2013.12.10(火)
あやめは、両の腕から上体、両脚、膝から踝から足先まで、その全身の隅々まで縄で縛られたように身動きできなくなった。口に猿轡を噛まされた様に、一言も声を出せない。いや、舌先すら動かせない。口中の唾液は干上がり、下顎すら痺れきったようだった。
(縄が……)
(いや、蛇だ)
(蛇が、絡みつく)
(た、助けて、誰か……)
耳鳴りがする。
目が霞む。
世界が暗く反転した。
闇の奥に引きずり込まれるようだった。
闇の彼方から蛇の声が聞こえた。
「なんや、この頃の若いもんは挨拶一つでけんのかいのう」
あやめは、その声に縋るように闇から抜け出た。
「あ、す、すんまへん。関目兄さん。東中あやめでございます。どうぞよろしゅうに、お頼ん申します」
「ふん。関目や。おまん(お前)なかなか腕立つそやないか」
「とんでもございません。未熟者でございます。どうぞよろしゅう御指導お願い申します」
「そないに謙遜せいでもええわ。かえって嫌味な奴(や)っちゃ。せやけどな、うちにはうちのやり方がある。この板場仕切ってんのは儂や。ここでは全部儂の指示に従う(したごう)てもらう」
「へえ」
焼方の平野が口を挟んだ。軽い口調である。
「せや、ここの監督、ディレクターは関目の兄さん。親父(おや)っさんは、せやなあ、総合プロデューサーいうとこやな。ほんでわてら(私達)は俳優」
「アホ、そないなええもんかい。ドジばっかり踏みよって」
碗方の田辺が平野を叱りとばした。
「そんな兄さん。この頃はちゃんとやってますやん。ほれにしても、女優さんが一人混ざると、舞台も華やかになりますなあ」
「ドアホ。こんなんのどこが女優や。太秦(うずまさ)行ってみい、もっときれいなんがそこらじゅうに転がっとるわ」
「ほらほうですやろけんど、本ま物(ほんまもん)と比べたったら可哀想でんがな」
「よーし、そんくらいにしとけ。銀二、良雄、とっとと仕込みに掛かれ」
「へい」
「ほーい」
「おう、新入り。お前はとりあえず洗い場や。手ぇ抜くんやないぞ」
「へい!」
あやめは流しの前に立ち、山のような洗い物に取り掛かった。
板長の野田は姿が見えない。
初めての洗い場だがすぐに慣れた。洗い物の手順が定まると体は機械的に動くようになる。あやめは次々と洗い物を片付けながら、頭の中で蛇目の男のことを考えた。
兄嫁潔子の浮気相手。
間違いない。
あの目は、死んだ魚のようなあの目は見間違えようもない。
「花よ志」の立て板、関目源蔵。
潔子が誰と浮気しようが、あやめには関係はない。兄健三のこと、「かわふ路」のことは気になるが、それは兄の問題だ。
気になるのは、その浮気相手がよりによってあやめの新しい奉公先、「花よ志」の板前であること。しかも立板という高い地位にあること。
(偶然だろうか)
(たまたまなんだろうか)
(いや……)
(とうてい偶然とは思えない。あまりに時宜にかないすぎる)
あやめは、正体はわからないが、何者かの底知れない悪意のようなものを感じた。
「あっ」
しまった、と思ったときには遅かった。あやめの手をすり抜けた半月皿が床に落ちて砕けた。
かなり大きな音が厨房内に響き渡った。
「あーあぁ、やってもうたなあ(やってしまった)あやめちゃん」
「す、すみません」
「どれ、片付けたろ」
「あ、いえ、そんな平野兄さん。自分でやります」
「かまうな、良雄」
床にうずくまって砕けた皿の破片を拾い集めるあやめの襟首を、立板の源蔵、蛇目の男が掴み、引きずり上げた。
「何をやっとんじゃい! 新入り」
あやめの視界がいきなり白くなった。
全身に衝撃が走った。
………………………………
白い視界が徐々に元に戻る。
まばゆい蛍光灯の光が目に入った。
(あれは……天井の明かり)
(床に寝ているのか、あたしは)
(気を失っていたのか)
(殴られたのか)
(殴り倒されたのか)
あやめは口元、唇の端がずきずきと脈打つのを感じた。血が滲んでいるようだ。
(殴られたのは……生まれて初めてだ)
(ドラマや映画ではよく見るけど)
(殴られるというのは、こういうことなのか)
(立たなきゃ)
あやめはもがき、身をよじり、床に這いつくばったのち何とか立ち上がった。
「すみませんでした、兄さん」
源蔵はすでにあやめに背を向け、調理台に向かっている。銀二も良雄もあやめから目をそむけ、素知らぬ風で自分の作業に専念していた。
あやめは惨めな思いを抱えて洗い物に戻った。
苦労は覚悟の上とはいえ、いきなり殴られるとは……。
しかも殴った相手はあの、蛇目の男。
