」
律「Mikiちゃん、お注ぎしなさい」
み「そう言えば……。
何で、マスミンにお酒おごってるわけ?」
律「それも忘れたの?
このお蕎麦の由来を教えていただくんでしょ」
み「あ、そうだった。
タダ酒はいかんよ、ちみ。
ちゃんと注がれた分は、語りなさい」
老「お前さまが、話の腰を折ってばかりいるからでないか」
↑鯖折り(さばおり)
み「いつそんなことしたよ?」
老「『寒戸の婆』を持ちだしたではないか」
み「どこからその話になったんだっけ」
老「じゃから……。
放浪癖のある弥助が、10歳のとき……。
家を出たまま帰ってこなかった、というところまでじゃよ」
↑読んだと思うのだが、まったく記憶に無し
み「あぁ、そうだった。
思い出した。
それでは、続きをどうぞ。
早くしないと、お蕎麦食べ終えちゃうぞ」
老「話の腰を折るでないぞ」
み「へいへい」
老「結局弥助は……。
1年経っても、2年経っても帰らなかった。
親もようやく諦め、葬式を出した」
み「やっぱり、似てるじゃないの。
『寒戸の婆』と」
律「Mikiちゃん」
み「へいへい。
お先をどうぞ」
老「ところがある日……。
その弥助が帰ってきた」
み「ますますそっくりじゃない」
老「と言っても、弥助が帰ってきたのは……。
いなくなってから10年目のことじゃ」
み「それは……。
お早いお帰りで。
『寒戸の婆』とはだいぶ違うな」
老「いなくなったのが、10歳のときじゃから……。
帰って来たときは、まだ二十歳じゃな。
見違えるほど立派な若者になってたそうじゃ」
み「おー。
農家としては、理想的なんじゃない。
子供のころは、どっかに行ってて……。
働き手になってから帰って来るなんてさ」
老「ところが弥助は……。
農作業を手伝おうとはしなかった」
み「親不孝者!
さんざ心配かけておいて」
老「何でも、大阪の砂場でそば打ちの修行をしてきたとかで……。
西馬音内川に架かる『二万石橋』の袂で、蕎麦屋を開いた」
老「これがまさに、今ある店の場所じゃな」
み「『二万石橋』って橋は、どういう由来?
滅びた小野寺家が、二万石?」
老「いやいや。
『二万石橋』の名がついたのは、江戸時代になってからじゃ。
出羽国由利郡に、亀田藩と本荘藩があっての。
両藩ともに、石高が二万石じゃった。
その2藩が、参勤交代の際、この西馬音内を通ったんじゃな」
み「なるほど。
しかしまた……。
大阪とはね。
何で江戸に出なかったんだろ?」
老「この時代は……。
大阪に出る方が、遥かに簡単じゃぞ」
み「何で?」
老「北前船じゃよ」
み「あ、そうか。
北前船に潜りこめば……。
何の苦労もなく、大阪に着けるわけだ」
律「さっき、砂場っておっしゃいましたよね。
東京で食べたことのある御蕎麦屋さんが、確か『砂場』って店名でした」
律「スゴく古いお店でしたけど……。
本店は、大阪にあるのかしら?」
老「いやいや。
大阪の砂場には、現在、蕎麦屋は無くなってしまい申した」
律「どうしてです?」
老「どうも良くわからんのじゃが……。
幕末から明治にかけて……。
大阪の砂場の蕎麦屋は、続々と江戸に移ってしまったんですな」
み「“砂場”ってのは、地名?」
老「正式な名称では無かったらしいの。
通称のようじゃ」
み「砂丘地とか?」
↑鳥取砂丘
老「いやいや。
文字どおり、砂を置いた場所、すなわち資材置き場じゃな」
み「何に使う資材よ?」
老「大阪城の築城じゃ」
み「げ。
それって、秀吉の時代?」
老「そうなるの。
築城が始まったのは、天正十一年」
老「1583年のことじゃ。
当然、人足も大勢集められた。
人が集まれば、食べるものが必要。
というわけで、蕎麦屋が多数出店したわけじゃ」
み「今の住所で云うと、どのへんなの?」
老「大阪市西区新町あたりじゃな」
み「ぜんぜんわからん」
律「大阪城の近くなんでしょ?」
老「まぁ、遠くはないんじゃが……。
すぐ近くというわけでもない。
直線距離にしても、3㎞以上ある」
み「そんなとこに資材置き場があったら、不便じゃないのよ。
ダンプもない時代に」
老「確かに、そうじゃな。
実は、食文化史の方面からは……。
蕎麦を切って食べるようになったのは、もっと後だという疑問も呈されておる」
み「なんだよ!
