2012.3.3(土)
老「ほー。
わしの正体を知っておったか」
み「知らいでか。
三千世界、まなこのうちに尽きなん!」
老「あのセリフだけで見破るとは……。
侮れんヤツ」
み「どんなもんだい」
老「ふっふっふ。
しかし……。
わしの正体を知ってしまったからには……。
生かしておくわけにはいかん。
わしといっしょに、冥途に参れ!」
み「メイド喫茶に?」
老「ばかもん。
なんでわしが、メイド喫茶に行かにゃならんのじゃ。
冥途とは、あの世のことじゃ」
み「びぇ~。
ゆ、許してください。
『三千世界』は、ガイドさんに教えてもらったんですぅ。
わたしは、何にも知らなかったんですぅ」
老「ばかもん。
冗談じゃ。
何も泣くことは無かろう、臆病者じゃな」
み「うぅ。
ヒドい……。
こんなにビックリしたのに、何で夢から醒めないんだろう」
老「今醒められたら、わしの出てきた意味が無いではないか」
み「何しに来たんです?」
老「すっかり、邪魔物あつかいじゃな」
み「夢見てたら、しっかり睡眠が取れないじゃないですか」
老「睡眠は、夜取ればいいのじゃ。
早寝早起き!」
み「お昼寝も大事ですよ」
老「大人の昼寝は、ただの怠け者じゃ」
み「う。
減らず口ジジイ」
老「何か言ったか?」
み「耳はいいのね」
老「3キロ先まで聞こえるぞ」
み「コウモリか!」
老「いい加減、話を進めんと、読者に怒られるぞ」
み「はいはい。
ご心配ありがとうございます。
それじゃ、再登場のわけをお聞かせください」
老「忘れ物をしたからじゃ」
み「なんだ。
ベンチに巾着でも忘れたんですか?
そんなら、ここじゃなくて、展望台でしょ」
老「忘れたのは、持ち物ではない」
み「じゃ、何です?」
老「話じゃ」
み「なるほど。
入れ歯を忘れたんですね。
それで、“歯無し”」
老「つくずく……。
アホなオナゴじゃ。
語る相手を間違えたかの。
話というのは、お話。
“Story”。
ワ~カリマスカぁ?」
み「わかるわい!
何で突然外人口調になるんだ。
ちょっとボケただけでしょ」
老「天然のように聞こえたがの」
み「お話を忘れたってのは、どういうことです?」
老「三湖伝説じゃよ」
み「だって、ちゃんと落ちが付いてたじゃないですか。
十和田湖を追われた八郎太郎が……。
父親の消えた寒風山の麓に湖を作ったって。
それが、八郎潟ってわけでしょ」
老「だから、まだ二湖しか出てきてないじゃろ」
み「あ、そうか。
もうひとつは……。
田沢湖でしたよね。
日本一深い湖の」
老「そうじゃ。
実は……。
あんたらが田沢湖を訪れたときに……。
登場しようかと思ったんじゃがな」
み「その方が、わかりやすいのに」
老「しかし、田沢湖に立ち寄るとは限らない」
み「まだ、予定立ててませんからね」
老「うっかりすると……。
二湖だけ語って、わしの出番はおしまいということもあり得るわけじゃ」
み「大いにあり得ましたね~」
老「それじゃ、あまりにも無念じゃ。
この世に未練が残る」
み「もう死んでるじゃないですか」
老「ま、そう言わんと聞きなさい。
わしも、中途まで語って中断するのは……。
なんだか、うんこを途中で止めたようで……。
すっきりせんわい」
み「お下品……」
老「おまえが言うな!
スカトロ、書いといて」
み「げ。
そんなことまで、知ってるんですか」
老「あたりまえじゃ。
三千世界、まなこのうちに尽きなん!
何もかもお見通しじゃ。
あんたが毎朝、手淫しとるのも知っとるぞ」
み「しゅ、手淫って……。
まさか、見てたんじゃないでしょうね?」
老「ケツメドまで見えとるわい」
み「ヘンタイじじい!」
老「安心せい。
わしは、男のケツにしか興味がない」
み「ひえ~」
老「いい加減語り出さんと、読者が怒り出しそうじゃな」
み「なんの話でしたっけ?」
老「じゃから!
三湖伝説の、残りのひとつ。
田沢湖が出来た因縁話じゃよ」
み「それじゃ、どうぞ」
老「あんたと話しとると……。
どうも、調子が狂うの。
聞き手を間違えたようじゃ。
隣で寝とる美人さんに聞かせりゃ良かった」
み「言っときますけど……。
律子先生は、日本史には、まったく疎いですよ。
日本史の時間は、睡眠タイムだったそうですから。
何語っても、『馬の耳に念仏』状態だと思います」
老「うーむ。
それもまた、語り甲斐が無いのぅ」
み「わたしは、一番の適任だと思いますよ」
老「日本史は、得意じゃったのか?」
み「よくぞ聞いてくださいました」
老「数学は、まったくダメじゃったそうじゃが……」
み「それは、言わんでいい!
日本史のことを聞いてちょーだい」
老「難儀なヤツじゃの。
何でわしが話を聞かにゃならんのだ。
まあいい。
それじゃ、語ってみやれ」
み「そんなに聞きたいのなら、語ってあげましょう」
老「聞きとうはないのじゃが……」
み「いいから、聞けよ!
あのですね。
高校時代のわたしは、日本史が大得意だったんです。
当時わたしは、驚くべき記憶力を有してたからです」
老「ちょっと信じられんの」
み「今思い返すと、わたしにも信じられん。
とにかく、年号なんて、何の苦労も無く覚えられたんです。
ほかの人は、『鳴くよ(794)ウグイス平安京』なんて、語呂合わせで覚えてたみたいですけど……」
み「何であんなことしなきゃ覚えられないのか、不思議でした。
中間期末、5回の試験……。
ぜ~んぶ、学年トップでしたもの」
老「ほー。
そりゃすごいの」
み「でしょ?
