2012.3.3(土)
老「酒の需要は……。
いつの時代も、途切れることが無かったということじゃな。
当主が道楽したり、投機に手を出したりさえしなければ……。
続けて来れた商売と云えるじゃろ。
昔は今と違って、酒の種類がなかったからの」
み「あ、そうか。
ほぼ日本酒しかないわけだから……。
いいお酒であれば、生き残れたってことね」
老「戦乱に巻きこまれたり、自然災害にあったりしなければな」
み「飛良泉には、そのどちらもなかった?」
老「おぉ、そういえば……。
ごく近年、自然災害の方には遭っておったな」
み「自然災害?
そう云えば、飛良泉って、秋田のどこにあるの?」
老「にかほ市じゃ」
み「にかほ……。
確か、秋田県の南部ですよね」
老「鳥海山の麓じゃ」
老「ここ(秋田市)よりは、だいぶ南になるな」
み「何があったんだろ?
鳥海山の噴火?」
老「ごく近年と言ったじゃろ。
おまえさまの生国が源となった災害じゃ」
み「新潟が?
あ!
ひょっとして、新潟地震?」
老「そのとおり」
み「あれって確か、1964年ですよね。
新潟国体と同じ年」
律「インフラ整備で、堀が埋められたっていう?」
み「それそれ。
新潟国体の開催期間が、6月6日から11日。
新潟地震が起こったのが……。
6月16日よ」
律「ひぇー。
間一髪ね」
み「開催期間中だったら、大ごとだったろうね。
でも、秋田まで被害が出てたとは思わなかった」
老「震源は、新潟県の北部、粟島沖じゃからな」
老「被害は、新潟県北部から秋田県南部にまで渡った。
仁賀保町(当時)の被害も、大変なものじゃった。
飛良泉本舗(当時は斎藤酒造店)も、壊滅的な被害を受けた。
土蔵は崩れ、タンクは傾き、酒瓶は砕け散った。
惨状を目の当たりにした25代目は、廃業を決意したそうじゃ」
律「それでも、立ち直ったんですね」
老「500年続いた酒蔵を、自分の代で潰すわけにはいかないという一心じゃろうな。
無論、金融機関などの援助もあってのことじゃろうがの。
蔵の修復に1年半かかり、操業できたのは2年後のこと」
み「え?
てことは……。
2年間、売上ゼロってこと?」
老「生半可な覚悟では、とてもやり遂げられん再建じゃったろう。
経営を立て直すのに、15年かかったそうじゃ」
み「法人って、地震保険に入れないのかな?」
律「だって、関東大震災みたいなのが起こったら……。
保険会社、潰れちゃうよ」
み「保険会社はそういうときのために、外国の保険に入ってるんじゃなかったっけ?
あ!」
律「何よ、突然大声出して?」
み「秋田の地震。
江戸時代にもあったはずよ」
律「そうなの?」
み「ほら、象潟よ。
知らない?
松尾芭蕉の『奥の細道』」
み「『松島は笑うが如く、象潟は憾むが如し』って、有名な一節がある。
ま、お天気が悪かったから、そう見えたんだろうけどね」
律「いつごろの季節?」
み「梅雨でしょ。
これまた有名な句があるもの」
●象潟や雨に西施がねぶの花
み「合歓の花が咲いてるんだから、まさしく梅雨だよ」
律「セーシがって、どういう意味?」
み「先生……。
ヘンなこと考えてない?」
律「わたしだって考えたくないわよ。
でも、漢字が思い浮かばないんだもの」
み「西施ってのは、中国の美女」
み「マスミン、いつごろの人だっけ?」
老「春秋時代の末じゃな。
紀元前5世紀のころじゃ。
『呉越同舟』という成句があるじゃろ。
まさしくその、呉と越が争ってたころじゃよ」
老「西施は、争いの道具に使われた。
もともとは、越王の愛妾だったんじゃが……。
計略により、呉の王の元に送りこまれたんじゃな。
呉の王は、たちまち西施に夢中となった。
結局、王が骨抜きになった呉は弱体化し、越に滅ぼされてしまった」
律「情けない王様ねー。
そんな国、滅びて当然だわ」
み「冷たいですね」
律「情けない男は嫌い。
で、西施はどうなったんです?
また、越王の元に帰ったんですか?」
老「それは、定かではないようじゃ。
一節によると……。
越によって、殺されてしまったとも言われておる」
律「ヒドいじゃないですか!
使うだけ使っといて」
老「芭蕉には、雨に打たれる合歓の花が……。
まつげを伏せた西施の面差しに見えたのじゃろうの」
み「というわけで……。
『象潟は憾むが如し』ってわけよ」
↑象潟駅前に掲げられた古絵図
律「ふーん。
なんか行ってみたくなった。
松島と比べられるってことは、風光明媚な地なのよね」
み「ひょっとして、知らないの?」
律「行ったことないもの」
み「そりゃそうだけどさ。
わたしだって、行ったことないよ。
でも、どういう風景かは知ってる」
律「理系だったから知らない」
み「そういう問題じゃないだろ」
律「松島なら知ってるわよ。
島がたくさん海に浮いてるのよね」
み「象潟もそうだったんだよ。
“潟”ってのは、浅い海のことを表してるわけ。
新潟の“潟”もそうだけど……。
ほら、干潟とか云うでしょ」
律「潮干狩りとかするところ?」
み「そうそう。
潟の潮が引いて、干上がったところが、干潟なわけ」
律「なるほど」
み「その浅い海に、たくさんの島が浮いてるわけね」
律「松島なら、昔一度だけ行ったことがあるの。
ほんとに、絵に描いたようって、このことだって思ったわ」
歌川広重「陸奥 松島風景富山眺望之図」
律「何がどうなって、あんな地形ができたんだろ?」
み「ふむ。
これは、バトンタッチだな。
マスミン、どうぞ」
老「ほー。
おいしいところを振ってくれるな。
それでは、遠慮なく語らせてもらいますぞ」
み「手短にね」
老「大地の成り立ちを、そう手短に語れるものではないぞ」
み「鍋が煮える前に、語り終えよ」
老「邯鄲の夢のようじゃの」
老「それでは、できるだけ手短を心がけよう。
そもそも、象潟を造ったのは……。
鳥海山なんじゃよ」
↑象潟から見た鳥海山
律「どういうことです?」
老「ときは、紀元前466年。
鳥海山が噴火した」
み「げ。
そんなに最近のことなの?
