2015.5.12(火)
野田太郎は、相良直(ただし)に借りた手拭いで不器用に顔を拭い続けた。その様子をしばらく見ていた相良が、声を掛けた。
「おい。儂、当番さんに挨拶してくるよってな。ちょう(少し)待っとれ」
野田はへえ、ともはい、ともつかぬくぐもった返事を手拭いごしに返した。
相良は、厨房のすぐ脇にある小部屋に向かった。宿直(とのい)の者が休むための部屋である。相良は敷居際に膝を付き、室内に声を掛けた。
「すんまへん、相良です。片付け終わりました。上がらしてもろてよろしおすか」
いつもなら「御苦労はん」の声が掛かって一日が終わるのだが、その日は少し違った。
「なお(直)かえ。ちょと(少し)お入り」
相良は少し緊張した。今夜の宿直は番頭の上野のはずだ。
「へえ、失礼します」
相良は、即座に返事をし、遅滞なく襖を開け部屋に躙り入った。両の手を畳に突き、頭を下げる。
「へえ……」
(叱られるのか。なんぞ、へまやらかしたか)
入店当初はともかく、近ごろはさほど問題なく仕事をこなしていると思うが……。番頭に改めて声を掛けられ、相良は思いを巡らせた。
「そないに構えいでええ。小言、言おっちゅうんやないんや」
「へえ」
相良は、上野の顔を見た。
祇園『梅亭』の老番頭は、にこやかに笑っていた。まだ昼間の和装を着替えもせず、端然と畳に坐している。前の小机の上に、何やら書付を広げていた。
「どないえ(どうだ)、この頃は」
「へえ、いっしょけんめえ、やらせてもろてます」
「ほうか。ほら結構や。おまんも、うちい(この店に)来て、一と月にはなるか。ま、今後もきば(気張)っとくれ」
「へえ、おおきに、ありがとさんどす」
上野は言葉を継いだ。
「ところで、こないだ入った野田やけんど……どないえ(どんな様子だ)」
(あいつのことか……)
得心した相良は、心持ち目を下げて返事をした。
「へえ、ようやってます」
上野は言葉を継いだ。
「まあ、おまんとさほど歳は違わんけんど、何ちゅうても山出しや。何の経験もないしのう。おまんも自分のことで手いっぱいやろけんど、すまんがしばらく面倒みてやっとくれ」
「へえ」
番頭に頭を下げられた相良は、慌てて手を突き直した。
「もらいもんやし、一つで悪いけんどな。まあ、仲よう分けてお上がり」
上野は、懐紙包みを相良に差し出した。懐紙を開いて見せる。桜餅だった。道明寺粉の皮で漉し餡を包んだ餅菓子である。名前の通り、桜の葉の塩漬けに覆われている。
相良直(ただし)は押し頂いた。
「おおきに、ありがとさんです」
「ごくろさん。早よもどって、おやすみ」
「へえ。ほな失礼します」
「気ぃつけてな」
懐に桜餅を入れた相良は、部屋を下がり厨房に戻った。野田は、先ほどと同じ場所に、同じ姿勢でぼんやりと待っていた。
相良は野田を促し、勝手口から厨房を出る。出入り口の戸に鍵をかけ、先ほどの路地を通って祇園の通りに出た。
昼間や夕刻、夜の早いうちは、観光客や見物客、近隣の旦那衆などでごったがえす通りである。時折、着飾った芸妓・舞妓衆や、三味の包みを抱えた若い衆なども行き交う、京切っての賑やかで華やかな通りであった。しかしこの時間は人通りも絶え、町そのものが寝入ったように静まり返っていた。
相良と野田は、連れだって祇園の通りを歩いた。いくらも行かずに一軒の町屋の前にたどり着いた。
もとは何かの商家だったのだが、数年前に廃業し、そのあと別の商売が始まることもなく空き家になっていた。そこを『梅亭』が買い取り、一般の会社でいうところの独身寮として使うようになった。現在住んでいるのは相良と野田の二人だけである。
このような、住宅や個人商店などの一般家屋を、京では『町屋(まちや)』といい、その多くが木造二階建てである。
最大の特徴は、俗に「ウナギの寝床」と表現される細長い造りにある。
↑京都の『町屋』一階の間取り。
間口が狭く奥行きが長い。間口はおよそ二間半(4.5メートル)、奥行きは十三間(およそ23メートル)はあろうか。
六畳ないし八畳間が建物の奥行き方向にずらりと一列に配置され、その境はすべて襖である。この座敷の列に沿って「通り庭」と称する、幅が一間にも満たない土間が、やはり表から奥に向かって長々と伸びている。
台所や流しは土間の途中に、風呂や便所、それに坪庭と称する中庭は最も奥まった場所に位置している。建物の最奥部は蔵である。
建物の両隣りには、細い路地を挟んでやはり同様の建物が立ち並ぶので、内部にはあまり陽が入らない。昼間でも薄暗い屋内であった。
