2014.8.5(火)
店を出かかったあやめは足を止めた。
明子の冷蔵庫には、もう何も無かったのを思い出したのだ。
(どうしよう)
近ごろのコンビニには、野菜や果物を揃えている店もある。だが、この店には無かった。
(近くにスーパーでもあればな)
だが、あやめにはわからない。
(しょうがない、とりあえず……)
あやめは店の奥に引き返す。ピーナッツとポテトチップスの袋を手に、あらためてレジに向かった。精算を済ませ店を出る。
強烈な日差しが再び照りつけた。京の夏の午後、熱に淀んだ空気があやめを取り巻く。左手に提げたビールの袋が気になる。どうしても足早になる。ビールと太陽に追い立てられるように、あやめは明子のマンションを目指した。
「ただ今、戻りました」
室内には、エアコンの冷気とピアノの音が満ちていた。
明子は、部屋の隅に据えられたアップライトピアノに向かっていた。一心不乱に鍵盤に指を走らせ、足でペダルを踏む。
あやめの声も聞こえないようである。
あやめはそっと冷蔵庫に向かった。ビールとウィスキーを庫内に収め、扉を閉じる。
(この曲……何やったかなあ)
(よう聞いた曲なんやけど……)
あやめには、音楽の素養はほとんどない。そのあやめの耳にも、今、室内に流れるピアノのメロディは懐かしく、慕わしかった。
あやめは、元のソファの位置に戻った。明子のピアノに改めて耳を傾ける。
少しずつ表現を変えて、同じメロディが幾度も幾度も繰り返される。その繰り返しがあやめの体を揺さぶる。あやめは陶然となった。
突然、メロディが変わった。リズムもこれまでの滑らかなものから一転、アップテンポになる。曲のクライマックスなのだろう。それはあやめにもわかった。
叩きつけるような鍵盤の音の後、何の前触れもなく、ピアノの音は途絶えた。
鍵盤に十指を触れたまま、明子は許しを請うように、何者かに祈るように頭を垂れ、上体を傾けたまま身じろぎもしない。
室内に、あやめの呼気が響いた。無意識のうちに息を詰めていたのだろう。
普通なら拍手を送るところなのだろうが、そういう余韻ではなかった。あやめは、ソファに縫い付けられたように身動きできない。上目づかいに明子を見詰める。
明子はようやく鍵盤から指を外し、立ち上がった。
「あやめさん、暑いところご苦労さま」
「明子はん……」
「ほな、せっかくやし、一杯いきましょか」
「へえ!」
明子はソファに腰かける。
あやめは、はじかれた様に冷蔵庫に向かった。
「明子はん、ビールでよろしおすか」
「せやねえ、いわゆる『とりあえずビール』やね」
あやめと明子は顔を見合わせ、くすくすと笑いあった。
あやめは、先ほど入れたばかりの缶ビールのパックを割き、2本を取り出した。ガラステーブルに運ぶ。
「どうぞ」
「おおきに」
二人は、同時に缶ビールを手にし、同時にプルトップを引き開けた。
「ほな、あやめさん。あらためて乾杯や」
「今度は、何に乾杯しまひょ」
「そらあやっぱり『乙女の祈り』に、でしょうなあ」
「『乙女の祈り』……」
「うちが今、弾いてた曲どす」
あやめは、思わず明子を見つめた。
「今の曲……『乙女の祈り』いうんどすか」
「聞いたことおはるやろ」
「へえ、聞き覚えはおす」
「ポーランドの女性作曲家、テクラ・バダジェフスカの作曲ですねえ。
といっても、バダジェフスカの名をご存知の方はまずおへんやろけど、この曲はたいがいのお方が聞いてはりますわなあ」
あやめは、あらためて明子を見つめ答えた。
「へえ、バダ……さんは存じ上げませんが、今の曲は聞いたことおます」
「バダさんかあ、便利な言い方やね。今度ピアノ仲間に教えたろ」
「あ、それは堪忍しとくれやす、明子はん」
あやめと明子は互いを見つめ合い、くすくすと笑いあった。
「ほんでも明子はん、今の……『乙女の祈り』、綺麗な曲ですねえ」
「せやねえ。まあ、弾くのはそないに難しい曲でもおません。ほとんど練習曲、という扱いですね。でも、作曲者のバダさんは、いろいろ苦労しはったし、若くして亡くならはったみたいですけんど」
「へえ」
「20歳代で病死しはったそうです」
「へえ、それは……」
あやめは明子をあらためて見つめた。
「明子はん、ピアノは……お長いんどすか」