何万年前とかの話かと思った」
老「鳥海山は、よく噴火する火山なんじゃよ。
紀元後だけでも10回以上、噴火しておる。
ほぼ、10数年から150年の間隔で、噴火が起こっておるな。
もっとも、マグマが噴出したのは、1回くらいでな。
そのほかの噴火は、ほとんどが水蒸気爆発じゃ」
律「Mikiちゃん、水蒸気爆発って何?」
み「マグマが地下水層に近づくと……。
地下水が沸騰して、気化するの。
で、一気に体積が膨れあがって、山体を吹き飛ばすわけね」
老「紀元前466年の噴火も、まさしくその水蒸気爆発じゃった。
大規模な山体崩壊が発生した」
老「崩れた山の斜面、というか、山そのものじゃな。
流れ山と云うが……。
これが日本海に流れこんで、海底を埋め尽くした。
これによって、浅い海、すなわち、潟ができた。
大きな岩は海上に点々と突き出て、島となったわけじゃな。
これがすなわち、“九十九島、八十八潟”と呼ばれた象潟の姿じゃ」
み「おー。
ちゃんと手短に語れたじゃないの。
偉い偉い。
一杯おごって」
老「何でわしが奢らにゃならんのじゃ」
み「気持よくしゃべったら、人に一杯おごる。
これが人の道でしょ」
老「おまえさまは、シモの話を延々とした挙句……。
何も奢らなかったではないか」
み「ご老体を差し置いて、わたしのような若輩者が先におごったら失礼でしょ」
老「誰がご老体じゃ」
み「ははは。
そっちの方が、失礼だってか。
あのさ。
それじゃ……。
松島も噴火で出来たの?」
み「仙台に火山なんてあったっけ?」
老「松島の成り立ちは、まったく違う。
あそこは元々、松島丘陵が海に落ちこんだリアス式海岸じゃ」
↑リアス式海岸(三重県度会郡南伊勢町付近)
老「その後、さらに沈降が進み……。
溺れ谷に海水が入りこんで、尾根の天辺が島として残ったんじゃな」
み「東の松島、西の象潟と並び称されてたけど……。
その成因は、ぜんぜん違うってこと?」
老「そのとおり」
み「で、象潟は、陸になっちゃったわけだよね」
↑田んぼの中に点々と見える緑が、かつての島々
み「いつごろの地震?
松尾芭蕉の後ってことは、わかるけど」
老「1804年じゃ」
み「芭蕉が行ったのは、いつごろだっけ?」
老「1689年。
元禄二年じゃ」
み「芭蕉が行ったときから、百年以上も後なのか……。
江戸時代は長いね」
老「そうじゃな」
み「どんな地震だったの?」
老「これも、鳥海山と関係しておる。
1800年から1804年にかけて、鳥海山で大規模な噴火が続いた。
このときは、水蒸気爆発だけではなく……。
溶岩ドームが形成されたりした」
↑そのとき出来た溶岩ドーム
み「で、1804年に地震?
そりゃ、ぜったいに関係ありだよね」
↑地震以前の象潟の風景(蚶満寺所蔵)
み「規模は?」
老「マグニチュードは、7を超えてたことは確かじゃ。
最近の研究では、7.3くらいと推測されておる」
み「新潟地震は、7.5だから……。
おんなじくらいだね」
老「最大震度は、7。
8,000戸が全壊し、400人近い人が亡くなっておる」
律「大災害ですね」
老「この時ちょうど、江戸相撲が夏巡業に来ておってな。
雷電為衛門という大関を知っておるかな?」
み「知ってますよ。
史上最強と呼ばれる力士でしょ」
律「史上最強なのに、なんで横綱じゃないの?」
み「当時の横綱ってのは、地位じゃなかったの。
称号みたいなもんかな。
番付上の地位では、大関が最高位」
↑明治初期の番付
み「デカかったんですよね?」
老「身の丈、6尺5寸」
律「って、どのくらい?」
み「待って。
今、電卓出すから」
律「また出た。
デコ電」
律「飲み屋にまで持ってくるかね」
み「持ってないと落ち着かないの。
えーっと。
1尺は、30.3センチだから……。
6.5を掛けると……。
197センチ」
律「なんだー。
琴欧洲より小さいじゃん」
↑204センチ
律「把瑠都くらい?」
み「相撲、詳しいじゃない。
でも、わたしももっとデカいのかと思ってた」
老「当時、日本人男性の平均身長は……。
155センチ程度だったんじゃよ」
み「うそ。
わたしよりチビじゃん」
老「今、おまえさまが江戸時代に行ったら……。
立派な大女じゃな」
み「現代人は……。
うっかり時間旅行にも行けないってことだね」
老「180センチの男性でも、目立ってしょうがないじゃろうな」
み「そういう世界の197センチは、異常だね」
律「平均身長が15センチ違うんだから……。
雷電さんの体格も、プラス15センチで考えなきゃならないんじゃないの?」
み「てことは……。
197+15=」
律「そんなの、電卓使わなくてもわかるでしょ」
み「簡単な計算でも、いちおう電卓打つクセが付いてるもんで」
律「江戸時代に行けないわよ」
み「ほんとだねー。
あ、算盤があるじゃん」
律「出来るの?」
み「一応、3級です」
律「すごいじゃない」
み「取ったのは小学校のころだから……。
たぶんもう、足し算くらいしか出来ないけどね」
律「手がお留守よ」
み「茶々入れるからでしょ」
律「答えは?」
み「とっくに出てるよ。
212センチ」
律「そりゃ、デカいわ」
老「雷電という力士は、その体に似合わず、筆まめでの。
『諸国相撲和帳(通称「雷電日記」)』という旅日記を綴っておったんじゃ」
老「その中に、象潟地震の記録も残されておる」
『(文化元年)八月五日(秋田を)出立仕り候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合(本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(秋田県由利郡象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、[下線]喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候。[/下線]
(聞き書きとして)「六月四日、夜四つ(午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)て水わき出ず事甚だしきなり。年寄、子供甚だなんじゅう(難渋)の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月)七日に鶴ヶ岡へ着き仕り候。』
【『諸国相撲控帳』(通称「雷電日記」)より/下線はMikiko】
み「そんなでっかい力士でも、よほどびっくりしたんだね」
老「この地震で、鳥海山の西麓が、最大2メートル隆起した」
老「仁賀保町金浦付近では、海が最大300メートルも後退したらしい」
み「で、松島と並ぶ景勝地だった象潟は……。
一気に陸地となった」
老「そういうことじゃ」
み「でも、その仁賀保町ってのは、今の“にかほ市”なんでしょ?」
老「左様じゃ」
み「すぐ近くで、そんな大地殻変動があったくらいなんだから……。
新潟地震より、ずっと被害が大きかったんじゃないの?」
老「おそらくな」
み「今の建物って、いつごろ建てられたもの?」
老「明治の初めらしいの。
1870年ころじゃな」
み「地震が1804年だから……。
地震後に再建したとしたら……。
建て替えまで、66年。
昔のお屋敷としては、間隔が短いね。
やっぱり、1804年の地震では、倒れなかったのかな?」
律「だって、今の建物が140年経ってるってことは……。
新潟地震でも無事だったってことでしょ」
み「そういうことだね」
律「建物は大丈夫でも、瓶やなんかはみんな割れちゃったんじゃないの?」
み「だろうね。
あ、ひょっとしたら……。
建物も、当座の急ごしらえで建てたのかも知れないよ。
だから、60年ちょっとで建て直された」
律「なるほど。
それもありかもね」
み「じゃ、先に進みましょう。
何の話だっけ?」
律「飛良泉の読み方じゃない?」
み「そうそう。
マスミンが、雷電為衛門まで持ち出すから、わかんなくなっちゃった」
老「人のせいにするでない」
み「そもそも、秋田でなぜ“ひらいずみ”なのよ?
