2012.3.3(土)
さて、今の金鱗湖です。
水深は、深いところでも2メートルしかありません。
でも、その湖底から、温泉が湧いてるんです。
水温が高いので、冬は、湖面から水蒸気が立ちのぼります。
湯布院盆地の朝霧は、金鱗湖から生まれるとも言われており……。
冬の風物詩となってます。
湖水をそーっと覗いて見ると……。
ときおり、妙な小魚が見えるとか。
グッピーです。
誰かが、飼えなくなって流したんでしょうね。
こういう生態系を乱すことをしてはイカンな。
ふつうの池なら、冬を越すことなど出来ないんでしょうが……。
温泉の湧く金鱗湖では、生き残って住み着いたというわけです。
湖畔には、ガチョウも住んでます。
観光客が投げる餌で、安楽に暮らしてるとか。
蕎麦まで食うようです。
さて、1周400メートルの池を、一回りしてみてもしょうがありませんね。
でも、それじゃ何しに来たのかと言われそうです。
実は、湖畔に、寄ってみたい施設があったんです。
それは……。
「マルク・シャガール ゆふいん金鱗湖美術館」
熱狂的というほどではありませんが……。
わたしは、シャガール(1887~1985)が好きなんです。
このシャガール、新潟に来たことがあります。
もちろん、シャガール本人が来たわけじゃありませんよ。
本人は、25年前に亡くなってますからね。
新潟に来たのは、シャガール展。
今から、8年前のこと。
先日まで、長岡にある県立近代美術館で、「奈良の古寺と仏像」展が開かれてましたが……。
シャガール展が開かれたのも、この近代美術館。
有名な絵では、「誕生日」が来てました。
そのころはまだ、東京に住んでたので……。
わたしは、新潟に回ってくる前の東京会場(東京都美術館)で見ました。
もし今、シャガールが長岡に来たら、ぜったい見に行くでしょうね。
仏像展は、行く気にならんかったけど。
で、その「奈良の古寺と仏像」展ですが……。
県外からも、大型観光バスがたくさん来てたようです。
もちろん、熱心な仏教徒が、集団で仏像を拝みに来たというわけではなく……。
美術品として、仏像を見に来た人たちですね。
でも、仏像ってのは、そもそも美術品じゃないよね。
仏師は、彫刻として仏像を作ったわけじゃありません。
信者が、お寺で拝むために作ったわけです。
つまり、美術館で見るもんじゃありません。
アフガニスタンのバーミヤンで……。
タリバンによる仏像破壊が問題になったことがありました。
先日亡くなった平山郁夫さんが、なんとか仏像を救いたいと訴えてるのを、テレビで見たことがあります。
でも、わたしは仕方無いと思いますね。
人類の歴史は、宗教戦争の歴史でもあるわけだからね。
異教徒の崇敬物を破壊するってのは、ごく自然な行為だと思う。
仏像を美術品のように扱って、貴重な遺跡だから残そうなんて考えが甘いと思いますね。
歴史の中で、滅びるものは滅びるしかないです。
話が、また脱線してますね。
そう言えば、この仏像展ですが……。
入場規制がかかるほどの盛況だったとか。
県立の大きな美術館でさえ、そうなんですよ。
この展覧会、当初は新潟市美術館で行われる予定でした。
それが、新潟市美術館で、カビが生えたりクモが沸いたりしたため……。
文化庁が、展示を許可しなかったんです。
それで、県立近代美術館に会場が変更になった。
近代美術館は「公開承認施設」という施設で、文化庁の許可を必要としないそうです。
で、この仏像展ですが……。
もし、新潟市美術館で行われてたら……。
大変だったと思います。
建物自体は、前川國男の設計で、いいものなんですが……。
県立近代美術館と比べ、規模は遙かに小さいです。
それ以前に、新潟市美術館には、満足な駐車場も無いんです。
観光バスが2,3台も入ったら、一般車なんか止められないと思う。
場所も、海岸近くのドン詰まりみたいなとこだから……。
渋滞するだろうし。
県外からのマイカーなんかが殺到したら……。
新潟市中が、交通マヒ状態になったんじゃなかろうか?
たぶん今ごろ……。
市長を始め新潟市関係者は、胸を撫で下ろしてるでしょうね。
許可しなかった文化庁に、感謝してるかもです。
もし開催されてたら、間違いなく混乱が起こり……。
苦情が殺到してただろうからね。
さて、「マルク・シャガール ゆふいん金鱗湖美術館」です。
落ち着いた、いい雰囲気ですけど……。
この美術館にあるのは、ほとんどがリトグラフ(版画)のようです。
ま、有名な油彩なら、美術館本体の建設費より高いでしょうから……。
仕方ありませんね。
由布院に来ることなんて、もう無いかも知れませんから……。
シャガールのそばまで行ったのに……。
立ち寄れなかった、なんて後悔だけはしたくありませんでした。
「あー、気が済んだ」
「良かったですね。
これから、どうします?」
「もう一箇所、覗いてみたいとこがあるんだ」
金鱗湖のほとりに、「亀の井別荘」という旅館があります。
由布院御三家のひとつに数えられ……。
泊まってみたい旅館・全国ベスト10に、必ず入るという名館。
ちなみに、御三家のあと2つは、「由布院 玉の湯」と「山荘無量塔(さんそうむらた)」。
いいお宿なことは、“るるぶ”や“まっぷる”を見れば一目瞭然ですが……。
値段が値段なんだから、良くて当たり前ですよね。
最低でも、3万5千円。
平均的なお部屋は、5万円ってとこじゃないでしょうか。
もちろん、1人1泊の料金ですよ。
2人なら、1泊10万円……。
いったい、どんな人たちが泊まるんでしょうね。
てなわけで、金鱗湖の「亀の井別荘」は、本日のお宿ではありません。
なにしろ、とっくに新潟に帰ってるはずなのに……。
まだ、大分にいるんですからね。
カンペキに予算オーバーです。
では、何で「亀の井別荘」に来たかと言うと……。
旅館に併設された「鍵屋」というお店が目当てなんです。
「亀の井別荘」が営む土産物店です。
さすが御三家とあって、品揃えのセンスは“るるぶ”でも強調されてました。
さて、店内には、食品から生活雑貨まで、さまざまなアイテムが揃ってます。
「亀の井別荘」で使ってる、枕や器なども販売されてるようです。
お宿には泊まれないけど……。
関連グッズだけは手に入れたいって人も、かなりいらっしゃるらしいですね。
ま、わたしもその一人ではありますが……。
わたしが欲しかったのは、これです。
馬油石鹸。
馬油は、バーユ(マーユ)と読みます。
文字通り、馬から採った油。
馬の脂肪を長時間煮て、不純物を濾過した油です。
馬の脂肪は、人間の脂肪と成分が酷似しているそうです(↓原材料を見ると、ちょっと引きますけど)。
そのため馬油は、人肌との親和性が非常に高いんだそうです。
馬油の効能については、こちらのサイトさんのページが詳しいです→「http://www.neo-natural.com/bayu.htm」。
本も出てます。
馬油は、乾癬にも良いそうです。
実はわたし、もう使い始めてます。
クリームですけど。
馬の油っていうと、何か臭いがしそうですが……。
このクリーム、ほんっとに何の匂いもしないんですよ。
なので、花粉症対策に、鼻の穴に塗る人もいるとか。
鼻の通りが、良くなるそうです。
わたしは、お風呂上がりに、手足に塗ってます。
ハンドクリームとして使うのなら……。
ほのかな香りがある方がいいかも?