入り口の潜り戸を開け、相良と野田はかがんで中に入った。最も手前の部屋の板障子を引き開け、転げこむように座敷に入る。二人は、精も根も尽き果てたように仰向けに畳に寝ころび、天井を見上げた。しばらく、どちらからも言葉は出なかった。
相良は思う。
(今日はほんまに……)
(忙しかったなあ)
(もう、いご〔動〕く気せんわ)
(風呂、今日はもうええやろ)
(今から沸かす気ぃせんわ)
相良が首だけを傾げて隣の野田を窺うと、野田は寝息を立て始めていた。相良は慌てて上体を起こし、野田を揺さぶった。声を掛ける。
「こら、野田。寝たあかん(寝てはいけない)。布団ひかなあかんやんけ(敷かなければならない)。起きぃ、こら、起きんかい」
相良自身も、このまま寝てしまいたかった。もう、欲も得もないほど疲れ切っていた。しかし相良は、野田を揺さぶり起こした。
「目ぇ覚めたか。よっしゃ、布団ひ(敷)くぞ」
野田を追い立てるように押入れを開けさせた。相良も立ち上がり、二人で布団を引きずり出した。よく考えもせず、適当に二組の布団を敷いた。
二人はほぼ同時に、頽れるように布団に倒れ込んだ。
(終わった)
(今日は終わりや)
(あとは寝るだけや)
(もうどないでもええわ)
相良はそのまま横向けになり、目を閉じようとしたが、懐に入れてきたものに気付いた。
(ああ、番頭はんにもろた……)
(桜餅やったなあ)
(どないしょ)
(食いたないことないけど、明日でもええし……)
(野田はでやろ〔どうだろう〕)
相良は野田に声を掛けた。
「野田」
返事がない。
相良は、少し声を大きくした。
「おい、野田、て」
「はひ」
呟くような、譫言のような返事が聞こえた。半ば寝ているようである。
「あんなあ、さっき、当番の番頭さんに『二人で分けぇ』言うて、桜餅、もろてん〔頂いた〕。どないする、お前、食うか」
桜餅、と聞いた途端、野田はむくりと上体を起こした。
「食います」
「お、おお、そうか。ほな……」
野田の返事を聞いて、相良も目が覚めた。同様に上体を起こし、布団の上に座りなおした。野田は既に座っている。二人は向かい合って座りなおした。
コメント一覧
-
––––––
1. ハーレクイン- 2015/05/12 10:32
-
長編変態料理屋警察小説『アイリスの匣』。
ここに100回を迎えることと相成りました。
普段のご愛読、心より御礼申し上げます。
いやあ、まさか主役のあやめを差し置き、脇役の野田と相良の思い出話が100回記念になろうとは、これっぽっちも念頭にありませんでした。何も考えずに書いていますと、こういう仕儀になるわけですねえ。
まあしかし、記念番組のために書いているわけでもありません。
それにしましても『アイリスの匣』。
これが『センセイのリュック』という、シナリオ形式の作品の一部を成すもの(作者は“幕間小説”と称しております)だということを、どれだけのお方がご記憶でしょうか。
その『リュック』ですが、この機会に勘定してみましたところ、これまでに回数にして46回を書いていました。ということはつまり、「幕間」小説の『アイリス』が本体の『リュック』の倍以上の連載回数を数えるということになってしまったわけです。
ほんの息抜き、と申し上げますと叱られそうですが、軽い気持ちで始めた“幕間小説”がここまで長くなろうとは。しかも、脇役の思い出話まで始まるようでは、まだまだ続きそうです『アイリス』。
いや。かくてはならじ。
長くはなりそうですが、結末への道筋は見えております。まさか200回にはなりますまい。すみやかに「匣」を開け、舞台を京都祇園から、伊豆の高原(『リュック』の舞台)に戻す所存です。
今後とも、ご贔屓・ご愛読を賜りますよう、伏して御願い奉ります。
平成二十七年五月吉日 作者敬白
-
––––––
2. Mikiko- 2015/05/12 20:13
-
連載100回、おめでとうございます。
何事においても、100回続けるということは、大したものだと思います。
なんとなく長くなりそうな脇道ですね。
迷いこんで出てこれなくならないよう、ご用心。
しかし、ぜんぜん、エロ場面がなさそうですね。
でも、野田と相良のホモだちシーンだけは、止めてください。
-
––––––
3. ハーレクイン- 2015/05/12 21:56
-
よくわかりませんが、お褒め頂きありがとうございます。
なんとのう長(なご)なる、いうのはわたしの悪い癖(杉下右京で)。