岩手の平泉と、何か関係があるの?」
↑中尊寺金色堂
老「もし、関係があるとしたら……。
ちょっとやそっとのことじゃ、語り終えられんぞ」
み「手短に!」
老「では、その飛良泉の語源じゃが……。
ここは、もともとは廻船問屋が本業で、酒造りは副業だったんじゃ。
氏は齋藤じゃが……。
屋号は、『和泉屋』と云った。
この名からもわかるように……。
この一族の出身地は、泉州なんじゃ。
今でも、大阪の泉佐野市に、齋藤の総本家が残っておる」
老「仁賀保に移ってきた、初代・市兵衛は、この齋藤家の分家なんじゃよ」
律「なんで、秋田に来たんですか?」
老「北を目指していたのは確からしいが……。
秋田に降り立ったのは、偶然のようじゃの」
み「どういうこと?」
老「難破した」
律「不謹慎な。
秋田美人にちょっかい出しに寄ったわけね」
み「先生……。
大きく誤解してるんじゃない?」
律「何がよ?
女性をナンパするために、秋田に降りたんでしょ」
み「阿呆か!
船が難破したの!
室町時代の航海なんて、命がけよ」
み「陸の女をナンパしながらの航海なんて、でけるか!」
老「続けてもよいかな」
み「どうぞ。
以後、先生は発言禁止」
律「何でよ!」
老「確かに、航海は大変じゃったろう。
泉州を出た船は……。
瀬戸内海を西に向かい、関門海峡から日本海に出た。
あとは、日本海沿岸を北上し……。
秋田に至ったわけじゃ」
み「なるほど。
船で大阪から秋田に行くには、そのルートしか考えられんよね。
太平洋経由じゃ、危険過ぎるし……。
関東過ぎたら、海流に逆らうことになるもの」
み「でも、何でそんなタイヘンな思いをしてまで……。
泉州を出たの?」
律「夜逃げとか?」
み「発言禁止って言ったでしょ!」
老「当たらずといえど……。
遠からずというところじゃ」
律「ほらみなさい」
老「たしかに、泉州から逃れて来たんじゃよ」
み「まさか、ほんとに夜逃げ?」
老「逃れてきたのは、借金取りでは無い」
老「戦乱じゃ」
み「室町時代に、戦乱なんてあったっけ?」
老「ほっほ。
日本史の女王の名が泣くのではないかの?」
み「くっそー。
なんだっけな」
老「京、大阪あたりは、大変な惨状じゃった」
み「あ。
まさかそれって……。
応仁の乱?」
老「そのとおり。
飛良泉の創業年を覚えておるか?」
み「確か、1487年」
「応仁の乱は、1467年から1477年じゃよ」
み「なんだ。
応仁の乱が終わってから、10年も経ってるじゃないの」
老「それは、酒造りを始めた年じゃ。
二代目の市兵衛が、始めておる。
秋田にたどり着いたのは、初代市兵衛じゃ。
一族郎党引き連れての航海じゃった。
間違いなく、戦乱を逃れて来たんじゃろう」
老「さもなくば、一族を引き連れて、そんな危険な航海などするわけがない。
年齢を考えれば……。
二代目の市兵衛も、その船に乗っておったろうな」
律「酒造りは、二代目が始めたそうですけど……。
その前は、何をやって食べてたんです?」
老「初代は、農業をやっていたようじゃ」
み「二代目が、酒造りを始めた経緯は?」
老「それは、わしにもわからん」
み「でも、一族郎党が、酒造りだけで食べていけたの?」
老「もう忘れたかな?
酒造りは、あくまで副業じゃよ。
本業になったのは、明治になってからのことじゃ」
み「本業って、何だっけ?」
律「思い出した!
廻船問屋」
老「泉州の齋藤本家が営んでいた廻船問屋の、秋田支店のような役割を果たしていたようじゃ。
今でも、飛良泉本舗の玄関には、アオウミガメの甲羅が飾られとるが……」
老「この亀は、廻船問屋のころに捕まえたものだそうじゃよ」
み「なるほどね。
秋田は、北前船の通り道だもんね」
老「酒も、そのルートに乗せる輸出用として造り始めたのかも知れん。
鳥海山の伏流水と旨い米。
才覚があれば、酒造りを思いつくのも宜なるかなじゃ」
み「あ。
もしもよ。
初代の船が、秋田の手前、新潟で難破してたとしたら……。
飛良泉本舗は、新潟にあったかも?」
老「ほっほっほ。
新潟も、北前船の寄港地じゃったな。
大いにあり得たかも知れん。
しかし、名前は違ってたじゃろうな。
飛良泉の名は、仁賀保の地に由来するものじゃからな」
み「あ、そうなの?