しかも、一番悪かったときでも……。
97点。
全回、ダントツのトップだったんです」
老「なるほど。
威張るだけのことはあるようじゃの」
み「でしょでしょ。
『日本史だけの女王』と呼ばれてました」
老「それはそれで……。
哀しいものがあるが」
み「たしかに……。
数学や物理はビリでしたから」
老「気が済んだかの?
それでは、わしも語らせてもらうぞ」
み「わかりました。
聞いてしんぜよう」
老「偉そうじゃの。
まぁ、いいわい。
茶々を入れずに、黙って聞くんじゃぞ」
み「はいはい」
老「時は、いつとも知れぬ大昔。
なにしろ、まだ田沢湖が出来る前のことじゃ」
み「何百万年前の話です?」
老「茶々を入れない!
そんな昔では、人間が出て来れんではないか。
じゃから、年代は『いつとも知れぬ大昔』と言っておるのじゃ」
み「はいはい。
続けてください」
老「物語の舞台は、今の仙北市」
老「ここは、3つの町村が合併してできた市じゃ」
み「……」
老「どこが合併して出来たか、聞かんのか?」
み「だって、黙って聞けって」
老「読者の疑問を代弁するような質問は、許可する」
み「ずいぶんと都合がいいですね。
じゃぁ、聞きます。
どこが合併して出来たんです?」
老「知らざぁ言って聞かせやしょう」
み「いちいち腹の立つジジイだね」
老「何か言ったか?
わしは地獄耳じゃぞ」
み「どうぞ。
お続けください」
老「仙北市は……。
仙北郡の角館町、田沢湖町、西木村の3町村が合併し、2005年に発足した市じゃ。
合併に当たっては、いろいろすったもんだがあったのじゃが……。
それを話し出すと、また大脱線になるでな。
涙を飲んで省略する」
み「よかったぁ」
老「何か言ったか?」
み「続けてください」
老「物語の舞台は、かつての西木村領内になる」
老「田沢湖の西側じゃな。
そこに、辰子という娘がおった」
み「う。
いきなり、その名前……。
もう、わかっちゃいましたよ」
老「ま、ピンと来てあたりまえじゃろうな」
み「辰子の辰は……。
辰年の辰でしょ?」
老「そういうことじゃの。
ネタがばれても、かまわず続けるぞ。
辰子は、幼いころに父親を亡くし……。
母親の手ひとつで育てられた」
み「似てますね。
八郎太郎と。
その父親って……」
老「黙って聞きなさい。
辰子は、母親の愛情を一身に受け……。
素直な娘に育った。
友達と野山を駆け回る、どこにでもいる少女じゃった。
しかし……。
ある秋の日のこと。
友達と木の実を拾った帰りのことじゃ」
老「言っておくが……。
木の実ナナを拾ったわけではないぞ」
み「わかっとるわい!」
老「辰子は友達と別れ、家路を辿っておった。
野山を駆け回ったせいか、ノドの乾きを覚えた。
水筒の水も尽きていた」
老「で、林に湧く泉に立ち寄った」
老「水を飲もうと、手の平を泉に差し出すと……。
水面から、この世の者とは思えぬ美しい女性が、辰子を見あげていた。
無論、水に映っていたのは、少女から大人になりかけた辰子の姿じゃった。
辰子は声も出せず、その姿に見入った」
み「ナルシスの女版ですね」
老「そういうことじゃな。
辰子は、永遠にこの姿であり続けたいと願った。
しかし……。
母親のことを思うと、胸が塞いだ。
幼い頃の母親は、友達に自慢したくなるほど美しかった。
しかし、辰子が長じるにつれ……。
その美しさは、無惨なほどに衰えて行った。
女手一つで娘を育て上げるために……。
我が身を削ったんじゃな。
辰子は……。
自らの美しさも、やがては母親のように衰えていくことを悟り……。
愕然とした」
み「美人に生まれるのも、善し悪しですねー」
老「おまえさんは、良かったのぅ。
いらん心配が無くて」
み「なに!」
老「話を続ける。
で、辰子はその日から……。
夜な夜な、寝床を抜け出すようになった」
み「泥棒にでもなったんですか?」
老「なんで泥棒になるんじゃ。
話を聞きなさい」
み「はいはい」
老「辰子は……。
院内岳という裏山に、毎晩通うようになったのじゃ」
み「何しに?」
老「院内岳の大蔵観音に、百夜の願掛けをしたんじゃな」
み「何のため?」
老「わかりそうなもんじゃがの。
若さと美貌を永遠に保ちたい、という願い事をするためじゃよ」
み「百日間も、夜中に山登りするんですか?」
老「そうじゃ」
み「そんなことしたら……。
寝不足で隈が出来て、逆効果じゃないですか」
老「それだけ一途に思いこんだということじゃろ」
み「で、その願い、叶ったんですか?」
老「百日目の夜のことじゃ。
辰子の前に、観音様が現れた」
み「お~」
老「ひれ伏す辰子に、観音様はこう告げた。
『山の北側に湧く泉の水を飲むが良い。
さすれば、そなたの願いは叶うであろう』」
み「へ~。
やってみるものですね。
わたしもやってみようかな。
百日参り」
老「おまえさんには、丑の刻参りの方が似合いそうじゃがの」
み「なに!」
老「話を続ける。
辰子は、その足で泉を探しに行こうかと思ったが……。
真っ暗な山中では、足元もままならぬ。
仕方なく、家まで駆け戻った。
布団に入ったが、嬉しさで眠れない。
夜が明けるのを千秋の思いで待って、再び山に入った」
み「あったんですか、泉?」
老「ブナ林の中に……。
ひっそりと眠るようにな」
老「辰子は、白い手を差し伸べ……。
氷のように冷たい水を飲んだ。
一口では足りぬと思い、二口、三口と啜るうち……。
どういうわけか、だんだんノドが乾いてくる。
とうとう辰子は、泉の縁に腹ばいになり……。
水面に口を付け、直接飲み始めた」
み「それって、八郎太郎の話とそっくりじゃないですか」
老「そういうことじゃな」
み「となると……。
続きも一緒ですか?」
老「うむ。
我を忘れて、水を飲むうち……。
突然、空が暗くなる。
と思うと……。
天が裂けるような雷が轟いた」
老「同時に、激しい雨が降り出す。
あっと言う間に山が崩れ……。
溢れた水が谷を埋めて、たちまち深い湖が出来た」
老「その湖を覗きこんだ辰子は、愕然とした。
水に映っていたのは……。
目は炎のように赤く、鱗を全身にまとった龍の姿じゃった」
み「やっぱり……」
老「辰子はようやく、我が身に報いが下ったことを悟った。
そして、出来たばかりの湖に身を沈めたんじゃ」
み「どうして、そこまでの報いを受けなきゃならないんです?
