2012.3.3(土)
み「西馬音内(にしもない)って、秋田のどこらへんよ?」
老「例の象潟の真東に当たるな」
み「近いわけ?」
老「直線距離にすれば、50㎞も無いじゃろ。
しかし、間には出羽山地が聳えておるから……。
真っ直ぐ抜けるルートは無いがな」
み「鉄道で云うと、何線?」
老「羽後交通の雄勝線が通っておったころは……。
西馬音内という駅があった」
上の写真は、在りし日の「西馬音内駅」。
タイムスリップして行ってみたいものです。
画像は、こちらのページから拝借しました。
『地方私鉄 1960年代の回想』というサイトさんです。
今は無き、新潟交通の路面電車も載ってました(こちら)。
お話を続けます。
老「残念ながら、雄勝線は昭和48年に全線廃止となり……。
今は、奥羽本線の湯沢が最寄り駅になってしもうた。
湯沢駅からは、10キロもある」
老「羽後交通のバスで、20分じゃな」
み「不便そうなとこだね」
老「不便なところこそ、良いものが残されておるものじゃ」
み「そう言えば……。
由美ちゃんと行った大内宿も不便だったな」
み「西馬音内も、山の中?」
老「出羽山地を下った川が、扇状地となって横手盆地に出るあたりになる」
み「なるほど。
“内”が付いてるから、川があるわけね。
何て川?」
老「山を下ってくるのは、西馬音内川じゃが……。
流れはすぐに、秋田を代表する川、雄物川に合流する」
み「え?
雄物川って、この秋田市で海に出てるんだよね?」
律「そうだったわね。
セリオンから見えたもの」
↑セリオンから見えた旧雄物川(現秋田運河)河口
み「湯沢って、山形県境の方でしょ?」
老「雄物川の源流は、出羽山地の大仙山じゃ」
老「横手盆地に出た流れは北西に向かい、秋田市で海に出ておる」
み「横手盆地?
横手って……。
十文字の近くじゃない?(『東北に行こう!(5)』参照)」
老「ほー。
十文字を知っておるか。
湯沢駅からは、2駅じゃよ」
み「今朝は、朝ラーだったんだよ。
“十文字中華そば”」
老「それはまた、妙な偶然じゃの。
夕食にはまた、そのすぐ近くの西馬音内の蕎麦を食べるわけじゃな」
み「その横手盆地とこの秋田市は、雄物川で繋がってるってわけよね。
確かに、不思議だね」
律「西馬音内って、市なんですか?」
老「いやいや。
市町村で云うと、雄勝郡の羽後町になる」
老「その中の一地区が、西馬音内というわけじゃ」
み「あ、わかった。
平成の大合併で、西馬音内町が吸収されちゃったんだね」
老「いやいや。
羽後町は、合併してできた町ではない。
西馬音内は、もともと地区の名前じゃよ。
ここは……。
お盆に行くと、すごいものが見れるぞ」
み「何よ?」
老「盆といえば、盆踊りであろう」
み「何で、盆踊りがすごいのよ?」
老「『西馬音内盆踊り』は、日本三大盆踊りのひとつとされておる」
み「へー。
あとの2つって、どこよ?」
老「岐阜の『群上おどり』と……」
老「徳島の『阿波踊り』じゃ」
み「げ。
どっちも、超弩級のビッグネームじゃん。
『西馬音内盆踊り』って、そんなに有名なんだ」
老「踊りの中には、自分も輪に入りたくなる踊りもあるが……。
『西馬音内盆踊り』は、黙って見ていたい踊りじゃな」
み「へー。
どんな見所があるの?」
老「まずは、衣装じゃな。
大きく分けて、二種類の衣装がある。
一つは、端縫いの着物に鳥追い笠」
老「これは主に、成人女性が着る」
み「“はぬい”って何よ?」
老「さまざまな絹布を継ぎ合わせてあるんじゃよ」
老「端切れを繋げることから、昔は“はぎ衣装”とも呼ばれた。
代々、母から娘に伝えられてきた着物を……。
継ぎ合わせて、再びひとつの着物に仕立てたものじゃな」
老「色、柄、ともにさまざまな絹布が継ぎ合わされておるから……。
ひとつとして同じ衣装は無い」
み「パッチワークみたいなもんだね」
老「そうじゃな。
といっても、無闇やたらと繋いだものではないぞ。
必ず左右対称に縫い合わせるというルールがあるのじゃ」
老「このルールによって……。
ごちゃごちゃしない、洗練されたデザインが保たれとる。
百年も前の絹布を、そうやって継ぎ合わせると……。
驚くほどモダンな色合いを見せてくれるものじゃ」
み「ふーん。
母から娘に、代々受け継がれてる衣装ってことか」
老「成人になったといっても、誰もが“端縫い”を着れるわけではないのじゃ。
一人前の女性と認められて初めて……。
着ることが許される」
み「許される前は、どうすんのよ?
裸で踊るわけ?」
老「そんなことをするのは、お前さんだけじゃ」
み「したことないわい。
してみたいけど」
老「端縫いを許される前の女性は、藍染めの浴衣じゃな」
み「もうひとつの、“とりおいがさ”ってのは?」
老「おまえさんのお国でも……。
“佐渡おけさ”は、これを被って踊るじゃろ?」
み「あぁ。
あの、二つ折りになった、餃子みたいな形の笠ね」
老「相変わらず、例えが悪いの」
み「あれ、何で鳥追い笠って云うの?」
老「昔の農村には、“鳥追い”という行事があった。
田畑を荒らす鳥獣を追い払うために……。
若者らが、唄を歌い、農機具を鳴らしながら、練り歩く行事じゃよ。
そのときに被った笠が、その鳥追い笠じゃ」
み「捕物帳だったかに、鳥追い女ってのが出てきたと思うけど」
老「ほぅ。
妙なことを知っておるの。
江戸時代になると……。
鳥追い笠を被り、鳥追い唄を歌いながら門付けして歩く女芸人が現れた。
それら称して、鳥追い女と呼んだわけじゃ」
み「女芸人ねー。
だから、鳥追い笠って色っぽいのか」
律「目深に被って、顔が見えないところがいいわよね」
老「うむ。
うなじが非常に美しく見えるものよ」
み「すけべジジイ」
老「ばかもん。
美的概念を述べておるのじゃ」
み「いい歳して、言い訳しないの。
で、衣装は二種類って云ったよね?