じゃ、岩手の平泉とは、関係なし?」
老「仁賀保と平泉は、直線距離にすれば100キロくらいのものじゃが……。
その間には、2,000メートル級の奥羽山脈が聳えておる」
み「山を越えての交流は、難しいってことか。
そんなら、仁賀保にも平泉って地名があるの?」
老「そのものずばりではないがな。
蔵のあるあたりの地名を、平沢と云う」
老「廻船問屋の屋号は、『和泉屋』じゃ。
すなわち、平沢の和泉屋から……。
“平泉”と呼ばれるようになったらしい」
み「安直な……」
律「でも、文字が変わったのはなぜなんですか?」
老「良寛和尚を知っておるかな?」
み「知らいでか。
新潟県出身者としては、全国的なビッグネームじゃん」
老「その友人に、仁賀保出身の増田九木(きゅうぼく)という画家がおった」
↑『良寛手毬の図』(画:増田九木/書:良寛)【新潟県燕市・分水良寛資料館】
老「頓知のきく男でな。
良寛宛の手紙で……。
この“平泉”と呼ばれる酒に、別の文字をあてて、自慢をしたんじゃ。
すなわち、“飛”びきり“良”い、“白”い“水”とな」
み「ふむ。
『平』に、“飛”びきり“良”いをあてて、『飛良(ひら)』と読ませたのはわかるけど……。
“白”い“水”が、どうして『泉』なのよ?」
老「読めるじゃろ」
み「“白水”で、“いずみ”って読むのか?」
老「横に並べちゃいかん。
縦に積んでみなさい」
み「縦に……」
律「あ。
Mikiちゃん、“水”の上に“白”を乗せると……。
“泉”になる」
老「それが、頓知じゃよ」
み「なるほどねー」
老「この頓知が噂を呼び……。
齋藤家も気に入ったんじゃろうな。
とうとう、酒銘まで『飛良泉』になったというわけじゃ」
み「ようやく……。
名前の由来がわかった。
飛び切り良いお酒ってことだね。
何か、製法に特徴でもあるの?」
老「あると云えば……、ある」
み「ないと云えば……?」
老「無い」
み「なんじゃそれ」
老「すなわち、昔ながらの製法を守り続けてるということじゃ。
逆にこれが、今では珍しくなってしもうた」
み「お酒の作り方って、そんなに変わってるんですか?」
老「もちろん、基本的なところは一緒じゃ。
ただ工程が、少し違っておる。
乳酸菌の扱い方がな」
み「日本酒を造るのに、乳酸菌が必要なの?
マッコリみたいだね」
老「うむ。
マッコリは、日本のどぶろくに相当するものじゃな」
み「日本酒造りに、乳酸菌が関わってるとは知らなんだ」
老「乳酸菌は、主役ではないからの。
主役は、なんといっても酵母じゃ」
み「じゃ、乳酸菌の役割は?」
老「酵母を育てるためには、雑菌のいない環境が必要なんじゃ。
乳酸菌が造り出す乳酸によって、その環境が造られる」
老「そこで初めて、酵母の純粋培養が可能になるんじゃ」
み「昔と今で違うのは、どこなのよ?」
老「酵母を純粋培養したものを“もと”という。
現在、一般的に造られているのは……。
“速醸もと”と云ってな。
既成の乳酸菌を投入するやり方じゃ。
これであれば、2週間ほどで、“もと”が出来る」
み「てことは……。
飛良泉の造り方は、そうじゃないってことですね」
老「左様じゃ。
乳酸菌は投入しない」
み「それじゃ、どうするんです?」
老「待つんじゃな」
み「待つ?」
老「蔵に棲みついてる乳酸菌が、少しずつ取りこまれるのをな」
み「また、悠長な。
時間がかかるでしょうに」
老「“速醸もと”の2倍はかかる。
それだけ、途中で腐敗してしまうリスクも高い」
み「なるほど。
普通の蔵で、やらなくなって当然だね」
老「こうして造られた“もと”を……。
“山卸廃止もと(やまおろしはいしもと)”と云う」
み「なんじゃそれ?
柔道の技みたいだな」
老「それは、山嵐じゃろ」
老「一般的には、“山廃もと(やまはいもと)”と呼ばれておる。
“山廃”は、“山卸廃止”の略じゃよ」
み「なるほど。
“やまおろし”を“廃止”したから、“やま廃”か。
って、やっぱりわからんじゃないか!」
老「“山廃仕込み”という言葉を聞いたことは無いかな?」
み「あ、それなら聞いたことがあるかも」
み「じゃ、“山廃仕込み”ってのは……。
“やまおろし”を“廃止”した“もと”を使って仕込んだお酒ってこと?」
老「そのとおり」
み「まるっきり意味がわからん。
そもそも、“やまおろし”って何よ?」
老「昔から行われて来た、酒造りの工程のひとつじゃよ。
まず、蒸した米、麹、水を半切桶に入れる」
み「待って。
その“はんぎりおけ”ってのは、なに?」
老「半分に切ったような浅い桶のことじゃよ」
老「そこに入れた米を、ヨーグルト状になるまですり潰す工程を、“山卸”と云う」
み「なるほど。
でも、何でそれを、“やまおろし”って云うのよ?」
老「半切桶に、蒸米と麹を入れると……。
水を吸って膨れ上がるんじゃな。
それこそ、山のように盛りあがる。
これを、櫂棒で擦り卸すから、“山卸”というわけじゃ」
み「“卸”は、大根卸の“卸”ってことか」
み「でも、“かいぼう”って何?」
老「また、妙なことを考えておるんじゃないか?
“櫂”は、船を漕ぐ“櫂”のことじゃよ。
棒の先に、かき混ぜるための板が、垂直についておるんじゃな」
み「わかった!
お風呂で使う湯かき棒みたいな形だね」
老「左様じゃ。
これを使って、丹念に擦り卸すわけじゃ」
律「大変そうな作業ですね」
老「相当な重労働じゃったろうな。
桶一つに、蔵人が2、3人がかりでな。
“もと摺り唄”を歌いながら、呼吸を合わせて行ったものじゃ」
老「これを、一番摺り、二番摺り、三番摺りまで繰り返した。
なにしろ、良い酒は山卸の作業量に比例すると思われてたからの」
み「でも、結局廃止しちゃったんでしょ?
何でよ?
単に、大変だから?」
老「実はな……。
“山卸”は、必ずしも必要ではないと云うことがわかったんじゃ」
み「はぁ?