あやめは、先ほど感じた何者かの悪意のようなものを再び思い返したが、何もかも忘れ、洗い物に集中しようとした。
あやめは、身体にも気持にも枷をはめられたように感じながら、今日から自分の住まいとなる仲居部屋の一室の襖を開けた。室内には布団が二組敷いてあり、その一方にお久美、田所久美が潜り込んでいた。
「遅かったなあ、あやめちゃん。初手からこき使われてるやん」
「ああ、久美さん。布団敷いてくれはったんですか。すみません」
あやめは、のろのろと仕事着を脱ぎ捨て、これもお仕着せの浴衣を羽織って布団に入った。
あやめの顔を見た久美が息を呑んだ。
「いやあ、あやめちゃん。どないしたん、その顔」
あやめの顔は唇の端が切れて血が滲み、片頬が腫れ上がっていた。
「ええ、ちょっと。粗相をしてしもて」
「ははあ、やられたんやろ源蔵に。狂犬源蔵」
「狂犬?」
「せや、だれかれ構わず当たり散らすやろ。すうぐ手ぇ出すし。しかも相手が女やろうと見境なし、手加減なしやもんね。仲居は誰(だあれ)も近寄らんよ。お道さんくらいやね、相手するのは。
ほれにあの目。どない見てもイッてるよ」
「はは」
「あやめちゃん、顏、冷やしたほうがええよ」
「だいじょうぶ」
「大丈夫やないよ。ちょっと待っとき」
布団を捲り上げ、部屋を出た久美はすぐに戻ってきた。濡らしたハンカチを手にしている。
「ほら、これでも無いよりましやろ。氷枕でもあればええんやけどねえ」
「ううん、これで十分よ。おおきに」
ハンカチを頬に当て薄く微笑むあやめの顔に、久美はそっと手を伸ばした。
「かわいそう、あやめちゃん」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/12/10 10:09
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そおなんですわ。
「花よ志」の板場は「蛇目男(へびめおとこ)」の支配下なんですわ。たまたまなのか、どうなんか知りまへんけど(知ってまっけど)。
野田の親父(おや)っさんはお飾りみたいなもんなんですねえ。
で、あやめさんはとりあえず下働き、と……。
大丈夫かなあ、あやめさん。
ほんででんなあ、前回、蛇目の男、「花よ志」の立て板を「関目重郎」、「重」とご紹介しましたが、今回、どういうわけでしょうか関目「源蔵」となってしまいました。
今後は「源蔵」で宜しくお願い申し上げます。結構、重要な登場人物です。
「重郎」より「源蔵」の方がエラそげですね。
今回、あやめさんが壊した半月皿。
壊したことについては言い訳はかないませんが、ま、気ぃつけとくんなはれ、あやめはん。
半月皿。
手前が一直線で。向こうが円形の、まさに半円形のお皿ですね。お刺身を盛るのによう用います。
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2. Mikiko- 2013/12/10 19:50
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わたしなら、1時間も持ちませんね。
関目源蔵。
最後は、無惨な死にざまが見られますように。
↓半月皿。
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20131210171254d53.jpg
見たことはある気もするんですが……。
新潟では、あまり使わないんじゃないかな?
これなら、不慣れな仲居さんでも、上下を間違えなく置けますね。
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3. ハーレクイン- 2013/12/10 21:56
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まあそう言いはらんと、最後をお楽しみに暫くおつきあいください。
最後の死にざま。
ちゃんと考えてまっせ。
半月皿。
よろしおまっしゃろ。
上の円が十七夜くらいになってるのもおます。
どうぞご贔屓に。
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4. Mikiko- 2013/12/11 07:39
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↓こういうやつでしょうか?