もう一つは?」
老「彦三(ひこさ)頭巾じゃ」
み「“ずきん”って、頭に被る頭巾?」
老「そうじゃ」
み「ますます時代劇だね」
↑これは御高祖(おこそ)頭巾
み「どんな頭巾なの?」
老「歌舞伎や文楽に、黒子という介添え役がおるじゃろ」
老「あの黒子の頭巾に似ておる。
実際、歌舞伎の舞台を見た人が……。
黒子をヒントに考案したとも云われとる。
そのとき黒子が介添えしておった役者が、坂東彦三郎だったことから……」
老「彦三頭巾と名付けられたらしい」
み「“ひこさ”って、そういう字を書くのか。
黒子の頭巾って、顔の前に布が垂れてるじゃない」
み「透けてるの?」
老「真っ黒じゃ」
み「前が見えないじゃないの」
老「彦三頭巾には、目のところに、穴が2つ開いておるんじゃ。
頭に、豆絞りの手拭いを巻いて留める」
み「“豆絞り”って、どういう意味なの?」
老「柄じゃよ。
白地に紺の水玉模様じゃな」
み「あぁ、あのドット模様ね。
あれを“豆”に見立てたわけか。
頭巾は……。
黒なのよね?」
老「黒い布が、帯のあたりまで垂れておる」
み「なんか……。
不気味な感じなんですけど」
老「初めて見た子供は、泣くかも知れんな。
確かに、ぎょっとするような出で立ちじゃが……。
じっと見ていると……。
あの世に引きこまれそうになるな」
老「頭巾姿は、亡者を象徴しているとも云われる。
『西馬音内盆踊り』が、“亡者踊り”とも云われる所以じゃな」
み「お盆に帰ってきた亡者が、一緒になって踊ってる?」
老「踊りの輪の中には、この世のものではない者も、混じっておるかも知れんな」
み「怖わー」
み「起源はいつごろなのよ?」
老「正応年間とも云われとるらしい」
み「だから……。
その、“しょーおー”ってのが、わからんっての。
飛良泉より古いわけ?」
老「ずっと古い」
み「げ。
ほんとに古いのか。
いったいいつごろよ?」
老「正応年間は、1288年から92年。
鎌倉時代じゃな」
み「飛良泉(1487年創業)より、200年も古いのか」
老「源親という僧が、蔵王権現、今の西馬音内御嶽神社を勧奨したおり……。
ここで豊年祈願の踊りを踊らせたのが始まりと云われとる」
↑このカーブミラー、デカすぎません? 荘厳な雰囲気がぶち壊しです。
み「なんだ。
めでたい踊りじゃない。
どうして、“亡者踊り”になったのよ?」
老「時代が江戸に変わる直前。
1601年、慶長6年のことじゃ。
西馬音内城主であった小野寺一族が滅亡した。
近在に土着した遺臣たちは……。
亡き君主を偲び、盆に集まっては、西馬音内寺町にある宝泉寺で踊った」
老「それが“亡者踊り”だと云われておる」
み「頭巾を被って、亡者の格好をして踊ったわけね」
老「あるいは……。
頭巾を被ったのは、小野寺の遺臣であることを、隠すためでもあったかも知れんな」
み「なるほど」
老「“亡者踊り”には、やがて蔵王権現の豊年踊りも合流し……。
宝泉寺の境内では手狭になってきた。
で、天明年間(1781~1789)……。
場所を本町通りに移し、今日に至ってるという次第じゃな」
み「ふーん。
ふたつの踊りが合流したから、二種類の衣装があるのか。
見てみたいな。
飛び入り参加とかもできるの?」
老「それは、あまりせんほうがいいじゃろうな」
み「なんで?」
老「笠や頭巾で顔を隠して踊るのが、しきたりじゃからの」
み「亡者の方はわかる気がするけど……。
豊年踊り系は、どうして顔を隠すのよ?」
老「なんでも、佐竹の殿様に大の女好きがおって……。
領内で好みの女子を見つけると、お城に連れて帰ったそうじゃ」
み「人さらいじゃん!」
老「で、警戒した西馬音内では……。
盆踊りでも顔を隠して踊ったそうな」
み「ほんまかよ。
でも逆に、顔を隠すと、誰でも美人に見えたりして」
老「現代のスケベ殿は……。
気をつけた方が良いの」
み「なんで?」
老「踊り手の中には……。
男も混じっておるからの」
み「そう言えば、男はどんな恰好をして踊るのよ?」
老「一緒じゃよ。
彦三頭巾もおれば……。
鳥追い笠もおる」
み「げ。
女装じゃないのよ」
老「ベテランの手振りは、おなごを凌ぐそうじゃぞ。
女形と一緒じゃな」
み「どんな踊りなの?」
老「さっき、飛び入りはせん方がいいと云ったが……。
飛びこみで踊れるような振りではない。
かなり複雑じゃよ」
↑踊りは極めて優雅ですが……。歌詞の中には、猥歌に近いくだりもあります(こちら)。
↑彦三頭巾の踊りもどうぞ。人形振りみたいで、妙にエロチックです。
動画を見ると……。
土俗的な歌や囃子と、みやびな踊りとの対比に、不思議な魅力を感じます。
ほんとに一度、見てみたい。
み「ふーん。
わたしは未だに、『新潟甚句』、覚えられないからなぁ」
↑単純な踊り。体操みたいです。優雅さでは、はるかに劣りますね。
↑は、お馴染み「佐渡おけさ」。こっちは優雅です。
律「毎年、新潟まつりで踊ってるわけでしょ?」
み「踊りについていけないのじゃ」
律「難しいの?」
み「5分で覚えた子もいる」
律「それは……。
重症だわ。
西馬音内の盆踊りは……。
一生踊っても覚えられないんじゃない?」
み「覚えたころには、足腰が立たなくなってたりして」
律「情けな」
老「実際、昔は……。
踊りの師匠筋の許しが無ければ……。
端縫いの衣装は、着れなかったそうじゃな」
み「端縫いの踊り手に、下手くそはいなかったわけね。
今は違うわけ?」
老「観光イベント化してからは、少し緩くなってしまったようじゃ」
↑これはこれで可愛い
み「観光客って、多いの?」
老「最近は、少し多すぎるようじゃの。
何しろ小さな町じゃ。
本町通りと云っても……。
長さは300メートルほどしかない」
み「どれくらいの観光客が来るわけ?」
老「1日、6万人くらいと聞いておる」
み「ちょっと待ってよ。
300メートルに6万人?