どういうこと?」
いつの時代も、途切れることが無かったということじゃな。
当主が道楽したり、投機に手を出したりさえしなければ……。
続けて来れた商売と云えるじゃろ。
昔は今と違って、酒の種類がなかったからの」
み「あ、そうか。
ほぼ日本酒しかないわけだから……。
いいお酒であれば、生き残れたってことね」
老「戦乱に巻きこまれたり、自然災害にあったりしなければな」
み「飛良泉には、そのどちらもなかった?」
老「おぉ、そういえば……。
ごく近年、自然災害の方には遭っておったな」
み「自然災害?
そう云えば、飛良泉って、秋田のどこにあるの?」
老「にかほ市じゃ」
み「にかほ……。
確か、秋田県の南部ですよね」
老「鳥海山の麓じゃ」
老「ここ(秋田市)よりは、だいぶ南になるな」
み「何があったんだろ?
鳥海山の噴火?」
老「ごく近年と言ったじゃろ。
おまえさまの生国が源となった災害じゃ」
み「新潟が?
あ!
ひょっとして、新潟地震?」
老「そのとおり」
み「あれって確か、1964年ですよね。
新潟国体と同じ年」
律「インフラ整備で、堀が埋められたっていう?」
み「それそれ。
新潟国体の開催期間が、6月6日から11日。
新潟地震が起こったのが……。
6月16日よ」
律「ひぇー。
間一髪ね」
み「開催期間中だったら、大ごとだったろうね。
でも、秋田まで被害が出てたとは思わなかった」
老「震源は、新潟県の北部、粟島沖じゃからな」
老「被害は、新潟県北部から秋田県南部にまで渡った。
仁賀保町(当時)の被害も、大変なものじゃった。
飛良泉本舗(当時は斎藤酒造店)も、壊滅的な被害を受けた。
土蔵は崩れ、タンクは傾き、酒瓶は砕け散った。
惨状を目の当たりにした25代目は、廃業を決意したそうじゃ」
律「それでも、立ち直ったんですね」
老「500年続いた酒蔵を、自分の代で潰すわけにはいかないという一心じゃろうな。
無論、金融機関などの援助もあってのことじゃろうがの。
蔵の修復に1年半かかり、操業できたのは2年後のこと」
み「え?
てことは……。
2年間、売上ゼロってこと?」
老「生半可な覚悟では、とてもやり遂げられん再建じゃったろう。
経営を立て直すのに、15年かかったそうじゃ」
み「法人って、地震保険に入れないのかな?」
律「だって、関東大震災みたいなのが起こったら……。
保険会社、潰れちゃうよ」
み「保険会社はそういうときのために、外国の保険に入ってるんじゃなかったっけ?
あ!」
律「何よ、突然大声出して?」
み「秋田の地震。
江戸時代にもあったはずよ」
律「そうなの?」
み「ほら、象潟よ。
知らない?
松尾芭蕉の『奥の細道』」
み「『松島は笑うが如く、象潟は憾むが如し』って、有名な一節がある。
ま、お天気が悪かったから、そう見えたんだろうけどね」
律「いつごろの季節?」
み「梅雨でしょ。
これまた有名な句があるもの」
●象潟や雨に西施がねぶの花
み「合歓の花が咲いてるんだから、まさしく梅雨だよ」
律「セーシがって、どういう意味?」
み「先生……。
ヘンなこと考えてない?」
律「わたしだって考えたくないわよ。
でも、漢字が思い浮かばないんだもの」
み「西施ってのは、中国の美女」
み「マスミン、いつごろの人だっけ?」
老「春秋時代の末じゃな。
紀元前5世紀のころじゃ。
『呉越同舟』という成句があるじゃろ。
まさしくその、呉と越が争ってたころじゃよ」
老「西施は、争いの道具に使われた。
もともとは、越王の愛妾だったんじゃが……。
計略により、呉の王の元に送りこまれたんじゃな。
呉の王は、たちまち西施に夢中となった。
結局、王が骨抜きになった呉は弱体化し、越に滅ぼされてしまった」
律「情けない王様ねー。
そんな国、滅びて当然だわ」
み「冷たいですね」
律「情けない男は嫌い。
で、西施はどうなったんです?
また、越王の元に帰ったんですか?」
老「それは、定かではないようじゃ。
一節によると……。
越によって、殺されてしまったとも言われておる」
律「ヒドいじゃないですか!
使うだけ使っといて」
老「芭蕉には、雨に打たれる合歓の花が……。
まつげを伏せた西施の面差しに見えたのじゃろうの」
み「というわけで……。
『象潟は憾むが如し』ってわけよ」
↑象潟駅前に掲げられた古絵図
律「ふーん。
なんか行ってみたくなった。
松島と比べられるってことは、風光明媚な地なのよね」
み「ひょっとして、知らないの?」
律「行ったことないもの」
み「そりゃそうだけどさ。
わたしだって、行ったことないよ。
でも、どういう風景かは知ってる」
律「理系だったから知らない」
み「そういう問題じゃないだろ」
律「松島なら知ってるわよ。
島がたくさん海に浮いてるのよね」
み「象潟もそうだったんだよ。
“潟”ってのは、浅い海のことを表してるわけ。
新潟の“潟”もそうだけど……。
ほら、干潟とか云うでしょ」
律「潮干狩りとかするところ?」
み「そうそう。
潟の潮が引いて、干上がったところが、干潟なわけ」
律「なるほど」
み「その浅い海に、たくさんの島が浮いてるわけね」
律「松島なら、昔一度だけ行ったことがあるの。
ほんとに、絵に描いたようって、このことだって思ったわ」
歌川広重「陸奥 松島風景富山眺望之図」
律「何がどうなって、あんな地形ができたんだろ?」
み「ふむ。
これは、バトンタッチだな。
マスミン、どうぞ」
老「ほー。
おいしいところを振ってくれるな。
それでは、遠慮なく語らせてもらいますぞ」
み「手短にね」
老「大地の成り立ちを、そう手短に語れるものではないぞ」
み「鍋が煮える前に、語り終えよ」
老「邯鄲の夢のようじゃの」
老「それでは、できるだけ手短を心がけよう。
そもそも、象潟を造ったのは……。
鳥海山なんじゃよ」
↑象潟から見た鳥海山
律「どういうことです?」
老「ときは、紀元前466年。
鳥海山が噴火した」
み「げ。
そんなに最近のことなの?