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20131211063220da4.jpg
色鍋島。
1枚で141,750円(「税込」の表示が間違ってますよ→http://www.imaemon.co.jp/monthly/200705.html)。
落としたら、一月分の給料が吹っ飛びますね。
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5. ハーレクイン- 2013/12/11 12:53
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なんのこっちゃ、で考え込みましたが、
141,750円(税込135,000円)
これですな。
正しくは、135,000円(税込141,750円)ですね。
計算は合ってるんだけどね。
そのあたりよろしく「今右衛門」はん。
来春から計算し直さななりまへんがな。
あやめさんだと、二月分のお給金になるかな。
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6. Mikiko- 2013/12/11 19:38
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「税込」を「税抜」にすればいいわけです。
割ったお皿の代金って、ほんとに給料から引かれるんでしょうか?
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7. ハーレクイン- 2013/12/11 22:14
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わたしが皿洗いのバイトをした大阪西区の店では、引かれませんでした。
祇園の「花よ志」ではどうかな。
なんせ場所が場所だけに器もええもん使(つこ)てるやろから、給料から引かれたら無くなってしまうことも考えられますね。それでなくても、割るたんびに殴られていたら身がもてへんし。
注意しましょう、あやめさん。
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8. Mikiko- 2013/12/12 07:18
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コンクリートなんでしょうか?
掃除するには、それが一番楽でしょうけど。
昔は、文字通り板敷きだったんでしょうね。
今なら、ラバーとかにすればいいのに。
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9. ハーレクイン- 2013/12/12 08:58
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コンクリートです。
掃除とかでしょっちゅう水を流しますので、コンクリが最適。
その日の最後の床掃除は、ゴムホースで景気よく水を流しながら、デッキブラシで擦り倒します。ま、これは下っ端の仕事。あと、下っ端はゴミ出しもします。
板さんは、食材の整理をします。冷蔵庫整理が主で、翌日の仕入れなんかも考えながら、もう使えないものは廃棄していきます。
寿司屋なんかだと、カウンターにあるガラス製のショーケース。あの中身をすべて出して大型冷蔵庫に移します。もちろん、使えないものは廃棄処分。で、ケースが空になると、清潔な布で内側を綺麗に拭きあげていきます。俎板も水を流して洗い清め、拭きあげます。
丁寧ですよ、板さんの掃除。このあたりの気遣いは「さすがプロ」と思わせてくれます。ガサツな仲居さんの掃除よりも、よっぽど細やかな仕事ですね。
如何に狂犬とはいえ仮にも立板、関目源蔵。このあたりの清掃作業はきちんとやるでしょう
床はいつも水で濡れていますから、歩くときは慎重に。
洋食や中華の厨房では、足元はゴム長でしょうが、和食では裸足に高下駄が多いですね。
あのスタイルはカッコつけではなく、濡れた床に対応するという実用なんですね。ただ、板さんのシンボルではあります、高下駄。
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10. Mikiko- 2013/12/12 20:35
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どちらも、適切な履き物とは思えませんけどね。
一番適してるのは、編み上げの安全靴じゃないでしょうか。
でもこれだと、座敷に上がるときに面倒ですね。
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11. ハーレクイン- 2013/12/12 21:54
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やはり粋を尊ぶ仕事ですからね、ゴム長はともかく安全靴はねえ。いただけませんな。
>座敷に上がるときに面倒
その通りですね。座敷の客に挨拶に出たりしますからね。そんなにしょっちゅうではないですけど。
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12. Mikiko- 2013/12/13 07:41
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濡れた床に素足じゃ、かなり寒いんじゃないでしょうか?
新潟には、ロードヒーティングと云って、熱線が埋めこまれた歩道があります。
ま、幹線道だけですけど。
真冬でも、その歩道には雪が積りません。
板場のコンクリートも、こうすればいいんじゃないかな?
流した水も、すぐに乾くでしょうし。
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13. ハーレクイン- 2013/12/13 09:37
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寒いでしょうね、冬の高下駄。
ま、それを我慢するのが粋ってものでしょう。
板場にロードヒーティングって……。
そんな無駄!な経費をかける料理屋はないと思うぞ。そもそも火を使う職場なんだし。
ま、足元は寒いでしょうが。
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14. Mikiko- 2013/12/13 19:42
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温泉を床下に引けないかね?
板場の足元が温かいということは、ほかの店との差別化になると思う。
いい人材を確保できるんでないの?
冬場の冷えに悩むベテランは、少なくないんじゃないかな。
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15. ハーレクイン- 2013/12/13 21:52
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オンドルの方が手軽なんじゃないかね。
確かに、冬の板場の高下駄は、野田の親父っさんのようなベテランにはつらいだろうね。











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