美しくあり続けたいというのは……。
すべての女性の願いじゃないですか。
あ、わかった!
嫉妬だ」
み「観音様の嫉妬です。
観音様は、『世界で一番美しいのは誰?』って、毎日鏡に聞いてたんですよ」
み「そしたら、ある日鏡が、『それは院内の辰子です』って答えた。
嫉妬に燃えた観音様は、辰子をおびき寄せ……。
毒リンゴを与えた」
老「話が違って来ておるぞ。
辰子も、哀れには相違ないが……。
もっと哀れなのが、母親じゃった。
帰ってこない辰子を案じた母親は、昼も夜も山に入り、探し回った。
そしてある夜、見たことのない大きな湖を見つけた」
老「すると湖面から、母親を呼ぶ辰子の声が聞こえてきた」
老「辰子は、自らの身に起きた報いを母親に告げた。
母親は嘆き悲しみ、泣き叫んだ。
しかし、いくら呼んでも、もう辰子の声は応えてくれなかった。
夜の白むころ……。
母親は、辰子に別れを告げるため……。
手に持った松明を、湖に投げた」
み「うぅ。
悲しすぎます」
老「母親の投げた松明が水に落ちると……。
たちまち魚となって泳ぎだしたという。
これが、田沢湖のクニマスじゃ」
老「クニマスの色が黒いのは……。
もともとが焼けた松明だったから、というわけじゃ」
み「え?
クニマスって、あの“さかなクン”が発見したっていう?」
老「そうらしいの」
み「あれって、田沢湖でしたっけ?」
老「発見されたのは、山梨県の西湖じゃ」
老「田沢湖のクニマスは、とっくの昔に死滅してしまった」
み「どうしてです?」
老「かつての田沢湖は、摩周湖に迫るほどの透明度を誇っておった。
昭和6年(1931年)の調査によると、透明度31メートルというデータが残っておる」
み「今は違うってことですね」
老「戦争のせいじゃよ。
昭和15年(1940年)、電力供給量を増やすため……。
田沢湖の湖水を利用した水力発電所が作られた。
当然、そのままでは、田沢湖は枯れてしまう。
で、よその水系から水を引いて、田沢湖に流し入れたんじゃな」
老「そのとき田沢湖に流されたのが、玉川毒水と呼ばれる恐ろしい水でな」
老「玉川温泉から出る、強酸性の温泉水じゃ」
老「pH(ペーハー)は、実に1.2。
レモンでも、2.5なんじゃぞ」
老「pH1.2という数字は、胃液と同じ」
み「そんなお湯に、源泉で入浴してるんですか?」
老「いろんなレベルに薄めた湯船があるようじゃ。
もちろん、源泉の湯もある。
これに入る場合は、注意が必要じゃぞ」
み「胃液と同じなら……。
入ったら、溶けちゃうとか?」
老「中には、溶けてしまった人もおったかものぅ」
み「ほ、ほんとですか!」
老「湯船の底には……。
白骨が沈んでいるということじゃ」
み「どひゃ~」
老「ばかもん!
まともに驚きおって。
ウソに決まっとろうが」
み「このジジイ……」
老「あくまでpHが同じというだけで……。
温泉は消化液では無い。
従って、人間が溶けることはない。
……が」
み「が?」
老「なにしろ、主成分が塩酸じゃからのぅ」
み「ひぇ」
老「皮膚の弱い幼児などは、尻たぶが溶けたという話もある」
み「めちゃめちゃ危険じゃないですか!」
老「子供は、湯に浸かったとたん泣き叫ぶそうじゃ。
ま、おまえさんの面の皮なら、大丈夫じゃろうが」
み「なに!」
老「しかし、いくら面の皮が厚い人でも、注意が必要じゃぞ」
み「どんな?」
老「よく、湯船につかりながら、お湯でツルンと顔を撫でる人がいるじゃろ」
み「テレビの紀行番組で、必ずやりますよね。
レポーターが」
老「あれを、玉川温泉の源泉でやったら、大変じゃぞ。
お湯が目に入ってしまう。
レモンよりも酸っぱいお湯なんじゃからな」
み「なるほど。
『煙が目にしみる』ならぬ……。
み「『お湯が目にしみる』ってわけですね」
老「そういうことじゃ。
でも、この源泉は飲むことも出来るんじゃよ」
み「大丈夫なんですか」
老「もちろん、薄めての話じゃ。
それでも飲むときは、ストローを使わねばならん」
↑こんなストローは必要ありません
み「なぜです?」
老「お湯が、歯に着かないようにする必要があるからじゃ」
み「歯に着くと、どうなるんです?」
老「エナメル質が溶ける」
み「ひょぇ~」
老「この温泉、湧出量がまた半端じゃない。
『大噴(おおぶけ)』と呼ばれる湧出口からは、毎分9,000リットルの湯が噴き出しとる」
み「9,000リットル!
そう言えば、『福島に行こう!』で……。
『アクアマリンふくしま』の大水層を、小学校のプールと比べたことがありました」
み「プールの水量は……。
25メートル(長さ)×15メートル(幅)×1.2メートル(深さ)で……。
450立方メートルでした。
『大噴(おおぶけ)』の湧出量、9,000リットルは……。
すなわち、9立方メートル(ここで換算してみよう)」
老「なるほど、割算じゃな」
み「450÷9は……。
電卓電卓!」
老「旅行に電卓持ってきたのか?」
み「経理課員なら……。
電卓は、肌身離さず持ってますよ」
老「なんじゃ、その電卓は」
み「可愛いでしょ♪」
老「思い切り、似合わん」
み「やかましい!」
老「450÷9は……。
小学生でも暗算できると思うがの」
み「自分の頭よりも、電卓が確実。
450÷9=50!