何万年前とかの話かと思った」
老「鳥海山は、よく噴火する火山なんじゃよ。
紀元後だけでも10回以上、噴火しておる。
ほぼ、10数年から150年の間隔で、噴火が起こっておるな。
もっとも、マグマが噴出したのは、1回くらいでな。
そのほかの噴火は、ほとんどが水蒸気爆発じゃ」
律「Mikiちゃん、水蒸気爆発って何?」
み「マグマが地下水層に近づくと……。
地下水が沸騰して、気化するの。
で、一気に体積が膨れあがって、山体を吹き飛ばすわけね」
老「紀元前466年の噴火も、まさしくその水蒸気爆発じゃった。
大規模な山体崩壊が発生した」
老「崩れた山の斜面、というか、山そのものじゃな。
流れ山と云うが……。
これが日本海に流れこんで、海底を埋め尽くした。
これによって、浅い海、すなわち、潟ができた。
大きな岩は海上に点々と突き出て、島となったわけじゃな。
これがすなわち、“九十九島、八十八潟”と呼ばれた象潟の姿じゃ」
み「おー。
ちゃんと手短に語れたじゃないの。
偉い偉い。
一杯おごって」
老「何でわしが奢らにゃならんのじゃ」
み「気持よくしゃべったら、人に一杯おごる。
これが人の道でしょ」
老「おまえさまは、シモの話を延々とした挙句……。
何も奢らなかったではないか」
み「ご老体を差し置いて、わたしのような若輩者が先におごったら失礼でしょ」
老「誰がご老体じゃ」
み「ははは。
そっちの方が、失礼だってか。
あのさ。
それじゃ……。
松島も噴火で出来たの?」
み「仙台に火山なんてあったっけ?」
老「松島の成り立ちは、まったく違う。
あそこは元々、松島丘陵が海に落ちこんだリアス式海岸じゃ」
↑リアス式海岸(三重県度会郡南伊勢町付近)
老「その後、さらに沈降が進み……。
溺れ谷に海水が入りこんで、尾根の天辺が島として残ったんじゃな」
み「東の松島、西の象潟と並び称されてたけど……。
その成因は、ぜんぜん違うってこと?」
老「そのとおり」
み「で、象潟は、陸になっちゃったわけだよね」
↑田んぼの中に点々と見える緑が、かつての島々
み「いつごろの地震?
松尾芭蕉の後ってことは、わかるけど」
老「1804年じゃ」
み「芭蕉が行ったのは、いつごろだっけ?」
老「1689年。
元禄二年じゃ」
み「芭蕉が行ったときから、百年以上も後なのか……。
江戸時代は長いね」
老「そうじゃな」
み「どんな地震だったの?」
老「これも、鳥海山と関係しておる。
1800年から1804年にかけて、鳥海山で大規模な噴火が続いた。
このときは、水蒸気爆発だけではなく……。
溶岩ドームが形成されたりした」
↑そのとき出来た溶岩ドーム
み「で、1804年に地震?
そりゃ、ぜったいに関係ありだよね」
↑地震以前の象潟の風景(蚶満寺所蔵)
み「規模は?」
老「マグニチュードは、7を超えてたことは確かじゃ。
最近の研究では、7.3くらいと推測されておる」
み「新潟地震は、7.5だから……。
おんなじくらいだね」
老「最大震度は、7。
8,000戸が全壊し、400人近い人が亡くなっておる」
律「大災害ですね」
老「この時ちょうど、江戸相撲が夏巡業に来ておってな。
雷電為衛門という大関を知っておるかな?」
み「知ってますよ。
史上最強と呼ばれる力士でしょ」
律「史上最強なのに、なんで横綱じゃないの?」
み「当時の横綱ってのは、地位じゃなかったの。
称号みたいなもんかな。
番付上の地位では、大関が最高位」
↑明治初期の番付
み「デカかったんですよね?」
老「身の丈、6尺5寸」
律「って、どのくらい?」
み「待って。
今、電卓出すから」
律「また出た。
デコ電」
律「飲み屋にまで持ってくるかね」
み「持ってないと落ち着かないの。
えーっと。
1尺は、30.3センチだから……。
6.5を掛けると……。
197センチ」
律「なんだー。
琴欧洲より小さいじゃん」
↑204センチ
律「把瑠都くらい?」
み「相撲、詳しいじゃない。
でも、わたしももっとデカいのかと思ってた」
老「当時、日本人男性の平均身長は……。
155センチ程度だったんじゃよ」
み「うそ。
わたしよりチビじゃん」
老「今、おまえさまが江戸時代に行ったら……。
立派な大女じゃな」
み「現代人は……。
うっかり時間旅行にも行けないってことだね」
老「180センチの男性でも、目立ってしょうがないじゃろうな」
み「そういう世界の197センチは、異常だね」
律「平均身長が15センチ違うんだから……。
雷電さんの体格も、プラス15センチで考えなきゃならないんじゃないの?」
み「てことは……。
197+15=」
律「そんなの、電卓使わなくてもわかるでしょ」
み「簡単な計算でも、いちおう電卓打つクセが付いてるもんで」
律「江戸時代に行けないわよ」
み「ほんとだねー。
あ、算盤があるじゃん」
律「出来るの?」
み「一応、3級です」
律「すごいじゃない」
み「取ったのは小学校のころだから……。
たぶんもう、足し算くらいしか出来ないけどね」
律「手がお留守よ」
み「茶々入れるからでしょ」
律「答えは?」
み「とっくに出てるよ。
212センチ」
律「そりゃ、デカいわ」
老「雷電という力士は、その体に似合わず、筆まめでの。
『諸国相撲和帳(通称「雷電日記」)』という旅日記を綴っておったんじゃ」
老「その中に、象潟地震の記録も残されておる」
『(文化元年)八月五日(秋田を)出立仕り候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合(本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(秋田県由利郡象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、[下線]喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候。[/下線]
(聞き書きとして)「六月四日、夜四つ(午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)て水わき出ず事甚だしきなり。年寄、子供甚だなんじゅう(難渋)の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月)七日に鶴ヶ岡へ着き仕り候。』
【『諸国相撲控帳』(通称「雷電日記」)より/下線はMikiko】
み「そんなでっかい力士でも、よほどびっくりしたんだね」
老「この地震で、鳥海山の西麓が、最大2メートル隆起した」
老「仁賀保町金浦付近では、海が最大300メートルも後退したらしい」
み「で、松島と並ぶ景勝地だった象潟は……。
一気に陸地となった」
老「そういうことじゃ」
み「でも、その仁賀保町ってのは、今の“にかほ市”なんでしょ?」
老「左様じゃ」
み「すぐ近くで、そんな大地殻変動があったくらいなんだから……。
新潟地震より、ずっと被害が大きかったんじゃないの?」
老「おそらくな」
み「今の建物って、いつごろ建てられたもの?」
老「明治の初めらしいの。
1870年ころじゃな」
み「地震が1804年だから……。
地震後に再建したとしたら……。
建て替えまで、66年。
昔のお屋敷としては、間隔が短いね。
やっぱり、1804年の地震では、倒れなかったのかな?」
律「だって、今の建物が140年経ってるってことは……。
新潟地震でも無事だったってことでしょ」
み「そういうことだね」
律「建物は大丈夫でも、瓶やなんかはみんな割れちゃったんじゃないの?」
み「だろうね。
あ、ひょっとしたら……。
建物も、当座の急ごしらえで建てたのかも知れないよ。
だから、60年ちょっとで建て直された」
律「なるほど。
それもありかもね」
み「じゃ、先に進みましょう。
何の話だっけ?」
律「飛良泉の読み方じゃない?」
み「そうそう。
マスミンが、雷電為衛門まで持ち出すから、わかんなくなっちゃった」
老「人のせいにするでない」
み「そもそも、秋田でなぜ“ひらいずみ”なのよ?