バニラの香りがお勧めです(これも買いました)。
ただし、ネコちゃんを買ってる方は、バニラは止めといた方がいいかもね。
手のクリームを、ぜんぶ舐め取られちゃうそうです。
バニラの他には、ヒノキ、クチナシ、ジャコウの香りがあります。
鼻の穴に塗る場合は、ヒノキがスースーして良いとか。
さて、気になる効果のほどですが……。
まだ、わかりません。
使い始めたばっかりですからね。
顔が長くなったり、ニンジンを食べたくなったりもしてません。
さて、「鍵屋」の馬油石鹸です。
これには、庭内の泉源から汲み上げた温泉水が練り込んであるそうです。
馬油+温泉水。
さらに、天然の柚子の香りも配合してあります。
これで効かないはずはないって感じですね。
1個1,260円しますが、これで効いてくれたら安いものです。
さて、「鍵屋」を出るころには……。
春の日も傾き始めました。
「これから、どうするんですか?」
「今日はもう、終わり。
くたびれたぁ。
あとは、宿に入るだけ」
「今日のお宿は、由布院なんでしょ?
どこに取ってあるんです?」
「また、駅前まで戻らなくちゃなんない」
「え~。
また駅まで、歩くんですか?
20分以上かかりますよ。
バスとか、通ってないのかな?」
「こんな細い道ばっかりだからな。
途中、バス停なんか、無かったよね」
「そう言えば、客待ちのタクシーも見かけませんでしたね」
「止めておけるとこが無いからかね?」
「仕方ない。
歩きますか。
荷物も無いことだし」
「荷物、持ってみない?」
「鍵屋の石鹸?
いいですよ」
「そんなんじゃないよ。
荷物は、わたし。
疲れちゃったから……。
オンブして」
「バカなこと言わないでください。
わたしだって、疲れてるんだから」
「じゃぁさ、交代でオンブするってのは?
わたしが5分オンブしたら、美弥が10分」
「小学生じゃあるまいし。
だいたい、なんでわたしが2倍オンブしなきゃならないんです?」
「若いんだから、いいじゃんよ。
オンブ~」
「もう!
とっとと歩きましょうね」
「痛い、痛い。
腕が抜ける」
「抜けません。
ほら、ちゃんと歩けるじゃないですか」
「歩いてるんじゃないよ~。
引きずられてるんだよ~。
わかったって。
自分で歩くよ」
「ほんとですか?」
「おー痛て。
手首に指の跡が付いたじゃないか。
怪力女め……。
アイアンクローが出来るんじゃないか?」
画像を探してたら、こんなのもありました。
「何か言いました?」
「いいえ」
「それじゃ、わたしが後ろから押してあげます。
それ、ガンバ」
「お~、楽ちん楽ちん」
「5分ずつ交代ですよ」
「美弥は、10分」
「いやです」
「あ、美弥、ストップ」
「何です?
まだ、5分経ってませんけど」
「あそこに、妙なヤツがいるぞ」
「どこ?」
「ほら、あそこ」
「あ」
「あれって、乗り物だよね」
「そうですね」
「しかも、あの様子……。
ぜったい客待ちしてると思わない?」
「そんな感じですね」
「あ、目が合った。
笑ったぞ」
「いちいち中継してもらわなくても、わかります」
「美弥、聞いてみて?」
「わたしがですか?
わたし、男の人と話すの苦手なんですけど」
「ナンパしようってわけじゃないんだからさ。
美弥が聞く方が、ぜったい喜ぶから」
「何を聞くんです?」
「決まってるだろ。
2人乗せて、駅前まで行ってくれるかって聞くの。
ほら、早く」
「押さないでくださいよ。
あ、あの~」
「はい!
いいっすよ。
喜んで!」
「え?
まだ何も言ってませんけど」
「聞こえてました」
「すいません……」
「どうぞ。
そろそろ営業終了なんで、駅前ならありがたいっす」
このあんちゃんの格好は……。
股引きに法被、地下足袋を履いて、頭には菅傘を被ってます。
傍らには、時代劇でしか見たことのない乗り物が……。
人力車です。
「さあ、どうぞ」
あんちゃんが、わたしを促します。
さては、わたしが目当て?
なわけ、ないわな。
わたしの方が、あきらかに年上に見えるので……。
わたしを先にしたんでしょう。
でも、どうやって乗るの、これ?
座席が、ものすげー高いんですけど。
よじ登るわけ?
「あ、そちらに足をかけてもらって……。
手はそこに。
よろしければ、おれの肩も使ってください」
お~。
接遇マナーがなってるでないの。
国鉄のボイってのは、こんな感じだったのかね?