1メートルに、200人ってこと?
道の両側としても、1メートルに、100人じゃん」
老「もちろん、6万人というのは、延べ人数じゃ。
踊りの時間は、19:30~23:00まであるからの。
いちどきに6万人がいるわけじゃない。
桟敷席もあるしの」
↑歌手の城之内早苗さん。隣の怪しい帽子のおっさんは、城之内早苗の『西馬音内盆唄』の作詞をした喜多條忠氏(『神田川』の作詞家として有名)。
み「それにしても、すごい混雑だね」
老「泊まれるところなど、数えるほどしかないからの。
大型バスでの、日帰りツアーのようじゃ」
み「ほとんど、お金が落ちないんじゃない?」
老「かも知れんの」
み「わたし、混んでるとこ苦手だから……」
み「見物は無理かも」
律「そうね。
路線バスしか無いところじゃ……。
帰りの足が心配よね。
旅館なんて、取れないだろうし」
↑街中には、こちらの1軒だけのようです(かがり火荘)
み「西馬音内に、知り合いとかいない?」
律「いるわけないでしょ」
み「本町通りの二階家の窓が……。
きっと特等席だよな。
お酒飲みながらさ。
あー、一度でいいから、そんな夏を過ごしてみたい」
律「西馬音内にお嫁に行けば?」
み「なるほど、その手があったか。
でも嫁が……。
酒飲みながら見れるかな?」
律「集まった親戚とかの接待で、てんてこ舞いかも」
み「だよな。
そのシチュだけは……。
ぜったいに避けたい。
うーむ。
何か、手がないものか……」
律「本気で考えこまないの」
み「そう言えば……。
何の話から、盆踊りになったんだっけ?」
律「お蕎麦じゃないの?」
み「よく覚えてますねー」
律「お蕎麦には、興味があるからね」
老「それでは……。
続きを語ってよいかな?」
み「許可する」
老「いちいち偉そうじゃな。
まあ、よい。
この西馬音内で、農家の七男坊に生まれた弥助には……。
生来、放浪癖があったんじゃな」
老「ひょっとしたら、亡者踊りを見たせいかも知れんの」
み「あの彦三頭巾を、子供が見たら……。
心の奥まで食い込むよね」
律「そうね。
夢に見るかもね」
み「ナマハゲもそうだけど……」
み「秋田って、トラウマになりそうな行事が多いんじゃないの」
老「続けてもよいかな?」
み「許可する」
老「弥助は、幼いころからふらっと家を出ては……。
10日や20日は帰ってこない子じゃった」
み「今なら大騒ぎだよね」
律「そうよね。
公開捜査になって、全国ニュースだわ」
み「弥助の親は、探さなかったのかね?」
老「最初のうちは、心配して探したのかも知れんの」
律「七男でしょ。
子沢山だから、一人くらいいなくても、気づかないんじゃない?」
み「そんなもんかぁ」
老「そんな子供が、どこでどうしているのか……。
帰ったときには、痩せた様子もなく、いたって普通にしていたそうじゃ」
み「そういう猫って、いるんだってね」
律「どこでどうしてるわけ?」
み「別宅があるんだって」
律「どういうこと?」
み「つまり、2つの家で飼い猫になってるわけ。
もちろん両家では、自分ちだけの猫だと思ってるんだけど……」
律「猫の方では、両家を渡り歩いてるってわけ?」
み「そうそう」
老「続けてもよいかな?」
み「許可する」
老「弥助が10歳になったある日のことじゃった。
例によって、姿が見えなくなった。
いつものことだろうとタカをくくっていたが……。
ひと月経っても、ふた月経っても帰って来ない。
さすがに親も、心配になったが……。
小作の田んぼと子供らを置いて、探しに出るわけにもいかない」
老「とうとう、そのまま10年が過ぎた」
み「なんか、似た話を聞いたことがあるな」
律「どこでよ?」
み「昔話だったかな?」
老「子供が神隠しにあう話は、どこの地方にも分布があるようじゃ」
み「思い出した。
遠野物語だ」
み「『寒戸の婆(さむとのばば)』の話」
律「何それ?