ギョギョ~。
50分で、小学校のプールが満杯になっちゃうじゃないですか」
み「1日は……。
60分×24時間で、1,440分だから……。
これを50分で割ると……。
28.8。
1日で、プール29杯分!」
老「単一の湧出口からの湧出量としては、日本一なんじゃよ。
おぉ、そうじゃ。
おまえさんの“ギョギョ~”で、思い出したわい。
クニマスの話じゃったな」
老「で、このような大量の強酸水が、田沢湖に流れこんだわけじゃ。
1年もしないうちに……。
クニマスどころか、魚はほとんで死滅してしまった」
み「ヒドいことしますね」
老「まったくじゃ」
み「反対運動とか、なかったんですか」
老「当時は、国を挙げての戦時体制の真っ直中じゃ」
老「反対などしようものなら、非国民扱いじゃろうな」
み「報いは……。
辰子じゃなくて……。
田沢湖の魚を殺した奴らにこそ下されるべき!」
老「ま、戦争に負けたんじゃから……。
報いが下ったとも言えるが……」
老「それで一番苦労させられたのは一般国民なんじゃから、遣り切れん話じゃ」
み「でも、何で山梨にクニマスがいたんです?
田沢湖の固有種だったんでしょ?」
老「昭和10年(1935年)……。
西湖に、10万個の受精卵が放流されとる。
その卵が孵化し、繁殖を繰り返して現在に至ったようじゃ」
み「1935年って、発電所ができる5年前ですよね。
スゴいタイミング」
老「玉川水系の導入計画は、以前から持ち上がっていたようじゃ。
地元の漁師は……。
玉川毒水なんかが入ったら……。
クニマスは生きておれないと、わかっておったんじゃな。
西湖のほかにも、本栖湖や琵琶湖にも卵を送ったらしい」
↑本栖湖
み「そのうちの西湖の卵が、生き延びてたというわけですね」
老「そういうことじゃ」
み「ところで……。
いったいどういうわけで、さかなクンがクニマスを発見したんです?」
老「わしがそんなことまで知るか!
と言いたいところじゃが……。
話の都合上、詳しく知っておる。
ことの発端は、京都大学の中坊教授が……」
老「さかなクンに、クニマスのイラストを依頼したことなんじゃ」
老「さかなクンは、イラストの参考にしようと……。
全国各地から、近縁種のヒメマスを取り寄せた。
その中に、西湖から届いたのが混じってたわけじゃが……。
その個体が、まさしくクニマスの特徴を備えておったんじゃな」
↑上がヒメマス、下がクニマス(いずれも西湖の個体)
老「さかなクンは、その個体を中坊教授に送った。
で、京大の研究グループが、遺伝子解析を行った結果……」
老「個体は、クニマスそのものであることが判明したわけじゃ」
み「へー。
そういう経緯だったんですか。
さかなクンが、西湖で釣ったのかと思ってた」
み「でもそれじゃ、発見者は、そのクニマスを釣った人じゃないんですか?」
老「いやいや。
西湖では、別に珍しい魚ではなく……。
普通に泳いどったらしい」
み「は?」
老「地元では、見たまんま、クロマスと呼ばれておった」
老「ヒメマスを狙った釣りでも、10匹に1匹はクニマスが釣れてたらしい」
↑発見前の釣果の画像。左の3匹は、どうも怪しい。
み「じゃ、発見もなにも無いじゃないですか」
老「普通に釣られて、普通に食われておった」
み「ありゃりゃ。
クニマスって、美味しいんですか?」
老「これがな……。
実に美味いんじゃよ。
だが、この味を知る者は、以外と少ないらしい。
というのも、クニマスは、釣れてもリリースされる場合が多かったようなんじゃ」
み「どうしてです?」
老「ヒメマスは産卵時期になると、色が黒っぽくなる。
この時期のヒメマスは、マズいんじゃよ。
それを知ってる人には、元々黒いクニマスも、マズそうに見えたんじゃろうな」
み「あ。
ひょっとして、そのために個体数が保持されたんじゃないですか?」
老「それもあるかも知れんの」
み「食べてみたいな」
老「ウマいぞ~」
み「食べたことがあるって、生きてるときにですか?」
老「当たり前じゃ」
み「それじゃ、江戸時代じゃないですか。
そもそもクニマスって、田沢湖には、いつごろ放流されたんですか?」
老「放流なんぞされとらん。
元々、おった」
み「だって田沢湖は、カルデラ湖じゃないですか」
み「流入河川なんか、無かったわけでしょ。
火口に雨水が溜まった湖なら、人が放流しない限り、魚はいないはず」
老「実は、田沢湖の成因ははっきりとはわかっていないんじゃ」
み「え?