根底から揺らいでるじゃん」
老「ま、説のひとつとして聞きなさい」
み「で……。
大阪城からは、少し離れてるわけね」
老「地下鉄の長堀鶴見緑地線の『西大橋』が最寄り駅になるな。
隣の駅は、『心斎橋』じゃ」
み「その地名は、聞いたことがある」
老「『西大橋』のすぐ近く、『なにわ筋』という大きな道路沿いに、新町南公園がある」
み「有名な公園?」
老「無名じゃ」
み「なんじゃそれ」
老「その公園に、『砂場発祥の地』の碑が建っておるんじゃ」
これを書いてて、『東京紅團』さんというサイトを発見しました。
そこに、『砂場を歩く』というページがあり、実に興味深かったのでご紹介します。
驚いたのは、『砂場 いずみや店内』という画像です。
この絵が書かれたのは、豊臣秀吉の時代より遙かに後の、寛政10年(1798年)だそうです。
まず、画像を御覧ください。
どうです?
これ、露天じゃないんですよ。
屋根の下の“店内”なんですよ。
この絵を見て連想したのは……。
映画の『Kill Bill Vol.1(2003年)』でした。
『Kill Bill Vol.1』は、栗山千明も出演したアメリカのアクション映画。
↑栗山千明が演じたキャラ『ゴーゴー夕張』
わたしは、『六番目の小夜子』以来、栗山千明に注目してたので……。
↑右は主演の鈴木杏ちゃん(当時小学生!)
この『Kill Bill Vol.1』も見たんですが……。
その中に、日本の飲み屋が描かれたシーンがありました。
↑後半に、ちょこっとだけ出てきます
あのシーンを見た田舎者は、わたしを含めて、全員ぶったまげたでしょう。
どこにあるんだ、こんな店、って感じでした。
でも……。
あったんですね。
あのお店のモデルは、西麻布にある『権八』とのことです。
ブッシュ大統領と小泉純一郎首相が会食(2002年)して有名になったそうです。
場所柄もあり、お客は、日本人より外人さんが多いんだとか。
でも、こういうお店……。
決して、21世紀になって初めて出来たわけじゃないんですね。
もっともっと、ずーっと昔にあったんです。
18世紀末、寛政10年の大阪に。
もう一度、画像を掲げます。
まさしく『砂場 いずみや店内』の図は……。
『Kill Bill Vol.1』に描かれた飲み屋そっくりじゃないですか。
江戸時代の農政学者中井履軒は、『蕎麦をひさぐ伝』という著作の中で……。
この和泉屋について書いてます。
それによると……。
店の周りには、蕎麦倉、醤油倉、鰹節倉などが7棟も建っていたそうです。
これについては、左図の上の方に描かれてるのがそれだと思います。
店内には、九尺(2.7メートル)角の据え床が並び、雇人は百人いたとか。
この絵を見たときは……。
多少……、というか、かなりの誇張があると思っていたんですが……。
どうやら、文章の裏付けもあるようです。
賑わってたことだけは、間違いないみたいですね。
何でそんなに賑わったかと云うと……。
安かったらしいんですね。
どんな蕎麦好きでも、百文は食べられなかったそうです。
少食の人なら、十六文で腹いっぱいだったとか。
十六文という値段は、江戸の蕎麦の通り相場です。
落語の『時そば』でも、十六文でしたよね。
量的には、小腹を抑えるくらいだったと思います。
とても、それだけで満腹するような分量ではなかったはず。
和泉屋は、大盛り系のお店の走りだったのかも知れませんね。
もっとも、人が集まるのには、もうひとつ理由がありました。
大阪城築城が終わり、資材置き場の役目を終えた砂場は……。
なんと、遊郭になったんですね。
新町遊郭と呼ばれたそうです。
江戸の吉原……。
京都の島原……。
そして、大阪の新町。
これが、日本三大遊郭と呼ばれたそうです。
『ここに砂場ありき』の碑は、新町南公園ですが……。
そのすぐ近くにある新町北公園には……。
『だまされて来てまことなり初さくら(千代女)』の碑が建ってます。
お話を、続けます。
律「でも、東京で食べたお蕎麦と、見た目が似てるわ」
み「東京のどこよ?」
律「虎ノ門」
律「すぐ近くで学会があって……。
お昼に案内されたの。
木造三階建ての、スゴく古いお店」
老「あの店が建てられたのは……。
確か、大正12年(1923年)ですな」
み「よく、そんなことまで知ってるね」
老「日本史の女王は……。
1923年で、何も思いつかんかな?」
み「ん?