なんか、その気になって来る。
明治の芸者さんみたいだな。
「車屋さん。
三宅坂までやっておくれ」
とかさ。
「Mikikoさん、ほら早くして。
待ってらっしゃるでしょ」
風情のないオンナだぜ。
「よっこらしょっと。
あ……」
つい、言っちまった。
明治の芸者が、“よっこらしょ”は言わんわな……。
美弥ちゃんは、あてつけのようにヒラリと乗り込みます。
すかさず、あんちゃんが、赤い膝掛けをかけてくれました。
う~ん。
ますます気分がいい。
「それじゃ、まいります」
あんちゃんがわたしたちに背を向け、梶棒が上がりました。
「高け~」
「ほんとですね」
人力車の上は、思いがけないほど高く、見晴らしがいいです。
道行く人が、見上げてます。
「ねえ、美弥」
「なんです、ひそひそ声で?」
「これって、いくら?」
「え?」
「値段だよ。
メーターとか、どこにも付いてないよな」
「付いてるわけ、ないと思います」
「あんまり高いと、マズいんだけど。
予算オーバーだから」
「聞いてみればいいでしょ」
「わたしが?
美弥が、聞いてよ。
ひょっとしたら、安くなるかも」
「そんなわけないですって。
でも、聞いてみます。
……。
Mikikoさん」
「なんだよ?」
「この方、なんてお呼びすればいいんですか?」
「う~ん。
運転手さん……。
じゃないよな。
やっぱ、車屋さんじゃないの?
ちょいと、車屋さん!」
「へい!」
「げ、聞こえちゃった」
「なんでしょう?」
「あのさ、ここから駅前まで行くと……。
いくらかかるわけ?」
「あ。
すみません。
最初に料金のこと、説明しなきゃならんかったのに。
あんまり美人を乗せたもんだから、舞い上がっちまいました」
ほー。
その美人には、わたしも含むのか?
まあいい。
あんまり追求して、高くなっちゃかなわんからな。
「料金は、1区画ごとの計算になります。
1区画は約1キロで、おひとり様2,000円になってます。
おふたりの場合は、3,000円です。
そのほか、30分や1時間の貸切コースもあります(料金表」
「で、駅までだと、何区画なの?」
「1区画だと、ちょっと出ちゃいますね~」
「なら、2区画?
2人で6,000円かぁ。
ちっと高いんじゃないの?」
「すんません」
「500円にならない?」
「……。
個人でやってんなら……。
お客さんみたいな人を乗せたら、絶対タダにするんですけどね。
サラリーマンなもんで」
「会社組織なの?」
「はい。
店は、ここのほかに……。
小樽、浅草、鎌倉に……。
京都が、東山と嵐山の2店……。
あと、奈良と関門」
「人事異動で、転勤とかもあるんですよ」
「げ。
そうなの。
まさか、車引きに転勤があるとは思わなんだ」
「実はおれも、前は函館にいたんです。
でも、函館の店が無くなっちゃいましてね」
「なんで?」
「あの街は、冬場が開店休業状態な上に、かき入れ時の夏に雨が多くて……。
ここなんかと違って、見所がバラバラに点在してますし。
で、函館の店が無くなって、こっちに転勤になったってわけです」
「ふ~ん。
由布院は、走りやすい?」
「楽っすよ。
盆地で、坂が少ないし。
女の車夫もいます」
「函館は坂だらけですからね。
うっかりすると、止まらなくなっちゃうんですよ。
ブレーキ付いてませんから」
「人力車って、どのくらい、スピード出るの?」
「そうですね……。
マッハ3くらい出ます」
「うそこけ!」
「すんません。
ウソです。
でも、チャリなら追い抜きますよ」
「へ~。
でも、この道じゃ、スピード出せないよね」
「観光客の多い街道は、無理ですね。
じゃ、駅前まで2区画でいいっすか?」
「うんにゃ。
駅方向に1区画分だけ」
「はぁ。
わかりました。
湯の坪街道を行きますか?」
「あの道は、さっき歩いたしな。
脇道とか、無いの?」
「あります。
でも、お店は何にも無いですよ。
賑やかな道は、あの道1本なんで」
「そんなら、人も歩いてないから……。
スピード出せるじゃん。
出してみてよ、マッハ3」
「ほんとっすか?
実は今日1日、歩きながらのガイドばっかりで……。
いえ、それがイヤだってわけじゃないんですけどね。
おれ、ラグビー部でウィングだったんで……。
1日1回は、思いっきり足掻き回して走りたいんすよ。
高校のときなんか、寝坊して乗り遅れたバス追いかけて……。
途中で抜いちまったこともあります。
あ、こりゃ走ったほうが早えーやって、そのまま学校まで行っちまいました。
バスより3分早く着きましたね。
こんな話してたら、ますます走りたくなっちまいました。
サービスして、1.5区画分走ります。
そんじゃ、こっちに曲がってと……」
人力車は、小さな川に沿った道に出ました。
「この川、“大分川”って云うんですよ」
「大した名前だね」
「水の少ないときは、飛び越せます」
広い道ではありませんが……。
観光客は、ほとんど歩いてません。
岸辺には菜の花が咲いてます。
春の小川ですね~。
「あ、ここが有名な『由布院 玉の湯』です」
例の、御三家のひとつですね。
道路からは、雑木林のような木立と、その中を、宿へと続く石畳しか見えません。
打ち水された石畳には、木立の陰が映ってます。
夏だったら、この石畳に踏み込んだだけで、温度が違うかも知れません。
まさしく、別世界へのエントランスって感じですね。
しかし、この庭、年間いくらくらい維持費がかかるんでしょう。
ちょっと想像がつきません。
「あ、さっきの迷宮館」
美弥ちゃんが、小川の向こうを指さしました。
なるほど。
あの裏手にあたるのか。
「塩梅よく車も見えないようなんで……。
それじゃ、走らせてもらいますよ。
しっかりつかまっててくださいね」
梶棒が、ぐいっと上がりました。
「舌噛むといけませんから、歯食いしばっててください。
それじゃ、行きまっせ~」
あんちゃんのシシャモみたいなふくらはぎに、ぐっと力が籠もりました。
その途端……。
がくんとショックを感じ、背もたれに背中が張りつきました。
Gを感じるほどの出足です。
「そりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
咆哮と共に、いきなりフルスロットルです。
掻き回す足が、霞んで消えてます。
こいつ、マジ早えぇ。
「ありゃありゃありゃありゃありゃありゃ」
風景の輪郭が流れ始めました。
「ひぇぇぇぇ」
思わず、美弥ちゃんの手を握り締めます。
幌が風を孕み……。
一瞬、車輪が浮き上がったように感じました。
脳裏に一瞬、「E.T.」の一場面が……。
このまま、由布院の空に駆けあがるかと思えた途端……。
がっくりと、スピードが落ちました。
消えていたあんちゃんの脚が、輪郭を現しました。
へろへろです。
どうやら、ガス欠のようです。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
か、感じてもらえましたか……?