カルデラ湖じゃないの?」
老「もちろん、カルデラ説がもっとも有力ではある。
昔の書物では、はっきりカルデラ湖と記されてたようじゃしな」
み「日本一深い湖が、カルデラじゃなかったら……。
ほかにどんな成因があるんです?」
老「巨大隕石衝突説もあるぞ」
↑カナダ・ケベック州「マニクアガン・クレーター」
み「ほとんどSF」
老「もうひとつは、断層運動によって窪地が出来たという説。
諏訪湖の成因が、これじゃな」
↑諏訪湖
み「田沢湖の最大深度って、何メートルでしたっけ?」
老「423.4メートルじゃ」
み「いくらなんでも、断層運動で、そんな段差は出来ないでしょ」
老「いずれにしろ、不思議な湖じゃよ。
湖面の標高は、249メートル。
すなわち、最深部の湖底は、海面下174.4メートルというわけじゃ」
み「うーん。
隕石説もありそうですね」
老「じゃろ。
世界でも、17番目に深い湖じゃ」
わしの正体を知っておったか」
み「知らいでか。
三千世界、まなこのうちに尽きなん!」
老「あのセリフだけで見破るとは……。
侮れんヤツ」
み「どんなもんだい」
老「ふっふっふ。
しかし……。
わしの正体を知ってしまったからには……。
生かしておくわけにはいかん。
わしといっしょに、冥途に参れ!」
み「メイド喫茶に?」
老「ばかもん。
なんでわしが、メイド喫茶に行かにゃならんのじゃ。
冥途とは、あの世のことじゃ」
み「びぇ~。
ゆ、許してください。
『三千世界』は、ガイドさんに教えてもらったんですぅ。
わたしは、何にも知らなかったんですぅ」
老「ばかもん。
冗談じゃ。
何も泣くことは無かろう、臆病者じゃな」
み「うぅ。
ヒドい……。
こんなにビックリしたのに、何で夢から醒めないんだろう」
老「今醒められたら、わしの出てきた意味が無いではないか」
み「何しに来たんです?」
老「すっかり、邪魔物あつかいじゃな」
み「夢見てたら、しっかり睡眠が取れないじゃないですか」
老「睡眠は、夜取ればいいのじゃ。
早寝早起き!」
み「お昼寝も大事ですよ」
老「大人の昼寝は、ただの怠け者じゃ」
み「う。
減らず口ジジイ」
老「何か言ったか?」
み「耳はいいのね」
老「3キロ先まで聞こえるぞ」
み「コウモリか!」
老「いい加減、話を進めんと、読者に怒られるぞ」
み「はいはい。
ご心配ありがとうございます。
それじゃ、再登場のわけをお聞かせください」
老「忘れ物をしたからじゃ」
み「なんだ。
ベンチに巾着でも忘れたんですか?
そんなら、ここじゃなくて、展望台でしょ」
老「忘れたのは、持ち物ではない」
み「じゃ、何です?」
老「話じゃ」
み「なるほど。
入れ歯を忘れたんですね。
それで、“歯無し”」
老「つくずく……。
アホなオナゴじゃ。
語る相手を間違えたかの。
話というのは、お話。
“Story”。
ワ~カリマスカぁ?」
み「わかるわい!
何で突然外人口調になるんだ。
ちょっとボケただけでしょ」
老「天然のように聞こえたがの」
み「お話を忘れたってのは、どういうことです?」
老「三湖伝説じゃよ」
み「だって、ちゃんと落ちが付いてたじゃないですか。
十和田湖を追われた八郎太郎が……。
父親の消えた寒風山の麓に湖を作ったって。
それが、八郎潟ってわけでしょ」
老「だから、まだ二湖しか出てきてないじゃろ」
み「あ、そうか。
もうひとつは……。
田沢湖でしたよね。
日本一深い湖の」
老「そうじゃ。
実は……。
あんたらが田沢湖を訪れたときに……。
登場しようかと思ったんじゃがな」
み「その方が、わかりやすいのに」
老「しかし、田沢湖に立ち寄るとは限らない」
み「まだ、予定立ててませんからね」
老「うっかりすると……。
二湖だけ語って、わしの出番はおしまいということもあり得るわけじゃ」
み「大いにあり得ましたね~」
老「それじゃ、あまりにも無念じゃ。
この世に未練が残る」
み「もう死んでるじゃないですか」
老「ま、そう言わんと聞きなさい。
わしも、中途まで語って中断するのは……。
なんだか、うんこを途中で止めたようで……。
すっきりせんわい」
み「お下品……」
老「おまえが言うな!
スカトロ、書いといて」
み「げ。
そんなことまで、知ってるんですか」
老「あたりまえじゃ。
三千世界、まなこのうちに尽きなん!
何もかもお見通しじゃ。
あんたが毎朝、手淫しとるのも知っとるぞ」
み「しゅ、手淫って……。
まさか、見てたんじゃないでしょうね?」
老「ケツメドまで見えとるわい」
み「ヘンタイじじい!」
老「安心せい。
わしは、男のケツにしか興味がない」
み「ひえ~」
老「いい加減語り出さんと、読者が怒り出しそうじゃな」
み「なんの話でしたっけ?」
老「じゃから!
三湖伝説の、残りのひとつ。
田沢湖が出来た因縁話じゃよ」
み「それじゃ、どうぞ」
老「あんたと話しとると……。
どうも、調子が狂うの。
聞き手を間違えたようじゃ。
隣で寝とる美人さんに聞かせりゃ良かった」
み「言っときますけど……。
律子先生は、日本史には、まったく疎いですよ。
日本史の時間は、睡眠タイムだったそうですから。
何語っても、『馬の耳に念仏』状態だと思います」
老「うーむ。
それもまた、語り甲斐が無いのぅ」
み「わたしは、一番の適任だと思いますよ」
老「日本史は、得意じゃったのか?」
み「よくぞ聞いてくださいました」
老「数学は、まったくダメじゃったそうじゃが……」
み「それは、言わんでいい!
日本史のことを聞いてちょーだい」
老「難儀なヤツじゃの。
何でわしが話を聞かにゃならんのだ。
まあいい。
それじゃ、語ってみやれ」
み「そんなに聞きたいのなら、語ってあげましょう」
老「聞きとうはないのじゃが……」
み「いいから、聞けよ!
あのですね。
高校時代のわたしは、日本史が大得意だったんです。
当時わたしは、驚くべき記憶力を有してたからです」
老「ちょっと信じられんの」
み「今思い返すと、わたしにも信じられん。
とにかく、年号なんて、何の苦労も無く覚えられたんです。
ほかの人は、『鳴くよ(794)ウグイス平安京』なんて、語呂合わせで覚えてたみたいですけど……」
み「何であんなことしなきゃ覚えられないのか、不思議でした。
中間期末、5回の試験……。
ぜ~んぶ、学年トップでしたもの」
老「ほー。
そりゃすごいの」
み「でしょ?