岩手の平泉と、何か関係があるの?」
↑中尊寺金色堂
老「もし、関係があるとしたら……。
ちょっとやそっとのことじゃ、語り終えられんぞ」
み「手短に!」
老「では、その飛良泉の語源じゃが……。
ここは、もともとは廻船問屋が本業で、酒造りは副業だったんじゃ。
氏は齋藤じゃが……。
屋号は、『和泉屋』と云った。
この名からもわかるように……。
この一族の出身地は、泉州なんじゃ。
今でも、大阪の泉佐野市に、齋藤の総本家が残っておる」
老「仁賀保に移ってきた、初代・市兵衛は、この齋藤家の分家なんじゃよ」
律「なんで、秋田に来たんですか?」
老「北を目指していたのは確からしいが……。
秋田に降り立ったのは、偶然のようじゃの」
み「どういうこと?」
老「難破した」
律「不謹慎な。
秋田美人にちょっかい出しに寄ったわけね」
み「先生……。
大きく誤解してるんじゃない?」
律「何がよ?
女性をナンパするために、秋田に降りたんでしょ」
み「阿呆か!
船が難破したの!
室町時代の航海なんて、命がけよ」
み「陸の女をナンパしながらの航海なんて、でけるか!」
老「続けてもよいかな」
み「どうぞ。
以後、先生は発言禁止」
律「何でよ!」
老「確かに、航海は大変じゃったろう。
泉州を出た船は……。
瀬戸内海を西に向かい、関門海峡から日本海に出た。
あとは、日本海沿岸を北上し……。
秋田に至ったわけじゃ」
み「なるほど。
船で大阪から秋田に行くには、そのルートしか考えられんよね。
太平洋経由じゃ、危険過ぎるし……。
関東過ぎたら、海流に逆らうことになるもの」
み「でも、何でそんなタイヘンな思いをしてまで……。
泉州を出たの?」
律「夜逃げとか?」
み「発言禁止って言ったでしょ!」
老「当たらずといえど……。
遠からずというところじゃ」
律「ほらみなさい」
老「たしかに、泉州から逃れて来たんじゃよ」
み「まさか、ほんとに夜逃げ?」
老「逃れてきたのは、借金取りでは無い」
老「戦乱じゃ」
み「室町時代に、戦乱なんてあったっけ?」
老「ほっほ。
日本史の女王の名が泣くのではないかの?」
み「くっそー。
なんだっけな」
老「京、大阪あたりは、大変な惨状じゃった」
み「あ。
まさかそれって……。
応仁の乱?」
老「そのとおり。
飛良泉の創業年を覚えておるか?」
み「確か、1487年」
「応仁の乱は、1467年から1477年じゃよ」
み「なんだ。
応仁の乱が終わってから、10年も経ってるじゃないの」
老「それは、酒造りを始めた年じゃ。
二代目の市兵衛が、始めておる。
秋田にたどり着いたのは、初代市兵衛じゃ。
一族郎党引き連れての航海じゃった。
間違いなく、戦乱を逃れて来たんじゃろう」
老「さもなくば、一族を引き連れて、そんな危険な航海などするわけがない。
年齢を考えれば……。
二代目の市兵衛も、その船に乗っておったろうな」
律「酒造りは、二代目が始めたそうですけど……。
その前は、何をやって食べてたんです?」
老「初代は、農業をやっていたようじゃ」
み「二代目が、酒造りを始めた経緯は?」
老「それは、わしにもわからん」
み「でも、一族郎党が、酒造りだけで食べていけたの?」
老「もう忘れたかな?
酒造りは、あくまで副業じゃよ。
本業になったのは、明治になってからのことじゃ」
み「本業って、何だっけ?」
律「思い出した!
廻船問屋」
老「泉州の齋藤本家が営んでいた廻船問屋の、秋田支店のような役割を果たしていたようじゃ。
今でも、飛良泉本舗の玄関には、アオウミガメの甲羅が飾られとるが……」
老「この亀は、廻船問屋のころに捕まえたものだそうじゃよ」
み「なるほどね。
秋田は、北前船の通り道だもんね」
老「酒も、そのルートに乗せる輸出用として造り始めたのかも知れん。
鳥海山の伏流水と旨い米。
才覚があれば、酒造りを思いつくのも宜なるかなじゃ」
み「あ。
もしもよ。
初代の船が、秋田の手前、新潟で難破してたとしたら……。
飛良泉本舗は、新潟にあったかも?」
老「ほっほっほ。
新潟も、北前船の寄港地じゃったな。
大いにあり得たかも知れん。
しかし、名前は違ってたじゃろうな。
飛良泉の名は、仁賀保の地に由来するものじゃからな」
み「あ、そうなの?
