2014.6.24(火)
「二人の幸せに」
「二人の幸せに」
「かんぱあい」
琥珀色の液体を満たした二つのグラスが高く掲げられ、音高く打ちつけられた。
あやめと明子、二人の視線が絡み合う。二人の頬は緩み、微笑み合う。
逃げ出した二人の仲居が座敷に戻ってきた。
若い仲居の盆の上には、新しいウィスキーの瓶とアイスペール。年配の仲居の盆の上には二つの小鉢が載っている。
年配の仲居が、盆の上の小鉢を、明子とあやめの前に置いた。
「どうぞ」
明子は、小鉢の中を見詰めた。
「ははあ、酢のものですなあ」
明子は、言うまでもないことを確認するように言葉を漏らした。
酢のものは、日本のコース料理の最後の一品である。この後はご飯・果物・菓子・茶でお開きになる。
もちろんまだ飲みたければ、別品で他の料理を頼めばよいのだが……。明子は特に声を挙げなかった。酢の物に箸を伸ばす。
あやめもそれに倣った。
「どうぞ」
若い仲居が、二人に新しい瓶の封を切り、ウィスキーを勧めた。
「おおきに」
「おおきに、ありがとさんどす」
二人のグラスが満たされた。
「ほなあやめさん、もう一度乾杯や」
「あ、へえ、何に乾杯しましょ」
あやめは明子を見詰めた。
明子は見返す。
ひと呼吸おいて答えた。
「ほな……『美しい酢のものに』、はどない?」
「あ、へえ……『美しい酢のものに』」
「『美しい酢のものに』」
「かんぱあい」
グラスを打ち付けあった二人は、そのまま中身を飲み干した。
侍る年配の仲居は俯いた。まさか何度も座敷を逃げ出すわけにはいかない。
明子とあやめは、酢のものの鉢に箸を伸ばした。縦長に切った胡瓜に若布をからめてある。
ごく普通の具材である。
(美味しい……)
酢のものの味は、まず、具材の新鮮さ。それに、合わせ酢の配合で決まる。
(このお酢……)
あやめには、酢の正体がわからなかった。
(なんちゅう味やろ……)
酢、本体の味がわからないのに、合わせ酢の配合がわかるわけがない。
あやめは観念した。
(すごい、ほんまに凄い、東山の「ひいらぎ」はん)
あやめの目頭には涙が浮いていた。
「なんや、泣いてはるん? あやめさん」
「え、いえ、とんでもない、泣くやなんて……」
「ほんでも、あやめさん……」
「堪忍しとくれやす、明子はん」
明子は、あやめの心中を察したようだ。
「ああ、ごめん、ごめんやで、あやめさん」
「ほんな、謝ってくれはるようなことやおへん。みんな、うちのせいどす」
「あやめさん……」
あやめと明子は、酢のものの鉢を空けた。
あやめはもう陶然となる。
(すごい、ほんまに凄い)
(こんなお料理、うちにいつ作れるやろか。作ることが出来るやろか)
あやめは希望半分、絶望半分の思いで、東山「ひいらぎ」の料理を平らげた。
夢見心地の中で、ご飯を食べ、果物、菓子を食し、薄茶を飲む。
「御馳走さまでした」
あやめは座布団を降り、畳に手を突き、深々と明子に頭を下げた。
「美味しかったねえ、あやめさん」
「へえ、ほんまに美味しおした」
あやめは、侍る仲居にも頭を下げた。
「ほんまに、ご馳走さんで御座いました。板場の皆さんにもよろしゅうお伝えください」
仲居は慌てて手を振った。
「そんな、とんでもおへん。ご満足いただけたらこないに嬉しいことはおへん」
あやめは顔を上げた。
年配の仲居はにこやかに笑っていた。
「いきまひょか、あやめさん」
「へえ」
明子は立ち上がった。
あやめもそれに続く。
明子の足元がふらついた。
「あ、明子はん」
あやめは素早く手を伸ばし、明子を支える。
「ちょっと、飲み過ぎたかなあ」
明子があやめに体を預けてくる。
その体を支えながら、仲居に声を掛けた。
「すんまへん、タクシーお願いします」
「あ、へえ」
仲居が立ち上がった。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2014/06/24 08:34
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今回#69まで、延々11回を費やしました明子-あやめの酒宴。
ようやくお開きです。
一体どれほど飲んだのか、読み返すつもりだったのですが気力が失せました。そもそも、銚子の大きさがわかりませんしね。
ウィスキーは瓶2本飲んだはずですが。
ふらつく明子の足。
さあ、どうつながる『アイリス』。
今後ともご贔屓賜りますよう、伏して御願い奉ります。
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2. Mikiko- 2014/06/24 20:40
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トイレに立つ場面が無かったのは、どういうわけだ?
オシメして飲んでるのか?
ていうか、あれだけ飲んで、料理の味がわかるのかね?
たいがい、舌がバカになると思いますけど。
わたしの父のおじいさんは、大酒飲みだったそうですが……。
あるところまで飲むと、「醤油の味が変わった」と言って、杯を伏せたそうです。
それより、勘定しないで帰るつもりか?
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3. ハーレクイン- 2014/06/24 22:24
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当然行っています。
しかし、敢えて書かない。
省略の美学というやつですな。
「わたしの父のおじいさん」はすごいな。当然、明治のお生まれなんでしょうね。一体、どういう関係になるんだろう。「御先祖」としか言いようがないな。
で、そのお方のエピソードが受け継がれているというのもすごい。
Mikiko一族。なんか「十日室」を思わせますな。
そういえば、サイドバーで見ると、十日室が「土日室」に見えるんだよ。
「ひいらぎ」さんでの勘定。
もちろんツケです。
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4. Mikiko- 2014/06/25 07:38
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カードじゃないんかい。
てことは、請求書が送られるというわけですね。
『ひいらぎ』は、明子の自宅住所も知ってるということね。
タクシーが付け馬もすれば面白いんだけど。
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5. ハーレクイン- 2014/06/25 10:22
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ツケと言いましても、明子はんがべろべろですのでね。
結果的に、ということでおま。
請求書なんぞは来まへん。
この次来たときに精算ということで、要するに明子はんとしましては自由気ままにふるまえる、ということですね。
やはり、お大尽宝田一族の威光はすごいなあ。
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6. Mikiko- 2014/06/25 19:37
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お客とこういう付き合いをしてるからなんですね。
川端康成が、「最近、銀座のバーが高くて、なかなか行けません」と言った人に、答えた名言。
「高ければ、払わなきゃいいでしょう」
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7. ハーレクイン- 2014/06/25 22:19
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ま、そういうことですね。
店と客の信頼感があって、成り立つ関係です。
>「払わなきゃいいでしょう」
わはははは、面白い。
飲み逃げしろ、ということですな、川端せんせ。
祇園の「花よ志」、飲み逃げは許しまへんで(お道)。
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8. Mikiko- 2014/06/26 07:22
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川端康成が通ってるというだけで、メリットがあるんでしょう。
どうせ、飲み代の原価なんてタダみたいなもんですからね。
もちろん、一般人がやれば、警察に突き出されます。
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9. ハーレクイン- 2014/06/26 18:55
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川端康成なんて、今の若い人は誰も知らんのやない?
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」