妖怪?」
み「『寒戸』ってのは、地名。
寒い戸って書く」
律「なんだか……。
心に染みこむような、寂しい地名ね」
み「その寒戸の庄屋さんに……。
可愛い女の子がいたわけよ。
一人っ子だから……。
それはそれは、大事にされた。
でも、ある日……。
その子の姿が、忽然と消えてしまった。
梨の木の下に、草履だけ残してね」
律「ふむふむ」
み「七男坊の弥助と違って、大事な跡取り娘だから……。
一家は、懸命に探した。
まさしく、血眼よ」
み「見つけて連れ帰った者には、多大な礼金を与えるとの触れも出した。
その金額を聞いて、小作たちは色をなした。
一生働いても、手にできないような大金だったから」
み「中には、農作業を放り出して探しまわる者もいた」
み「でも……」
律「見つからなかったわけね」
み「手がかりひとつなかった。
残されたのは草履だけ」
み「1年経って……。
ようやく親も諦め……。
小さな草履をお棺に入れて、葬式を出した」
律「うぅ。
悲しいお話」
み「ちょっと。
これで終わりじゃないんだよ」
律「そうなの?」
み「その子が帰って来たのよ」
律「良かったじゃない」
み「と言っても……。
何十年も経ってからのこと。
女の子の親は、もうとっくの昔に鬼籍に入ってた」
み「庄屋さんの家は……。
その後跡取りが生まれたのか……。
養子を取ったのか忘れたけど……。
途絶えることなく栄えてた」
み「で、ある日のこと。
数十年も経ったある日だよ。
その庄屋さんの家で、婚礼の宴が開かれてた」
み「跡取り息子が、お嫁さんを貰ったのね。
座敷は、まさに宴たけなわ。
真っ赤な顔をした客たちの、大きな笑い声で満ちていた。
そんなとき……。
台所の差配をしていた花婿のお母さんが……」
↑新潟市・伊藤家住宅(北方文化博物館)
み「座敷に座る主人の元にやってきて、耳元で囁いた。
『玄関に、見たことのないお婆さんが来てます』
主人は、物乞いなら勝手口に回らせろと取り合わない。
『身なりはみすぼらしいのですが、どうも乞食には見えません。
今日、集まってるみなさんに会いたいようなことを言ってます』
下座で囁き交わす2人の会話を……。
酌に回って来た老人が聞きつけて、話に入ってきた」
↑新潟市・伊藤家住宅(北方文化博物館)
み「酒が入ると、しつこくなる爺さんで……。
主人がなだめても、聞き入れない。
『こんなめでたい席に、言いがかりでも付けに来たのなら、怪しからん婆だ。
わしが行って、どやしつけてくれる』
威勢のいい声が、たちまち回りに伝わって……。
オレも、オレもの騒ぎになった。
主人が鎮めようとしても……。
お酒が入ってるから、場が収まらない。
結局、ぞろぞろ繋がって座敷を出てった。
一行は、お銚子を運ぶ女を驚かせながら、広い廊下を押し歩き……」
↑桑名市・六華苑
み「玄関前まで出た」
↑松山市・渡部家住宅
み「話のとおり……。
広いタタキに、みすぼらしい老婆が立ってた」
↑東京都・旧安田邸
み「ツギのあたった着物に、ボサボサの髪。
一見、物乞いにしか見えないんだけど……。
押し寄せる一行を迎えても、臆するそぶりも見せない。
音頭取りの老人が框に仁王立ちになったけど……。
へりくだる様子もなく見上げてる。
老婆の妙な威厳に押されたのか、見下ろす一行も一瞬押し黙った。
玄関の板戸が、ガタガタと揺れてた」
み「この日は、とりわけ風の強い日だった」
み「玄関戸が立てる音を、客と間違えて迎えに出たほど。
夜になっても、風は止まなかった」
み「『何の用じゃ。
物乞いなら、勝手口に回れ』
ようやく老人が口を開いた。
老婆は、唇の端を上げて笑った」
み「『源太。
ずいぶんと偉げになったの』
『なに!』
老人の顔に朱が昇った。
怒りではなく、混乱だった。
老人の名は與兵衛。
源太は、幼名だった。
自分の幼名を知っている者など、今日の集まりでも数えるほどしかいない。
見ず知らずの老婆に、その幼名で呼ばれ、老人も言葉を失った。
『見忘れたか。
こまいころは、わしの後ろをくっついて歩いておったにの』
『……』
『わしは、こん家の娘じゃ』
『おぉ』
老人は、ようやく思い出した。
今から、もう数十年も昔のこと……。
老人が小さかったころに、この家の跡取り娘が失踪していたことを」
み「『ようやく思い出したようじゃな。
昔の顔を見たくて戻ってみたが……。
見知った顔は、すでに数えるほどのようじゃ。
お前さんが、今の家長か?』
老婆が、老人の脇に立つ主人に尋ねた。
老人の驚愕が伝わったのか……。
主人も立ち尽くすばかりで、言葉を返せない。
『まずは、礼を言わねばなるまい。
よう家を守ってくれた。
門構えと云い、廊下の光り具合と云い……』
『昔のままじゃ』
老婆の顔に、柔和な笑みが浮かんだ。
『されば、わしはもう行かねばならん。
もう、ここに来ることもないじゃろ。
達者でな、源太』
止めるいとまも無かった。
老婆は、思いがけない身軽さで踵を返すと……。
玄関の板戸を抜け、闇に吸われるように消えて行った」
み「閉まった戸を激しい風が叩き、ガタガタと音を立てた」
み「ようやく金縛りが解けた主人が、タタキに飛び降り、板戸を開いた。
風が、框に並んだ人たちの袂を吹きあげる。
戸の陰から外を覗く主人の髪が、ボウボウと逆立った。
闇に消えた老婆の消息は……。
それきり途絶えた」
み「以来、この地区の人たちは……。
風の騒がしい日には……。
『今日は、寒戸の婆が帰ってきそうな日だ』と言い交わす習わしとなった」
老「例の象潟の真東に当たるな」
み「近いわけ?」
老「直線距離にすれば、50㎞も無いじゃろ。
しかし、間には出羽山地が聳えておるから……。
真っ直ぐ抜けるルートは無いがな」
み「鉄道で云うと、何線?」
老「羽後交通の雄勝線が通っておったころは……。
西馬音内という駅があった」
上の写真は、在りし日の「西馬音内駅」。
タイムスリップして行ってみたいものです。
画像は、こちらのページから拝借しました。
『地方私鉄 1960年代の回想』というサイトさんです。
今は無き、新潟交通の路面電車も載ってました(こちら)。
お話を続けます。
老「残念ながら、雄勝線は昭和48年に全線廃止となり……。
今は、奥羽本線の湯沢が最寄り駅になってしもうた。
湯沢駅からは、10キロもある」
老「羽後交通のバスで、20分じゃな」
み「不便そうなとこだね」
老「不便なところこそ、良いものが残されておるものじゃ」
み「そう言えば……。
由美ちゃんと行った大内宿も不便だったな」
み「西馬音内も、山の中?」
老「出羽山地を下った川が、扇状地となって横手盆地に出るあたりになる」
み「なるほど。
“内”が付いてるから、川があるわけね。
何て川?」
老「山を下ってくるのは、西馬音内川じゃが……。
流れはすぐに、秋田を代表する川、雄物川に合流する」
み「え?