い、今……。
一瞬ですけど……。
音速を……、超えました」
「はぁ、はぁ、はぁ。
ウ、ウソ、こけ……」
「はぁ、はぁ。
すんません。
ウソでした」
肩で息するあんちゃんは……。
まるで、大八車を引くジイサマのようです。
「このまま、店まで戻りますんで……。
乗ってていいですよ。
割り増しはいただきません」
あんちゃんはそう言ってくれたんですが……。
降りることにしました。
“るるぶ”の地図を見ると……。
見えて来た橋は、大分川と白滝川の合流点に架かる「城橋」のようです。
ここで降りれば、今日の宿はすぐそこなんです。
あんちゃんは、しきりと名残を惜しんでくれます。
わたしも、この脳味噌筋肉質のあんちゃんに、情が移りかけちゃいました。
美弥ちゃんなんか、涙ぐみそうな顔してます。
このあんちゃんとは……。
もう、一生会うことが無いかも知れないんだ。
そう思ったら……。
わたしの目頭にも、思わず熱いものが……。
春の夕暮れ。
菜の花の咲く川縁の道を……。
へろへろと遠ざかっていく人力車を見送りながら……。
人の世の儚さと……。
儚い世を、一生懸命生きてる人たちへの愛しさで……。
小さな胸が、いっぱいになりました。
「さ、気を取り直して……。
もう少し、歩くぞ!」
「はい。
夕べの別府は、ホテルだったから……。
由布院では、旅館ですか?」
「うんにゃ」
「じゃ、ホテル?」
「うんにゃ」
「なら、なんなんですか?
あ、また国民宿舎?」
「うんにゃ」
「もう!
どこに泊まるんです!」
「今日はね……。
貸別荘だよ~ん」
「え~。
おしゃれですね~」
美弥ちゃんの瞳の中には、バラの花が飛んでました。
おそらくは、森の中の隠れ家みたいな、ペンション風佇まいを想像してるんでしょうね。
「あのね。
言っとくけど……。
美弥が想像してるのとは、違うと思う」
「なんでです?」
「だから、日程オーバーで、予算が無いわけ。
従って、高いとこには泊まれません。
なので、今日の宿は、“安い”というキーワードで探したの」
「でも、別荘には違いないんでしょ?
ペンション級じゃなくても……。
バンガローみたいだって、十分おしゃれじゃないですか?」
「お~。
バンガロー!
ひさびさに耳にしたね。
そう言えば子供のころ、『テレビ探偵団』って番組があってさ。
昔のテレビ番組を紹介するわけ。
三宅裕司が司会だったな。
泉麻人がコメンテーターでさ。
で、ゲストで出た陣内孝則が……。
財津一郎のギャグを披露してた。
財津一郎、知ってる?
財津和夫じゃないよ」
「知りません」
「こないだ亡くなった藤田まことの『てなもんや三度笠』なんかに出てた人」
「わたし、一時期、『てなもんや三度笠』とか、昔のお笑いビデオに凝ってたことがあってね。
東京にいたとき、よく借りてたんだよ」
「それで、バンガローがどうしたんです?」
「だから、財津一郎が、山小屋をバックにした舞台に登場して……。
開口一番、発したギャグだよ」
「なんて言ったんです?」
「“昼間借りても、バンガロ~”」
「……」
「面白くない?」
「あんまり」
「え~。
面白いと思うけどな」
「で、今日の宿は、そのバンガローなんですか?」
「だから……。
ペンションとか、バンガローとか……。
そう言う横文字は、似合わない可能性がある」
「なんでです?」
大分川に沿って歩むうち……。
本日のお宿の看板が、わたしの目に飛び込んで来ました。
「あったよ、貸別荘」
「え?
どこです?」
美弥ちゃんは、伸び上がってあたりを見回してます。
「わたしに見えてるんだから、美弥が伸び上がる必要ないでしょ」
「だって、別荘らしい建物なんて、見えませんよ」
「看板があった」
「どこ?」
「わたしの指の先」
「……。
あ」
「あったでしょ?」
「あれって……。
ほんとに別荘の名前なんですか?」
「看板に書いてあるじゃないか。
『温泉付貸別荘』って。
温泉マークまで付いてる。」
「だって!
『とくなが荘』ですよ!
昭和のアパートじゃないんですから」
「そう言えば……。
東京で、わたしが初めて住んだアパートは……。
『平安荘』だったな」
「そんな思い出話はいいですけど……。
なんで、ここにしようって思ったんです?」
「さっきも言ったろ?
あれだよ。
あれに尽きる」
「“ゆふいんで1番安い宿”……。
ほかを、あたりませんか?」
「もう予算が無いの。
人力車も乗っちゃったし」
「Mikikoさんが、乗ろうって言ったんでしょ!
こんなことなら、オンブして来れば良かった」
「だろ~。
わたしをオンブしなかった祟りじゃ」
「勝手なこと言って。
1番安くなくたって、いいじゃないですか?
2番じゃ、ダメなんですか?」
「おまえは、蓮舫か!」
「第一、ここで引き返すわけにはいかないだろ。
なにしろ、『ゆふいんチッキ』で、荷物ここに送っちゃってるんだから」
「あ、そうか」
「だろ。
少なくとも、顔は出さにゃならんわけ。
美弥、そこでキャンセルできる?
やっぱ、止めますなんてさ」
「……。
出来ません」
「よし、じゃ入るぞ」
玄関前です。
「ここ絶対、別荘じゃない……」
勇気を奮って、玄関の引き戸を開けます。
引き戸ってのが、すでに“別荘”的じゃありませんよね。
「いらっしゃいませ!」
思いがけない若い声に驚きました。
外観から受ける連想では……。
三途の川の奪衣婆のようなのが、帳場に座ってると思ったんですが……。
ここの娘さんでしょうか?