じゃ、岩手の平泉とは、関係なし?」
老「仁賀保と平泉は、直線距離にすれば100キロくらいのものじゃが……。
その間には、2,000メートル級の奥羽山脈が聳えておる」
み「山を越えての交流は、難しいってことか。
そんなら、仁賀保にも平泉って地名があるの?」
老「そのものずばりではないがな。
蔵のあるあたりの地名を、平沢と云う」
老「廻船問屋の屋号は、『和泉屋』じゃ。
すなわち、平沢の和泉屋から……。
“平泉”と呼ばれるようになったらしい」
み「安直な……」
律「でも、文字が変わったのはなぜなんですか?」
老「良寛和尚を知っておるかな?」
み「知らいでか。
新潟県出身者としては、全国的なビッグネームじゃん」
老「その友人に、仁賀保出身の増田九木(きゅうぼく)という画家がおった」
↑『良寛手毬の図』(画:増田九木/書:良寛)【新潟県燕市・分水良寛資料館】
老「頓知のきく男でな。
良寛宛の手紙で……。
この“平泉”と呼ばれる酒に、別の文字をあてて、自慢をしたんじゃ。
すなわち、“飛”びきり“良”い、“白”い“水”とな」
み「ふむ。
『平』に、“飛”びきり“良”いをあてて、『飛良(ひら)』と読ませたのはわかるけど……。
“白”い“水”が、どうして『泉』なのよ?」
老「読めるじゃろ」
み「“白水”で、“いずみ”って読むのか?」
老「横に並べちゃいかん。
縦に積んでみなさい」
み「縦に……」
律「あ。
Mikiちゃん、“水”の上に“白”を乗せると……。
“泉”になる」
老「それが、頓知じゃよ」
み「なるほどねー」
老「この頓知が噂を呼び……。
齋藤家も気に入ったんじゃろうな。
とうとう、酒銘まで『飛良泉』になったというわけじゃ」
み「ようやく……。
名前の由来がわかった。
飛び切り良いお酒ってことだね。
何か、製法に特徴でもあるの?」
老「あると云えば……、ある」
み「ないと云えば……?」
老「無い」
み「なんじゃそれ」
老「すなわち、昔ながらの製法を守り続けてるということじゃ。
逆にこれが、今では珍しくなってしもうた」
み「お酒の作り方って、そんなに変わってるんですか?」
老「もちろん、基本的なところは一緒じゃ。
ただ工程が、少し違っておる。
乳酸菌の扱い方がな」
み「日本酒を造るのに、乳酸菌が必要なの?
マッコリみたいだね」
老「うむ。
マッコリは、日本のどぶろくに相当するものじゃな」
み「日本酒造りに、乳酸菌が関わってるとは知らなんだ」
老「乳酸菌は、主役ではないからの。
主役は、なんといっても酵母じゃ」
み「じゃ、乳酸菌の役割は?」
老「酵母を育てるためには、雑菌のいない環境が必要なんじゃ。
乳酸菌が造り出す乳酸によって、その環境が造られる」
老「そこで初めて、酵母の純粋培養が可能になるんじゃ」
み「昔と今で違うのは、どこなのよ?」
老「酵母を純粋培養したものを“もと”という。
現在、一般的に造られているのは……。
“速醸もと”と云ってな。
既成の乳酸菌を投入するやり方じゃ。
これであれば、2週間ほどで、“もと”が出来る」
み「てことは……。
飛良泉の造り方は、そうじゃないってことですね」
老「左様じゃ。
乳酸菌は投入しない」
み「それじゃ、どうするんです?」
老「待つんじゃな」
み「待つ?」
老「蔵に棲みついてる乳酸菌が、少しずつ取りこまれるのをな」
み「また、悠長な。
時間がかかるでしょうに」
老「“速醸もと”の2倍はかかる。
それだけ、途中で腐敗してしまうリスクも高い」
み「なるほど。
普通の蔵で、やらなくなって当然だね」
老「こうして造られた“もと”を……。
“山卸廃止もと(やまおろしはいしもと)”と云う」
み「なんじゃそれ?
柔道の技みたいだな」
老「それは、山嵐じゃろ」
老「一般的には、“山廃もと(やまはいもと)”と呼ばれておる。
“山廃”は、“山卸廃止”の略じゃよ」
み「なるほど。
“やまおろし”を“廃止”したから、“やま廃”か。
って、やっぱりわからんじゃないか!」
老「“山廃仕込み”という言葉を聞いたことは無いかな?」
み「あ、それなら聞いたことがあるかも」
み「じゃ、“山廃仕込み”ってのは……。
“やまおろし”を“廃止”した“もと”を使って仕込んだお酒ってこと?」
老「そのとおり」
み「まるっきり意味がわからん。
そもそも、“やまおろし”って何よ?」
老「昔から行われて来た、酒造りの工程のひとつじゃよ。
まず、蒸した米、麹、水を半切桶に入れる」
み「待って。
その“はんぎりおけ”ってのは、なに?」
老「半分に切ったような浅い桶のことじゃよ」
老「そこに入れた米を、ヨーグルト状になるまですり潰す工程を、“山卸”と云う」
み「なるほど。
でも、何でそれを、“やまおろし”って云うのよ?」
老「半切桶に、蒸米と麹を入れると……。
水を吸って膨れ上がるんじゃな。
それこそ、山のように盛りあがる。
これを、櫂棒で擦り卸すから、“山卸”というわけじゃ」
み「“卸”は、大根卸の“卸”ってことか」
み「でも、“かいぼう”って何?」
老「また、妙なことを考えておるんじゃないか?
“櫂”は、船を漕ぐ“櫂”のことじゃよ。
棒の先に、かき混ぜるための板が、垂直についておるんじゃな」
み「わかった!
お風呂で使う湯かき棒みたいな形だね」
老「左様じゃ。
これを使って、丹念に擦り卸すわけじゃ」
律「大変そうな作業ですね」
老「相当な重労働じゃったろうな。
桶一つに、蔵人が2、3人がかりでな。
“もと摺り唄”を歌いながら、呼吸を合わせて行ったものじゃ」
老「これを、一番摺り、二番摺り、三番摺りまで繰り返した。
なにしろ、良い酒は山卸の作業量に比例すると思われてたからの」
み「でも、結局廃止しちゃったんでしょ?
何でよ?
単に、大変だから?」
老「実はな……。
“山卸”は、必ずしも必要ではないと云うことがわかったんじゃ」
み「はぁ?
どういうこと?」