あ、関東大震災!」
み「それじゃ、震災直後に建て替えられたってことか」
老「いやいや。
震災は9月じゃぞ。
あれだけの店が、その年のうちに建つわけが無い。
あの店は、震災直前に出来ておったのじゃ」
み「てことは……。
震災でも壊れなかったってわけ?
木造の三階建てなんでしょ?
真っ先に潰れそうだけどね」
老「蕎麦屋専門の大工が建てたからの」
み「へ?
蕎麦屋しか建てない大工なんていたの?」
老「いたようじゃな。
蕎麦屋大工と云った。
蕎麦屋の天井は、船底天井と云う特殊な形状をしておるからの」
み「どんな形?
天井から船底が下がってるみたいな?」
老「逆じゃ。
真ん中が高くなっておる。
船底を逆さにしたような形状じゃな」
み「専門の大工が、それを作ったってわけね」
老「震災の揺れにも、ビクともしなかったそうじゃよ」
み「蕎麦屋だけ建てて食べていけるってのが、スゴいよね」
み「大正時代って……。
今よりも、はるかに豊かな時代だったんじゃないの?」
↑大正時代の『浅草花屋敷』
老「ま、江戸の町には……。
蕎麦屋が異常に多かったというのも確かじゃがな」
↑急ぎの客は、框に腰掛けたまま食べたようです(左の2人)。座敷に上がっても、座卓のようなものはありません(右のおっさん)。料理はお盆に載せられ、そのまま畳に置かれてます。
み「どのくらいあったの?」
老「幕末ころでは、一町に一軒あった」
み「一町って、どのくらいの距離よ?」
老「109.09メートルじゃな」
み「約100メートルに一軒ってこと?
時速5キロで歩くとしたら……。
1時間歩く間に、蕎麦屋が50軒あることになるじゃん。
いくらなんでも、多すぎだろ」
老「『桜田門外の変』が起きた万延元年(1860年)には……」
老「江戸府内で、3,763軒の蕎麦屋があったという記録もある」
み「江戸府内って、どういう定義?」
老「江戸の境界・範囲については、幕閣の間でも統一見解はなかったんじゃ。
なにしろ江戸時代は、町民・武士・僧侶によって、支配する機関がそれぞれ違ったからの。
今日で云う行政区画の概念がなかった。
それでも、文政元年(1818年)には、一応の統一見解を示しておる」
↓これが、そのとき作成された『江戸朱引図』です。
『ビバ! 江戸』というサイトさんに、この朱引き線を現代地図に起こした図が載ってました(こちら)。
これを見ると……。
西の境界線上にあるのは、東武東上線の上板橋、西武池袋線の江古田、西武新宿線の中井、中央線の東中野、小田急線の代々木上原、東急東横線の中目黒、京浜東北線の大井町。
北は、十条、王子あたり。
東は、ほぼ荒川ですね。
老「ま、山手線よりは、一回り大きいエリアじゃな」
み「人口はどのくらいいたの?」
老「100万人以上いた」
律「けっこういたのね」
み「だよね」
老「当時、世界一の大都市だったようじゃな」
み「それでも……。
3,763軒ってのは、多いよね。
電卓、電卓」
律「出た、デコ電」
み「100万割る、3,763は……。
266人。
266人に一軒か。
多いの?」
律「わかんない」
老「この数字は、屋台を含んでおらんからの」
み「え?
じゃ、この数字のほかに……。
あの『時そば』みたいな屋台があったってわけ?」
老「左様じゃ」
み「そりゃ、多いわ」