なんせ、祇園に脇道はいっぱいおますからなあ。中には行き止まりの路ぉ地も、ようけおます。
ただし、ようしたもんで、路ぉ地の入り口には目印がおます。表札っちゅう感じで、千鳥の絵といっしょに、その路ぉ地が抜けられる場合は「抜けられます」、行き止まりの場合は「抜けられまへん」と表記してありました。過去形どす。今はほとんど無いそうです。少しは残っとるそうですが、わたしは見たことおまへん。
画像を載せよと思たんですが、見つかりまへんでした。ほんまに、もう無いのかも知れまへんなあ。残念なことどす。
>エロ場面が無さそう
♪なんとおっしゃるウサギさん
「儂はこう見えてものう、一緒になろか、ゆうおなご、おったんやで」との野田のおやっさんの台詞から始まった想い出話。女っ気のないわけありません。
まあ、どの程度エロくなるかは、まだ何とも言えませんが。
-
––––––
4. Mikiko- 2015/05/13 07:37
-
↓警察が立てた標識ならあるようです。
http://otakazoku.otaden.jp/e255664.html
野田のおやっさんで……。
大丈夫すか?
追い回し時代のおっさんは、まだチェリーボーイでないの?
今朝、地震がありました。
わたしの地域では震度2でした。
立ってたら、気づかなかったでしょうね。
-
––––––
5. ハーレクイン- 2015/05/13 12:57
-
ご紹介のサイトさんを覗いたら、『千鳥の案内板』もありました。
しかも現場は『先斗町』。
「花よ志」のあるとこではないか!
気ぃ付かんかったなあ。
今度見に行かねば。
「おやっさん」は、本文には書いてないと思いますが……。コメには書いたけど。
それにしても「チェリーボーイ」って……これほど、野田のおやっさんに似合わない形容詞(?)はありません。
わたしのイメージでは、相良の大将は痩せっぽちでひょろひょろ、野田のおやっさんはずんぐりむっくり。カッコよく言いますと相良は長身痩躯、野田は寸胴短躯(こんな熟語あるのか?)。
スターウォーズになぞらえますと、相良の大将がC-3PO、野田のおやっさんはR2-D2ですね。
まあ実際(?)には、駆け出しの頃の二人を表す最も適切な表現は「貧相」、この一言です。体格も風体もね。
-
––––––
6. Mikiko- 2015/05/13 19:49
-
ほー、先斗町でしたか。
それは、わたしも見落としておりました。
見直したけど、あれが千鳥なんですか。
カタツムリかと思った。
野田のおやっさん。
鶴田忍みたいな感じですかね。
-
––––––
7. ハーレクイン- 2015/05/14 00:32
-
>カタツムリかと思った
失礼なこと言うもんやおへん。
あれが「デザイン」いうもんえ。
野田のおやっさん。
鶴田忍というよりも……、
ジャンボ鶴田ですね(大きすぎだろ)。
要するに、いわゆる“ドラム缶に目鼻”です(近頃は云わんか)。
-
––––––
8. Mikiko- 2015/05/14 07:20
-
祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町の五つの花街があるそうです。
↓で、これらの花街にはそれぞれ紋章があって、先斗町の紋章が「鴨川ちどり」なんだとか。
http://hannari-tabi.seesaa.net/article/224537858.html
-
––––––
9. ハーレクイン- 2015/05/14 08:40
-
以前は下京区に「嶋原」があってね、六花街と云ってたんだけど、なんやかんやあって嶋原が脱退しちゃいました。
で、今は五花街。
千鳥の絵。
町の紋章とは知りませんでした。
街頭に吊るした提灯に「鴨川ちどり」が描いてあるのは見たことあります。
♪加茂の河原に千鳥が騒ぐ~
-
––––––
10. Mikiko- 2015/05/14 21:03
-
↓こちらのページに、詳しく出てました。
http://maikoclub.com/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E4%BA%94%E8%8A%B1%E8%A1%97/
先斗町の紋章が、一番かわいいですね。
そのまま、ゆるキャラに出来そうです。
-
––––––
11. ハーレクイン- 2015/05/14 23:29
-
ほんまにいろんなサイトはんがおすんやなあ。
『アイリス』の参考になりそう、じっくり見せてもらいますう。