溌剌とした笑顔に迎えられ、こちらの頬も、やや緩みます。
「お世話になります」
「お待ちしてました」
美弥ちゃんも、一緒に頭を下げます。
すでに、キャンセルできる雰囲気では無くなりました。
水深は、深いところでも2メートルしかありません。
でも、その湖底から、温泉が湧いてるんです。
水温が高いので、冬は、湖面から水蒸気が立ちのぼります。
湯布院盆地の朝霧は、金鱗湖から生まれるとも言われており……。
冬の風物詩となってます。
湖水をそーっと覗いて見ると……。
ときおり、妙な小魚が見えるとか。
グッピーです。
誰かが、飼えなくなって流したんでしょうね。
こういう生態系を乱すことをしてはイカンな。
ふつうの池なら、冬を越すことなど出来ないんでしょうが……。
温泉の湧く金鱗湖では、生き残って住み着いたというわけです。
湖畔には、ガチョウも住んでます。
観光客が投げる餌で、安楽に暮らしてるとか。
蕎麦まで食うようです。
さて、1周400メートルの池を、一回りしてみてもしょうがありませんね。
でも、それじゃ何しに来たのかと言われそうです。
実は、湖畔に、寄ってみたい施設があったんです。
それは……。
「マルク・シャガール ゆふいん金鱗湖美術館」
熱狂的というほどではありませんが……。
わたしは、シャガール(1887~1985)が好きなんです。
このシャガール、新潟に来たことがあります。
もちろん、シャガール本人が来たわけじゃありませんよ。
本人は、25年前に亡くなってますからね。
新潟に来たのは、シャガール展。
今から、8年前のこと。
先日まで、長岡にある県立近代美術館で、「奈良の古寺と仏像」展が開かれてましたが……。
シャガール展が開かれたのも、この近代美術館。
有名な絵では、「誕生日」が来てました。
そのころはまだ、東京に住んでたので……。
わたしは、新潟に回ってくる前の東京会場(東京都美術館)で見ました。
もし今、シャガールが長岡に来たら、ぜったい見に行くでしょうね。
仏像展は、行く気にならんかったけど。
で、その「奈良の古寺と仏像」展ですが……。
県外からも、大型観光バスがたくさん来てたようです。
もちろん、熱心な仏教徒が、集団で仏像を拝みに来たというわけではなく……。
美術品として、仏像を見に来た人たちですね。
でも、仏像ってのは、そもそも美術品じゃないよね。
仏師は、彫刻として仏像を作ったわけじゃありません。
信者が、お寺で拝むために作ったわけです。
つまり、美術館で見るもんじゃありません。
アフガニスタンのバーミヤンで……。
タリバンによる仏像破壊が問題になったことがありました。
先日亡くなった平山郁夫さんが、なんとか仏像を救いたいと訴えてるのを、テレビで見たことがあります。
でも、わたしは仕方無いと思いますね。
人類の歴史は、宗教戦争の歴史でもあるわけだからね。
異教徒の崇敬物を破壊するってのは、ごく自然な行為だと思う。
仏像を美術品のように扱って、貴重な遺跡だから残そうなんて考えが甘いと思いますね。
歴史の中で、滅びるものは滅びるしかないです。
話が、また脱線してますね。
そう言えば、この仏像展ですが……。
入場規制がかかるほどの盛況だったとか。
県立の大きな美術館でさえ、そうなんですよ。
この展覧会、当初は新潟市美術館で行われる予定でした。
それが、新潟市美術館で、カビが生えたりクモが沸いたりしたため……。
文化庁が、展示を許可しなかったんです。
それで、県立近代美術館に会場が変更になった。
近代美術館は「公開承認施設」という施設で、文化庁の許可を必要としないそうです。
で、この仏像展ですが……。
もし、新潟市美術館で行われてたら……。
大変だったと思います。
建物自体は、前川國男の設計で、いいものなんですが……。
県立近代美術館と比べ、規模は遙かに小さいです。
それ以前に、新潟市美術館には、満足な駐車場も無いんです。
観光バスが2,3台も入ったら、一般車なんか止められないと思う。
場所も、海岸近くのドン詰まりみたいなとこだから……。
渋滞するだろうし。
県外からのマイカーなんかが殺到したら……。
新潟市中が、交通マヒ状態になったんじゃなかろうか?
たぶん今ごろ……。
市長を始め新潟市関係者は、胸を撫で下ろしてるでしょうね。
許可しなかった文化庁に、感謝してるかもです。
もし開催されてたら、間違いなく混乱が起こり……。
苦情が殺到してただろうからね。
さて、「マルク・シャガール ゆふいん金鱗湖美術館」です。
落ち着いた、いい雰囲気ですけど……。
この美術館にあるのは、ほとんどがリトグラフ(版画)のようです。
ま、有名な油彩なら、美術館本体の建設費より高いでしょうから……。
仕方ありませんね。
由布院に来ることなんて、もう無いかも知れませんから……。
シャガールのそばまで行ったのに……。
立ち寄れなかった、なんて後悔だけはしたくありませんでした。
「あー、気が済んだ」
「良かったですね。
これから、どうします?」
「もう一箇所、覗いてみたいとこがあるんだ」
金鱗湖のほとりに、「亀の井別荘」という旅館があります。
由布院御三家のひとつに数えられ……。
泊まってみたい旅館・全国ベスト10に、必ず入るという名館。
ちなみに、御三家のあと2つは、「由布院 玉の湯」と「山荘無量塔(さんそうむらた)」。
いいお宿なことは、“るるぶ”や“まっぷる”を見れば一目瞭然ですが……。
値段が値段なんだから、良くて当たり前ですよね。
最低でも、3万5千円。
平均的なお部屋は、5万円ってとこじゃないでしょうか。
もちろん、1人1泊の料金ですよ。
2人なら、1泊10万円……。
いったい、どんな人たちが泊まるんでしょうね。
てなわけで、金鱗湖の「亀の井別荘」は、本日のお宿ではありません。
なにしろ、とっくに新潟に帰ってるはずなのに……。
まだ、大分にいるんですからね。
カンペキに予算オーバーです。
では、何で「亀の井別荘」に来たかと言うと……。
旅館に併設された「鍵屋」というお店が目当てなんです。
「亀の井別荘」が営む土産物店です。
さすが御三家とあって、品揃えのセンスは“るるぶ”でも強調されてました。
さて、店内には、食品から生活雑貨まで、さまざまなアイテムが揃ってます。
「亀の井別荘」で使ってる、枕や器なども販売されてるようです。
お宿には泊まれないけど……。
関連グッズだけは手に入れたいって人も、かなりいらっしゃるらしいですね。
ま、わたしもその一人ではありますが……。
わたしが欲しかったのは、これです。
馬油石鹸。
馬油は、バーユ(マーユ)と読みます。
文字通り、馬から採った油。
馬の脂肪を長時間煮て、不純物を濾過した油です。
馬の脂肪は、人間の脂肪と成分が酷似しているそうです(↓原材料を見ると、ちょっと引きますけど)。
そのため馬油は、人肌との親和性が非常に高いんだそうです。
馬油の効能については、こちらのサイトさんのページが詳しいです→「http://www.neo-natural.com/bayu.htm」。
本も出てます。
馬油は、乾癬にも良いそうです。
実はわたし、もう使い始めてます。
クリームですけど。
馬の油っていうと、何か臭いがしそうですが……。
このクリーム、ほんっとに何の匂いもしないんですよ。
なので、花粉症対策に、鼻の穴に塗る人もいるとか。
鼻の通りが、良くなるそうです。
わたしは、お風呂上がりに、手足に塗ってます。
ハンドクリームとして使うのなら……。
ほのかな香りがある方がいいかも?