雄物川って、この秋田市で海に出てるんだよね?」
律「そうだったわね。
セリオンから見えたもの」
↑セリオンから見えた旧雄物川(現秋田運河)河口
み「湯沢って、山形県境の方でしょ?」
老「雄物川の源流は、出羽山地の大仙山じゃ」
老「横手盆地に出た流れは北西に向かい、秋田市で海に出ておる」
み「横手盆地?
横手って……。
十文字の近くじゃない?(『東北に行こう!(5)』参照)」
老「ほー。
十文字を知っておるか。
湯沢駅からは、2駅じゃよ」
み「今朝は、朝ラーだったんだよ。
“十文字中華そば”」
老「それはまた、妙な偶然じゃの。
夕食にはまた、そのすぐ近くの西馬音内の蕎麦を食べるわけじゃな」
み「その横手盆地とこの秋田市は、雄物川で繋がってるってわけよね。
確かに、不思議だね」
律「西馬音内って、市なんですか?」
老「いやいや。
市町村で云うと、雄勝郡の羽後町になる」
老「その中の一地区が、西馬音内というわけじゃ」
み「あ、わかった。
平成の大合併で、西馬音内町が吸収されちゃったんだね」
老「いやいや。
羽後町は、合併してできた町ではない。
西馬音内は、もともと地区の名前じゃよ。
ここは……。
お盆に行くと、すごいものが見れるぞ」
み「何よ?」
老「盆といえば、盆踊りであろう」
み「何で、盆踊りがすごいのよ?」
老「『西馬音内盆踊り』は、日本三大盆踊りのひとつとされておる」
み「へー。
あとの2つって、どこよ?」
老「岐阜の『群上おどり』と……」
老「徳島の『阿波踊り』じゃ」
み「げ。
どっちも、超弩級のビッグネームじゃん。
『西馬音内盆踊り』って、そんなに有名なんだ」
老「踊りの中には、自分も輪に入りたくなる踊りもあるが……。
『西馬音内盆踊り』は、黙って見ていたい踊りじゃな」
み「へー。
どんな見所があるの?」
老「まずは、衣装じゃな。
大きく分けて、二種類の衣装がある。
一つは、端縫いの着物に鳥追い笠」
老「これは主に、成人女性が着る」
み「“はぬい”って何よ?」
老「さまざまな絹布を継ぎ合わせてあるんじゃよ」
老「端切れを繋げることから、昔は“はぎ衣装”とも呼ばれた。
代々、母から娘に伝えられてきた着物を……。
継ぎ合わせて、再びひとつの着物に仕立てたものじゃな」
老「色、柄、ともにさまざまな絹布が継ぎ合わされておるから……。
ひとつとして同じ衣装は無い」
み「パッチワークみたいなもんだね」
老「そうじゃな。
といっても、無闇やたらと繋いだものではないぞ。
必ず左右対称に縫い合わせるというルールがあるのじゃ」
老「このルールによって……。
ごちゃごちゃしない、洗練されたデザインが保たれとる。
百年も前の絹布を、そうやって継ぎ合わせると……。
驚くほどモダンな色合いを見せてくれるものじゃ」
み「ふーん。
母から娘に、代々受け継がれてる衣装ってことか」
老「成人になったといっても、誰もが“端縫い”を着れるわけではないのじゃ。
一人前の女性と認められて初めて……。
着ることが許される」
み「許される前は、どうすんのよ?
裸で踊るわけ?」
老「そんなことをするのは、お前さんだけじゃ」
み「したことないわい。
してみたいけど」
老「端縫いを許される前の女性は、藍染めの浴衣じゃな」
み「もうひとつの、“とりおいがさ”ってのは?」
老「おまえさんのお国でも……。
“佐渡おけさ”は、これを被って踊るじゃろ?」
み「あぁ。
あの、二つ折りになった、餃子みたいな形の笠ね」
老「相変わらず、例えが悪いの」
み「あれ、何で鳥追い笠って云うの?」
老「昔の農村には、“鳥追い”という行事があった。
田畑を荒らす鳥獣を追い払うために……。
若者らが、唄を歌い、農機具を鳴らしながら、練り歩く行事じゃよ。
そのときに被った笠が、その鳥追い笠じゃ」
み「捕物帳だったかに、鳥追い女ってのが出てきたと思うけど」
老「ほぅ。
妙なことを知っておるの。
江戸時代になると……。
鳥追い笠を被り、鳥追い唄を歌いながら門付けして歩く女芸人が現れた。
それら称して、鳥追い女と呼んだわけじゃ」
み「女芸人ねー。
だから、鳥追い笠って色っぽいのか」
律「目深に被って、顔が見えないところがいいわよね」
老「うむ。
うなじが非常に美しく見えるものよ」
み「すけべジジイ」
老「ばかもん。
美的概念を述べておるのじゃ」
み「いい歳して、言い訳しないの。
で、衣装は二種類って云ったよね?