しかも、一番悪かったときでも……。
97点。
全回、ダントツのトップだったんです」
老「なるほど。
威張るだけのことはあるようじゃの」
み「でしょでしょ。
『日本史だけの女王』と呼ばれてました」
老「それはそれで……。
哀しいものがあるが」
み「たしかに……。
数学や物理はビリでしたから」
老「気が済んだかの?
それでは、わしも語らせてもらうぞ」
み「わかりました。
聞いてしんぜよう」
老「偉そうじゃの。
まぁ、いいわい。
茶々を入れずに、黙って聞くんじゃぞ」
み「はいはい」
老「時は、いつとも知れぬ大昔。
なにしろ、まだ田沢湖が出来る前のことじゃ」
み「何百万年前の話です?」
老「茶々を入れない!
そんな昔では、人間が出て来れんではないか。
じゃから、年代は『いつとも知れぬ大昔』と言っておるのじゃ」
み「はいはい。
続けてください」
老「物語の舞台は、今の仙北市」
老「ここは、3つの町村が合併してできた市じゃ」
み「……」
老「どこが合併して出来たか、聞かんのか?」
み「だって、黙って聞けって」
老「読者の疑問を代弁するような質問は、許可する」
み「ずいぶんと都合がいいですね。
じゃぁ、聞きます。
どこが合併して出来たんです?」
老「知らざぁ言って聞かせやしょう」
み「いちいち腹の立つジジイだね」
老「何か言ったか?
わしは地獄耳じゃぞ」
み「どうぞ。
お続けください」
老「仙北市は……。
仙北郡の角館町、田沢湖町、西木村の3町村が合併し、2005年に発足した市じゃ。
合併に当たっては、いろいろすったもんだがあったのじゃが……。
それを話し出すと、また大脱線になるでな。
涙を飲んで省略する」
み「よかったぁ」
老「何か言ったか?」
み「続けてください」
老「物語の舞台は、かつての西木村領内になる」
老「田沢湖の西側じゃな。
そこに、辰子という娘がおった」
み「う。
いきなり、その名前……。
もう、わかっちゃいましたよ」
老「ま、ピンと来てあたりまえじゃろうな」
み「辰子の辰は……。
辰年の辰でしょ?」
老「そういうことじゃの。
ネタがばれても、かまわず続けるぞ。
辰子は、幼いころに父親を亡くし……。
母親の手ひとつで育てられた」
み「似てますね。
八郎太郎と。
その父親って……」
老「黙って聞きなさい。
辰子は、母親の愛情を一身に受け……。
素直な娘に育った。
友達と野山を駆け回る、どこにでもいる少女じゃった。
しかし……。
ある秋の日のこと。
友達と木の実を拾った帰りのことじゃ」
老「言っておくが……。
木の実ナナを拾ったわけではないぞ」
み「わかっとるわい!」
老「辰子は友達と別れ、家路を辿っておった。
野山を駆け回ったせいか、ノドの乾きを覚えた。
水筒の水も尽きていた」
老「で、林に湧く泉に立ち寄った」
老「水を飲もうと、手の平を泉に差し出すと……。
水面から、この世の者とは思えぬ美しい女性が、辰子を見あげていた。
無論、水に映っていたのは、少女から大人になりかけた辰子の姿じゃった。
辰子は声も出せず、その姿に見入った」
み「ナルシスの女版ですね」
老「そういうことじゃな。
辰子は、永遠にこの姿であり続けたいと願った。
しかし……。
母親のことを思うと、胸が塞いだ。
幼い頃の母親は、友達に自慢したくなるほど美しかった。
しかし、辰子が長じるにつれ……。
その美しさは、無惨なほどに衰えて行った。
女手一つで娘を育て上げるために……。
我が身を削ったんじゃな。
辰子は……。
自らの美しさも、やがては母親のように衰えていくことを悟り……。
愕然とした」
み「美人に生まれるのも、善し悪しですねー」
老「おまえさんは、良かったのぅ。
いらん心配が無くて」
み「なに!」
老「話を続ける。
で、辰子はその日から……。
夜な夜な、寝床を抜け出すようになった」
み「泥棒にでもなったんですか?」
老「なんで泥棒になるんじゃ。
話を聞きなさい」
み「はいはい」
老「辰子は……。
院内岳という裏山に、毎晩通うようになったのじゃ」
み「何しに?」
老「院内岳の大蔵観音に、百夜の願掛けをしたんじゃな」
み「何のため?」
老「わかりそうなもんじゃがの。
若さと美貌を永遠に保ちたい、という願い事をするためじゃよ」
み「百日間も、夜中に山登りするんですか?」
老「そうじゃ」
み「そんなことしたら……。
寝不足で隈が出来て、逆効果じゃないですか」
老「それだけ一途に思いこんだということじゃろ」
み「で、その願い、叶ったんですか?」
老「百日目の夜のことじゃ。
辰子の前に、観音様が現れた」
み「お~」
老「ひれ伏す辰子に、観音様はこう告げた。
『山の北側に湧く泉の水を飲むが良い。
さすれば、そなたの願いは叶うであろう』」
み「へ~。
やってみるものですね。
わたしもやってみようかな。
百日参り」
老「おまえさんには、丑の刻参りの方が似合いそうじゃがの」
み「なに!」
老「話を続ける。
辰子は、その足で泉を探しに行こうかと思ったが……。
真っ暗な山中では、足元もままならぬ。
仕方なく、家まで駆け戻った。
布団に入ったが、嬉しさで眠れない。
夜が明けるのを千秋の思いで待って、再び山に入った」
み「あったんですか、泉?」
老「ブナ林の中に……。
ひっそりと眠るようにな」
老「辰子は、白い手を差し伸べ……。
氷のように冷たい水を飲んだ。
一口では足りぬと思い、二口、三口と啜るうち……。
どういうわけか、だんだんノドが乾いてくる。
とうとう辰子は、泉の縁に腹ばいになり……。
水面に口を付け、直接飲み始めた」
み「それって、八郎太郎の話とそっくりじゃないですか」
老「そういうことじゃな」
み「となると……。
続きも一緒ですか?」
老「うむ。
我を忘れて、水を飲むうち……。
突然、空が暗くなる。
と思うと……。
天が裂けるような雷が轟いた」
老「同時に、激しい雨が降り出す。
あっと言う間に山が崩れ……。
溢れた水が谷を埋めて、たちまち深い湖が出来た」
老「その湖を覗きこんだ辰子は、愕然とした。
水に映っていたのは……。
目は炎のように赤く、鱗を全身にまとった龍の姿じゃった」
み「やっぱり……」
老「辰子はようやく、我が身に報いが下ったことを悟った。
そして、出来たばかりの湖に身を沈めたんじゃ」
み「どうして、そこまでの報いを受けなきゃならないんです?