バニラの香りがお勧めです(これも買いました)。
ただし、ネコちゃんを買ってる方は、バニラは止めといた方がいいかもね。
手のクリームを、ぜんぶ舐め取られちゃうそうです。
バニラの他には、ヒノキ、クチナシ、ジャコウの香りがあります。
鼻の穴に塗る場合は、ヒノキがスースーして良いとか。
さて、気になる効果のほどですが……。
まだ、わかりません。
使い始めたばっかりですからね。
顔が長くなったり、ニンジンを食べたくなったりもしてません。
さて、「鍵屋」の馬油石鹸です。
これには、庭内の泉源から汲み上げた温泉水が練り込んであるそうです。
馬油+温泉水。
さらに、天然の柚子の香りも配合してあります。
これで効かないはずはないって感じですね。
1個1,260円しますが、これで効いてくれたら安いものです。
さて、「鍵屋」を出るころには……。
春の日も傾き始めました。
「これから、どうするんですか?」
「今日はもう、終わり。
くたびれたぁ。
あとは、宿に入るだけ」
「今日のお宿は、由布院なんでしょ?
どこに取ってあるんです?」
「また、駅前まで戻らなくちゃなんない」
「え~。
また駅まで、歩くんですか?
20分以上かかりますよ。
バスとか、通ってないのかな?」
「こんな細い道ばっかりだからな。
途中、バス停なんか、無かったよね」
「そう言えば、客待ちのタクシーも見かけませんでしたね」
「止めておけるとこが無いからかね?」
「仕方ない。
歩きますか。
荷物も無いことだし」
「荷物、持ってみない?」
「鍵屋の石鹸?
いいですよ」
「そんなんじゃないよ。
荷物は、わたし。
疲れちゃったから……。
オンブして」
「バカなこと言わないでください。
わたしだって、疲れてるんだから」
「じゃぁさ、交代でオンブするってのは?
わたしが5分オンブしたら、美弥が10分」
「小学生じゃあるまいし。
だいたい、なんでわたしが2倍オンブしなきゃならないんです?」
「若いんだから、いいじゃんよ。
オンブ~」
「もう!
とっとと歩きましょうね」
「痛い、痛い。
腕が抜ける」
「抜けません。
ほら、ちゃんと歩けるじゃないですか」
「歩いてるんじゃないよ~。
引きずられてるんだよ~。
わかったって。
自分で歩くよ」
「ほんとですか?」
「おー痛て。
手首に指の跡が付いたじゃないか。
怪力女め……。
アイアンクローが出来るんじゃないか?」
画像を探してたら、こんなのもありました。
「何か言いました?」
「いいえ」
「それじゃ、わたしが後ろから押してあげます。
それ、ガンバ」
「お~、楽ちん楽ちん」
「5分ずつ交代ですよ」
「美弥は、10分」
「いやです」
「あ、美弥、ストップ」
「何です?
まだ、5分経ってませんけど」
「あそこに、妙なヤツがいるぞ」
「どこ?」
「ほら、あそこ」
「あ」
「あれって、乗り物だよね」
「そうですね」
「しかも、あの様子……。
ぜったい客待ちしてると思わない?」
「そんな感じですね」
「あ、目が合った。
笑ったぞ」
「いちいち中継してもらわなくても、わかります」
「美弥、聞いてみて?」
「わたしがですか?
わたし、男の人と話すの苦手なんですけど」
「ナンパしようってわけじゃないんだからさ。
美弥が聞く方が、ぜったい喜ぶから」
「何を聞くんです?」
「決まってるだろ。
2人乗せて、駅前まで行ってくれるかって聞くの。
ほら、早く」
「押さないでくださいよ。
あ、あの~」
「はい!
いいっすよ。
喜んで!」
「え?
まだ何も言ってませんけど」
「聞こえてました」
「すいません……」
「どうぞ。
そろそろ営業終了なんで、駅前ならありがたいっす」
このあんちゃんの格好は……。
股引きに法被、地下足袋を履いて、頭には菅傘を被ってます。
傍らには、時代劇でしか見たことのない乗り物が……。
人力車です。
「さあ、どうぞ」
あんちゃんが、わたしを促します。
さては、わたしが目当て?
なわけ、ないわな。
わたしの方が、あきらかに年上に見えるので……。
わたしを先にしたんでしょう。
でも、どうやって乗るの、これ?
座席が、ものすげー高いんですけど。
よじ登るわけ?
「あ、そちらに足をかけてもらって……。
手はそこに。
よろしければ、おれの肩も使ってください」
お~。
接遇マナーがなってるでないの。
国鉄のボイってのは、こんな感じだったのかね?