もう一つは?」
老「彦三(ひこさ)頭巾じゃ」
み「“ずきん”って、頭に被る頭巾?」
老「そうじゃ」
み「ますます時代劇だね」
↑これは御高祖(おこそ)頭巾
み「どんな頭巾なの?」
老「歌舞伎や文楽に、黒子という介添え役がおるじゃろ」
老「あの黒子の頭巾に似ておる。
実際、歌舞伎の舞台を見た人が……。
黒子をヒントに考案したとも云われとる。
そのとき黒子が介添えしておった役者が、坂東彦三郎だったことから……」
老「彦三頭巾と名付けられたらしい」
み「“ひこさ”って、そういう字を書くのか。
黒子の頭巾って、顔の前に布が垂れてるじゃない」
み「透けてるの?」
老「真っ黒じゃ」
み「前が見えないじゃないの」
老「彦三頭巾には、目のところに、穴が2つ開いておるんじゃ。
頭に、豆絞りの手拭いを巻いて留める」
み「“豆絞り”って、どういう意味なの?」
老「柄じゃよ。
白地に紺の水玉模様じゃな」
み「あぁ、あのドット模様ね。
あれを“豆”に見立てたわけか。
頭巾は……。
黒なのよね?」
老「黒い布が、帯のあたりまで垂れておる」
み「なんか……。
不気味な感じなんですけど」
老「初めて見た子供は、泣くかも知れんな。
確かに、ぎょっとするような出で立ちじゃが……。
じっと見ていると……。
あの世に引きこまれそうになるな」
老「頭巾姿は、亡者を象徴しているとも云われる。
『西馬音内盆踊り』が、“亡者踊り”とも云われる所以じゃな」
み「お盆に帰ってきた亡者が、一緒になって踊ってる?」
老「踊りの輪の中には、この世のものではない者も、混じっておるかも知れんな」
み「怖わー」
み「起源はいつごろなのよ?」
老「正応年間とも云われとるらしい」
み「だから……。
その、“しょーおー”ってのが、わからんっての。
飛良泉より古いわけ?」
老「ずっと古い」
み「げ。
ほんとに古いのか。
いったいいつごろよ?」
老「正応年間は、1288年から92年。
鎌倉時代じゃな」
み「飛良泉(1487年創業)より、200年も古いのか」
老「源親という僧が、蔵王権現、今の西馬音内御嶽神社を勧奨したおり……。
ここで豊年祈願の踊りを踊らせたのが始まりと云われとる」
↑このカーブミラー、デカすぎません? 荘厳な雰囲気がぶち壊しです。
み「なんだ。
めでたい踊りじゃない。
どうして、“亡者踊り”になったのよ?」
老「時代が江戸に変わる直前。
1601年、慶長6年のことじゃ。
西馬音内城主であった小野寺一族が滅亡した。
近在に土着した遺臣たちは……。
亡き君主を偲び、盆に集まっては、西馬音内寺町にある宝泉寺で踊った」
老「それが“亡者踊り”だと云われておる」
み「頭巾を被って、亡者の格好をして踊ったわけね」
老「あるいは……。
頭巾を被ったのは、小野寺の遺臣であることを、隠すためでもあったかも知れんな」
み「なるほど」
老「“亡者踊り”には、やがて蔵王権現の豊年踊りも合流し……。
宝泉寺の境内では手狭になってきた。
で、天明年間(1781~1789)……。
場所を本町通りに移し、今日に至ってるという次第じゃな」
み「ふーん。
ふたつの踊りが合流したから、二種類の衣装があるのか。
見てみたいな。
飛び入り参加とかもできるの?」
老「それは、あまりせんほうがいいじゃろうな」
み「なんで?」
老「笠や頭巾で顔を隠して踊るのが、しきたりじゃからの」
み「亡者の方はわかる気がするけど……。
豊年踊り系は、どうして顔を隠すのよ?」
老「なんでも、佐竹の殿様に大の女好きがおって……。
領内で好みの女子を見つけると、お城に連れて帰ったそうじゃ」
み「人さらいじゃん!」
老「で、警戒した西馬音内では……。
盆踊りでも顔を隠して踊ったそうな」
み「ほんまかよ。
でも逆に、顔を隠すと、誰でも美人に見えたりして」
老「現代のスケベ殿は……。
気をつけた方が良いの」
み「なんで?」
老「踊り手の中には……。
男も混じっておるからの」
み「そう言えば、男はどんな恰好をして踊るのよ?」
老「一緒じゃよ。
彦三頭巾もおれば……。
鳥追い笠もおる」
み「げ。
女装じゃないのよ」
老「ベテランの手振りは、おなごを凌ぐそうじゃぞ。
女形と一緒じゃな」
み「どんな踊りなの?」
老「さっき、飛び入りはせん方がいいと云ったが……。
飛びこみで踊れるような振りではない。
かなり複雑じゃよ」
↑踊りは極めて優雅ですが……。歌詞の中には、猥歌に近いくだりもあります(こちら)。
↑彦三頭巾の踊りもどうぞ。人形振りみたいで、妙にエロチックです。
動画を見ると……。
土俗的な歌や囃子と、みやびな踊りとの対比に、不思議な魅力を感じます。
ほんとに一度、見てみたい。
み「ふーん。
わたしは未だに、『新潟甚句』、覚えられないからなぁ」
↑単純な踊り。体操みたいです。優雅さでは、はるかに劣りますね。
↑は、お馴染み「佐渡おけさ」。こっちは優雅です。
律「毎年、新潟まつりで踊ってるわけでしょ?」
み「踊りについていけないのじゃ」
律「難しいの?」
み「5分で覚えた子もいる」
律「それは……。
重症だわ。
西馬音内の盆踊りは……。
一生踊っても覚えられないんじゃない?」
み「覚えたころには、足腰が立たなくなってたりして」
律「情けな」
老「実際、昔は……。
踊りの師匠筋の許しが無ければ……。
端縫いの衣装は、着れなかったそうじゃな」
み「端縫いの踊り手に、下手くそはいなかったわけね。
今は違うわけ?」
老「観光イベント化してからは、少し緩くなってしまったようじゃ」
↑これはこれで可愛い
み「観光客って、多いの?」
老「最近は、少し多すぎるようじゃの。
何しろ小さな町じゃ。
本町通りと云っても……。
長さは300メートルほどしかない」
み「どれくらいの観光客が来るわけ?」
老「1日、6万人くらいと聞いておる」
み「ちょっと待ってよ。
300メートルに6万人?
1メートルに、200人ってこと?