美しくあり続けたいというのは……。
すべての女性の願いじゃないですか。
あ、わかった!
嫉妬だ」
み「観音様の嫉妬です。
観音様は、『世界で一番美しいのは誰?』って、毎日鏡に聞いてたんですよ」
み「そしたら、ある日鏡が、『それは院内の辰子です』って答えた。
嫉妬に燃えた観音様は、辰子をおびき寄せ……。
毒リンゴを与えた」
老「話が違って来ておるぞ。
辰子も、哀れには相違ないが……。
もっと哀れなのが、母親じゃった。
帰ってこない辰子を案じた母親は、昼も夜も山に入り、探し回った。
そしてある夜、見たことのない大きな湖を見つけた」
老「すると湖面から、母親を呼ぶ辰子の声が聞こえてきた」
老「辰子は、自らの身に起きた報いを母親に告げた。
母親は嘆き悲しみ、泣き叫んだ。
しかし、いくら呼んでも、もう辰子の声は応えてくれなかった。
夜の白むころ……。
母親は、辰子に別れを告げるため……。
手に持った松明を、湖に投げた」
み「うぅ。
悲しすぎます」
老「母親の投げた松明が水に落ちると……。
たちまち魚となって泳ぎだしたという。
これが、田沢湖のクニマスじゃ」
老「クニマスの色が黒いのは……。
もともとが焼けた松明だったから、というわけじゃ」
み「え?
クニマスって、あの“さかなクン”が発見したっていう?」
老「そうらしいの」
み「あれって、田沢湖でしたっけ?」
老「発見されたのは、山梨県の西湖じゃ」
老「田沢湖のクニマスは、とっくの昔に死滅してしまった」
み「どうしてです?」
老「かつての田沢湖は、摩周湖に迫るほどの透明度を誇っておった。
昭和6年(1931年)の調査によると、透明度31メートルというデータが残っておる」
み「今は違うってことですね」
老「戦争のせいじゃよ。
昭和15年(1940年)、電力供給量を増やすため……。
田沢湖の湖水を利用した水力発電所が作られた。
当然、そのままでは、田沢湖は枯れてしまう。
で、よその水系から水を引いて、田沢湖に流し入れたんじゃな」
老「そのとき田沢湖に流されたのが、玉川毒水と呼ばれる恐ろしい水でな」
老「玉川温泉から出る、強酸性の温泉水じゃ」
老「pH(ペーハー)は、実に1.2。
レモンでも、2.5なんじゃぞ」
老「pH1.2という数字は、胃液と同じ」
み「そんなお湯に、源泉で入浴してるんですか?」
老「いろんなレベルに薄めた湯船があるようじゃ。
もちろん、源泉の湯もある。
これに入る場合は、注意が必要じゃぞ」
み「胃液と同じなら……。
入ったら、溶けちゃうとか?」
老「中には、溶けてしまった人もおったかものぅ」
み「ほ、ほんとですか!」
老「湯船の底には……。
白骨が沈んでいるということじゃ」
み「どひゃ~」
老「ばかもん!
まともに驚きおって。
ウソに決まっとろうが」
み「このジジイ……」
老「あくまでpHが同じというだけで……。
温泉は消化液では無い。
従って、人間が溶けることはない。
……が」
み「が?」
老「なにしろ、主成分が塩酸じゃからのぅ」
み「ひぇ」
老「皮膚の弱い幼児などは、尻たぶが溶けたという話もある」
み「めちゃめちゃ危険じゃないですか!」
老「子供は、湯に浸かったとたん泣き叫ぶそうじゃ。
ま、おまえさんの面の皮なら、大丈夫じゃろうが」
み「なに!」
老「しかし、いくら面の皮が厚い人でも、注意が必要じゃぞ」
み「どんな?」
老「よく、湯船につかりながら、お湯でツルンと顔を撫でる人がいるじゃろ」
み「テレビの紀行番組で、必ずやりますよね。
レポーターが」
老「あれを、玉川温泉の源泉でやったら、大変じゃぞ。
お湯が目に入ってしまう。
レモンよりも酸っぱいお湯なんじゃからな」
み「なるほど。
『煙が目にしみる』ならぬ……。
み「『お湯が目にしみる』ってわけですね」
老「そういうことじゃ。
でも、この源泉は飲むことも出来るんじゃよ」
み「大丈夫なんですか」
老「もちろん、薄めての話じゃ。
それでも飲むときは、ストローを使わねばならん」
↑こんなストローは必要ありません
み「なぜです?」
老「お湯が、歯に着かないようにする必要があるからじゃ」
み「歯に着くと、どうなるんです?」
老「エナメル質が溶ける」
み「ひょぇ~」
老「この温泉、湧出量がまた半端じゃない。
『大噴(おおぶけ)』と呼ばれる湧出口からは、毎分9,000リットルの湯が噴き出しとる」
み「9,000リットル!
そう言えば、『福島に行こう!』で……。
『アクアマリンふくしま』の大水層を、小学校のプールと比べたことがありました」
み「プールの水量は……。
25メートル(長さ)×15メートル(幅)×1.2メートル(深さ)で……。
450立方メートルでした。
『大噴(おおぶけ)』の湧出量、9,000リットルは……。
すなわち、9立方メートル(ここで換算してみよう)」
老「なるほど、割算じゃな」
み「450÷9は……。
電卓電卓!」
老「旅行に電卓持ってきたのか?」
み「経理課員なら……。
電卓は、肌身離さず持ってますよ」
老「なんじゃ、その電卓は」
み「可愛いでしょ♪」
老「思い切り、似合わん」
み「やかましい!」
老「450÷9は……。
小学生でも暗算できると思うがの」
み「自分の頭よりも、電卓が確実。
450÷9=50!