なんか、その気になって来る。
明治の芸者さんみたいだな。
「車屋さん。
三宅坂までやっておくれ」
とかさ。
「Mikikoさん、ほら早くして。
待ってらっしゃるでしょ」
風情のないオンナだぜ。
「よっこらしょっと。
あ……」
つい、言っちまった。
明治の芸者が、“よっこらしょ”は言わんわな……。
美弥ちゃんは、あてつけのようにヒラリと乗り込みます。
すかさず、あんちゃんが、赤い膝掛けをかけてくれました。
う~ん。
ますます気分がいい。
「それじゃ、まいります」
あんちゃんがわたしたちに背を向け、梶棒が上がりました。
「高け~」
「ほんとですね」
人力車の上は、思いがけないほど高く、見晴らしがいいです。
道行く人が、見上げてます。
「ねえ、美弥」
「なんです、ひそひそ声で?」
「これって、いくら?」
「え?」
「値段だよ。
メーターとか、どこにも付いてないよな」
「付いてるわけ、ないと思います」
「あんまり高いと、マズいんだけど。
予算オーバーだから」
「聞いてみればいいでしょ」
「わたしが?
美弥が、聞いてよ。
ひょっとしたら、安くなるかも」
「そんなわけないですって。
でも、聞いてみます。
……。
Mikikoさん」
「なんだよ?」
「この方、なんてお呼びすればいいんですか?」
「う~ん。
運転手さん……。
じゃないよな。
やっぱ、車屋さんじゃないの?
ちょいと、車屋さん!」
「へい!」
「げ、聞こえちゃった」
「なんでしょう?」
「あのさ、ここから駅前まで行くと……。
いくらかかるわけ?」
「あ。
すみません。
最初に料金のこと、説明しなきゃならんかったのに。
あんまり美人を乗せたもんだから、舞い上がっちまいました」
ほー。
その美人には、わたしも含むのか?
まあいい。
あんまり追求して、高くなっちゃかなわんからな。
「料金は、1区画ごとの計算になります。
1区画は約1キロで、おひとり様2,000円になってます。
おふたりの場合は、3,000円です。
そのほか、30分や1時間の貸切コースもあります(料金表」
「で、駅までだと、何区画なの?」
「1区画だと、ちょっと出ちゃいますね~」
「なら、2区画?
2人で6,000円かぁ。
ちっと高いんじゃないの?」
「すんません」
「500円にならない?」
「……。
個人でやってんなら……。
お客さんみたいな人を乗せたら、絶対タダにするんですけどね。
サラリーマンなもんで」
「会社組織なの?」
「はい。
店は、ここのほかに……。
小樽、浅草、鎌倉に……。
京都が、東山と嵐山の2店……。
あと、奈良と関門」
「人事異動で、転勤とかもあるんですよ」
「げ。
そうなの。
まさか、車引きに転勤があるとは思わなんだ」
「実はおれも、前は函館にいたんです。
でも、函館の店が無くなっちゃいましてね」
「なんで?」
「あの街は、冬場が開店休業状態な上に、かき入れ時の夏に雨が多くて……。
ここなんかと違って、見所がバラバラに点在してますし。
で、函館の店が無くなって、こっちに転勤になったってわけです」
「ふ~ん。
由布院は、走りやすい?」
「楽っすよ。
盆地で、坂が少ないし。
女の車夫もいます」
「函館は坂だらけですからね。
うっかりすると、止まらなくなっちゃうんですよ。
ブレーキ付いてませんから」
「人力車って、どのくらい、スピード出るの?」
「そうですね……。
マッハ3くらい出ます」
「うそこけ!」
「すんません。
ウソです。
でも、チャリなら追い抜きますよ」
「へ~。
でも、この道じゃ、スピード出せないよね」
「観光客の多い街道は、無理ですね。
じゃ、駅前まで2区画でいいっすか?」
「うんにゃ。
駅方向に1区画分だけ」
「はぁ。
わかりました。
湯の坪街道を行きますか?」
「あの道は、さっき歩いたしな。
脇道とか、無いの?」
「あります。
でも、お店は何にも無いですよ。
賑やかな道は、あの道1本なんで」
「そんなら、人も歩いてないから……。
スピード出せるじゃん。
出してみてよ、マッハ3」
「ほんとっすか?
実は今日1日、歩きながらのガイドばっかりで……。
いえ、それがイヤだってわけじゃないんですけどね。
おれ、ラグビー部でウィングだったんで……。
1日1回は、思いっきり足掻き回して走りたいんすよ。
高校のときなんか、寝坊して乗り遅れたバス追いかけて……。
途中で抜いちまったこともあります。
あ、こりゃ走ったほうが早えーやって、そのまま学校まで行っちまいました。
バスより3分早く着きましたね。
こんな話してたら、ますます走りたくなっちまいました。
サービスして、1.5区画分走ります。
そんじゃ、こっちに曲がってと……」
人力車は、小さな川に沿った道に出ました。
「この川、“大分川”って云うんですよ」
「大した名前だね」
「水の少ないときは、飛び越せます」
広い道ではありませんが……。
観光客は、ほとんど歩いてません。
岸辺には菜の花が咲いてます。
春の小川ですね~。
「あ、ここが有名な『由布院 玉の湯』です」
例の、御三家のひとつですね。
道路からは、雑木林のような木立と、その中を、宿へと続く石畳しか見えません。
打ち水された石畳には、木立の陰が映ってます。
夏だったら、この石畳に踏み込んだだけで、温度が違うかも知れません。
まさしく、別世界へのエントランスって感じですね。
しかし、この庭、年間いくらくらい維持費がかかるんでしょう。
ちょっと想像がつきません。
「あ、さっきの迷宮館」
美弥ちゃんが、小川の向こうを指さしました。
なるほど。
あの裏手にあたるのか。
「塩梅よく車も見えないようなんで……。
それじゃ、走らせてもらいますよ。
しっかりつかまっててくださいね」
梶棒が、ぐいっと上がりました。
「舌噛むといけませんから、歯食いしばっててください。
それじゃ、行きまっせ~」
あんちゃんのシシャモみたいなふくらはぎに、ぐっと力が籠もりました。
その途端……。
がくんとショックを感じ、背もたれに背中が張りつきました。
Gを感じるほどの出足です。
「そりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
咆哮と共に、いきなりフルスロットルです。
掻き回す足が、霞んで消えてます。
こいつ、マジ早えぇ。
「ありゃありゃありゃありゃありゃありゃ」
風景の輪郭が流れ始めました。
「ひぇぇぇぇ」
思わず、美弥ちゃんの手を握り締めます。
幌が風を孕み……。
一瞬、車輪が浮き上がったように感じました。
脳裏に一瞬、「E.T.」の一場面が……。
このまま、由布院の空に駆けあがるかと思えた途端……。
がっくりと、スピードが落ちました。
消えていたあんちゃんの脚が、輪郭を現しました。
へろへろです。
どうやら、ガス欠のようです。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
か、感じてもらえましたか……?