道の両側としても、1メートルに、100人じゃん」
老「もちろん、6万人というのは、延べ人数じゃ。
踊りの時間は、19:30~23:00まであるからの。
いちどきに6万人がいるわけじゃない。
桟敷席もあるしの」
↑歌手の城之内早苗さん。隣の怪しい帽子のおっさんは、城之内早苗の『西馬音内盆唄』の作詞をした喜多條忠氏(『神田川』の作詞家として有名)。
み「それにしても、すごい混雑だね」
老「泊まれるところなど、数えるほどしかないからの。
大型バスでの、日帰りツアーのようじゃ」
み「ほとんど、お金が落ちないんじゃない?」
老「かも知れんの」
み「わたし、混んでるとこ苦手だから……」
み「見物は無理かも」
律「そうね。
路線バスしか無いところじゃ……。
帰りの足が心配よね。
旅館なんて、取れないだろうし」
↑街中には、こちらの1軒だけのようです(かがり火荘)
み「西馬音内に、知り合いとかいない?」
律「いるわけないでしょ」
み「本町通りの二階家の窓が……。
きっと特等席だよな。
お酒飲みながらさ。
あー、一度でいいから、そんな夏を過ごしてみたい」
律「西馬音内にお嫁に行けば?」
み「なるほど、その手があったか。
でも嫁が……。
酒飲みながら見れるかな?」
律「集まった親戚とかの接待で、てんてこ舞いかも」
み「だよな。
そのシチュだけは……。
ぜったいに避けたい。
うーむ。
何か、手がないものか……」
律「本気で考えこまないの」
み「そう言えば……。
何の話から、盆踊りになったんだっけ?」
律「お蕎麦じゃないの?」
み「よく覚えてますねー」
律「お蕎麦には、興味があるからね」
老「それでは……。
続きを語ってよいかな?」
み「許可する」
老「いちいち偉そうじゃな。
まあ、よい。
この西馬音内で、農家の七男坊に生まれた弥助には……。
生来、放浪癖があったんじゃな」
老「ひょっとしたら、亡者踊りを見たせいかも知れんの」
み「あの彦三頭巾を、子供が見たら……。
心の奥まで食い込むよね」
律「そうね。
夢に見るかもね」
み「ナマハゲもそうだけど……」
み「秋田って、トラウマになりそうな行事が多いんじゃないの」
老「続けてもよいかな?」
み「許可する」
老「弥助は、幼いころからふらっと家を出ては……。
10日や20日は帰ってこない子じゃった」
み「今なら大騒ぎだよね」
律「そうよね。
公開捜査になって、全国ニュースだわ」
み「弥助の親は、探さなかったのかね?」
老「最初のうちは、心配して探したのかも知れんの」
律「七男でしょ。
子沢山だから、一人くらいいなくても、気づかないんじゃない?」
み「そんなもんかぁ」
老「そんな子供が、どこでどうしているのか……。
帰ったときには、痩せた様子もなく、いたって普通にしていたそうじゃ」
み「そういう猫って、いるんだってね」
律「どこでどうしてるわけ?」
み「別宅があるんだって」
律「どういうこと?」
み「つまり、2つの家で飼い猫になってるわけ。
もちろん両家では、自分ちだけの猫だと思ってるんだけど……」
律「猫の方では、両家を渡り歩いてるってわけ?」
み「そうそう」
老「続けてもよいかな?」
み「許可する」
老「弥助が10歳になったある日のことじゃった。
例によって、姿が見えなくなった。
いつものことだろうとタカをくくっていたが……。
ひと月経っても、ふた月経っても帰って来ない。
さすがに親も、心配になったが……。
小作の田んぼと子供らを置いて、探しに出るわけにもいかない」
老「とうとう、そのまま10年が過ぎた」
み「なんか、似た話を聞いたことがあるな」
律「どこでよ?」
み「昔話だったかな?」
老「子供が神隠しにあう話は、どこの地方にも分布があるようじゃ」
み「思い出した。
遠野物語だ」
み「『寒戸の婆(さむとのばば)』の話」
律「何それ?
妖怪?」
み「『寒戸』ってのは、地名。
寒い戸って書く」
律「なんだか……。
心に染みこむような、寂しい地名ね」
み「その寒戸の庄屋さんに……。
可愛い女の子がいたわけよ。
一人っ子だから……。
それはそれは、大事にされた。
でも、ある日……。
その子の姿が、忽然と消えてしまった。
梨の木の下に、草履だけ残してね」
律「ふむふむ」
み「七男坊の弥助と違って、大事な跡取り娘だから……。
一家は、懸命に探した。
まさしく、血眼よ」
み「見つけて連れ帰った者には、多大な礼金を与えるとの触れも出した。
その金額を聞いて、小作たちは色をなした。
一生働いても、手にできないような大金だったから」
み「中には、農作業を放り出して探しまわる者もいた」
み「でも……」
律「見つからなかったわけね」
み「手がかりひとつなかった。
残されたのは草履だけ」
み「1年経って……。
ようやく親も諦め……。
小さな草履をお棺に入れて、葬式を出した」
律「うぅ。
悲しいお話」
み「ちょっと。
これで終わりじゃないんだよ」
律「そうなの?」
み「その子が帰って来たのよ」
律「良かったじゃない」
み「と言っても……。
何十年も経ってからのこと。
女の子の親は、もうとっくの昔に鬼籍に入ってた」
み「庄屋さんの家は……。
その後跡取りが生まれたのか……。
養子を取ったのか忘れたけど……。
途絶えることなく栄えてた」
み「で、ある日のこと。
数十年も経ったある日だよ。
その庄屋さんの家で、婚礼の宴が開かれてた」
み「跡取り息子が、お嫁さんを貰ったのね。
座敷は、まさに宴たけなわ。
真っ赤な顔をした客たちの、大きな笑い声で満ちていた。
そんなとき……。
台所の差配をしていた花婿のお母さんが……」
↑新潟市・伊藤家住宅(北方文化博物館)
み「座敷に座る主人の元にやってきて、耳元で囁いた。
『玄関に、見たことのないお婆さんが来てます』
主人は、物乞いなら勝手口に回らせろと取り合わない。
『身なりはみすぼらしいのですが、どうも乞食には見えません。
今日、集まってるみなさんに会いたいようなことを言ってます』
下座で囁き交わす2人の会話を……。
酌に回って来た老人が聞きつけて、話に入ってきた」
↑新潟市・伊藤家住宅(北方文化博物館)
み「酒が入ると、しつこくなる爺さんで……。
主人がなだめても、聞き入れない。
『こんなめでたい席に、言いがかりでも付けに来たのなら、怪しからん婆だ。
わしが行って、どやしつけてくれる』
威勢のいい声が、たちまち回りに伝わって……。
オレも、オレもの騒ぎになった。
主人が鎮めようとしても……。
お酒が入ってるから、場が収まらない。
結局、ぞろぞろ繋がって座敷を出てった。