ギョギョ~。
50分で、小学校のプールが満杯になっちゃうじゃないですか」
み「1日は……。
60分×24時間で、1,440分だから……。
これを50分で割ると……。
28.8。
1日で、プール29杯分!」
老「単一の湧出口からの湧出量としては、日本一なんじゃよ。
おぉ、そうじゃ。
おまえさんの“ギョギョ~”で、思い出したわい。
クニマスの話じゃったな」
老「で、このような大量の強酸水が、田沢湖に流れこんだわけじゃ。
1年もしないうちに……。
クニマスどころか、魚はほとんで死滅してしまった」
み「ヒドいことしますね」
老「まったくじゃ」
み「反対運動とか、なかったんですか」
老「当時は、国を挙げての戦時体制の真っ直中じゃ」
老「反対などしようものなら、非国民扱いじゃろうな」
み「報いは……。
辰子じゃなくて……。
田沢湖の魚を殺した奴らにこそ下されるべき!」
老「ま、戦争に負けたんじゃから……。
報いが下ったとも言えるが……」
老「それで一番苦労させられたのは一般国民なんじゃから、遣り切れん話じゃ」
み「でも、何で山梨にクニマスがいたんです?
田沢湖の固有種だったんでしょ?」
老「昭和10年(1935年)……。
西湖に、10万個の受精卵が放流されとる。
その卵が孵化し、繁殖を繰り返して現在に至ったようじゃ」
み「1935年って、発電所ができる5年前ですよね。
スゴいタイミング」
老「玉川水系の導入計画は、以前から持ち上がっていたようじゃ。
地元の漁師は……。
玉川毒水なんかが入ったら……。
クニマスは生きておれないと、わかっておったんじゃな。
西湖のほかにも、本栖湖や琵琶湖にも卵を送ったらしい」
↑本栖湖
み「そのうちの西湖の卵が、生き延びてたというわけですね」
老「そういうことじゃ」
み「ところで……。
いったいどういうわけで、さかなクンがクニマスを発見したんです?」
老「わしがそんなことまで知るか!
と言いたいところじゃが……。
話の都合上、詳しく知っておる。
ことの発端は、京都大学の中坊教授が……」
老「さかなクンに、クニマスのイラストを依頼したことなんじゃ」
老「さかなクンは、イラストの参考にしようと……。
全国各地から、近縁種のヒメマスを取り寄せた。
その中に、西湖から届いたのが混じってたわけじゃが……。
その個体が、まさしくクニマスの特徴を備えておったんじゃな」
↑上がヒメマス、下がクニマス(いずれも西湖の個体)
老「さかなクンは、その個体を中坊教授に送った。
で、京大の研究グループが、遺伝子解析を行った結果……」
老「個体は、クニマスそのものであることが判明したわけじゃ」
み「へー。
そういう経緯だったんですか。
さかなクンが、西湖で釣ったのかと思ってた」
み「でもそれじゃ、発見者は、そのクニマスを釣った人じゃないんですか?」
老「いやいや。
西湖では、別に珍しい魚ではなく……。
普通に泳いどったらしい」
み「は?」
老「地元では、見たまんま、クロマスと呼ばれておった」
老「ヒメマスを狙った釣りでも、10匹に1匹はクニマスが釣れてたらしい」
↑発見前の釣果の画像。左の3匹は、どうも怪しい。
み「じゃ、発見もなにも無いじゃないですか」
老「普通に釣られて、普通に食われておった」
み「ありゃりゃ。
クニマスって、美味しいんですか?」
老「これがな……。
実に美味いんじゃよ。
だが、この味を知る者は、以外と少ないらしい。
というのも、クニマスは、釣れてもリリースされる場合が多かったようなんじゃ」
み「どうしてです?」
老「ヒメマスは産卵時期になると、色が黒っぽくなる。
この時期のヒメマスは、マズいんじゃよ。
それを知ってる人には、元々黒いクニマスも、マズそうに見えたんじゃろうな」
み「あ。
ひょっとして、そのために個体数が保持されたんじゃないですか?」
老「それもあるかも知れんの」
み「食べてみたいな」
老「ウマいぞ~」
み「食べたことがあるって、生きてるときにですか?」
老「当たり前じゃ」
み「それじゃ、江戸時代じゃないですか。
そもそもクニマスって、田沢湖には、いつごろ放流されたんですか?」
老「放流なんぞされとらん。
元々、おった」
み「だって田沢湖は、カルデラ湖じゃないですか」
み「流入河川なんか、無かったわけでしょ。
火口に雨水が溜まった湖なら、人が放流しない限り、魚はいないはず」
老「実は、田沢湖の成因ははっきりとはわかっていないんじゃ」
み「え?
カルデラ湖じゃないの?」
老「もちろん、カルデラ説がもっとも有力ではある。
昔の書物では、はっきりカルデラ湖と記されてたようじゃしな」
み「日本一深い湖が、カルデラじゃなかったら……。
ほかにどんな成因があるんです?」
老「巨大隕石衝突説もあるぞ」
↑カナダ・ケベック州「マニクアガン・クレーター」
み「ほとんどSF」
老「もうひとつは、断層運動によって窪地が出来たという説。
諏訪湖の成因が、これじゃな」
↑諏訪湖
み「田沢湖の最大深度って、何メートルでしたっけ?」
老「423.4メートルじゃ」
み「いくらなんでも、断層運動で、そんな段差は出来ないでしょ」
老「いずれにしろ、不思議な湖じゃよ。
湖面の標高は、249メートル。
すなわち、最深部の湖底は、海面下174.4メートルというわけじゃ」
み「うーん。
隕石説もありそうですね」
老「じゃろ。
世界でも、17番目に深い湖じゃ」