「えーっと、小学校に上がる前の年からですから、もう15年位になりますかなあ。いやや、歳わかりますがね」
あやめは明子を見つめた。明子もあやめを見返す。二人はくすくすと笑いあった。
コメント一覧
-
––––––
1. ハーレクイン- 2014/08/05 11:15
-
ビールと太陽に追い立てられるあやめ。
なんか、北風と太陽を思わせますなあ。ちょっと違うか。
お、明子はピアノを弾くのか(わたしが弾かせてるんだけどね)。さすがお嬢様。
で、曲はバダジェフスカ、通称バダさんの名曲『乙女の祈り』。
曲名を知らないお方でも、聞けば必ずご存知という、ピアノ曲の名曲中の名曲です。これに匹敵するのは、ベートーベンの『エリーゼのために』でしょうか。
-
––––––
2. ハーレクイン- 2014/08/05 19:08
-
やってきました新潟祭り。
8月8日からですか。覚えやすいですね。
Mikiさんは、今年も踊るのかな。
それにしても、毎年、なんでこんな暑い時期にやるんだろうね。。
-
––––––
3. Mikiko- 2014/08/05 21:05
-
天狗製菓(右京区西京極)の米菓が売ってるでしょうに。
新潟でも売ってるくらいですから。
『横綱あられ』、美味しいよ。
『乙女の祈り』『エリーゼのために』。
どちらも、オルゴールの定番ですね。
持ってたような気がするのですが……。
新潟まつり。
覚えやすいもなにも……。
8月上旬の、金土日にやるんです。
民謡流しは、初っ端の金曜日ね。
今年は、雨の予報が出てます。
台風への期待、大です。
-
––––––
4. ハーレクイン- 2014/08/05 22:56
-
知らぬ。
横綱あられ。
知らぬ。
だって、菓子なんて買わんもーん。
『乙女』に『エリーゼ』。
あまりに通俗的過ぎましたか。おっとすまぬ、バダさんにベートーベンはん。
んでも、あまり凝ったのを上げると誰もわからんもんなあ。
新潟祭り。
ははあ、雨が降ると中止ですか。
台風と前線の動き次第でしょうが、雨の期待、大ですね。
-
––––––
5. Mikiko- 2014/08/06 08:03
-
↓京都では、有名じゃないんでしょうか?
http://www.tenguseika.jp/
小雨くらいなら、決行かな?
でも、浴衣は雨に弱いんです。
透けてしまいますから。
もちろん、下に襦袢は着けてますが。
-
––––––
6. ハーレクイン- 2014/08/06 10:01
-
お菓子なんて興味ないよ。
それに、そんなにしょっちゅう京都に行ってるわけでもないし。
しかし、そうも言うとれんかなあ。いずれ『アイリス』にお菓子を出さんならんかもしれんし、それこそ茶会の場面を書くことにでもなれば、和菓子は不可欠だからなあ。
新潟の今夜の天気は曇り、遅くに小雨が降るそうです。
-
––––––
7. Mikiko- 2014/08/06 20:52
-
立派なアテになります。
わたしは夕食で、お酒を飲みながら、『横綱あられ』を食べてます。
ほー。
茶会の場面があるわけですね。
茶器の箱。
“アイリスの匣”と関係がありそうです。
-
––––––
8. ハーレクイン- 2014/08/06 22:12
-
つい勢いで書いただけで、
茶会の場面を書くかどうかは未定です。
もともとは、梅ヶ丘女子高 部活シリーズの一環として、茶華道部をやろうかなと思ってました。そのときに茶会の場面を出そうかな、と……。
でも、やるんなら『アイリス』京都場面もええかな、と。
しかし、全く知識も経験もないもんなあ、お茶・お華。
-
––––––
9. Mikiko- 2014/08/07 07:26
-
前衛茶道にすれば、書けると思うぞ。
茶碗で皿回しするとか。
-
––––––
10. ハーレクイン- 2014/08/07 09:49
-
近くに住むわたしの姉は、高校の時茶道部でした。
よし、近々話を聞きに行くぞ。
-
––––––
11. Mikiko- 2014/08/07 19:54
-
どんな口実をつけて、聞きに行くつもりじゃ?
-
––––––
12. ハーレクイン- 2014/08/07 23:07
-
別にいらんよ。
わたしの気まぐれは、姉もよく知っております。