一行は、お銚子を運ぶ女を驚かせながら、広い廊下を押し歩き……」
↑桑名市・六華苑
み「玄関前まで出た」
↑松山市・渡部家住宅
み「話のとおり……。
広いタタキに、みすぼらしい老婆が立ってた」
↑東京都・旧安田邸
み「ツギのあたった着物に、ボサボサの髪。
一見、物乞いにしか見えないんだけど……。
押し寄せる一行を迎えても、臆するそぶりも見せない。
音頭取りの老人が框に仁王立ちになったけど……。
へりくだる様子もなく見上げてる。
老婆の妙な威厳に押されたのか、見下ろす一行も一瞬押し黙った。
玄関の板戸が、ガタガタと揺れてた」
み「この日は、とりわけ風の強い日だった」
み「玄関戸が立てる音を、客と間違えて迎えに出たほど。
夜になっても、風は止まなかった」
み「『何の用じゃ。
物乞いなら、勝手口に回れ』
ようやく老人が口を開いた。
老婆は、唇の端を上げて笑った」
み「『源太。
ずいぶんと偉げになったの』
『なに!』
老人の顔に朱が昇った。
怒りではなく、混乱だった。
老人の名は與兵衛。
源太は、幼名だった。
自分の幼名を知っている者など、今日の集まりでも数えるほどしかいない。
見ず知らずの老婆に、その幼名で呼ばれ、老人も言葉を失った。
『見忘れたか。
こまいころは、わしの後ろをくっついて歩いておったにの』
『……』
『わしは、こん家の娘じゃ』
『おぉ』
老人は、ようやく思い出した。
今から、もう数十年も昔のこと……。
老人が小さかったころに、この家の跡取り娘が失踪していたことを」
み「『ようやく思い出したようじゃな。
昔の顔を見たくて戻ってみたが……。
見知った顔は、すでに数えるほどのようじゃ。
お前さんが、今の家長か?』
老婆が、老人の脇に立つ主人に尋ねた。
老人の驚愕が伝わったのか……。
主人も立ち尽くすばかりで、言葉を返せない。
『まずは、礼を言わねばなるまい。
よう家を守ってくれた。
門構えと云い、廊下の光り具合と云い……』
『昔のままじゃ』
老婆の顔に、柔和な笑みが浮かんだ。
『されば、わしはもう行かねばならん。
もう、ここに来ることもないじゃろ。
達者でな、源太』
止めるいとまも無かった。
老婆は、思いがけない身軽さで踵を返すと……。
玄関の板戸を抜け、闇に吸われるように消えて行った」
み「閉まった戸を激しい風が叩き、ガタガタと音を立てた」
み「ようやく金縛りが解けた主人が、タタキに飛び降り、板戸を開いた。
風が、框に並んだ人たちの袂を吹きあげる。
戸の陰から外を覗く主人の髪が、ボウボウと逆立った。
闇に消えた老婆の消息は……。
それきり途絶えた」
み「以来、この地区の人たちは……。
風の騒がしい日には……。
『今日は、寒戸の婆が帰ってきそうな日だ』と言い交わす習わしとなった」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2011/11/20 11:02
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続けて読むと迫力ありますねえ。
それにしても……。
新潟市・伊藤家住宅(北方文化博物館)。
桑名市・六華苑。
松山市・渡部家住宅。
東京都・旧安田邸。
板張りの台所。
大鍋、大釜、竈。
回廊。
畳廊下。
何処までも続く座敷。
大きな沓脱石。
広い上がり框……。
まだ保存されてるんですねえ。
言葉もありません。
筒井康隆氏の作品。
題名は記憶にありません。
高い山の斜面の頂上から麓までを覆うように作られた巨大な屋敷。
何処までもどこまでも続く座敷、座敷、座敷……。
なぜかこの屋敷の頂上に取り残された少年。
普段の住まいは麓の座敷。
住まいに戻るため、座敷を駆け抜ける少年。
襖を開ける。
誰もいない広い座敷。
駆け抜け、次の襖を開ける。誰もいない広い座敷。
駆け抜け、次の襖を開ける。広い座敷。
駆け抜け、次の襖を開ける。広い座敷。
駆け抜け、次の襖を開ける……。
息を切らし、泣きじゃくり、襖を開け続け、しゃにむに駆け抜ける少年。
まだか、我が住まいはまだか。死に物狂いで駆け続ける少年……。
龍之介の『トロッコ』を思わせますねえ。
「しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………」
昔の古い家って、子供にとっては「謎に満ちた異世界」なのかも知れません。
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2. Mikiko- 2011/11/20 13:16
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『遠い座敷』ですね。
そう言えばこれも、夢の肌触りを持った作品。
北方文化博物館は、新潟市にある“豪農の館”です。
http://hoppou-bunka.com/top.html
いわゆる、“千町歩(1,000ha)地主”。
この伊藤家から、越後一宮の弥彦神社までは、車で1時間ほどの距離がありますが……。
他人の土地を踏まずに行けたそうです。
百畳敷きの大広間には、長さ30メートルの一本杉の丸桁が渡ってます。
会津から、阿賀野川を筏で運ばれたそうです。
途中、通過できない橋があったんですが……。
地元に掛け合い、橋を取り壊して筏を通し……。
その後、立派な橋を架け直して返したそうです。
住み込みの使用人が60人もいて……。
あの台所では、毎朝1俵の米が炊かれたとか。
エピソードには事欠かないお屋敷です。
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3. ハーレクイン- 2011/11/20 15:49
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おー、ご存知でしたか。
そうそう『遠い座敷』。
筒井氏には、この手の味わいの作品、多いですよね。
んで「北方文化博物館」。
素晴らしい施設があるんですねえ、越後には。
六畳二間のささやかな所帯から身を起こし、巨万の富と大邸宅を築きあげた伊藤家7代。で、戦後の混乱期を経て博物館への転身を図り今に至ると……。
いやあ、素晴らしい博物館です。
実に素晴らしい。
実にじつにすばらしい
とても一言で言い尽くせるものではありません。
是非お邪魔したい。
是非ぜひ拝見したい。
でも越後は、……遠いなあ。
えちごへ行きたしと思へども
えちごはあまりに遠し……