い、今……。
一瞬ですけど……。
音速を……、超えました」
「はぁ、はぁ、はぁ。
ウ、ウソ、こけ……」
「はぁ、はぁ。
すんません。
ウソでした」
肩で息するあんちゃんは……。
まるで、大八車を引くジイサマのようです。
「このまま、店まで戻りますんで……。
乗ってていいですよ。
割り増しはいただきません」
あんちゃんはそう言ってくれたんですが……。
降りることにしました。
“るるぶ”の地図を見ると……。
見えて来た橋は、大分川と白滝川の合流点に架かる「城橋」のようです。
ここで降りれば、今日の宿はすぐそこなんです。
あんちゃんは、しきりと名残を惜しんでくれます。
わたしも、この脳味噌筋肉質のあんちゃんに、情が移りかけちゃいました。
美弥ちゃんなんか、涙ぐみそうな顔してます。
このあんちゃんとは……。
もう、一生会うことが無いかも知れないんだ。
そう思ったら……。
わたしの目頭にも、思わず熱いものが……。
春の夕暮れ。
菜の花の咲く川縁の道を……。
へろへろと遠ざかっていく人力車を見送りながら……。
人の世の儚さと……。
儚い世を、一生懸命生きてる人たちへの愛しさで……。
小さな胸が、いっぱいになりました。
「さ、気を取り直して……。
もう少し、歩くぞ!」
「はい。
夕べの別府は、ホテルだったから……。
由布院では、旅館ですか?」
「うんにゃ」
「じゃ、ホテル?」
「うんにゃ」
「なら、なんなんですか?
あ、また国民宿舎?」
「うんにゃ」
「もう!
どこに泊まるんです!」
「今日はね……。
貸別荘だよ~ん」
「え~。
おしゃれですね~」
美弥ちゃんの瞳の中には、バラの花が飛んでました。
おそらくは、森の中の隠れ家みたいな、ペンション風佇まいを想像してるんでしょうね。
「あのね。
言っとくけど……。
美弥が想像してるのとは、違うと思う」
「なんでです?」
「だから、日程オーバーで、予算が無いわけ。
従って、高いとこには泊まれません。
なので、今日の宿は、“安い”というキーワードで探したの」
「でも、別荘には違いないんでしょ?
ペンション級じゃなくても……。
バンガローみたいだって、十分おしゃれじゃないですか?」
「お~。
バンガロー!
ひさびさに耳にしたね。
そう言えば子供のころ、『テレビ探偵団』って番組があってさ。
昔のテレビ番組を紹介するわけ。
三宅裕司が司会だったな。
泉麻人がコメンテーターでさ。
で、ゲストで出た陣内孝則が……。
財津一郎のギャグを披露してた。
財津一郎、知ってる?
財津和夫じゃないよ」
「知りません」
「こないだ亡くなった藤田まことの『てなもんや三度笠』なんかに出てた人」
「わたし、一時期、『てなもんや三度笠』とか、昔のお笑いビデオに凝ってたことがあってね。
東京にいたとき、よく借りてたんだよ」
「それで、バンガローがどうしたんです?」
「だから、財津一郎が、山小屋をバックにした舞台に登場して……。
開口一番、発したギャグだよ」
「なんて言ったんです?」
「“昼間借りても、バンガロ~”」
「……」
「面白くない?」
「あんまり」
「え~。
面白いと思うけどな」
「で、今日の宿は、そのバンガローなんですか?」
「だから……。
ペンションとか、バンガローとか……。
そう言う横文字は、似合わない可能性がある」
「なんでです?」
大分川に沿って歩むうち……。
本日のお宿の看板が、わたしの目に飛び込んで来ました。
「あったよ、貸別荘」
「え?
どこです?」
美弥ちゃんは、伸び上がってあたりを見回してます。
「わたしに見えてるんだから、美弥が伸び上がる必要ないでしょ」
「だって、別荘らしい建物なんて、見えませんよ」
「看板があった」
「どこ?」
「わたしの指の先」
「……。
あ」
「あったでしょ?」
「あれって……。
ほんとに別荘の名前なんですか?」
「看板に書いてあるじゃないか。
『温泉付貸別荘』って。
温泉マークまで付いてる。」
「だって!
『とくなが荘』ですよ!
昭和のアパートじゃないんですから」
「そう言えば……。
東京で、わたしが初めて住んだアパートは……。
『平安荘』だったな」
「そんな思い出話はいいですけど……。
なんで、ここにしようって思ったんです?」
「さっきも言ったろ?
あれだよ。
あれに尽きる」
「“ゆふいんで1番安い宿”……。
ほかを、あたりませんか?」
「もう予算が無いの。
人力車も乗っちゃったし」
「Mikikoさんが、乗ろうって言ったんでしょ!
こんなことなら、オンブして来れば良かった」
「だろ~。
わたしをオンブしなかった祟りじゃ」
「勝手なこと言って。
1番安くなくたって、いいじゃないですか?
2番じゃ、ダメなんですか?」
「おまえは、蓮舫か!」
「第一、ここで引き返すわけにはいかないだろ。
なにしろ、『ゆふいんチッキ』で、荷物ここに送っちゃってるんだから」
「あ、そうか」
「だろ。
少なくとも、顔は出さにゃならんわけ。
美弥、そこでキャンセルできる?
やっぱ、止めますなんてさ」
「……。
出来ません」
「よし、じゃ入るぞ」
玄関前です。
「ここ絶対、別荘じゃない……」
勇気を奮って、玄関の引き戸を開けます。
引き戸ってのが、すでに“別荘”的じゃありませんよね。
「いらっしゃいませ!」
思いがけない若い声に驚きました。
外観から受ける連想では……。
三途の川の奪衣婆のようなのが、帳場に座ってると思ったんですが……。
ここの娘さんでしょうか?
溌剌とした笑顔に迎えられ、こちらの頬も、やや緩みます。
「お世話になります」
「お待ちしてました」
美弥ちゃんも、一緒に頭を下げます。
すでに、キャンセルできる雰囲気では無くなりました。